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新しい赤②

    多摩川の河川敷の芝生は白っぽい色にあせていて、水面には向かいに建っているマンションやビルがくっきり映っていた。増水していた時に流れ着いたであろう横たわった木が乾いた土と一体になり鎮座していた。乾燥した空気が唇を痛める。濃い緑色の、無地のマフラーを鼻のところまで引き上げた。昔はマフラーが防寒具だと思っていなかった。マフラーというのは単なる飾りで、冬のファッションのためだけに開発された代物なのだと信じ込んでいた。小学校に通う道中、母親が私の首に巻いたマフラーをうっとおしいからとはずして振り回していた。マフラーなんて、恋人がクリスマスにプレゼントするために大活躍するアイテムでしかなく、もらったことを自慢するために存在しているのだと思っていた。
    短期バイトでイベントの屋外受付をした後、マフラーがどれだけ画期的で素晴らしいものか、20歳でやっと理解した。鼻を真っ赤にし、待ち合わせ場所で体を小刻みに揺らしていた私に、ユウがマフラーをかけてくれた。せっかくかけてくれたのだからとそのまましばらく歩いていたら、いつもより体がぽかぽかしてきてあったかくて、でもユウはマフラーをしてなかった。マフラーをかけられてときめく、というのを、その時やっと理解した。私は途中で、マフラーを半分ユウに譲った。ただ、寒いからつけてほしかった。恋人っぽい演出をしたかったんじゃないけど、一緒につけることに恥ずかしさが全くなかった。

    途中で神奈川から東京に渡った。澄んだ空気の中に富士山がよく見える。石階段のところに座り、1人でカフェオレと一緒にかぼちゃクリームのクロワッサンサンドを食べる。ビニール袋には2頭身のサンタクロースが何人かいて、ウインクしているのや目がキラキラしているのや、みんなおちゃめな表情で楽しそうだった。大学生らしき男の子が二人川辺に降りてきて、1人がポーズを決め、もう一人が写真を何枚も撮っていた。マッチングアプリに載せる写真でも撮っているんだろうか。橋の下から聞こえてくる少し音がはずれたサックスの音が、彼のポーズを間抜けに見せていた。

    手土産のアップルシナモンを持ってユウの家に入ると、いつもの洗剤の匂いに包まれた。暖房とこたつをつけて課題レポートを書き始める。いつの間にか、本棚の漫画と隣のギターケースに西日が差し込んで当たり、ほこりが舞っているのが見えて、文字が見えにくくなっていることに気が付いた。自分の家じゃなくても西日に遭遇する日が来るなんて、子どものころは思ってなかった。今でも変わらず西日は怖かったけど、ユウの世界が作られた、何の音もしない1Kアパートで、私はこの赤い光を見ていたいと思った。この赤い瞬間にユウと一緒に部屋にいることはほとんどない。私は、ユウも知らないこの部屋の瞬間に立ち会っているような気持ちになった。もうレポートの続きを書く気は失せてしまい、お湯を沸かしてセイロンティーを入れ、クリスマスプレゼントを探し始めた。2年生のときは一緒にアウトレットモールを回って色違いのセーターを買い、去年は私が香水を、ユウはスニーカーをプレゼントしてくれた。

    シャワーを浴びる音で目が覚めた。外はすっかり暗くなっていてスーパーの袋がテーブルの上に置いてあった。洗い終わって湯船に浸かるタイミングで私も浴室に入っていった。
    「おはよ。」
    「3時間ぐらい寝ちゃったかも…」
    「けっこう寝たね!だるくない?」
    「ううん、けっこうすっきりした気がする…」
    「ならよかった。餃子の材料買ってきたから一緒に作ろう。」
    「いいね!冷蔵庫にアップルシナモンあるよ。」
    「うん。もう食べた。」
    「はや。」
    ざっと流した後、体を温めるために私はまずお湯に浸かった。時間がかかるから、先に洗うと体が冷えてしまう。ユウはお湯に浸かりながら、教授に聞かされた世間話とか、バイト先に来た変わった客の話をした。熱くなると浴槽のふちに腰かけてドアを開けた。私は体が十分温まったところで髪を洗い始め、最後にお互いの背中を洗って出た。

    餃子を包み終わるころには21時をまわっていた。内臓を隠しきれてない白いプニプニの塊が寄り添っているのがかわいらしかった。30個一気に焼いて、こたつの中で日本酒と一緒に食べた。トイレから戻ると、部屋がにんにく臭くて暖かかった。3分の1残った餃子をそのままに、私達はベッドに横になった。私は、ほんの少しだけ伸びたユウのヒゲをいじりながらテレビを見始めた。
    「こたつ切って。」
    「えーもう?まだわかんないじゃん。」
    「なにが。」
    ユウと話す時は大抵笑っている。たまに遅刻されたり約束を忘れられたりすることがあっても、会うと、私は一瞬で許してしまった。謝罪をしてくれるから許すのではなかった。ユウのまとう空気とか状況を察知して、まあいっかと思えてしまうのだった。
    映画を1本見終わったタイミングでこたつを消した。シングルのローベッドで1枚しかない羽毛布団を一緒にかけていつも寝る。私はユウの足の間に自分の足を差し入れ、「同時に」強く抱きしめあった。それはいつも、強さもタイミングも完全に一致していた。そして一致するのはハグだけじゃなかった。肌の心地よさも動く速さも満足する瞬間も、ちゃんと、確実に一致した。

    最初、私はうまくいかないと思っていた。ユウには色気を感じなかった。軽く手をつないだりキスをしたりしても、濡れる気配なんて微塵もなかったのだ。私は、それだけで欲情する相手がいることにもう気が付いていた。でも、セックスはコミュニケーションだった。
    会話をするのもデートをするのもセックスをするのも、全部同じようにぴったりはまった。一線を越えた後、何かが変わることはなく、安心感と心地よさだけが残った。終わりの始まりという恐怖が押し寄せることもなかった。たとえ、ユウと数か月会えない時が来たとしても、死ぬまで私達の関係は変わらないだろう。欲情が決して満足につながるわけではないことも、私は経験していた。

    クリスマスは水曜だった。就職先も決まり卒論も書き終えた私達は、レンタカーで中央自動車道を走っていた。インプラントの大きい広告の中の歯科医が、私達を笑顔で見送っていた。富士急ハイランドが見えた辺りではもう、気温がずいぶん下がっていた。

    入学して間もない頃、山中湖で必修授業を終えた私とキヅキとユウは、富士急ハイランドで乗れるだけの絶叫マシーンに乗った。まだ6月で、空は少しぼんやりしていて、富士山の雪はほとんど無くなっていた。それでも、FUJIYAMAのてっぺんに登りきった時急に現れた富士山が本当に綺麗で、一目惚れをしたのも束の間、意中の相手から遠ざけられるみたいに急降下していった。あの富士山を見るためにもう一度列に並びたいと私は言ったが、その一瞬のために待つのには反対だという顔をして、二人は私を戦慄迷宮に連れていった。吊り橋効果は本当にあるのかもしれない。私達は三人だったから、並んでいる間に手遊びのゲームをして負けた人が1人で座る。というルールにしたのだが、私が負けても二人は譲ってくれた。隣合って絶叫マシーンに乗ると、勝手に心と心が繋がれた感覚があった。少しの恐怖と不安が、私を子どもみたいに素直にさせた。
    天国のように幻想的な富士山を拝められる絶叫マシーンのすぐ近くに、地獄のような完成度の高いお化け屋敷があるのには関心した。私はホラーには強かった。胡散臭いお化け役の演技やペンキの匂いがする小物を見るとシラケた。人間や景色のほうがよっぽど怖い。ユウもそこまで苦手ではなかったみたいだけど、キヅキは怯えていた。いつも落ち着いているキヅキが、肩をすぼめて「手繋いで」と言ってきた時は、お化け屋敷にも入るもんだと思えた。キヅキを真ん中に、私とユウは両端から彼と手を繋いで歩いた。最初はキヅキのペースに合わせてゆっくり歩いていたが、私はじれったくなってしまい、気づけば私が先頭、ユウがおしりという形になった。途中、キヅキの恐怖がこっちにも伝わって来る瞬間が何度かあった。本当は私達に抱きつきたかっただろうに。その頃はまだそこまでの仲じゃなかった。

    白い息をわざと吐きながら車を降りて、薪が沢山置いてある木でできたカフェに寄り、ケーキを3つ買った。テラス席が設置されていたが、冷たい外気が入らないよう、分厚いビニールで囲われていた。カフェは昼間でも黄色とピンクの電飾で華やかに飾り付けされていた。入口のつるで作られた茶色いクリスマスリースは本当に立派で、赤いドアの4分の1を占領していた。ご自由にどうぞと書かれたポットからは濃いココアが出てきた。ケーキと一緒に、サンタさんとトナカイとクリスマスツリーのマジパンを一緒に買った。
    私達は河口湖が一望できるホテルにチェックインした。露天風呂が付いていたけど、寒すぎてまだベランダに出る気にはなれなかった。室内の温泉は全て貸切予約制だった。私達はいちばん早く入れるお風呂の予約表に名前を書いて、飲み放題のバーに向かい、プレゼントを交換した。
    私はカーキのベルトに黒く縁どられた黄色い文字と針の時計を渡した。私達はもうすぐ社会人になる。今まで、時計と財布はお互いを縛りすぎるみたいでプレゼントとしては遠ざけていたけれど、仕事をしているときも私を思い出してほしいと欲が出た。選ぶとき、社会人らしいもっとスマートな時計と迷った。でも、ユウもこっちのデザインを気に入ってくれる自信が強かったし、自分らしさをずっと持っていて欲しかった。
    ユウは、パッチワークのような、カラフルなツヤのある石をちりばめたような財布と、落ち着いているけれど可愛さを残した革の名刺ケースをくれた。私は何をもらっても嬉しいだろうと予想していたし、ユウが何を用意したとしてもこの重い時計を渡したいと思っていたけれど、財布だとわかったとき、私達の気持ちはやっぱり同じだったことが一番嬉しかった。そして、ユウも私と同じようにアイデンティティを妥協しなかったことに改めて安堵した。仕事が始まるのは不安だった。でも、私が私でいられる自信が出てきた。

    予約した室内温泉の前にはぶどうジュースとワインのセルフサーバーがあった。ぶどうジュースを飲んで温泉に入り、出てからワインを飲んだ。湯船は檜張りだった。湯気がかなり出ていて視界が遮られるほどだった。私達はかなり満足した心地で、手足の先まで体を温め、ひざが真っ赤になるころ上がり、部屋に戻ってベランダに出た。さっきまで湯気でぼんやりしていた視界が澄んだ空気で一気にピリッと締まるのが分かった。
    「ここでケーキを食べよう!」
    「えー?お風呂に浸かりながら?食べにくくない?」
    「いいじゃん、ワインも持ってこよ!」
    体が冷めないよう、急いで3つのケーキにマジパンを乗せ、ろうそくに火を灯しワインを注いだ。ハッピバースデーじゃなくて、何だっけ?
    「クリスマスの歌と言えば何?」
    私は早くも冷え始めた体をお湯に入れながら質問した。
    「マライアキャリーかな…」
    「あ、そっち系か。」
    「他にどっち系があるの?」
    「童謡とか昔からあるやつで選ぶのかと思い込んでた。」
    「あー。あんまり曲名とかわからないかも…」
    「そうなの?」
    「カイは?クリスマスと言えば?」
    「We Wish You a Merry Christmas」
    「え、なにそれ?」
    「えー?絶対聞いたらわかるよ!」
    私は酔っ払いながらWe Wish You a Merry Christmasを歌い始めた。小学校で英語もちゃんとわからないまま適当に覚えた歌詞を、今でもちゃんと最後まで記憶していた。ユウが思い出したようにきれいな英語で被せてきた。ユウは高校2年の1年間、イギリスに交換留学に行っていた。私が夏休みバイトをしている間も、1か月間イギリスにいて、チップアンドチップスぐらいしかまともなご飯がないとメッセージを送ってきた。
    「さすが。雰囲気出るねー。」
    湯船のふちにひじをついて、顔を横にしてユウは照れていた。
    「この歌が一番きれいでせつなくなる。」
    「へぇー。」
    私達は3つのケーキを全部半分ずつ食べ、広い湯船で仰向けになって星を眺めた。河口湖で冬の花火が上がった。乾いた空気の中で、それははっきりとくっきりと、湿気のある夏の、やわらかい光とは違う、強い自信に満ちたきらめきだった。

    翌朝日が昇る前に起きて車を出した。

    「全国育樹祭記念広場に行きたい。」
    「え?なに?なんて?」
    「全国育樹祭記念広場。星がよく見えるらしいよ。」
    「ホテルでも十分見れそうだけど。行ってみようか。」
    旅行の計画を立てながら、私がリクエストした。夜はお酒を飲むから、明け方日の出前に行くことになった。途中、「ふじの山」が流れるメロディロードの存在を知らなかったので、私もユウも地鳴りみたいな音を聞いて、神様が怒り出したのかと本気で思いビビッてしまったけど、対向車が来たので冷静になれた。音程があることに気が付いてからはそういう道なんだと飲み込めた。もし1人で夜に遭遇したらパニックになっていただろう。
    駐車場には車が一台だけ停まっていた。奥に進むと、よく見えないが鹿か何かの動物がいっせいに走って山の中に入っていくのが見えた。熊が現れたらどうしようかと不安になってきた。円形のベンチに横になり空を仰ぐ。広場と周囲の木、動物、月と星空だけがあった。しばらくすると空がうっすら白くなってきて、振り向くと大きな大きな富士山がそこにいた。暗闇の中では気が付かなかったけど、富士山は確かにずっとそこにいた。神がいる。そう思った。歌う道も動物の群れもこの神の遣いに思えてきた。
    私達は普段よくしゃべるのだけど、ここでは口を開けなかった。今日がクリスマスだということを忘れてしまった。人間や言葉が生まれるずっと前からこの山は存在していたのだ。

    ホテルに戻って朝食を食べたら、だんだん東京での生活や生まれた町のことなど、現実が蘇ってきた。朝食はビュッフェだった。ビュッフェのわりにちゃんと全部美味しかった。チェックアウトの前にもう一度お風呂に入っておいた。お湯に浸かっていると、あの神聖な場所の厳かな雰囲気が解き放たれて、神様は今も見ていて、特に悪いことをしたわけではないけど、全て許されているような、そんな気がしてきた。

    大石公園からも富士山が見えた。さっきと違って、なんだか着飾ってすましているように見えた。私達はクリスマスらしくリース作りの体験をした。そのリースは本当に可愛くて、すました富士山と一緒に写真を撮った。リースは外に飾って、私は写真のほうをプリントし、部屋に飾った。

    正月三が日を休業するスーパーには、いつもは見かけない、おじいちゃんや親戚と一緒に回る家族がたくさん買い物していた。私達三人は、鍋とそばの材料、それぞれおせちの中で好きな具材を1つずつ選んでカゴに入れた。私は栗きんとん、ユウは数の子、キヅキは海老を選んだ。数の子を選ぶあたりがユウらしいと思った。ハーゲンダッツと日本酒も一緒に会計をした。
    町内の掲示板には、餅つき大会のお知らせが貼ってある。通っていた高校では、最後の定期試験が終わった日、中庭で餅つき大会をするのが恒例だった。指定校推薦で既に進路の決まった学生がもち米を炊き、祈願をこめてこれから受験する3年生が餅をついた。あの時使っていた臼は、明らかに大木を切り抜いて中だけやすりをかけきれいにしたもので、横から見たら切り株にしか見えなかった。その切り株でついた餅を手がかじかむ中食べた。
    「餅つきをしてみようか?」
    あの行事を3人でしたいと思い、提案した。
    「いいけど、道具とかどうするの?」
    「3人だけだから、炊飯器で炊いて小っちゃい叩き棒でついたらダメかな…。」
    「まあ、やってることは変わらないからできると思うけど。」
    私は通りかかったお米屋さんに寄ってもち米を買った。
    「餅つきでもするんかい?」
    昔からここで営業を続けているであろうおばあさんが聞いてきた。私は、炊飯器で作るのだと自慢げに答えた。

    私の部屋は築年数が古くて駅から遠かったけど、一人暮らしにしては広かった。隣に外国人が住んでいて、最初に二人が来た時は安全なのかと心配されたけど、この広さのおかげで心はこれ以上ないくらい安全だったし、外国語は何を言っているかわからないから、薄い壁の向こうから声が聞こえてきても全然不快じゃなかった。鍋の下準備を終えて銭湯に向かった。この部屋には大学入学以来ずっと住んでいたけど、初めて近所の銭湯に行った。真ん中にあるお風呂はすごく深くて、立ったら胸ぐらいまであった。いったい誰が設計したのか。滑って溺れたら終わると思った。ちゃんと体を温めてから上がり、ここのドライヤーはちゃんと強い風が出るのだとわかったとき、さっきの悪い印象が少し良くなった。また来てもいいかなと思えた。

    コンロをテーブルに置いて、昆布だしのキューブを入れ火にかけた。乾杯して紅白歌合戦が始まったころ、野菜と豆腐の冷たい匂いがガスとお酒の楽しい匂いに変わってきた。名前だけ知っていたアイドルグループが挨拶するのを見て、想像してたより愛想がよくてかわいいだとか、この歌を歌っている人がこんな顔だと思ってなかっただとか、好き放題言い合っているうちに23時近くなっていた。
    去年は3人でカラオケで年越しをした。居酒屋で飲んだ後、日をまたぐ前にかけこみ、今年の曲と新年の曲を1曲ずつ選んで披露した。靴を脱いでソファの上にたち、年越しの瞬間にジャンプをした。今年は私の家でさすがにジャンプはできないだろう…。
    ユウが台所でそばの準備を始めたころ、サザンオールスターズの出番が回ってきた。懐かしいイントロが流れる。私とキヅキは、二人とも、ただ画面を眺めていた。サビに入ったとき、あの駅メロは、上りも下りも同じ「希望の轍」だったことに私は気が付いた。どっちがどっちか忘れてしまったが、同じ曲のイントロとサビを使っていた。あっ、と声が出たとき、全く同じタイミングでキヅキも声が出ていた。
    キヅキはこたつの中で手をつないできた。私は、つなぎ返さなかった。たとえつなぎ返しても私の気持ちは揺らがなかっただろうし、それがその瞬間だけの、思い出を演出する行為だとわかっていたけれど、キヅキの色気には乗れなかった。でも、私は明らかに思い出に浸っていた。
    ベースや他の音と混ざり合う原曲は、透き通るキーボードと鈴のような音が鮮やかで、桑田佳祐の声が、夏のゆるんだ空気を運んできて、和音の切なさは、あの夏を完璧に蘇らせた。こんな曲は、思い出を現実より一層美しく作り上げてしまう力がある気がした。
    あの夏から2年半経った今、私達は髪型も変わり、前より諦めのついた人間になっていた。そしてこれからも変わっていくだろう。
    あの駅メロが何年たってもあのままであって欲しい。

    鍋とそばの消化も兼ねて、近くの神社に初詣に行った。夜なのに子どもまで外にいて、活気があるのが嬉しかった。歩きながら、甘酒も買えばよかったと、急に思い出して後悔した。お賽銭を入れてお祈りをしている間、ユウとキヅキが何を祈っているかは、もう気にならなかった。私は、私と周りの人が、健康に過ごせることを心から願った。

    バレンタインが近づくころ、ユウと横浜で期間限定のパフェを食べに行った。中華街で軽く小籠包を食べた後、人形の家に入り、人形を作りたいと二人を誘ったことを思い出した。今日見て回る人形の中で、作るならどの人形がいいか、ユウと最後に決めることにした。
    私は2年前、西洋の巻き髪の、カタカナの「ドール」を作る気満々だった。動物にしようと、話は盛り上がっていたが、本当は絶対に人型がよかった。
    でも、順路の終盤にさしかかるころには、正反対のこけしに心を奪われていた。世界に一つだけの私のこけしを作りたいと思った。こけしにあんなに個性があるなんて知らなかった。
    ユウはロシアの色鮮やかな服装を着た人形を気に入ったようだった。ロシアの人形は、表情がどこか悲しそうだった。目がすわっていて、簡単には情熱を表に出さない様子だった。

    公園のほうに向かうと海風が想像以上に強くて、かなり寒かった。クルーズターミナルの屋上芝生に、足湯が設置されていた。カップルが何組か座っている。足湯に入るつもりはなかったけど、何となく暖かそうだったので近づいて景色を眺めた。クルーズターミナルの曲線はすっきりしていて、変にかっこつけすぎていないのが好きだと思った。
    「ここの船に乗って、100万ぐらいで北海道に行けるらしいよ。」
    「じゃあ、いつか行こうか?」
    「ん-。船に100万円出せる?」
    「経済力による。」
    新婚旅行で海外に行かず、船の中で過ごすのも悪くないかもしれないと思った。海の上で船に何日も閉じ込められたら退屈になるだろうか。でもユウと一緒だったら楽しいかもしれない。これから、仕事がどれだけ大変になるかは想像できてないけれど、忙しい毎日が来てしまったときに、いつか誘いたいと思った。通信機器を全部置いて、数日間、私とユウの二人だけで過ごすのだ。話したいことが溜まったときとか悩みがあるときの手段として、クルーズ船旅行が私の中に追加された。

    カップヌードルミュージアムのほうまできて、横浜には遊園地があることを思い出した。せっかくだからと観覧車に乗った。
    観覧車が頂上に近づいたとき、ちょうど夕日が沈みかけていて、空が赤く染まっていた。
    私は、きれいだと思った。横浜の街のイルミネーションやビルの灯りは、夕日の赤をちゃんと受け止めて、お互いにお互いを照らしているようにみえた。一緒にいることで明るくきれいになれる大切な関係みたいだった。
    「もうちょっと遅ければイルミネーションがきれいに見えたね。」
    ユウがちょっと残念そうに言った。
    私は全然そんなこと思っていなかった。絶対に、今がベストだった。完全に暗くなるより、今のほうがイルミネーションも街もきれいだと思った。そしてそれを素直にそのままユウに伝えた。
    「カイ、夕方とか夕日苦手だったよね?」
    「うん、苦手だったんだけど…。いや、今も苦手だと思ってる。」
    「でも、この横浜の今の景色は、なんか安心するし、すごくきれいにみえる。」

    これは、私が怖がっていたものと何が違うのだろうか。太陽の光と人の光が合わさって、夕方なのに寂しさを感じずにいられた。ユウは何も言い返さず、一緒に夕日を見ていた。
    買い物を続けているうちに、いつのまにか真っ暗になっていて、完璧になったイルミネーションを私達は見た。
    なるほど、確かにイルミネーションのことだけ考えたら、今が完璧だと言える。夜の街にひかるLEDを見ていると楽しい気分になってきた。私達はいつものおしゃべりモードに突入し、観覧車の受付にいた女性の話とか、さっき見ていた香水店の店員の話などをして盛り上がった。ユウの中では先にこの気持ちが始まっていたんだと、今更理解した。
    円盤がくるくる回るアトラクションの入り口には、お酒を飲んでいる方はご利用いただけませんと書かれていたが、私達は注意を無視して3回乗った。冷たい風が逆に心地よくて、特に深い面白さはないのだが、3回とも大笑いして満足した。
    きれいだと思える夕日を生まれて初めて見て、その後に楽しい時間が訪れたことが嬉しかった。でも、何となく、今日の夜は一人で寝たほうがいい気がした。当然泊まるつもりだと思っていたので、ユウは不服そうだった。デートの後、どちらかの家に泊まらないことは今までなかったし、翌日予定があってもお互い別に困らなかったので、少し不信に思っているようだった。4月に一緒に住み始めたら1人になることなんてないのにと言われ、それはその通りだと、逆に1人の時間は減るのだと考え込んでしまった。
    「私は、今日見たあの夕日を、1人でベッドの中で納めないといけない気がするの。子どもの頃を思い出して、ゆっくり、じっくり。」
    ユウは頷いてくれた。ちゃんと理由を話せば、気持ちが伝わって理解してくれるのが彼だ。

    じんわりした心地よさが消えないよう、心を乱さないで家に帰り、できるだけいつも通りの手順でお風呂や家事をすませてちゃんと早く布団に入った。あとは寝るだけだった。私はこれをしたかった。今日が終わるまで、誰かの恋人でいることを放棄したかった。今日は、今日が終わるまで、私でいる必要があった。多分、ユウと一緒でもできたかもしれない。ユウだったら、ちゃんとできたと思う。一緒にいればよかったかな…。少し後悔したけど、上手にやってのけるのには、あと数年かかりそうだった。矛盾しているが、今すごくユウに会いたいと思った。久々に会いたいと思って寝るのも悪くなかった。


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