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それでも、生きる ― 折れなかった記録

    これは、私の幼少期からの記憶をできるだけそのまま書き留めたものです。
    美談でも成功談でもありません。

    本作は応募用に第二部より掲載しています。
    全話も掲載していますので、ぜひご覧ください。

    第二部 覚悟 
    第三十三話 難病

    師走の慌ただしさを感じ始めていたある朝、
    いつものようにゴミ出しをして出勤しようと
    アパートの玄関を出たところ、つまづいて転んだ。
    真っ平な、障害物も無い場所だった。
    朝から何やってんだ、と独り言を言いながら
    立ち上がろうとした時、足に力が入らなくて立ち上がれなかった。
    たまたま通りがかった方のおかげで立ち上がったものの、
    歩ける気がしなかった。

    元々腰痛に悩まされていたので、それが原因かな、と思いながら、
    何とか出勤して、翌日の整体を予約した。

    整体院の向かい側に駐車場があり、そこに車を停めたが、
    道路を渡る勇気がなく、電話をして迎えに来てもらった。

    それでも一向に症状は改善せず、近隣で有名な整形外科病院に行った。
    入院させてもらうことを予想して簡単な準備は持参していた。
    玄関にあった車イスを使ったが、
    以降、しばらく車イスから降りることができなくなっていた。

    レントゲンを撮って即入院、
    翌日全身CT撮影、専門医から病名を告げられた。

    「後縦靱帯骨化症」

    特定疾患、国指定の難病。
    後縦靱帯が骨のように固まり、突起して脊髄を圧迫する。
    その圧迫点から下が痺れて運動機能を麻痺させる。
    私の場合は頚椎と胸椎の境目あたりで圧迫されていた。

    医師から「なぜこんなになるまで放っておいたんだ」と言われた。
    思えば自覚症状はあった。
    コンビニから出ていく時、足ふきマットでつまづいたりしていたり、
    いきなりバランスを崩して転んだりしていた。

    カーテンで仕切られた狭い空間の中でひとり、
    これからどうしたら良いかわからないまま何も考えられなかった。

    第三十四話 闘いの始まり
    数日後に兄が見舞いにきた。
    手にはまとめたメモを持って。

    この難病について対応してくれる医師とその病院を探してくれていた。
    県内の大学病院で対応してくれるらしい。
    入院先の院長はこの大学病院の医師と面識があるらしく
    紹介状を書いてくれ、電話も入れて頼んでおく、と言ってくれた。

    ただ私には時間がなかった。
    約二週間程度で麻痺が進行して
    立つことさえできなくなる、と言われていた。
    覚悟した。自分しかいなかった。

    大学病院の外来で行くため介護タクシーを手配、
    紹介状を渡して、ようやく対応してくれるS医師に出会えた。
    この病気の権威と言われている。
    S医師は「手術をしても、よくて車イス生活」と言われたが
    「私のチームに任せなさい。大丈夫」と元気づけてくれた。
    この時、私はホッとしていた。
    私ができる最善はここまで、後は医師に任せるしかない、と素直に思えた。

    特定疾患用保険証の発行が必要で、
    必要書類を揃えて保健所へ届け出ないと、
    手術代だけで数百万円と言われた。
    これは兄にしか頼めなかった。
    深夜に飛んで来てくれて資料を託し手続きしてもらった。

    入院生活で一番困ったことは実は洗濯だった。
    これは看護助手さんにお願いするしかなかった。
    コインランドリーがあるのだが100円玉が必要だった。
    洗剤も必要だった。乾燥機の後、たたむのもしまうのも必要だった。
    他人にお願いするしかないとは分かっていながらも、
    相手の気持ちを考えてしまうことで、その難しさを思い知ることになった。

    すでにベッドから外に出れない状況になっていたが
    手術は正月明け1月5日に決まった。

    第三十五話 手術
    元旦の朝一番に、看護師、看護助手勢揃いで私を風呂に入れてくれた。
    重い体を移動させなければならなかったから。
    入浴室から朝日が差し込んでいて、
    その中で湯船に浸かり、とても晴れやかだった。
    みんなも笑顔で嬉しかった。

    術前の説明が行われた。
    MRI画像を見ながらだったので、状況がよく分かった。
    突起物が見事に脊髄を圧迫していて、
    今にも千切れるんじゃないか、と思われた。
    手術は二回を想定している、初めは背中からアプローチ、
    背骨に金具を入れ湾曲しているところを伸ばすよう固定することで
    圧迫を軽減させる。
    それでも改善しなければ前から開き、肺、心臓を避けてアプローチ、
    突起物を削り取る、とのこと。
    ただ重要臓器を避けるリスクがあるので前からは基本的にはしたく無い、
    とのことだった。
    了解した。
    術後に介護認定、半年後に障害認定をするように、
    この段階で言われていた。

    当日昼前からスタート、9時間に及ぶ手術となった。
    意識が戻って兄が顔を見に来た。
    看護師さんに痛み止めは目一杯使って、こいつは痛みに弱いので、と
    言っていた。
    つい笑ってしまった。

    私は足の指を動かしてみたくなった。

    あ、動いた。

    研修医が先に来ていたので伝えてがっちり握手した。
    S医師も来て確認、握手してくれた。
    やったーっ!

    第三十六話 同室の人たち
    全身の痺れは、すぐには取れなかった。
    感覚は少しずつ戻ってくる、と言われていた。

    一般病棟に戻ると、隣のベッドには
    新しい患者さんが入っていた。
    挨拶をされた。
    よく見ると、手首まで全身フルカラーだった。
    正直、怖かった。
    こちらはまだ体が言うことをきかない。逃げようにも逃げられない。
    だがその人は、驚くほど穏やかだった。
    私がベッドから物を落として困っていると、黙って拾ってくれた。
    携帯で遊べるゲームも教えてくれた。
    親分らしき人が見舞いに来たときは、みんなにケーキを差し入れてくれた。
    私は減量中で食べなかったが、気持ちはうれしかった。
    二週間ほどで退院していった。
    毎朝、起きると必ず掛け布団をきれいにたたんでいた。
    ああいう世界の人ほど、規律を大事にするのかもしれない。
    勝手にそう思った。

    別の同室の人は、よくベッドから起き出して体を動かしていた。
    手押し車を押しながら、院内を歩き回っていた。
    「決められたリハビリだけじゃ治らない。
    それ以上に動かさないと、元には戻れない」
    その言葉を、私は胸に刻んだ。
    いずれ自分も、そこまで行かなければならない。

    やがて、おじいちゃんが入院してきた。
    耳に入った話から察するに、どうやら私と同じ病気らしい。
    奥さんと親戚が、保健所への届け出が必要だとか何だとか、悩んでいた。
    聞いているうちに、どうしても我慢できなくなった。
    余計なことだとは思いながらも、声をかけた。
    届け出の意味、手続き、必要書類。自分が知っていることは全部伝えた。
    自分のことで精一杯のはずなのに、何をしているんだろう。
    少し反省もした。
    だが奥さんは後で私のところに来て、
    「ありがとう。助かりました。これ、どうぞ」
    と、みかんをくれた。
    それから、見舞いに来るたびに必ず声をかけてくれた。
    病室の空気が、少しあたたかくなった。

    第三十七話 新たな闘い
    リハビリ担当の女性医師がやってきた。
    早速、車イスに乗せられた。
    渡り板をかけ、ベッドから滑るように移る。
    それだけで一仕事だった。

    リハビリ室へ向かう途中、「目標を立てましょう」と言われた。
    私は即答した。
    「社会復帰です」
    そのためには、歩けなければならない。

    最初は四つん這い。
    赤ん坊と同じ、ハイハイから始まった。
    これが、想像以上にきつい。腕も腹も震え、汗が吹き出す。
    だが人間の成長と同じだ。
    這って、立って、歩く。順番は飛ばせない。

    それから毎日、リハビリ室へ通った。
    最初は看護助手さんに送り迎えしてもらっていたが、自分から断った。
    車イスを自走で往復すること自体がリハビリだと思ったからだ。
    だから毎回、30分前に出発した。

    医師に相談し、病棟内でも自主トレを始めた。
    看護師付き添いで、手すりにつかまり立ち上がる。
    平行棒の中を、何度も往復した。
    二ヶ月。
    ひたすら積み上げた。
    食事は一日1600キロカロリー、塩分5g。
    130キロを超えていた体重は、110キロ台まで落ちていた。
    体は削れた。
    だが、意地は削れなかった。

    第三十八話 歩く
    医師から転院を勧められた。
    特に希望はなかったので、紹介された病院へ行くことにした。
    リハビリ専門病院だった。
    ちょうどオーナーが変わったばかりで、
    病室の増築や理学療法士の大量採用が進んでいた。
    系列病院から指導員も集められていたらしい。
    病院全体に、勢いがあった。
    私はその空気が好きだった。

    リハビリは一日三回。午前に一回、午後に二回。それぞれ約一時間。
    だが、それでは足りないと思った。
    自分から自主トレを申し出た。
    午前の回が終わるとそのまま居残り、
    器具を使ってさらに一時間、筋トレをした。
    もちろん内容は事前に相談した。
    起床後、廊下の手すりにつかまり筋トレ。夕食後も筋トレ。
    就寝前には足上げ腹筋三百回。
    自分の体を、徹底的に追い込んだ。
    毎日体重計に乗った。
    数字は正直だ。減っていく数字が、私を裏切らなかった。
    五ヶ月後、130キロ超あった体重は85キロになっていた。

    そしてある日。
    杖をつきながら、自分の足で歩いていた。
    一歩。また一歩。
    誰かに支えられるのではなく、自分の意思で前に進んでいた。

    この瞬間は、生涯で一番の誇りだ。
    そして、揺るがない自信になった。

    第三十九話 復職
    入院中、取締役管理本部長が見舞いに来てくれた。
    本社勤務時代、世話になった方だった。
    私はリハビリが順調なこと、そして復職したい意思を伝えた。
    ただし、元の身体には戻れない。それははっきりしていた。
    だから本社勤務をお願いした。
    問題は通勤だった。
    どこまで歩けるのか。
    それがすべてだった。
    歩行訓練の状況を説明すると、本部長は一言だけ言った。
    「条件をクリアできるよう、リハビリに励んでくれ」

    夏の暑い日に退院した。
    しばらく養生し、本社近くへ引っ越した。
    通勤は車。
    駐車場から事務所まで、杖をついて歩いた。
    きつかった。だが、歩き切れた。

    社長はまた代わっていた。
    着任の挨拶をしたが、なぜか馴染めなかった。
    配属は、以前と同じクレーム対応。
    だが手法は一変していた。
    実質、一からの再出発だった。
    何よりきつかったのは、身体だった。
    仕事に慣れる前に、身体を慣らす必要があった。
    それでも、周囲は顔なじみばかりだった。
    それだけが救いだった。

    昼食は社員食堂までが遠かった。
    毎朝、自分で弁当を作った。
    一合のご飯を、朝と昼で半分ずつ。おかずは冷凍食品と簡単な野菜。
    手間を減らす工夫だった。
    調理中は立ち続けなければならない。それだけで負担だった。
    掃除は介護ヘルパーに頼んだ。
    そうやって、なんとか生活を回していた。

    第四十話 心療内科
    生活は平穏だった。
    だが、仕事はきつかった。
    クレーム対応は、神経を削る。
    お客様にも、自社の社員にも気を使う。
    多くは、自社のミスから始まる。
    連絡を受け、まず謝る。事情を聞き、責任者対応を約束して電話を切る。
    その後、ミスをした従業員に状況を確認する。
    ここが一番重要だった。
    お客様の訴えと、社内の説明。その間にズレが生じた時が、一番きつい。
    本来なら、悪いことをしたら謝るだけの話だ。
    だが、当事者が自分の非を認めないこともある。
    「なぜ謝る必要があるのか」と言われる。
    そこを説得する。
    これが骨が折れた。
    一方で、お客様に悪意がある場合もある。
    その裏を読み、対応を組み立てる。
    場合によっては、徹底して戦う姿勢も必要だった。

    どれも、自分のミスではない。すべて他人が起こした出来事だ。
    それを自分のこととして受け止め、考え、悩み、時には戦う。
    心の消耗は、想像以上だった。

    身体が元気な頃なら、
    酒を飲んで、カラオケで大声を出して、発散できた。
    だが、もうそれはできなかった。
    周囲も気を遣って、誘わなくなっていた。

    数年が過ぎた頃。
    腰痛が悪化した。眠れない日が増えた。朝、体が重くて起きられない。
    やがて、会社を休むようになった。
    上司から言われた。
    「一度、心療内科で診てもらったらどうか」
    その言葉で、はっとした。

    何軒か予約を断られたあと、
    「すぐ来なさい」と言ってくれた病院があった。
    そこで告げられた。
    「うつ症状です」
    正直、驚いた。まさか自分が、と思った。

    投薬治療が始まった。
    それ以来、今に至るまで、その病院に通い続けている。

    第四十一話 兄の急死
    今夜も熱帯夜になりそうな夜だった。
電話が鳴った。兄の娘からだった。
    「さっき、お父さんが亡くなった」
    頭が追いつかなかった。
まだ病院にいるが、これから自宅に戻るという。
私はすぐに向かった。

    義姉と二人で夕食をとっている最中、
突然うめき声をあげて倒れたらしい。
その時には、もう息はなかった。
    救急車は呼んだが搬送はされず、
警察が引き取り、翌日解剖となった。
    原因は心臓。
五十八歳だった。

    コロナ禍で在宅勤務になり、
大きな体で小さなノートパソコンに向かい、
背中を丸めて仕事をしていたらしい。
    義姉と犬の散歩には出ていたようだが、
それでも運動不足だったのだと思う。

    兄との思い出はいくらでもある。
    中学の頃、雨の日の帰り道。
駅まで兄が原付で迎えに来てくれた。
二人乗りで裏道を走っていたら、検問に引っかかった。
    説教を受け、しばらく歩かされ、
そのあとまた二人乗りで帰った。
    ヘルメットは、私にかぶせてくれていた。

    卒業式にも来てくれていた。
高校を出たばかりの兄が、わざわざ。
    あれはきっと、
何かあったら助けるつもりだったのだと思う。
    口数は少なかったが、優しい兄だった。

    葬儀では、涙が止まらなかった。

    第四十二話 蜂窩織炎
    右足のすねに傷ができた。
    
やがて、水ぶくれのようなものが現れた。
    週一回、筋トレとマッサージをしてくれる
デイサービスに通っていたが、
そこの看護師に「病院へ行った方がいい」と言われた。
    だが、幼い頃から肌は弱かった。
今回もその延長だろうと、軽く考えていた。
    ところが治らない。
それどころか、両足に広がっていった。

    早く受診すべきだった。
頭では分かっていた。
    だがその頃、うつ症状は悪化していた。
すでに休職しており、外に出る気力がなかった。
    病院に行く。
それだけのことが、できなかった。

    症状はさらに進んだ。
    両足とも、水ぶくれだらけになり
    粘りのある体液がにじみ出ていた。
    入浴時にやさしく洗い、
ワセリンを塗り、吸水シートを巻く。
    それを繰り返すしかなかった。


    うつ症状による休職期間は終わった。
    だが今度は、この病気で復帰できなかった。
    結局、休職は続いた。

    気持ちは、底まで落ちていた。
    何もする気が起きない。
一日中、ただ時間が過ぎていく。
    外に出るのは、心療内科の通院だけ。
それ以外は、ほとんど家にいた。
    この生活から抜け出すことすら、
考えられなかった。

    第四十三話 交際の始まり
    毎日、つまらない日々を送っていた。
    
元々ゲームが好きだったので、スマホでできるオンラインゲームを始めた。
    
収入も少なかったから、課金し過ぎないようにだけ気をつけていた。

    各自が領地を経営しながらチームに所属し、
    対戦を行い、チャットで交流する――そんなゲームだった。

    そのメンバーの中に、ひとりの女性がいた。
    
他のメンバーと同じように、ただチャットで会話をしていただけだった。
    
だが、ある時トラブルに巻き込まれたらしく、
    私は個別に連絡を取り、相談に乗るようになった。

    やり取りが続くうちに、彼女から「直接会いたい」と連絡が来た。
    
正直、驚いた。
    最初は断った。
    
私はいい歳のおじさんで、彼女とは17歳も離れていた。
    
からかわれているだけではないか、とも思った。

    ヤッくんに相談すると、
    
「相手も大人なんだから問題ないだろ」
とあっさり言われた。
    会うだけなら――そう思って、待ち合わせをした。

    場所はカラオケルームだった。
そこで彼女から、告白された。
    信じられなかった。現実とは思えなかった。
    
頭の中では、ダメだ、ダメだ、と繰り返していた。
    それでも――押し切られてしまった。
    どこかで、拒みきれなかった自分もいた。

    第四十四話 彼女
    突然、交際が始まった。
それだけで、私の生活は少し明るくなった。
    前を向けるようになった。

    二人であちこちに出かけた。
回転寿司やファミレス、観光スポット。
    ショッピングセンターに行く時は、
車のトランクから車いすを下ろし、
    長く歩けない私を乗せて、彼女が後ろから押してくれた。
    
とても優しい人だった。

    一泊旅行にも行った。
    
私は大浴場に行けないため、客室に露天風呂がついた部屋で、
    部屋食にできる宿を選んだ。
それでも、十分に楽しかった。

    彼女はお酒が好きで、特にレモンサワーをよく飲んだ。
    
私の家にはケースで常備し、冷蔵庫にはいつも数本冷えていた。
    ある日、彼女は「家に帰りたくない。ここにいたい」と言い、
    そのまま我が家に居着いてしまった。
    
私は嫌ではなかったが、彼女の家族のことが気になって仕方がなかった。
    数日後、家の人が心配しているはずだから、と
    説得して帰したこともあった。

    口喧嘩もした。別れ話も出た。
    
それでも結局、元に戻っていた。
    
どこか危うさを感じながらも、離れることはできなかった。

    第四十五話 束の間の復職
    彼女と付き合い始めてから、
    
自分の気持ちは明らかに前向きに変わっていた。
    私は心療内科の先生に
    
「仕事を再開したい」と申し出た。
    
今がそのタイミングだと思ったからだ。
    
先生は診断書を書いてくれ、私は復職した。

    元の業務にはすでに別の人が就いていたため、
    
企画部署への配属となった。
    
さらにコロナ禍ということもあり、
    
全勤務時間テレワークで対応してもらえることになった。
    
その代わり、基本給は下がった。

    だが、テレワークは想像以上にきつかった。
    
求められる業務量が多く、
    
気づけばサービス残業ばかりしていた。

    三ヶ月もすると、体力は目に見えて落ちていった。
    
蜂窩織炎も悪化し、
    
ついには40度を超える発熱が数日続いた。

    もう限界だった。

    自分で救急車を呼び、入院した。
    
発熱は徐々に下がったが、
    
抗生物質の投与は続き、
    
三週間ほどでようやく退院した。

    そして、再び休職。

    やはり、簡単に戻れる身体ではなかった。
    落ち込む私を、
彼女は変わらず優しく支えてくれた。

    第四十六話 右目がおかしいだけじゃない
    ある日、右目のピントが合っていないことに気づいた。

    最寄りの眼科を受診すると、
    
すぐに総合病院で診てもらうよう言われ、
    
翌々日の予約を入れられた。

    総合病院で告げられた病名は
    
「右目網膜中央静脈閉塞症」だった。

    焦点の中心がズレて見える状態だという。
    
ただ、人間には補正する力があり、
    
両目で見ていると違和感は薄れるらしい。

    「進行するといけない。すぐ治療を始めましょう」
    
医師はそう言った。

    同時に行った血液検査で、
    
今度は腎臓の異常が見つかった。

    そこからが早かった。
    人工透析を前提とした病院を紹介され、
    
そのまま救急車で搬送されることになった。
    総合病院に救急車が来る。
    
自分が乗る側になる。

    その光景の異様さに、
    
頭が追いついていなかった。
    しかも、まだ目の治療は何も始まっていない。

    焦りだけが募っていた。

    搬送先の病院での診断は、
    
腎不全、そして鬱血性心不全。
    
心臓には水が溜まっていた。
    そのまま入院。
    翌日から人工透析が始まった。

    血液の数値は改善せず、
    
慢性腎不全と診断され、
    
透析は継続となった。

    三週間後に退院。
    その足で、今度は目の治療へ向かった。
    
右目に直接注射を打ち、
進行を抑える処置を受けた。

    人工透析は、一生続く。

    右目も、元には戻らない。

    現実をそのまま受け止めたら、
潰れてしまいそうだった。
    だから私は、
あえて考えないようにしていた。
    目を背けることで、
何とかバランスを保っていた。

    ただ、一つだけ救いがあった。
    入院中に、
あれだけ苦しんでいた蜂窩織炎の水ぶくれが
すべて消えていた。
    両足のむくみも完全に引いていた。
    透析によって、
体内の余分な水分が抜けたためだった。
    皮膚を清潔に保つことだけを意識し、
それだけは守り続けた。

    それでも——
    背負うものは、また二つ増えた。
    重いままだ。

    第四十七話 別れ
    彼女は、コロナ禍ということもあり、
    
病院には来させなかった。
    
病院側からも控えるよう求められていた。
    退院後に再会はしたが、
私は通院ばかり、
彼女も仕事があり、

    思うように時間を合わせることができなかった。

    すれ違いが増えていった。

    会話も、ほとんどがSNS越しになっていた。

    原因は、結局のところ自分だったと思う。
    自分の不甲斐なさばかりを考えていた。
    彼女を幸せにできない。
    
楽しませてやれない。
    
どこにも連れて行ってやれない。
    そんなことばかりを、
一人で抱え込んでいた。
    今思えば、
ただの独りよがりで、傲慢な考えだった。

    ほんの些細な行き違いだった。

    たった一言、「ごめん」と言えば済む話だった。
    それでも、私はその一言を口にしなかった。
    しなかった、というより、
できなかったのかもしれない。

    そのまま、終わった。

    あんなに優しい人だったのに。
あんなに素敵な人だったのに。
    残ったのは、
未練と、
自分への悔しさだけだった。

    どうしようもない。
    見事なまでに、間抜けだ。

    第四十八話 貧血
    彼女と別れた翌年の2月頃。
    透析前の血液検査で、貧血の兆候が出ていた。
    透析中に鉄剤を補給し、薬も処方されたが、
数値は一向に改善しなかった。
    むしろ、下がり続けた。
    やがて、危険域に入った。

    透析と同時に輸血を行い、一時的には持ち直す。
    だが、数日もすれば、また危険域に戻る。
    おかしい。
    原因を徹底的に調べることになった。

    血液が失われる原因は限られている。
    
体外へ出ているか、
    
体内で分解されて排出されているか、
    
そもそも作られていないか。

    検査は一通りやった。
    便検査、
大学病院での精密検査、
胃カメラ、大腸カメラ、CT。
    そして、骨髄検査まで。

    ようやく原因がわかった。
    胃の中にできたポリープから出血していた。
    大学病院でカテーテルによる切除を二度行い、
    
出血源となっていたポリープを取り除いた。
    さらに小腸のポリープも切除し、一週間入院した。
    原因の一つとして、
腰痛の痛み止めの影響が考えられると言われた。

    併用していた胃薬も見直された。
    その結果、ようやく貧血は改善した。

    今年も暮れようとしていた。
    これで終わりか、と思った。
    だが、終わらなかった。

    今度は、肝硬変。
    血液検査とエコーで見つかった。
    まだ深刻な段階ではないが、
十分に注意が必要だと、強く釘を刺された。

    一つ片付いたと思ったら、また一つ増える。
    正直に言う。
    もう、重い。
    背負いきれないほどに。

    第四十九話 それでも、生きる
    88歳になる母は、
特別養護老人ホームで生活している。
    脳梗塞を二度患い、
右半身に麻痺が残った。
    
言語障害もあり、
言葉を話すことはできない。
    ただ、こちらの話は理解している。

    乳がんも患い、
乳房を切除した。

    年金だけでは施設費用を賄えないため、
不足分は私が補填している。

    施設は遠方にある。
私自身の体調もあるため、
面会は時々しか行けない。

    私の脳にも、
すでに脳梗塞の跡が残っている。
    場所は、
記憶中枢に近い部分らしい。
    睡眠時無呼吸症候群の治療も続いている。

    兄が亡くなってからは、
自分が生きていること自体が、
母の生活に直結するようになった。
    だから、
終活も済ませた。
    遺言書も公証役場へ提出してある。

    もう、
これ以上は何も背負いたくない。

    身体は思うように動かない。
    病気も減らない。
    治りもしない。

    それでも。
    朝は来る。

    そして私は、
また一日を始めている。

    特別なことは何もない。

    ただ、生きている。
    それだけだ。
    それでも、生きている。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    幼少期の記憶していたところから、現在に至るまで、ただ書いて残してみようと思い立ちました。 自分自身で振り返ると、様々なことが起きていましたが、さながら「ジェットコースターのように」生活していたと思います。 ぜひ一度ご覧くださいませ。

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