
愛される形になっていく
「これが正解なんだ」
人に褒められるたび、少し安心する。
否定されないたび、ほっとする。
そうやって人は、少しずつ“愛される形”になっていく。
きっとそれは、悪いことじゃない。
誰だって傷つきたくないし、嫌われたくない。
ちゃんと居場所が欲しいし、「ここにいていい」と思いたい。
だから人は、空気を読む。
求められる言葉を選ぶ。
期待された姿になろうとする。
最初はただ、自分を守りたかっただけなんだと思う。
人はきっと、突然自分を見失うわけじゃない。
過去の小さな傷や、何気ない一言を、無意識に引きずりながら少しずつ変わっていく。
嫌われないように
否定されないように
ちゃんと愛されるように。
私も、ときどきそうなる。
誰かに認められると安心してしまう。
期待に応えられる自分でいたくなる。
でもその安心は、時々とても静かに人を疲れさせる。
本当は嫌だったこと。
本当は苦しかったこと。
そういう小さな感覚を置いていくたびに、「自分」が少しずつ曖昧になっていくから。
もちろん、人に合わせることが悪いわけじゃない。
社会の中で生きる以上、変わることは必要だと思う。
でも、自分の感覚まで手放してしまったら。
「こうしていれば愛される」という安心だけで生きるようになったら。
それは本当に、自分で選んだ生き方と言えるんだろうか。
私は、結果よりも生き様に惹かれてしまう。
上手く生きられる人より、
不器用でも、自分の感覚を見失わない人に心を動かされる。
ちゃんと悩んで。
迷って。
傷つきながらでも、「自分はどうしたいんだろう」と考え続ける人が好きだ。
どんなに世間から嫌われる人でも。
どんなに愛される生き方をしている人でも。
私は時々、みんな花みたいだと思う。
綺麗に整えられた花もあれば、歪な形で咲く花もある。
誰にも見向きされない場所で咲く花もある。
でも、そのどれもが「咲こう」としている。
傷つきながらでも。
迷いながらでも。
自分なりに、生きようとしている。
私はきっと、その姿に美しさを感じてしまう。
誰かにどう見られるかじゃなく。
どれだけ評価されるかでもなく。
ちゃんと、自分の根で立とうとしていること。
それこそが、人の美しさなんじゃないかと思う。
だから私は、時々考える。
誰かに愛されるために生きることと、
自分として生きることは、同じなんだろうか。
そしてあなたは今、
誰かに望まれた人生ではなく、
ちゃんと“自分が生きたい人生”を生きられているだろうか。