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廿五里南貝塚/廿五里城跡(千葉市若葉区)

    千葉市には難読地名が多い。『地球の歩き方 千葉市』にも、各区の難読地名があげられているほどだ(全域が埋め立て地で新しくできた土地である美浜区にさえ難読地名があるほど!)。

    その中でも、歴史の古い貝塚には特に難読地名の多い印象がある(例:園生そんのう貝塚、犢橋こてはし貝塚etc.)。

    地図上からは消滅してしまった地名のため、『地球の歩き方 千葉市』にも載っていないが、遺跡名として残っている廿五里貝塚/廿五里城跡は、難読中の難読だろう。「廿五里」は「つうへいじ」と読む。

    一方、千葉県市原市には、難読地名として有名な廿五里ついへいじもある。

    似たような読み方が複数あるということは、単なる当て字ではなく意味があるのではないだろうか?

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    廿五里つうへいじ貝塚の碑

    場所

    千葉市若葉区源町839周辺
    千葉都市モノレールみつわ台駅から徒歩5分ほど

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    薄れて消える前に記録だ!

    現在の様子

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    市街地の中の緑の小山に貝塚と城跡

     遠くから見るといかにも城があったふうの緑の小山。現在は丘の上はまっ平らで城跡には見えない。ただ、地理院地図のでこぼこ地図で見ると、台地に不自然なへこみがついているのが気になる。

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    地理院地図・陰影起伏図より 四角なのが気になる
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    へこみの北側
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    へこみの南側 湧き水でできた谷にしては広すぎない?
    下の廿五里支谷が田圃ばかりだった発掘調査時にも既にこの形だったので結構古そう

     貝塚の碑は、駐車場の片隅にある。

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    廿五里貝塚の碑

    廿五里つうへいじ貝塚
    この貝塚は直径約一五〇米の典型的な馬蹄形をなしその周辺に縄文時代の原始集落を埋蔵する重要な遺跡である

    碑の正面

    昭和四十六年三月三十一日 千葉市教育委員会
    浅見喜舟書

    碑の左側

    千葉県主要遺跡百選の内の一

    碑の右側

     どうせいつもの役所の定型文だろう、と思いながら文字起こししていたが、なんだかいつもとフォントが違うような気がした。碑の側面を見て、珍しく「浅見喜舟書」と書いた人の名が記されていた。

     浅見喜舟は、検索してみたら、千葉県立美術館に一連の作品が収録されるくらい有名な書家だった。この碑自体にも文化財的意味がありそう。

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    来迎寺 浅見喜舟の揮毫
    左側 ・ 正面
    ネットでも、茂原市立美術館・郷土資料館に収蔵されている浅見喜舟の書がみられる

     碑の建ってる場所は、貝塚の場所だから動かすわけにはいかないだろうが、もっとみんなに見てもらうのが良いような気もする。

     廿五里南貝塚は、この碑の立っているあたり一帯らしい。駐車場の隅に化石みたいになった貝が少し散っている。

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    貝塚の痕跡か?

     廿五里北貝塚(廿五里貝塚)は、あの四角い凹みの北側のあたりだと思われる。

     凹みを下りる道を通り、舌状台地の先端の下に回って見ると、斜面下に結構貝が散っている。

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    斜面にぽつぽつ貝が見える

     城が造られたときに既に地形が大きく変えられているし、宅地造成でもいろいろ削られたりしているはずなので、即「縄文人が崖下にポイしてできた貝塚?!」とは言えないけれども、貝塚だった雰囲気は十分ある。

    廿五里の謎

     この遺跡の最大の謎は、やはり「廿五里」の読み方なのだが、千葉県には全国的に有名な難読地名の「廿五里(ついへいじ、市原市)」がある。しかも、他所にも廿五里と書いてつうへいじ/ついへいじ的な読み方をする場所があるらしい?

     この奇妙な読み方をする地名が一カ所でなく複数あるということは、何かおもしろい由来がありそうである。

    廿五里伝説と仮説

     ちなみに、この地域が「廿五里」と呼ばれている由来は千葉氏がらみといわれている。これは、以前、紅嶽べにたけ弁財天に行ったとき、説明の看板に書かれていたので知っていた。

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    紅嶽弁財天に掲げられている地名の由来

     市原市にも廿五里があると知ってからは、こんなふうに想像していた。

    1. 通平寺(時)氏の名字はついへいじという地名起源で時代と共になまってつうへいじになった

    2. 通平寺氏はジャムチみたいな役割の一族

    3. 「いざ鎌倉」という時に馬で一日で行ける場所に拠点を築いて守護してた

    4. その拠点は鎌倉から25里の地点にあり、廿五里と名付けられた

    5. 通平寺氏が守っていたから、「つうへいじの城」のような感じで呼び習わされていた。

    ……うーん、この説でも、「廿五里」という漢字をあてた理由にはならないなぁ?

     このように、自分の想像の範囲では、理由が思いつかなかったので、調べてみたくなった。

     自分で考えた説を証明するにしても、少なくても、
     通平寺氏の出身はどこか?
     どういう役割をしていたか?
     鎌倉時代にそんな役所みたいなのあるか?
     のほかに、各地の「廿五里」が、いつからこの漢字で表記されるようになったか、それ以前の地名はなかったか、を調べなくてはなるまい。

    Gemini Deep Searchに絶望する

     さて、なにかしらとっかかりがないかな?と思い、GeminiDeepSearchに「廿五里」について調べるよう投げてみた。

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    本当はA4六頁くらいにもっともらしい事をだらだら書いてきたが
    ネットの情報をこねくりまわしただけのものだったので
    「ペラ一枚にして」と指示してまとめさせたもの

    ……これってネットの情報をまとめただけじゃねーか!(怒)
     いや、だからさ、現在の伝承でそういう意味になってるの知ってるってーの!!
     しかも参照にしてるのサイト個人サイトじゃん!! 使えねーな、オイ!!!

    怒りの愚痴3連発(スキップ推奨)

     あのさぁ、Geminiちゃんさぁ、最近画像分析させたけど、3連発で間違ってたよね?「Geminiに画像検索させれば一発でわかる!」的なCM盛んに流れてたけど、どうなのよ、あれ? 誇大広告ぢゃね?

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    Geminiちゃん、これクヌギって言ったよね? イヌシデだよね?
    (結局、石井桃子著『都会の木の実草の実図鑑』八坂書房で確定)
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    Geminiちゃん、ニホンミツバチって言ったよね?
    ミツバチと後脚の形状もとまったときの羽のたたみかたも違うみたいだけど?って聞いたよね?(アシブトムカシハナバチに似てるような気がするが未確定)
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    Geminiちゃん、ニホンスベトカゲって言ったよね?
    そんなトカゲはいねえ! 今作ったでしょ?!(怒)
    (おそらくヒガシニホントカゲの個体差の範囲
    生き物系YouTuberで背中に筋が残るのはメスに多いって言ってる人がいた)

    はぁ、はぁ、はぁ……orz

     ニホントカゲ/ヒガシニホントカゲ/オカダトカゲについては、普通にネット検索しても、尾が金属光沢の青で美しい幼体の画像しか出てこない。ムカシハナバチ類の画像は、千葉県立博物館の千葉県に生息するハチ一覧にも出ていない。

     つまり、ネットにないものはAIには判別できない。最悪、適当なことを捏造してくる(ハルシネーション)。

     ここから得られる教訓は、AIの画像判定は信じてはならないと言うことだ。キノコや野草で想像してみれば、その危険性は明らかだ。

     閑話休題。

     ちょっとイラっとして脱線してしまったが、バカとなんとかは使いようだ。

     Gemini DeepSearchでは、参考にしたサイトと参考にしなかったサイトが一覧になって出てくる。

     Googleで検索しただけだと、参考になるサイトと参考にならないサイトを自分の目で見て判断していかなければならなくて、100件~見ていくと目がとても疲れてしまう。それをやらなくて良いっていうのは非常に助かるし時短になる。

    根本資料「廿五里地名考」を読む

     ということで、ディープサーチが参考にしたサイトのリストをながめて、参考文献にリンクを張っていそうな所をあたってみると、なんのことはない、Wikipediaにリンクが張ってある、鈴木文雄「廿五里地名考」(全国文化財総覧から)が良さそうなので、ダウンロードして読んでみた。

     正解。ネットに出てる情報は、たぐっていくとすべて「廿五里地名考」、すなわち鈴木文雄氏の調べたものが元になっているようだ。

     これによると、市原の廿五里は、津比地(戦国時代)、津以比地、露乾地(江戸時代)と書いていたそうだから、源頼朝や千葉常胤起源説は成り立たない。

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    だいたい、何か曰くありげなものは、千葉では源頼朝か千葉常胤に結びつけられるよなー
    あ、あと徳川光圀(水戸黄門)

     そして、そもそも、千葉氏の家臣に通平寺は見当たらない、という。さっき自分で考えた説、何一つ当たってないじゃんorz

     とはいえ、「廿五里地名考」でも、廿五里という地名は、浄土教の二十五三昧と関係あるかも?と推測しているものの、「これだと『里』が付いた理由がつかない」と、結論は出ていない。

     確かに、廿五里延命地蔵尊が廿五里貝塚や廿五里城跡の真ん中にあるが、由来を読むと、地名が先行していて、「廿五里延命地蔵尊」の名前は地名にちなんで付いただけのようだ。

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    廿五里延命地蔵尊とは
    増田氏については後出

     結局、なぜ「廿五里」を「つうへいじ/ついへいじ」と読むかは謎のままである。

    「千葉県周辺に廿五里つうへいじという地名が散在する」は本当か?

     「廿五里」を「つうへいじ」と読む原因はわからないままだが、本当にほかにもこんな奇妙な読み方をする地名があるのかどうかは気になる。

     その立地、分布を見れば、何か手がかりがつかめるかもしれない。そのうちのどこかに、その由来が伝わっていれば、ラッキー。

     そんなの現代のテクノロジーを持ってすれば簡単簡単、Google Mapで検索すれば一発だろ、と思ったのだが、ヒットしたのは、市原市の廿五里ついへいじと千葉市の廿五里つうへいじ貝塚のみ。駄目じゃんorz

     おそらく平成の大合併などで古い地名、特に字とか小字とかの細かい地名は地図上から消滅してしまったのだろう。千葉市の廿五里からして地図上にはなく、遺跡名として残っているだけなのだし。「廿五里地名考」より多くの「廿五里」を探し出すことはできないのだろうか?

    平成の大合併以前の地名を探す

     手始めに、平成の大合併前の地名辞典を見てみる。

    1980年『日本歴史地名総索引』2 タ―ワ

     ツイヒジ/ツウヘイジあたりをみると、「廿五里 ツイヘヂ」と書くのは市原市の廿五里しか出ていなかった。

     しかし、ツイジ、ツヒジ、ツイヒジ等々はたくさんある。東京の築地つきじもその一つで、この類いの名前の付く理由は同じであるらしい。

     その中の一つ。埼玉県北葛飾郡松伏町の「築比地 ツイヒヂ」は、『角川日本地名大事典』に、二十五里とも書くという情報がある。

     次、1993年『新日本地名索引』1

    • ついへいじ 廿五里 千葉県市原市

    • つうへいじ 二十五里寺 茨城県猿島郡三和町

    が出ていた。

     おっ、これは有望そう。しかも2、3巻は漢字で引けるとはこれは簡単にたくさんでてきそう!と思ったのだが、市原の廿五里しか出てなかった……なんで?orz

     念のため、図書館で使えるジャパンナレッジLibで廿五里・二十五里を検索してみたが、
    (ジャパンナレッジLibとは?)

    • 埼玉県松伏町築比地

    • 千葉県市原市廿五里

    • 廿五里支谷・廿五里城址(千葉市)

    • 茨城県古河市大和田廿五里遺跡

    しかヒットしなかった。

     ぐぬぬ、結局は「廿五里地名考」に挙げられている所しかでてこないぞ。

     ひとまず、「廿五里地名考」にあげられているの五つの地名をあたってみるか。「廿五里地名考」では、名前が挙げられているだけだから、出所を見れば何か情報があるかもしれない。

    千葉県市原市廿五里

     現在も廿五里という地名が残っていて、千葉県の難読地名として地理好きには有名なところ。

     「廿五里地名考」の記述の出所は、中村國香『房総志料』(宝暦11年=1761年)で、なぜ廿五里という地名になったかの由来も書かれている。源頼朝に由来するという話は有名なので、市原市のサイトにも紹介されている。

     『房総志料』が収録されている『房総叢書』、『千葉県地名変遷総覧』は、国立国会図書館(NDL)デジタルアーカイブで全文検索できるようになっているので、廿五里、二十五里などを検索してみた。すると、おもしろい資料がヒットした。

     それが「上総国誌稿」。明治時代に内務省地理局(明治6~24、5年頃)が編纂した地理志で「稿」と付いていることからわかるように、地理局の廃止で公刊されずに終わったのだが、『房総叢書』に収録されている。そこに、

    「廿五里(ツヰヒヂ)村」里伝に言う、古昔は露乾地に作れりと、元禄郷帳津以比地に作る、天保郷帳今に同じ

    上総国誌稿

     廿五里という字が当てられた時期がわかる資料が出ているではないか!

     元禄(1688~1704)と天保(1831~1845)の間にいったい何があった?!

    埼玉県北葛飾郡松伏町築比地

     現在は「築比地つきひじ」という、普通に読める漢字が当てられているが、『角川日本地名大事典』には、「「二十五里」とも書いた」と、最後にぽろっと書いてある。出典は『十方庵遊歴雑記』(文化9年(1812)~文政12(1829)年)とあるので、これもNDLデジタルアーカイブ全文検索で探してみた。

     確かに、現在の築比地にあたるらしい、桃林で有名な二十五里村が二回くらい出てくるが、読み仮名が書いていない。NDLデジタルアーカイブで見られるのは、明治時代の版だから復刻版だ。オリジナルの江戸時代版『十方庵遊歴雑記』には、ふりがなが振ってあるかもしれない。

     もう一度ネット検索してみると、国立公文書館内閣文庫に収蔵されている『十方庵遊歴雑記』が、ネット上で見られることがわかった。大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺』に出てきたみたいな、江戸時代の絵付き刊本だと字が読めないな、と思ってビクビクしていたが、読みやすい文字でふりがなが振られていてほっとした。まぁ、原本が読めなくてもNDLに活字版があるから、それを読めばいい。

     とはいえ、『十方庵遊歴雑記』は15巻もあるので、全部読んで「廿五里」を探すのはかなり骨が折れる、というか目が疲れる。NDLデジタルアーカイブで巻数とコラム番号がわかっているのは超助かる。

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    『十方庵遊歴雑記』五編目 人 国立公文書館デジタルアーカイブ『遊歴雑記15』(https://www.digital.archives.go.jp/item/4187055)より

     確かに、「ツイヒヂムラ」とふりがなが振ってある。

     『十方庵遊歴雑記』自体が今で言う個人ブログみたいなものだから、「二十五里=ついひじ」なんて変わった読み方をする村があれば、面白がって由来を書きそうな気もするが、特に何も書いてない。江戸時代には普通の読み方だったのだろうか?

    茨城県猿島郡三和町

     猿島郡の二十五里寺つうへいじは、現在は消滅しているが、「二十五里寺遺跡発掘調査報告書」によると、発掘調査が行われた頃は、二十五里寺つうへいじという字あざがあって、遺跡の近くに字二十五里寺という集落があったらしい。

     遺跡のあった位置は発掘調査書でわかるが、集落は現在のGoogleMapでは、もうわからなくなっていた。

     二十五里寺遺跡の発掘調査は、国道新四号の建設工事に伴って行われたものなので、この大規模公共工事&平成の大合併で、周囲の環境も地名もすべて変わってしまったのだろう。

    千葉県夷隅郡大原町

     現在は平成の大合併でいすみ市大原となっている。このどこかのようだが、「廿五里地名考」に載っているものの、なぜかここだけ出典が書いてない。

     『日本歴史地名総索引』『新日本地名索引』にも載っていない。『角川日本地名大事典』にある夷隅郡旧字・小字一覧にも出ていない。今昔マップon the webで見られる明治時代の迅速測地地図にも見当たらない。

     NDLデジタルアーカイブの検索には引っかからなかったものの、市原市の廿五里についていろいろな書物の説明が読めた『房総叢書』にありはしないかと、夷隅郡の箇所を見てみたが廿五里という地名は見つからなかった。夷隅郡の清水寺が掲載されている『坂東霊場記探求』もネットで読めるので見てみたが、ない。

     前出『房総志料』の著者・中村國香は夷隅の人なんだがなぁ? 市原の廿五里村について地元の古老に尋ねているくらいだから、自分の故郷にあったら書きそうなものなんだが。

     これはいったいどこから出て来た情報なのだろうか?

     ご存じの方がいたら是非教えてください。

    千葉市若葉区源町廿五里

     千葉氏起源だという伝説に疑問を持った始まりの廿五里である。

     ちなみに、源町の小字・廿五里にあった遺跡だから「廿五里城址」と名付けられただけで、「廿五里城」という城があったわけではない。

     城が築かれる前は、この丘の上には塚や墓域があり、発掘調査で甕棺が出土している。

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    廿五里城跡から出土した常滑焼の甕棺
    地中からのメッセージ展 ―古墳・古代・中世―(令和七年度)にて

     元亀元年(1570年)に千葉氏の一族・増田氏の増田九郎胤弥が下総千葉野の廿五里つうへいじに引きこもり、その子の増田太郎胤久が帰農してここに永住したというのが最も古い記録のようだ。そしてこの家系のことを「廿五里つうへいじ様」と呼んだというから、これがおそらく、「千葉氏の家臣の通平寺氏が……」という伝説の元になっているんだろう。

     と、すると、氏族名から地名が生まれたのではなく、地名の方が先にあったことになる。

     時代順に並べると、

    1. 貝塚

    2. 塚・墓域

    3. 城

    4. 増田氏帰農

    5. 増田氏延命地蔵尊建立

    となるはず。「廿五里つうへいじ地名考」では、この「塚・墓域」の時代に浄土教葬祭関連で廿五(里)とつうへいじが結びついたと推測している訳だ。しかし、何か資料的裏付けがある訳ではない。そして、千葉市以外の「廿五里」との関係があるのかないのか?も不明のままだ。

    まとめ(中間報告?)

     「廿五里つうへいじ地名考」を見付けた時は、これで廿五里の謎がスッキリするぞ!とニッコリしたものだが、張り切って資料をたぐっていっても、その先に先行研究があり、昔の記録があり、果てがない。

     そして、今の時点では、結局「廿五里」を「つうへいじ」と読む本当の理由はわからなかった。

     ただ、「資料の果てまでたどりついた」感があるのは、地元で調べやすい千葉県の二件だけである。ひょっとしたら、埼玉県や茨城県の事例も掘れるところまで掘ってみれば、「廿五里」という地名の由来に繋がる何かが見つかるのかもしれない。

    ……と、いうことでこの調査は終わらないのであった。

     
     
    騎馬遊牧民が好きな歴史オタク。当該分野の小説を読みたくてしようがなくて、ついに自分で書いてKDPで公開してしまった。一昨年、ミラーレスカメラを買ってようやくデジタル世界に追いついたアナログ野郎。フォトマスター検定一級を所持。

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