
最後の、苺フラッペ|#12|最終話|最後の、苺フラッペ|(全12話)|恋愛小説部門
第十二話 最終話
八章 最後の、苺フラッペ
日記は、葬儀の夜、読み始めた。
あの日から一週間が過ぎた。手渡された日記は、最後の数ページを残すだけになっている。なのに、僕はその先をめくることができずにいた。
陽菜さんがもう二度と訪れることのないこの部屋で、ソファに座っていると、二人で過ごした日々が蘇る。温かい記憶に浸るたび、隣にいたはずの彼女の気配が、淡く滲んで消えていく。
仕事をしている時間だけは、楽だった。でも、スマートフォンを開くたび、この先何も変わるはずがないトーク画面に胸が詰まる。
夜、帰宅し洗面台で手を洗う。
並んでいたはずの色違いの歯ブラシはもうない。
ただ静かな部屋で、冷凍庫に入れられたままのバニラアイスを一人で食べた。
僕は、何度も同じ場所で立ち止まっている。
日記の最後のページを前にした、今も。
出会ってから一年が過ぎた。
でも、並んで歩いた時間はその半分ほどだった。
終止符を打ったのは、僕だ。日記の中の陽菜さんがたとえ僕を許しても、現実は何も変わらない。彼女の苦しみに気づくことも、何一つできなかった。その無力感に目を背けるように、心は日記に向き合うことを強く拒んでいる。最後のページを読めば、その事実から逃げられなくなる気がして、怖かった。
でも、日記の中の陽菜さんが笑顔で語りかけてくる。彼女が遺したものは、悲しみだけではないことに、本当は気づいていた。
もう逃げたくない。逃げ続けてきた自分が嫌だった。彼女が最後に遺した想いを、今度こそ受け止めたい。
……陽菜さん、そうだよね。
顔を洗い、家を出た。向かったのは「来年ここで」と約束したスターライトコーヒー。苺フラッペを二つ買った。「二つ」自然に口から出た。
彼女が好きだったテラス席の隅に座り、その鮮やかな苺色を前にしても、僕はまだ決心がつかなかった。
ページの端に指をかけたまま、迷っていた。手元の日記を見つめたまま、ただ時間が過ぎていく。一呼吸置いて、日記の最後のページをめくった。
そこに書かれていたのは、ひらがなだけの短い文章だった。
5月12日
りゅうせいくん
もう、じもかけなくて、ごめんね
ありがとう いっしょにはしって、たのしかった
デートにさそってくれてうれしかった
スカイツリーおぼえてる?
すきですっていってくれて
はなびもきれいだったね
かまくらのよる、しあわせでした
だいすきなりゅうせいくんが、ひなて
僕は何を読んでいるのだろう。子供が書いたような文字に戸惑った。
なぜ、ひらがななんだろう。
ページをめくりながら、もう一度、書かれた文字を見ていくと、陽菜さんの命が徐々に消えかかっていたことを悟った。
最後に書かれていた文字。
「だいすきなりゅうせいくんが、ひなて」という言葉に僕はハッとした。
鎌倉花火大会の夜、僕が初めて「陽菜」と呼んだあの日が、彼女にとってどれほどかけがえのない瞬間だったのか。
「ひな」
彼女は、僕が呼んだその名前を、人生の最後に刻もうとしてくれた。最後の日記は亡くなる三日前。文字は途中で切れていたが、ひとつひとつ力強く書かれた筆圧から、彼女がどれほどの想いを込めて書いたものなのか、ありありと伝わってきた。
最後の一行のその先に、どんな言葉を綴りたかったのだろう。未来への願いか、それとも僕への赦しか、それとも……。その問いに、答えてくれる彼女はもうこの世にいない。その空白が、僕の胸に重くのしかかる。
静かに日記を閉じた。もう無理だった。
「陽菜さん……陽菜っ……どうして何も言わずに……僕を一人に、どうして……」
テーブルに突っ伏した。なぜ、あのとき嘘なんか……伏せた腕の隙間から、フラッペの容器に溜まった結露がテーブルへ滴り落ちるのが見えた。隣の席の客が小声で何かを囁いた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。
もう一度、日記の中の陽菜さんに確かめたかった。僕は、何度も目を擦り、湿って波打ったページを最初から手繰り寄せた。
見返した最初のページは、陽菜さんが出会った日だった。あの日、この店のカウンターで、僕は彼女に「その日最後の苺フラッペ」を譲った。たったそれだけの、取るに足らないような出来事。あの瞬間から、僕の無味だった世界は君という光で一変した。
最後の文字のその先を考えても考えても、僕にはわからなかった。その先に続く白いページを、ゆっくりとめくる。もう閉じようと思った視線の隅に、インクの跡が映った。
小さな文字が、そこにあった。
「桜木さんへ」
硬く丁寧な筆跡。
その下には、何かのURL。
『これは陽菜の日記であると同時に、桜木さんのものでもあるので』
一週間、この言葉が心に引っかかっていた。
それは動画だった。
スマートフォン画面に現れた再生ボタンを、恐る恐るタップする。
外出着の陽菜さんが、このカフェの窓際で苺フラッペを手にしている。長かった髪は、短くなり、それを隠すようにニット帽を被っている。けれど、その顔にはあの頃と変わらない、眩しい笑みが浮かんでいた。
「これで撮れてるのかなぁ。流星くん。約束覚えてる?」
陽菜さんの声は、遠い過去から届くような、少し掠れた響きだった。頬は前よりも痩せていたが、その瞳の奥には、いつもと同じ温かい光があった。
「あの日、譲ってくれてありがとう。流星くんに出会えたことは、私の人生のご褒美だよ。本当にありがとう。でも、ごめんね。私は本当に幸せだったよ。今も幸せ。だから流星くんも前を向いて生きてほしい。どんな流星くんも、大好きだよ。……あぁ、流星くんに会いたいなぁ」
彼女の言葉は、僕が最も恐れていた本音であり、同時に僕への赦しだった。そして、最後の力を振り絞るように僕に向けて最高の笑顔を見せた。
「流星くん、苺フラッペで、乾杯〜」
そこで動画は途切れた。
陽菜さんの優しい声が、まだ耳の奥に残っている。僕を責める言葉なんて、最初から一言もなかった。
再び熱いものが溢れ落ちた。もう止めようもないほどに、とめどなく。
別れを告げたあの日から、陽菜さんを一人にしてしまった。
今さら後悔しても遅いのに、涙が止まらない。
それは、自分が思っていた以上に身勝手だった僕の、懺悔の涙だった。
「陽菜さん、ごめんなさい……でもありがとう……本当にありがとう……
一人にして、本当にごめんなさい……陽菜に会いたいよ……陽菜……」
本当に君はもういないんだね。
陽菜……本当に、君は幸せだったのかな。
僕は、幸せだったよ。
溢れ落ちる涙を両手で拭いた。画面に止まったままの笑顔の陽菜さんに向かって、僕は精一杯の笑顔で応えた。
「陽菜さん、乾杯。遅くなってごめんね。でも、やっと一緒に飲めるね」
溶け始めた苺フラッペを、ひと口だけ含んだ。冷たさが喉を通り、甘酸っぱい苺の香りが広がった。目を瞑ると、隣から笑う声が聞こえた気がした。
——流星くんって可愛いんだから
陽菜さんは、ありのままの僕を愛してくれた。
不器用で、情けなくて、自分を嫌ってばかりいた僕を。
店を出た。信号待ちの間、僕は俯いたままだった。
キャップを深く被り直す。
視線に入る足元の解けた靴紐。
しゃがんで結び直そうとしたとき、また涙が溢れてきた。
グレーのスニーカー、お揃いにしたくて内緒で買っていた。
でも陽菜さんに伝えられなかった。
信号が変わった。立って前に進まないと。
しゃがむ僕を避けるように、人々が歩き出す。
道路に片膝をついたまま、深呼吸した。
「陽菜、一緒に走ろうか。ペアルックにしたんだよ」
涙で滲む信号の光が、暮れゆく街のなかで揺れていた。
(終)
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お読みいただきありがとうございました。
また、どこかでお会いできますように・・・