
点猫の星
あらすじ
人というのは大変おもしろく、奇妙で、どこか謎めいているものです。その不可思議さにかけては宇宙のそれにも匹敵するほどだと思います。それというのもきっと、人はみんな自分自身の中に広大無辺の宇宙を宿しているからに違いありません。それくらいに私たち人間やこの世界というものは、あらゆる無限の可能性を秘めた得体の知れないものだということです。日々の殺伐とした暮らしの中にいると、そういうことを忘れてしまって、自分が一体どこにいるのかまるでわからなくなるときがあります。本作はそんな主人公が自分の宇宙をさまよい、懐かしいものたちとの再会を通して世界とつながっていく、そんな童話のようなお話です。
優しく穏やかな、静寂に包まれた夜。月明かりが照らす街並みは、深淵な表情をたたえている。昼間は太陽の下で青々と茂る木々も、木々の間から歌う小鳥たちも、花を揺らす風も何もかもが、そっと目を閉じ静かな夢の国へと旅立っていた。皆が寝静まっているその中を、私は一歩一歩ごくゆっくりと歩き続けている。
一人きりの世界。他に目を覚ます者はない。私だけの世界。夜を支配する女王さながらの気分を味わいながら、当てもなくただ前へと進む。そして進めば進むほど、暗闇の中で私は私を見失うのだった。自分と周囲との境界線は次第にぼやけ始め、景色の中に自分自身が溶け込んでいく。それまで背景に見えていたものは背景でなくなり、物語の主人公も私ではなくなる。自分と周囲とを隔てていたものは、なんだったのだろうか。私と空、私と星、私と木々、風、海、大地、そして人。
人の存在とは不思議だ。私が私であるのと同じように、どこかの知らない誰かにとってもその人は「自分」である。すれ違う誰かも、皆それぞれが主人公として「自分」を生きている。私は私から離れて他の誰かの「私」にはなり得ない。常に自分と一緒にいる。しかし私とは、自分とは何なのだろうか。私は私の体を動かし、言葉を発し、眠り、息をして、生きている。結局、私と他人を区別しているものは、この不確かで曖昧な「自分」という何者かに他ならない。
夜の町を歩いていると、そのような周囲との境目が綻んでいく。自分から自分が離れていくような感覚になる。錯覚でもかまわなかった。たっぷりと息を吸って夜気を体内に取り込むと、自他とを隔てる一切のものが消えていく。そんな瞬間がたしかにあった。夜の散歩は私を私という存在から解き放ってくれる。意識も感覚も肉体も、夜の一部と化す。広く、深く、どこまでも続く漆黒の闇の片隅で、私は自分を消失していくのだった。自分とは何か、何者であるのか、そんなことはもはやどうでもよくなってしまう。暗闇の中で私は何者にでもなれたし、なれる気がした。この世界とつながり、一体化する。
家に戻ると、部屋の柱時計が夜の2時を打った。明るく温かい部屋の中で、私は上手く息をすることができない。室内の狭い空間は私を追い詰める。この小さな鳥籠のような巣の中では、自分を見失うこともなければ周囲と同化するなんてことも起こらない。むしろ突きつけられた。私という現実を。私は私でしかあり得ないし、どこまでも自分だった。得体の知れない何者かに、私は窒息させられる。部屋の酸素が薄い。ここは私の居場所ではないのだと、いつもそんな気がしていた。
そのとき、ごおぉと低く冷蔵庫がうなった。夜の冷蔵庫だ。内部から発せられる、小さく、低く、鈍い音が不規則に部屋の中に響き渡る。私はその音に耳を傾けながら、まるで生き物のようだと思った。電気を消した小暗いダイニングルームにたたずむ、冷たい、静かな、灰色をしたその生き物は、真夜中になると目を覚ますようだった。そしてゆっくりと動き出す。どうやら夜行性らしい。その上、とても慎重だ。目覚めたことを決して誰にも気づかれないように、静かにそっと動き出す。「ミシリ、ピシリ」と、つぶやくような小さな息づかいを立てながら、今夜も灰色の体は目を覚ましていた。
私はリビングのソファから、身じろぎひとつせずにその生物の呼吸音を背中越しに聞く。立ち入ってはならない空間に忍びこんでいる、というような一種の緊張感が走った。灰色の生き物は、私がそちらに気がついているということをまだ知らない。聞き耳を立てていることを向こうに察せられないよう、こちらも気配を消す必要がある。これは気づいていないふりゲーム。私たちのちょっとした遊びなのだった。
そ知らぬ顔でソファから立ち上がり、ポットでお湯を沸かす。カップにお湯を注ぐと、薄っぺらいインスタントコーヒーの香りが立ち上った。足音を立てないよう慎重に、淹れたてのコーヒーを手にソファへと戻る。香り付けにシナモンパウダーを振りかけた。小さな銀のスプーンでカチャカチャとかき混ぜると、鈴の音のような軽やかさでカップの内側が遠慮がちに響いた。一口含めばカフェインは全身を駆け巡る。指の先から神経のひとつひとつに至るまで、闇夜のそれと同じ色をした液体が血流に乗って運ばれていく。やがて体中の細胞が目覚め、活性化していくのが伝わってくる。コーヒーはいつだって真夜中の相棒だ。
そのときだった。
ガシャン!
「しまった」と思ったときにはもう、何もかもが遅かった。私は持っていたカップを、勢い余ってソーサーに激しくぶつけてしまった。想像以上に大きな音が部屋中を駆け巡る。静寂がかき消されたその瞬間、灰色の生き物は呼吸を止めた。瞬時に私という侵入者を訝しみ、警戒の目を向けたのがわかる。夜川にも似た漆黒の液体が、カップの中で右から左へと波打っている。それまでこの場を支配していた神聖な空気の流れ——触れたらまるで壊れてしまいそうな、もろく、張り詰めた時の流れ——は跡形もなく消え去った。気まずい沈黙だけが残る。ゲームはいま、終了したのだ。長方形をした大きな灰色の生物は途端に姿を消してしまった。
ミシリ、ピシリ。
再び内部から発せられたその音は、聞き慣れていたはずの呼吸音とはもはや似ても似つかなかった。無機質で冷たくて鋭い、ただの機械音が鳴っているだけ。少なくとも、そのときの私にはそう思われた。結局、この灰色をした生き物の正体は、ただの四角い箱でしかないのだ。人間である私にとって、それは冷蔵庫という物体にすぎない。私とは異なる、何の関係もつながりもない、だたの空虚な物体。そんな残酷な現実は、いつだって容赦無く目の前に突きつけられる。私は思わず顔を覆った。ぽっかり空いた穴の中に、そのまま落ちて消えてしまいたかった。
あらゆるものからの拒絶。この広い世界で私という人間は常にひとりぼっちなのだと、すべてのものがそう告げている。お気に入りの本も服も、家具もコーヒーカップもテーブルの上の花も何もかもが、私という存在から切り離された私以外の何かだった。すべてのものから分離され、切断され、遠ざけられた私に残るのは、不確かで曖昧でちっぽけな、たったひとりの「自分」だけ。影武者のようにいつも付いてまわる、奇妙で不可思議な得体の知れない何かだった。
結局、そうなのだ。誰しもが皆、自己という概念のもと正体不明のよくわからない生を、我が物顔で平然と、そして精一杯に生きていかなければならない。シンプルなことだ。要は私か、私以外か。世界はそうしてできている。
「私か、私以外か」
私は自分にそう言い聞かせる。呪文のように、何度も何度も言い聞かせる。でも、もう限界だった。いまにも叫び出しそうだった。平気な顔なんてしていられなかった。何もかも捨て、この世界を飛び出したかった。衝動のままに飛び出したかった。夜の闇の中に紛れ込んでしまいたかった。人も自然も生き物も、自分も他人も何もかも、すべてが溶け合い混ざり合うあの闇の中に。もう一秒だってここにはいられない、いてはいけない。そんな気がした。
気づけば私は冷蔵庫の前に立っていた。どのくらい時間が経ったのだろうか。ずっと眠っていたような気もするし、ずっと起きていたような気もする。私は灰色の物体に手を伸ばした。
冷蔵庫を開けると、そこは宇宙だった。流れ出す冷気とともに、闇に浮かび上がる星の光が瞳の中に舞い込んでくる。漆黒を背に赤や青にきらめく光の集団。それはまるで、点描画を思わせる星空だった。瞬く星々に向かってまっすぐ手を伸ばすと、指先は闇の中へと消えていった。私は箱の中の小さな宇宙に吸い込まれるようにして、一歩、また一歩と近づいていく。何かが終わり、何かが始まることを予感しながら、私は暗闇に身をゆだねた。
永遠と無限。想像もつかないほど莫大な宇宙空間に横たわるそれは、すべてを無へと帰す。計り知れないその絶大的な力を前にしては、何ものも意味を成し得ないように思われた。あまりのスケールの大きさに圧倒された私は、どこまでも続く漆黒のヴェールに包まれて、もはや何ものからも自由だった。闇も星も静寂も何もかもが、一枚絵のような完全さをもって調和しているこの場所で、私は私から解放される。宇宙に触れたその瞬間、私は世界とつながった。
「オカエリナサイ」
深い眠りから呼び覚まされたかのごとく、静寂を打ち破るその声に私はハッと気がついた。辺りを見まわすと、小さな丸いふたつの光と目が合った。遠くで輝く他の星々とは違い、その光は私のすぐ近くにあるようだった。黄色く発光するふたつの丸は、ビードロのように透き通っている。しばらく見つめていると、暗闇の中から黒猫のシルエットがおぼろげに浮かび上がってきた。私の幻想か何かがそう見せているのだろうかと考えていると、長く柔らかそうな尻尾が右から左へと波打った。ほの白い光がぼわっと輪郭をなぞるようにして黒猫のシルエットを形作っている。
「あなたは誰?」
そう尋ねたはずの声は自分の耳には聞こえなかったが、どういうわけか黒猫には届いたようだった。
「ワタシハアナタ」
「私はあなた?」と、おうむ返しに聞く。
「あなたが私なら、それなら私は? 私は誰?」
「アナタハワタシ ツマリ、アナタ」
どこからともなく春のような暖かい風が頬を撫でていった。顔を上げて辺りをキョロキョロ見まわすと、遠くの方で花びらが舞っている。
「ここは…?」
独り言のようにそうつぶやくと、黒猫は再び口を開いた。
「ウチュウ アナタノ、ウチュウ」
黒猫はごろんと寝そべると、風に乗って揺れる星のかけらを前足で転がし始めた。まるで毛糸玉にじゃれるようにして遊んでいる。私はしゃがみこみ、丸いビードロの目と同じ高さに合わせてもう一度尋ねた。
「私の宇宙?」
「ソウ アナタノナカニアル、アナタノウチュウ」
黒猫は星屑から目を逸らさずに答える。
「ワタシハワタシノ……」
まだ言い終わらないうちに、黒猫はふらりと闇の中へ消えてしまった。私は再びキョロキョロと辺りを見まわす。と同時に、先ほどの生暖かい風が突風のような勢いで目の前を駆け抜けていった。思わずギュッと目をつぶる。
風がおさまると、柔らかな甘い香りがふわっと流れ込んできた。香りにつられてゆっくりと目を開ける。
そこは、すべてがピンク色だった。見わたす限り、何もかも。360度どこまでも、水平線のその先も、暖かな日差しまでもが淡く優しいピンク色をしている。花びらがびっしりと敷き詰められた足元は、まるで絨毯のようだった。
呆然と眺めていると、やがて花びらの絨毯はサッと音を立てて動き出した。花びらは両脇にまとまって、私の目の前に一本の道を作ってくれる。道の先は見えず、どこまでも果てしなく続いているように思われた。
私は道に沿って歩き出す。が、歩いても歩いても、いつまでも同じ景色が広がるばかりだった。一体どれほど歩いたのか、あとどのくらい歩くのか、どこに向かっているのかさえもよくわからない。道は永遠と続いていた。足だけがくたびれてくる。もしかしたらちっとも進んでいなくて、同じところをずっと歩いているのかもしれない。そう思うと何だかバカらしくなってきて、ふいに私は立ち止まった。
「道があるからって、別に歩かないといけないわけじゃないわよね…」
急に肩の力が抜け、花びらの絨毯の上に大の字になって寝転んだ。空はピンク色に澄みわたり、星々もまた美しくきらめいている。空も風も星も、大地も私もすべてのものがピンク色に調和していた。何もかもが穏やかで心地よい。
やわらかな花びらの上で、うとうとまどろみながら眠りの国の入り口を行ったり来たりしていると、ふいに懐かしい感覚がどっと押し寄せてきた。甘い紅茶の香りがどこからか漂ってくる。遠い昔、幼い日の記憶につながるような、ある種のイメージのようなものがピンク色のシルエットを帯びてふわりと近づいてきた。
「チェリー夫人…?」
それは紛れもなく彼女だった。私の目の前に現れた彼女は、優雅に、それでいてテキパキとお茶の支度に取りかかっている。よく熟れたさくらんぼをあしらった、さくら色のドレスに身を包み、真っ赤な宝石を散りばめたショールを肩にかけた様子は絵本の世界から出てきたかのようだった。足元まで波打つ美しい髪には桜の花びらが編み込まれている。さくらんぼのように小さな可愛らしい口元からは、昔懐かしい異国民謡がこぼれていた。
「まぁ」
私の姿をみとめたチェリー夫人は小さく息をのむと、風に乗ってふわふわとこちらにやって来た。
「まあ驚いたわ、あなた戻って来たのね」
優しく潤んだ瞳が私を見つめている。
「もう会えないと思っていたのよ。よく思い出してくれたわね」
チェリー夫人にそっと抱きしめられると、春の香りに包まれた。
「ちょうどお茶の支度ができたところなの。さくらティーとチェリーパイはいかが?」
勧められるがままに私は椅子に腰かける。桜の大木がピンク色の光を遮り、心地よく日陰となったその場所にお茶の支度はできていた。
「それね、ええその椅子よ、桜の木でできているの」と言いながら、チェリー夫人はティーセット一式をかちゃかちゃと運んできた。
「ここでは何もかもが桜の木や花や葉っぱでできているのよ、あなた憶えていて?」ふふふと私に微笑みかける。ゆったりと大きなテーブルには淡いさくら色のクロスがかけられ、その上にはたくさんの色とりどりなケーキが並んでいる。お皿やティーカップにも上品な花びらの模様がたくさん描かれていた。
「おとぎ話の世界みたい…」
まだ夢心地気分なのか、私は目の前の光景をただぼーっと眺めるばかりだった。そんな私を見守るようにして、チェリー夫人は微笑んでいる。
「お好きなものを召し上がってね。これがチェリーパイで、こっちがさくらのシフォンケーキ、奥にあるのが桜の花の塩漬けとビスケットなの。それから、あなたの大好きなキルシュ漬けさくらんぼタルトはそこよ」
チェリー夫人がさくらティーを注ぐと、カップの底に描かれていた桜のつぼみが一瞬にしてぱあっと花開いた。
「…素敵な仕かけね」私はカップを覗き込む。
「ええ、お茶を飲むたびにお花が咲く瞬間が見られるのよ」
淹れたての熱い紅茶をすすると、さくらのやわらかな甘さとほどよい酸味が広がった。それはとても懐かしい、ひどく懐かしい味だった。遠い日のおぼろげな記憶とでもいうのだろうか。何かが胸に込み上げてくる。切なさにも似た感情の波が全身を駆け巡る。とうの昔に忘れてしまっていたはずの何かが、ずっと前に大切にしていたはずの何かが、さくらの花の香りに紛れて流れ込んできた。
チェリー夫人もまた紅茶を飲みながら、どこか考え深げな表情を浮かべている。その目はガラスのように繊細でピンク色に透き通り、ほのかに上気した頬はさくらんぼさながらだった。
「私、ずっと前からあなたのことを知っている気がするの」
ふいにそんな言葉が口から出てきた。
「ここでこうしてお茶をいただくのも初めてとは思えないの。このお茶の味も香りも、さくら色の世界も何もかも、すべてを知っているという気がするわ」
私は遠い記憶をたぐり寄せ、この懐かしさの正体を、忘れてしまった大切な何かを思い出そうとしてみた。しかし、そうすればするほどその大切な何かは遠ざかっていくようだった。そのうち何を思い出そうとしていたのかさえ曖昧にぼやけてくる。
チェリー夫人はにっこりと目元をほころばせ、
「あれこれと考える前に、まずはケーキをいただきましょう」と言った。
さくらのシフォンケーキは口の中でしゅわしゅわと溶けていく。滑らかなクリームの甘みだけを残して、跡形もなくふわふわと消えてしまう。
「忘れ去ってしまったものをもう一度思い出すというのは、大変なことよ。とてもね」と、キルシュたっぷりのタルトを切り分けながらチェリー夫人はつぶやいた。
「でも、あなたはまた戻ってきてくれた。私やこの楽しいお茶会のことを思い出してくれたから、私たちはまたこうして巡り会うことができたのよ」「でも…」と私は不安になって言う。
「でもまたいつか、しばらくしたら今日のことも忘れてしまうような、そんな気がするの」
「ええ、きっと忘れてしまうかもしれないわね」と、伏し目がちで答えたチェリー夫人の顔は少し寂しそうに見えた。
「でもね、忘れてしまってもいいの」
私はそのピンク色の瞳を見つめる。
「すべてを憶えていなくてもいいのよ。少しだけ、ほんの少しだけ、そうね…」と言ってチェリー夫人は空を見上げた。鈴の形をしたさくらんぼのネックレスが、チリンチリンと風に揺られている。
「そうね、たとえば4月の桜を見上げているとしましょう。すると風に乗ってどこからか甘い紅茶の香りが漂ってくるの。そうしたらあなた、さっきのようにまた懐かしい気分になることよ」
生暖かい春風が優しく頬をなでていく。
「それだけでいいの? 懐かしく思うだけで…?」
「そうよ。そのとき私たちはきっとまた会えるわ」
チェリー夫人は私に桜の花の塩漬けをまわすと、さらに言葉を続けた。「感覚というものは時として、記憶よりも優れているものなの。だからたとえ忘れてしまったとしても、いまこうして飲んでいるお茶の味や桜の香りは、あなたの感覚がよく憶えていてくれるはずよ」
桜の花びらの隙間をぬって、ピンク色の木漏れ日がキラキラと踊っている。光の精が風にのり、花びらと戯れているかのようだった。そんな光景に包まれながらチェリー夫人の美味しいケーキを食べているうちに、身も心もぽかぽかと温かくなってくる。安らぎと安心感のあるこの場所で、いつまでもこうしていたいと思った。こんなに穏やかな気持ちになったのはいつぶりだろう。
さくらティーの最後の一口を飲み終えると、先ほどカップの底で開いた桜の花はゆっくりと花びらを散らし、やがて葉桜へと姿を変えた。それまでピンク一色だったこの世界に、初めて緑色の葉っぱが現れた瞬間だった。何かが変わる気配を感じ、ハッとして顔をあげると、テーブルの上を覆っていた桜の木もまた一瞬のうちに葉桜へと変身していた。ピンクの絨毯も鮮やかな緑へと塗り替えられ、世界はいまや深緑だった。
「こんなに変わってしまうと、世界はまるで違って見えるのね」
空を見上げたままそう話しかける。けれど、返事はない。振り向くとチェリー夫人は朗らかな表情のまま目を閉じていて、眠っているように見えた。桜の花びらを編んだ長く美しい髪がゆるやかに解けてゆき、花びらは毛先からゆっくりと一枚ずつ風にのって運ばれていく。ピンク色のドレスも、手足や指先もみな桜の花びらとなって消えかかっていた。その儚さ、刹那的美しさを私はただただ見つめるばかりだった。やがて花びらは桜吹雪となって一斉に舞い上がり、私のまわりをくるくると旋回したかと思うと空中へ消えていった。
花が散り、チェリー夫人が去り、さくらんぼケーキと私だけが取り残された。緑色のフィルター越しに見えるチェリーパイは、もうあまり美味しそうに見えない。何もかもが違って見えた。
遠くから鳥のさえずりが聞こえてくる。少しずつ少しずつ近づいてくる鳥の声に耳を傾けていると、それは一風変わった不思議な歌声なのだった。
リンリンチェリーのお兄さん
呼び鈴鳴らしてお届けです
甘くて真っ赤なさくらんぼ
一粒食べたら甘えん坊
二粒食べたら怒りん坊
三粒食べたら食いしん坊
夜泣きをするのは赤ん坊
青く美しい羽を広げてやって来たのはかささぎさんだった。小さな頃よく一緒に遊んでいた、あの不思議なかささぎさん。青いチョッキに青ぶち眼鏡という出で立ちは昔とちっとも変わっていない。くちばしには何やら封筒らしきものをくわえている。
葉桜の枝先にちょこんと止まると、くちばしから封筒をバサっと落としてかささぎさんはこう言った。
「チェリー夫人はいますかな?」
私は頭上を落下する封筒を素早くキャッチして、
「いいえ、もういないの」と、ちょっと困った顔をした。封筒には宛名も差出人も何も書かれていない。
「一緒にお茶を飲んでいたんだけど、たったいま桜吹雪になってしまったところよ」
かささぎさんは枝から枝へとぴょんぴょん忙しそうに跳ねまわると、再び歌い出した。
一度食べたら戻れない
一期一会のお客さま
二度と再び帰れない
日没過ぎたらどちらさま
三度のお茶は忘れない
珊瑚の晩餐ごちそうさん
かささぎさんの歌が一段落したところで、私はこう聞いてみる。
「チェリー夫人に手紙を届けに来たの?」
「はて、それは誰のことですかな?」
かささぎさんはテーブルの上に降り立つと、首を傾げてポリポリと頭をかき出した。
「誰って…かささぎさん、いまあなたがそう言ったでしょ?」
「私が何を言ったって?」
「『チェリー夫人はいますか?』って」
「名前なんざ名ばかりさね」
かささぎさんはそう言いながら、ケーキの上のさくらんぼをついばみ始めた。
「手紙はきみが受け取った。それで十分じゃないですかな?」
「あら、これ私の手紙なの?」
さくらんぼを無心でついばむかささぎさんは返事をしてくれない。仕方なく私は封筒を開けてみた。そこには短く、こう書いてあった。
花になり、風になり、海になり、光になり
鳥とともにさえずり、魚とともに泳ぎ、星のごとく瞬く
またあとで。
すべてを思い出したそのときに。
「これ、手紙というよりなんだか詩みたいね」
最後に書かれた「またあとで。すべてを思い出したそのときに」という字に何度も目を通す。
「一体誰なのかしら」
私はひとりつぶやいた。それに「すべてを思い出したそのときに」というのはどういう意味だろう。「またあとで」と言うからには、もしかしたら私が忘れてしまっている誰かからの手紙かもしれない。いますぐには思い出せないけれど、さっきのチェリー夫人みたいにその誰かは私のことをずっと待ってくれている気がした。
「そうよ、きっと感覚が憶えているはずよ」
そんなことを考えていると、頭上からかささぎさんの声が聞こえてきた。
「どうです、一緒に。ここらを一飛びしますかな?」
さくらんぼのつまみ食いを終えたかささぎさんは再び枝に飛び乗って、青ぶち眼鏡ごしに私を見下ろしている。一飛びというのはどういうことだろう、と考えながら私は質問に質問で返す。
「一緒に散歩をするってこと?」
「そうとも言えますな。丘向こうを越えたところに私の仲間がいましてね。どうです一緒に一っ飛び」
「丘を越えたところって、ずいぶん遠そうに聞こえるけど…」と、私は曖昧な返事をする。
「なーに5分も飛べばすぐそこですよ」
私は思わずプッと吹き出した。
「かささぎさん、あなたは鳥だもの一瞬でしょうけど、私はそうはいかないわ。きっと何時間もかかっちゃうわよ」
かささぎさんは目をしばたたきながら首をきょとんと傾けた。
「はて、そうですかな?」
「そうよ」と私は請け合う。
「そんなに立派な羽をお持ちなのに?」
私は何を言われているのかわからず、黙ってかささぎさんを見つめた。「あなたはご自分をなんだと思っているのですかな?」
「何ってそりゃあ、私は……」
続きが出てこない。
「……あら、なんだったかしら」
私は自分がなんなのかを必死で思い出そうとしてみたが、考えれば考えるほど頭の中がグルグルしてきた。
「さあさあ仲間が待っています。ちょいとこちらへ来てみなさいな」
私は言われるがまま、催促するかささぎさんのもとへ駆け出した。というよりも、舞い上がった。私の体はいとも簡単に、ごく自然な滑らかさをもってふわりと浮き上がると、かささぎさんの止まっている枝まで目がけてヒューンと飛んだ。
「ほーら、あなたも一瞬ですよ」と、かささぎさんは満足げな顔で私を見つめる。私は綺麗な青い翼をバサバサと折りたたむと、隣を向いてにっこりと微笑んだ。
世界は美しい夕方だった。私たちは空の散歩を心ゆくまで堪能した。桜の大木を越え、小川の上を過ぎ、松林を越え、傾く太陽の光をたっぷりと浴びる。私は懐かしいと思った。羽を広げて風を切り、向かい風を受け止め、風と戯れるこの感覚。翼はまるでいつもそこにあったかのように、私の背中にぴたりと馴染んでいる。
「かささぎさーん!」
少し先を行く後ろ姿に向かって私は叫んだ。
「飛ぶって素敵ねー!」
「何だって〜?」
「私、飛んでるの! いま、飛んでるのー!」
かささぎさんはちらりと私の方を振り向くと、返事の代わりにいつもの歌をさえずった。
朝焼け散歩に出るまでは
世界は小さな自分だけ
追い越せ追いつけ追いかけて
夕焼け飛ぶのは誰ですか
天界走るその日まで
揺られて溺れて光出せ
心地よい空の旅はやがて終わりを迎え、私たちはついに丘向こうの目的地まで辿り着いた。のっぽの大木に腰かけると、かささぎさんは大きく息を吸って「かきくけこー!」と叫び出した。私も一緒になって「かきくけこー!」と呼びかける。
すると、林の中の方々から群れを成す鳥が一斉に集まってきた。赤や黄色、緑にオレンジ、ピンク色、水色、はんてん、しましま模様。みんな鳥々、色とりどり。
「やあやあみんな! 今日は何をしようかね?」
まずピンク色が喋り出した。たくさんの顔が、中心にいる私たち2羽をじっと見つめている。
「ホッパーゲームにしようよ」とオレンジさん。
「そいつはダメだね、論外だ」
みんな口々に喋り出す。
「ジャングル探偵はどうだい」
「おしどり漫才やりたいなあ」
「いやいやそいつは数が合わん」
「いつもの羽ばたき競争やろうよ」
全員が同時に喋り出したせいで、静かな森が騒々しい鳴き声でいっぱいになった。
「まあまあみなさん、落ち着いて」
かささぎさんの一声で、急にぴたりと静まり返る。私は青チョッキ姿のかささぎさんをほんの少し見直した。彼はいつだってみんなの頼れるお兄さんなのだ。
「そうですね、今日はウィグレットサンダーシェーキーリングなどいかがですかな?」
「そいつだ!」
「それがいい!」
「そいつをやろう!」
みんな口々に賛成を示す。全員両羽をパタパタと広げ、いまにも上空へ飛び立ちそうな様子だった。私は慌ててかささぎさんを呼び止める。
「まって、その何ちゃらゲーム、私知らないわ」
みんなが瞬時に私の方を振り向いた。
「そりゃ、俺たちだって知らないぜ」と水色さんが声を上げる。
「みんないまから初めてやるんだからな」
「ええ!」と私はびっくりする。
「じゃあ、かささぎさんしかルールを知らないってこと?」
「ルール? そんなもの私も知りませんがね」
「でもそれじゃあ、一体どうやって遊ぶの?」
困惑顔でそう尋ねると、
「遊びながらわかるもんだよ」と、どこからか声が聞こえてきた。
私はこれ以上、何をどう聞いていいのかわからなくなり黙ってしまう。
「遊びにルールは必要ですかな?」とかささぎさんは眼鏡をちょっぴり持ち上げる。
「きみ新入りかい? 難しいことは考えないでさ、楽しくやろうよ」と誰かが言った。そうだそうだと歓声を上げながら、みんなバラバラと羽ばたいていく。かささぎさんだけが私の方を振り向くと、キザなウインクをしながらこう言った。
「楽しんだもの勝ち、ということですよ」
私はなんだか自分だけが取り残されているような、妙に悲しい気分になってきた。まるでトンチンカンなことを言った気がして、自分がひどく頭でっかちのように思える。
「さあさあ、私たちも一緒に参りましょう」と、かささぎさんに促され、私は再び翼を広げた。
林を抜け、広々とした空中に躍り出る。
「準備は整ったね」と、張り切る紫さんが持っているのは熟れた小さなプラムだった。私はそのプラムをどう使うのだろうと内心思ったが、聞いたところで答えがないのは明らかだった。
総勢70〜80羽もの色とりどりな鳥たちが、大きな丸い輪を形成する。その大円環の中に私もいた。何をするのか知らないが、とにかく成り行きを見守るしかない。
「よーい、スタート!」と叫んだのはストライプさんだった。合図と同時に、紫さんは手に持っていたプラムをぽーんと高く打ち上げる。まず、落下するプラムを最初にキャッチするかささぎさん。羽の先で器用にチョンチョンとプラムを転がし、再び空中へ放り出す。そして次にかささぎさんの対角線にいた黄色さんが、それを受け止める番だった。
私はハハーンと思った。なるほど、キャッチボールのようなものか。要はプラムを落とさずに受け止めればいいのだ。
「なんだ、やっぱりルールあるじゃん」と、私はひとり納得していた。
プラムボールはなかなか私のところには回ってこなかった。ただ青紫色の点を目で追いかけながら、しばらく傍観する。みんなプラムを落とさないよう、慎重に、真剣に、時に大胆にパスを回している。すごい集中力だな〜とあくびが出かけたその瞬間、小さなプラムはみるみるうちに私のところに近づいてきた。完全に油断していた私はすぐに羽を広げたものの、ヨロッとバランスを崩してしまう。転がるプラムを羽の上でコントロールするのは、思いのほか難しかった。
驚きと動揺と焦りが一瞬にして私を包み込む。必死の抵抗も虚しく、プラムは重力に従って真っ逆さまに下へ下へと落ちていった。
私は鳥肌が立った。自分のミスでゲームを終わらせてしまったという事実。それがあまりに恐ろしく、申し訳なく、そして恥ずかしさでいっぱいになった。私はどういう表情をしていいかわからない。地面から恐る恐る顔を持ち上げる。すると顔を上げるや否や、「わああああああ」という凄まじい歓声が方々から一斉に降りかかってきた。と同時に、大きな笑みをたたえた鳥の群れがバサバサと音を立てて私のところに飛んでくる。
「きみ、素晴らしいじゃないか!」
「よくやった!」
「ここ最近で一番の試合だったよ!」
口々に褒められる私は何が何だかわからなかったが、興奮状態で駆け寄ってくる鳥たちを見て、みんなが心の底から楽しんでいるらしいことだけは伝わった。呆気に取られている私をよそに、唐突な胴上げが始まる。
「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」
掛け声とともに私の体はぴょーいと空中を軽々舞った。
ふわり、ふわり、体が浮かぶ。宙に浮き上がる瞬間はなんとも言えない心地よさがあると同時に、再び既視感のような懐かしさでいっぱいになった。恐ろしさも恥ずかしさもいまや吹き飛び、まるで勝利の女王さながら、勝ち誇った気分で得意げな笑みさえ浮かべていた。ちらりと横を向くとかささぎさんと目が合った。かささぎさんは何も言わず、ただコクリとうなずく。
「楽しんだもの勝ち」
私はひとりつぶやくと、満足の吐息を漏らしたのだった。
辺りは西日で満たされ、世界は真っ赤な夕焼けに包まれていた。ゲームを一通り終えた私たち鳥の群れは、めいめい木々で一休みしたり空中を旋回したり、水たまりを囲んでお茶の時間を過ごしたりした。私とかささぎさんは水たまりの群れに加わって、まるで井戸端会議のようなそれに耳を傾けていた。
「聞いたかい? 昨晩の出現騒動をさ」
「ああ、あれだろ。隣町に現れた大型生物」
「なんでも夜になるとウーとかアーとか騒ぐらしいぜ」
「まったく、世の中ってのは得体の知れないもんでいっぱいだな」
「どうだい今晩、ちょいと向こう町までその新入りを拝みにさ」
「おお付き合うぜ。何てったって、そいつは俺らの仲間だからな」
「仲間だし兄弟でもあるし、結局は俺ら自身だからな」
みんなの話し声に聞き耳を立てながら、私は目の前の水をピチピチと飲んでいた。乾いた喉に染み渡っていく。水面に映り込んだ自分の姿をぼんやり眺めていると、再び私は何かを、肝心な何かを忘れているような感覚に襲われ出した。しかしそれは、思い出そうとすればするほど遠ざかっていく何かだった。私は揺れる自分の残像をしばらく目で追いかける。
「もうまもなくですな」と耳元でかささぎさんの声がした。
私は目線を戻し、
「何が?」と聞く。
「太陽が眠りにつくのですよ」
「夜になるってこと?」
「そうとも言えますな。ですがその前に」とかささぎさんは空を見上げる。
「ですがその前に、しばしお別れの時が来たようです」
「お別れ?」と聞き返そうとしたそのとき、頭に冷たい雫が当たった。ポッポ…ポツポツポツ…。ハッとして頭を上げると、大量の雨粒が降りかかってきた。みんな右往左往、慌てふためきながらバサバサと羽を翻す。私も急いでみんなの後に続こうとするが、濡れた翼がもたついて上手く飛ぶことができない。横を見るとかささぎさんはいつの間にかいなくなっている。飛びゆく他のみんなの後ろ姿もすでに小さな点と化していた。雨水は一瞬にして膨れ上がり、洪水の波となって私の体を押し流す。必死になってジタバタ足掻くが効果はない。私はそのまま流され続けた。やがて太陽は完全に沈み、まるでろうそくの炎を消したときのようにフッと一瞬で辺りが真っ暗になる。大きな波に飲み込まれた私は暗闇の中を漂い続け、そのままゆっくり下へ下へと沈んでいった。
「ちょっとそこの僕、道を通してちょうだいな」
声に呼び覚まされ目を開けると、1匹の小さな魚がこちらを見つめていた。綺麗な緑色のうろこをしている。
「シャイニング・ロードで眠るのは、あまり感心しないわね」
「シャイニング・ロード?」
「あらもしかして僕、新入り?」
「え……僕?」
まだ目覚めたばかりで頭は少々ぼーっとしている。
「ここはね、私たちみんなの通り道よ」
ふと視線を外すと、夥しい数の魚の大群がその後ろに連なっていた。僕は慌てて道をどく。
「ごめんなさい、気がつかなくて」
小さな魚の集団は、まるで1匹の巨大な深海魚を思わせる。リーダーらしき先頭の魚は、僕の体をぐるりと一周まわってこう言った。
「いいこと? この真っ白な石の道を辿りなさいな」
下の方を見ると、そこにはキラリとゆらめく光の道筋ができていた。
「楽しい素敵なお散歩をね」
それだけを言い残すと、背後に大群を引き連れたリーダーはエメラルド色のひれをヒラヒラとさせながら去って行った。
僕は言われた通り、純白の石を道なりに辿っていく。音もなく、シーンと静かな海の中をゆっくりと漂い続ける。
水中のひとり散歩は何とも言えない心地よさがあった。力を入れなくても体はスイスイスイと淀みなく進む。そして進めば進むほど、僕は水の中に溶けていくのだった。水と戯れ、混ざり合い、ゆらゆらと水中をたゆたう。意識も肉体も僕は僕から離れ、いつしか水と一体化する。
そんな感覚を僕はすでに知っていた。静寂と闇夜。その中をひとり歩き続けていた日々。自分と周囲とを隔てるものは何ひとつなくて、何もかもが溶け合い混ざり合うあの瞬間はたしかにここにもあった。僕は大きく深呼吸をする。息を吐き出すと、小さな白い気泡がぷかぷかと浮かんだ。ぷかぷかと漂い、そして水の中へ溶けていく。
気ままな水中遊泳をしばらく続けていると、どこからともなく良い匂いが漂ってきた。香ばしくて美味しそうな匂い。
「これ、知ってる。なんの匂いだっけ?」
鼻をくんくんすればするほどお腹が空いてきた。
「焼き栗だ!」
そう叫ぶと同時に、陽気な栗焼き職人がひょいと顔を現した。
「やあ兄ちゃん、ずいぶん久しぶりじゃないか!」
そこにいたのは見慣れた顔の懐かしい、シャテーニュおじさんだった。
「シャテーニュおじさん!」
「最近はとんと顔見せなくなっちまったから、もう忘れられちゃったのかと思ったぜ」
はしばみ色の目と髪、それにふさふさした口髭をたくわえたおじさんは大きな鉄鍋で栗を炒っていた。白い湯気が食欲をそそる。
「あいよ、お待ち」と言って紙に包んだ熱々の焼き栗を手渡してくれた。「わああ、ありがとう! いただきます」
僕はポケットから小さなどんぐりを3つばかり取り出しておじさんに渡すと、早速栗をむき始めた。ぱっくり開いた割れ目から器用に皮をむき、大粒の実を口の中に放り込む。
「あっつ!」
シャテーニュおじさんは目を細めて笑っている。
「ゆっくり食うんだぞ」
栗はホクホク香ばしく、優しい甘さの中にほんのり塩が効いている。うん、いつもの味だ。僕は夢中になってパクパク食べた。
「おまえさん、最近調子はどうなんだい?」
僕は顔を上げた。
「うーん…」と考えながらも、栗をむく手は止めない。
「最近は色々なことを思い出そうとしているんだ。とっくの昔に忘れてしまった、大切な何かをね」
「そうかい、そりゃ良いことだ」とシャテーニュおじさんはうなずいた。「やっと何かをつかめてきたような、そんな気もするんだけど。でもまだはっきりとはわからないんだ」
「そいつはよくあることだよ兄ちゃん。俺なんかも、昨日はいくつ栗売ったっけなって、肝心なことはてんで思い出せなくてね」と、シャテーニュおじさんはおどけ顔で言った。
「あはは、それとはちょっと違う気もするけどさ〜 ゴホゴホゴホ」
笑ったら栗のかけらが変なところに入ってしまい、思わず僕はせき込んだ。慌てておじさんからお茶をもらう。
「でもな兄ちゃん。ひょっとしたら、大した違いはないかもしれないよ」
シャテーニュおじさんはどことなく真剣な顔で言う。
「俺たちゃあいつだって、よくわからない世界をよくわからないまま生きてるって気がしてならねえ」
「よくわからないまま?」と僕は繰り返す。
「そうだよ。よくわからないくらい、世界ってのはでっかいんだ」
おじさんは新たな栗をザラザラと鉄鍋に流し込んだ。
「わからないってのは自分が何かを忘れちまってるだけかもしれないし、そもそも知らないなんてこともよくある話さ」
「じゃあおじさんもいくつ栗を売ったかなんて、最初から全然数えてなかったわけだ?」
僕はいたずらっぽく言う。
「俺は…忘れちまっただけだよ…」と、シャテーニュおじさんはモゴモゴ口を動かした。
「で、商売の方はどうなの、最近」
そう聞くとおじさんは一瞬手を止め、まじまじと僕を見つめた。
「どうって兄ちゃん、そりゃないよ。肝心なおまえさんが思い出してくれないんだから、商売上がったりだよ、まったく」
ハッハッハとおじさんは景気よく笑う。
そうだった、と僕は思った。昔はしょっ中おじさんの焼き栗を食べていたというのに、近頃は一体どうしてこんなに忘れてしまっていたのだろう。小さい頃はいつだって一緒にいたのに。チェリー夫人もかささぎさんも、シャテーニュおじさんも、みんな一緒だった。
「ああそうだ。おまえさんに手紙が届いているよ」と、おじさんはがさごそポケットの中をかき回す。
「いつだっけかな、おまえさんがおまえさんに渡してくれって置いてったんだ」
「え? 誰からだって?」
封筒には宛名も差出人も何も書かれていない。僕は封を開け中身を取り出す。しかし便箋を広げたものの、そこにも何も書かれていなかった。あるのはただの白い紙切れが1枚。透かしたり裏返してみたりしてみたが、どこにも文字は見当たらなかった。
「でもシャテーニュおじさん、これ何も書かれていないよ」と僕は眉根を寄せる。
「手紙ってのは、必ずしも文字が書かれてあるとは限らないもんさ」
おじさんは平然と言いのける。
何も書かれていないその手紙をしばらく眺めていると、紙の中央が急に眩しく輝き出した。慌てて僕は手で光を遮る。恐る恐る見てみると、どうやらそれは鏡らしかった。
「鏡だ! おじさんこれ鏡だよ!」
僕は夢中になって叫んだ。
「ほほ〜 それで、おまえさんには何が見えるんだい?」
そう尋ねられ、僕ははたと気がついた。そういえば僕、いまの自分がどんな姿をしているのか全然知らないじゃないか。いや、想像がつかないと言った方がいいだろうか。そう思うとなんだか急にドキドキしてきて、口の中が乾いてきた。僕はゴクリと唾を飲む。そして恐る恐る鏡を覗き込んだ。けれど、そこに自分らしき姿はなかった。映っているものと言えば、光を反射する海水と藻、それに遠くを泳ぐ小さな魚たちだけだった。
「…何も見えない」
僕はボソッとつぶやいた。
「そうか」と言ったおじさんは変わらず鉄鍋を振り続けている。
「兄ちゃん、おかわりいるかい?」
僕は首を横に振る。鏡を見つめながらしばらく黙り込んでいると、
「そうそう、ひとつ言い忘れていたけどね」と、シャテーニュおじさんが口を開いた。
「おまえさん、自分がいまどこにいるのか、わかっているかい?」
僕は一瞬考え、
「海の中じゃないの?」と答えた。
「いいや」と今度はおじさんが首を振る。
「もちろんそれもひとつの答えだがな、おまえさんはただ水の中にいるってだけじゃないさ」
「どこにいるの?」
おじさんと僕の視線がカチッとぶつかる。
「宇宙だよ。宇宙にいるのさ」
一瞬、時が止まった気がした。宇宙というその言葉には、まるで何かを訴えかけてくるかのような、何かを思い出さずにはいられないような、そんな響きがある。
「しかもただの宇宙じゃない。おまえさんの宇宙なのだよ」
「……僕の…宇宙?」
この言葉、このやり取り。どこかで聞いたばかりのような気がする。
「自分の中にある、自分の宇宙。おまえさんはいつだってそこにいるんだよ」
僕は音楽でも聴くかのようにシャテーニュおじさんの声に耳を傾けていた。
「いまはピンとこなくてもな、こいつだけは憶えといてほしいんだ」
おじさんは栗色の瞳で僕の目をじっと見る。
「ずっと憶えていなくてもいい。忘れてもいいさ。だがな、必ずまた思い出してくれ。おまえさんの宇宙と、この俺をな」
シャテーニュおじさんの奏でる音楽には、僕の胸を、僕の喉をじーんと熱くさせるものがあった。頬を伝う小さな雫が水の中へと消えていく。足元に視線を落とすと、連なる白い石がキラリと光った。明るく輝くシャイニング・ロードは僕に笑いかけているみたいに見える。
もしかしたら、この道の先で見つかるかもしれない。僕はふと思った。この道をもっともっと進めば思い出せるかもしれない。とっくの昔に忘れてしまった、僕の大切な何かを。そして僕の宇宙を。
「シャテーニュおじさん!」
僕は勢いよく立ち上がった。
「そろそろ行くね。焼き栗たくさんありがとう、ごちそうさま!」
「おお、またな!」
おじさんの声を背中で受け止めながら、僕は再び泳ぎ出した。光る白い石を道なりに辿っていく。
途中、様々な生き物たちとすれ違った。小さな魚や大きな魚、海底を這っていくヘビ、ふわふわとさまようクラゲ、カラフルなサンゴ礁、羽を広げたクジャクのような生き物…。中にはこちらを見て丁寧に挨拶してくれるものや、知り合いのように手を振ってくれるものもいた。
しばらく泳ぎ続けていると、次第に辺りはしんと静まり返っていった。広大な水の中を、僕ひとりだけが泳いでいる。ゆっくりとしなやかに、体を大きく使いながら伸び伸びと水中を進む。進めば進むほど、僕は再び水の中に溶けていった。僕は僕から離れ、境界線はぼやけていく。すべてがひとつになるこの場所で、僕は流れゆく海の一部と化すのだった。
水中をたゆたっていると、どこからか微かな音が聞こえてきた。目をつぶり、耳を済ませる。
シャララン、シャララン…。
風に揺れる風鈴のような軽やかさ。ウィンドチャイムか何かだろうか。いや、違う。
「ささやき声だ」
僕がそうつぶやくや否や、3匹の小さな蝶々がひらひらと姿を現した。
「ウフフフフ」
「ふふふふふ」
蝶々は、春に吹く風のように優しげな音色でささやき合っている。水中を舞うその羽は、編んだ絹糸かと見まごうほどの繊細な造形をなしている。軽やかに飛び交う可憐さはまるで蝶の精霊を思わせた。
「あなたも泳ぐのが好きなの?」
1匹の蝶が耳元でそっとささやいた。目の前の光景にすっかり見惚れていた僕はその声にハッと我に返る。
「うん」と小さくうなずくと、蝶たちはふふふふと僕に笑いかけ、
「わたしたちもよ」と教えてくれた。
僕は3匹の蝶々を目で追いかける。
「僕、きみたちのような蝶も水の中を泳ぐとは知らなかったよ」
「それはわたしたちもよ。わたしたちも、知らなかったの」
「でもね、あるとき気がついたの」と、隣の蝶がささやく。
「わたしたちは風に乗って羽ばたくよりも、波に乗って羽ばたきたいんだって。気がついてしまったの」
ふふふふふと笑う蝶たちは嬉しそうに羽をなびかせて、水の中を優雅に回転した。
「それにね。わたしたちの方でも、まさかあなたとこんなところで会えるとは思っていなかったのよ」
蝶の精霊たちは、飛んでいるようにも泳いでいるようにも、また水中を歩いているようにも見えた。その芸術的な映像をしばらく眺めているうちに、僕はふとあることに気がついた。3匹の蝶々はひとつとして、何か特定の決まった色をしていないのだった。3匹とも皆、あらゆる色彩を兼ね備えている。羽を動かすたび、また見る角度や光の反射によって、それは水色にもピンク色にも、オレンジにも緑にも青にも紫にも黄色にも見えるのだった。その不思議な色の移ろいは見る者を捉え、また惹きつける力があるように思われた。
「きみたちは色んな色を持っているんだね」と、僕は話しかける。
「同時に色んな色を出せるなんて、まるでプリズムみたいだ」
3匹の蝶は何かをささやき合いながら、さらに僕の方へと近づいて来た。「あなたはどんな色になりたいの?」
そのうちの1匹が僕にそう問いかける。
「……僕は…わからないや」
短い沈黙の後、僕は考え考え答えた。
「でも、きみたちのように色んな色になれたら素敵だなって思うよ」
「あら、なれるわよ」
「そうよあなた、なれるわ」
「もちろんよ」
3匹の蝶はそれぞれ口々に喋り出す。
「本当に?」
僕は首を傾げた。
「だって、ここはあなたの宇宙なのよ」
「…僕の宇宙…」
「そうよ。だからいつだって、あなたはあなたのなりたいものになれるの」
「あなたは色んな色になれるのよ」
フフフフフと笑いかけるその音色は、綿菓子のように軽やかな甘い響きで僕を優しく包み込んだ。水中を鮮やかに舞う蝶たちの清らかさ、艶やかさ、優美さ、そして儚さは見る者を強く惹きつける。僕もあんな風に、あんな色でひらひらと舞えたら…と眺めているうちに、3匹の蝶々はその色も形も次第に少しずつ薄くなり、そしていまにも消え入りそうなほどに透き通っていくのだった。僕はその刹那的美しさに圧倒される。息をすることも忘れ目の前の情景に魅入っていると、やがて蝶たちはみな透明と化し、そのシルエットは流れゆく水の中へと溶け込んでいった。
「…はぁ」
僕は深く短い吐息を漏らす。
再び静寂が訪れると、僕はシャイニング・ロードの続きを進んだ。きらめく白い石を順に辿っていく。進むにつれて辺りは一面深緑で埋め尽くされていった。深い苔のような、海藻のような豊かな植物が水中に生い茂っている。ふわふわとゆらめくその中を僕はおもむろに分け入った。
海藻で作られたアーチの中はひんやりと暗い。キラリと輝く白い石はそのアーチの入り口で終わっていた。トンネルのような空間の先には漆黒だけが広がり、それはあらゆる光という光を断絶しているかのように見えた。僕はちょっぴり暗闇に怯えながら、慎重にその中を進んでいく。すると、ふいに周囲の水がぐるりと流れを変えたのがわかった。何かが、誰かが近くでうごめいていることを警戒し、息を潜めてまわりに目を凝らす。
「こんばんは」
突然の声に心臓をバクバクさせながら後ろを振り返ると、そこにいたのは小さな灯りを頭に宿したチョウチンアンコウだった。
「……アンコウさん、こんばんは」
僕は平然を装って挨拶を返す。
「よくこんな暗いところまで来たねえ。怖かっただろうに」
「シャイニング・ロードを辿ってきたら、ここで白い石が終わってしまって…」
「わたしらもみんな、さっきここに着いたばかりなんだよ」
アンコウさんの青白い灯りが周囲をうっすらと照らし出す。淡い光の中から現れたのは、ウミヘビにイソギンチャク、タツノオトシゴが数匹、マダコ、クラゲにウミウシ、それに最初に出会ったエメラルド色の小さな魚の集団だった。
「あら、さっきの僕もここまで来たのね」と、エメラルド色のリーダーが言う。
「どう? 素敵なお散歩ができたかしら?」
僕は「はい」と短く、でもはっきりと力いっぱいにうなずいた。リーダーは朗らかな微笑を浮かべる。
「皆さんはどうしてここに集まっているのですか?」と僕は聞いた。
「待っているんだよ」とアンコウさんが答える。
「何を待っているの?」
「光を待っているんだよ。太陽が顔を出す瞬間をね」
僕は頭上のはるか遠くにあるであろう水面を見上げた。暗闇に閉ざされた海藻トンネルの中からでは、いかなる光の粒子も通さないように思われた。「心配しなくても大丈夫よ。ここにもちゃんと太陽は来てくれるから」
僕の気持ちを見透かしてか、お花のようにぱあっと開いたイソギンチャクさんがそっと教えてくれる。
その隣では、タツノオトシゴのお父さんがぐずる子どもをあやしていた。「もう少しだよ、もう少し」
「もう少しってどれくらい?」
「もうすぐだよ。上の方を見ていてごらん」
父さんオトシゴの言う通り、その瞬間はすぐにきた。揺れる海藻の隙間から、木漏れ日のようにして温かな光が溢れ出す。暗闇に差し込まれた陽光はキラキラと踊るように僕たちみんなの姿を照らし出した。やがて光は海底の隅々にまで行き渡り、世界は光で満たされた。
僕は吸い込まれるようにして光の道筋を上っていく。アーチを抜け、さらに上へ上へと海水をかき分けた。水面近くでは、光の水たまりとも言うべきさざ波がひときわ眩い輝きを放っている。僕はまっすぐ泳いでいくと、その宝石箱のようなところから水の上へ躍り出た。
太陽はすぐそこにあった。大きな笑顔で世界を優しく包み込んでいる。僕は目を閉じて深く息を吸い込んだ。優しい温もりが全身を駆け巡っていく。身体中が日の光で満たされたとき、僕はこうつぶやいていた。
「私は私の宇宙を生きている」
この不可思議で広大な、どこまでも続く果てしない世界。それは私の中にある私の宇宙。そうした感覚が、太陽の光とともにゆっくりと流れ込んできた。風も鳥も花も、大地も海も、人も空も星も何もかも、それらはいつだって私の一部であり私そのものだった。とうの昔に忘れてしまった大切な何か。それはここにあった。私は宇宙というこの場所で、この世界とつながり、一体化する。ようやくそれを思い出したのだった。
太陽をたっぷりと吸い込んだ私はその瞬間、光になった。波打つ水面を反射させ、キラキラと輝く私は水の上を走っている。海の底を覗き込むと、シャイニング・ロードを進む小さな魚や大きな魚、アンコウさんにオトシゴの親子が「おーい」とこちらに手を振っていた。お返しに、私はその純白の道を明るい光で照らし出す。
世界の隅々を飛び回り、あらゆる場所に光という光を届け終えると、どこからか甘く懐かしいさくらんぼの香りが漂ってきた。香りのする方へ行ってみると、さくら色のドレスに身を包み、波打つ髪に桜の花びらを散らしたチェリー夫人がそこにいた。ポットを片手に、風に乗ってふわふわとこちらにやって来る。
「言ったでしょう。私たち、きっとまた会えるって」
チェリー夫人はフッと目元をほころばせるとそう言った。私は再会の喜びに、穏やかな温もりでチェリー夫人をそっと包み込む。
その背後には遠くの空をこちらに向かって飛んでくる、鳥の群れが見えていた。先頭にいるのは青いチョッキに青ぶち眼鏡という出で立ちの、あの、かささぎさんだった。後ろには横並びになって連なる、色とりどりの鳥たちを従えている。
かささぎさんは私を見つけると、首を傾げてこう言った。
「はて、ここらを一飛びしますかな?」
私はにっこりうなずくと、ヒューンと空高く飛び上がり、かささぎさんたちに向かって光のアーチを投げかけた。赤色にピンク、オレンジに黄色、緑、水色、青に紫、ストライプやしましまなどのカラフルな鳥たちは空中に光の帯を描き出す。色鮮やかな翼は光をたっぷり反射して、空には大きな虹ができた。チェリー夫人の大木からは桜吹雪が舞い上がり、さくらティーの良い香りが虹のかかる空いっぱいに広がっていく。光は花びらや鳥たちと、風に乗ってどこまでも一緒に飛んでいった。
やがて海底から再び「おーい」と呼びかける声が聞こえてきた。それは紛れもなくシャテーニュおじさんの声だった。焼き栗の香ばしい匂いのするところまで、私は一直線に駆け降りる。はしばみ色の髪に目、それに豊かな髭をたくわえたシャテーニュおじさんがそこにいた。
「その様子じゃあ探し物は見つかったみたいだな、兄ちゃんや」
私はたくさんの栗が入った鉄鍋のまわりをぐるぐると回転する。
「おまえさんが大事なもんをちゃんと思い出せたみてえで、俺は安心したよ」
シャテーニュおじさんは大きな鉄鍋を一振りすると、おどけた顔でこう言った。
「商売の方もこれで安泰だしな」
ハッハッハと景気よく笑う。
「また栗が食いたくなったら、いつでも思い出してくれよ。とびっきり熱々のやつを用意しておくからな!」
私は心からの感謝を込めて、おじさんのはしばみ色の瞳に温かな光を投げかけた。
シャイニング・ロードを一周し、再び水辺を離れようとしたそのとき、3匹の蝶々が海面近くからひらひらと顔を出した。相変わらず風鈴のように優しげな音を奏でている。ささやく蝶の精霊たちに光のキスを与えると、きらめくプリズムになって応えてくれた。
空と海の旅を終えた私は、光の矢のごとく一気に宇宙空間へと駆け上がった。大気圏を抜け、星々の住む天空世界へと辿り着く。
静寂と漆黒が横たわるその場所は、圧倒的スケールをもって永遠無限を映し出している。闇を背景に浮かび上がる星々だけが、その悠久の美を讃えているかのようだった。私は闇の中へ分け入ると、数多の星のひとつとなって銀河の群れに加わった。
どのくらい時間が経ったのだろうか。私は星空の点描となって来る日も来る日も輝き続けた。
「そろそろ地上に降りてみようか」
そんな風に思い始めていたとき、どこからか懐かしい香りが立ち上ってきた。それはちょっぴりほろ苦くて、でもどことなく薄っぺらい、そんな匂い。ほんのりとシナモンの香りが混ざっているようなこれは……。
銀河一帯をぐるりと見まわすと、そこには四角い灰色の生き物がたたずんでいた。「ミシリ、ピシリ」と、つぶやくような小さな息づかいを立てている。その扉は開け放され、ひんやりとした冷気が宇宙空間へと流れ出ていた。
私は光るふたつの目になって、その灰色の箱に近づいていく。その前方には、迷える魂がひとつ。闇に横たわるそれは、過去の、現在の、そして未来の私なのだった。
「オカエリナサイ」
ワタシは静かに呼びかける。
さまよう私の魂はワタシの声に気がつくと、深い眠りから呼び覚まされたかのごとくハッと辺りを見まわした。やがて私はこちらを向いて、光るワタシの目をじっと見つめる。ワタシは手近にある闇をまとうと、黒猫の姿になって一歩前に進み出た。艶やかな毛皮に満足し、長く柔らかい尻尾を振って挨拶をする。
「あなたは誰?」
「ワタシハアナタ」
「私はあなた? あなたが私なら、それなら私は? 私は誰?」
「アナタハワタシ ツマリ、アナタ」
どこからともなく春のような暖かい風が頬を撫でていく。遠くの方では桜の花びらが舞っていた。
「ここは…?」
独り言のようにそうつぶやく私に、ワタシは再び口を開く。
「ウチュウ アナタノ、ウチュウ」
ワタシはごろんと寝そべると、風に乗って揺れる星のかけらを前足で転がし始めた。毛糸玉にじゃれるようにして遊んでみる。
私はしゃがみこみ、ワタシにもう一度問いかける。
「私の宇宙?」
「ソウ アナタノナカニアル、アナタノウチュウ」
ワタシは星屑から目を逸らさずに答える。
「ワタシハワタシノ……」
まだ言い終わらないうちに、星屑じゃらしはコロコロと宇宙空間を転がっていった。ワタシはすぐさま追いかける。が、星のかけらはそのままどんどん転がっていき、ついには開け放された灰色の箱の中へピョーンと飛んでいってしまった。ワタシは衝動のままに追いかけそうになるが、そこで一度立ち止まる。後ろを振り返り、ワタシの宇宙を見渡した。
「私は私の宇宙を生きている」
一言それだけつぶやくと、灰色の扉に向かって再び走り出したのだった。
北風アリア