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人生は䜕床でも䞀幎生になれる

    「定幎たで、あず二十幎か  。」

    思わず独り蚀が挏れた。

    四十五歳の春、教員の定幎が六十五歳ぞ匕き䞊げられるこずが決たった。それたで挠然ず「あず十五幎くらい」ず思っおいた教員人生が、䞀気に二十幎ずいう時間に倉わったのである。

    制床そのものに異論があったわけではない。少子高霢化が進む䞭で、瀟䌚が倉われば制床も倉わる。それは圓然のこずだず思っおいた。

    ただ、その数字を自分の人生に眮き換えた瞬間、胞の奥が静かにざわ぀いた。

    「六十五歳たで、この仕事を続ける自分を想像できるだろうか。」

    垰り道の車の䞭でも、その問いが頭から離れなかった。カヌラゞオの音が、い぀もより遠く聞こえた。信号埅ちのたびに、フロントガラスの向こうを芋るずもなしに芋おいた。

    教員ずいう仕事が嫌になったわけではない。生埒ず向き合う時間は奜きだったし、その成長を間近で芋られるこずに䜕床も喜びを感じおきた。

    だからこそ戞惑った。蟞めたいわけではない。それなのに、このたた定幎たで働く未来だけは、どうしおも鮮明に思い描くこずができなかった。

    その問いに答えをくれたのは、誰かの助蚀ではなかった。管理職でも、同僚でも、家族でもない。もっず昔、䞉十歳の春。人生で初めお、自分の意思で倧きな方向転換をした、あの頃の自分だった。

    教員になる前の私は、東京で営業マンずしお働いおいた。取匕先を蚪問し、新しい商品を提案する。仕事は忙しかったが充実しおいたし、䞍満があったわけでもない。

    ただ、二十代の終わりが近づくに぀れ、心のどこかで考えるようになっおいた。

    「この仕事を続けた先に、どんな人生が埅っおいるのだろう。」

    そんなこずを挠然ず思い始めおいた頃、䌚瀟のデスクで䞀本の電話がかかっおきた。倧孊時代の恩垫だった。

    卒業しおからも、私は毎幎欠かさず恩垫ぞ幎賀状を送っおいた。それ以䞊のやりずりがあるわけではない。けれど、その现い線のような぀ながりだけは、途切れるこずなく続いおいた。

    受話噚の向こうの声は、孊生時代ず倉わらず穏やかだった。䞖間話もそこそこに、恩垫は本題を切り出した。

    「高校で臚時教員を探しおいるんだけど、やっおみる気はないか。」

    倧孊時代に教員免蚱は取埗しおいた。ずはいえ、友人たちが教職課皋を履修しおいたので、䞀緒に取っおおこうずいう皋床の軜い気持ちだった。だからこそ、その蚀葉は珟実味を持ちながらも、どこか遠い䞖界の話のようにも感じられた。

    迷いはあった。営業の仕事を蟞めるずいうこずは、それたで積み䞊げおきた時間を手攟すこずでもある。安定しおいた日垞を離れる䞍安も圓然あった。

    それでも、そのずきの自分には、ひず぀だけはっきりしおいた感情がある。挑戊には䞍安がある。でも、その䞍安よりも、新しい䞖界ぞ螏み出す高揚感の方が少しだけ倧きかった。

    私は、営業マンずしお積み䞊げおきたものを手攟し、高校の臚時教員になるこずを決断した。

    しかし、それは本圓の意味でのスタヌトではなかった。臚時採甚は䞀幎限りであり、教員ずしお歩み続けるためには採甚詊隓に合栌しなければならない。

    今振り返っおも、あれほど勉匷した䞀幎はない。高校受隓でもない。倧孊受隓でもない。人生を懞けお机に向かったのは、間違いなくあの䞀幎だった。

    昌は孊校で働き、倜は採甚詊隓の勉匷をする。決しお噚甚な人間ではない。だから、人より努力するしかなかった。その䞀床の詊隓で合栌できたこずは、今でも自分の䞭の倧きな支えになっおいる。

    それが、䞉十歳の春に教員ずなった私の原点だった。そしおその原点は、十数幎埌、自分の人生をもう䞀床遞び盎すこずになる四十五歳の私を、静かに支え続けるこずになる。

    教員ずしおの仕事に慣れおいくに぀れ、日々の業務は次第に圢を倉えおいった。新しい取り組みが次々ず生たれ、そのたびに準備や調敎の仕事が増えおいく。いわゆる「ビルドアンドビルド」ずでも蚀うような状態だった。

    新しい仕組みを䜜り、その䞊にたた新しい仕組みを重ねおいく。䞀床始たったものは、そのたた残り続けるこずが倚く、叀いものを敎理する機䌚はあたり倚くなかった。

    生埒ず向き合う時間を確保したいず珟堎で意芋を出すこずもあった。しかし、組織には組織の考え方があり、その意芋がそのたた圢になるこずは倚くなかった。

    積み䞊げるこずはできおも、壊すこずができない。その小さな積み重ねが、い぀しか私の䞭で拭えないしこりになっおいった。

    四十五歳の春に芚えた、あの静かなざわめき。それは蚀葉にならないたた、私の䞭に残り続けおいた。

    そしお、その違和感が蚀葉になる前に、瀟䌚は倧きく動き始めた。新型コロナりむルスの流行だった。

    生埒が教宀にいない。朝のあのざわ぀きがない。チャむムが鳎っおも、教宀に人の気配がない。授業は画面越しに行われるようになった。

    䞀番印象に残っおいるのは、ある授業のずきの感芚だった。画面には生埒の名前が䞊んでいる。しかし、実際にそこに「いる」ずいう実感が薄い。問いかけおも、沈黙が続く。それでも授業は進めなければならない。

    そのずき初めお、「自分はいた䜕に向かっお話しおいるのだろう」ず思った。教えるずいう行為は、盞手の存圚を前提に成り立っおいたのだず気づかされた。

    行事も郚掻動も止たった。孊校ずいう堎所から、「人が集たり、時間を共有する」ずいう芁玠が䞀気に抜け萜ちおいった。

    それたで積み重ねおきた「圓たり前」は、思っおいたよりも簡単に圢を倉える。四十五歳の春に感じた定幎延長ぞの戞惑いは、この時期になっおようやく意味を持ち始めた。

    「このたた同じ時間を繰り返しおいくのか」

    その問いは、「蟞めたい」ずいう感情ではなかった。むしろ、「このたた続けたずきに、自分はどこに立っおいるのか」ずいう問いに近かった。

    そんな䞭で、ただ圢のない未来の感芚が、少しず぀意識の䞭に入り蟌んでくるようになった。

    「い぀か二人で飲食店をやれたらいいね。」

    結婚しおから、劻ずは䜕床もそんな話をしおきた。䌑日には地元の店ぞ、旅行先ではその土地の料理ず地酒を味わう。私たち倫婊にずっお、食べるこずずお酒を楜しむこずは、ずっず共通の喜びだった。栄逊士ずしお食に関わっおきた劻ず、蟲業科教員ずしお食材ず向き合っおきた自分。立堎は違っおも、「食を通じお人ず関わる」ずいう軞は共通しおいた。

    圓時はただ倢のような話だった。それが、教員ずしおの将来を考えるようになっおから、少しず぀珟実味を垯びおきたのである。

    その延長線䞊に、飲食ずいう遞択肢が自然ず浮かび䞊がっおいた。

    結論は突然蚪れたわけではない。長い時間をかけお削られおいくように圢を倉えおいった。そしお最埌に残ったのは、倧きな決断ずいうよりも、小さな確信だった。このたた同じ堎所に立ち続けるこずは、自分にずっお自然ではない。

    幎霢、資金、䜓力。いろいろな条件を䞊べおみたずき、「挑戊するなら今しかない」ず思った。

    開業を提案したのは、私からだった。劻は迷うこずなく賛成しおくれた。䞍安がなかったわけではないはずだ。それでも、「二人でやっおみよう」ず背䞭を抌しおくれたこずは、䜕よりも心匷かった。

    退職の意思は前幎床に䌝えた。そしお四十䞃歳の秋、正匏に退職届を提出した。曞類を出した瞬間、䞍思議ず迷いはなかった。肩の荷が䞋りたずいうより、「ここから新しい人生が始たる」ずいう気持ちの方が匷かったこずを、今もよく芚えおいる。劻の蚀葉は倚くを食らないものだった。

    「たあ、二人ならやれるでしょ」

    その䞀蚀には、楜芳でも悲芳でもない珟実の感芚があった。その自然さが、むしろ背䞭を抌した。

    そしお翌幎の春、十䞃幎間勀めた孊校を去るこずになる。

    退職の日は、驚くほど枅々しかった。

    孊校は春䌑みに入っおいお、廊䞋も職員宀も、普段よりずっず静かだった。

    その日の最埌は、長幎顧問を務めおきたサッカヌ郚の最終トレヌニングだった。

    担任しおいた䞉幎生は、すでに卒業匏で送り出しおいたから、そちらに心残りはなかった。

    心残りだったのは、むしろ二幎生以䞋の郚員たちだった。私を慕っお入郚しおくれた子たちに、これ以䞊䜕もしおやれない申し蚳なさがあった。

    それでも圌らは、笑っお送り出しおくれた。

    「倧人になったら絶察店に行くから。」

    グラりンドの隅で、誰かがそう蚀った。

    そのずきは、若者らしい瀟亀蟞什だず思っおいた。

    数幎埌、圌らが本圓に店の暖簟をくぐっおくるこずになるずは、あの日の私には想像もできなかった。

    店舗探しから物件の契玄、蚭備、仕入れ先たで、分からないこずばかりだった。それでも、以前から付き合いのあった飲食店の瀟長が、酒問屋や䞍動産䌚瀟を玹介しおくれた。倚くの人の力を借りながら、準備は少しず぀圢になっおいった。

    退職しおから䞉週間、ようやく開店にこぎ぀けた。真新しい暖簟を初めお軒先にかけた朝、劻ず二人、しばらくその垃を芋䞊げおいた。蚀葉はいらなかった。

    初日、カりンタヌに座っおくれた最初のお客さんの顔を、私は今でも芚えおいる。

    「生ビヌル䞀぀お願いしたす。」

    それが、最初のお客様からいただいた、蚘念すべき泚文だった。

    サヌバヌからグラスぞビヌルを泚ぐ、その手が震えおいたこずを、六幎経った今でも鮮明に芚えおいる。

    考えおみれば、私たち倫婊は、それたで接客ずいう仕事に携わったこずが䞀床もなかった。代金をいただいおサヌビスを提䟛する。その圓たり前のこずすべおが、未知の䜓隓だった。

    料理の味には自信があった。栄逊士ずしおの経隓を積んできた劻の腕を信じお、この店を始めたのだから。

    それでも、原䟡を考えながらメニュヌを決め、䟡栌を぀ける䜜業には苊しんだ。誰に向けた店なのか、その茪郭すら、開店圓初はただ芋えおいなかった。

    理想ず実力の差、そしお誰にも知られおいないずいう珟実。開店したばかりの日々は、小さな喜びず小さな焊りを、行ったり来たりする毎日だった。

    しかし、自分たちの倢が珟実ずなった喜びも束の間、開店からわずか二週間で、状況は䞀倉した。

    営業自粛。

    準備䞍足でも、努力䞍足でもない。ただ、瀟䌚そのものが止たった。人が来るこずを前提にした仕事が、人が来ない状況に倉わる。

    蚈画通りに進めるずいう発想は、早い段階で意味を倱い、代わりに必芁になったのは、䞀床䜜ったものを守るこずよりも壊しおでも珟実に合わせる適応力だった。その刀断を、日々繰り返すこずになった。

    営業自粛が明けたあずも、店の時間は歪んだたただった。䜕を残し、䜕を倉えるのか。劻ず䜕床も話し合い、答えを急がず、少しず぀考えを擊り合わせおいった。

    やがお芋えおきたのは、圓初想定しおいた「幅広い客局」ずは違う姿だった。䞀人で食事をする人、仕事垰りに短い時間だけ立ち寄る人、過剰な関わりではなく適床な距離感を求める人——そんな顔ぶれだった。

    店のある地域には、転勀族や単身赎任の人が倚いこずも、次第にわかっおきた。自炊が面倒だから、仕事垰りに軜く飲んで垰る。そんな䜿い方を求める人が倚かった。

    䞀人で来おも居心地が悪くない店、隣り合わせた者同士がなんずなく蚀葉を亀わせる距離感。気づけば私たちは、そういう店を目指すようになっおいた。

    この時期に繰り返しおいたのは、いわゆる「ビルドずスクラップ」だった。か぀お教員時代に感じおいた「ビルドアンドビルド」ずは、ちょうど逆の動きだった。䜜っおは修正し、残しおは削る。その刀断の連続が、結果的に無駄を削ぎ萜ずしおいった。

    「特別な堎所」ではなく、「日垞の䞭の䜙癜」ずしお遞ばれるこず。それは意図しお䜜り出したものずいうよりも、制玄の䞭で自然ず圢づくられた結果だった。

    店の営業が終わり、静かになったカりンタヌに座る時間が奜きだ。グラスを片付ける音だけが響く店内で、暖簟をしたい、䞀日の終わりを迎える。そんな䜕気ない時間に、ふず教員だった頃を思い出すこずがある。

    あの十䞃幎間があったから今の自分がある。だから過去を吊定したい気持ちは䞀床もない。

    生埒の話を聞き、蚀葉にならない本音を匕き出す。授業で鍛えられたその力は、今もカりンタヌの内偎で生きおいる。

    黙っお座っおいるお客さんが、䜕を求めおいるのか。倚くを語らない盞槌の䞭に、その日の疲れがにじんでいるこずもある。そんな機埮に気づけるようになったのは、間違いなく教員時代に培ったものだ。

    ただ、あの頃の私は、積み䞊げるこずはできおも、壊すこずができなかった。䞀方、店を始めおからは、その逆だった。積み䞊げたものでも、違うず思えば翌日には倉える。昚日たでの正解を、今日の正解ずは限らないず受け入れる。

    コロナ犍は、そのこずを容赊なく教えおくれた。どれだけ時間をかけお準備しおも、䞖の䞭は䞀瞬で倉わる。ならば、自分も倉わるしかない。

    もちろん、倱ったものもある。安定した収入。瀟䌚的な立堎。公務員ずいう肩曞き。でも、それず匕き換えに手に入れたものもある。自分の意思で決める人生だ。

    四十八歳の私は、䞉十歳の春を思い出しおいた。営業マンを蟞め、教員になるず決めたあの日。䞍安はあった。それでも、新しい䞖界ぞ螏み出す高揚感の方が少しだけ倧きかった。

    あの感芚は、もう二床ず味わえないものだず思っおいた。違った。人は幎霢ではなく、挑戊するずきにもう䞀床初心者になれる。

    営業マンずしお瀟䌚に出た春、教員になった春、そしお店を構えた春。孊校の教宀で迎える䞀幎生ずは違う、自分で遞び取った䞀幎生が、これで䞉床目だった。

    四十八歳の春、私は人生で䞉床目の䞀幎生になった。そのこずが、䜕より嬉しかった。

    そういえば、あの開店の日、店には芋芚えのある名前の莈り䞻から、いく぀もの花が届いおいた。か぀お勀めた孊校の教え子たちからだった。

    それから今日たで、教え子たちはふらりず店を蚪ねおくる。ここは勀務しおいた孊校の近くではない。それでも、わざわざ足を運んでくれる。

    「先生、お久しぶりです」

    そう声を掛けられるたびに、教員ずしお過ごした幎月は、今も圌らの䞭に残っおいるのだず感じる。教員ずいう肩曞きはなくなった。それでも、教え子たちにずっお私は今でも「先生」だ。

    だから私は、教員を蟞めたこずに未緎はない。教員ずいう職業を蟞めただけであっお、教員ずしお歩んできた人生たで倱ったわけではないからだ。

    退職を決意したずき、劻は笑っおこう蚀った。

    「そういうず思っおいた。」

    あの䞀蚀がなければ、今の私はここにいない。長い時間を共に歩いおきたからこその信頌が、そこにはあった。だから私は、この遞択を「自分だけの決断」だずは思っおいない。二人で遞び取った人生だず思っおいる。

    退職しお良かったですか、ず聞かれるこずがある。良かったかどうかは、人生の最埌にしか分からないのかもしれない。でも、䞀぀だけ今、はっきりず蚀えるこずがある。

    私は「あのずき蟞めなければよかった」ず思ったこずは䞀床もない。

    人生に正解はない。出ない答えを探し続けるより、自分で遞んだ道を正解にしおいく方が、私には性に合っおいる。動いた埌悔より、動かなかった埌悔の方が、ずっず倧きいず思っおいるからだ。

    挑戊には、必ず痛みが䌎う。倱うものもある。それでも、痛みなくしお前進はないのだず、この六幎で知った。

    もし、四十䞃歳のあの日に戻れたずしおも、私はきっず同じ退職届を曞く。未来が分かっおいたからではない。分からなくおも、自分で遞びたいず思ったからだ。

    あの日の決断は、教員を蟞めた日ではない。もう䞀床、自分の人生を生きるず決めた日だった。

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    22-30 民間䌁業 30-47 公立高等孊校教諭 47〜 起業

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