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アマツバメの涙

    <あらすじ>
    辺鄙な村を出てパイロットになることを夢見た少年トールは、特有の視力と体格を買われ、十五歳にして最新鋭戦闘機のパイロットとなる。
    配属された基地内の寮では過酷な訓練や新人ミッションに悪戦苦闘しながらも誇りややりがいを見つけていくが、突如として戦争が勃発。初陣で躊躇いなく実弾を放ったトールは、それ以降も命じられるがままに飛び、淡々と標的を破壊し続ける。
    しかし、ある時を境に自らの放つ砲弾が人々の当たり前の日常を奪っている事実に気づく。そうして激化する戦火の中、仲間たちが次々と去り、やがて自身も撃墜され愛機を失ったトールの戦争は再び唐突に終わりを迎える。
    空への憧れも居場所も失った彼は、かつて自らの手で灰に帰した街へと足を運ぶ。そこで待っていたのは、後戻りできない残酷な現実だった。



    アマツバメの涙



    冷たい風の合間に、ぬかるんだ泥の匂いが混ざりはじめる。
    間もなく春が来そうだと村の大人たちがささやいていたその晩は、家の外でやたらとうるさく猫が鳴き続けていた。

    その晩だ。トールはパイロットになろうと決めた。
    今から三年ほど前、十三歳になって半年ばかり過ぎた夜のことだった。
     
    ミャーウ! アゥーッ! ミャオーウッ!
     
    うるさい猫は同じ調子で鳴き続けているようでいて、よく聴いてみると少しずつ声の出し方が違う。
    だからといってどうということもないのだけれど、またしばらくしたらそこら辺を子猫がうろつくようになるのだろうなと、トールはぼんやり思った。
     
    ミャーウー! ギャオーゥ! ミャゥオーウッ!
     
    こんな風に夜更け過ぎても猫が鳴き続ける夜は、年に数回ある。
    そして少し経つころに、決まって子猫の姿を見かけるのだ。
     

    村の誰にも懐かないその猫は、けれどなぜか村に住みついて離れない。
    何匹もいたはずの子猫が一匹、二匹とどこへやら姿を消しても、子猫を生んだあの猫だけはずっと村にいる。

    出て行かないのか、出て行けないのか。
    出て行けないんじゃないかな、とトールは思った。

    ふわふわの毛並みは魅力的なのに、愛想がないせいで村の誰もがあの猫のことを毛嫌いしていて、実のところ、キコリと猟師ばかりのこの村では犬のほうがよほど役に立つ。

    向かいのおばさんなんかは姿を見つけると必ず「なまけ者のごくつぶし!」と言ってほうきで追い払っているし、トールもいつだったか一度うっかり子猫を踏みかけて、引っかかれたことがある。

    そのせいでうるさいあの猫のことが苦手になったトールだったが、それ以上に好きじゃなかったのが自分のことだ。
    あの猫とおなじようにこの村で暮らすしかない自分のことが、トールはずっと好きじゃなかった。

    バス停まで三十分以上歩き、三時間に一本しか来ないバスに五十分以上乗って学校に行く。トールの生まれ育った村は辺鄙な場所にあり、けれどトールがこの村を好かないのは、辺鄙な場所にあるからじゃない。
    トールが『トール』と名付けられたこの村が、トールはずっと好きじゃなかったのだ。

    だけど今はもう気にならない。

    パイロットという仕事を見つけたからだ。
    それは十三歳のトールの、希望の光だった。

    「パイロットになろう。この村を出て働くんだ」

    あの晩、うるさい猫の声を数えながら胸に抱いたその決意を、トールは誰にも言わなかった。

    家族や村の人たち、学校の先生や友人たちの誰からも賛成してもらえなさそうな気がしたし、決意を口に出すことが少し恥ずかしかったせいもある。

    その日から、トールは夜な夜なひとり布団に隠れてこっそり勉強をした。
    あまり好きではない勉強も、パイロットになるためだと思えば不思議とがんばれた。

    そうして十五歳になった夏の終わり、家族には適当な嘘をついてバスで半日はかかる隣の隣の、さらに隣の大きな町まで出かけ、そこで試験を受けた。
    軍のなかでも花形と呼ばれるパイロット職は人気があるため倍率が高く、試験は難しいことで定評があるらしい。
    けれど、受からないかもしれないなんて疑いもしなかった。

    不思議と予感があったからだ。
    空を飛ぶ自分の未来の姿が鮮明に想像できた。

    そして筆記試験を受け終わったときも、おそらくそこそこのできだったろうと自分では思った。ところが実際は、まあまあギリギリの点数で通過したらしく。
    身体能力の試験はそこそこで、それはまあ予想通りではあったのだが。

    聞いたところによると、一番評価されたのはトールが生まれつき持っている〝遠くまでよく見える眼〟だったそうだ。
    その次に評価されたのは、どんな機体でも乗りこなせる小柄な体格だったと。トールを自分の部下へと引き入れてくれた上官から、なにかの拍子にそう教えられた。
     
    大きな男になるように、と願ってつけられた自分の名前がトールはずっと嫌いだった。
    だけど今、大きな男になれなかったおかげでパイロットとして働けている。
     
    その通り。トールはパイロットだ。
    一年前に入隊したばかりの新米だけれど、もう独りで飛んでいる。
    一人前の、立派なパイロットなのだ。

    そのことをトールはとても、とても誇らしく思っているのだった。
     


    【北方新聞】 二〇××年三月一日付(夕刊)
     
     
    祖国の未来を、若き精鋭の手に――『国家防衛特措法』本日施行
       十五歳の志願兵、技術特務兵として国防の最前線へ
     
    政府は本日、国家防衛特措法を公布した。
    これは祖国が認めた『選ばれし若き才能』に、その力を発揮する最高のステージを用意するものである。
     
    ※志願に際しては、管轄の軍事委員会にて身体適性検査(クラスAA)を受ける必要があります。
    ※選抜された特務兵は指定の最前線部隊へ優先配属されます。
     


    1.ミドルシティへ


    「やっと着いた……」

    閉ざされたゲートとその向こうに見える灰色の頑丈そうな建物の群れをながめて、足を止めたトールはほっと息を吐いた。

    まわりに高い建物がないせいで、その一角だけが非常に目立つ。
    ミドルシティ空軍基地。
    ここが新米パイロット、トールの配属先だ。

    飾り気がなく、機能性だけを重視して建てられたのだろう。灰色の建物群はどれも四角い。
    最もゲートに近く、ひときわ大きな建物の壁には、国旗と、昔ながらの戦闘機の絵が描かれている。

    入隊が決まってから九ヶ月間は北東にある駐屯地で訓練を受けていたトールだが、先月、この基地への配属が正式に決まった。

    訓練期間が終わり、駐屯地を発ってから電車とバスを乗り継いで七日あまり。ようやくたどり着いた基地は、ミドルシティの中心部からかなり離れた場所にあった。

    高いフェンスに囲われた基地の中にはおそらく、様々な戦闘機と、それに乗るパイロットたちが大勢働いているはずだ。どこからか腹の底に響く重低音や、ジェット機のエンジン音らしきキーンという高い金属音が聞こえてくる。

    肩に食い込むダッフルバッグを担ぎ直し、トールはゲートに向かって再び歩き出した。

     
    春の始め。
    雪解けの泥を踏んだブーツがぐしゅっと音を立てる。

     
    重たそうな鉄製のゲートの前には、AK-74を抱えた歩哨が立っていた。
    近づくと、じろりと鋭い眼つきを投げられる。
    思わずビクッとして、トールはあわてて胸ポケットから赴任命令書と通行証を取り出した。肌身離さず七日以上ポケットであたためてきた赴任命令書は、端のほうが少しよれてしまっている。

    なにか言おうかと思い、結局なんと言えばいいのかわからないまま無言で差し出したそれを、衛兵もまた無言で受け取った。

    厚手の紙に印刷された命令書にザッと目を通し、通行証の顔写真と実物とをジロジロと見比べられる。
    短いはずのその時間が妙に長く感じられて所在なく視線をさまよわせた先に、役割を終えたミグ戦闘機の記念碑があった。雲間から射す光に輝く銀色の機体は、コンクリートの台座から今にも飛び立ちそうに見える。
    翼に描かれた赤い星を目にした瞬間、トールの胸の奥でドクンと大きく鼓動が跳ねた。

    所属は、第一航空連隊の第八飛行隊。
    今日からトールもこの基地の一員になる。

    熱いなにかが胸に込み上げてくるのと同時に、兵士から書類を返された。
    ガッと車輪が砂利を噛む音がして、ゲートがゆっくりと開く。まだ冷たさの残る埃っぽい風に乗り、白灯油のまったりとした匂いが鼻を刺激した。

    深呼吸をひとつ。トールは書類を再び胸ポケットへとしまい、ひとりぶんだけ開かれたゲートをくぐって基地の中へと足を踏み入れた。
    自然と背筋が伸びる。

    「ようこそ、ミドルシティ空軍基地へ」

    入ってすぐ、濃紺の隊服に身を包んだ初老の男が立っているのを見つけた。
    どうやらトールを迎えに来たらしい。

    「あれ? スターシ将官……?」

    穏やかに微笑むその顔に、トールは目を丸くした。
    よく見覚えのある人物だったからだ。

    「やあトール、驚いたかい?」

    少し鷲鼻気味の高い鼻に、丸い顔とへの字型の下がり眉毛。顔立ちだけなら気のいい八百屋の親父のような雰囲気のスターシ将官だが、その左胸には翼の形の部隊章が、右胸にはいくつものキ章が飾られている。
    そしてなにより目をひくのは、将官の帽子の正面に輝く三つの大きな星だ。

    「もしかして……」
    「その通り。今日からきみは、私の部下。〝ピカピカの新入り弾丸〟だ」

    まるでいたずらが成功したみたいに、ニヤッと笑う。
    けれど三つの星は、彼が空軍のなかで三番目に偉い将官だという証を示している。
    試験のとき、トールの〝目〟を一番褒めてくれた試験官がスターシ将官だったのだが、まさかそんなに偉い人物だったとは。

    おそらくとても光栄なことなのだろうと思うが、驚きすぎて、トールはただぽかんと口を開けてぱちぱちと瞬きを繰り返した。
    そんなトールにもう一度ニヤリとして、スターシ将官は言った。

    「期待しているよ」
    「は、はい! がんばります!」

    親しみのこもった仕草でポンと肩を叩かれ、トールはハッと敬礼を返した。

    「では、行こうか。まずは寮に案内しよう」

    きびきびと歩き出した将官の姿は辺りの風景にしっくり馴染んでいる。
    遅れじとその後ろについて歩きながら、トールは改めて上官となる人物の、さほど大きくはないのにとても大きく見える背中を、まじまじと見つめた。

    ここだけの話だが、試験のときのスターシ将官は隊服も着ていなかったし帽子もかぶっていなかったから、三つの星が輝くあの帽子の下で、彼の頭もツルっとピカっと輝いていることをトールは知っているのだった。



    2.鳥かごのルール 


    人間という生き物は思いがけない場面において、すぐさま普段と違う行動は取れないものだ。そう気づいていた過去の誰かがしくみを作り上げたため、軍には今もたくさんの規則や決まりがあるのだという。

    有事というのは、いつも突然なのだ。いざというときに兵士たちがうろたえ、バラバラに動いていては、国やそこに住む人々を守れなくなってしまう。そのため日頃から厳しいルールに従い行動する習慣をつけておくのだ、と教えられた。

    そんなわけでトールも北東の駐屯地で、まずは各自に支給される分厚いルールブックを読み込むところから訓練を始めた。

    嫌になるくらい細かい文字で書かれたルールブックを覚えるのには非常に骨が折れたのだが……それはともかく。

    生活に直結する決まり事として、軍に所属する者たちはそれぞれ専用の寮で暮らすことが定められている。例外が認められているのは階級が上の将官たちのみで、結婚している者であっても普段の生活は寮で送らなければならない。

    それは駐屯地でもセントラル基地でも同様で、パイロットたちはそれ専用の寮へ、整備兵は整備兵専用の寮へ。それから通信・情報部隊に輸送・設営部隊、歩兵、憲兵、行政と、それぞれ専用の寮へ入ることが決められている。

    朝から晩まで――それどころか寝ている間も――有事に備えるのだ。それが国を守るプロの軍人というものなのだと、訓練のごく初期のころに習った。

    トールはパイロットとして採用されたので、入寮するのはもちろんミドルシティの基地内にあるパイロット寮――通称『鳥かご』である。

    「『鳥かご』には、本日時点で百二十三人の第一航空連隊員が入寮している」
    「ぼくを入れて、ですか?」
    「当然。きみはもう第八飛行隊の所属だからな。つまり、栄えある百二十三人目の第一航空連隊員というわけだ」

    トールの所属先である第八飛行隊の隊員は、全部で十七人だという。スターシ将官の案内でたどり着いた『鳥かご』の中、割り当てられている寮の部屋は別棟と呼ばれる少し離れた場所にある建物の二階だった。

    なんでも通称をつけるのが好きな軍らしく、この別棟は『ストック』と呼ばれているのだとか。
    『ストック』は最も滑走路に近く、講堂から最も遠く、格納庫がよく見える位置にある。

    新米のトールはまだ知らないことだったがスターシ将官直轄の第八飛行隊は少し特殊な部隊で、トールを除く十六人はいずれも〝精鋭〟と呼ばれる先輩パイロットたちなのだった。

     
    スターシ将官に連れられて寮に向かったトールは、そこで先輩パイロットへと引き渡された。

    慣れるまでの世話役だと紹介されたのは、もじゃもじゃのあごヒゲが特徴的なボラウドさんという先輩だ。
    年齢はトールより六歳上で、背丈はちょうどトールと同じくらい。だけど横幅は少しボラウドさんのほうが大きい。

    ボラウドさんがトールの次に新しい入寮者だったらしいが、それでもすでに三年目だという。

    どうやらパイロットが狭き門だというのはほんとうのようで、ボラウドさんの次にトールが入隊するまで、パイロットとして採用された者はいなかったのだとか。

    「ま、俺たちはエリートってことさ――と言いたいところだけどな」

    ガハハと豪快に笑って、ボラウドさんが言う。

    「単に、入隊志願者の中に適合者が少ないっていうだけさ」
    「適合者?」
    「ああ。視力や体格や、バランス感覚――三半規管の強さとかな。戦闘機乗りにはクリアしなくちゃいけない必須条件がいくつもあるんだよ」

    なるほど、とトールはうなずいた。
    このときはまだ自分が採用された理由を知らなかったけれど、きっと視力だろうなと胸のうちで納得した。なにせスターシ将官が直々に褒めてくれたのだから。

    「それに、あれだ。新入りは『選ばれし若き才能』だろ?」

    おぼえのあるフレーズに、トールはつぶやいた。

    「あ、北方新聞の」
    「そうか、新聞で知ったのか」

    はい、とトールはうなずいた。

    「学校の掲示板に貼ってあったんですよ」

    トールがパイロットになろうと決めたあの日に学校で見つけたのが、まさにその北方新聞の記事だった。
    『選ばれし若き才能』にふさわしいステージを与えると書いてあったのが妙に頭に残り、それで軍を目指そうと決めたのだ。

    「俺たちのころはその特措法がまだ施行されてなかったから、入隊できるのが十八からでさ。それで俺と新入りの中間の年のやつはいないっていうのもある。ま、第八飛行隊員はちょいと特殊な三ツ星将官の直轄だからな。そもそも枠が狭いんだ。そういう意味ではエリートと言えなくもないか」

    別にどちらでもいいなとトールは思った。
    軍の一員になれたというだけで、充分に特別感は味わっている。

    「ルールブックは記憶したか? ま、最初だけだな。全部暗記しておけっていうほうが無理だろ。肝心なところだけ叩き込んどけばいいさ」

    トールが答える前に、続けてボラウドさんが説明を始める。

    「で、軍ってやつはルールが好きなんだな。それぞれの寮にも、それぞれのルールってのがある。だいたいは慣れればわかってくるが、厄介なのは新米限定ルールってやつでな」
    「厄介」
    「ああ、厄介だな。新米のそいつにとっても、その他の隊員にとっても」

    重々しくうなずくボラウドさんが、人差し指を一本立てた。

    「一つめが玄関の掃除。これはまあ、そんなに大変でもない」

    これは夕方、一日の任務を終えてから夕食までの間に済ませなければならない。
    もう一本、ボラウドさんは指を立てた。

    「二つめが風呂掃除。これもまあ、大変なのは時間が限られてることくらいだな」

    これは夕食後にきめられている入浴時間が終わったところから、就寝時間の前までに済ませなければならない。

    入浴時間から就寝時間まではあまり余裕がないこともあって、掃除の時間は一時間ほどしかない。が、先輩パイロットたちも皆、かつて新米パイロットだった者ばかり。掃除をする新米に配慮して、ちょっとした汚れなどは自分の入浴時間にちゃちゃっと掃除をしておいてくれるので問題ないという。

    実際、やり始めてみたらその通りだった。
    とても助かっている。

    「そんで最後に、これだ。厄介なやつ」

    一番厄介で、けれど一番大事なお役目だ、とボラウドさんは言う。

    「なあ新入り。おまえ、料理したことはあるか?」
    「ありません。一度も」

    家にいる間は母がしてくれていたし、訓練中は食堂を利用していた。だからトールは包丁もフライパンも鍋も、今まで一度も手にしたことがない。
    そう答えると、ボラウドさんが深々とため息を吐いた。

    「そうだよな。そうだろうと思ってたさ。ああ、覚悟はできてた。問題ない。なんたってウチの隊は男ばかりだしな、俺だって通ってきた道だ」

    まるで自分に言い聞かせるように一息で言ったボラウドさんが何故、だしぬけに料理経験をたずねてきたのか。
    その理由と、『覚悟はできている』と言いながらもどこか悲痛な顔をしていたそのわけは、翌朝すぐに思い知ることになる。



    3.焦げたパン、焦げていないパン


    スターシ将官率いる第八飛行隊の新入りに与えられている最も重要なお役目。それは、朝食当番だった。

    体力が必要な兵士たちにとって、食事ほど大事なものはない。
    ――いや、もうひとつ。睡眠も大事である。
    けれど就寝時間も起床時間もしっかりと決められているから、その点は問題ない。

    問題なのは、食事のほうだ。
    なかでも朝食は、日中の任務に集中するためには非常に重要である。
    栄養バランスはもちろんのこと、味も。そしてできれば見た目も。
    美味しく、きちんとバランスの取れた食事をしたいと思うのは兵士たちも皆と同じだ。
    それなのに新入りが朝食当番を任されるという第八飛行隊の独自のルールを作ったスターシ将官は、いったいどういうつもりだったのか。

    重大すぎる責任におののいたのは最初の一日だけ。
    次の日からはそんなひまもなく、冷や汗との戦いだった。

    皿も割ったし、コップも割った。
    包丁で指をザクッと切ったし、フライパンで火傷もした。

    それも一度や二度じゃなく、何度も。

    「お!」

    食堂のカウンターでトレーを受け取って、皿に盛られたパンを見たボラウドさんが嬉しそうに声を上げたのは、トールが当番を任されて三週間ほど経った朝のこと。

    「今日のパンは炭じゃない!」

    隊の中で誰よりもたくさんパンを食べるボラウドさんは、毎朝黒コゲになったパンを噛みしめてはなんとも言えない哀しそうな、寂しそうな、あいまいな表情になっていたのが申し訳なくて。
    それが今日は満面の笑みで目を輝かせている。

    「見ろよボラウド、ベーコンもちゃんと生じゃないぞ」

    そんなボラウドさんに声をかけたのは、先に着席していたレベヤルさんだ。右手だけで器用にフォークを持ち上げて、皆に見せている。

    レベヤルさんは、パイロット歴八年目になる中堅の隊員だ。
    トールやボラウドさんとは違い、カレッジから軍事学校に進み、それから航空連隊に配属になったという二十七歳。

    数日前の訓練中にケガをしたせいで左手をぐるぐるに固定しているのだが、しばらくのあいだ「パイロットが手をケガするなんて情けない……」と、かなり落ち込んでいた。
    ほんのりキツネに似た顔立ちで、細かいことにうるさくて、だけど面倒見のいい先輩である。

    「本当だ。すごいぞ、目玉焼きも焦げてない!」

    今度はボラウドさんの後ろに並んでいた別の先輩が叫んだ。

    「ようやくまともになったな、トール」
    「やるじゃないか」

    あちこちで喜びの声があがり、食堂へ集まってくる先輩たちの顔が次々と明るくなる。
    ほめられた嬉しさ半分、申し訳なさ半分で、カウンターの内側に立ってそれぞれの皿に料理を配りながら、トールは「へへ」と鼻の下をこすった。

    何でかって、トールも必死だったけれど、毎朝生焼けのベーコンや炭になったパンを齧る先輩たちも、それはそれで必死だったからだ。

    「よし。ではトールの朝食当番は卒業だな」

    暮らしている寮は別のところなのに、毎日第八飛行隊の食堂で食事をしているスターシ将官が重々しく言うと、わっと拍手が起きた。

    「やったな!」
    「よくがんばったぞ、トール!」

    トールはもう一度、「へへ」と鼻の下をこすった。
    新入りが朝食当番をするというルールは、同時に、一人前に調理ができるようになったら卒業する、とも決められている。
    どうやらトールも、三週間かけてようやく条件をクリアできたようだ。

    「ということで、来週から食事当番はいつものローテーションに戻すぞ。トールは、レベヤルとボラウドの班に入れ」

    スターシ将官の言葉に、ふたりの先輩隊員が了解したとうなずいた。
    もぐもぐしていたパンをのみ込んでから、ボラウドさんが言う。

    「来週からの食事は朝と昼と夜と、全部ローテーションの当番制だ。昼と夜は朝よりメニューが増えるからな、がんばって覚えろよ」
    「はい、ボラウドさん!」
    「しっかり頼むぞ、トール」

    真面目な口調で、今度はレベヤルさんが言う。

    「調理工程は複雑になるが、毎朝ひとりで全員分の食事を作るよりは楽になるはずだ」
    「よろしくお願いします、レベヤルさん」

    ぺこりと頭を下げたトールだが、ついつい口元がゆるんでしまう。
    なにしろ第八飛行隊に配属になってから、どんな任務よりも訓練よりも苦労したのが、この朝食当番だ。
    このまま次の新人を迎えるまでずっと当番を続けなければいけなかったらどうしよう、いつまで皆は焦げたパンに文句を言わず付き合ってくれるのだろうと日々ドキドキしていたから、喜びもひとしおなのである。

    快く班に受け入れてくれたふたりも、それ以外の先輩たちも皆、トールと同じだけ喜んでくれているようだった。

    最初のパンを食べてしまったボラウドさんが、お代わりをしにやってくる。他の隊員たちも、皆いつも以上にもりもりと各自の食事を頬張っている。

    「俺の地元に美味いパン屋があってさ。そこの焼き立てパンと同じくらい美味い」
    「おいボラウド、それはあれだ。久しぶりのまともなパンだから、舌にプラス補正がかかってるだけだ」

    いそいそと皿にパンを盛るボラウドさんが懐かしそうに目を細めるが、すかさずレベヤルさんに訂正される。トールも大きくうなずいた。
    まともになったとはいえ、本職のパン屋ほど上手なはずがない。

    「ま、いいさ。なんでも。美味けりゃな」

    気にしていないのか、あまり聞いていないのか。
    ボラウドさんはお代わりのパンを皿に乗せて、ついでに立ったままもうひとつ取り上げたパンに齧りついた。どうやら席に戻る間すらもどかしく感じたらしい。

    「調理も訓練のうちだからな。トール、問題だ」

    呆れ顔で立ち食いするボラウドさんを見たレベヤルさんがやれやれと首を振り、次いで、トールに向かって無事なほうの指を一本立ててみせた。

    「たとえば無人島にひとりきりで不時着したとする。仮に食料は集められても、調理の仕方ひとつ知らなければ、どうなる?」

    いきなりレベヤルさんが発した問いに、他の先輩たちが勝手に答えて行く。

    「生の草をひたすら食べる羽目になるな。生きて帰れる確率はぐんと下がる」
    「屋外では火を熾すところからだし、水の確保も必要になる」
    「そうさ。まともな調理場を使えるのが、どれだけ楽なことか。ま、トールも屋外訓練を体験してみたら身に染みてわかるさ」

    うんうんとうなずきながら皆の発言を聞いていたスターシ将官が、不意にニヤリとする。

    「ということで、だ」

    将官の声は、不思議とよく通るのだ。その一声だけで注目を集めると、スターシ将官は皆の顔をぐるりと見回した。

    「うわ、嫌な予感がする……」

    呟いたのは、誰だったろう。

    「ハハ、そういうカンはよく当たるものだよな。ということで、来週は野外訓練を行う。想定は……そうだな。無人島でいこう」

    途端に、ため息とうめき声が食堂に満ちる。絶望の雰囲気、とでも言おうか。隊員たちは思い思いに天をあおいだり、頭を抱えたりしている。

    「ハハハ。予め通達しただけ、ありがたいと思うんだな。心の準備ができるだろう?」

    妙に楽しそうにしているのはスターシ将官だけ。
    レベヤルさんなどは、余計なことを言ってしまったと思っていそうな苦い顔だ。

    「そんなに大変なんですか、野外訓練って」

    トールは、一番近くにいるボラウドさんにこそっと訊ねた。

    「ああ、まあ……やってみればわかるさ」

    同じように小声で答えたボラウドさんは、おもむろに新しいパンをもうひとつ手に取り、丸ごと口のなかに押し込んだ。

    むぐむぐと無言でパンを噛みしめている横顔に浮かんでいるのは、諦め、だろうか。
    あぁこれはとても大変な訓練なのだなと、それを見たトールは無言のうちに察したのだった。



    4.なにかのはじまりの日


    第八飛行隊の日常は、司令部の決めた月間計画に従ってスターシ将官が週間計画を組み、月曜の朝に発表される。
    雑務をこなす当番と、夜間の当直も一週間ごとの持ち回りだ。
    日中は、実機での飛行訓練や地上での体力トレーニング、時々は座学なども組み込まれてスケジューリングされている。

    そういえば、例の野外訓練だが。あれは一口で言って『地獄』だった。
    日頃の訓練も大変ではあるが、大変さのレベルがまったく違ったのだ。

    思い出すだけでげんなりした気分になるくらいだが、ミドルシティにやってきてからの日々はまたたく間に過ぎて行く。

    パイロットはひとり一機ずつ相棒となる専用機を与えられるのだが、トールに専用機が与えられたのは、朝食当番を卒業して三ヶ月後のことだった。
    与えられた相棒は、世界で一番新しく、一番速く、一番機動力のあるHG99――通称アマツバメという機体だ。

    「なんだトール、また相棒を磨いてるのか」
    「どうです? ピカピカになりましたよ」

    ひょいと格納庫に顔をのぞかせたボラウドさんの声に、トールは自慢げに胸を張った。

    多くの戦闘機が銀色や迷彩柄に塗られている中、アマツバメのボディだけは一味違う。真っ黒なのだ。
    しっかり磨き上げたので、黒はより深く黒く、つやつやと輝いている。

    「そいつは毎日ピカピカだろうよ。あんまり磨きすぎると剥げるぞ」
    「あはは、気をつけます」

    呆れ顔で言って、ひらりと手を振ったボラウドさんが寮へと戻って行く。
    その後もしばらく、トールは真っ黒な相棒をながめ続けた。

    色も形も、それに最新の機器が搭載されているところも、アマツバメはすべてが格好いい。
    訓練があってもなくても、当番があってもなくても、トールは毎日飽きもせず機体を磨いては、ついニヤニヤしてしまうのだった。

    そうして半年も経つころにはトールの姿が見えないときには誰もが格納庫へ探しにくるようになり、もはや「またか」とも言われないほど、トールと黒い相棒のコンビは基地内でも有名になっていた。

    その半年の間には、レベヤルさんの腕のケガもとっくに治り、ボラウドさんは相変わらず誰よりもパンを食べ、壊滅的だったトールの調理の腕もまあまあ一人前と呼べるくらいにはなり。
    パイロットとしても着々と成長できているようで、飛行訓練のときにスターシ将官から名指しでほめられることも増えていった。

    ひょっとしたら自分で思っていたよりも、パイロットとしての適性があったのかもしれない。地上から見上げても雲にさえぎられて見つけられないくらい高い高い空の上の世界が、トールにはとても心地よかった。

    ずらりと並ぶ計器も、狭いコックピットも、まるで爆発みたいなエンジン音も。
    発進するときに背中にかかるGも、失敗すると息ができなくなる離陸のスリルも。
    どんなゲームよりもわくわくするのだ。
    どこまでだって飛んで行ける気がするし、どんな敵だって撃破できる気がする。

     
    後から振り返れば、このころが一番充実した日々を過ごしていたと思う。

     
    そうしてミドルシティで過ごす二度目の長い長い冬がようやく終わりに近づき、二度目の短い夏が気配をのぞかせるよりも前のことだ。

    その日は、突然やってきた。

     
    「本日より三日間の訓練は実戦を想定して行う」

    いつもと同じようにはじまった朝礼で、スターシ将官が言った。

    「行うのは終日飛行訓練のみ。空中戦とフォーメーション、何よりも緊急時の対応について、各自、厳重に再確認すること。第八飛行隊は四日後の朝六◯◯◯ちょうどに出撃する」

    心なし普段よりも厳しい面持ちで告げられた『出撃』の言葉に、ほんの一瞬だけ隊員たちの空気がざわめき、すぐにピリリと引きしまった。

    「では、散開!」

    いつもよりも短いけれども緊張感に満ちた朝礼が終わると、隊員たちはすぐさま動き始める。
    そのなかで、皆よりもわずかに一拍、動きが遅れた者がいた。ボラウドさんだ。

    「出撃……」

    周りの誰も気づいてはいないようだった。けれど小さく呟いたボラウドさんは、どこか呆然としている様子にみえた。

    「あの……」
    「おいトール! 急げ!」
    「あ、はい!」

    声をかけようかと迷ううちに、レベヤルさんに呼ばれる。
    なんとなく後ろ髪を引かれつつも皆に続いて支度にかかったトールだが、何故だかそれから長いこと、このときのボラウドさんの様子が頭から離れなかったのだった。
     
     

    「トール、もたもたするな! 離脱と言われたらすぐに指示に従え!」
    「はい!」

    三日間の訓練は、ひどく厳しいものだった。
    訓練中は真面目な顔もするが、いつでもどこかユーモアを忘れない。そんなスターシ将官がにこりともせず、トールも他の先輩たちも、一秒ごとに鋭く叱責されていた気がする。
    そうして迎えた四日目の朝。

    「トール、後発で飛べ。ボラウドの補佐だ」

    スターシ将官から、初戦の戦闘員としてトールも選ばれた。
    最初に出る四機との入れ替えで出撃する後発部隊、四機のうちの一機だ。

    「了解です!」

    補佐ではあるが、実弾を積み、攻撃目標の指示も受けた。
    戦闘機のパイロットとしての初めての任務だ。張り切るトールは、隣で唇を引き結び、青ざめた顔をしているボラウドさんには気づかなかった。

    フライトスーツの上から耐G服をまとい、サバイバルキットを念入りにチェックする。慣れた重みのヘルメットを脇にかかえて格納庫へ向かうトールは、自分があまり緊張していないことに気がついた。

    「トール」

    今日の出撃に選ばれなかったレベヤルさんがじっとトールの顔を見つめ、一度だけ肩を叩いて送り出してくれる。

    「大丈夫そうだな。落ち着いて行けよ」
    「はい、レベヤルさん」

    いつもにぎやかな基地内も、どこかしんとしていた。
    ――いや、普段よりも騒がしくはあるのだ。あちらこちらで指示を飛ばす声や判断をあおぐ声など大声が飛び交っているし、皆がひっきりなしに動き回っているせいでザワザワしている。
    それでも不思議と静かな気配が満ちている気がするのは、笑声がどこからも聴こえてこないからだろうか。
    誰もが険しい顔つきで、息をひそめているみたいに感じた。

    トールの相棒、アマツバメはすでに格納庫から出され、駐機場に並べられている。

    「機体異常なし! サインを」

    整備兵から日誌へのサインを求められ、センサー、タイヤ、ミサイル、翼と駆け足で黒い相棒のチェックをする。
    白灯油の匂いに、キーンと高い予熱音。灰色の空にかかる雲は、幸いにしてさほど厚くはない。今日は飛びやすそうだ。

    「どんなにしっかり整備していても、まさかというタイミングで不具合が出ることもある。少しでもおかしいと思ったら、すぐに戻って来い。いいか、トール。緊張しすぎるなよ」
    「わかりました」

    匂いも音も、湿り気のある風も、そして背後にある厳めしい基地の建物群も。今ではすっかり身に馴染んでしまっている空気の中で、せわしなく動き回る兵士たちのまとう雰囲気だけがいつもとは違う。
    普段は告げられない整備兵からの注意に神妙にうなずきつつ、トールはラダーをのぼり、狭いコックピットへともぐり込んだ。

    五点式ベルトをガッチリと固定して、マスクをはめる。
    手袋をはめた指でメインスイッチを弾き上げると、沈黙していた計器盤が一斉にオレンジ色の光を放つ。トールは、エンジンの点火ボタンを押し込んだ。

    数秒の沈黙のあと、ズズン、と爆発音に似た重低音が腹の底を打ち、真っ黒な機体全体が武者震いのようにガタガタときしみはじめた。
    レバーを引き、キャノピーを閉鎖する。分厚い防弾ガラスのふたが閉じると、途端に外の音から切り離された。マスクのゴムの匂いに包まれながら、シュコー、シュコーと自分の呼吸音だけが耳に響く。

    ここからは独りだと、独りきりなのだと思い知らされる瞬間だ。

    キャノピー越しに、先ほどまで機体にへばりついていた整備兵が離れて行くのが見える。
    ブレーキを緩めると、きしむような音を立てながら機体が滑走路へとはい出して行く。
    排気の熱気で景色がゆがむ中、整備兵たちが直立不動でこちらに鋭い敬礼を送っていた。

    管制塔から短い離陸許可の合図が無線のノイズまじりに耳に届く。トールは、スロットルレバーを一番奥まで一気に押し込んだ。

    「アマツバメ壱七、テイクオフ!」

    ブレーキを解放すると、背中を巨大なハンマーで殴られたような圧力がかかる。肺から空気がしぼり出されそうになるのをぐっとこらえながら、ガタガタ振動する操縦桿を両手で手前に引く。
    ゴツゴツとタイヤが地面を踏む感触がふっと消えると、世界最速の機体はまるで矢のように雲の上へと翔けて行く。

    鉛色の雲を抜けると、まぶしい太陽の光が目を刺した。どこまでも青い空の真ん中で、すぐにトールよりも先に発進し、待機してくれていた三機に追いつく。
    隊列を組むと、隊長機の先輩がキャノピー越しにひとつうなずいてよこしたのが見えた。

    「作戦開始」

    十五分ほど飛行を続けたころ、ザザッとノイズまじりの無線の声が届いた。
    隊長機からの指示だ。トールはレーダーのスイッチを切った。

    ここからは、敵に気づかれないよう電波を封鎖して向かう。そういう手はずになっていたし、今までもこんな風に実戦を想定した飛行訓練を幾度も行ってきた。
    だから、なにも問題はない。
    キャノピー越しに同行する機体のかたむきや先輩からの手信号を確認しながら、あらかじめ決められていた航路を取る。途中で先発部隊とすれ違った。

    一瞬のことだったが、下方を通り過ぎて行った先発部隊は皆無事のようだ。
    やはり緊張感のないまま、それでもトールは少しだけホッとした。

    順調に進み、攻撃目標として指示された地点まで、もう残り百八十マイルを切ったころ。横に並んだボラウドさんが自身のヘルメットをトントンと叩いた。無線を入れるように、という合図だ。
    不思議に思いつつスイッチを入れた、その瞬間だった。

    「離脱する」

    ガサガサの声が言った。

    「え?」
    「ジャムが発生した。基地に戻る」
    「でも、まだ――」

    トールが返事をする前に、プツンと通信が切れた。並走していた機体がぐぃんと向きを変え、元来たほうへと引き返して行く。
    無線に乗らなかったトールの声だけが、ピットの中にぽつんと落ちた。

    「撃ってもいないのに……」

    意味がわからなかった。
    けれど、嘘だということだけはすぐにわかった。
    攻撃してすらいないのに、どころか目標地点に到達すらしていないのに、ジャム――弾詰まりが発生するはずなどないのだから。

    ひとつ息を吐いて、トールは通信機器のスイッチを切った。
    先頭の隊長機にボラウドさんのことを伝えたかったが、なにせアマツバメは最速の戦闘機。目標地点まではすぐだ。トールは迷うことなくボラウドさんが飛ぶはずだった軌道へと進路を変更した。

    隊長機がパタパタと翼をゆらした。こちらを見ろという合図、そしてピットの中で先輩が右手をすっと前に突き出すのが見えた。
    目標地点に到達、散開の合図だ。

    すぐにヘッドセットからガリッというノイズが響いた。
    今度は、攻撃開始の合図。トールは安全装置を解除した。
    同時に、左隣にいた先輩の機体が猛烈な加速で雲の下へと突っ込んでいくのが見えた。負けじと、トールもアフターバーナーを点火する。

    雲を抜けたその下、トールたちに与えられている目標はずいぶん立派な建物だった。

    例えば、そう。どこかの街の庁舎のような。

    なんだ、ずいぶん簡単な的だなと思った。
    シューティングゲームだったらレベル一くらいだ。
    トールは淡々とトリガーを引いた。

    ドン、ドンという重く鋭い音とともに、いくつもの砲弾が建物をえぐる。黒煙が吹き上がり、火花が散り、ちらちらと辺りの物が燃え始めているのが確認できた。作戦は成功だ。先発隊が攻撃したらしい西のほうからも煙が上がっているのが見えた。

    ボラウドさんを除いた三機でその後もいくつかの建物を攻撃して弾倉を空にし、基地へと戻る。敵側からの反撃は、まったく受けなかった。

    「よくやった」

    作戦を成功させて戻ったトールたちを、厳めしい顔でスターシ将官が迎えた。
    もう少し他の言葉ももらえるかと思ったのだが、にこりともしない将官は普段と違ってどこか話しかけにくい雰囲気をまとっていて、トールは「ありがとうございます」とだけ返して寮へと戻った。

    「トール、大丈夫だったか」

    人待ち顔で入り口にたたずんでいたレベヤルさんが、トールの顔を見るなり急ぎ足で歩み寄ってくる。
    普段と変わらぬ真面目な顔をしているが、何故かその声にかすかな焦燥がにじんでいることに気づいて、トールは首をかしげた。

    「簡単な任務だったので、大丈夫ですよ。訓練通りにやりましたから」
    「……そうか」

    束の間、返答に困ったような間が開いた。
    一瞬だけ真っすぐに、トールの顔をまじまじと見つめたレベヤルさんがなにを思ったのかは、わからない。

    「あの、ボラウドさんは?」
    「部屋に戻った」

    そう答えてこちらに背を向けたレベヤルさんが、思いついたみたいに振り向いてつけ加えた。

    「声はかけるな。今日は放っておいてやれ」
    「あ、はい。わかりました」

    具合でも悪いのだろうか。無事に作戦が成功したことを伝えたいと思ったのだが、残念だ。
    その日は結局、夕食の席にもボラウドさんは現れなかった。


    5.戦争というもの

     
    翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、トールは出撃部隊に選ばれた。
    スターシ将官から指示される目標を、しっかり着実に攻撃して帰還する。トールは一度も失敗しなかったし、機体の不具合も出なかった。

    「よくやった」

    基地に戻ると必ず、スターシ将官はそう言ってうなずいてくれる。けれども、その顔に笑みを浮かべたことは一度もない。

    「トール、郵便だ」

    初めての出撃から数えて十日ほど経った日の午後のこと。その日も無事に帰還して、基地から寮に戻るところで管理棟からやってきた隊員に手紙を渡された。

    「母さんからだ……」

    思わず呟いたトールの声を拾って、共に出撃していたレベヤルさんがたずねてきた。

    「トールの出身はどこなんだ?」
    「グラニーツです」

    小さな村は、この国の東の外れにある。誰にも名前を知られていないような田舎の、さらに田舎の小さな村だ。
    ちょっと前までは嫌でしかたなかったはずのあの村の空気が今は、懐かしく思い出せる。

    「オーブルスト地方か」
    「よく知ってますね」

    レベヤルさんが知っていたことにおどろく。

    「ああ。しかし珍しいな、あの辺りから軍に入隊する者はほとんどいないだろう」

    オーブルスト地方の主な産業は林業で、グラニーツも〝キコリの村〟と呼ばれている。
    ほとんどの者が生まれ育った村を出ることなく生涯を終えるので、たしかにトールのような者は珍しいと言える。

    「でも、なんでわざわざ手紙なんて」
    「心配なんだろう。ちゃんと返事を書いてやれよ」

    首をかしげるトールにそう言い置いて、レベヤルさんは先に寮へと戻って行く。
    トールはふと、村を出た日のことを思い出した。

    パイロットになることは誰にも話していなかったから、試験の合格通知が届いたときは家族だけでなく村中がおどろいていた。
    それでもやはり出発の日にちは皆には告げず、だから見送りに来てくれたのは母さんだけだったのだ。

    『お前が生まれた日はとてもよく晴れていてね。どこまでもどこまでも、空の遠くまで見通せるような日だったんだ。だからお前のその目はきっと、神様がくれた贈り物に違いないよ』

    やってきたバスに乗り込む直前に、母さんはそう言ってなんだかおかしな顔でトールを抱きしめた。
    泣いているのか笑っているのか、よくわからない顔で。

    『大きく産んであげられなくてごめんね、元気でがんばっておいで』

    湿った声でささやいて、だけど背中に回された腕はバカ力の母さんらしく手加減なしにぎゅうぎゅうとトールをしめつけていた。

    「ああ、そうか」

    先ほどのレベヤルさんの言葉も、共に耳によみがえる。心配。それはそうだろう。

    「戦争なんだ。今は戦争がはじまってるんだ」

    ここはフライトシミュレーターの世界ではなく現実で、自分が乗っている相棒は正しく戦闘機なのだと。
    連日出撃しておきながら、トールは今、はじめてそのことに気がついたのだった。

     
    だからと言って、現実に変化はなく。戦争はすでにはじまってしまっていて、終わる気配もない。
    スターシ将官の指示通りにトールは飛び、トリガーを引く。「よくやった」とほめてくれるスターシさんがにこりともしないのが何故なのかも、もう理解している。

    ただ、戦局にはいくらか変化があるようだと感じた。
    それは攻撃目標が――正しく〝どこかの街の庁舎〟だった攻撃目標が、徐々に別のものへと移っていったからだ。

    この日、トールが放った砲撃でくずれたのは、どこかの街のとてもきれいな時計塔だった。

    「トール!」

    いつも通りに弾倉を空にして戻ったトールを迎えたのは、スターシ将官の「よくやった」ではなく、悲鳴みたいにトールの名前を呼ぶボラウドさんの声だった。

    はい、と返事をする前に頬に衝撃を感じ、同時にトールは地面に転がっていた。ボラウドさんに殴られたのだ。

    「ボラウドさん、なんで……」
    「おまえが! おまえが今日撃ったのは、俺の故郷だ! 俺の街の時計塔だッ!」

    トールはぽかんと口を開けた。
    言葉の意味が理解できなかったわけじゃない。理解することを頭が拒んでいたのだ。
    トールは地面に転がったまま、動けなかった。
    駆けつけてきた別の隊員たちによってボラウドさんがどこかへ連れていかれるのを、トールはぽかんと口を開けたまま見送ることしかできなかった。

    「だって……」

    周りに誰もいなくなってから呟いたトールの声は、宙に浮いて溶けて行く。

    「戦争なんだ……戦争、なんだよな……?」

    答えてくれる者はなく、トールは冷たいコンクリートの上に座り込んだまま、意味もなくゴシゴシと両手で顔をこすった。

     
    それでも夜が来て、また朝が来る。
     
    翌日。
    その日も出撃を命じられたトールは、思わずスターシ将官に問いかけていた。

    「攻撃目標は、敵なんですよね?」
    「そうだ」

    短くきっぱり答えた将官の顔をまじまじと見つめたが、トールの眼には何も読み取れなかった。命じられた通りの順番で機体に乗り込み、すっかり慣れた手順通りにエンジンをかける。
    白灯油の匂いに、キーンと高い金属の音。
    外界の音がキャノピーにさえぎられて、耳に響くのは自分の呼吸音だけ。

    「アマツバメ壱七、テイクオフ」

    背中にGがかかり、肺が潰れる。
    世界で一番早い戦闘機は、今日もあっという間に目標地点に到着した。
    隊長機の合図通りに散開して加速。雲を突っ切り、トールはいつものように標的目がけてトリガーを引いた。

    ドン、ドンという重く鋭い音とともに黒煙が上がるのが見える。
    建物に穴が開き、くずれ、火の手が上がる。
    あちらへこちらへと、逃げまどう人々の姿が見える。

    「なんで、こんな……戦争なんだ、だから……」

    ずっと見えてはいたのだ。砲撃の下に多くの人々がいたことは。
    だけど昨日まで意識してはいなかった。
    自分が参加しているのは戦争なのだとようやく気がついてからも、心のどこかにふたをしていたのだと思う。

    酸素マスクの下、トールの唇が震えた。

    トールの放った砲弾で、足元にいる人々の誰かが傷つき、誰かが死ぬ。
    それはきっと誰かの家族で、誰かの大切なひとで。
    それはもしかしたら、ボラウドさんの家族なのかもしれない。

    だってここは、戦争がはじまるまでは仲のいい隣国だったのだ。
    多くの人々が国境を越えて行き来していたし、家族や親戚が国をまたいで暮らしていたりもしていた。

    「……ひっく」

    指が動かなかった。トリガーを引けない。
    何故か、しゃっくりが出た。
    おそろしくておそろしくて、足元の底が抜けてどこまでも転落していくような気がした。
    震える手で、トールは無線機のスイッチを入れた。

    「アマ、アマツバメ壱七、帰還しますっ!」

    それだけを叫び、トールは機首をひるがえした。
    あまりにあわてたせいで操縦が乱れ、後続機の攻撃に巻き込まれそうになる。ガクンと高度が下がり、はっとして態勢を立て直そうとした、そのときだ。
    キラリと光る、なにかが見えた。

    「ね、こ……」

    それは猫だった。
    どこにでもある普通の街の、どこにでもある赤い屋根の家の、白いカーテンのかかった窓辺にいるふんわりした猫の、金色の瞳。
    きれいな金色の瞳で、猫はまっすぐにトールを見つめていた。
    時間にすれば一秒にも満たない一瞬だったけれど、トールはたしかにその猫の目と、目が合っていたのだ。

    次の瞬間に後続機の落とした爆弾で、街の景色が一変する、その時まで。

    ぽろり、とトールの目から涙がこぼれ落ちた。


    6.燃えるアマツバメ


    出撃したにも関わらず、スターシ将官から「よくやった」とは迎えてもらえなかったあの日から、トールは一週間の休暇を言い渡された。
    操縦が乱れたせいで、機体を損傷してしまったからだ。

    誰とも口を利かず、ほとんどの時間を自分のベッドの隅に縮こまり、時おりパンを少しだけもそもそと口に詰め込んで、トールは一週間の休暇を過ごした。
    延々と何かを考えていた気もするし、まったく何も考えていなかった気もする。

    一週間の休暇明け、「出撃せよ」の命令に、トールは淡々と「はい」と答えた。
    ごっそりと表情の抜け落ちた顔で。

     
    それから一ヶ月経ち、二ヶ月経ち、気づけば一年、二年と経過して、四年目の春。トールはまだ相棒と共に戦場の上を飛び続けている。

    レベヤルさんはもういない。
    敵の対空砲に撃ち落されて、出撃したきり帰って来なかった。

    ボラウドさんとは、殴られて以来一度も顔を合わせることはなかった。除名になったと聞いたのは、トールが彼の故郷を攻撃してから数ヶ月経った後だ。

    第八飛行隊は数人の新入りを迎えても、かつての人員の三分の二ほどにしか満たない。
    去った者もいれば、名誉除隊として故郷に帰った者もいる。
    トールにも後輩ができたし、もう新米とは誰も呼ばない。

    「アマツバメ壱七、テイクオフ」

    出撃のとき、心にふたをすることだけは上手になったと思う。
    考えてはいけないのだ。目標は目標。それ以上でも、以下でもない。
    誰よりもスムーズに目標へ近づき、誰よりも確実に目標を撃破する。第八飛行隊の中でも、今、トールのあげる戦果は高く評価されている。
    そのせいか、かつては先輩パイロットが率いていた隊列をトールが率いることも多くなった。

    今日もそうだ。真ん中を進むトールの両側に翼を並べているのは、入隊時からともに飛んでいる先輩ばかり。

    「作戦開始」

    無線に告げて、レーダーを切る。
    いまだ世界最速の座を守り続けているアマツバメは、攻撃目標都市に到達するまで三十分とかからない。
    地上の平和も人の世の不幸も、なにひとつ映さない真っ青な空を切り裂いて、黒々としたツバメの隊列が進む。
    まるで悪魔の行進のように。

    トールはふと、いつかの窓辺に見た真ん丸な猫の瞳を思い出した。じっとこちらを見つめていた、金色に光るきれいな猫の瞳を。

    トールは機体をゆらし、仲間たちの視線が自分に集まったことを見てから右手を挙げ、まっすぐ前へと伸ばした。
    散開、そして攻撃開始の合図だ。
    黒光りする機体が次々と猛烈な加速で雲の下へと突っ込んでいく。トールも、すぐさまアフターバーナーを点火した。

    どこまでも静かに澄んだ上空とは違い、雲の下は文字通りの戦場だ。あの日、人々が毎日を過ごすおだやかな街に、トールが突然砲弾を撃ち込んだときから、それは始まった。

    奇襲が成功したのは最初のうちだけで、今は敵も全力の抵抗をみせてきている。雲を抜けたら、いつ撃ち落されてもおかしくはない。
    速度の分だけ燃料を食うアマツバメは戦闘の場に長居はできないため、勢いよく砲弾を叩きつけたら即座に撤収するのが第八飛行隊の役目だった。

    今日の目標は、敵側の軍事施設だと指示されている。
    出撃前に頭に叩き込んできた地図と航空写真を思いだしながら、目標を見つけたトールは素早くトリガーを引いた。
    おそらくそれは軍事施設などではないと頭のどこかで理解していながら、砲弾を打ち込むことにためらいはない。

    何故って、そう指示されたからだ。

    たぶんそこは、ごく普通の街の、ごく普通の人々が毎日のように利用する商業施設だろうとわかっていながら、それでもトールはトリガーにかけた指を離さなかった。

    ドン、ドン、と重たい音が辺りに響き、炎が上がり、黒煙が吹き上がる。
    そうして予定通り弾倉を空にして、横目に隊の仲間たちの無事を確認しながら急いでその場を離れようとした、そのときだ。

    横っ腹を殴りつけられたような衝撃が走り、視界がはげしく明滅した。
    けたたましく警報音が鳴り響くよりも先に、ぐるんと天地がひっくり返る。

    「ぐっ……!」

    なんとか機首を上げようと力を込めるが、操縦桿が岩のように重い。
    焦りながらさまよわせた視線の先、瓦礫の山に偽装された一角で、砲身から硝煙を上げている対空機関砲の姿が目に焼きついた。

    建物の影で、完全な死角だった。
    狙われていたのだと気づいた時には、右翼のつけ根がごっそりえぐり取られていた。

    噴き出した燃料に引火して、真っ赤な炎がアマツバメを包む。
    油圧はゼロ。機体はもはや制御不能だった。
    これまで幾度かひやりとしたことはあったけれど、今度ばかりは本格的にダメだとわかる。

    「墜落、する……」

    問題はそれまであと何秒あるか、だ。
    熱の波がコックピット内を灼く。考える間もなく無意識に、身体に染みついた訓練の記憶が脱出レバーを引いた。

    キャノピーが吹き飛び、直後、まるで巨人の拳で殴りつけられたような衝撃とともにトールは座席ごと外へと飛び出した。
    全身が空気の圧で押し潰されて、「ぐふッ」と肺から息がもれた。

    一瞬だけ気絶していたのだと思う。ハッと気づいたのは、風圧にもみくちゃにされながらも背中でドン!とパラシュートが開いた衝撃を感じたからだ。
    ゆっくりと落ちて行く中、ぐるぐると回る視界の端に、炎と煙に包まれた鉄の塊が見えた。
    あらゆる音や光や圧力を受けて、ほとんど聞こえなくなっている耳にも届く地響きとともに、落ちた鉄塊が巨大な火球となってふくれ上がる。

    ついさっきまで、トールもあそこにいた。
    嬉しくて、誇らしくて、来る日も来る日も磨き上げていたトールの大切な相棒が、爆炎の中に消えて行く。

    ゴウゴウと燃える炎と、そこから立ち昇る真っ黒な煙と。
    翼の形すら、もう見つけられない。

    くるくると風にもまれて漂いながら、呆然と相棒の最期を見守るトールの耳元をキィン、キィンと鋭い金属音が幾度も通り過ぎる。
    第八飛行隊の仲間たちが、傷ついたトールをかばうように旋回しているのだと気づいたときには、アマツバメの残骸から飛び散った炎が辺りを黒々と焼きつくした後だった。


     
    それから地上に展開していた味方の軍に拾われたトールは、戦闘機でやってきた何倍もの時間をかけて基地へと生還した。

    帰還と同時に基地内の病院へと運ばれ、ようやくきちんとした治療を受けたトールは、新人の試練である調理当番だったころの比じゃないくらいの大火傷を負い、あちらこちらに傷を作り、肋骨と足の骨を折っていた。
    それでも生きて帰ってきたことを隊の皆は喜んでくれて、撃たれて宙へ飛び出したトールをなんとかして守ろうとしてくれた先輩などは、頬をぬらす涙を隠そうともせず何度も何度もうなずいた。

    「よかった。お帰り」

    と言って。
    つられて泣きそうになりながら、けれど何故か、トールの目からは一滴の涙もこぼれなかった。

    「ありがとうございました」

    と、もそもそ礼を言うくらいしかできなかったトールだったが、先輩たちは気にすることもなく「よく休め」と言ってくれた。

    それからさらに数日が経った、夜のこと。
    就寝時刻も過ぎ、静かになった病室へとスターシ将官がやってきた。
    帰還してすぐには見舞いに来なかった将官の胸のうちは、トールにはわからない。
    忙しかったのだろうか。それとも……。

    「…………よくやった」

    長い長い沈黙の末、将官はそれだけを告げて病室を出て行った。
    トールもまた「はい」とだけ静かに返事をして、その背中を見送った。
    はじめてこの基地へやってきた日、スターシ将官のさほど大きくはない背中が、妙に大きく見えたことを思い出す。

    「母さん……」

    家族はどうしているだろうか。
    もらった手紙への返事は一度も出していない。
    ただ、国の端っこにあるグラニーツには敵からの攻撃も届かず、一度も戦渦に巻き込まれていないとだけは聞いている。

    灯りを落としたベッドの上で、トールはじっと自分の身体を見おろした。
    あちこちにガーゼが貼られ、脚にも胸にもぐるぐると包帯が巻かれている。暗がりにぼやっと浮きあがる白く清潔な包帯を見つめながら、トールはぽつりと呟いた。

    「もう飛べないな……」

    おそらく復帰したら、また新たな相棒機が与えられるのだろうと思う。
    同じ機種かもしれないし、違う機種かもしれない。
    いずれにしても、トールはもう乗れないだろうと思う。ちりちりに焦げて残った自分の髪を見ても、ミントグリーンの天井を見つめていても、窓の外の灰色の景色を眺めていても、いつも思い出すのは黒く煤けた相棒の残骸と、こちらに向けられた戦車の砲身のことばかり。

    怖ろしい、というのとも少し違う。
    ただ、張り詰めた糸がぷつんと切れてしまったような、言葉にならない喪失感と虚無感だけが胸に満ちている。

    だからトールはもう飛べない。
    そんな風に思った夜から、三日後のことだった。唐突に戦争が終わった。 



    7.墓標


    スターシ将官とも、仲間の誰とも顔を合わせることもなく、戦争の終結とともに第八飛行隊は解散が言い渡された。

    ベッドの上で受け取ったトールの新たな配属先は、第五六三部隊・動員兵補給センター・書記兼給養係。

    軍にいたことがある者ならば、すぐにわかる。
    倉庫のなかで軍服や兵站や燃料や弾薬などを管理したり、配ったり。大切な役割のはずなのに、戦闘部隊からは「役立たず」と呼ばれる。そんな倉庫管理の書記兵が、トールの新たな身分になった。

    少しだけ迷ったけれど、除隊は希望しなかった。
    ただ、新たな任務に入る前にしばらくの休暇を申請した。

    負傷していたこともあったろう。申請はすんなり受理されて、軍医から退院の許可をもらったトールは少しのお金と着替えだけをダッフルバッグに詰め、基地を出た。

    特に考えていたわけではなかったけれど、自然と足が向いたのは、〝敵〟だったはずのあの街だ。
    ほんの数秒にも満たない間だったけれど、まっすぐにトールを見つめていた金色の瞳の猫がいた、あの街。

    電車とバスを乗り継いで、十日と数日と数時間。降り立った街は、瓦礫と煤でできていた。
    どこにでもある普通の街は、もうどこにもない。
    ふんわりした猫のいた、白いカーテンのかかった窓辺も、赤い屋根の家も。

    焦げと、埃と、泥の匂いにまじって、どこからかかすかに揚げたパンの匂いがする。
    じゃり、ぐちゅ、と破片やぬかるみを踏みながら、トールはあの家を探した。

    「なんか用かい?」

    この辺りだったろうかと足を止めたトールの背中に、声がかかる。
    振り向くと、中年の女性がこちらを見ていた。

    「あんた……あっちの軍人さんだね」

    あっち、というのはトールたち攻め入った国のこと。こっち、というのは突然攻め込まれた隣国のこと。ここまでの旅路で度々耳にした呼び方だ。

    「あの……はい」

    わずかに迷いながらもうなずいたトールを、彼女はじっと黙って見つめた。
    ちょうどトールの母くらいの年齢だろうか。手には軍手を嵌め、拾い集めた何かを入れたバケツをぶら下げている。
    にらむでもなく、ただ正面から向けられた視線の裏にあるそのひとの気持ちは、トールにはわからない。

    初めて実弾を積んで出撃したあの日、トールの帰りを心配して待っていてくれたのだろうレベヤルさんが向けてきた視線の意味がわからなかったのと、同じように。

    「あの……この家に猫がいませんでしたか? 金色の目をした、ふわっとした猫が」

    ひとつまたたいて、そのひとはトールの斜め後ろ辺りを指差した。

    「ムルカは、娘の猫だ」

    示された場所にあるのは、小さな墓標だった。

    「もう帰りな。この辺りじゃ、泊まる場所もないよ」

    そう言ってトールに背を向けたそのひとは、二度と振り返らなかった。
    見えないとわかっていて、トールは瓦礫の山をかき分ける疲れた背中に頭を下げた。
    それから小さな墓標へと歩み寄る。

    「ムルカ」

    焼け残った赤い屋根の破片を地面に突き立てただけのそこに、名前は刻まれていない。

    娘の猫だ、と言われた。
    焼け落ちた家の跡地を探す母親が見つけたいものは、いったい何だろう。

    しばし墓標を見おろして、トールは黙って踵を返した。

    焦げと、埃と、泥の匂い。
    それからうっすらと、油の匂い。

    重たい雲にふたをされて、どこにも行けない空気がその場にこごっている気がした。

     
    見上げた空はどこまでも灰色で、鳥の影ひとつない。
    短い春が、間もなく終わる。
     

    おしまい

     
     
    猫と暮らしています。 うちにいるのはパンは焼けない、ただの猫です。

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