
きみだけが呼んだ
夢も、恋も、
自分から手放してきた男。
「恋愛は無駄」
そう言い切っていたはずだった。
ある日、昔使っていた携帯電話を見つける。
何気なくかけた一本の電話。
それをきっかけに、
日常が少しずつズレ始める。
人に忘れられていく自分。
消えていく存在。
重なっていく違和感。
それでも――
止まらなかった。
あの時、信じていれば。
あの時、ちゃんと向き合っていれば。
そして――
最後に名前を呼んでくれたのは、
もう二度と届かないはずの声だった。
これは、
取り戻せなかったはずの時間に、
もう一度手を伸ばした男の物語。
きみだけが呼んだ
雪が静かに降っていた。
照明の熱が、じわっと残る。
張りつめた空気が、肌に刺さる。
「緊張してんのか?」
中澤が、少しだけ口元をゆるめる。
「いや」
軽く息を吐く。
「やっとここまで来たな」
「ああ」
「一人残らず、笑わせようぜ」
「当たり前だ」
「いこー」
――さあ次は、今もっとも勢いのあるこの二人。
今日も笑いの奇跡を起こせるか。
何が起きるかわからない。
笑いの魔術師
パルプンテ――
幕が開く。
光が、まぶしい。
客席は満席だった。
歓声が押し寄せる。
その中で――
最前列の席に一人だけ静かに笑っている女性がいた。
はっきりとは見えなかったが、
目元に光がにじんでいた。
首には色あせた赤いマフラー。
なぜか、そこだけ時間がゆっくり流れていた。
――その時間を、乱すように。
「ゆうー!いつまで寝てるの!!」
「遅刻するよ!」
「わかってるって!」
寝ぼけたまま返事をして慌てて布団から飛び起きた。
階段を駆け下りる音が家中に響いた。
顔もろくに洗わず、パンをくわえる。
「あんた、夜遅くまで何してるの」
「電話ー」
「最近ずっとじゃない。誰とそんなに話してるの」
「別に、友達だよ」
「ほどほどにしときなよ。もうすぐ卒業だからってこの子は」
「わかってるって」
適当に返事をしながら、パンをかじりながら家を出る。
朝の空気は少し冷たくて、
寝不足の頭にはちょうどよかった。
教室に入ると、いつもの連中が騒いでいる。
「おはよう。やっと来たな。最近ギリギリじゃん」
早々にたつやが話しかけてくる。
「朝起きれなくてさ。まあ間に合えばいいんだよ」
席に座ると、すぐ中澤が話しかけてきた。
「おい、ゆー。昨日のお笑い番組見た?」
「見てねー。電話してた」
「マジかよ!メタボリックってコンビ、めちゃくちゃ面白かったぞ。あれは売れる」
中澤が後ろから身を乗り出す。
「そのコンビ知ってる。昨日、見逃したんだよな」
軽く笑いながら返す。
キーンコーンカーンコーン
チャイムが鳴り、先生が教室に入ってきた。
ざわついていた教室が、少しずつ静かになる。
授業中、中澤が昨日のお笑い番組の動画を送ってきた。
(メタボリックか。後で見とくか。)
そのことが頭の片隅に残ったまま。
いつの間にか、放課後になっていた。
教室が一気にざわつく。
「じゃーな」
「また明日ー」
それぞれが帰っていく中、
俺と中澤だけは席を立たなかった。
「よし!やるか」
中澤が口元だけで笑う。
「おう」
立ち上がる。
教室の前に出る。
黒板の前。
客席は空っぽ。
――のはずだった。
「はじまりましたー」
中澤が軽く手を叩く。
「パルプンテでーす」
自然と体が動く。
ボケる。
ツッコむ。
誰もいないはずの教室に声だけが響く。
「いやそれおかしいだろ!」
「なんでだよ!」
タイミング。
間。
テンポ。
全部、体に染み込ませるように繰り返す。
「……」
一通りやり終える。
少しだけ息が上がる。
「今のどう?」
振り返る。
教室の後ろ。
「んー、さっきの方がよかったかな」
たつやが腕を組んでいる。
その隣で。
さきが、くすくす笑っていた。
「え、どこ?」
中澤が聞き返す。
「ボケがちょっと長い」
「そこ、もっと早くした方がいい」
たつやが真面目な顔で言う。
「厳しいな」
中澤が苦笑いする。
「だってつまんなかったし」
さきがさらっと言う。
「は!?」
思わず声が出る。
「いや、全部じゃないよ?」
慌ててフォローする。
「途中までは面白かった」
「途中まではってなんだよ!」
笑いが起きる。
その笑いにつられて、
こっちも笑っていた。
窓の外は、少しずつ暗くなっていく。
教室の中には俺たち四人だけ。
「なあ」
中澤がぽつりと言う。
「いつかさ」
黒板に背中を預ける。
「満席の客の前でやろうぜ」
「当たり前だろ」
すぐに返す。
「一人残らず、笑わせる」
さきが目を細める。
「じゃあ私もその中にいるね」
「当たり前だろ」
「最前列で笑わせてやるよ」
そう言うと、
さきは小さく笑った。
「約束ね」
その一言が、
なぜかやけに印象に残った。
教室を出て、そのまま四人で校門を抜ける。
くだらない話で笑いながら、
いつものように四人で帰っていた。
「でさ」
たつやが前を向いたまま口を開く。
「お前らこの先、お笑いの道行くのか?」
「急だな」
中澤が笑う。
「いや、もうすぐ卒業だろ」
「たしかに」
さきが小さくうなずく。
一拍おいて、
俺と中澤は顔を見合わせた。
「俺たちは決まってるよな」
「ああ」
軽くうなずく。
「お笑いで天下取ってやる」
中澤がニヤッと笑う。
「売れたら、たつやん家の酒屋、宣伝してやるよ」
「継ぐんだろ?」
「まあな。親も歳だしな」
たつやは軽く笑った。
「じゃあさ」
中澤が続ける。
「そのとき俺らのスポンサーな」
「うるせーよ」
たつやが笑う。
その流れで、自然と視線がさきに向く。
「さきは?」
「え?」
少しだけ驚いた顔。
「将来どうすんの?」
少し考えるように空を見る。
「……保育士かな」
ぽつりと答える。
「子ども好きだし」
照れたように笑う。
「いいじゃん」
中澤が言う。
「絶対向いてるよ」
「ほんと?」
「うん。なんか優しそうだし」
「それ褒めてる?」
「褒めてるって」
さきがくすっと笑う。
「じゃあさ」
たつやが口を挟む。
「お前のとこ通わせるわ」
「やだよ」
即答だった。
「なんでだよ!」
「絶対うるさいじゃん」
笑いが起きる。
その中で、
さきも楽しそうに笑っていた。
夕焼けが、少しずつ沈んでいく。
4人の影が、長く伸びる。
「成功したらさ」
少しだけ間を置く。
「全員で集まって飲もうぜ」
「いいな、それ」
たつやが笑う。
「じゃあ俺、酒持ってくわ」
「俺らは笑いで返す」
「意味わかんねーよ」
また笑いが起きる。
あの頃は――
それが当たり前に叶う未来だと思っていた。
三十歳になった今でも、
あの時のことを覚えている。
「たつやー。この酒、どこに配達するの?」
店の奥から声をかける。
「ああ、それは駅前の居酒屋。いつものとこな」
「了解」
ケースを持ち上げながら、ふと店内のテレビに目をやる。
明るい音楽と笑い声。
『さあ〜やってまいりました!司会は我らがメタボリックでお送りします!』
画面の中で二人が笑っていた。
見慣れた顔。
けど、あの頃よりも遠くなった顔。
「……こいつら、やっぱ売れたな」
小さくつぶやく。
テレビを見たまま、軽く顎で示す。
たつやがレジの奥から顔を出した。
「売れたな。このコンビ」
「ああ」
それ以上、言葉は続かなかった。
しばらくして、たつやが口を開く。
「そういや、お前明日休みだろ。何してんの?」
「部屋の掃除でもするかな」
「はー……」
呆れたようにため息をつく。
「ゆう。お前さ、もういい歳なんだから女でも作れよ」
「女はいらない。時間の無駄だろ」
即答だった。
「なんでだよ」
たつやは苦笑いを浮かべる。
「昔はあんなに女、お笑い、女、お笑いだったのに」
「いつの話してんだよ」
そう言いながら、もう一度テレビを見る。
画面の中では笑いが起きていた。
お笑い芸人をあきらめた俺にとってテレビに映る二人は輝いて見えた。
その光景が、なぜか頭から離れなかった。
――翌日。
久しぶりに部屋の掃除をすることにした。
散らかったままの部屋は、どこから手をつけていいのか分からないくらいだった。
適当に箱を開けて、いらないものを分けていく。
昔の雑誌。
台本のメモ。
使い古したノート。
どれもこれも、途中で止まったままだった。
その中に――
見覚えのある小さな箱があった。
なんとなく手に取った。
開けると、昔使っていた携帯電話が入っていた。
「おー。懐かしいな、この携帯」
電源は入らないと思っていたのに、ボタンを押すと、あっさりと画面がついた。
「……まだ使えんのかよ」
苦笑いしながら電話帳を開く。
並んでいる名前は、どれもこれも懐かしかった。
メールも途中で止まったまま。
まるで時間だけが、そこに残っているみたいだった。
「この番号、まだ生きてんのかな」
なんとなく。
いや、本当に、なんとなく。
当時使っていた、その番号に電話をかけてみた。
耳に当てる。
呼び出し音。
――プルルルル。
「……やべ」
思わず苦笑いが漏れる。
「誰かに使われてんじゃん」
慌てて切ろうとした、そのとき。
――プツッ。
「もしもし?」
男の声だった。若そうな声。
「……あ、えっと」
一瞬、言葉に詰まる。
「誰?」
少し警戒したような声。
「いや、誰ってわけじゃないんだけど……」
「は?」
空気が一瞬だけ重くなる。
「昔、この番号使ってたからさ。なんとなく、かけてみただけ」
少しだけ間があって。
「え、なにそれ」
声のトーンが変わる。
「やばくね?それ。おもろすぎ」
笑っている。
そこから空気が変わった。
「で、おじさんいくつなの?」
「三十歳」
「マジかよ。ほんとにおじさんじゃん。俺、今、高三」
初めて話したはずなのに、不思議とそんな気がしなかった。
どこか懐かしい。
昔から知っているような感覚があった。
気づけば、自然と会話が続いていた。
その日から、
この少年と電話で話すことが日課になっていた。
「おじさん、お笑い好き?」
少し考えてから答える。
「好きだよ。メタボリックか好きかな」
「あー、知ってる。絶対売れるよ」
電話の向こうで楽しそうに笑う声。
「売れる?」
思わず聞き返す。
「もう十分売れてるだろ」
一瞬だけ、沈黙。
それから。
「あはは」
軽く笑う声。
「おじさん、やっぱ面白いね」
「何がだよ」
「芸人目指したほうがいいよ」
「なんでだよ」
冗談っぽく返す。
そんな他愛もない話が、毎日のように夜遅くまで続いた。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
その日も変わらない一日だった。
ある日の仕事終わり。
「飲み行くか」
たつやに誘われて、いつもの居酒屋に入った。
いつもの席。
いつものビール。
いつもと変わらない、飲みの時間だった。
「はぁ……」
一口飲んで、息をつく。
「おっさんみたいなため息だな」
たつやがツッコミ、そのまま続ける。
「中澤とは最近連絡取ってんの?」
わずかな沈黙。
「……いや、全然」
テレビではバラエティが流れている。
笑い声だけが、やけに響いた。
「売れたもんな……あいつ」
「そうだな」
それ以上、会話は続かなかった。
たつやが、もう一口飲んでから言う。
「お前さ、結婚とか考えたことあんの?」
「ない」
即答だった。
たつやは苦笑いする。
「でもさ、いい子いたじゃん。大昔だけど」
グラスを持つ手が、少しだけ止まる。
「……誰だよ」
言葉とは裏腹に、忘れたはずの顔が浮かんだ。
「さきちゃん」
その名前が出た瞬間、時間が巻き戻る。
「……あー。いたな」
適当にうなずいた。
「さきちゃん、いい子だったのになんで別れたんだよ」
「覚えてねーよ。いつの話してんだよ」
嘘だった。
忘れるわけがない。
ただ――
思い出したくなかっただけだ。
そこで居酒屋のドアが開いた。
「よー!!」
聞き慣れた声。
思わず顔を上げる。
「……中澤」
テレビの中じゃない。
目の前にいる。
「なんだよその顔」
笑いながら席に座る。
「久しぶりだな」
「あ、ああ。急だったからビックリしたよ」
「ちょうどよかったわ」
横からたつやがニヤつく。
「今こいつの元カノの話してた」
空気が止まる。
「元カノ?……さきちゃん?」
「そう」
中澤はグラスを手に取り、視線を落とす。
「なんで別れたの?」
今度は中澤が静かに聞いた。
「だから覚えてないって」
中澤が、ゆっくりこっちを見る。
「おまえ……マジで言ってる?」
「え?」
「おまえのために、あそこまでやってたのに」
グラスを置く音が、やけに響いた。
「さきちゃんのことだけは、忘れるなよ」
俺は口を開きかけて閉じた。
それから、ゆっくりと言った。
「ああ。覚えてるよ」
「仕事が忙しくなって、会えなくなったのも」
「他の男と浮気してたのも」
「全部、覚えてるよ」
中澤が言葉を失う。
「……お前、本気で言ってんのか?」
「ああ」
「……あの子が、そんなことするわけないだろ」
「なんで言いきれるんだよ」
中澤が、まっすぐ見る。
「目で見えてるもんだけが、全部じゃねーよ」
「なんだよそれ」
少しだけ間を置く。
「今のおまえには何言っても届かない」
静かに言う。
「だから――」
ほんの少しだけ目を細める。
「戻ってこい」
「昔のおまえに」
――言葉が、しばらく残った。
誰も、すぐには何も言わなかった。
グラスの中の氷が、かすかに音を立てる。
その空気を、たつやが崩した。
「……でさ、最近どうなの?」
そんな一言から始まって、
気づけば、あの頃と同じ空気になっていた。
お笑いの話。映画の話。
どうでもいい話ばかりなのに、
なぜかずっと笑っていられた。
久々に、涙が出るほど笑った。
――楽しかった。
それは、間違いない。
でも。
「戻ってこい」
「昔のおまえに」
中澤の言葉は消えなかった。
居酒屋を出て、そのまま家に帰った。
部屋に入って、すぐに携帯を手に取る。。
発信。
呼び出し音。
――プルルルル。
すぐに繋がる。
「遅いよ、おじさん!」
明るい声。
「ごめん、ごめん」
声が少しかすれる。
「さっき電話したら繋がらなかったよ」
「え?」
一瞬、言葉が止まる。
「おじさんの番号、どうなってんの?」
「……あー、仕事中だったからな」
適当にごまかす。
「そんなことよりさ」
少年の声が弾む。
「彼女できたんだ」
「おー!!マジか!やったじゃん」
思わず声が出た。
「だろ」
電話の向こうで照れたように笑う声。
「どんな子?」
「めっちゃ明るい」
楽しそうに話し始める。
「よく笑うし、話してて楽しいんだよ」
「いいじゃん」
自然と言葉が出る。
「大事にしろよ」
「うん」
一度、言葉を止めて。
「でも、恋愛も大事だけど、お笑いサボりすぎるなよ」
「わかってるって!」
軽く笑いながら返ってくる。
「ちゃんと両立させるよ」
その自信に満ち溢れた言葉に、
ほんの少し――不安を感じた。
――あの頃の自分も、同じことを言っていた。
駅前のベンチ。
卒業してから、少し経った頃だった。
「なんか変な感じだな」
俺が言うと、
さきが笑う。
「なにが?」
「毎日会ってたのにさ」
少しだけ肩をすくめる。
「急に“約束して会う”って」
「あー、わかる」
さきがうなずく。
「なんかちゃんとしてる感じするよね」
「ちゃんとしてるってなんだよ」
「大人ってこと」
「まだ高校卒業したばっかだろ」
「でもさ」
さきが少しだけ真面目な顔になる。
「これから先、変わってくじゃん」
「仕事とか。環境とか」
「……」
何も言わなかった。
風が少しだけ吹く。
「……寒っ」
さきが肩をすくめて、両手をこすった。
「そんな格好で大丈夫か?」
「うーん……ちょっと寒いかも」
少しだけ間があって、
すぐに笑う。
「でも大丈夫」
さきはそう言いながら、少しだけ体を丸める。
その仕草が、やけに印象に残った。
「だから」
さきが続ける。
「ちゃんとしたいなって思った」
「……なにを?」
さきは、こっちを見る。
「関係」
「……」
言葉が出なかった。
「ねえ。ゆうはどう思ってる?」
少し考える。
でも――
考えるまでもなかった。
「……一緒だよ」
それだけ答える。
さきが、少しだけ笑う。
「そっか」
沈黙。
でも、嫌な沈黙じゃなかった。
「じゃあさ」
さきが続ける。
「ちゃんと、言ってよ」
「……なにを」
「好きってこと」
「……」
思わず笑う。
「いまさら?」
「いまさら」
さきも笑う。
「ちゃんとしときたいの」
「……」
少しだけ、息を吐く。
「……やだ」
「言わなくてもわかるだろ」
照れくさそうに口を開く。
「もう!」
「しょうがないな」
さきが小さく頬をふくらませて言う。
言葉にできないまま、始まった交際だった。
それだけだった。
それだけなのに。
あのときの空気は、
今でもはっきり覚えている。
冷たい風も、
少しだけ近くなった距離も。
それ以降、恋愛の相談を受けることが多くなった。
まるで、昔の自分を見ているみたいだった。
――いや、どこかで知っている感覚だった。
その感覚だけが、なぜか頭に残っていた。
仕事終わり。
「今日、飯食ってけよ」
たつやにそう言われて、そのまま家に上がった。
食卓には温かい料理が並んでいた。
「いただきます」
たつやとたつやの奥さんと俺。
珍しくない光景で、よくある時間。
テレビではバラエティ番組が流れている。
画面の中で中澤が笑いを取っていた。
見慣れた動き。
聞き慣れた会話のテンポ。
でも――
もう同じ場所にはいない。
「ゆうくんと中澤くんのコンビ名なんだったっけ?」
たつやの奥さんが、ふと聞いた。
一瞬だけ間があく。
「パルプンテだよ」
俺より先に、たつやが答えた。
「どういう意味?」
箸を動かしながら奥さんが続ける。
「何が起こるかわからない、だよな?」
たつやが、こっちを見ずに言う。
「……おう」
短くうなずいた。
テレビの中の笑い声が、やけに響いていた。
「ごちそうさま」
外に出ると、やけに静かだった。
家に帰って、ソファに横になる。
テレビもつけずに、ただぼーっと天井を見ていた。
「……パルプンテか」
小さくつぶやく。
その名前を口にした瞬間――
記憶が引き戻された。
「なんでやめんだよ!」
中澤の声が響く。
「あと少しじゃねーか!!」
息が荒い。
本気で怒っているのが伝わってくる。
「……もういいんだよ」
静かに言う。
「よくねーだろ!」
「いや、もうやめよう」
言葉だけは、やけに冷静だった。
中澤が、ぐっと言葉を詰まらせる。
「……お前さ」
迷うように口を開く。
「さきちゃんと別れてから、おかしくなってんだよ」
図星だった。
「少し休もう」
「また戻ればいい」
「あきらめるなんておまえらしくないよ」
一つ一つ、優しい言葉だった。
正しい言葉だった。
でも――
全部、届かなかった。
「……もういいんだよ」
同じ言葉を繰り返す。
「お笑いも」
少しだけ間。
「女も」
もう一度、間。
「全部、無駄だ」
中澤が何か言いかけて止めた。
そのまま何も言わなかった。
あの瞬間。
俺の夢は終わった。
休日。
一人で新宿にいた。
「家で誰だかよくわからんやつと電話ばっかしてないで、たまには出掛けろ」
たつやにそう言われて外に出た。
用事もなく、新宿の街をふらふら歩く。
気づけば、お笑いの劇場の前で足が止まっていた。
懐かしかった。
ステージの上で漫才をする中澤と、俺。
客席はガラガラ。
でも――必ず一人はいた。
さきだ。
いつも同じ場所で笑っていた。
最初は一人だった客席が、いつの間にか少しずつ埋まっていった。
あの頃は本気で信じてた。
あいつのことも。
自分のことも。
そんなことを考えながら近くの喫茶店に入る。
「クリームソーダ、ひとつ」
注文を終えると少し離れたところから声が聞こえた。
「また甘いもの飲んで!病気になるよ」
カップルの会話。
その一言に、ふと引っかかる。
「……昔、誰かに言われたな」
小さくつぶやく。
クリームソーダを飲みながら昔を思い出していた。
店を出て、気づけば駅前に戻っていた。
何を見ていたのかも覚えていない。
ただ――
駅前に立っていた。
「……ここだったな」
ぽつりと、つぶやく。
あの日。
ここで……。
仕事だと言っていたはずの時間。
偶然見かけた、さきの姿。
隣にいた、知らない男。
笑っていた。
楽しそうに。
「……」
胸の奥に、鈍いものが残る。
「……浮気……か」
誰に言うでもなく、つぶやく。
確信なんてなかった。
でも――
そう思うには十分すぎた。
新宿で思い出した記憶が、
いつまでも頭から離れなかった。
気づけば、夜になっていた。
電話をかけると少し遅れて繋がった。
「……もしもし」
声のトーンが、いつもと違った。
「どうした?元気ないな」
一瞬、言葉に詰まる。
「いや、最近さ。会う時間、減ってきててさ」
力なく続ける。
「バイト忙しいみたいで」
「……」
言葉を選ぶ。
でも、うまく出てこない。
「なんかさ」
少年が続ける。
「俺、なんかしたかなって」
少しだけ笑う。
でもその笑いは、どこか無理しているように聞こえた。
「そんなことないだろ。考えすぎだよ」
軽く返す。
「そうかな」
「そうだよ」
短く言い切る。
少しだけ沈黙し、俺は口を開いた。
「それに――
見えてるもんだけで、決めんなよ」
「……え?」
戸惑った声が返ってくる。
「……きっと」
ゆっくりと口を開く。
「見えてないとこに理由があるんじゃないかな」
「……理由?」
「バイトしてる理由とかさ」
「お前の知らないとこで、何かあるかもしれねーじゃん」
沈黙。
「……そんなの、わかんねーよ」
「わかんねーからだよ」
言葉が自然に続く。
「わかんねーなら、信じるしかないだろ」
「……」
電話の向こうで、息を飲む気配がした。
なぜ自分がこんなことを言ったのか、わからなかった。
――ただ。
その言葉が、なぜか自分に向けられている気がした。
その違和感を抱えたまま――
夜が明けた。
いつものように酒の配達に出る。
特に変わらない道。
特に変わらない景色。
何も変わっていないはずだった。
「こんちはー」
いつもの店の裏口から声をかける。
「あいよー」
中から、おじさんの声。
顔を出したのは、いつも通りのおじさんだった。
「今日も暑いっすね」
軽く声をかける。
「そうだなー」
おじさんは笑いながら、
伝票を受け取る。
「ここでサインお願いします」
ペンを渡す。
おじさんは少しだけ手を止めた。
「……あれ?」
少しだけ首をかしげる。
「兄ちゃん、どこかで会ったっけ?」
「……え?」
一瞬、言葉が止まる。
「ほら、よく来てるだろ?忘れちゃったかな?」
軽く笑いながら言う。
「そうだっけか?」
おじさんは苦笑いする。
「最近、物忘れひどくてな」
「もう、やだなおじさん」
軽く流す。
伝票にサインを書いてもらい商品を渡す。
「ありがとな」
「はーい。また頼みます」
店を出て歩き出す。
「……」
だが、足を止める。
もう一度、店を見た。
「……まぁ、歳だしな」
自分にそう言い聞かせたが、何かが引っかかったまま配達を終えた。
「おつかれさん」
たつやがカウンターの奥から声をかけてきた。
「おう。おつかれ」
軽く手を上げて返す。
ケースを下ろして、そのまま椅子に腰をかけた。
「どうした?ずいぶん疲れてるな」
たつやが不思議そうに見る。
俺は頭を掻きながら答えた。
「今日さ。配達先のおっちゃんに、“どこかで会ったっけ?”って言われた」
たつやの手が一瞬止まる。
「は?いつも行ってるとこだぞ」
鼻で笑った。
「そうなんだよ。なんか引っかかってさ」
「なんだよそれ。ボケてんだろ」
冗談っぽく、たつやが返す。
「……やっぱそうだよな」
そう言い聞かせるように息を吐いた。
「年寄りなんてそんなもんだって。気にしすぎだよ」
いつもならそれで、済むはずだった。
でも。
「……」
何かを見落としたまま、進んでいる気がした。
空は夜の色に変わり、
気づけば、いつものように電話をかけていた。
「前にさ、おじさんに言われたじゃん」
「ん?」
「もっと信じろってやつ」
少し照れたように笑う気配。
「……あれ、ちょっと考えてさ」
「彼女のこと、もう少し信じてみようかなって」
「……そっか。いいじゃん」
思わず、声がやわらぐ。
「それでさ」
少し弾んだ声になる。
「もうすぐ彼女の誕生日なんだよ」
「おお」
「プレゼント、あげようと思ってて」
「いいじゃん。何あげるの?」
「なんとなくは決まってるんだけどさ」
「おじさんなら、何あげる?」
「プレゼントか……」
少し考える。
「……せーので言うか?」
「いいね、それ」
「じゃあ、いくぞ」
『せーの』
ほんの一瞬。
『マフラー』
声が重なった。
「……え?」
思わず漏れる。
「なんで?」
「いや、なんでって」
電話の向こうから笑い声が聞こえる。
「冬だし。普通じゃね?」
「……ああ」
短く返す。
「色とか決めてんの?」
確認するように聞く。
「うん。赤かなって」
「……赤?」
一瞬、言葉が止まる。
「似合うんだよ、あいつ」
楽しそうに続ける声。
「……そうか」
それ以上、言葉が出てこなかった。
「おじさんは?」
「ん?」
「もしあげるなら、何色にする?」
少しだけ考える。
――考えるまでもなかった。
「……赤、だな」
「やっぱり?」
嬉しそうに笑う。
「なんかさ、いいよな。赤って」
「……ああ」
うなずく。
でも。
その“いい”の意味を、うまく言葉にできなかった。
――赤。
その言葉だけが、頭に残る。
冬の空気。
白い息。
ふと、思い出す。
ライブ終わり。
外に出ると、さきが両手をこすりながら立っていた。
「おつかれ」
振り向いた顔は、いつもの笑顔だった。
少しだけ迷ってから紙袋を差し出す。
「なにこれ?」
「いいから」
さきは不思議そうな顔をしながら、
袋を開けた。
中に入っていたのは赤いマフラーだった。
「……え?」
手が止まる。
「お金ないのに……ありがとう」
少しだけ困ったように笑う。
「お金ないから安物のマフラーなんだよ」
ぶっきらぼうに言う。
「ボロボロになったら、すぐ捨てろよ」
さきは少しだけうつむいて、
「うん。捨てる」
そう答えた。
「……え?」
思わず聞き返す。
「捨てる」
同じようにもう一度。
「……あはは」
思わず笑ってしまう。
「やっぱ、おもろいな」
さきもつられて笑う。
赤いマフラーをぎゅっと握りながら。
二人の笑い声だけが、冬の空気に溶けていった。
母親に渡したい物があると言われ、久々に実家に向かっていた。
最寄りの駅を出て見慣れた道を歩く。
昔と変わらない景色。
少しだけ懐かしくて、
少しだけ遠く感じた。
「あ」
前から近所のおばさんが歩いてくる。
昔からよく知っている顔。
「小林さん。久しぶり」
軽く頭を下げる。
おばさんは足を止めた。
「……」
少しだけ、こちらを見る。
「……どちら様?」
「……え?」
一瞬、意味が分からなかった。
「ごめんなさいね。ちょっと思い出せなくて」
おばさんは困ったように笑顔をつくる。
「いや、俺――」
言葉が続かない。
「……失礼しますね」
軽く頭を下げて、そのまま通り過ぎていく。
「……」
その場に立ち尽くす。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえた。
「……なんだよ、それ」
思わず心の声が漏れた。
足早に実家へ向かった。
鍵を開ける一瞬、手が止まった。
玄関の扉を開ける。
「ただいま」
母が顔を出す。
「おかえり」
久々の母の顔。
相変わらず元気そうだ。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「食ってるよ」
「顔、疲れてるわよ」
「仕事だからな」
変わらない会話。
それが妙に安心できた。
「なあ。さっき、小林のおばさんに会ったんだけど」
「元気だった?」
少しだけ間を置く。
「いや、俺のこと、誰って」
母は、すぐに笑った。
「やだ、しばらく会ってなかったから忘れられたのよ」
何事もなかったかのように、会話が続く。
テレビの音。
食器の音。
全部、昔のまま。
「んで、渡したいものって何?」
「そんなものないわよ」
「は?」
母は肩をすくめる。
「そうやって言わないと、あんた全然顔出さないでしょ」
「なんだよそれ」
呆れながらも、少しだけ笑う。
「実家も、たまにはいいでしょ」
「……まあな」
それ以上は何も言わなかった。
階段を上がり、自分の部屋へ入る。
ドアを開けた瞬間、少しだけ息が止まる。
何も変わっていない。
机も、本棚も、置きっぱなしのままの小物も。
時間だけが、そこに取り残されているみたいだった。
「……懐かしいな」
ベッドに腰を下ろし、そのまま横になる。
天井を見上げる。
少しだけ目を閉じる。
――落ち着かない。
なんとなく体を起こす。
そのままベランダに出た。
外の空気が少し冷たい。
見慣れた景色。
変わらないはずの景色。
その中で――
ポストだけが、やけに目に入った。
「……」
あの日、
ポストの前で――
さきと。
ポストの前。
さきが息を切らしながら、こっちを見る。
「なんで別れるの」
声が震えていた。
目には、もう涙が浮かんでいる。
「……もういいだろ」
視線を逸らす。
「よくないよ」
すぐに返ってくる。
「ちゃんと話して」
「……話すことなんてない」
短く言い切る。
「あるよ」
一歩、近づいてくる。
「あるでしょ」
「……」
言葉が出てこない。
「なんで?」
絞り出すような声。
「……もう信じられないんだよ」
ようやく口にする。
さきの表情が、わずかに揺れる。
「見たんだ」
「駅前で」
「知らない男と一緒にいるとこ」
沈黙。
さきは、しばらく何も言わなかった。
ただ、まっすぐこちらを見ている。
そして、沈黙を壊すように、さきが口を開いた。
「……それだけ?」
「は?」
「それだけで、決めたの?」
言葉に詰まる。
「だって、お前――」
続かない。
何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。
「……違うよ」
小さく首を振る。
涙が、こぼれる。
「浮気なんてしてない」
「……は?」
「ちゃんと理由があって……」
言いかけて止まる。
唇を噛む。
「……今は言えないけど」
「は?」
思わず声が荒くなる。
「言えないってなんだよ」
「言えない理由があるの」
震える声。
「でも、信じてほしい」
「……」
「ちゃんと話せるときが来たら――」
「もういい」
遮る。
それ以上、聞きたくなかった。
「浮気されてまで一緒にいたくないんだよ」
「……」
さきは、何も言わなかった。
ただ、涙をこぼしていた。
「……もういいだろ」
背を向ける。
「終わりにしよう」
返事はなかった。
振り返らなかった。
ただ――
ポストの前に立ち尽くす気配だけが、
背中に残った。
気づけば、時間も忘れてベランダに立っていた。
視線は、まだあのポストに向いたままだった。
何も変わっていないはずの景色が、少しだけ違って見えた。
家に着く頃には、外はすっかり暗くなっていた。
吐く息が、うっすら白くなり始めていた。
靴を脱いで、そのまま部屋に入る。
ソファーに腰を下ろす。
「……今日はいいか」
なんだか妙に疲れていた。
電話をかける気にもなれない。
そのまま、ぼんやりと天井を見上げる。
――でも。
落ち着かない。
ポケットの中の携帯に、何度も意識が向く。
「……なんだよ」
自分に言い聞かせるように呟く。
視線を逸らす。
それでも。
気づけば、携帯を手に取っていた。
――そして。
発信していた。
呼び出し音。
すぐに繋がる。
「もしもし?」
いつもの声。
なぜだか、少しだけ――遠く感じた。
「……調子はどう?」
「何が?」
「彼女だよ」
少しだけ間があって、
「あー」
軽く笑う声。
「相変わらずだよ」
「会う時間、少ないし」
「でもさ」
続ける。
「ライブ終わりとかに、近くの喫茶店で会ったりしてる」
「そっか。仲良さそうじゃん」
「まあね」
少しだけ照れた声。
「毎回さ」
「ん?」
「甘いもの飲んでって言われるけど」
――その瞬間。
心臓が、強く鳴った。
「……」
言葉が出ない。
頭の中で、
何かが繋がりかけていた。
「……おじさん?」
呼びかけられる。
「……なあ」
ゆっくりと口を開く。
「名前、ゆうだよな?」
電話の向こうで小さく笑う声。
「どうしたの。いきなり」
軽い口調。
でも、その声が――やけに近い。
「そうだよ。ゆうだよ。みんなはそう呼ぶよ」
みんな?
一瞬、呼吸が止まる。
「あ、でも、彼女だけはさ」
楽しそうに続ける。
「ちゃんと名前で呼ぶんだよ」
――ゆうたろうって。
その一言で。
何かが繋がった。
「……」
言葉が出ない。
何かを言おうとして、
――プツッ。
気づけば、電話を切っていた。
電話を切ったあとも、しばらくそのまま動けなかった。
部屋の中は静まり返っている。
さっきまで聞こえていた声だけが、まだ耳に残っていた。
「……ゆうたろう」
その名前が、やけに重く感じた。
「……ゆう」
呼ばれていた名前。
昔の呼び方。
――いや。
今でも、みんなはそう呼ぶ。
でも。
あいつだけは。
「……ゆうたろう」
呼吸が少しだけ乱れる。
頭の中で、これまでの会話が一気に流れ出す。
違和感。
ズレ。
言葉。
「お笑い」
「甘いもの」
「彼女」
「電話が繋がらないよ」
――全部。
「……」
点だったはずのものが、少しずつ繋がっていく。
「……嘘だろ」
思わず声が漏れる。
あの声。あの話し方。あの考え方。
心臓が大きく鳴る。
同時に別の違和感が浮かぶ。
「……そういえば」
今日のことを思い出す。
実家の近所の小林さん。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
「……忘れてた」
いや。
「記憶が無くなってた」
言い直す。
「……なんで?」
頭の中で、もう一つの線が繋がる。
過去。
電話。
さっきの会話。
「……まさか」
その言葉が自然と浮かんだ。
「……変わってる?」
未来が。
少しずつ。
確実に。
「……」
言葉にした瞬間、背筋が冷たくなる。
「……まさか」
全てが繋がった気がした。
「……俺が」
少しだけ詰まる。
「……消えてる?」
その言葉が、やけに現実味を帯びていた。
それから俺は――
電話を止めた。
このまま関わらなければ自分は消えない。
そう思った。
いや――
そう思い込もうとした。
それで、終わるはずだった。
配達中。
携帯が鳴る。画面を見る。
「……中澤」
――中澤と話すのは居酒屋以来だった。
あの日の会話が、まだどこかに残っていた。
少しだけ迷ってから出る。
「もしもし」
「おう」
いつも通りの声。
「オーディションあるんだけど、出ねーか?」
「……」
一瞬、言葉に詰まる。
「もういいだろ。そろそろ戻ってこいよ」
「……」
「もう一回やろうぜ」
「……無理だって」
吐き捨てるように言う。
「お前さ。ほんとに今のままでいいのか?」
その一言で胸の奥がざわつく。
「……」
「……もういいんだよ」
一瞬、沈黙。
「そおか。まぁ考えといてよ」
「なんかあったら連絡してこいよ」
人の良さがわかるような、優しい口調だった。
「お笑い……か」
正直半々だった。
今さら俺なんてって気持ちと、
またあのステージに立ちたいって気持ち。
携帯を握る手に、少しだけ力が入る。
「俺はいったい何がしたいんだろ」
――答えは出なかった。
その答えから、目を逸らしたまま――
電話をしなくなってから、一ヶ月が経った。
もう、何も起こらないと思っていた。
でも――
少しずつ。
確実に。
何かがズレていった。
「……あれ?」
配達先で、名前を聞かれることが増えた。
「最近入った子?」
軽く笑って、ごまかす。
「いや、前から来てますよ」
そう言っても、相手はどこか曖昧な顔をする。
たつやと話していても、
ふと噛み合わない瞬間があった。
「そんな話、前したっけ?」
「……してるだろ」
笑って返す。
でも――
その笑いは、どこか引きつっていた。
「……」
気づいていた。
認めたくなかっただけで。
自分の存在が、少しずつ、薄くなっていることに。
それでも――
電話はしなかった。
これ以上関われば、
本当に消えてしまう気がしたから。
「……」
夜。
一人の部屋。
静まり返った空間で、
ただ時間だけが過ぎていく。
不安だけが、胸の奥で膨らんでいった。
そして、その不安は現実のものになった。
仕事が終わって、たつやに夕飯に誘われた。
今まで何度もあったこと。
「今日はカレーだってよ」
「マジで?最高じゃん」
そんな軽い会話をしながら、たつやの家に入る。
玄関を抜けて、いつものようにリビングへ向かう。
「お邪魔しまーす」
何気なく声をかける。
キッチンに立っていた奥さんが、こちらを振り返った。
一瞬、目が合う。
――次の瞬間。
「きゃっ……!」
甲高い声が響く。
手に持っていた皿が、カタッと音を立てる。
「だ、だれ……?」
後ずさる。
その顔には明らかな怯えが浮かんでいた。
「え……?」
言葉が出ない。
「どうした?」
洗面台にいた、たつやが慌ててリビングに入ってくる。
「何かあったのか?」
「この人……誰?」
震える声。
「いきなり入ってきて……」
「警察、呼んで……」
「は?」
たつやが一瞬、固まる。
「何言ってんだよ」
「ゆうだよ」
その一言で空気が止まる。
「……え?」
奥さんの表情が、さらに強張る。
「知らない……」
小さく首を振る。
「そんな人、知らない」
たつやが必死に説得しても、最後まで納得してもらえなかった。
「ゆう、わりー。今日はダメそうだ」
「いや、大丈夫。帰るな」
「ほんとごめんな」
「大丈夫だって」
そう言って玄関に向かう。
靴を履く手が少しだけ震えていた。
ドアを開ける。
「……」
振り返らなかった。
外に出る。
冷たい空気が、やけに刺さる。
ドアが閉まる音が背中で響いた。
――歩き出す。
足音だけが、やけに大きく感じる。
「……」
何も考えないようにする。
でも。
無理だった。
「知らない」
あの一言が、頭から離れない。
「……はは」
乾いた笑いが漏れる。
「ついに、か」
分かっていたはずだ。
こんな未来がいつかくるって。
でも――
どこかで、大丈夫だと思っていた。
まだ平気だと。
まだ残っていると。
「……甘かったな」
足が少しだけ速くなる。
落ち着かない。
心臓の音が、うるさい。
ポケットの中の携帯に触れる。
取り出さない。
分かっているから。
――これが始まりだって。
ゆっくりと。
確実に。
自分が消えていく。
「……」
息を吐く。
白くなった。
もう、誤魔化せなかった。
靴を脱いで、そのまま床に座る。
「……」
何をするでもなく、ただ時間が過ぎていく。
ふと、目に入る。
机の上に置いたままの、あの携帯。
――昔の携帯電話。
「……」
手に取る。
少しだけ重く感じた。
電源をつける。
暗かった画面に光が灯る。
指が自然と動く。
メールを開く。
並んでいる名前。
その中に――
「さき」
指が止まる。
「……」
少しだけ迷ってから開く。
短い文章。
くだらないやり取り。
「今日なに食べた?」
「おつかれさま」
「今度さ――」
何気ない言葉ばかりだった。
でも。
一つ一つが、やけに重く感じた。
「……」
スクロールする。
画面の中の時間が、ゆっくりと戻っていく。
笑っていた顔。
声。
仕草。
全部、鮮明に浮かんでくる。
「……」
指が止まる。
画面に映っていたのは――
「絶対別れてあげない」
その一文だった。
「……」
息が止まる。
視線を落とす。
日付を見る。
12月27日。
「……」
ゆっくりと顔を上げる。
部屋のカレンダーに目をやる。
――12月26日。
「……明日か」
その一言が、
やけに重く落ちた。
胸の奥で何かが音を立てる。
あの日。
あの場所。
あの言葉。
全部が一気に押し寄せる。
「……」
喉が詰まる。
でも――
震える手で携帯を握りしめる。
もう迷いはなかった。
発信する。
呼び出し音。
一回。
二回。
「……もしもし」
「中澤」
「……なんだ?」
「これから、会えないか」
少しの間。
それから何かを察したように
「いいよ」
すぐに返ってくる。
「どこ?」
「新宿。いつものとこ」
「分かった」
通話を切る。
――
新宿の喫茶店。
ガラス越しに見える街の灯りが、やけに遠く感じた。
店のドアを開ける。
奥の席。
中澤は、もう来ていた。
「よー」
軽く手を上げる。
「……よ」
向かいに座る。
こうして二人で会うのは、いつ以来だろう。
しばらく、言葉が出なかった。
コーヒーとクリームソーダが運ばれてくる。
湯気だけが、ゆっくりと上に上がっていく。
「……オーディションの話」
ようやく口を開く。
「ありがとな」
中澤が少しだけ眉を動かす。
「俺さ」
視線を落とす。
「ずっと、おまえと一緒にお笑いやりたかった」
言葉にすると、やけに実感が湧いた。
「今でも、その気持ちは強い」
中澤は何も言わず、ただ聞いていた。
「じゃあ、もう一回――」
「いや」
かぶせるように言う。
「もう無理なんだ」
静かに。
でも、はっきりと。
「……そうか」
短く返す。
「なんか理由があるんだな」
「ああ」
うなずく。
「おまえと会うのも、今日で最後だ」
その言葉に空気が止まる。
「だから」
ゆっくりと顔を上げる。
「ちゃんと、お礼を言いたかった」
「ありがとう」
中澤の喉が、わずかに動く。
「……なに言ってんだよ」
笑おうとして、うまく笑えない。
目を逸らす。
それでも、何も言わなかった。
――分かっているようだった。
「それと、もう一つ」
まっすぐに見る。
「さきのこと、教えてくれないか」
中澤が、ふっと息を吐く。
「その目……」
少しだけ、笑う。
「昔のおまえだな」
間を置く。
「一番、かっこよかった頃の」
中澤が、静かに口を開く。
「なあ」
「おまえが夢をあきらめる理由って、なんだと思う?」
「……理由?」
「おまえ、あれだけ熱量あっただろ」
コーヒーに視線を落とす。
「そんな簡単にやめるやつじゃねえ」
「……」
言葉が出ない。
「もし理由があるとしたら」
一度、間を置く。
「金と女だ」
「……金と、女?」
「ああ」
ゆっくりとうなずく。
「もっと言うなら」
視線を上げる。
「さきちゃんとの未来だ」
「……」
息が止まる。
「おまえさ」
「夢とさきちゃん、どっち取るってなったら」
「絶対、さきちゃんの幸せ取るだろ」
言い返せない。
「……」
「あのまま売れずに、金もなかったら」
「やめてたよな」
「さきちゃんのために」
胸の奥が、強く鳴る。
「……」
中澤が少しだけ笑う。
「それ、さきちゃんも分かってたんだよ」
顔を上げる。
「……え?」
「だからさきちゃんは」
「おまえの重荷になるんじゃなくて」
「おまえを支えることを選んだ」
言葉が、すぐには理解できなかった。
「……どういうことだよ」
「そのために少しでもお金蓄えてたんだ」
中澤は、ゆっくり息を吐く。
「それから」
「俺らが出るステージ、だんだん客増えてったの覚えてるか?」
「……ああ」
「新宿の駅前で」
「さきちゃん、チケット配ってたんだよ」
「……は?」
思考が止まる。
「自分で金出して」
「それ、無料で配ってた」
「……」
言葉が出ない。
――新宿駅前。
人混みの中。
あの日、見た光景が浮かぶ。
「……あれ。浮気じゃなかったのか」
かすれた声が漏れる。
「そんなわけないだろ」
「全部、おまえのためだったんだよ」
中澤が静かに言い切る。
「……なんで、今まで黙ってたんだよ」
「言うなって言われてたからな」
「なんでだよ」
少しだけ声が強くなる。
中澤が真っ直ぐ見る。
「……おまえ」
「それ知ったら、どう思うよ」
「……」
答えられない。
「自分の力で客集めたんじゃないって思うだろ」
「……」
「だから言わなかったんだよ」
一拍。
「それでも」
中澤が続ける。
「一人でも多くの人に」
「おまえの漫才、見てほしかったんだよ」
「……」
何も言えなかった。
視線が落ちる。
テーブルの上のクリームソーダが、わずかに揺れていた。
手が、震えていることに気づく。
「……ああ」
かすれた声が漏れる。
――思い出す。
新宿の駅前。
人混みの中。
チケットを配る、あの姿。
「……」
あれは――
胸の奥で、何かが崩れる。
「俺……」
言葉が続かない。
信じなかった。
聞こうともしなかった。
あのとき。
あの場所で。
「……」
ゆっくりと息を吐く。
吐ききれなかった。
「……最低だな俺」
小さく、つぶやく。
「……」
しばらく、何も言えなかった。
「……帰るわ」
立ち上がる。
中澤が顔を上げる。
「……ああ」
短く返す。
それ以上、何も聞かなかった。
店を出る。
夜の空気が、静かに流れていた。
しばらく並んで歩く。
言葉はなかった。
それでも、不思議と重くはなかった。
「……なあ」
立ち止まる。
中澤がこちらを見る。
「たつやにさ」
少しだけ間を置く。
「お礼、言っといてくれないか」
「……世話になったって」
中澤は、何も言わなかった。
ただ、ゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
それだけだった。
「じゃあな」
軽く手を上げる。
振り返らなかった。
――
その足で、実家へ向かった。
歩きながら、何度も考えた。
何を言えばいいのか。
どこから話せばいいのか。
「……」
うまく言葉にならなかった。
それでも。
――ちゃんと伝えようと思った。
玄関の前に立つ。
見慣れた扉。
何度も開けてきたはずなのに、
今日は少しだけ重く感じた。
「……」
ゆっくりと、息を吐く。
今度は、ちゃんと吐ききった。
ドアノブに手をかける。
「ただいま」
奥から足音が近づいてくる。
「……え?」
母親が顔を出す。
「どうしたの急に」
少し驚いた顔。
「渡したいものなんてないわよ」
「……」
少しだけ、笑う。
「近くに寄ったから、顔見にきた」
「なによそれ」
呆れたように笑う。
「だったら最初からそう言いなさいよ」
そのまま、キッチンに戻っていく。
「ご飯、食べてく?」
何気ない声。
いつもと同じ。
何も変わっていないはずなのに――
胸の奥だけが、やけに騒がしかった。
母の背中を、しばらく見ていた。
「ぼーっとしてないで、手洗ってきなさい」
振り返らずに言う。
「……ああ」
短く返して、洗面所へ向かう。
鏡に映った自分の顔を、少しだけ見つめる。
「……」
何も言わずに、水で顔を洗う。
――リビングに戻る。
テーブルの上には、いつもの料理が並んでいた。
「いただきます」
「はいはい」
軽い返事。
箸を取る。
一口、食べる。
「……うまい」
思わずこぼれる。
「あら。珍しい」
思わず驚く。
しばらく、静かな時間が流れる。
食器の音だけが部屋に響く。
「……なあ」
ぽつりと、口を開く。
「ん?」
言葉を探す。
うまく出てこない。
「……」
箸を置く。
「……ありがとな」
小さく言う。
母の手が止まる。
「は?」
振り返る。
「なに急に」
いつも通りの顔。
でも、少しだけ戸惑っていた。
「いや……」
視線を逸らす。
「長生きしろよ」
「……なによそれ」
少しだけ笑う。
「変なの」
そう言って、また料理に戻る。
「……」
それ以上は何も言わなかった。
でも。
それでよかった。
ちゃんと伝わっている気がした。
家に着いたときには日が変わっていた。
部屋は、ひどく静かだった。
ポケットの中の携帯に、そっと触れる。
もう、迷いはなかった。
もう一人。言わなきゃ言けない相手がいる。
電話をかける。
呼び出し音。長く感じる。
「……もしもし?おじさん?」
電話の向こうは――あの頃の俺だ。
「心配したよ。急に連絡こなくなって」
「……ああ」
短く返す。
一瞬、言葉を探す。
でも、すぐに決める。
「なあ」
「おまえ」
少しだけ間を置く。
「昨日、彼女と別れただろ」
「……え?」
戸惑った声。
「しかも一方的に」
「なんで……」
息を呑む気配。
「なんで知ってるの?」
「……」
言葉を飲み込む。
「いいから、聞け」
声が、少しだけ強くなる。
「おまえ、何も分かってない」
「……は?」
「見えてるもんだけで、全部決めただろ」
沈黙。
「……」
「違うんだよ」
ゆっくりと言い切る。
「おまえ、全部勘違いしてる」
「……は?」
戸惑った声。
「いいか」
少しだけ間を置く。
「さきと別れたら、一生後悔するぞ」
「……なんでそんなこと言えんだよ。それになんでさきの名前……」
「理由はあとでいい」
かぶせるように言う。
「今は、動け」
「……は?」
「今から、会いに行け」
「無理だろ。もう――」
「いいから聞け」
声が強くなる。
「ポストの前だ」
「……え?」
「さきは、そこにくる」
「なんで分かるんだよ」
「分かる」
言い切る。
「行って自分のほんとの気持ち伝えてこい」
「……」
息を呑む気配。
「信じろ」
一拍。
「自分じゃなくていい。俺を信じろ」
「……おじさん」
「いいか、もう一回言う」
「今から、走れ」
「……」
「まだ、間に合う」
「おじさんは一体だれなんだよ」
「……いいか。これが最後だ」
「おまえは今までの……その先を歩け」
――プツッ。
こちらから通話を切る。
その声を最後に――全部、終わった。
ゆっくりと目を閉じる。
何も考えないようにして、そのまま消えていくのを待つ。
「……」
静かなはずなのに頭の中に声が流れ込んでくる。
「ゆうー」
母親の声。
「ゆう」
たつやの声。
「ゆー」
中澤の声。
どれも聞き慣れた声だった。
そして――
「……ゆうたろう」
その声だけが、はっきりと響いた。
「……」
目を開ける。
「……」
次の瞬間、体が勝手に動いていた。
外に出る。
いつの間にか雪が降っていた。
静かに。
でも確かに。
降り続いている。
走る。
ただ走る。
息が切れる。
足がもつれる。
それでも止まらない。
「……」
頭の中に言葉が浮かぶ。
女。
恋愛。
好き。
愛。
全部
――無駄。
「……」
何度も繰り返す。
無駄。
無駄。
無駄。
「……」
でも。
足は止まらなかった。
「……」
息を切らしながら、
小さく、つぶやく。
「……でも」
言葉が途切れる。
うまく出てこない。
それでも。
「……おまえがいたから」
雪の中に声が溶けていく。
「……楽しかったんだ」
あの角を曲がれば――
あいつの実家がある。
あれから10年以上経つ。
いるのかどうか。
住んでるのかどうかすらわからない。
それでも息を切らしながら走る。
足がもつれる。
それでも止まらない。
雪は静かに降り続いていた。
見慣れた家が目に入る。
「……」
ようやく足が止まる。
肩で息をする。
視界が揺れる。
こんな夜中に、
迷惑を承知で、
それでも手を伸ばす。
インターホンを押す。
――ピンポーン。
返事はない。
もう一度押す。
――ピンポーン。
「……」
何も聞こえない。
静寂だけが残る。
「……はは。ダメか」
小さく笑う。
そう思った、そのとき。
「ゆうたろう!!」
後ろから声がした。
時間が止まる。
ゆっくりと振り返る。
くすんだ色のニット帽。
少し大きめのコート。
そして。
首には、
少し色あせた赤いマフラー。
そこにいたのは――
さきだった。
雪の中。
さきは少しだけ目を細めていた。
「……なんで。」
つぶやくように言う。
少しだけ笑う。
「……」
言葉が出てこない。
伝えたいことがあるのに。
きっともう時間がない。
それだけは、わかっていた。
「……ごめん」
やっと、それだけ言う。
「え?」
さきが首をかしげる。
「なんで謝るの」
「……」
少しだけ笑う。
「信じられなかったから。さきのこと」
「……?」
「全部」
それ以上は言わなかった。
言えなかった。
「……」
さきは、しばらく黙っていた。
そして。小さく息を吐く。
「……そっか」
優しく笑う。
その笑顔は、あの頃と変わらなかった。
「……私ね」
少しだけ間を置く。
「ずっと好きだったよ」
雪が静かに落ちる。
「……ゆうたろう」
その名前が、はっきりと響いた。
「……」
息を吸う。
「……俺も」
少しだけ笑う。
「ずっと好きだった」
その瞬間。
体が、ふっと軽くなる。
「さきに会えて」
手の感覚が薄れていく。
足元の雪の冷たさも消えていく。
「……幸せだった」
さきを見る。
その姿が少しずつ遠くなる。
「……」
声を出そうとする。
でも。
もう出なかった。
そして……
さきの前から、雪の中に溶けるようにいなくなった。
さきは、色あせた赤いマフラーを、ぎゅっと握っていた。
その場から動けないまま。
雪だけが、降り続いていた。
「成功したらさ」
「全員で集まって飲もうぜ」
――あのときの言葉が、頭をよぎる。
グラスを持つ手が、少しだけ止まる。
「……なあ」
たつやが小さく笑う。
「今日、叶ってるじゃん」
「……ああ」
中澤がうなずく。
「一応な」
店の中はにぎやかだった。
笑い声。
グラスの音。
全部、昔と同じなのに――
どこか、少しだけ引っかかる。
「……なんだろうな」
中澤がぽつりとつぶやく。
「何が?」
「いや……なんか」
言葉を探す。
「一人、足りない気がするんだよな」
「は?」
たつやが笑う。
「気のせいだろ」
「……だよな」
中澤も笑う。
それ以上は、何も言わなかった。
理由は分からない。
でも。
その違和感だけが、
どこかに残っていた。
さきは何も言わなかった。
ただ――
首元に巻いたそれを、
少しだけ握った。
「……」
「約束、守ったよ」
小さく、つぶやく。
誰にも聞こえない声で。
あの頃は――
それが当たり前に叶う未来だと思っていた。