
夜をわたる 第9話 ミレニアム
一九九九年最後の夕暮れ、眞は校門の前で凛久を待っていた。
明日からは週末、そのまま年末年始の休みに入る。休み明けには期末試験が控えていた。
クリスマスの発表会が終わってから、眞はずっとあるものを作っていた。年が明ける前に、どうしても渡したかった。放課後のチャイムが鳴る前から、何度も時計に目をやる。先生の話が長引いて、下校が遅れないか気が気ではなかった。幸い凛久の教室は同じ階で、校庭を挟んで向かい側にある。自分の席からでも、向こうの様子がよく見えた。
授業はまだなのか、もう終わったのか。ときどき前に出て話している凛久の姿も見えたことがある。ようやく「終わり」の声がかかった瞬間、眞は鞄をひっつかんで一番に教室を飛び出した。
廊下、手すり、昇降口。小走りのまま、いつもの校門へ向かう。
門の外には保護者の車がずらりと並び、人も多い。どれが高級車かなんて眞には分からないし、興味もない。その中に、いつも凛久を迎えに来る原のおじさんの姿があった。隣には体格のいい男がいて、電話をしているらしい。大人が電話をすると、どうしてあんなに深刻な顔になるのか。
原が眞に気づき、軽く手を振った。
やがて人の流れの中から、凛久が現れる。こちらに気づくと、自然に隣へ滑り込んできた。
何も言わない。ただ、眞を見ている。
「……やほ」
「やほ」
少し間を置いて、凛久が唇を結んだ。
――待ってたわけじゃないのか。そう思った瞬間だった。
「じゃあ帰る」と言いかけた凛久より先に、眞は背中に隠していた袋を差し出した。
クリスマスレッドの布袋。赤いリボンの蝶結び。百貨店の高級品みたいに見えたかもしれない。
凛久の目がぱっと輝く。
「僕に?」
「うん、自分で作った」
口をあんぐり開けた。
「開けていい?」
中から出てきたのは、黒い小さな犬の置物だった。厚紙で作られた体は丸く、頭も目もころんとしている。前足を伸ばし、尻尾を上げている。眞が底のボタンを押すと、尻尾が左右にゆらゆらと動いた。それを見て、ぱっと顔をほころばせた。何度もボタンを押して、夢中になっていた。その様子に、眞は少しだけ視線をそらした。
「もう行けよ。原のおじさん、待ってるよ」
凛久がはっとして道路の方を見る。
「あ、お父さんも来てる」
あれが五十嵐雄一か、と眞は思った。初めて見る顔だった。二年後には旭誠興産の専務になる男。そして何年も後に、眞が潜り込むことになる組織のトップ。その時の眞には、もちろん知る由もなかった。
「行かなきゃ」
凛久は大事そうに包み直して袋へしまった。目をきらりとさせて聞く。
「家、夜に電話つながる?」
眞が頷くと、凛久は少し考えてから付け加えた。
「じゃあ……11時58分に電話する。待ってて」
遅すぎる、と言いかけた眞より先に、凛久は自分で頷いた。
「うん、それで決まり。」
赤い袋を胸に抱えたまま「バイバイ」と言い、自分の車へ向かって駆け出す。もう少しで道路を渡ろうとしたところで、くるりと振り返った。何か楽しいことを思い出したみたいに、目を輝かせて聞く。
「花火、好き?」
「好きに決まってるじゃん。嫌いな人いる?」
「ならよかった」
年越しの夕食は三人で準備した。料理が一番苦手な眞は、野菜を切ったり皿を洗ったりを担当する。今日はなんだか気分がよく、鼻歌まで出ていた。
背後から稔の声がした。
「プレゼント、渡せた?」
兄の声に、思わずびくっとした。
「え? あ、えっと……」
頭の中でいろんな考えが駆け巡る。ひとつ息を整えてから、なんでもないふりをして答えた。
「……うん」
稔はそれ以上からかわなかった。
水気を切った野菜をさっと取り上げ、熱した油の中へ放り込む。じゅわっ、と音が弾けて、眞は思わず二歩後ずさった。兄が今、笑っているのか、それとも別の表情なのかは分からなかった。
食卓で、眞はふと口を開いた。
「今夜、世界が終わると思う?」
父の岳之は少し驚いたように、眞の頭をそっと撫でた。
「まさかお前がそんなこと信じてるとはな。仮に今夜が世界の終わりだとしても、俺たちは一緒にいる」
稔は落ち着いた顔のまま、逆に問い返す。
「で、お前は終わってほしいの?」
眞は父の得意料理の肉じゃがを口に運びながら、何と返すか少し考えていた。
そのとき岳之が口を開く。
「みんな無事でいられる。お母さんが守ってくれてるから」
しばらく誰も口を開かなかった。
やがて稔が言う。
「母さんの原稿、どこまで整理できてる?」
父は少し言葉を選んでから答えた。
「ほぼ終わった。ボツ原稿まで読んだが……」
そこで一度言葉が途切れる。
「お前たちの母さんは、本当にすごい人だ」
聞いているうちに、眞は茶碗に顔を埋めたまま。
それが泣きそうなときの弟のいつものしぐさだと知っている稔は、すかさず話を引き取った。
「もし……もし編集の作業が順調に終わったら、もっとちゃんと一緒にご飯食べようよ。それと、八百屋の樋口じいさんの自転車、直してやってほしいんだ。僕たちじゃうまく直せなくて。サドルと荷台を付けてもらえると助かる」
そう言いながら、弟の顔をちらりと見ると、眞はこくこくと頷いていた。
「わかった」と父は言った。
その夜。稔は珍しくリビングに残っていた。テレビを見ながら、隣で眞の様子を見ている。
「見張ってる」
「は?」
眞は別に居心地が悪いわけではなかった。ただ、こんなに話したのが久しぶりすぎて、少し戸惑っていた。兄とこれだけまともに話したのも、久しぶりだった。
本当は、昔は仲がよかった。母がなくなってから、なぜかかえって二人の間に距離ができ、それぞれが悲しみを一人で抱えるようになった。心の奥では、昔みたいにじゃれ合い、組み合って笑っていた頃が懐かしかった。
「兄さん、今日なんか変だよ。なんでじっと見てんの?」
そう聞いたとき、口調の端に少しだけ甘えが混じっていた。
「世紀末の怪人に攫われないか見張ってる。」
稔は平然と答えた。いつもの冗談だ。兄が勉強しすぎて頭が変になったんだろうと思うことにしていた。
「じゃあ二人で年越しすればよくない?」
思わず言ったあとで、今夜凛久が電話してくる約束を思い出し、胸がぎくりとした。
「あいたた……」
「どうした?」
兄がすぐ横にいる。
「なんでも……急にお湯が熱くて」
眞はとっさに言い訳をした。
「そう」
稔は流しの上の給湯器をちらりと見た。明らかにお湯は出ていない。
それでも何も言わず、そのままソファの方へ歩いてテレビをつけた。
凛久から電話が来ると思うと、テレビを見始めた頃からもう落ち着かなかった。居間の電話が深夜に鳴り響いて、父や兄を起こしてしまわないかと心配だった。しかし、十時になっても稔は居間に残り、年越し番組を見ると言い出した。いつもそんなにテレビを見る方でもないのに。
部屋へ引き上げたかったが、そうすると電話が来る前に寝てしまいそうで怖く、結局兄と並んでソファで粘ることにした。幸い、十一時を少し過ぎた頃、稔が船を漕ぎ始めた。両手を胸の前で組んだ、やけに生真面目な居眠り姿だ。頭がソファの肘掛けに寄りかかり、少し押しつぶされていた。
ニュースで「うつ伏せで寝てメガネが刺さった」という話を読んだことを思い出し、眞はそっとソファを降りた。かがんで兄の眼鏡を外す。自分は目が悪くないから、多分一生こういうものとは縁がないだろう。なんとなく気になって、手の中の眼鏡をかけてみた。
「あれ……度が入ってない」
思わず声が出る。
「ん……あ」
呼吸の音で兄が目を覚ました。
稔は目を見開いた。
久しぶりに見る、その目だった。眼鏡越しに映る稔の目は、母のそれと同じだった。穏やかで、まっすぐで、眠い目をこすって焦点が合ったあとも、静かな強さをたたえている。
「それ、度が入ってないのになんでかけてるの」
「かっこつけてた」
稔は特に気を悪くした様子もなく、弟の鼻からそっとメガネを外すと、そのまま自分の部屋へ戻った。
しばらくして、居間にいる眞めがけて毛布が飛んできた。
「テレビ、見ないなら消しておけ」
そう言うだけ言って、あっさり寝てしまった。
テレビを見ながら、兄がなぜ度の入っていないメガネをかけているのか、ぼんやり考えていた。いつの間にか部屋はしんとしていて、テレビの音だけがやけに浮いて聞こえる。慌てて二段階音量を下げた。音が小さくなると、余計に眠くなる。
十二時五分前まで目を開け続け、テレビをほぼ無音にして毛布を被ったまま居間に座った。
凛久が少し早くかけてくるかもしれないと思い、受話器を両手でしっかり抱える。毛布をすっぽり被り、外の音がすべて遮られるくらいにして。一、二分もしないうちに、緊張と毛布の中の熱気で息が苦しくなってきた。こっそり鼻だけ出して、ひやりとした空気を二口吸い込む。
ふと、今の自分がひどくおかしく思えた。布団の中で身動きできなくなった子犬みたいだ。
あと少し。
あと数秒。
――りりりん。
毛布にくるまっていたせいで、その音はまるで鐘の中に響くみたいに聞こえ、眞は思わず肩を跳ねさせた。
だが次の瞬間には、もう受話器を取っていた。
「もしもし!」
電話口から、少し緊張したような、改まった声が聞こえる。
「あの、藤井眞さんはいますか」
「僕だよ!」
眞が答えると、向こうの声がわずかに柔らかくなった。
「あ、えっと……犬のやつ、机の上に置いたら、ボタン押したら尻尾が動いた」
今日の午後、目の前でやって見せたじゃないか。
でも、そんなふうに喜んでくれているなら、それでいい。
「なんで贈ってくれたの? さっき聞けなかったけど」
眞は少し考えた。
お詫びのつもりもあった。けれど、それをうまく言葉にできなくて、代わりに聞き返す。
「それだけのために電話してきたの?」
「あ、忘れてた!なんか音、聞こえてる?」
「聞こえないけど」
眞は首をかしげた。
少し暑くなってきて、毛布から頭だけ出す。夜はまだ静かだった。
テレビのかすかな光が壁にぼんやり影を落としている。遠くで何か音がした気もするが、トラックか何かだろう。
「どういうこと?」と聞こうとした、その瞬間。
耳元で、元気なカウントダウンが始まった。
「5、4、3――」
反応する間もなく、
「2――1――Happy new year! Makoto!」
テレビの画面に「明けましておめでとう」の文字が弾けた。
外から、ぱんぱんと花火の音が広がってくる。空が明るくなっては、また暗くなる。胸の奥で、何かがじわりとあふれてきた。
電話してきた理由が、これだったのか。
ただ一緒にカウントダウンしたかっただけ。
それだけのために。
思わず、低い声で呟いた。
「……うん、明けましておめでとう」
言い終わらないうちに、凛久の声が重なる。
「ほらね、世界の終わりじゃなかった。僕たち、一緒に世紀末を越えたんだよ!」
その瞬間、眞の胸はいっぱいになった。
世界は終わらなかった。
時計はまだ動いている。
自分と凛久は、一緒に世紀末を越えて、新しい世紀へ踏み出した。
ミレニアム。
――あいつ、こんなにちゃんと覚えてたのか。
込み上げてくるものに喉が塞がって、眞は何も言えなかった。
耳の奥がぼんやりと鳴っている。
「もしもし!聞こえてる?」
電話の向こうから、弾んだ声が飛んでくる。
「こっちすごくうるさい!花火上げに行く、でっかいやつ!」
どかん、どかんと、あちこちで音が弾けている。
「明けましておめでとう、凛久」
受話器を置いて、ベランダの窓の前に立った。港の方角から、眩しい光が夜空を染めている。
ゆっくりとした足音がして、毛布を羽織った稔が出てきて、静かに隣へ並んだ。
二人で、咲いては散る花火を見上げる。柔らかな光の中で、稔がそっと言った。
「いい一年になるといいな。」
世界中が新しい世紀を迎えていた。
そして眞の胸にも、まだ名前のない何かが芽生えていた。
つづく