
JKの私が「運命」を捏造する理由
運命は、偶然の価値付けだと思う。
👧)私はきっと現れる運命の人と結婚するの💗
🦹)…これが運命…なのか…🪦
🦸)俺は!運命に負けない!
人は、自分ではどうにもならない出来事や、後から振り返って意味を感じた結果や未来を、「運命」と呼ぶ。そして、最初から決まっていた、必然のように捉える。
でも、私はそれはちょっと違うと思う。シュレディンガーの猫のように、観測する(私たちが意味をつける)までは、それはただの無機質な偶然でしかないと思う。
人間は単なる偶然を運命と価値づけている。
そうなると、人間は運命と思いたい、思わずにはいられない偶然にしか、運命を感じられない。
そういう意味では、運命は決まっているとも考えられる。
偶然を偶然のまま受け取るには人間は弱すぎる。
だから私たちは、あとから意味をつける。
ただの出来事だったものに、理由や価値を与えていく。
美しい、美味しい、好き、面白い、と
世界を自分なりに解釈するのと同じように、
偶然を「運命」と呼ぶ。
私は、「運命の人」に何人も出会ってきた。
目に入った瞬間になんとなく「いいな」と思って、
そこから少し特別視するようになる。
普遍的に行動を特別に感じる。
運命と錯覚する。
偶然と理解していながら、辞書的な意味で運命と名付けている私は、科学的に考えてと冷笑するメガネなのか、ロマンチシズムに溢れたバカ女なのか。
他の現実主義を掲げる人間が私をバカにしてきても、私はそれをただの偶然だと思いたくない。
偶然という一言は私を、私から見た他者と、つまり大衆と変わりないことに気がついてしまう。
私は、自分を特別な存在だと思うには素晴らしい偶然が必要なのだ。
運命と思い込むことで、かけがえのない自分を存在し始めるのだ。
だから私は、偶然の出会いを運命と呼ぶ。
都合のいい解釈なのかもしれない。
それでもいいと思う。
運命は単なる評価だと、すべては偶然だと知りながらも、
「運命」と思わずにはいられないほどの偶然に、
いくつか出会えれば、それでいい。
私はきっと、また都合よくそれを運命にするから。