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サイドストーリー【とみの章】第4話(第一部回想編:最終話)(小さな世界の片隅で。)

    前回巻末

    ”ありがとう…。”

    モンペの裾に、ギュッとした手を感じた。

    ”…。”

    居間の景色が、滲んでいく。

    しゃくりあげるさち子の前で、とみも必死に涙を堪えていた。

    どうしようもない、どうすることも出来ない世界で、

    とみは自分にできる精一杯で、
    この子がここで、安らかでいられる時間を、
    ただ一緒に過ごしてあげたかった。

    暗がりの向こうの、

    ぼんやりと光る居間からは、今も変わらず、カチカチと刻む振り子の音が鳴り続けていた。

    第4話

    さち子ととみは、部屋で顔を合わすたびにポツリポツリと話をする様になった。

    “さち子…、ただいま。”
    “おかえり。義母さん…。”
    “ごめんね、ちょっと、遅くなっちゃって…。今すぐご飯作るから。”
    “義母さん、いいよ…、そんなこと…。”
    “ありがとうね。”

    部屋にいる時間を見つけては、たわいもない話しをした。

    ”さち子、これ分かる?”

    とみは、擦り切れそうな厚紙の束を取り出し、さち子へ見せた。

    ”あぁ…懐かしいわね…。
    それ…黄金バット…でしょ?
    昔、街道に来てた紙芝居屋さんでよく見たわ…。”

    ”あそこの…和菓子屋さんの隣に、空地があってね…そこに毎月、自転車を押した紙芝居屋のおじさんが来てたのよ…。駄菓子と紙芝居だけだったけど、すごく楽しかったわ…。”

    さち子は、厚紙の束を受け取り、
    畳の上に置き、並べてみた。

    ”どういういきさつか分からないけど、今日、これがお店に回ってきてね。今度、貸本で貸し出ししてみようかと思ってるんだけど。どうかね?”

    “…。”

    見覚えのある、色褪せて傷がついた黄金バットの表紙。さち子はそのカサついた表紙を軽く撫で、手にとって見返してみた。

    ”これ、裏にセリフが書いてあるわ。
    ほら…、ここ。”

    “そうかね。どう?”

    とみは、さち子の方へ近づき、厚紙を眺める。
    居間から漏れ出た灯りが、薄い闇の中に、寄り添う二つの影を映した。

    ”本当だね…ここなんか、セリフの言い回しを、えんぴつで何度も手直ししてあるねぇ。ずいぶん使いこんであるんだねぇ…これ…。”

    ”…。”

    “読んであげようか?”

    さち子が目線を上げると、とみが軽く微笑んでいた。

    ”義母さん…わたし、もう子供じゃないんだから…。”

    ”それに…。わたしと騒いでいると、また後でグチグチ言われるわよ…。“

    ”いいじゃないの。たまには、こういうのも…。”

    とみは、苦笑いをするように、顔を片側だけクシャっとさせながら言った。

    とみは、畳に並んだ厚紙を集め、膝の上で順番に重ねて、トントンと四隅を整えると、

    さち子の方に向き直り、厚紙の表紙を向けた。

    ”うまく読めるかしら…、”


    とみは、裏のセリフに目を落とし、昔に見たことのある紙芝居屋の雰囲気と、口上の時の声の抑揚を頭に思い浮かべた。

    ”あの…義母さん…?”

    ”んん…”
    軽く咳払いをして声の調子を確かめた。

    ”…。”

    ”さぁさぁ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。冒険痛快空想活劇、黄金バット~!はじまり、はじまり~!拍手~!”

    聞き覚えのある、口上だった。

    ”わぁ…懐かしいわね。”

    黄金バットの表紙を一枚めくる。

    大きな波の絵があらわれた。

    ”南太平洋上に大きな波が、30M級の大きな波がザバーン…、ザバーン…、続いて小波がザバーン…、

    “ハハハ…、そう…そう…、”

    居間の奥の暗がりに、昔の街道の一角が立ち上がっていた。


    ある日はこんな話もした。

    “義母さん…、今日ね、昔の頃の夢をみたの…。”

    伏せたまま、さち子がポツリと言った。

    “…。”

    “夢の中で、わたしも…皆も…、まだ元気でね…。
    わたしも…昔、お店の番台に立ってたこともあったのよ。”

    とみは、あの古ぼけた番台に立つ、十七~八位の歳の、すらりとしたさち子の姿を想像した。

    ”見たかったよ…、さち子が番台に立っている所。
    きっと、すごくきれいだっただろうね。”

    とみは、呟くようにいった。

    さち子は懐かしむように続ける。

    ”あの番台の椅子に座ってると、間口から、街道の様子がよく見えるのよね…。”

    とみが番台に座っている時の景色と、ゆるやかに重なる。

    とみも、日中の様子を思い浮かべて話す。

    ”そうそう。落ち着くのよね、あそこは。外の景色を見てるとさ、自分も、なんだか広い世界とつながっているような気がしてね。
    春は鶯の声、夏はセミの声に氷売りの行商さん、秋はお祭りの行列、冬は真っ黄色の街道のイチョウと、通りをびゅーびゅー吹き抜ける木枯らしの風…。あの小さな間口からさ、一年のうつろいがよく見えるのよね。

    街道の人通りも、お店に来るお客さんもさ、その日によって増えたり減ったり。お天気とか、時間とかでもさ、全然変わるのよね。

    決まった日や、決まった時間に、決まった人が来る時もあればさ。雨の日にだけ毎回、今日は休みになったからって来る人も居たり、

    それで…どの人も大体みんな、お店の中を色々みて回ってね…、最後に…いつものを一つだけ買っていくんだよ。”

    ”なんか、そういうのを、あの番台から見てるとさ、すごく落ち着くんだよね。”

    ”そうそう…、そうだったわね…。”

    話を聞きながら、さち子の頭にふんわりと当時の番台の景色が浮かんだ。さち子は、その景色が沈んでゆかぬよう、記憶の欠片を集めて、頭の中のキャンバスにスケッチするように、描き出していく。

    ”あの頃、お客さんの顔を覚えたわ。名前は知らないけれど、毎日同じ時間に新聞を買いにくる人とか、本や漫画を借りに来る子供たちとかね…。

    向こうからは、ただの本屋の娘って位にしか見えないんでしょうけど、わたしは、なぜだか今でも覚えてるの…。私、途中でお店に出れなくなっちゃったから、みんな当時の姿のまま変わらずに、わたしの中に残ってるわ。あれから何年も経ったけど、あの人達、どうしているかしら…。”

    ”…。”

    毎日…同じ時間…新聞…、とみは一人の客を思い浮かべた。

    ”あの…毎日ね、朝いちばんに、新聞を買いにくる、ちょっと気難しそうなおじいさんがいるんだけどさ。あの人、さち子が居た時も来てたかい?”

    ”あぁ…、あのおじいさんね。来てたわよ…。お元気なのね…。”

    ”元気よ。だけど、今は、もういいお年ね。”

    キャンバスの線が動き出す。二人が立つ番台の向こう側に、同じしかめっ面の顔と、オイルとたばこの匂いが浮かんだ。無言で新聞を番台に出し、代金を払うと、いつもの様に背中越しに軽く手を挙げ、歩み去っていく。

    その去りぎわの背中がすこし小さく、挙げた手の角度がやや低くなったような気がした。

    キャンバスに引いた線は、描いた順番にほどけては消えていった。

    ”そう…。”

    ”…。”

    ”そういえば…義母さんも、昔ね。用事で何回かこの辺りに来た事あるんだよ。もしかしたら、さち子と、どこかで顔を合わせてたかもしれないね。”

    さち子が座る番台から、西日が差し込む間口の向こう、街道の雑踏の中に、買い物かごを手に持った、若き日のとみの姿を見つけた。キャンバスの中のとみは、ゆっくりさち子の方を振り返り、あと少しで目が合うところで、

    引いた線は、また、さざ波が引いていくように、うっすらと消えていった。

    ”そうね…。そうだったかも…しれないわね。
    何か、不思議な感じね…。”

    ボーン、ボーンと時計の鐘が鳴った。

    二人は、居間の時計に目を向ける。

    ”あら、もうこんな時間…。”

    ”…。”

    ”義母さん…、なんか…時間ってね…、ちょっと切ないわね…。”

    ”目には見えなくて、掴まえられないけど、確かにそこにあって。それが、人によって喜びにもなれば、悲しみにもなる。”

    ”自分では、自分も時間も、ずっと変わらないなんて思っていても、それは自分の頭の中だけでさ。本当は、自分も時間も…、いや、自分だけじゃなくて周りのもの全てが、少しづつ変わっていってる。ずっと変わらないものなんて、何一つないのよね。”

    ”本当にそうね…。”

    鐘を打った後、振り子は、またカチカチと時を刻み続けている。

    とみのほうから話しかけることもあった。


    ”ねぇ、さち子はさぁ、何かしてみたい事とかあるかい?”

    さち子が時間について話した事が、とみの中で引っかっていたのかもしれない。

    ”したい事ね…、なんだろう…。義母さんはある?”

    質問を返されたとみは、その答えに詰まった。

    ”義母さんはねぇ…、なんだろう。いざ聞かれるとあまり思いつかないね。”

    ”義母さんは、今の暮らしとお店で精一杯かな。やりたいことねぇ…。…今…思ったのはね…。みんなが無事で、何事もなければ、それが一番いい。それだけで私は十分。それができるように今の暮らしを守ること。それが義母さんのやりたい事…かな?。”

    ”そうね…。それは、わたしも。”

    ”わたしは…そうね…”

    ”わたしね…、今はこんな身体になっちゃったけど…。もっと身体が元気だったら…、…もっと色んな所に行ってみたかったかな…。”

    ”色んな所?”

    ”そう。”

    ”ほら…私って、ここで生まれて、育って、働いて…体調を崩して…。生まれてから、ほとんど、この家の周りの事しか知らないの。だから…、もっとね、外の世界とかを見てみたかったかな。”

    ”外の世界かぁ…いいわね…。”

    とみは、店の外の、街道を行きかう人波に想いを馳せた。

    ”それで…、もし叶うのなら…、”

    ”わたしも…義母さんみたいに、どこかへお嫁に行きたかったかな…。”

    ”さち子…。”

    ”…。”

    外の世界への願いに繋がれ、引き出された最後の言葉が、さち子の本当のやりたいこと、だったことように、とみは感じた。

    ”いけない、いけない…。
    ごめんね。気にしないで…。”

    “何言ってるの、
    いけなかないよ…、何にも…。”

    引き出された願いは、それが見つかってはいけないもののように、再びさち子の奥に押し込まれた。

    “さち子…、あんたこんなにいい子で、何でも出来るんだから。いい嫁さんになるよ。”

    ”嫁に行くんだったら、もう少し、体力つけなきゃね。”

    ”…。“

    さち子は、話を遮るように続けた。

    ”それと…、義母さんがさ…、この間。お店の話をしてくれたじゃない?”

    ”久しぶりに、お店の話しをして、懐かしいなぁ…なんて思ってたんだけど…。”

    ”あのときに、昔、来ていたお客さん達の事を思い出してね。結構前の事なのに、なんでわたしは覚えてるんだろうって。別に、その時は気にも留めないような日常の風景だったのにね。”

    ”人ってさ、人の事を、一番やっかいで、でも恋しいように思うのと同じように、人の事が一番印象に残るように出来てるのかしら。ものや風景、景色の思い出も、よく考えると、どこかで人に結び付いているの。その記憶の奥に、誰か人を感じるのよ。”

    とみは、さち子の話を静かに聞いている。
    さち子は、視線を落としたまま、言葉を紡いでいく。

    ”わたしがお店に出れなくなった後、時間がたつにつれてお店の記憶は徐々に薄れていくのに、お客さん達の記憶は、奥のほうでずっと残っているのよ。いいことばかりってわけでもなかったんだけどね。ただ、その気にもとめなかった日常の景色は、今は、わたしのもとから失われてしまって、もう手に届かくなったものだからこそ、今のわたしにとって、かけがえのない、美しい思い出になっているのかもしれないわ。”

    ”その時ね、思ったの。あのお客さん達が、わたしにとっての美しい思い出になったのなら。もしかしたら…、もしかしたらね、こんなわたしでも、いつか、だれかにとっての、美しい過去になれるかしら…。なんて…。”

    ”わたし…もう一度、あの番台に立てるかな…。”

    ”…。”

    ”お店の番台はさ、あの土間を通って、すぐそこにあるんだけど、今のわたしには、すごく遠いの。”

    ”もう少し、元気になったら、わたし…もう一度、あそこを歩いて、あの番台に立てるかしら…。”

    さち子の、切実で、消え入りそうな願いだった。

    ”何言ってんの、さち子。
    立てるよ、立てるに決まってるじゃない…。“

    ”一緒にやろうよ。義母さんとさ。
    昔、なんかじゃないよ。今やるの。さち子は私よりお店長いんだから、色々教えてよ。…ね。”

    ”…。”

    ”ありがとう…。”

    まだ見ぬ未来を、さち子も、とみも同じキャンバスに描いていった。時間と記憶が書いては消していった下書きに、希望という名の絵の具で、何度も何度も色を重ねた。

    ”さち子…、どうしたの?”
    ”ちょっとね…、歩いてみようかと思って…。”

    どこに何を塗ればいいのか、どんな絵が出来るのかもわからない。

    ”大丈夫?どう…、つかまって。”
    ”うぅ…、ありがとう…義母さん…。”
    ”大丈夫…。自分でやってみるから…。”

    でも、出来上がる絵を夢に見て、今を懸命に生きていた。

    カチカチと時計の振り子は、音を立てている。


    あるとき、

    さち子が、身体を起こして、居間の入り口に腰掛けていたときだった、
    土間を通って、懐かしいお店の声が聞こえてきた。

    “すみませ〜ん!”
    "これいくらでかりれますか?"
    ”これはね、2泊3日で1銭ね。”
    ”じゃあ、これ。お願いします。”
    ”あ…、”
    ”…。”
    ”いいよ、いいよ。ちょっと待ってて、”
    カチャ…、
    ”これね、僕から、私に渡してくれる?”
    ”え?はい…、”
    ”ありがとう。じゃあ、3日後にまた持ってきてね。”
    ”いいの?”
    “(いいのよ…。見つかったらまたね…。)”
    ”本のまた貸しはしないようにね。”
    ”ありがとう。”
    ”気を付けてね。またどうぞ〜。”

    ”…。”

    かつて、番台から店の間口を通して街道の様子をうかがっていた時のように。今は、居間に聞こえるあの店の声が、さち子のとっての間口となっていた。

    目の前にある、店の番台へと続く、ひんやりとした土間の先の数メートルが、今のさち子にはまだ遠い。しかし、とみと一緒に歩んでいくことで、あと少しで届きそうな気がしていた。

    とみの姿を、さち子も追う事で、閉じ込められたさち子の時間は、しだいに、とみの時間に溶け出し、とみの時間もさち子の時間に溶けだしていった。

    夜風が入る居間、

    部屋に残る、時が焼いた畳のかすかな匂い、

    番台へ続くひんやりした土間、

    居間のボンボン時計の振り子が刻む音。

    時の中に自分を閉じ込め、その色を変えてしまいそうだったいつもの景色は、今は、とみと共にある、色を帯びたかけがいのない、美しい記憶の一部として、再び結びついていった。


    病気の事については、お互い、なにも話さなかった。


    話さなかったが、


    この過ぎ去っていく日常が、変わらずに、いつまでも続かない。


    それは、お互い気づいている様だった。


    カチカチと時計の音が鳴っている。


    それから、


    また、日が経ち、


    とみと、夫との間に子供が生まれた。

    よく笑って、よく泣く、
    元気いっぱいの女の子だった。

    ”ん〜ぎゃあ…ん〜ぎゃあ…!“

    ”よし…よし…“

    その女の子の名前は、いつまでも平和が続く事を願って”和“の字を、異母姉妹の姉になるさち子から、”子“の1字をもらい、”和子“とつけられた。

    “だぁあ…だぁ…”
    “だぁ〜ぁ…だぁ…”

    その声は、
    店に差し込む陽の光のように、まばゆい明るさを、その家に添え、

    その愛らしさは、
    家に広がる厳しさ、堅苦しさを、徐々に溶かしていった。

    和子の誕生を、
    家族も、さち子もとても喜んだ。

    さち子が、和子をあやした。

    “和子…、かずこ…、ほら…ハハハ!”

    “だぁだ…きゃぁ〜あ!”

    抱いているとみは、クシャっと笑い、
    さち子の肩をポンと叩いた。

    珍しく、夫が近づいて、

    “おとみ…、さち子…、ありがとな。”

    ポツリと言い、とみとさち子の背中に手をやって深く頷いた。


    しかし、和子が自分で立ち始めた頃から、

    同居する家族の和子への愛情は、しだいに和子にかける期待へと変わり、

    家族の干渉はとみに留まらず、和子にまで及ぶようになっていった。

    ”和子…、”
    ”いつになったら、たつのかね、”
    ”いっぱい食べるんだよ、”
    ”これで遊んでみたらどう?”
    ”これ、読めるかね?”

    言葉に忍びこんだ目に見えない、期待という名の重さは、それを受け続ける、和子に、じわじわとのしかかっている様だった。

    ”いい加減にしろ!”

    夫もさち子も家族をとがめた。しかし、和子の成長とともに、その言葉は、輪をかけて重みを増していった。

    そして、ある日、

    和子はうついたまま、声を出すことができなくなった。

    “和子!和子!…和子…!”

    ”…。“

    とみが、声をかけても、うつろな目をするばかりで、あんなに元気に泣いて笑っていた和子の顔から、言葉が、表情が消えた。

    ”…。“

    その日の夜、気づいたときには、とみは和子を抱えて、この家を飛び出していた。

    外は、
    激しい雨がふっていた。

    土砂降りの雨は、とみの気持ちをせき立てるように、激しく戸を叩いていた。

    とみは家の中を見周した。

    居間の他に明かりはなく、時折、寝息や咳払いが聞こえるだけで、家族は皆、寝静まっているようだった。

    とみは、勝手口近くの土間で、腰から下げた手拭いを頭巾のようにして被り、そばに置いた抱っこ紐を肩にかけ、和子を布で幾重にもくるむと、胸に抱き抱えて、勝手口の向こうの闇の中へ駆け出した。

    どこへ向かうのか、自分でもよく分からない。
    ただ、ただ、足の向くまま、走り出していた。

    最後に振り返った時、
    勝手口から漏れ出た深く黄色い光が、

    かすかに聞こえたボンボン時計の振り子の音が、

    とみから徐々に離れていった。

    街道の一面が、雨と土の匂いで満ち満ちて、

    外へ出た瞬間、頭巾の上をボタボタボタと無数の重い雨粒が打ち付けた。

    路上にできた無数の水溜まりを踏むたび、バシャバシャと音が鳴り、草履とモンペの裾は、すぐに、泥でびしょびしょになった。

    バシャバシャと走り揺れる度に、抱えた和子の重さ感じ、かけた紐が肩に食い込んだ。

    横目に、街道沿いの店から漏れ出た光が長く尾を引き、

    途中で、番傘や、蓑、道中合羽を羽織った、見覚えのある背格好と幾度かすれ違った。

    そのたび、雨具も付けずに走り行くとみに、視線が送られたのが分かった。

    “…。”

    とみは振り返らなかった。


    空を覆う黒々とした雨雲から、
    こらえきれない、

    冷たく、重い雨粒が、

    地上に吹き下ろす風を纏い、

    走り行くとみの

    頬を打ち、

    身体を打ちつけた。

    降り注ぐその雨は、

    時に鉛のように重く、

    時に針の様に、鋭く突き刺さる。

    とみは、走り続ける。

    ”ハァ…、ハァ…”

    身体を打ち続ける雨は、徐々に服にしみ入り、

    ”ハァ…、ハァ…”

    服が肌に張り付いて、
    とみの体温と身体の自由を奪っていく。

    身体が…重い、

    息が…苦しい、

    ”ハァ…、ハァ…”

    荒い息づかいと、

    雨と、汗と、

    こもる熱気で、

    とみの全身をが水が覆った。

    とみは、和子が濡れてしまわないよう、
    ギュッと固く胸に抱いた。

    身体が…冷たくて…暑い…、

    ”ハァ…、ハァ…”

    抱えた手が重く…、

    そのまま走り続けて、街道を走り抜き、

    脚が…、

    民家がならぶ区画を走りぬき、

    脚が…、

    細い農道を走りぬき、

    もう…、

    目の前の土手を上がった、

    走れない…。

    土手に上がると、
    目の前に、古い木造の橋が見えた。

    “ハァ…、ハァ…。”

    とみは、そこで一度足をとめた。
    身体を屈め、両手を膝につき、息を整えた。

    “ハァ…、ハァ…、”

    息の苦しさと、疲労、体の冷たさで、視界がぼやける。

    橋の下には、闇に隠れて姿は見えないが、水かさを増し、黒々とした濁流が、ザザーと音を立て、辺りのものを、力まかせに押し流している。

    ”ハァ…、ハァ…。”

    息を整え、もう一度、目の前を見た。

    それは、実家と嫁ぎ先を隔てる川にかかる、古い木造の橋だった。

    娘の時代に、駅前に出てゆくとき、この橋を何度も渡った。
    縁談がまとまり、街道の、あの書店に嫁ぐ事がきまったとき、私はあの橋を渡って嫁いでいくのだと、
    嫁ぐその日を、実家を出ていくその日を、
    淡い期待と、不安と切なさの中で揺れながら、その日が来るのを、指折り数えて過ごしていた。

    ”ハァ‥ハァ‥、”

    嫁ぐ日の朝、少ない嫁入り道具を持って、この橋を渡っていくとき、
    慣れ親しんだ景色が、後ろに遠ざかっていくのを見ながら、この景色の中には、もう戻ってはこれないのだと、

    ”ハァ.、”

    この橋の向こうに、私のこれからを、家族のこれからを、共に紡いでいくのだと、あの日、そういう思いでこの橋を越えていった。

    ”…。”

    その日の事が何故か一瞬頭をよぎった。




    あのときと同じ橋が、目の前で濡れていた。

    ”…。”

    とみは、もう一度、和子をギュッと胸に抱くと、

    橋に向かって、

    バシャバシャと駆け出した。

    ”ハァ…、ハァ…。“

    濁流の音が近づき、息づかいが聞こえた。

    それは周囲の空気を水と共に押し流し、

    しぶきをあげて勢いを増し、留まることを許さない。

    とみの草履が橋げたに掛かかるとき、

    その息がかかる。

    肌が急に冷え、

    真横から、しぶきを伴った風圧が、

    強く吹き付けた。

    体が煽られそうになり、

    とみは、咄嗟に姿勢を低くし、よろけながら端の低い欄干を掴んだ。

    ”…。“

    濁流は、時に橋脚をガタガタと揺さぶり、その振動が橋げたを揺らす。

    掴んだ、低い欄干が心もとない、

    “…。”

    とみは、体勢を立て直すと、
    欄干からゆっくりと手を離した。確かめるように数歩歩いた後、向こう岸に、再びパシャパシャとかけていく。

    橋げたは、時折、ギシギシと音を立て、

    風と雨と、濁流の音の中に、とみは包まれた。

    “ハァ…、ハァ…”

    橋の中頃に差し掛かった所で、

    プツッと、

    とみの草履の鼻緒が切れた。

    “あっ…”

    踏み込んだ脚がぐらつく。

    ついた足が、切れた鼻緒の先まで滑り、足先に固い橋げたが当たった。半分脱げた草履は、そのまま、とみの足首に絡みつき、次に踏み出す一歩を誤らせた。

    “っつ…”

    バランスを失ったとみの身体は、身体が倒れる速度に足が追いつかない。前に一、二歩よろけた後、踏ん張りきれずに、そのまま前方に倒れ込んだ。

    ドサっと、鈍い音がした。

    倒れる寸前、とみは咄嗟に身体をひねり、肩から橋げたの上に打ち付けられた。

    ”うぅ…、”

    視界が一瞬ぼやける。

    橋げたの上に転がる、泥だらけのとみを、雨は絶え間なく打ち続けた。

    とみは、腕の中の和子を確かめる。

    ”和子…和子!“

    声は出さないが、和子はとみをチラリと見た。

    ”あぁ…、よかった…。“
    そっと手をやった。

    ”いっ…、“

    身体中が痛くて、立ち上がれない。

    ”あぁ…“

    とみの目に映るのは、欄干の間から見えた、黒々押し寄せる濁流。

    空を見上げると、月もない空に、目まぐるしい勢いで移り変わり、形を変えていく雲の群れが浮かんでいた。

    ”…。“

    走り続けることで、紛らわせようとしていた、
    思いがとみの中を駆け巡った。

    走っている間も、何度も思っていた、

    ひきかえそうと。

    倒れた橋の中頃から、嫁ぎ先の方をみる。

    今引き返せば、まだ間に合うかもしれない、

    橋の向こうのその先に、
    街道の書店・貸本店の番台が、
    番台に続く、ひんやりとした土間が、
    居間の向こうの暗がりが、ほんの一瞬見えた。

    どこかで、”義母さん…。”と、か細いさち子の呼ぶ声が聞こえるような気がした。

    あの、強がりで、さみしそうな後ろ姿が何度も頭をよぎった。


    手元で、”ぁ…ぁ…”と、和子が、声にならぬ声を絞りだそうとしている。
    抱いた手の中に、小さな身体と暖かい体温を感じた。


    戻りたかった。


    戻れなかった。

    真っ暗で、雨が打ちつけるその橋の上に、子供を抱えた一つの影が、天を仰いで、転がっている。

    夜風が入る居間、

    時が焼いた畳のにおい、

    店へ出る時のひんやりとした土間、

    モンペの裾をギュッとにぎったさち子の手、

    空に浮かんだ、幾つもの思い、時の破片が、

    絶え間なく降り注ぐ、この雨粒の様に、
    何度も、何度も、とみの心を打ち続けた。

    風向きを変えながら、吹き荒れ、打ち付ける風は、とみの気持ちを揺らし、

    橋の下に黒々と押し寄せる濁流は、とみの思い出も覚悟も流していくようだった。


    ”…。”

    とみは、ゆっくりと身体を起こし、座りこんだ。

    冷たくかじかんだ手で、頭の手ぬぐいを外し、片方を歯で咥え、ビリビリと引きちぎった。切れ端をより合わせて紐にし、切れた鼻緒の部分に挿げ替えた。

    膝をついて立ち上がり、草履に足を通す。

    履いたまま、何度か足をならすと、打ち付けたほうの脚がひどく傷んだ。

    “…。”

    とみは、もう一度、天を仰いで、目を閉じた。

    雨は変わらず、とみを打ち続けていた。

    とみは、街道の方向に向き直ると、深々と頭を下げた。

    そして、

    向きを変え、脚を引きずりながら、その橋を越えていった。

    子供を抱いた一人の影が、その、濡れた橋の上をゆっくり遠ざかっていった。


    その後、両家の間で話し合いがもたれ、とみは子供を引き取り、正式に離婚する事となった。

    それから、しばらくたってからの事だ。


    とみは、新しい嫁ぎ先で、その知らせを聞いた。


    暑い夏の日だった。





    さち子が、家を抜け出し、隣の県の駅のホームで倒れていた所を保護された。

    そのまま近くの病院へ救急搬送され、

    入院中、

    さち子は、病室を抜け出し、

    自ら病院の屋上へ上がり、

    そこから身を投げ亡くなったと。



    ”…。”

    さち子の訃報を聞き、

    とっさに飛び出して、納屋へ駆け込んだ、あの日。

    あの日に感じた息の苦しさ。

    押しつぶされるような胸の痛み。

    焼かれるような胸の痛み、

    誰にも届かぬ心の叫び、

    胸が詰まり、息が出来なかった。
    胸に手を当てる事しかできなかった。

    あの日、納屋から見えた空。
    最初で最後に流した涙。


    その日の事は、誰にも話さず。
    今も、とみの心の奥深くに打ち付けられている。


    視界は、次第に晴れていき、
    気がつくと、自分の部屋に戻っていた。

    “ハァ…、ハァ…”

    遠くに、まだ息の苦しさがある。


    ”そう…、そうだったわね…。“

    ”さち子…、忘れられるわけ…ないでしょ…。“

    ”…。”


    ”もう、そんなに時間がたったのね…“

    とみは、もう一度、自分の皺くちゃの手に目をやった。

    あのときの、さち子の背中においた手、書店・貸本店で働いた日々、家事に勤しんだ日々、さち子と向き合った日、和子を抱いた日、飛び出した雨の夜、訃報を聞いた炎天下の夏。

    そのすべてが、
    とみの小さな願いとともに、生きてきた、時の軌跡が、この皺くちゃな手の中にあった。

    ”…。”

    とみは、さち子の幻影に語りかける。

    ”さち子や…、”

    ”あんたには、ちゃんと、お別れも言えてなかったね…。”

    ”さち子…。本当にごめんね…。そして…ありがとうね…。”

    ”…。”

    とみの中に沈めていた言葉が、なぜか、意思とは無関係に浮かんでくる。

    「義母さんが、嫁ぎ先であんたの訃報を聞いたとき、今のこの胸の様に…今にも止まってしまいそうで、押しつぶされそうだったわ。」

    「全身が叫んでいたけど、それを吐き出す所は、どこにもなかった。」

    「…。」

    「厳しい時代だった。」

    当時の周りの視線や心ない言葉が、とみに突き刺さった。ただ、それは、受け止めるべきものとして、とみは、黙ってその全てを受け止めた。

    「あんたや、あの家への後悔、未練は、全部、あの雨の夜に置いてきた、つもりだったけど…。人って、そう簡単に割り切れるもんじゃないのね…。」

    「新しい嫁ぎ先でも、和子を見るたび、ふとした景色に出会うたびに、あんたの事が頭をよぎったわ。」

    「どこかで、まだ私も、あのときと同じ時間を刻んでいるような気がしていたのかしらね。」

    「あんたが、この世を去って…、身体も、人の話にも、出て来なくなって、存在が世の中から薄れていく中で、義母さんは、あんたとの時間のつながりも消えてしまったと感じたわ。」

    “…。”

    とみの奥に沈めた言葉が、さらに浮かぶ。

    「さち子や…」

    「義母さんが出てってから…」

    「あの部屋の中で、さびしくなかったか。
    つらくなかったか。ひとりで苦しんでいなかったか。」

    「誰か、ついてくれてたか。」

    あの雨の夜、

    戻れるものなら、戻りたかった。

    もう一度戻って、少しだけでもいい、
    さち子のそばにいてやりたかった。

    もう怖がらなくていい。

    いつもそばにいてあげるからと。

    とみは肩で息をする、

    思いだす一つ一つがとみを苦しめた。

    とみの奥底に沈めた言葉が、堰を切って、
    あの濁流のように、押し出されようとしていた。

    「あんた、あんな身体で…、あんなに遠くまで…」

    「どうして…」

    「どうして…そんなことをしたの…」

    想像した、

    あの雨の夜から、分かれていった時の流れを。

    もう一度、居間の奥の暗がりに戻っていく、細いさち子の背中を。

    一人で家を出て、
    電車にのるさち子の姿を、
    駅のホームで力尽き、倒れているさち子の姿を、
    屋上の柵を、一人で乗り越えるさち子の姿を、

    人一倍怖がりなさち子が、柵の向こう側に立ち、震えるような高さを前に、恐怖ですくみながら、何度もためらう、さち子の姿を。

    その思いを。

    「どうして…、どうして…」

    「悔しかった。何も出来なかったよ…。あたしは…。」

    言葉にできない。
    どう言葉を紡いでみても、とみの気持ちからは、
    遠く離れてしまうような気がした。

    「さち子…、あんたにとって、義母さんは、何だったの…?」

    それは、さち子に聞いているようでいて、
    自分に問いかけているようでもあった。

    「義母さんは…結局。あんたが、一番嫌ってた事をした。優しい言葉をかけておいて、あとで全部を取り上げたんだ。」

    「恨まれて当然の事をした。」

    「戻りたいー戻れない。やり直したいーやり直せない。後悔しているー後悔していない。」

    「どんな言葉を並べたって、あんたの気持ちには添えないわ。」

    「もし…」

    「あの時…、あの夜…」

    「私が引き返していたら…」

    「私が…居たら」

    「あの場所に、私が居たら…、」

    「少しは、変わっていたのかな…。」

    「…。」

    さち子の声が、姿が、言葉が、重なる。

    わぁ、懐かしいわね…。
    時間って、ちょっと切ないわね。

    「私が…」

    ちょっと歩こうと思って…。
    大丈夫、自分でやってみるわ。

    「私が…」

    かあさん手伝うわよ。

    「…。」

    とみの最も深い所の言葉が、押し出された。

    「あんたを殺したんだ。」

    こんなわたしでも…、いつか誰かの美しい過去になれるかしら。

    とみは、静かに目をつぶる。

    「…。」

    「許してもらおうなんて、思わない。」

    「…。」

    続ける言葉が見つからない。

    「さち子…。義母さんはね…、この長い長い時の中を、この歳まで…生きてきた…。」

    「あんたへの後悔、和子への後悔、お父さんへの後悔、時に自分が消えてなくなりたい位の罪、思いを背負ったまま、いつ終わるとも分からない、あんたが生きるはずだった、今日という時の連続を生きていく事。」

    とみの部屋の時計が動いている。

    「あんたへの思いが薄まらないように、さち子…あんたが抱えていただろう胸の痛みも、あたしの胸の痛みも、他の誰にも告げずに、一人で抱えたまま、向こうへ行く事。」

    とみが晩年に患った病。その胸の痛み、呼吸の苦しさでさえ、とみは、あの時のさち子の痛みとして受け取った。

    「あんたが、あのとき、感じていた思いを、願いを、時間の続きを、誰にも知られないようにして、義母さんは、歩いてきたの。」

    さち子の幻影は、とみの背後に、さち子が描いた夢の続きを見た。

    とみは、さち子が去ったキャンバスに、一人で色を重ね続けていた。
    押し寄せる時の波、時代という名の濁流に何度も押し流され、
    下絵が何度も、消えては、汚れ、時には黒く染まっても、
    描き続けるとみの身体が老い、痛み、衰えても、なお、
    それでも、さち子が描きたかった絵を夢見て、とみは、一人で大きなキャンバスに色を塗り重ねていた。

    「それが、私にできる、さち子…あんたへの償い・責任だと思ったんだ。」

    「でも…、」

    「その…終わりがきたのかな…。」

    「だから…さち子…」

    「生きてきて…後悔なんて数えきれない程あったけど…」

    「後悔はしてないわ。」

    「それに…最後にこうやって、あんたに会えた。
    義母さんはね。それだけで、もう充分だよ。」

    「だから…、さち子…。」

    「ないよ…。私には、もう。心残りなんてね。」

    「…。」

    「さぁ、どこへでも。行くべき所へ案内しておくれ。」

    さち子は、頷く。

    「…。」

    「義母さん…。ほんとうに…、それでいいのね?」

    とみは、クシャと笑い、ゆっくりと頷く。

    「分かったわ…。」

    「義母さんがそれでいいのなら…、私はもう何もしない。」

    「…。」

    「ありがとうよ…。さち子…。」

    「…。」

    さち子の幻影は、とみの方に、ゆっくりと手を差し出し、

    とみも、その手の方へ、ゆっくりと手を伸ばす。

    あと少しで、手が振れそうなその時、さち子の幻影は、急に手を引っ込めて、自分の頭に手をやった。

    「ダメ…。まだだわ…。まだ、連れていけない。」

    「この家の近くで、何か、強い思いを感じるわ。」

    「…。」

    「今、この家に向かって、その思いが走ってくる。」

    激しい息遣いが聞こえた。
    ”ハァ…、ハァ…。”

    「それは、義母さんの心残りなのか、その人の心残りなのか、どっちか区別がつかないの。」

    「義母さん、何か心当たりはない?」

    「…。」

    「心当たり…心残り…ねぇ…。」

    とみは、部屋の窓に目をやった。
    かつて、その場所に立って見ていた、夕方の土手の風景を思い出した。
    行きかう人々、中年のサラリーマン、主婦、犬を連れた高校生…。

    「優一…。」

    不意にその名前が浮かんだ。
    いくつになっただろう、もうしばらく会っていない。

    「優一…?誰…なの…?」

    「和子の子供よ…。あんたの…甥っこ…ね。」

    夕方に土手を散歩していた、あの中年のサラリーマン。
    孫の優一に雰囲気がよく似ていた。

    「それこそ、今、どうしてるかね…。」

    「…。」

    「そうね…、私の目が開いているうちに、最後に一目だけ、今のあの子を…、見てみたかったかな…。」

    「…!」

    呼吸の苦しさが近くなった。

    「ハァ…、ハァ…。」

    弱い胸の鼓動を感じ、
    視界が揺れ、靄がかかる。

    部屋の時計の音が、徐々に遠のいていく。

    「優一…、ごめんね…。
    ばあちゃん、もう…、間に合いそうにないかな…。」

    「…。」

    △

    ”ハァ…、ハァ…、”

    息が上がる。

    “ダメだった…、今日もダメだった…。”

    ”また逃げちまったよ…、俺…。”

    まだ、少し動悸が残っている。
    胸に手を当ててみる。

    ボサボサ頭、顔に不精ひげを生やした優一は、帰ってくるなり、すぐに部屋に引き篭もった。

    散乱した部屋。部屋にあふれる菓子やレトルトの食品類。発泡酒の缶や大容量の焼酎のペットボトルとその残骸は、荒れた優一の不安定な内面をそのまま表していた。

    部屋の真ん中に敷かれた布団に横になり、優一は考えていた。今日、ばあちゃんの家の前で話をした、あの中年男性のことを。

    ※本日もお疲れ様でした。
    社会の片隅から。徒歩より。

    今後の展開:
    本作はここで一つの「回想編」として完結を迎えますが、物語のフィナーレは、令和の現代を舞台にした第二部「心残り編」へと引き継がれます。

    会社のパワハラによって、ノイローゼになり、部屋に引きこもってしまった、とみの孫(さち子の甥)・優一。毎日の不摂生がたたり、身体は太り、髪はボサボサ、無精髭を生やし、恰好は、毎日よれたグレーのスウェットばかり着ている。自身の体裁の悪さを気にするあまり、祖母であるとみとも長く疎遠になっていた。近年、とみの容態が良くない事を知っていた優一は、何度かとみの家の前まで来たが、門の中まで踏み入る事ができずに、逃げ帰ってしまう日々が続いていた。ある日、優一は、自分の部屋から家族あてにかかってきた電話の応対の様子を聞き、とみが今、危篤の状態である事を知る。いてもたってもいられなくなった優一は、着の身着のまま、夕暮れの街へと走り出していく。

    最低で、最高の贈り物。

    昭和から令和の現代へ。心を病みながらも、無精髭とボサボサ頭、上下グレーのスウェット、サンダル履き。外の世界から見たら最低な体裁をした孫の優一が、とみの最期に間に合わあわせる為、なにもかもをかなぐり捨て、夕暮れの街を息を切らして「走り出していく」。

    はたして、優一は、あの門の中まで入ることができるのか。

    もう一度、とみに会うことは出来るのか。

    社会の片隅で傷ついた若者が、とみのベッドサイドで交わす「最後の言葉」とは。物語は、切なくも温かい、家族の再生の結末へと向かいます。

     
     

    徒歩

     
     
    1982年生まれ、地方の会社員。情けない、しょうもない毎日を通して、言葉にならない、捨てきれない気持ちを小説、記事等を通して創作。社会の片隅で生きる、情けない小市民の記録。

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