
【短編小説】「蛍」
祈り
夏になると、私はあの川へ行く。
もう、何年になるのだろう。
毎年こうして訪れているのに、きちんと数えたことはない。
数えてしまったら、あの日からどれだけ時間が過ぎたのかを、はっきり知ってしまう気がするから。
駅から少し歩いたところに、その川は流れている。
昔に比べれば、ずいぶん変わった。
放課後、二人で寄った小さな駄菓子屋はもうなく、土だった道もきれいに舗装されている。
それでも、夜になると、どこか懐かしい匂いがする。
水の匂い。
草の匂い。
昼間の暑さをまだ少し残した土の匂い。
そんな匂いを感じると、あの頃の景色が、静かに心の中へ浮かんでくる。
私は川辺まで降りて、いつもの場所に腰を下ろした。

夏の夜は、思っているより静かだ。
昼間はあれほど騒がしかった蝉の声も、今は遠くでかすかに聞こえるだけ。
川の水が流れる音と、草むらの虫の声。
ときどき、風が木の葉を揺らす。
私はその音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。
こうしていると、今でも彼が隣にいるような気がする。
もちろん、そんなはずはない。
分かっている。
分かっているのに。
夏の夜だけは、少しだけ期待してしまう。
もしかしたら、あの頃の時間がどこかに残っていて、そこへ戻れるんじゃないかって。
そんなことを考えてしまう自分が、少しおかしかった。
*
彼とは、子どもの頃からの付き合いだった。
家が近くて、学校も同じ。
気がつけば、いつも一緒にいた。
特別な約束なんてしなくても、自然と隣にいる。
それが当たり前だった。
高校生になってからも、それは変わらなかった。
放課後に一緒に帰ったり、コンビニでアイスを買ったり。
天気が良ければ、自転車で海まで行くこともあった。
今思えば、そんな何でもない時間が、一番幸せだったのかもしれない。
あの頃の私は、そんなことに気づいていなかった。
明日も会える。
来週も会える。
来年だって、きっと会える。
そう思っていた。
だから、彼が「来年もここに来よう」と言ったときも、私は何も考えずに頷いた。
「うん」
たった、それだけ。
約束というにはあまりにも簡単な言葉だった。
でも、その言葉は、今でも私の中に残っている。
あの夏から何年経っても。
私は忘れられない。
忘れたくないのかもしれない。
忘れてしまったら、本当に彼がいなくなってしまうような気がするから。
*
あの日のことを思い出すと、今でも胸の奥が少し苦しくなる。
電話が鳴った。
知らない番号だった。
嫌な予感なんて、なかった。
ただ、いつものように電話に出た。
「もしもし」
聞こえてきたのは、彼のお母さんの声だった。
けれど、いつもの声ではなかった。
何かを言おうとしているのに、言葉にならない。
電話の向こうで、何度も小さく息を呑む音がした。
そして。
「ごめんね……」
その声が、ひどく震えていた。
次の言葉を聞く前から、胸の奥が冷たくなっていった。
彼が亡くなったのだと分かった。
理由も。
そのとき何が起きたのかも。
まだ何も聞いていないのに。
ただ、その「ごめんね……」という一言だけで、分かってしまった。
電話の向こうで、彼のお母さんが泣き崩れた。
私は何も言えなかった。
何か言わなければと思うのに、声が出てこない。
握っていた携帯電話だけが、やけに冷たかった。
やがて、どちらからともなく電話が切れた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
部屋の中は、いつもと何も変わっていなかった。
窓から夕方の光が差し込んでいる。
テーブルの上には、飲みかけの水。
時計の針は、いつもと同じ速さで進んでいる。
なのに。
私の中だけが、突然、時間から取り残されたようだった。
最後に彼と会った日のことだけが、何度も何度も浮かんできた。
夕暮れの川辺。
少し湿った風。
隣にいた彼。
そして、別れ際の笑顔。
「またね」
彼はそう言った。
私は笑って手を振った。
「またね」
まさか、それが最後になるなんて思わなかった。
もし知っていたら。
もし、あれが最後だと分かっていたら。
私はもっと彼の顔を見ていただろうか。
もっと話しただろうか。
それとも、泣いてしまって、何も言えなくなっていたかもしれない。
そんなことを、何度考えただろう。
でも、どんなに泣いても、時間は戻らない。
だから私は、あの日の「またね」を、今でも心の中に残している。
さよならに変えてしまうなんて、できなかった。
*
川面を見つめていると、小さな光が見えた。
ひとつ。
ふわりと浮かんで、消える。
少し離れたところで、またひとつ。
蛍だった。
蛍……。
私は思わず立ち上がった。
この川で蛍を見るのは、久しぶりだった。
昔はもっとたくさん飛んでいた。
彼と二人で、何度も見た。
暗い川辺に小さな光がいくつも浮かんでいた。
まるで夜空の星が、地上まで降りてきたように。

あの頃の私は、それを見ているだけで嬉しかった。
彼の隣にいることが……。
ただ、それだけだった。
今になって思えば。
あの時がずっと続けばよかった。
でも、時間は止まってくれなかった。
季節は巡って。
私は大人になって。
彼のいない時間だけが、静かに積み重なっていった。
蛍が一匹、私の近くまで飛んできた。
淡い光が、暗闇の中で小さく瞬く。
私はその光を目で追った。
そして、ふと笑ってしまった。
「来たよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
返事はない。
それでも、不思議と寂しくなかった。
ずっと心の中で話しかけていたから。
今日あったこと。
仕事で失敗したこと。
友達と笑ったこと。
恋をしたこと。
泣いたこと。
たまには、あなたがいないことを忘れてしまった自分を、少しだけ責めたこと。
そんなことを、心の中で何度も話していた。
返事がなくても、私は話したかった。
私がちゃんと生きていることを、知っていてほしかった。
そして。
私が今でも、あなたのことを大切に思っていることも。
蛍が、もう一度光った。
今度は少し遠くで。
その光を見ながら、私は胸の奥にしまっていた願いを思った。
もし、生まれ変わることがあるのなら。
もし、もう一度どこかで会えるのなら。
今度は、もっと素直になりたい。
好きだったことを、ちゃんと伝えたい。
もっと一緒にいたい。
くだらないことで笑って。
何でもない話をして。
また夏が来たら、この川へ来て。
一緒に蛍を見たい。
そんな未来があったらいい。
そう思った。
涙が頬を伝った。
泣いてもいいと思った。
彼との時間を思い出して泣くことは、悲しいことだけじゃない。
あの人が私の人生の中にいてくれたことを、ちゃんと覚えているということだから。
私はしばらく、その場に座っていた。
やがて風が吹き、髪が頬にかかる。
それを耳にかけながら、私は夜空を見上げた。
星は少なかった。
それでも、いくつかの小さな光が見えた。
見えなくなったものが、なくなったわけじゃない。
そんなことを、ふと思った。
もう、彼の姿を見ることはできない。
声を聞くことも、隣に座ってもらうこともできない。
それでも。
私の中から、彼との時間が消えることはない。
それでいいのだと思った。
私は立ち上がった。
そろそろ帰らなければならない。
明日になれば、またいつもの日々が始まる。
朝起きて。
仕事へ行って。
誰かと笑って。
ときどき泣いて。
そうやって、私はこれからも生きていく。
それは彼を忘れることではない。
彼との時間を置いていくことでもない。
私の中に残った大切なものを抱えながら、これからの時間を歩いていく。
橋へ向かって歩き始める。
何歩か進んだところで、私は振り返った。
川辺には、まだ蛍がいた。
小さな光が、暗闇の中でひとつ、またひとつと瞬いている。
私は、その光を見つめた。
もう一度だけ、心の中で彼に話しかける。
――またね。
蛍が光る。
消える。
また光る。
まるで、遠いところから誰かが小さく手を振っているように見えた。

今度は、涙を見せないように、私は笑った。
そして、ゆっくりと前を向いた。
夏の夜風が、背中をそっと押してくれた。
あとがき
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
こちらの物語は、サザンオールスターズの「蛍」をモチーフに、AIと一緒に紡ぎました。
原曲に描かれている「死者への別れ」だけで終わらせず、残された人が、その人との思い出を抱えながら、その先の人生を生きていくところまで物語を広げています。
最後に主人公が「またね」と告げるのは、彼との別れを「さよなら」に変えないため。
そして、彼との時間を胸に抱えながら、自分自身の明日へ歩き出すためです。
原曲にある「夢溢る世の中であれと」という祈りも、物語の最後では、主人公自身の未来へとつながっていくようにしました。
大切な人を失っても、その人と過ごした時間まで失われるわけではない。
その記憶を胸に抱きながら、残された人もまた、自分の人生を歩いていく。
そんな小さな祈りを込めて、この物語を書きました。