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Photo bynanadays

自分軸で生きる私が、周りにはまぶしいらしい

    自分軸で生きる私が、周りにはまぶしいらしい

    「そんなところで働かなくてもいいじゃん」

    ある日、友人に言われた何気ないその一言が、しばらく頭の中に残った。

    「そんなところで働かなくてもいいじゃん」
    その“そんなところ”って、誰の基準なんだろう?
    私は今の働き方が気に入っている。誇りがあるわけでも、理想の場所だと思っているわけでもないけど、自分で選んだことにちゃんと納得している。
    じゃあなぜ、あの言葉が引っかかったのか。

    それはたぶん、その言葉の裏にある「私が見えているあなたの正解に沿って生きなよ」という“外側からの圧”に対する、昔からの違和感だった。

    自分で選ぶ、を手放さない

    私は昔から、人と同じことを盲目的に「良し」とすることができなかった。
    「みんながこうしてるから」「それが普通だから」という理由では、どうしても納得できなかった。

    短大を卒業したときもそうだった。
    周りが就職を選ぶ中、私はオーストラリアへワーキングホリデーに行くことを選んだ。
    あの時は、現実から逃げたかったというのも正直あった。でも、だからこそ見えたものもある。
    そしてたぶん、あのときから私の“軸”は何も変わっていない。

    今でも、「もっといいところあるでしょ?」なんて言われることはある。
    でも、私にとって大事なのは見た目の「立派さ」より、「疲弊しないこと」と「余白があること」。
    それは、自分の状態を健やかに保つために必要不可欠な条件。
    だから、他人から見て「非効率」に映っても、私は自分の選択を引き受ける。

    正直、それをいちいち説明するのももう疲れる。
    どうして自分の選択を他人に納得させなきゃいけないのか?
    そもそも、その人たちが納得するような理由なんて、私は最初から持ってない。

    なぜ“英語”だったのか?

    英語を学び始めたきっかけは、ただの憧れだった。
    映画の中で、金髪にブルーの瞳の人たちが自由に話す姿に「こんなふうに言葉を使えたらいいな」と思った。それだけ。

    でも、英語に触れれば触れるほど、自分が惹かれていたのは“その背景にある価値観”だったんだと気づいた。
    成果主義、個人主義、自立、自分の意見を前提に持つ文化。
    日本の「察する」や「空気を読む」ではなく、自分の言葉で表現し、尊重し合うことが普通にある空気。

    私にとって英語は、単なる言語ではなく、「自分であっていい」と思わせてくれる“生き方そのもの”だった。

    だから、今は英語そのものを教えるというよりも、英語を通して「自分らしく生きる」という姿勢を伝えたいと思っている。
    違ってていい。はみ出してもいい。
    私自身、英語からそう教えられてきたから。

    「ブランド」で人を測られる息苦しさ

    私の友人は、私が持っている財布をよく話題にする。
    「これ使ってるね〜、使いやすい?」って。

    あるとき、私は答えた。
    「使いやすくはないけど、見たときにどこのブランドかわからないからいいと思った」と。
    それは、ブランド名を前面に出して自分を表すことに、少し抵抗があるから。

    私は、どこのブランドを選ぶかで自分の中身を判断されるのが少し嫌だ。
    確かに私の財布も、知っている人が見れば「あれね」と気づくかもしれない。
    でも、それがわかる人は、たぶん価値観や物の選び方が私と近い。
    だから、そういう人にだけ伝わればいいと思っている。

    表面のラベルだけで人を測られることに、私はずっと息苦しさを感じてきた。

    「しっくりくる」ものは、説明できないけど確かにある

    そういうものを選んでいると、不思議と他のものに目移りしない。
    量産されたモノではなく、丁寧に作られたモノには“こだわり”がある。
    そしてそれは、使っているうちに自分の一部のように馴染んでいく。

    だから、「使いやすい?」と聞かれたときに気づいた。
    「使いやすいも何も感じてなかった、この財布について何かを思ったこと自体がなかったかもしれない…」というか、そのくらい馴染んでいる感覚。

    私にとってこの財布は、スペックや使い心地じゃなく、「しっくりきているか」が大事なんだって。

    そしてきっと、人生の選択も同じ。

    見た目や評価じゃなく、自分が“しっくりくる”かどうか。
    私はそうやって、これまでの道を選んできた。

    「まぶしい」と言ったのは、誰だったのか

    その友人がふと口にしたことがある。
    「もしかしたら周りの人は、あなたのことがまぶしくて仕方ないのかもね」

    そのとき、私はふと思った。

    “まぶしい”と感じているのは、きっとその言葉を口にした本人なんだろうなと。

    私は誰かに認められるために生きてきたわけじゃない。
    むしろ、“正解”が見えていても、あえて逆方向に舵を切ってきた。
    正規のルートに戻った方が楽だと気づいたこともあるけど、それでも「自分じゃない誰かのために、自分を殺す」ことはできなかった。

    だからこそ、自然と“道”が外れた。
    でも、そのとき初めて、ちゃんと息ができるようになった気がした。

    他人の正しさより、自分の正しさ。
    私は最初からずっと、「自分で選ぶ」を軸にしてきた。
    それは誰かを説得するためじゃない。
    自分が、自分でいるために。

    これからもずっと、自分の選択を、自分で選び続けていきたい。
    それが、私にとっての「まっとうな生き方」だから。



     
     
    ことばを書く人| 20歳の頃、自分が英語を教えるなんて思いもしませんでした。 noteでは、語学や学びについて、日々ふと浮かんだことを ゆるく、でも時々まじめに書き残しています。

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