
雨/雪/霙
雨/雪/霙
平凡な日常、そしておそろしくよくあるものがたり。
10月7日
お醤油工場の中を突っ切っているときはぱらぱらしているくらいだったのに、目医者さんの角を曲がる頃にはじゃーじゃーになってきて、私はおうちの白い渦巻きみたいな模様を連ねた門に滑り込むように駆け込んだ。玄関の扉は重く閉じていて、みんなまだ帰っていないのかなと庇の下にうずくまった。
「千紘ちゃん、千紘ちゃん。どこにいるの。まだ学校?」
「あらあらたいへん」
玄関ドアを開いて大きく体を乗り出し、低いフェンス越しにこちらを覗いた八香ちゃんが、そのままパタンとドアを閉め、しばらくして私のおうちへ、駐車場を迂回した遠回りで、走ってやってきた。
「大丈夫?風邪引かないようにね」そう云い乍ら大きな茶色いタオルで私の頭をゴシゴシと拭った。
「うわ~大丈夫か」学生服に布製のリュックを背負った千紘ちゃんが走ってくる。
「千紘ちゃん。遅い遅い」
「どうもすみません」八香ちゃんにぺこりと頭を下げる。
「いえいえ。こっちこそ勝手に入っちゃって」
千紘ちゃんはビニール傘をプンプンと振ってきちんとたたむ。
「もう衣替えなんだね」
「なんかでもダボダボで」
「三年着るからね。ピチピチよりいいんじゃない」
それから八香ちゃんは「ねえ。名前教えて」と云った。
「あ、千紘です」そう云ってから千紘ちゃんははちみつ梅みたいに赤くなり、「あ、いや千鶴。千鶴です」と私の方へ顔を背けるようにしていった。
「千鶴ちゃんかあ。美人さんだねえ」
「親がね。ヒロ、ツル、って呼ぶの」
「あるあるだなあ」
「でね。最近。オレのことカメって呼ぶの。ツルとだからカメって」
「縁起よさそう」
「でね。こないだ友だち来たとき、母親がね。カメ~石井くん来てるよって。それから学校でもカメって呼ばれるようになっちゃて」
「なんでなの~って女子がさわさわ噂してるんじゃない」
「参っちゃうよ」そう云って私の顔を見たけど、表情は笑っている。
「そのタオル、返さなくていいから。景品だし」
気がつけば雨は上がり雲間から青空ものぞいている。タイミングが悪かったんだなと私は思う。お日様の光がカーテンのように広がってきて、八香ちゃんと千紘ちゃんは「虹出ないかな~」と高い目線できょろきょろしている。
「景品と云ったけれど」
八香ちゃんがくれたタオルをふたりの間に置いて千紘ちゃんが云う。
「千鶴。これはドーナッツをいっぱい食べて、ポイントを集めてもらうタオルなのだ」
茶色い背景。焦茶色のくまさん。片手にキャラメルブラウンのドーナッツ。見事なグラデーションだ。バスタオルサイズだけど、ちょっと小さめで、ちょっと薄手で、結果使い勝手がよさそうだ。そしてかわいい。
「お隣は八香さんとお母さんの二人暮らしだ。お母さんはまあ、おばあさんだ。故に八香さんもまあまあなお年だと思う。だからね。あの家族構成でポイントをためるのはそう簡単なことではなかったんじゃないか。八香さんはお仕事のお昼ご飯にも毎朝駅ビルでドーナッツを買っていたかもしれない。週末のおやつももちろんドーナッツ。もしかしたら冷凍庫にはまだラップでくるんだドーナッツが整然と並んでいるかもしれない」
「ハーバルはシェアしないだろうしね」
「故に景品だからっておいそれといただいてよいものかと思うのだが、だからといって、これをきれいに洗濯したとしても、どうぞまたそちらでお使いくださいというのはやはりはばかれるのだ」
「すみませんねえ」
千紘ちゃんは貯めていたお小遣いでヨックモックのシガールの一番小さいサイズを買った。日曜日の昼下がり、ふたりでお隣のおうちの玄関をピンポンした。
「あらあらそんな気をつかわなくてもよかったのに」
「千鶴もとても感謝しているので」なあっと私の頭をなでる。
玄関先には八香ちゃんのお母さんも出てきて、たぶん経緯を知っているのだろう、一歩下がったところから楽しそうに目を細めて私たちを見ている。
「ああ。シガールにはあらがえない。私」八香ちゃんは笑って百貨店の紙袋を受け取った。
「それからこれ」千紘ちゃんはポケットから小さなビニールの袋を取り出す。
「おお、ちゅ~るのタラバガニ味。ハーバルこれ好きなんだ。いやなんでも大歓迎なんだけど。なんかこれの時だけよりテンションあがってるんだよね。すごいね。目利きだね」
そうなの。お隣の窓からずっとハーバルがこちらを見てたの。どうしたの?ハーバルって八香ちゃんが窓の外を見たの。そうして私のところへ来たんだよ。
茶色いバスタオルは、きれいに洗濯されて、私の枕の上に敷かれている。私はもともととても寝付きがいいのだけど、幸せな記憶にくるまれて、より穏やかな眠りと、そしてよい夢に身を沈めることができる。雨の日もちょっと寒くなる季節も、私は全部好きになる。
2月16日
「ゆきふるといひしばかりの人しづか」
門柱の前で腕組みをして八香ちゃんが云う。考え込んでいるからではなく寒い寒いの体勢だ。
「室生犀星なんだけどね。これ続きがあったと思うんだよね。連句?あってるかな。連歌か。いややっぱり連句か。ここしか思い出せないのだが」
「全方向にわかんないよ」
「わかんない」が私の頭の中で3Dみたいな映像になっている。
八香ちゃんのおうちの門柱の上には小さな雪だるまが飾られている。朝早く八香ちゃんのお母さんが玄関前の雪を掻き集めて作った。コンクリートの上の雪だから真っ白だ。お顔はない。頭の上に葉っぱ付きの南天の実が置かれている。両側には夏の間に役目を終え乍らずっと玄関口に置かれていた「むしバイバイ」くんが並べられている。ピンクと水色。阿吽の狛犬のようだ。
「うう~寒いな~。千鶴早起きだなあ。風邪ひくぞ。入ってこいよ。あっおはようございます」
「千紘ちゃんが遅起きなんだよ。おはようじゃなくておそようだよ」
「きれいに足跡ついてるなあ。写真撮っちゃおうかな」
さっき八香ちゃんと雪だるまといっしょに写真を撮った。このあたたかい町では年に一度二度のイベントなんだなあと思う。何人にも万遍なく訪れ、それぞれに享受する。時にしあわせで、時にちょっと困ったプレゼント。
「かまくらつくるか。かまくら。千鶴はいるか」
「いやいや。無理だって」全方向にねと私は思う。「ゆきふるといひしばかりの人にぎやかだよ」
八香ちゃんは笑って南天の枯れ枝を小さくポキリと折り、雪だるまのお顔を笑い顔にした。
その日は日曜日で、平和で温かい雪の一日になるはずだった。八香ちゃんだってきっとこたつで、ハーバルをお膝にのせて、みかんをむいていたに違いない。でもお昼過ぎ、救急車のピポピポが近づいてきて、お隣で止まった。
八香ちゃんのお母さんが玄関先で転がっていた。おでこからか頭からかいっぱい血が出ている。「救急車いらないから。大丈夫だから」と連呼していて、お母さんを担架に乗せる隊員さんは「いや。これ救急車だって」とお返事している。
八香ちゃんは大きな鞄を抱えておうちから出てきて、玄関の鍵を閉めると救急車に乗り込んだ。「お騒がせしてすみません」お外に出てきた私たちに律儀に頭を下げた。
八香ちゃんのおうちの玄関先はいつかテレビで見たクランベリーの収穫風景みたいになっていた。出しゃばりかなと思ったけど、私たちはスコップを使ってジュース色の雪を玄関脇の土の部分に流し込んだ。玄関の石畳の上にあとがつかないように。致命的なことでなければ、どんな「あと」だって思い出になるけど。でもこれは片付けた方がよいでしょう?
「八香ちゃん帰ってきたよ」
「大丈夫ですか」千紘ちゃんが声をかける。「うん。ひとまず一泊入院。週三でお世話になってる病院で見てもらうことができたの。明日の透析が終わったら帰ってくる。ああ。仕事は昼から休まなきゃ行けないな」
「何か落ち着いてて尊敬する。オレだったらあの血みたらびびる」
「血が出てたからだよ。意識しっかりしてたし。外的なものだから」
「なんかできることないですか」
「お気持ちだけで充分」八香ちゃんは笑う。「今からもういっぺん病院行くんだ。必要な物全部持ってったつもりが印鑑忘れちゃって。いつもこう。いつも。うん。慣れてるんだこういうこと。場数だね」
「運転免許あったら乗せてってあげられるのにな」八香ちゃんのおうちには車がない。駅までと駅からを何回も往復するのだろうな。
「うん。その時は宜しく。頼もしい未来だ」千紘ちゃんは恐縮している。そんなに遠い未来じゃないよ。私も助手席に乗せてね。
「あっ玄関先片付けてくれたんだ。ありがとう。たいへんな仕事させちゃったね」
私たちも忘れていた。それくらいきれいになっていたから。
「今日日曜日で病院の売店も開いていないし、駅ビルで必要な物とお弁当買ってくの。夜はね。いろいろしてあげなきゃいけないこともあるしね。お顔拭くとか。前に入院した時蒸しタオルの作るとこ教えてもらったのよ。それからね。いっしょに夕ご飯いただくの。いっしょにテレビ見ながらね。悪くないのよ。割と楽しいよ」
小さく会釈して背を向けた八香ちゃんは、玄関を開けると「ハーバル。ごめんね~」と云った。三つ指ついて出迎えたんだろうな。
「八香ちゃん帰ってきたよ」
今日二度目の伝言を私は千紘ちゃんに伝える。二人お外には出ず、窓の外を見る。八香ちゃんがそっとため息をつくのが聞こえた気がする。玄関先の雪だるまは少し溶け始めていて困り顔になっている。
「ゆきふるといひしばかりの人しづか」
私はなんだかよくわからないから、自分の知っていることばを続ける。「大丈夫だよ。大丈夫だよ」
「貴方に届け サイレントニャー」
えっ千紘ちゃん。それ正解?ずるいよ。
3月7日
「うわ。ツルちゃん。でかくなったな」
「千鶴はレディなんだ。コトバを選んでくれ」
「だってさ。こんなだったじゃん」
そう云って石井くんはおむすびを握るような仕草をした。
じゃりじゃりとしたものがお空から降りてきて、私はみかげ公園のベンチの下に潜り込んだ。ベンチは私を存分には守ってくれず、上や横の隙間から、気体だか液体だか固体だか、得体の知れない冷たい物にだんだんと覆われて、声を出すのは危険なことと刷り込まれていたけれど、瀬戸際を察知する本能に導かれたように、何処に向かうかわからないような、情けない呼び声をあげていた。
「こっち、こっちだ」
公園の真ん中を突っ切って、千紘ちゃんと石井くんが走ってきた。ずいぶんな荷物だ。画板、楽器、不思議な紙細工。小学校六年間の三学期の終わりで、貯めに貯めこんだ物を抱えてきたのか、二人はそれらをベンチの上に投げ出し、小さくしゃがみこむ。水気を含んだ冷たいお空の落下物にいろんな物が濡れていくのを気にするそぶりは見せない。
「うち金魚いるんだ。今時金魚鉢なんだ。父ちゃんが溺愛してるんだ」
開口一番に石井くんは云った。
「おお。金ちゃん元気なのか。すごいな」
「金ちゃんじゃないし」
石井くんはこよなか神社の縁日の金魚すくいで、オレンジ色の女の子をすくい上げて、得意げに千紘ちゃんに掲げたら、ソフトクリームのコーンみたいなのから、クチャンと落ちて、でも屋台の人はそれをちゃんとひょいって受け止めて、持ち帰らせてくれたのだ。一周年だってこないだ嬉しそうに話していた。小夏ちゃんだよ。
「まあ。それはさておき」千紘ちゃんは荷物をもう一度背中に背負ったり脇にはさんだりして、両手を開けてから、わたしをそっと掌にたぐり寄せた。ゆっくりと丁寧に胸に抱え込んだ。「オレのもんだ」
八香ちゃんのおうちのお母さんのお部屋の窓辺で、ハーバルがずっと見ていた。丸くなって眠っていたのに、私の声にすくっと起きた。ハーバルが呼べば、きっと八香ちゃんがすぐに走ってきただろう。でも、わかっていた。必要ないって。ハーバルが窓辺でお昼寝していると、公園のフェンスにへばりつくようにして、千紘ちゃんは見ていた。深窓の令嬢に恋い焦がれるように。私を抱えておうちへ走る千紘ちゃんを見届けると、カーテンの影からハーバルは消えた。もう少し温かいところで眠るのだ。
人魚姫みたいに、人間の姿に変えてくださいって願ったら、夏の頃なら私は千紘ちゃんの学校のセーラー服が似合う女の子だったろう。みかげ公園で石井くんと三人でフリスビーをして遊んだだろう。でも今なら千紘ちゃんのジャージさえパツパツのお姉さんで、横座りなんかして、千紘ちゃんのお悩みを聞いたりするんだろう。それからまもなくお母さんみたいになって、何かと忙しくなった千紘ちゃんを寂しげに眺めて、そうしていつか、どこかへ行ってしまった千紘ちゃんを静かに待つおばあさんになる。
千紘ちゃんが入学祝いで手に入れたスマートフォンには私のライブラリーができている。いや、ほとんど私だ。最近は八香ちゃんからも画像を入手して、「おっこりゃかわいい」と悦に入っている。「猫って不思議だな。いるだけで季節感ありありになる」
大切にされた記憶が、愛された記憶が、貴方を育む。うん。わかってる。慈愛。寛容。許容。でもなんか上から目線じゃない?私はたいてい見上げてるけど。
悲しかったこと。不安だったこと。私はときどき思い出す。わざわざ思い出す。油断大敵とか、相対評価とか、そんなじゃない。「永遠」だからだ。
いつか、千紘ちゃんの中で私は「あの頃」になるだろう。
市松模様の首輪も、銀色の櫛も、「あの頃」になるのだろう。
でも、私の中で千紘ちゃんは最初から最後までだ。
みかげ公園のベンチの下。寒さ。心細さ。放射状にとめどなく降りてくるつぶつぶ。冷たく湿っていく私。そうして私を包み込む、小さな、大きな、掌。「永遠」の始まり。
「おはよう。千鶴ちゃん」
「八香ちゃん、おはよう」
「あ、おはようございます」
「あ、おはよう」


窓辺の天日干したちにうもれるちびさん。

やはりちびさん。
キミが「あの頃」になるなんて、思いもせず、かいたよ。2025年2月。