
はじまりの、ちょっと手前で
開店前の時間ってさ、なんか好きなんだよね。
油はまだ寝てるし、ロクさんもあんまり喋らないし。
そのくせ、音だけはちゃんと生きてる。
包丁がまな板に当たる、乾いた音。
一定のリズムで、店の奥に沈んでいく。
今日はね、ちょっとだけ外が気になってさ。
勝手口の隙間から、こっそり覗いてみた。
そしたら――
「あ、また通った」
桜の下を、親子が歩いていく。
なんかさ、みんなちょっとだけ“ちゃんとしてる顔”してるんだよね。
服も、靴も、背中も。
どれもが、まだ少しだけ固い。
「ロクさん、見た? なんか眩しいね」
そう言ったら、ロクさんは魚に包丁当てたまま、
「……ああ。今日からか」
って、それだけ。
ほんとさ、もうちょっとなんか言いなよって思うけど。
でも、その“それだけ”が、妙に重い。
少ししてから、また気になって聞いてみた。
「お祝いの日なんでしょ? もっと賑やかでもいいのにさ」
ロクさん、ほんの少しだけ笑って、
「……賑やかなだけが、門出じゃないだろ」
それから、間をひとつ置いて。
「手を離すと、軽くはなる。……そのぶん、空く」
包丁の音が、一瞬だけ止まった気がした。
……正直、よくわかんない。
でもさ、わかんないなりに思ったんだ。
ああいう人たちって、
きっと今日、ちゃんと背伸びしてる。
歩幅を合わせたり、合わせなかったりしながら。
だからさ。
「……明日はさ、今日頑張った人が、ホッとできるやつ出したいな」
って言ってみたら、
「ああ。火加減、見ておけ」
だってさ。
出たよ、“火加減”。
でも、それでいい気がした。
強くしすぎても、弱すぎても、だめで。
見てないと、すぐ変わるやつ。
外では、まだぎこちない靴の音。
その後ろで、少しゆっくりな足音。
うちの暖簾はさ、
そういう人たちが通ったあとに、少し遅れて揺れる。
たぶん――
何かが始まるときって、
音より先に、余白ができる。
今日はなんか、
まだ、少しだけ早い春のにおいがした。
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