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――#18 (最終話) その職場は、怒鳴られもしなければ、殴られもしない。 それでも、人の心を静かに壊す場所だった。

    この日、私はもうここにはいなかった。

    第17話:風のように去る

    ――御殿、最後の一日――

    午前の面談にて、すでに決着はついておりました。 

    「もしお辛いようでしたら、明日からは欠席という形にして、
    今月末付の退職ということでよろしいですよ」


    課長自らそう提案し、
    さらには「皆さんには、明日の朝礼にて私から報告する形にいたしますが、
    どうなさいますか?」と、
    波風を立てぬ引き際を用意してくれたのでございます。

    彼女は少し考えてから、こう答えました。
     
    「……そうしていただけると、ありがたく存じます。」

    「私は、この場所で、ずっと孤独でございました。」

    「最後にお声をかけたい方も、挨拶をしたいお相手も、あいにく、お一人もいません」

    「孤独」という言葉が、会議室の冷えた空気を震わせました。 
    それを耳にした課長は、慌てたように、
    あるいは焦れったいというように、こう言ったのでございます。

    「――私が、いるじゃない」
    その言葉が、彼女の耳には、
    遠い地平から響く「空耳」のようにしか聞こえませんでした。

    彼女は、ただ微笑を浮かべたまま、
    静かに頭を下げました。
    もう、言葉を重ねる必要はございません。

    午後の風景
    課長は、さりげなく…
    御殿の 隅々へ こう 触れて 回りました。

    「今日は 体調が 悪いから、
    彼女には、 いつもの 仕事を させないで」

    御触れは 静かに 行き渡り、
    彼女は 後ろの席で 封筒入れなどの 軽き務めに 就いて おりました。
    手は 動く。
    心は 驚くほどに 軽い。
    すでに、 ここは 彼女にとって「過去」に なりつつ あったので ございます。

    前の席では、
    あの 圧凄が、
    かつて 彼女の
    担当だった スキャンと 入力に 挑んで おりました。

    ――見ものでした。

    スキャンは 詰まる。
    一度ならず、 二度、 三度。

    紙は 戻り、機械は止まり、
    そのたび、 圧凄の 口から 忌々しげな ため息が 落ちる。

    修正液を取り出し、 
    しばし 格闘したのち、 圧凄は 吐き捨てました。

     『これ、 使えないわ』――。
     ぽい、と 投げ捨てられた その道具は、
     かつて 彼女が 同じ 申し出をした際、 
    『使い手の 腕が 悪い』と 一刀両断された、
     いわくつきの 品にございました。

    入力もまた然り。 
    「絶対間違えてはいけない」と豪語していた当人が、
    いざ己が入力に回れば、受話器に触れる余裕すらなし。

    これまで彼女を「ふんぞり返ってチェックする側」
    にいただけの者の正体が、すべて、見えた。

    彼女は心の中で一つ、深く頷きました。
    今日で終わる。
    もう、この無神経な怪物の正体など、どうでもよいことにございました。

    恐れ多き「身分」の壁

    その後、彼女にとって最後となる「郵便物のダブルチェック」の折。
    いつもは圧凄にお願いしておりましたが、あいにく長電話の最中。
    そこで彼女は、手の空いている「正社員」に確認を頼みました。

    すると、電話を切るや否や、 圧凄の 金切り声が 御殿に 響き渡りました。
    「そんな仕事を、 恐れ多くも
    社員さんに 頼むなんて!
    私は しないわよ」


    ――恐れ多くも?

    社員さんに頼むことが、それほど「不敬」なことだったとはつゆ知らず。
    あな不思議。

    さらに 追い打ちを かけるように。
    「頼むなら、〇〇さん
    (同じ契約の者)に しなさい」

    指名された者は苦笑し、
    崇められた社員は、
    「そんなことないわよ」と 言いながら 笑っております。

    その光景を 見て、 彼女の中で、 すべての 点が 結ばれました。

    ああ、 この御殿は、
    実体のない 『身分』という名の 石垣を 積み上げ、
    互いの 脆き プライドを 守り合っておる 幻の城なのだ、と。

    新人の扱いがいかにか。
    なるほどと合点がいったのでございます。

    最後の「得意げ」な講義

    終盤に差しかかった頃、
    圧凄は なぜか、
    彼女に 新しい 仕事を 教え始めました。
    「これはね、 覚えるしか ないやつなの」

    明日から 彼女は 来ぬというのに、
    なんと滑稽なことでしょう。

    なれど 彼女は 黙って 話を 聞きました。
    すると、 不思議なことが 起きたのです。

    すんなりと、 頭に入る。
    「今日で 最後」と 思えば、
    余計な 力が 抜け、
    知性は 冴え渡る。

    人は、 逃げ場があるときほど、
    賢くなれる 生き物らしい。
    圧凄の 自慢げな 解説も、もう、遠かった。

    退出、そして外の世界へ

    帰り際、 彼女は小さく言いました。
    「お先に 失礼します」

    最後に、 課長へ 礼を 述べました。
    「本当に お世話に なりました。
    課長と お別れなのは 寂しいですが、
    ありがとうございました」

    課長は、 慈母のような
    顔で 返しました。
    「明日からは、 好きなことを してくださいね。
    あなたらしさを、 取り戻してください」

    家に 帰り、 家族に事の 顛末を 告げると、
    「一昨日まで 平然と 働き、
    昨日は 休み、
    今日は辞めると 告げて、
    明日は もう いないって。
    夫が 腹を
    抱えて 笑いだしました。

    彼女も、 声を出して笑いました。
    二か月ぶりの、 腹からの笑いで ございました。

    持ち物は、ペンケースひとつ。
    彼女は、風のように去った。

    ――終幕の独白:残された椅子――

    椅子だけが、残りました。
    昨日まで、確かにそこにいた者の気配を残したまま、
    主(あるじ)を失い、静かに冷えてゆく。

    そこには、もう誰もおりません。

    ただ、触れる者のないまま、
    冷ややかな風だけが通り過ぎてゆくのでございます。

    それこそが、去る者が残した、
    何より静かな意趣返しにございましょう。

    結びに代えて:尊厳、それは命の砦

    人が生きてゆくうえで、
    何よりも守らねばならぬものがございます。

    それは――
    「尊厳」という名の、心の砦。

    理不尽な場所は、
    声を奪い、判断を鈍らせ、
    気づかぬうちに、人の内側を削ってゆきます。

    どうか、忘れないでくださいませ。

    合わぬ場所を去ることは、逃げではございません。

    己の声に従う、ただそれだけの「判断」にございます。

    自分の命と尊厳を、
    自分の手で守り抜くこと。

    それこそが、この世において果たすべき、
    最も静かで、最も強い務めなのでございます。

    ――完

    あとがき

    私は、私を取り戻した。

    もし、あなたが今、
    どこかの「御殿」で息を潜めているのなら。

    この物語が、
    そっと懐に忍ばせる守り刀となれば幸いです。

    自らの足で立ち、
    自らの意志で去ること。

    その先にしか、まだ見ぬ風邪が吹いているかもしれません。

    あなたがあなたらしさを取り戻す日は、
    「もうよい」と、自らを許したその時より、
    静かに始まるのだと思います。

    これまで読んでくださりありがとうございました。

    あなたの行く先に穏やかな光がありますように。


     
     
    あみこ|人生を編み直す人 ブラック企業、喪失、介護、−26kg減量。 いろいろありました。 でも人生は、 思ったより何とかなるものです。 自分の体験をぜんぶネタにして 人生劇場として書いています。 読後に 「まあ、なんとかなるか」 と思ってもらえたら嬉しいです。

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