
ミスリルの水族館 -16 -e (最終章 「それが私にとっての恋文だから。」)
「ああ、駅のホームで偶然な。珍しく元気なさそうだったから」
「元気がない? あの人が……?」
「なんで。そんなことがあるんだ……珍しい」
鉄仮面のようなあの男が、元気がない。 信じられない思いで、私はベンチの下で宙に浮いた足を、勢いよく蹴り上げた。 はずみでサンダルが脱げそうになって、慌てて爪先に力を込める。
「……ねえ、享太郎。その時、あいつ、なんて言ったの?」
「まあ、なんか龍紀さん、俺を見たら急に元気を取り戻したみたいでさ。今日の予定はどうなったのかとか、じいちゃんの容態についてとか、次の電車が来るまでずっと聞かれたよ」
「そっか……」
一呼吸置いて、私の思考がその名前に引っかかった。
「……へ? あの人の名前、龍紀さんっていうの?」
「そうだけど。え、知らなかったのか? そういえば梨奈、ずっと『編集長』とか『あのおっさん』とか呼んでたもんな」
享太郎は心底意外そうに、目を丸くしていた。
「いや、違うの。二回目に会ったときにマスターに名前を聞いたんだよ。そうしたら『この後の物語を私も見てみたいから』ってはぐらかされちゃって。マスターも名前を知らないのかと思ってたけど……」
「いや、そんなことないだろ。マスターだってこの前、普通に名前で呼んでたし」
あの、いつも穏やかで嘘のつけないマスターが、わざとはぐらかすなんて。 私の背中を、言葉にできないざわめきが駆け抜けた。
私はカバンを探り、マスターから預かっていたあの束を取り出した。
「実は、この原稿……」
「……なにそれ。古文書か何かか?」
享太郎が目を丸くして、色あせた紙の束を覗き込む。
「これ、真奈さんが書いた未完の小説なの。でもね、読んでみて気づいちゃった。この物語に出てくる主人公の探偵……たぶん、あの編集長——龍紀さんをモチーフにしているんだと思う」
この物語は、シャーロック・ホームズをはじめとする古典ミステリーへの深い敬愛が端々に感じられる。主人公である探偵の名前が、劇中では一度も本名で呼ばれず、親しみを込めた「あだ名」でしか綴られていない。けれど、決定的な違和感があった。主人公がブラックコーヒーを飲むときに小指を立てる仕草や、他人の事情にズケズケと物を言う容赦のない性格などが、あの男——龍紀さんにどこか酷似しているのだ。
「本人の名前でも載ってたのか?」
享太郎が原稿をパラパラと指先でめくりながら、無造作に問いかける。
「いや人物関係を整理していくとそうなるのかなって。」
まず、主人公である名無しの探偵が、かつてある老父に拾われた際の回想。そこに登場する、捨てられた赤子と手紙に付け加えられた特殊な万年筆の文様。
次に、列車に乗り合わせた乗客の一人である没落貴族が、その文様と同じ家紋を隠し持っている描写。
そして、その貴族が車内での殺人容疑をかけられ、身の潔白を証明するために一瞬だけ提示した古い戸籍謄本。そこに記された、失踪した嫡男の名——。
「……でも、こういうのって、書いた本人は案外気づかないものなのかもしれないね」
「さすがに考えすぎなんじゃないのか? ほら、人間ってさ、一度そう思うと関係ないものまで結びつけて引きずられがちだろ? …恋愛とかさ」
享太郎は原稿を閉じ、膝の上でトントンと角を揃えた。
「……さすがに、そうかもね。きっと最近、小説の書きすぎで考えすぎなのかも」
私は頬を両手でパン、と叩いた。オレンジ色の夕光が、いつの間にか紫がかった夜の予感に溶け始めている。
私は公園の時計台を見上げて、慌てて我に返った。針はすでに十九時を回っている。居酒屋のシフトが始まる時間だ。
「いいよ、そんなの。気にすんなって」
「えっ、でも遅刻しちゃうんじゃ……」
私が心配になって彼の顔を覗き込むと、享太郎は決まり悪そうに後頭部へ手をまわした。
「……それが実はさ。」