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明るい嘘

    この都市には、本物の太陽がない。
    空を覆う巨大なドームの内側には、何百万という人々の「確信」を光へと変換する、共鳴駆動エンジンが鎮座している。

    人々が何かを強く信じれば、そのエネルギーがエンジンを回し、街に明かりを灯す。
    確信こそが正義であり、迷いこそが最大の悪とされる世界。

    私は、この都市の頂点に立つリーダーの秘書として働いている。
    けれど今日、その主が代わろうとしていた。

    「次の計測が始まります。準備はよろしいですか」

    私が問いかけると、部屋の隅に座る老齢の男が、静かに頷いた。
    彼はこの街を二十年守ってきた、今のリーダーだ。
    かつての彼は、誰よりも力強い言葉で市民を導いていたという。しかし、長く統治し、世界の仕組みを知れば知るほど、彼の言葉からは熱が失われていった。
    知ることは、疑うことだ。
    予測することは、不安を抱えることだ。
    彼の瞳は今、深い夜の湖のように静まりかえっている。

    「……ああ、わかっているよ。だが、私の言葉は、もうこの街には届かないのかもしれないな」

    彼の声には、いつも幾重もの層があった。
    何か一つの結論を出すまでに、彼は何千という資料を読み込み、何万というシミュレーションを重ね、起こりうる最悪の可能性をすべて想定する。
    モニターに映し出される彼の「確信度」は、わずか二十パーセントだった。
    数値が低いのは、彼が嘘をついているからではない。
    彼が「真実」を知っているからだ。
    物事には常に裏表があり、絶対の成功など存在しないという、残酷な真実を。

    一方、その隣の控え室には、次代の候補者である青年が立っていた。
    彼はまだ若く、専門的な教育も受けていない。けれど、彼の周りにはいつも眩いばかりの光が溢れている。

    「すべては最高になります! 僕を信じてください!」

    彼がそう叫ぶだけで、街の共鳴計は跳ね上がる。
    彼の脳波計には、微塵のノイズも混じっていない。
    彼は深く考えない。ただ、「最高だ」と信じている。
    その浅さが、この世界では何よりも純粋なエネルギーとして評価されるのだ。

    このエンジンの仕組みは、物理学的に極めて冷徹だ。
    思考とはベクトルである。
    前向きな確信も、後ろ向きな疑念も、すべてはエネルギーの方向性を持つ。
    思慮深い人間の脳内では、無数の可能性が検討され、思考のベクトルがあらゆる方向に分散してしまう。右へ行くべきか、左に留まるべきか。その複雑な葛藤が互いのエネルギーを打ち消し合い、出力はゼロに近づく。これをシステム上では「思考の位相干渉」と呼ぶ。
    一方、何も考えていない人間の脳内は、単一の方向へと突き抜けるノイズレスな直線だ。
    指向性の揃った思考は干渉を起こさず、百パーセントの推力となってエンジンを回す。

    つまり、この都市においては「無知」こそが最も効率的な燃料なのだ。

    公開討論会が始まった。
    広場の巨大スクリーンに二人の顔が映し出される。

    まず、今のリーダーが口を開いた。
    「現在の資源消費率から逆算すると、五年後にはエネルギーの再分配が必要です。これには痛みを伴いますが、長期的な生存のために、複数のシナリオを検討すべきです」

    その言葉が紡がれるたび、広場の数値は冷え込んでいく。
    「検討が必要だ」「状況に依存する」「断定はできない」
    そんな誠実で、慎重で、思慮深い言葉は、人々の耳には「熱量のない、不吉なノイズ」としてしか届かない。
    人々が求めているのは、正確な地図ではなく、力強い足音なのだ。

    次に、青年が前に出た。
    彼は拳を突き出し、満面の笑みで叫んだ。

    「大丈夫です! 資源なんて、僕たちの熱意があれば無限に生み出せます! 僕は、この街の未来が最高のものになると、百パーセント確信しています!」

    その瞬間、街全体が震えた。
    共鳴計は限界を超えて真っ赤に染まり、エンジンの出力が爆発的に上昇する。
    街の照明が一段と明るくなり、人々は狂喜乱舞した。

    「これだ! この熱量を待っていたんだ!」
    「前のリーダーは暗すぎた。何でも難しく考えて、僕たちを不安にさせるだけだった」

    その時、異変が起きた。
    エンジンの出力があまりに急激に上がりすぎたため、システムの冷却が追いつかなくなったのだ。
    警告灯が点滅し、ドームの天井から不気味な軋み音が響く。

    「オーバーヒートです! リーダー、緊急停止のコードを!」

    私が叫ぶと、今のリーダーは即座に計算を始めた。
    「待て、今急に止めれば圧力が逆流し、ドームが損傷する。段階的に出力を落とすには、まず市民の興奮を鎮めて、共鳴の位相をずらさなければ……」

    彼は論理的な解決策を提示しようとした。
    けれど、パニックに陥った群衆には、彼の理路整然とした説明は届かない。難解な言葉は人々の不安を増幅させ、かえってエンジンのノイズを乱反射させる。

    その時、青年が再びマイクを握った。
    「みんな、大丈夫だ! エンジンも喜んでるだけだ! 僕が百パーセント大丈夫だと言ったら、大丈夫なんだ! もっと熱くなろう! 最高の世界はすぐそこだ!」

    狂気だった。
    けれど、その「根拠のない百パーセント」の確信が、市民の不安を塗りつぶした。
    人々は恐怖を忘れ、再び熱狂した。

    その凄まじい共鳴エネルギーが、物理的な法則をねじ伏せた。
    ドームの天井に走りかけた致命的な亀裂を、圧倒的な光の圧力が内側から強引に塞いでしまったのだ。本来なら崩壊するはずの構造体が、狂気のエネルギーの接着剤によって無理やり維持されている。
    論理的な裏付けなど何もない。
    ただ、みんなが「大丈夫だ」と信じたから、破綻したシステムがそのまま動き続けただけだ。

    それが、この街の選んだ答えだった。

    一ヶ月後。
    新しいリーダーとなった青年のもとで、街はかつてない活気に包まれていた。
    至る所に「最高!」「百パーセント!」「確信せよ!」というスローガンが溢れている。

    私は秘書として、彼の隣に立っている。
    前任のリーダーは「負の感情を伝播させた罪」で、街の最下層にある、光の届かないアーカイブ室へと追放された。

    私は時折、彼に会いに行く。
    薄暗い部屋で、彼は今も膨大なデータと向き合っていた。

    「……あの子は、いつか壊れるわ」
    私は彼に言った。
    「だって、彼が言っていることは全部嘘だもの。資源だって、あと数年で底をつく。それは計算すれば誰にでもわかることよ」

    彼は静かに首を振った。
    「いや、嘘ではないんだよ。彼は、自分自身の言葉を、本気で百パーセント信じている。それはある種の才能だ。私のように、予見してしまう人間には、逆立ちしても真似できない」
    「でも、そんなの、ただの無知じゃない」
    「無知が、この街を動かす太陽になったんだ。皮肉なことだが、深く考えすぎる知性は、時に足を止めるバラストになる。人々は歩き続けるために、光り輝く空虚を選んだんだよ。……君も、そうだろう?」

    私は、彼の机の上に置かれた一冊のノートを見た。
    そこには、この街を救うための、緻密で、誠実で、けれど少しだけ悲しい未来予想図が描かれていた。
    けれど、それを読む人はもう誰もいない。
    文字を読むという行為自体が、思考を分散させ、熱量を下げる「不純物」として嫌われるようになったから。

    私はそのノートをそっと手に取り、胸に抱いた。
    「……これ、私の方で処分しておきますね」

    私は彼に向かって、これまで絶対に見せたことのない、一片の曇りもない完璧な笑顔を作ってみせた。
    彼だけは、一瞬で気づいたはずだ。
    その笑顔が、私が知性を捨て、狂気の世界へ殉じる覚悟を決めた証なのだと。

    彼は少しだけ目を見開いたあと、すべてを悟ったように、静かに、ひどく悲しそうに微笑み返してくれた。
    「頼んだよ」

    それが、彼との最後の会話になった。

    アーカイブ室を出て、地上へと向かうエレベーターに乗った。
    扉が開くと、そこには人工の太陽が輝く、眩しすぎる街が広がっていた。

    広場では、青年社長が演説をしている。
    「みんな! 今日も最高の一日にしよう! 僕は百パーセント確信している、僕たちは永遠に幸せになれるって!」
    わあ、という歓声が上がる。
    人々の瞳は虚ろで、けれど幸せそうに輝いている。

    私は、ポケットから小さなデバイスを取り出した。
    私の脳波を測定し、エンジンへと供給する共鳴計だ。

    私は深呼吸をして、自分の心に鍵をかける。
    前任のリーダーが遺した正しい警告も、この街が数年後に迎えるはずの破滅も、すべて心の奥底にある暗い箱の中に閉じ込める。
    真実を知ったままでは、私はこの街を照らす光になれない。

    もし、この街の寿命がもう長くないのだとしたら。
    せめてその最期の瞬間まで、誰一人として絶望を感じることのないように。
    私は、世界で最も残酷な嘘つきになることを決めた。

    鏡のようなビルの壁面に映る自分に向かって、満面の笑みを作る。
    「最高です、社長」

    私のデバイスが、ピピッ、と音を立てた。
    液晶に表示された数値は、一点の曇りもない百パーセント。

    涙がこぼれそうになったけれど、私はそれを瞬時に「喜びの汗」だと脳内で再定義した。
    悲しみなんて、この世界を維持するためのエネルギーにはならない。
    思考のバラストを捨て去ったふりをして、私の心は宙に浮く。

    空のエンジンが、また一段と強く輝いた。
    誰も考えない。誰も疑わない。
    ただ、熱量だけが加速していく。

    私たちは、光り輝く絶壁に向かって、最高に幸せな気分で、全力疾走を続けている。
    その足元に広がる絶望の深さを真っ直ぐに見つめながら、それでも最高に幸せな笑顔でアクセルを踏み込める人間は、この街にはもう、私一人しかいなかった。
     

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