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壇上の君を笑わせたい。 第一幕


    第一話

    高校の部活といえば、サッカー部や野球部、あるいは華やかな軽音部や演劇部といったところがメジャーだろう。放課後のグラウンドから響く活気ある声、窓から漏れ聞こえるバンドの演奏、そして青春の汗と涙。それらはいかにも「高校生活」という額縁に飾られるべき、眩しい光景だ。

    しかし。冴えないことで有名なこの僕、柏木春夫(かしわぎはるお)が部長を務める『お笑い部』には、部員が僕1人しかいない。

    旧校舎の三階、一番端にあるホコリっぽい小部屋。それが僕の城であり、世界のすべてだった。パイプ椅子が数脚と、隅に置かれたホワイトボード。漫才の台本やコントの小道具が乱雑に詰め込まれた段ボール箱がいくつかあるだけの、殺風景な空間だ。

    僕は高校に入学してからというもの、この1年間と2ヶ月もの間、このお笑い部をたった一人で運営してきた。

    お笑いが好きだった。幼い頃、両親が共働きで一人の時間が長かった僕を救ってくれたのは、テレビのブラウン管の向こうでバカをやっている芸人たちだった。彼らはどんなに辛いことや悲しいことがあっても、それを「笑い」というエネルギーに変えて、観客を笑顔にしていた。僕もあんな風になりたい。誰かを笑わせる魔法使いになりたい。そう本気で夢見て、入学と同時に廃部寸前だったこの部活の扉を叩いたのだ。

    だが、現実は甘くなかった。「人を笑わせる」という行為は、陽気でコミュニケーション能力に長けた人間――いわゆる『陽キャ』の特権だったのだ。人と目を合わせるのが苦手で、声も小さく、クラスでも空気のような存在である『陰キャ』の僕が、「ショートコント!」と叫んだところで、そこに生まれるのは笑いではなく、凍てつくような氷河期だけだった。

    それでも僕は諦めきれず、一人でネタを書き、一人で壁に向かってツッコミの練習をし、一人で部活を守り続けてきた。

    しかし。

    いよいよ、その小さな楽園にも終わりの時が近づいていた。

    「柏木。お前のお笑い部だがな、今月以内に誰かが入部してくれないと、詰むぞ」

    ホームルームの後、教務課の鬼瓦先生に呼び出された僕は、無情な宣告を受けた。

    「詰む、とは……」

    「そのままの意味だ。現在、我が校は生徒数の増加に伴い、部室が圧倒的に不足している。特に最近設立されたeスポーツ部が場所を欲しがっていてな。部員一名で実態のないお笑い部は、今月末をもって廃部とする。そして部室は明け渡してもらう」

    「そ、そんな! 実態がないなんて酷いです! 僕は毎週金曜日に、一人でお笑いライブを……」

    「観客ゼロのライブを活動実績とは呼べん。とにかく、今月中に部員を最低一名確保すること。それができなければ、教務課の先生達の決定で部活は完全に潰される。以上だ」

    それだけを言い残し、鬼瓦先生は去っていった。

    カレンダーを見る。今は5月の半ば。月末まで、あと二週間もない。

    終わった。完全に終わった。

    この1年2ヶ月、新入生歓迎会でも、文化祭でも、必死にビラを配った(下を向きながら)。それでも誰も入らなかったのに、あと二週間で新入部員など見つかるはずがない。僕の高校生活は、誰の記憶にも残らないまま、ひっそりと幕を閉じるのだ。

    そんな絶望のどん底にいた時、僕のクラスである2年B組に、一陣の春風が吹き込んだ。

    転校生がやって来たのだ。

    「初めまして。守谷望(もりたにのぞみ)です。今日から皆さんと一緒に勉強することになりました。よろしくお願いします!」

    黒板の前に立った彼女を見た瞬間、クラス中の誰もが息を呑んだのがわかった。

    透き通るような白い肌、窓からの光を反射してサラサラと揺れる栗色の髪。パッチリとした大きな瞳は宝石のように輝き、姿勢はピンと伸びていて凛々しい。

    そして何より、彼女の顔に浮かぶ「笑顔」が圧倒的だった。

    それは、計算された作り笑いなどではない。見ているこちらまで心が温かくなるような、純度百パーセントの、ひだまりのような笑顔だった。

    彼女の登場により、クラスの空気は一変した。

    休み時間になれば、守谷さんの周りには男女問わず人だかりができた。

    「守谷さんって、どこから引っ越してきたの?」

    「前の学校では何部だったの?」

    「ねえねえ、今度一緒に駅前のカフェ行かない?」

    矢継ぎ早に飛んでくる質問に対し、守谷さんは嫌な顔一つせず、あの天使のような笑顔で一つ一つ丁寧に答えていた。

    「神奈川から来たんだよ。前の学校では陸上部だったの。カフェ? うん、ぜひ行きたいな!」

    噂はすぐに学年中に広まった。

    彼女はただ可愛いだけではなかった。体育の授業では男子顔負けのタイムで50メートルを走り抜け、数学の授業では教師が出した難問を黒板でスラスラと解いてみせた。しかも、休み時間に消しゴムを落とした不器用な男子生徒に対しては、わざわざ拾い上げて「はい、どうぞ」と最高の笑顔で手渡すような、性格の良さまで持ち合わせていた。

    スポーツ勉学万能、容姿端麗、性格良し、何より笑顔が可愛らしい!

    まさに、完璧なヒロイン。誰しもが認める最強の女子。

    教室の一番後ろの端の席で、誰とも話さずひたすらノートに「どうやったらウケるのか」というお笑いのネタを書き連ねている僕とは、生きる世界が違う人だ。

    もし人生が一本の映画だとしたら、彼女は間違いなくスポットライトを浴びる主役。僕は、エキストラどころか、背景の木Aみたいなものだ。

    彼女の笑顔を見るたびに、僕は少しだけ胸がチクッとした。

    「人を笑わせたい」と願いながら、僕は誰一人としてあんな風に笑わせたことがないからだ。守谷さんは、誰かが頑張って笑わせようとしなくても、息をするように自然に、そして美しく笑っている。

    彼女のような人間には、お笑いなんて必要ないのだろうな、と僕は卑屈に思っていた。

    ***

    そして、金曜日の放課後がやってきた。

    僕は重い足取りで、旧校舎の空き教室へと向かった。

    今日が終われば、タイムリミットまであと一週間。廃部までのカウントダウンが刻一刻と進んでいる。

    「……よし」

    誰もいない教室の教壇に立ち、僕は自前で買ってきた安いマイクスタンドを立てた。後ろの黒板には、チョークで大きく『第48回 柏木春夫 単独お笑いライブ(部員大募集!)』と書いてある。

    観客席となる生徒用の机は、すべて綺麗に並べられているが、そこに座っている人間は当然一人もいない。

    いつも通りの光景だ。誰もいない空間に向かって、僕は大きく息を吸い込んだ。

    「えー、どうも! 柏木です! 今日も元気にやっていきましょう!」

    虚勢を張った声が、教室の壁に虚しく反響する。

    僕は今日のために徹夜で考えてきたフリップ芸(スケッチブックをめくりながらネタをするスタイル)を始めた。

    「今日のテーマはですね、『陰キャの生態あるある』です! これを見れば、皆さんも陰キャの気持ちがわかるようになりますよ! それじゃあ、いってみましょう。最初のフリップ、ドン!」

    僕はスケッチブックの1ページ目をめくった。

    「『美容室で「今日はどうしますか?」と聞かれた時の絶望感』! ……いやね、陰キャにとって美容室は戦場なんですよ。どうしますかって言われても、どうすれば自分がマシになるのかこっちが知りたいわ!って話でして。結局『あ、全体的に短めで……』って言って、中学生みたいな髪型になって帰ってくるっていうね。はい、次!」

    ペラッ。

    「『授業中、先生に当てられないように念を送る時の集中力は、もはや超能力の域』! これね、絶対目線を合わせちゃダメなんですよ。黒板の端っこのチョークの粉をひたすら見つめるんです。でも大体、そういう時に限って『よし、じゃあ柏木』って当てられるんですよね! なんでバレてんだ!」

    一人で喋り、一人でツッコミを入れる。

    滑っている実感は痛いほどある。誰も笑わない。空気は冷たいままだ。

    でも、やるしかなかった。声を出して、腕を動かして、お笑いをやっているという事実だけが、僕がこの学校に存在している唯一の証明だったから。

    「続いてはですね、『体育の時間のペア作りで余った時の、あの謎のウロウロ』! あれ、誰か助けてくれませんかね!? 先生が『じゃあ二人組作ってー』って言った瞬間、周りは磁石みたいにくっつくのに、僕だけS極とS極みたいに弾き飛ばされて……」

    僕は熱演しながら、ふと視線を上げた。

    その時だった。

    心臓が、ドクンと跳ねた。

    教室の一番後ろのドア。少しだけ開いたその隙間から、人が立っているのが見えたのだ。

    幻覚かと思った。今まで1年2ヶ月、誰も見に来たことなんてなかったのだから。

    しかし、そこにいたのは、間違いなく『彼女』だった。

    転校生の、守谷さん。

    彼女は、ドアの陰からじっとこちらを見つめていた。

    僕はパニックになりかけた。なぜ、あの完璧超人の守谷さんがこんな辺境の地に? いや、それよりも!

    彼女は、笑っていなかった。

    教室や廊下で見せる、あの花が咲いたようなひだまりの笑顔は、そこには一切なかった。

    瞳は深く、真剣そのもので、僕のフリップの文字と、僕の顔を交互にじっと凝視している。口元は一文字に結ばれ、眉は少しだけ寄っていた。

    怒っているのか? それとも、僕のあまりの滑りっぷりに軽蔑しているのか?

    怖い。逃げ出したい。

    マイクを放り投げて、今すぐこの場から消え去りたかった。

    でも、僕はお笑い芸人の端くれ(自称)だ。一度ステージに上がったら、最後までやり遂げるのがルールだ。

    「え、えーっと……! そう、謎のウロウロね! 結局、先生と組む羽目になるっていう……!」

    声が震えた。手汗でスケッチブックがうまくめくれない。

    なのに、守谷さんは立ち去らなかった。ずっと、ずっと僕のライブを見ていた。つまらないなら帰ればいいのに、彼女は微動だにせず、僕の拙いネタを一つ残らず目に焼き付けようとしているように見えた。

    地獄のような30分間だった。

    用意したすべてのネタをやりきり、「あ、ありがとうございましたー……」と消え入るような声で頭を下げた瞬間、僕は緊張の糸が切れてその場にへたり込んだ。

    顔を上げると、もうドアの隙間に守谷さんの姿はなかった。

    幻だったのだろうか。いや、違う。確かに彼女はそこにいた。

    でも、気のせいだろうか。

    ネタの最中、本当に一瞬だけ。

    「修学旅行の班決めで、僕の班だけ3人になった時の気まずさ」という自虐ネタを披露した時。

    彼女は、何度かくすっと笑っていた。

    そんな気がした。

    口元を手で覆い、肩をわずかに震わせて。あの完璧な「皆に向けた笑顔」ではなく、もっと素朴で、もっと不器用な、年相応の女の子のような顔で。

    心の底から嬉しそうに。

    (………)

    それから一時間後。

    僕は自分の部室である小さな小部屋に戻り、いつも通り後片付けをしていた。

    マイクスタンドを分解して箱にしまい、スケッチブックを棚に並べる。窓の外はすでに夕焼けに染まっており、オレンジ色の光が部室を物悲しく照らしていた。

    「はぁ……」

    深いため息が漏れる。

    結局、誰も入部届を持ってくることはなかった。守谷さんが見ていたのも、単なる怖いもの見たさか、教室を間違えただけだろう。あんな完璧な女の子が、こんな陰キャのお笑い部に入るわけがない。

    教務課の鬼瓦先生の顔が脳裏をよぎる。

    いよいよ、覚悟を決めなければならないのかもしれない。僕の短い青春は、ここでゲームオーバーなのだ。

    ホワイトボードの『部員募集中!』という文字を黒板消しで消そうと手を伸ばした、そんな時だった。

    ガラッ。

    部室のドアが開く音がした。

    風のいたずらかと思い、振り返った僕は――その瞬間、完全に腰を抜かすことになる。

    「わっ!?」

    バランスを崩し、パイプ椅子に足を引っ掛けて派手に転倒してしまった。床に尻餅をついた僕の視線の先。

    ドアの敷居を跨いで立っていたのは、夕日を背に受け、その長い睫毛に光を宿した転校生だった。

    守谷さんが、なんで僕のお笑い部活に見学しに来てるんだぁ!?

    「あ、ご、ごめんなさい! 驚かせちゃった?」

    守谷さんは慌てて駆け寄り、僕に手を差し伸べてきた。

    その手からは、ふわりと良い香りがした。僕はパニックのあまり、その手を取ることもできず、ただ後ずさる。

    「し、守谷さん!? な、なんでここに……!?」

    「えっと、ここ、『お笑い部』の部室で合ってるよね?」

    彼女は部屋の中をぐるりと見渡す。ホコリだらけの段ボール、パイプ椅子、そして尻餅をついている冴えない男。どう見ても彼女にふさわしい場所ではない。

    「ねえ、春夫君」

    不意に、下の名前で呼ばれて心臓が止まりそうになった。クラスで僕に話しかけてくる女子なんていなかったし、ましてや名前で呼ぶなんて。

    「守谷さん。な…何かな?」

    震える声で尋ねる僕に対し、彼女は、とびっきりの笑顔と仕草で、微笑んだ。

    それは教室で見せるあの無敵の笑顔よりも、さらに輝きを増した、破壊力抜群の笑顔だった。

    「私、この部活入部します! よろしくね!」

    時間が止まった。

    脳の処理能力が完全に追いつかない。

    今、この完璧美少女はなんと言った? 入部する? どこに? この廃部寸前の、底辺オブ底辺のお笑い部に?

    「ええええ!?」

    あまりの驚きに、僕は情けない奇声を上げてしまった。

    守谷さんは「ふふっ」と笑い、鞄の中から一枚の紙を取り出した。それは、綺麗に記入された『入部届』だった。

    夢じゃない。これは現実だ。

    入部届には、確かに『1年B組 守谷望』という綺麗な字が書かれていた。

    この紙さえあれば、お笑い部は存続できる。教務課に潰されずに済む。僕の居場所は、守られるのだ。

    もちろん、僕は速攻で許可した。断る理由など、宇宙のどこを探しても存在しない。

    「よろしく!! 本当にありがとう!!」

    僕は床に正座したまま、深く、深く頭を下げた。目を輝かせながら入部届を両手で受け取る。まるで神様からのお告げを受け取る信者のようだったかもしれない。

    「ふふ、そんなに喜んでくれるなんて嬉しいな。これから一緒に頑張ろうね、部長さん」

    守谷さんは屈託なく笑った。

    そして、入部届が完了した――僕がファイルに大切に綴じた――後に、どうしても抑えきれない疑問が口をついて出た。

    「でも、守谷さん。なんでこんな部活に?」

    そう。それが一番の謎だ。

    陸上部でも、吹奏楽部でも、生徒会でも、彼女ならどこでも大歓迎されたはずだ。むしろ、彼女を巡って各部活の争奪戦が起きていたという噂すら聞いたことがある。

    それなのに、なぜ、観客ゼロで一人で自虐ネタをやっているような僕の部活に?

    「それはね。春夫君」

    その時だった。

    守谷さんの表情から、いつもの完璧な笑顔がスッと消えた。

    教室の端で僕のライブを見ていた時のような、あの真剣で、どこか切羽詰まったような、深い感情を宿した瞳。

    夕日の光が、彼女の顔の半分を影に沈める。

    彼女は少し微笑みながらも、真剣な瞳で僕を真っ直ぐに見つめ、言った。

    「君なら、私を笑わせてくれるかなって」

    ドクン、と。

    再び心臓が大きく鳴った。

    君なら、私を笑わせてくれるかなって。

    その言葉の響きは、あまりにも静かで、重かった。

    いつも、誰に対しても、あんなに綺麗に笑っている彼女が。

    誰よりも「笑顔」が似合う、完璧な彼女が。

    どうして「笑わせてくれるかな」なんて、まるで自分からは笑えないような、そんな悲しい言い方をするのだろうか。

    ――守谷さんを、笑わせる。

    その本当の意味を、彼女が抱えている秘密を、その笑顔の裏側にあるものを。

    この時の僕は、まだ何も知らなかった。

    ただ、彼女のその真っ直ぐな瞳に、僕はもう逃げることはできないと悟っていた。

    寂れたお笑い部。冴えない陰キャの僕。そして、いつも笑顔が素敵な、謎多き完璧少女。

    僕の青春の1ページが、今始まる。

    第二話

    奇跡のような守谷さんの入部から、早いもので3週間が経過した。

    教務課の鬼瓦先生に入部届を叩きつけた(実際には震える手でそっと提出した)時の、あの先生の鳩が豆鉄砲を食ったような顔は、一生の宝物にしたい。ともかく、お笑い部は見事存続の危機を脱し、僕の高校生活は首の皮一枚で繋がった。

    そして現在。

    放課後の旧校舎、ホコリっぽかったお笑い部の部室は、守谷さんが持ち込んだアロマディフューザーから漂う柑橘系の香りで、すっかり女子力の高い空間へと変貌を遂げていた。

    「春夫君。今日のネタ合わせなんだけど、私、ちょっと考えてきたことがあるの」

    パイプ椅子にちょこんと座り、膝の上にノートを広げた守谷さんが、真剣な眼差しで僕を見つめてくる。

    窓から差し込む午後の日差しが彼女の栗色の髪をキラキラと輝かせ、相変わらず圧倒的な美しさだ。この3週間、毎日この距離で彼女を見ているというのに、僕の陰キャセンサーは常にエラーを吐き出し、心臓は早鐘を打ったままである。

    僕らは今、お互い初めての『コンビ』を組んでいた。

    「一人でやるより、二人でやった方が絶対に楽しいし、笑いの幅も広がると思うの!」という彼女の提案からだ。コンビ名は、守谷の『もり』から取って『モーリーズ』。僕の要素が皆無な気もしたが、彼女が楽しそうに名付けたので秒で賛成した。

    「考えてきたこと?」

    「うん。ボケとツッコミのメカニズムについてなんだけど」

    守谷さんは、スッと真顔になってホワイトボードの前に立った。手には青いマーカーが握られている。

    「笑いとは、緊張と緩和の連続である。これは春夫君も言っていたわよね? つまり、私がボケることで常識のズレという『緊張』を生み出し、春夫君がツッコミを入れることでそれを正し、『緩和』させる。ここまでは理解できるの」

    「う、うん。そうだね」

    「でも、その『ズレ』の計算式がわからないの。たとえば、昨日春夫君が書いた『ファミレスの店員がやたらとタメ口』というネタ。私が店員役で『ハンバーグでいいっしょ?』とボケる時、その声のトーン、角度、そして春夫君が『友達か!』とツッコむまでのコンマ何秒のタイミングが、数式化できないのよ!」

    守谷さんはホワイトボードに、何やら複雑な数式やグラフを書き殴り始めた。

    ……そう。最初の練習は、本当に大変だったのだ。

    スポーツ万能、成績優秀な彼女は、何事も「理論」と「計算」で完璧にこなしてきた人間だ。しかし、お笑いにおける「間」や「ニュアンス」といった感覚的なものは、いくら勉強しても教科書には載っていない。

    「守谷さん、お笑いは数学じゃないから。もっと感覚でいいんだよ」

    「感覚……? それはつまり、大脳皮質の直感に頼るということ?」

    「難しく考えすぎ! もっとリラックスして。じゃあ、試しに立ってやってみよう」

    僕らは向かい合って立った。

    身長差は10センチほど。彼女の大きな瞳が、僕を真っ直ぐに見上げてくる。その度に、僕の脳内では警報が鳴り響く。

    「じゃあ、僕がお客さん役で入店するから。守谷さんは、ダルそうな店員ね」

    「わかったわ。大脳皮質をリラックスさせて……ダルそうに……」

    守谷さんは深呼吸をすると、ふにゃりと肩の力を抜いた。

    「ウィーン。あ、すいません、一人なんですけど」

    「…………あー。いらっしゃいませぇ。席、テキトーに座っていいっしょ」

    おお! 意外とできている! 気怠げな守谷さんも、なんだかアンニュイですごく可愛い!

    ……いや、可愛いとか思ってる場合じゃない。ツッコまなきゃ。

    「友達か! もっとちゃんと接客してよ」

    「あー、ごめんごめん。てかさー、お客さん、目元とかめっちゃ可愛いっしょ」

    ……ん?

    そんな台詞、台本にあったか?

    「は、はぁ?」

    「特に、恥ずかしがって目を逸らす時の伏し目がちなところが、母性本能をくすぐるっていうか。あ、でも笑った顔も見てみたいな。ねえ、笑って?」

    守谷さんは、ダルそうな店員の設定を完全に忘れ、顔をグイッと僕に近づけてきた。

    柑橘系の香りがふわりと鼻をかすめ、彼女の吐息が僕の頬を撫でる。至近距離にある宝石のような瞳に吸い込まれそうになる。

    「ちょ、守谷さん!? 台本にそんなこと書いてないよ!?」

    「え? でも、『アドリブを入れて感覚を掴め』って春夫君が言ったじゃない」

    「言ったけど! それ、完全にお客さんをナンパしてる店員になってるから! しかも僕、男だし!」

    「だって、本当にそう思ったんだもん」

    守谷さんは悪びれる様子もなく、小首を傾げて無邪気に笑った。

    ズルい。そんな笑顔を見せられたら、こっちは何も言えなくなってしまう。

    「……もう。心臓に悪いから、アドリブはほどほどにしてね」

    「ふふっ。春夫君、耳が真っ赤だよ?」

    「うるさいなぁ! ほら、練習続けるよ!」

    こんな調子で、僕らの練習は一進一退を繰り返していた。

    お笑いのセオリーを無視して天然のボケをかます守谷さんに、僕が本気で振り回されてリアルなツッコミを入れる。奇しくもそれが、僕ら『モーリーズ』の独自の漫才スタイルになりつつあった。

    ある日の夕暮れ時。

    練習が一段落し、パイプ椅子に並んで座って麦茶を飲んでいる時のことだ。

    「ねえ、春夫君」

    「ん?」

    「私、お笑いって難しいけど……すっごく楽しい」

    夕日に照らされた彼女の横顔は、教室で見せる「完璧な守谷さん」の顔ではなく、年相応の、等身大の女の子の顔をしていた。

    「誰も私のこと、『すごいね』とか『さすがだね』って言わない場所。私が間違えても、春夫君が『違うだろ!』って笑ってツッコんでくれる場所。……私、ここが好きだな」

    彼女が抱えているものの片鱗に、僕は少しだけ触れた気がした。

    完璧であることを求められ、期待に応え続けてきた彼女にとって、失敗が許される『お笑い』という空間は、息継ぎができる水面のようなものなのかもしれない。

    「僕も……楽しいよ。守谷さんが入ってくれてから、毎日が嘘みたいに賑やかだから」

    僕が照れ隠しでそっぽを向きながら言うと、彼女は嬉しそうに目を細めた。

    「ふふ。じゃあ、次の日曜日のコンテスト、絶対に優勝しようね!」

    「ゆ、優勝!? いやいや、あれは高校生限定の素人コンテストだけど、結構レベル高いんだよ!? 僕たち結成3週間だし……」

    「ダメ! 出るからには頂点を目指すの! 春夫君となら、絶対にいけるよ!」

    守谷さんは僕の手をギュッと握り、あの向日葵のような、とびっきりの笑顔を向けた。

    彼女のこの笑顔を守りたい。

    そしていつか、彼女が心の底から大爆笑するような、そんな最高の漫才をしてみたい。

    陰キャで冴えない僕の胸に、かつてないほどの熱い炎が灯った瞬間だった。

    第三話

    そして、運命の日曜日。

    僕たちは、市内の市民会館で開催される『第10回 ハイスクールお笑いグランプリ』の会場にいた。

    「すごい人だね……」

    控室として用意された大部屋には、あちこちの高校から集まったお笑いコンビやトリオがひしめき合っていた。壁に向かって早口でネタを反芻する者、相方と激しく言い合いをしている者など、ピリピリとした緊張感が漂っている。

    いつも一人で誰もいない教室でネタをやっていた僕にとって、これほど「お笑いに真剣な同年代」が密集している空間は初めてだった。

    僕も当然、ガチガチに緊張していた。

    手汗が止まらず、持っている台本はすでにシワシワだ。胃の辺りが重く、今にも吐きそうだった。

    「春夫君、顔色悪いよ? 大丈夫?」

    隣に座っていた守谷さんが、心配そうに僕の顔を覗き込んできた。

    今日の彼女は、白のブラウスにチェックのスカートという清潔感あふれる私服姿だ。控室に入ってきた瞬間、周囲の男子高校生たちの視線を一気に釘付けにしたことは言うまでもない。

    「ぼ、僕は大丈夫。守谷さんこそ、緊張してない?」

    「私? ふふっ、全然平気だよ。陸上の大会とかで大舞台は慣れてるしね」

    守谷さんは、いつも通りの涼しげな笑顔を作ってみせた。

    周囲を安心させるような、あの完璧な笑顔だ。

    「そ、そうか。さすが守谷さんだね。僕はもう、心臓が口から飛び出そうだよ」

    「もう、しょうがないなぁ。ほら、深呼吸して」

    そう言って、彼女は僕の背中を優しくポンポンと叩いてくれた。

    その時だった。

    彼女の手が、僕の背中に触れた瞬間。

    僕は違和感に気づいた。

    小刻みに、震えている。

    微かな、しかし確かな震えが、彼女の掌から僕の背中へと伝わってきたのだ。

    僕はハッとして、守谷さんの手元を見た。

    膝の上に置かれた彼女のもう片方の手は、スカートの生地を白くなるほど強く握りしめていた。よく見れば、涼しげな笑顔を浮かべている唇も、ほんの少しだけ引きつっている。

    ーーそうか。守谷さんは、強がりなんだ。

    完璧でなければならない。周囲を不安にさせてはいけない。

    そんなプレッシャーが、無意識のうちに彼女に「笑顔という仮面」を被らせているのだ。

    誰よりも緊張していて、誰よりも怖がっているのに、僕のために必死に平気なフリをしてくれている。

    「私を笑わせてくれるかな」

    あの入部届を出した日の夕暮れ、彼女が呟いた言葉が脳裏に蘇る。

    僕は何をやっているんだ。相方の震えにも気づかず、自分の緊張ばかり気にして。

    僕が彼女を笑わせるって、安心させるって決めたんじゃないのか。

    僕は無意識のうちに、動いていた。

    膝の上で固く握りしめられていた守谷さんの右手を、僕の左手でそっと、しかし力強く包み込んだ。

    「えっ……?」

    守谷さんが驚いたように顔を上げる。

    その瞳は大きく見開かれ、戸惑いが浮かんでいた。

    「春夫……君?」

    「守谷さん。僕の前では、無理に笑わなくていいんだよ」

    僕は彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて言った。

    「怖いなら怖いって言っていい。緊張してるなら震えててもいい。君は完璧なんかじゃない、ただの普通の高校生なんだから」

    「でも……それじゃあ……! 私、春夫君の足手まといに……!」

    守谷さんの声が震え、仮面が剥がれ落ちそうになる。

    「ならないよ」

    僕は力強く断言した。

    「僕たちはコンビだ。二人で一つだ。君が立てないなら僕が支えるし、僕が滑ったら君が笑ってごまかしてくれればいい。だから、大丈夫。僕が必ず、君を笑わせるから。そして、会場の全員も笑わせてみせる」

    冴えない陰キャの僕が、一生に一度言えるかどうかのキザなセリフだった。

    でも、本心だった。

    その瞬間。

    守谷さんの大きな瞳から、ぽろりと大粒の涙が零れ落ちた。

    「守谷さん……?」

    「ごめんなさい……っ! 私、嬉しくて……!!」

    堰を切ったように、彼女の両目からボロボロと大量の雫が溢れ出した。

    完璧な美少女が、顔をくしゃくしゃにして、子供のように泣きじゃくっている。それは、今まで見たどの笑顔よりも、人間らしくて、愛おしい表情だった。

    僕は慌ててポケットから清潔なハンカチを取り出し(陰キャたるもの、身だしなみだけは親に厳しく言われているのだ)、彼女の頬を伝う涙をそっと拭った。

    「メイク、落ちちゃうよ。出番前に泣く芸人がどこにいるのさ」

    「だってぇ……春夫君が、かっこいいこと言うからぁ……」

    「かっこよくないよ。ただの事実を言っただけ」

    涙を拭い終わると、守谷さんは鼻をすすりながら、大きく深呼吸をした。

    そして、僕の目を見て、言った。

    「ありがとう! 春夫君!!」

    涙で少し潤んだ瞳のまま、彼女は微笑んだ。

    無理に作った作り笑いじゃない。強がりの仮面でもない。

    素のままの、まるで天使のように純粋で、柔らかな微笑みだった。

    『さて、次はエントリーナンバー12番の登場です!』

    スピーカーから、司会者の明るいアナウンスが響き渡った。

    いよいよ、僕らの番だ。

    「行こうか」

    「うん!」

    僕らは立ち上がり、控室のドアへ向かう。

    「大丈夫。僕がいる」

    僕は先導するように彼女の手を引く。

    それに応えて、彼女は力強く、そして温かい笑顔で握り返してくれた。

    その手から伝わる熱が、僕に勇気をくれる。

    これが、心の底の笑顔だと。

    そう信じると、決めたから。僕はこの笑顔を守り抜くために、今日、この舞台に立つ。

    ステージの袖に到着し、重い幕の前に立つ。

    マイクを通した司会者の声が、会場に響き渡った。

    『さあ、続いてはなんと結成わずか3週間! 異例の美男美女コンビの登場です!! エントリーナンバー12番、"モーリーズ"!!』

    美男美女!?

    いや、美女は間違いないけど、美男って誰のことだよ! 僕のこと!? 運営側、視力検査した方がいいんじゃないの!?

    そんな僕の心の中の猛烈なツッコミをよそに、出囃子のポップな音楽が鳴り響く。

    「行くよ、春夫君!」

    「おう!」

    僕らは繋いでいた手を離し、勢いよく幕の向こう側へと飛び出した。

    眩しいスポットライトが、容赦なく僕らを照らし出す。

    目の前には、数百人の観客。

    冴えない陰キャと、完璧な美少女。

    絶対に交わるはずのなかった二人の、最高の漫才が、今始まる。

    第四話

    眩しすぎるスポットライトが、僕らの全身を容赦なく照らし出した。

    『さあ、続いてはなんと結成わずか3週間! 異例の美男美女コンビの登場です!! エントリーナンバー12番、"モーリーズ"!!』司会者のアナウンスと共に、軽快な出囃子が会場に鳴り響く。

    数百人の観客の視線が、一斉に僕らに突き刺さった。

    まるで無数の矢を浴びているような圧迫感。

    客席は暗く沈み、ただセンターマイクだけが神聖な祭壇のように銀色の光を放っている。

    「行くよ、春夫君!」隣を歩く守谷さんが、小声で僕に気合いを入れる。

    数分前まで舞台袖で涙を流していた彼女の顔に、もう迷いはなかった。

    ピンと背筋を伸ばし、堂々とした足取りでマイクへ向かうその姿は、紛れもなく「完璧な守谷さん」だった。

    いや、違う。

    強がりの仮面じゃない、僕を信じてくれている、本物の彼女の強さだ。

    僕も震える足を必死に前に出し、センターマイクの前に立った。

    熱い。

    照明の熱気と、数百人の観客が発する体温が、波のように押し寄せてくる。

    僕たち『モーリーズ』は、結成からの3週間で、ある一つの大きな決断を下していた。

    当初は「ボケの守谷さん」に「ツッコミの僕」というスタイルで練習していたのだが、どうにも歯車が噛み合わなかった。

    完璧超人の彼女が無理にバカをやるよりも、根っからの陰キャで挙動不審な僕の「素の気持ち悪さ」を前面に出した方が、圧倒的に面白いことに気づいたのだ。

    そう、本番直前で僕たちは役割を逆転させた。

    極度のネガティブ思考から斜め上の発言を繰り返す『ボケの僕』。

    そして、その異常性を冷静かつ的確に、時には容赦なくぶった斬る『ツッコミの守谷さん』。

    これが、僕らの導き出した最強のフォーメーションだ。

    「どうもー! モーリーズです! よろしくお願いします!」二人で声を合わせ、深くお辞儀をする。

    顔を上げると、客席のざわめきが鼓膜を打った。

    (なんだあの可愛い子!?)(隣の男、めっちゃキョドってないか?)(ていうか、どういう組み合わせなんだ……?)観客の心の声が手に取るようにわかる。

    当然だ。

    学年一の美少女と、学年一の底辺陰キャが並んでいるのだから。

    視覚のバグかと思うほどのアンバランスさ。

    しかし、この「違和感」こそが、僕らの最大の武器だった。

    僕はマイクを両手でギュッと握りしめ、マイクスタンドにへばりつくようにして口を開いた。

    「いやぁ……あの、僕みたいな、休日は部屋でダンゴムシの動画を8時間見てるような陰キャがですね。

    こんな、太陽みたいな美少女と隣に並んでる時点で、すでに新種の公開処刑なんですけども」ボソボソとした、しかしマイクにしっかりと乗る僕の「素」の声。

    すかさず、守谷さんがスパンッ!と僕の肩を叩いた。

    「自虐のスピードが早すぎるのよ! 登場して5秒で自分の尊厳捨てるな!」凛とした、よく通る声。

    その見事なコントラストに。

    ドッ……!会場から、最初の笑いが起きた。

    小さな、しかし確かな笑い声。

    心臓が跳ね上がった。

    ウケた。

    僕らの言葉で、見ず知らずの数百人が今、笑ってくれたのだ。

    「いや、でも本当にね、僕は女性と話すのが苦手でして。

    もし将来、奇跡的に女の子とデートすることになったらどうしようって、毎晩シミュレーションしてるんですよ」「あら、感心ね。

    例えばどんなデートプランを考えてるの?」「まず、朝の9時に待ち合わせますよね。

    そこから、市営図書館の学習室に行って、お互い一言も喋らずに『いかに息の音を消せるか』というサバイバルゲームを6時間やります」「デートじゃなくて特殊訓練じゃない! どんなストイックなカップルよ!」ドッ!! ハハハッ!!波が、大きくなる。

    守谷さんのツッコミのタイミングが、練習の時よりも遥かに鋭く、正確だ。

    「え、ダメですか? じゃあ、映画館はどうでしょう。

    チケット代がもったいないので、映画館のロビーに貼ってあるポスターを2時間見つめながら、脳内で勝手にストーリーを妄想し合うんです。

    僕はこれを『エアシアター』と呼んでいます」「ただの迷惑な客だわ! ちゃんと2000円払って中に入りなさいよ!」笑い声が、うねりとなって会場を包み始める。

    すごい。

    すごいぞ。

    僕が放った歪なボールを、守谷さんが完璧なフォームで打ち返していく。

    そのラリーが、観客の爆笑を連鎖させていく。

    「でも、食事は豪華にいきたいですよね。

    奮発してファミレスに行きましょう。

    もちろん、ドリンクバーの『メロンソーダとカルピスを混ぜる瞬間』を彼女に特等席で見せてあげます」「小学生男子のテンション! 彼女、それ見て全くキュンとしないから!」「そしてメインディッシュ。

    僕は店員さんを呼び止め、こう言うんです。

    『すいません、このメニューの表紙の写真、舐めてもいいですか?』って」「出禁になるわ!! 大人しくハンバーグ頼みなさい!」バンッ!と守谷さんが強くツッコミを入れるたび、会場が揺れるような笑いに包まれる。

    客席を見ると、前のめりになって肩を震わせているおじさんや、手を叩いて大爆笑している女子高生の姿が見えた。

    僕のボケと、守谷さんのツッコミ。

    それが、奇跡的に噛み合っていた。

    練習では何度もタイミングがズレて、お互いに首を傾げていたのに。

    今は、まるで一本の透明な糸で繋がっているかのように、寸分の狂いもない。

    僕が息を吸い込むタイミング、守谷さんが目線を送るタイミング。

    すべてが完璧なシンクロニシティを描いていた。

    (楽しい……!)僕は、人生で初めての感覚に震えていた。

    孤独で、誰にも見向きもされなかった僕の言葉が、守谷さんという最高のフィルターを通すことで、魔法のように「笑い」へと変換されていく。

    「お前はもう、デートの前に人間としての常識を身につけなさい!」「そんな! 僕だって一生懸命なんですよ! この日のために、恋愛マニュアル本を100回読んで、主人公の『拓也』のセリフは全部暗記してきたんですから!」「じゃあその拓也のセリフ、今ここで言ってみてよ」「『ふっ……お前、俺がいないと何もできないドジっ子だな。

    ほら、手、繋いでやるよ』」「……」「……」僕は、わざとらしく前髪をかき上げ、最高にキザな顔を作って守谷さんを見つめた。

    数秒の、絶妙な「間」。

    守谷さんは、冷ややかな目で僕を上から下まで舐め回すように見て、低く静かな声で言った。

    「その顔面で拓也を名乗るな」「ぐあああっ! 正論のナイフが僕の心臓を抉ったぁ!!」ドワァァァァァッ!!!!会場が、今日一番の大きな笑いの渦に包まれた。

    観客の熱狂が、物理的な衝撃となって僕らの体を突き抜ける。

    「もういい! 恋愛なんて僕には早すぎたんだ! 一生独身で、実家のポチ(柴犬)と、ひたすらドングリを集める余生を過ごす!!」僕は天を仰ぎ、マイクに向かって絶叫した。

    そして、守谷さんが最高の笑顔で、僕の背中をバシッと叩いた。

    「犬にまで気を使わせるな!」そして、息を吸い込む。

    練習で何度も何度も合わせた、最後の合図。

    「もうええわ! どうもありがとうございました〜!!」僕らは、揃って深く、深く頭を下げた。

    そのネタが終わった時。

    静寂は、一瞬だった。

    頭を下げた僕の耳に飛び込んできたのは、地鳴りのような音。

    「ウオォォォォォッ!!」「ヒューーーッ!!」それは、今まで生きてきて、経験したことのないほどの大歓声と、割れんばかりの拍手だった。

    顔を上げると、スタンディングオベーションをしている観客までいる。

    視界が、チカチカと点滅する照明の光と、人々の笑顔で溢れかえっていた。

    「凄かったぞ!!」「将来、M1目指せるぞ!!!」「面白かった!!」客席のあちこちから、僕らを称賛する声が直接飛んでくる。

    いつも一人で、壁に向かって虚しいライブをしていた僕に。

    「詰むぞ」と言われ、世界から消えかかっていたお笑い部に。

    信じられない。

    これは夢なんじゃないか。

    あまりの光景に、僕は呆然と立ち尽くしていた。

    すると、隣からスッと温かい手が伸びてきて、僕の右手を強く握った。

    ハッとして横を見ると、守谷さんが息を弾ませながら、僕を見つめていた。

    その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいる。

    しかし、その口元には、教室で見せる「完璧な仮面の笑顔」でもなく、無理に作った作り笑いでもない。

    舞台の熱気と、達成感と、心からの喜びに満ち溢れた、最高に美しくて、太陽よりも眩しい「本当の笑顔」があった。

    僕たちは、何も言わずに強く手を握り合い、もう一度深くお辞儀をしてから、歓声の降り注ぐ舞台を駆け下りた。

    その大歓声の中、僕らは感無量だった。

    言葉にならない感情が胸に詰まり、ただ互いの手のぬくもりだけが、これが現実であることを教えてくれていた。


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