メインコンテンツへスキップ
見出し画像

十二年間で、一つくらい人生を変える言葉があってもいい。

    十二年間で、一つくらい人生を変える言葉があってもいい。

    校長先生といえば、その学校の教育者のトップである。

    豊富な知識があり、長い教員生活の中で、数え切れないほどの子どもたちと出会ってきた。

    喜びも、失敗も、後悔も、別れも、人一倍経験してきたはずだ。

    だから私は、ずっと不思議に思っている。

    文化祭。

    体育祭。

    始業式。

    終業式。

    入学式。

    卒業式。

     ……。

    そして、月に一度の全校朝礼。

    私たちは十二年間で、校長先生の話をいったい何回聞いてきただろう。

    何十回、いや百回近くになるかもしれない。

    それほど多くの言葉を聞いてきたはずなのに、不思議なくらい心に残っていない。

    同窓会でも、偶然再会した同級生との会話でも、

    「あの時の校長先生の一言があったから、今の自分がある!」

    そんな話を、私はほとんど聞いたことがない。

    もちろん、そういう人もいるのだろう。

    だからこそ、その人の話をぜひ聞いてみたいとも思う。

    では、なぜ心に残らないのだろう。

    話が長いからだろうか。

    伝えたいことを詰め込みすぎるからだろうか。

    それとも、式典としての儀式の挨拶や来賓・保護者への配慮が優先され、いつの間にか子どもたちではなく、大人に向けた話になってしまっているのだろうか。

    私は、もう一つ理由があるような気がしている。

    それは、自分の人生を語っていないからではないか。

    スポーツ選手の感動話。

    偉人や文学者の名言。

    もちろん、それらは素晴らしい。

    しかし、子どもたちは意外と敏感だ。

    「その話、聞いたことある……」

    「また有名人の話か……」

    そんなふうに感じてしまうこともある。

    子どもたちが本当に聞きたいのは、その校長先生にしか語れない人生ではないだろうか。

    教師になったばかりの頃の失敗。

    一人の生徒に教えられたこと。

    今でも忘れられない後悔。

    救えなかった子どもへの思い。

    そんな話には、その人だけの重みがある。

    名言は借りられる。

    でも、自身の人生は借りられない。

    だからこそ、人の言葉ではなく、自分の言葉で語ってほしい。

    学校の主役は、来賓でも保護者でもない。

    子どもたちだ。

    教育とは、知識を教えることだけではない。

    未来を生きる子どもの心に、たった一つでも忘れられない言葉を残すことも、教育ではないだろうか。

    十二年間。

    あれほど多くの言葉を聞いた。

    だから私は思う。

    その中に、一つくらい人生を変える言葉があってもよかったのではないか、と。

    最後に、一つお聞きしたいことがあります。

    もし、

    「校長先生のあの一言に救われた」

    「校長先生のあの話が、今の自分につながっている」


    私は、そんな話を聞いてみたいのです。

    そんな経験をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメントで教えてください。

     
     

    コウ

     
     
    友人はアマチュア小説家。たぶんそのうち、しれっと本屋に並ぶ人。 母は昔、地元紙の小説賞を受賞。 ――どうやら才能は、きれいに素通りしたらしい。 小6の頃、漢字が壊滅的で通知表は「1」 母親からしこたま叱られた… その記憶だけは今も現役で夢に出てきます。

    あなたへのおすすめ