
朝の通勤電車は、いつも同じ顔をしている。
窓に反射する自分の輪郭も、吊り革を掴む指の節々も、向かいで首を折り曲げて眠る誰かの額も、すべては不備なしという検印を押されて出荷を待つ製品のように均質だ。誰かが咳をすれば、数人がプログラムされた挙動で一斉に顔を上げ、駅に着けば一定の質量が吐き出され、また同等の質量が吸い込まれる。過不足のない反復。そのなかに埋没していると、自分という存在が名前を持つ個人ではなく、社会という巨大な機械の摩擦を消すための潤滑油に成り下がっていく感覚に襲われる。
かつての自分がもっとも唾棄した、あの色のない大人の完成形であった。
十代の頃の私は、もう少し手のかかる人間になる予定だった。適度な自意識と、それなりの富と、誰にも譲れぬ偏屈さを持ち合わせた、歪ではあるが愛嬌のある大人。誰かに理解されずとも、私には私にしか分からない地獄があるのだと、胸を張って言えるような固有の体温を持つ人間。しかし、気がつけば私が身につけていたのは、内面の毛羽立ちを外へ漏らさぬための平滑化ばかりであった。周囲の空気を瞬時に読み取り、最適なタイミングで正解としての微笑を添えること。誰からも深く愛されずとも、誰からも露骨には嫌われぬという、もっとも費用対効果の良い位置を保つこと。情熱という名のノイズを排し、誰の喉も傷つけぬよう常識という濾過水を通した言葉だけを口にすること。
そうして、感じの良い存在として表面を磨き上げ続けているうちに、内側にあったはずの感性は、摩耗する以前に、使われないまま腐っていった。そこに漂う嫌な臭いだけが、自分の内部にまだ何かがあったことを証明していた。人を変質させるのは、他人からの明白な否定でも、劇的な悲劇でもない。ただ周囲の温度に、自分の体温を無自覚に合わせ続けるという適応の結果である。気づけば、元の自分の平熱が何度であったのかも思い出せなくなる。静かな喪失とはそういうものだ。大きな音を立てて壊れるものより、はるかに始末が悪い。取り返しがつかなくなってからも、しばらくは日常が何事もなくつづいてしまう。
それでもなお、人間という生き物は、案外、綺麗には壊れてくれない。
切り捨てたと思っていた感覚が、ある日ふいに死骸のような沈黙を破って指先へ滲み出してくる。既に不要と判断し、二度と使用されることのない器官として、もっと早い段階で腐り落ちていてもよかったはずのものが、なぜかまだ内部のどこかで見苦しく生き永らえている。たとえば、夜のコンビニで、誰にも選ばれぬまま棚の奥へ押しやられた菓子パンの、あまりに場違いなほど陽気な包装に一瞬だけ目を奪われる時。あるいは、交差点の雑踏の向こう、ビルの窓ガラスを掠めた夕陽が、刃物のように薄い金色を一閃だけ走らせ、それが何の役にも立たぬ美であるにもかかわらず、胸の底にほんの僅かな波紋を生じさせる時。そうした瑣末で、取るに足らず、説明した瞬間に価値の大半が蒸発してしまうような引っ掛かりだけが、まだ私の内部に切断されず残っている神経の存在を教える。
だが、それは救いというには弱く、希望と呼ぶには湿りすぎていた。むしろ私を訪れるのは安堵ではなく狼狽である。私はもう、その震えをどう扱えばよいのかを知らない。かつてなら、その手の無意味なざわめきこそが、私の内部で勝手に発熱し、勝手に増殖し、勝手に世界の輪郭を歪ませる起点だった。意味のない景色から意味を捏造し、取るに足らぬ一言に過剰な陰影を見出し、誰にも気づかれぬ程度の温度差にひどく傷つき、そしてその傷を、まるで自分だけに許された密やかな勲章のように抱えて歩いていた。だが今の私は違う。胸が動くより先に、それが処理に値する感情かを査定する。何かに惹かれるより先に、それが生活導線を乱すノイズではないかを疑う。美しいと感じる以前に、それが有益か否かを問うてしまう。感受性とは本来、もっと無作法で、もっと不経済で、持ち主にとってすら迷惑な突起物であったはずだ。それを私はいつの間にか、自らの内面に生じる軽微な故障として、速やかに修繕すべきもののように扱う術ばかりを身につけてしまった。
大人になるとは、選別の技術を獲得することだと、どこかで聞いたことがある。何に言及せず、どこで口を閉ざし、いかなる怒りを公表せず、どの不快を自分の内部だけで静かに希釈するか。その精度を高めれば高めるほど、人は共同体の中で摩擦少なく機能する。場に応じて表情の角度を調整し、声色の濃度を選び取り、相手が欲している形状の自分をほとんど無意識のうちに差し出せるようになる。それは確かに一つの能力である。未成熟な衝動のままにしか振る舞えぬ者は、しばしば自らを損ない、他者を傷つけ、純粋であることと引き換えに多くのものを壊す。だから私もまた、その能力を欲した。欲し、習得し、磨き、そしてかなりのところまで上達した。社会はそうした人間をおおむね歓迎する。扱いやすく、破綻しにくく、そこにいても場の温度を大きく乱さない存在として。
しかし、生きやすくなることと、生きていることとは、同じ意味ではなかった。
私は長いこと、その差異を認識せぬまま過ごしていた。角が削れ、癖が均され、外界に対する引っ掛かりが減っていくことを、成長と呼んでいた。未熟さが抜け、余計な棘が取れ、ようやく社会性という塗料が骨格へ馴染み始めたのだと信じていた。だが今にして思えば、それは成長というより、表面の研磨に近かった。摩擦を減らし、通りをよくし、触れた者の指を傷つけぬよう角を丸めていく営み。商品としては望ましい。棚に並べるには美しい。流通にも向いている。だが人間は、流通に向いた形へ整えられることによって、本当に救済されるのか。むしろ、摩擦の消失はそのまま輪郭の消失を意味するのではないか。個人であるとは、誰にも迷惑をかけぬことではなく、迷惑を承知でなお消し去れない偏りを抱え込んでいることではなかったか。少なくとも、昔の私はそう信じていた。歪で、扱いづらく、理解されず、ときに己自身の首さえ絞めるような不純物。それでもなお、それだけは手放せぬという偏執こそが、その人間がその人間であることの、ほとんど唯一の証明であると。
けれど私は、その不純物をひどく丁寧に濾し取りすぎたのだ。気がつけば随分と透明になっていた。清潔で、穏当で、過不足なく感じが良く、表面上どこにも損傷の見当たらない人間。だが透明であるとは、同時に向こう側が見えてしまうということでもある。そこに確かに何かがあるはずなのに、触れようとすると手応えがなく、輪郭だけが空虚を囲っている。ときどき私は、自分が一枚の薄い膜になってしまったような気がする。外界と内界を辛うじて隔ててはいるが、そのどちらにも属しきらず、光を受ければ一応そこに存在していることだけは分かる、しかし厚みのないもの。存在しているという事実と、そこで生きているという感覚のあいだには、私が思っていたより遥かに深い断絶があった。
風呂上がりの鏡に曇って映る自分の顔を見るたび、そのことを思う。ここには確かに顔がある。今日一日、何度も適切に稼働した器官としての顔が。場に応じて角度を変えた微笑。過不足なく整えられた相槌。わずかにも敵意を残さぬよう濾過された目線。それらの総体としての、よく訓練された顔がある。だがその皮膚の内側で、いまなお何が息をしているのか、私にはもうよく分からない。怒りがないわけではない。軽蔑もある。羨望も、焦燥も、諦念も、たしかに沈殿している。けれど、それらはどれも長くは留まらない。高性能の濾過装置でも埋め込まれているかのように、感情は発酵する前に無害化され、毒になる前に希釈され、生活に支障のない濃度へまで薄められてしまう。私はその機能性を、心のどこかで恐れている。
もっと醜く嫉妬したかった夜があった。もっと幼稚に取り乱し、もっと救いようもなく欲しがり、もっと惨めに絶望してよかったはずの瞬間が幾つもあった。だが結局のところ、私はそれらをすべて適切に処理してしまった。適切に納得し、適切に諦め、適切に距離を取り、適切に自分を宥め、次の日には何食わぬ顔で電車に乗った。そうしているうちに、私は壊れる資格すら少しずつ失っていった。破綻しないことは美徳である。そのことは理解している。だが壊れないまま腐る、という形式の損壊もまた確かに存在する。その事実を前にすると、美徳という語の輪郭も少し曇る。
しかもさらに始末が悪いのは、この状態が案外、快適であるということだ。朝起きて、身支度をし、決まった電車へ乗り、求められる形状の自分を不足なく供給し、夜にはそれなりの疲労とともに帰宅し、掌のなかの淡い光に少しだけ意識を溶かして眠る。その一連の流れは、少なくとも致命的ではない。何も壊れないし、何も燃え上がらない。傷は浅く、歓喜は鈍く、絶望でさえ程よい濃度に希釈されている。すべてがそこそこの温度へ調整されている。社会人としての設計図としては、ほとんど理想的ですらあるのかもしれない。だが私はときおり、その無事故運転の正しさそのものに、耐え難い息苦しさを覚える。事故を起こしたいのではない。破滅したいのでもない。ただ、このまま何ひとつ決定的に傷つくこともなく、何ひとつ決定的に愛することもなく、均一な低温のまま静かに摩耗していく未来を思うと、それだけで胸の底に乾いた恐怖が降り積もる。雪のように静かで、しかし着実に体温を奪う類いの恐怖である。
そしてこの恐怖は、他人へ説明するための輪郭を持たない。外形上、私は十分に機能している。礼儀もある。責任感もある。最低限の社会性も、おそらく欠いてはいない。だからこの違和感を口にした瞬間、それは贅沢な悩みとして回収される。うまくやれているなら、それで良いではないか。その至極もっともな一言の前では、私はたいてい沈黙するしかない。実際、もっと具体的で、もっと物理的で、もっと苛烈な地獄を抱えた人間はいくらでもいる。その事実を思えば、自分の内側で進行しているこの静かな腐敗など、随分と抽象的で、随分と甘えた煩悶のようにも見える。だが抽象的であることは、苦痛でないことの証明にはならない。むしろ輪郭が曖昧であるぶんだけ、それは始末が悪い。骨折ならギプスを巻ける。出血なら止血ができる。けれど、魂の表面だけが均一に削られ、自分の平熱が何度であったかすら思い出せなくなる症状には、病名も処方箋も、保険の適用欄すら存在しない。
それでもなお、私はまだ完全には終わっていない。そのことだけは、否応なく知っていた。
完全に終わった人間は、おそらく自分の喪失をこのように執拗に意識したりはしない。ただ順応し、ただ馴染み、ただ無害な一単位として日常へ沈んでいけばよいものを、私はいまだそこに微かな抵抗を感じている。つまり、失ったものの輪郭を、身体のどこかがまだ覚えているのだ。思い出せない平熱を、それでも神経の残滓だけが知っている。腐っているのは、死んだからではない。生きたまま使われなかったからである。その違いは、絶望に酷似していながら、絶望そのものではない。手遅れに見える場所にも、往々にしてわずかな未処理が残る。焼却処分を終えたと思っていた灰の下で、火種だけが妙にしつこく赤く残るように。
その自覚を抱えたまま、数日が過ぎた。
六月に入ると、街は目に見えて膨張した。空気が水を含み、遠景の輪郭が曖昧になり、人の歩幅までもがわずかに重たくなる。朝の通勤電車の均質さと、夜の鏡の前に立つ薄い膜のような自己。そのあいだを埋めるものとして、梅雨どきの夕刻ほどふさわしい時間帯はない。世界がまだ完全には崩れず、しかし確実に傷みはじめている、その中途半端な相貌。晴れわたるでもなく、潔く降り出すでもなく、何事かを断ち切り損ねた者の貌をした空が、街全体へ低く垂れ込める。
その日もまた、夕刻の空は全面に鈍く雲を敷き詰め、街をひと息に湿した灰で塗りこめていた。空気はもはや気体の体をなしておらず、肌と衣服とのあわいへぬめりと入り込み、呼吸のたび肺腑にまで他人の生活の名残を運び込む。駅前のロータリーには、まだ雨へ成りきらぬ水気が滞り、昼の熱を抱えた舗道の上で、濡れた布団にも似た、あるいは長く閉ざされていた押入れの口を開いた折に立ちのぼる甘く淀んだ臭気を放っている。制服姿の学生も、襟を緩めた勤め人も、透明な傘を鞄に差した女も、白い袋を提げた老人も、ひとしくその湿りの内に輪郭を鈍らせ、巨大な蒸籠へ入れられた素材のごとく、ただ熱の通り具合のみを異にしているように見えた。人はここまで均一に蒸されると、個人の相を失い、交換可能な部品の列へ還元される。
改札を抜けた私は、その灰色の夕刻へ押し出されるようにして立ち止まった。電車が吐き出した群れは、わずかな逡巡ののち、それぞれの帰路という細い管へ音もなく吸い込まれてゆく。誰ひとり空を仰がない。降るとも降らぬとも知れぬ天の機嫌へ、わざわざ意識を割こうとはしない。皆、自らを濡らさぬためというより、予定を狂わせぬために傘を携えている。生活とは、天候のような不確定をいかに個人の事情から排除するかという、終わりなき技術の別名である。雨は詩情ではなく遅延であり、湿度は情緒ではなく不快であり、夕暮れは感傷ではなく帰宅の混雑に過ぎない。その正しさを私は既に骨まで理解していた。理解しているがゆえに、街に澱む陰圧が、いっそう逃れ難いものとして胸を圧した。
社会には、声にもならぬ圧力の層が幾重にも沈殿している。命令でもなく、暴力でもない。さらに静かで、さらに低温で、しかし確実に人の背骨を湾曲させる力である。遅れてはならぬ。乱してはならぬ。疲れていることを理由に顔を曇らせてはならぬ。不機嫌を持ち込んではならぬ。欲望を剥き出しにしてはならぬ。己の事情で世界の流れを停めてはならぬ。無数の禁令が明文化されぬまま空気へ溶け、その場にいるすべての者の気道を狭めている。六月の湿気は、それを皮膚の上へ現前させたに過ぎない。胸が詰まるのは気候のせいばかりではなかった。もともと詰まりつづけていたのであり、乾いた季節には見て見ぬふりが利いただけである。
歩道橋へ上がると、街は薄暗い銀色の底へ沈んでいた。信号待ちの車列のブレーキランプのみが、湿った空気の内で妙に生々しい赤を滲ませている。その赤には温もりがなく、むしろ内臓の色を思わせた。生きものの内部にのみ宿る、見せるためでない色である。高架下からは排水溝の臭いが立ちのぼり、遠くでは雷とも空調機の唸りともつかぬ低音が尾を引いている。街のあらゆる隅から発せられる生活の物音は、私を慰めるには足らず、ただ逃げ場のなさのみを告げてきた。この世界はあまりによく出来ている。ひとりが静かに限界を越えたところで、何一つ止まらぬよう設計されている。誰かが本日、密かに折れたとしても、改札は開き、信号は変わり、コンビニのレジは相変わらず明るい声で袋の要否を問う。社会の恐ろしさは、その巨大さよりも、無関心の精度にある。こちらが血を吐こうと吐くまいと、歯車の回転数に誤差が出ないこと。その事実は、湿り気を含んだ夕刻になると、やけに鮮明に見えてしまう。
歩道橋の途中で、ひとりの男が手すりにもたれて煙草を吸っていた。上着を腕に引っ掛け、ネクタイをわずかに緩めた、どこにでもいる男であった。だが、その背には、どこにでもいることそれ自体の疲労が濃く沈んでいた。彼が何を思っているのかなど知る由もない。ただ、その肩の落ち方ばかりが、ひどく了解できるものとして目に入った。別段、劇的な不幸があったのではあるまい。世界から露骨な悪意を受けたのでもあるまい。むしろ、大きくは踏み外さず、順当に消耗してきた人間の背にこそ、あの落ち方は現れる。順当であること。それ自体がひとつの破滅の形式を帯びる。破滅とは、破産や離別や狂乱のような華々しい事故のみを指すのではない。さらに静かで、さらに社会的に許容された顔をして進行する破滅がある。毎日を問題なくこなしながら、肝心の何かだけが回復不能な仕方で削れてゆくこと。叫ぶ理由もないまま、内部の水位だけが少しずつ下がり、気づけば心が干上がっていること。
男は短く煙を吐き、それを一度だけ見上げ、すぐに火を揉み消して歩き去った。別段、象徴めいた所作ではなかった。ただ、去り際に落とした視線の鈍さだけが妙に残った。私はそこへ勝手に意味を与えかけ、途中でやめた。あの男にはあの男の事情があり、私の主題へ奉仕する義務などない。その当然のことが、かえって私を少しだけ静かにした。世界は、私の理解にそこまで従順ではない。従順でないからこそ、まだ見ている甲斐がある。
やがて、ぽつりと頬に一滴が触れた。つづいて、もう一滴。ついに降り出したかと思えば、雨は本降りへ踏み切ることをなお躊躇しているらしく、粒はまだ疎らである。歩く者たちは一様に空を見上げ、ほとんど同時に訓練されたような仕草で傘を半ばまで取り出し、しかし完全には開かず、しばし様子を窺った。その揃い方に、可笑しさより薄い恐怖を覚えた。各々が自分で決しているように見えながら、実のところ皆が同じ閾で同じ決断を下している。濡れることへの耐性も、降雨を傘を開くに足る事象とみなす基準も、この社会の内で既に均され尽くしている。自由意志とは、湿度の高い日にはなおさら、驚くほど脆い素材に見える。
私は歩道橋を下り、川沿いの遊歩道へ出た。駅前の雑踏から少し外れるだけで、人通りは唐突に痩せる。欄干の向こうでは、濁った川面が重たい空をそっくり映していた。水面には小さな雨粒が散発的に落ち、無数の輪を作ってはすぐに消してゆく。その有様を見ていると、感情というものもこれに似ていると思われた。何かが落ち、たしかに波紋は生じる。だが持続しない。次の滴が重なり、次の揺らぎが上書きし、やがて何事もなかったかのような鈍い平面へ戻る。しかし、そこで何も残っていないわけではない。消えたように見えるだけで、水は一度受けた衝撃の記憶を、目に映らぬほど微細な乱れとして抱えつづける。人間もまた同じである。表面上は平静へ帰した顔をしていても、内部には説明のつかぬ濁りが少しずつ堆積してゆく。その蓄積が、いつか不意に、自分でも見知らぬ表情を作り出す。
欄干の脇には紫陽花が植えられていた。雨季になると、どこにでも現れる花である。私は昔から、あれをどこか持て余してきた。美しいことは否めない。だがその美しさには、どうにも湿り気が過剰であった。咲き誇るというより、黙して膨らみ、空気中の水を吸って色を変え、知らぬ間に群れとなってそこに居る。歓喜の花ではなく、沈黙の花。感情を爆ぜさせず、内部へ押し込みつづけ、行き場を失った水分だけで大きくなってゆく花。その日見た紫陽花もまた、暮れきらぬ空の下で、青とも紫ともつかぬ色を湛えながら、ひどく静かに立っていた。
その静けさの内に、私は見落としていた種類の強さを見た。
派手さを欠くものは、往々にして弱いと誤認される。声を上げぬもの、目立たぬもの、ただそこにあるだけのもの。しかし、真に強いものは必ずしも騒がない。六月の湿気にも、降るとも降らぬともつかぬ空にも、誰にも顧みられぬ川沿いにも耐えながら、あの花はただ色を持ちつづけている。褒められるためでもなく、象徴となるためでもなく、己に許された色を逃げずに引き受けている。そのことが不意に胸へ来た。希望という語は、常に少し明るすぎる。白々しく、前向きで、健康的に過ぎ、この夕刻にはまことに似つかわしくない。だがその実体を問うなら、むしろこういうものに近い。世界が急に救われる兆しではない。圧のある場所で、なお自分の色を薄めきらずにいること。誰に気づかれずともよい。ただ完全な無色へ堕ちないこと。その執念に近い持続が、人の内部をかろうじて守る。
雨脚はやや強まった。それでも傘を差すか迷う程度の中途半端さに留まり、空は街に対して決定を先送りにしている。私はまだ傘を開かなかった。シャツの肩へじわりと湿りが滲む。気色が悪い。髪も額に貼りつく。靴先もわずかに濡れる。避け得るなら避けたい不快ばかりである。にもかかわらず、その僅かな不快が、この時ばかりは救済に近かった。濡れているという事実が、たしかにここに身体があることを教える。息苦しさも、湿度も、雨粒の冷たさも、すべて不快であると同時に、まだ感覚が死に絶えていない証でもある。快適さのみを追い求めた末、人はしばしば自らの輪郭ごと失う。ならば、この六月のじっとりとした不親切さは、世界が最後まで無関心であるがゆえに与える、妙な慈悲であった。少なくとも、私を完全な無感覚にはしていない。
川面の向こうで、子どもがひとり、母親らしい者に手を引かれながら走っていた。雨に濡れるのを嫌がっているのかと思えば逆で、小さな靴でわざと水たまりを踏み、跳ねた水に笑っている。その声は遠く、湿った空気に吸われて輪郭を失っていたが、なお確かに届いた。私はそれを手放しで美しいとは言えなかった。あまりに無防備で、こちらの疲弊と無関係であったからである。けれど、胸のどこかを掠めたものがあった。羨望というほど単純ではない。世界に対し、まだ濡れることを恐れるより先に、水を蹴ることを選べる身体があるという事実の眩しさである。そこまでの無垢へ遡ることはないし、遡るべきでもない。ただ、あのように、自分の外側にあるものへ一瞬でも反射的に応答する力が、人の内部から完全に失われてはならない、そのことを思った。疲れを知ったのちでなお、世界に対してどこか一箇所だけでも開いていること。それがある限り、破滅はまだ完了しない。
空は相変わらず重たかった。社会も、明日になれば何一つ変わらないだろう。電車はまた正確に到着し、人々は同じように流れ、私は過不足なく感じの良い顔を選んで一日をやり過ごす。陰圧は消えない。焦燥もまた、借り物のような平静の下で脈を打ちつづける。だが、それでも今日、川沿いで見た紫陽花の色と、頬に当たった雨粒の冷たさと、遠くで水たまりを蹴った子どもの足音だけは、私の内部に小さな針のように残った。その針は傷にもなる。快適な生存には邪魔ですらある。だが、人が人のままでいるには、そうした微細な異物こそ必要なのだ。完全に馴染み、完全に無害になり、完全に摩擦を失ったとき、人は生き延びる代わりに、自分を取り落とす。少し痛むくらいでよい。少し濡れ、少し冷え、少し息苦しいくらいでなければ、胸の底にまだ灯があることへ気づけない。
私はそこでようやく傘を開いた。遅すぎるとも、今さらとも思った。だが、それでよかった。完全に濡れきる前に、しかも一滴も浴びぬうちに逃げきるのでもなく、ほんの少しだけ雨を受けた後で、静かに布を広げる。その中途半端さが、今の私にはふさわしかった。
希望とは、光そのものではない。
少なくとも、このような夕刻においては。
それはむしろ、灰色の空の下で、なお傘を開く手つきを忘れていないことに宿る。
濡れる不快も、世界の陰圧も、社会の無関心も知りぬいた上で、それでも帰ろうとすること。
ほとんど誰にも評価されぬ、その小さな動作の内にのみ、救いは静かに棲む。
そう思いながら歩き出したとき、背後で誰かが小さく舌打ちをした。水たまりを踏んだのか、傘の先が誰かの靴に触れたのか、理由は分からない。振り返る気にはならなかった。ただ、その短く濁った音だけが、湿った空気のなかに妙に生々しく残った。救いがあるとしても、世界の手触りが急に優しくなるわけではない。帰路はなお灰色で、排水溝は臭く、シャツの裾はわずかに湿ったままである。傘布を打つ雨音は次第に密度を増し、街の灯はその向こうでぼんやり滲んだ。
それでも私は歩いた。
足取りが軽いわけではない。何かが根本から解決したわけでもない。明日の朝になれば、また同じ車両に立ち、同じように吊り革を掴み、同じように無害な顔を選び取るだろう。内側の腐敗が、ここで急に止まるわけでもない。ただ、それでもひとつだけ、以前とは違うことがあった。自分の内部に残っている濁りを、もはやただ排除すべき不純物としては見ていないこと。その濁りがあるからこそ、紫陽花の色が目に残り、子どもの笑いが胸を掠め、頬に落ちた雨粒の冷たさが、単なる不快以上のものとして身体へ刻まれること。その程度の、説明にも値しない差異に過ぎない。だが、人が壊れきらずにいるためには、その程度の差異こそ充分なのかもしれない。
川沿いを抜ける頃には、雨はようやく雨らしい形を取りはじめていた。アスファルトは黒く沈み、街路樹の葉は濡れた獣の毛のように重たく光り、信号の色は水気を帯びた路面へ長く引き伸ばされている。どの景色も少しずつ輪郭を崩し、それでも完全には溶けきらず、あいまいなままそこに在った。その頼りなさが、なぜだか今夜はひどく誠実に見えた。世界は最初から、この程度には曖昧で、この程度には不親切で、この程度には美しい。こちらが均質な顔をしているあいだにも、説明不能な濁りや湿りを残したまま動いている。ならば私だけが、必要以上に清潔である理由はない。
駅から離れた小さな通りへ入ると、人影はさらに疎らになった。古びたクリーニング店の軒先からぽたぽたと雫が落ち、閉店した喫茶店の曇ったガラスには、裏返された椅子の脚が黒く浮いている。駐輪場の隅で、濡れた段ボールがゆっくり形を崩しはじめていた。見過ごせばそれまでの景色である。役に立つものはひとつもない。しかし、役に立たない景色だけが、妙に正直にこの夜の温度を伝えてくることがある。整然と管理された情報ではなく、少し傷んだもの、少し濡れたもの、すぐには意味へ回収できないもの。そうした端の方に追いやられたものばかりが、人の内側の端ともどこかで接続している。
私は傘を差したまま、ほんの一瞬だけ歩みを緩めた。立ち止まるほど大仰ではない。ただ、急ぎすぎない速度へ戻しただけである。そのわずかな減速が、妙に大事なことのように思われた。何もかもを遅らせるわけにはいかない。社会には時間があり、締切があり、約束があり、帰着すべき場所がある。だが、その途中でほんの少しだけ自分の速度を取り戻すことは許されてよい。許されるかどうかとは別に、そうしなければ内部のどこかが乾いてひび割れる。その程度のことを、ようやく身体が思い出しはじめていた。
遠くでまた雷とも車輪の軋みともつかぬ音が鳴った。空はまだ低く、街はまだ重い。何ひとつ軽やかにはならない。救いがあるとしても、それは快晴のようには訪れない。もっと鈍く、もっと湿っていて、見過ごそうと思えば簡単に見過ごせる程度のものとしてやって来る。そしてたいていは、来たのかどうかすら判然としないまま、身体のどこかに小さな針だけを残して去ってゆく。おそらく、それでよいのだ。眩しすぎるものは長く見ていられない。人が持ち運べる希望の量には限度がある。掌に隠せる程度の微かな異物で充分なのだ。その異物が、ときどき胸の内側をちくりと刺し、自分がまだ完全な平面にはなっていないことを知らせてくれる。
やがて自宅の近くまで来た。見慣れた路地の入口は、雨に濡れていつもより少し暗かった。電柱の脇に、名も知らぬ雑草が一本、アスファルトの裂け目から顔を出しているのが見えた。立派でもなく、象徴的でもなく、ただそこに生えていた。私はそれを見て、別に感動はしなかった。ただ、ああ、と思っただけである。こういうものなのだろう、と。生き残るとは、たぶん大げさな宣言ではなく、こういうひどく無口な在り方に近い。気づかれなくとも、褒められなくとも、誰の物語にも回収されなくとも、なおそこにいること。
マンションのエントランスへ入る前に、私は一度だけ傘を閉じた。布の表面に溜まっていた水が細かい粒となって散る。指先へ残る冷たさは、まだはっきりとしていた。その冷たさを不快とだけ呼んでしまうには、今夜の私は少しだけ濡れすぎていた。
おそらく明日になれば、また多くを忘れる。
通勤電車は変わらず同じ顔をしているだろうし、私もまた、その均質な流れの中へ半ば自動的に回収されるだろう。
けれど、完全には失われないものがある。
失われたと見せかけて、なお湿った灰の底で赤く残るものがある。
それが何であるのか、まだうまく名づけることはできない。
感受性と呼ぶには汚れており、希望と呼ぶには弱すぎる。
だが、その半端さゆえにこそ、まだこちら側に留まっている。
私は濡れた靴のまま数歩だけ歩き、そこでふと、自分の呼吸が少し深くなっていることに気づいた。
息苦しさが消えたわけではない。
ただ、肺の奥へ入ってくる湿った空気を、先ほどまでよりわずかに拒まなくなっていた。
それだけのことである。
それだけのことが、ときに人を一晩ぶんだけ生かす。
エレベーターの閉まる扉に、傘を持った自分の姿がぼんやり映った。輪郭はまだ曖昧で、いかにも頼りない。だが、向こう側が見えてしまうほど透明かと問われれば、今夜はまだそこまでではなかった。ほんのわずかに、水気を含んだ影が残っている。その薄い影を、私は以前より少しだけ信用していた。
扉が閉まり、街の雨音は遮られた。
それでも、耳の奥ではまだ細く降りつづいている。