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恐怖に魅入られる。「大きく無機質なもの」への恐怖を紐解く。

    こんにちは。旅行好きOLのリネンです。いつもは、noteで「散財を防ぐためには?」「余分な出費を削るには?」といった視点の記事を自由に書いています。

    今回は一転して、自分自身の「とあること」について徒然と書かせてください。

    それは、私の人生の中で、長いこと刻まれている不思議な感覚についてです。20年近く抱えているこの感覚、誰かに共感してもらえるのでは?と不意に思いつき、せっかくなのでnoteにしたためてみようと思います。少し怖いと感じる方もいるかもしれませんので、タイトルを見て嫌な予感がした方は読み飛ばすことをおすすめします。

    では、始めましょう。


    巨大な人工物への渇望


    私は幼い頃から、巨大な銀色の鉄塔を見ると胸がざわつく。特に、高速道路を走る車の窓から不意に見えるような、雄大な青々した山や、果てしなく広がる田んぼを切り分けるように、無機質な銀色の鉄塔が立ち並んでいるのを見ると、頭の裏側がゾワゾワする。
    他にもある。例えば、壁のように聳え立つ超巨大なダム。太陽光をうけて不気味に光るコンクリートの外壁が、山々のなかに突如として時空を歪めるように佇む様に、私の脳は総毛立つ。
    例えば、1970年代の大阪万博のトレードマークの太陽の塔。健全な青が眩しい晴天をバックに立ち、存在感を放つ人工像。かつてはもっと白かったであろう像の表面は長年の風雨にさらされてどこか濁っている。その巨大な陰影に、思わず恐怖し、息を止めてしまう。

    これが、私の持つ不思議な感覚だ。遡れば小学生くらいから、そういった類の元を見ると、本能的に恐怖を感じるようになった。

    共通項はなんだろうか。
    単純に大きいことだけではない。おそらく、雄大な自然という文脈を無視して現れる、巨大な無機質な人工物。その違和感に恐れを感じるのだろう。その証拠に鉄塔などよりはるかに大きな東京タワーやスカイツリー、高層ビルなどには一抹の恐怖も感じない。それは、周りにも人工物が立ち並び、高い建物が溢れる「都会」という文脈の中に馴染んでいるからだ。

    自然の中にポツンと存在する巨大な人工物。もし、それらが意識を持ったらどうなるのだろうと私は考える。
    もし、それらが、人間が太刀打ちできないとてつもない大きな質量を携えて突然動き出し、漫然とした動きで、無慈悲な動きで、人も街も破壊していくとしたら。そんな想像が、頭を駆け巡る。
    もしそんなことが起きれば、まるで天災や、神様の天罰のように、絶対的な挙動なのだろうか。
    気が遠くなるほど大きな鉄の骨組みや、灰色のコンクリートの側面に、鮮やかな赤が飛び散るのだろうか。

    …そんなことを、考えてしまい、昔からいつも足がすくむ。

    でも、不思議なのだ。
    その恐怖のどこかに、小さな快感がある。 子供の頃から今に至るまで、大きな人工物を見ると、恐怖と表裏一体に、謎の気持ちよさを感じていた。魅入られてしまう、とでもいうべきだろうか。

    私は、20数年、その相反する感覚に名前をつけられずにいた。


    アラサーになった今、私がこの感覚に改めて向き合うことになったきっかけは、旅行先で見かけた風車だった。

    旅行好きの私は、少し前、友人と和歌山旅行に行った。その際、印南町というところにある印南風力発電所の風車群を一望する機会があった。

    風力発電所の存在はそもそも知らなかった。観光地は向かう途中、黒潮フルーツラインという和歌山県の有名な峠をドライブしていて、遠くから見かけたのだった。

    見た瞬間、またあの感覚に取り憑かれた。雄大な景色の中でぐるぐると回る、大きくて、無機質な羽。景色の文脈を歪める強烈な違和感が、山々を貫くように理路整然と並んでいる。恐ろしさと快感に、意識が遠くなる。
    怖いのに、「ああ、こういうのが見たかったんなよな」なんて気持ちにまでなった。

    改めてこの感覚の正体を探ろう、そう思い立った。


    インターネットで調べてみると、大きい人工物に対する恐怖症はしっかりと存在するようだ。「巨像恐怖症」「メガロフォビア」などと呼ばれるらしい。

    メガロフォビアは、「メガロ(巨大)」と「フォビア(恐怖症)」を組み合わせた用語で、巨大な物体に対する病的な恐怖を表現しています。この恐怖症では、高層ビル、巨大な自然物、大型の乗り物、巨大な彫刻や建造物などが恐怖の対象となります。重要な点は、これらの物体が実際に危険でない状況でも、強い恐怖反応が起こることです。

    医療法人社団 惟心会
    https://ishinkai.org/archives/5027


    しかし、調べれば調べるほど、しっくりこない。
    インターネットの情報を調べるに、おそらく、メガロフォビアを患っている方は、巨像とされるものがあるだけで、心身に不調をきたし行動が制限されてしまう、とのこと。本当にメガロフォビアで、日々の生活に苦労されている人と、私のような例を同じにするのは、失礼にあたるだろう。

    なぜなら、先ほど述べたように、私は別に、大きなものに恐怖だけを感じているわけではないのだから。むしろ、怖いのに見たい。近付きたい、という感覚に襲われている。
    見てはいけない気がするのに、目を離せない。こちらを見下ろされているような気がして恐ろしいのに、それと、目を合わせてみたい。そんな感覚に取り憑かれているように思う。

    いつから、なぜ、そう感じるのか。私は真剣に考えることにした。


    よくよく思い返してみると、私は女ながら、大きな生き物が街を破壊するような特撮映画や、平和な街が恐ろしい何かによって一変するパニックホラー漫画が、好きかもしれない。

    もし突然こんなことになったらどうしよう、というスリルとカタルシスを感じて癖になるのだ。ある日全ての常識も社会もひっくり返って、破壊されていくことへの痛快さ、とでも言えばいいだろうか。

    けれどその原因が人間同士の争いや、犯罪などではいけない。それはなんだか違う。口が悪くなってしまうが、胸糞が悪くなる。人間の枠を飛び越えた超常現象であるからこそ、強烈なカタルシスを感じる。人間など及ばない、人智を超えた存在に、ルール無用で全てが破壊される。人類は諦めと畏怖の感情だけになり、なぜ?とか、助かりたいとか、理解しよう、という感情からすら解き放たれる。そんな作品が好きなのだ。

    ここまでの話だと、私はすこしやばい人間だと思われてしまうかもしれない。

    だが、異常なことだろうか?誰にでも思い当たる節はあるのではないだろうか?

    明日辛いことが待っている日の夜、不安で眠れない夜、「明日の仕事が嫌だ。隕石が落ちてくればいいのに」「学校に行きたくない。〇〇で学校なんから無くなればいいのに」なんて不謹慎なことを、思ってしまったことは、ないだろうか。

    超常現象に日常が破壊されることに、私が快感を覚えてしまうのは、おそらくそれが始まりだ。


    思い当たるのは、中学受験をしていた頃のこと。

    私は小学三年生から、中学受験の塾に通い始めた。週に何度も、夜遅くまで、家から数駅離れた塾に通った。志望校は県内でも有数の学校。けれど私は算数が苦手だった。しかし、塾のシステムは子供にとっては厳しいもので、テストの点数は他の生徒にも公表されるし、クラス替えもテストの成績次第。毎回出される宿題は私にとっては拷問のように多く、終わり切らずに塾に行く日も多かった。
    そういう日は、先生にやっていないことがバレないかヒヤヒヤしたし、やっていない設問を授業中当てられないかといつも呼吸が浅くなった。だから、宿題が終わっていない日の塾前はいつも気が重く、塾のある駅へ向かう電車の中で、大量の教科書やノートが入ったリュックをを背に、ため息をつき続けていたものだ。

    思い返せば、そこまで追い詰められることはなかったと思う。両親は教育熱心だったけれども、成績の悪さを責めてくるタイプではなかったし、塾にも子供を追い詰めるような先生はいなかった。辛い苦しいと弱音を吐けば誰かが助けてくれたと思う。
    しかし、当時の私は、「逃げ場はない」という感覚に苛まれていた。勉強がしんどくても限界でも、塾には休まず行き続けなければいけないし、志望校に受からないと大変なことになると、本気で思っていた。

    だから、塾へ向かう自分の重い足取りを止めないようにいつも努力していた。気を抜けば崩れる。手を止めれば落ちる。そういう緊張感の中で、毎日。

    そんな時期、よく頭をよぎっていたことがある。

    それは、今日世界が終わったら?という、誰もが人生に一度はしたことがある想像。
    私の想像は、少し不謹慎なもの。「今この瞬間、何かが起きてしまえば、塾なんて行かなくていい」「世界が終われば、塾どころか、受験なんかもなくなる」「成績とかどうでもよくなる、楽になる」

    そんなことを考えていた時期。
    学校の林間学校から帰るバスの車窓から、鉄塔を見たのだと思う。

    当時の私は、林間学校をずっと前から楽しみにしていた。小5だったろうか。受験勉強も本格化しており、なかなか遊びに行けない時期だった。実際、2泊3日の林間学校の間は塾のことを忘れられたし、友達と目一杯いろんなことができるのが楽しく、最高の林間学校だった。

    だからこそ、帰りのバスがどれだけ憂鬱だったことか。翌日にはもう塾が待っていた。林間学校に行っていたので、家に残した宿題は当然終わっていない。

    帰りたくない帰りたくない。
    そんな気持ちに支配されていた時、皆が疲れ果てて眠る帰りのバスの中から見上げた無機質な鉄塔の銀色。山や田んぼを無造作に切り分けて、等間隔に並んでいる鉄塔を見た。

    その時、こう思ったのを覚えている。あれがもし一斉に動き出したら、きっと、誰にもどうすることもできない、と。

    今ならわかる。

    その「どうすることもできない」状況に、救いを求めていたのだと。このままでは明日もその先も、行きたくない塾が待っている。そしてその果てには恐ろしい受験が待っている。ベルトコンベアのように、嫌がっても勝手に運ばれていく。降りることはできない。

    でも、もしあの大きなものたちが動き出したら?超常現象みたいに、人間が太刀打ちできない存在が世界を破壊し出したら?もしその時は、強制的に動き続けるベルトコンベアから、暴力的に、降ろしてもらえると思った。

    私にとって、大きなものに対する恐怖と快感が同じ場所にあるのは、そのせいなのかもしれない。


    あれから20年近く経った。

    中学受験は、もう昔の話だ。あの頃の重圧も、テストの結果も、塾の席順も、地獄のような宿題も、今となってはほとんど思い出せない。でも大人になった今、私は別のベルトコンベアの上にいた。
    __仕事、生活、人間関係、大人としての義務。逃げられないのは同じだ。寧ろ大人になった今の方が、逃げたいと思う物の種類は増えた。

    もちろん、日々の生活は幸せだ。満足している。
    でも、やりたくないことや嫌なことだって溢れている。心の奥底では、逃げたい、この日常というベルトコンベアからおりてしまいたい、と心をすり減らしながら生きている。多分これは、どうしても変えがたい私の生き方なのだと思う。

    だから、今でも無機質な人工物を見ると息が止まる。雄大な緑あふれる山々の中に、不自然に光る銀色の鉄塔、突然現れる巨大なダム、大きな人工像。

    いや、もっともっと世の中に溢れている。夜空に屹立する野球場のスタジアムライト、海に浮かぶ工場地帯で鈍色に光る煙突、道路や高層ビルなどの大規模な建設現場にぼうっと佇む超大型クレーン。そこに目などはついていないはずなのに、人ならざる大きな存在の眼差しを感じる。

    それらが不意に突然、こちらへ、ちっぽけな人間側へ振り向いてくるのではないか。
    人間が作ったはずのものたちが、人間の手を離れて、人間の力を超えて、向かってくるのではないか。
    この日常が異常な存在に見つかって、不意に断ち切られてしまうのではないか。

    日々の生活に感謝しているはずなのに、心のどこかで見つけてほしいと思っている、不謹慎な自分がいる。これは、たぶん一生治らない感覚だ。



    もし、この先の人生。

    突然街を破壊する巨大な何かが映画のように現れ、世界がパニックに陥った時。
    私はきっと恐怖で震えながらも、思わず足を止めて見上げてしまうのだろう。

    それらと、目を合わせようとしてしまうのだろう。

     
     
    不動産業界で働く旅行好きOLです。 楽しく生きるために働いてます。 娯楽欲も物欲も我慢しない。生活の質は下げないけど、支出を減らす。 マイナスをゼロにするメソッド。

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