メインコンテンツへスキップ
見出し画像

『Mr.サマータイム』(124枚)

    『Mr.サマータイム』



     記憶はここでは潮風だった。かつてはスタジオの熱いスポットライトで焼き付けられたものたちが、今はただ、窓枠に三年分、珊瑚のようにざらつく塩の結晶として積層している。白亜のホテル「レジナ・マリス」は、コート・ダジュールの断崖に張り付いた、過去という名の貝殻だ。私、エヴリン・モーガン――今年、六十八になる――は、その中で、ゆっくりと真珠ではなく、虚無を育てていた。指でなぞると珊瑚のようにざらつき、一九七八年のサンタモニカで砂丘が歯磨き粉のように足元から流れ去った感触が、幻覚のように甦った。
     ここでの私の日課は、静かな腐敗と同じくらい規則的だ。午前中はベランダで過ごす。同じ白いアイロンのかかったテーブルクロス、同じ銀製のポットで淹れられるカモミールティー。給仕の少年は、私がかつてスクリーンで七人の男を翻弄した女優だとは知らないだろう。彼の「お客様、本日のマドレーヌはいかがでしょう?」という声には、老いた客人への丁寧な気遣いしかない。
     ベランダからは、断崖の下を永遠に洗う波と、それを追いかけるように飛ぶ白いカモメの群れが見える。時折、豪華なヨットが水平線を横切り、どこかへと急いでいる。彼らには行く先がある。私には、ここでゆっくりと色あせ、この潮風に最終的には溶けていくことだけが待っている。
     老コンシェルジュのジャン=ピエールだけは、時折、彼の目に一瞬だけ、かすかな哀れみのようなものを浮かべる。彼は何かを知っている。あるいは、ただ長くホテルに勤める者として、私のような「永遠の客人」を数多く見てきただけなのか。彼は先月、私の好みを覚えていて、部屋の花をスイートピーに替えてくれた。そのささやかな心遣いが、逆に、私はここにあまりに長く留まりすぎているという事実を、私に突きつけた。
     午後三時。下方のテニスコートでは四人の金髪青年が交互にラケットを振る。白いウェアが陽光を断続的に反射し、その都度、私の網膜にはかつてのスタジオで浴びた炭素灯の閃光が焼き付く。球の跳ねる規則的な音が、松林を抜けてやって来る波の音に掻き消され、また現れる。
     ドアがノックされた音で、私はゆっくりと振り向いた。
    「エヴリンさん、今度の、新人女優コンテストの審査委員長の依頼です」
    ダニエル・エヴァンス、私の現マネージャーで今年四十二歳になる男が、革の書類ケースから契約書を取り出した。
    「少しお疲れのご様子ですね。昨夜はベランダでずいぶん遅くまでおられましたようですが」
     彼はわずかに前かがみになり、書類の向きを私が読みやすいように調整する。その細やかな気遣いは、十年以上も私の世話をしてきたからこそのものだ。新品の紙が発するアルデヒドの匂いが、部屋に充満していた松ヤニと潮の香りを突然圧倒する。彼のスーツの左肩には、このホテルまでの山道で付いたと見える松葉の破片が一つ、微かに震えている。
     私はペンを手に取ると、その重さを確かめるように数秒止めた。
     指の関節が、かつてマイケル・コールドウェル――私の元マネージャーであり、婚約者だった男――がダイヤの指輪をはめた位置で、鈍い痛みを発している。署名欄は、眼下の海のように白く、深く待っていた。
     視線を窓の外に戻す。テニスコートでは、一人の青年がネットにボールを叩きつけ、悔しそうに首を振っている。その仕草が、あまりに若々しく、無垢だ。私は思わず、自分がまだスクリーンの中で息をし、誰かの脚本に沿って生きている時代を思い出す。あの頃は、ハリウッドの華やかな生活の只中にいた。ジャック・ウェストンとの共演作が世を席巻し、私はトップ女優の座に駆け上がった。そしてマイケルは、私のすべてを支えるマネージャーであり、穏やかな未来を約束してくれる婚約者だった。しかし、あの輝かしい日々でさえ、内側には満たされない虚無が潜んでいた。すべてが脚本通りすぎて、自分がどこに立っているのか、時々わからなくなることがあった。
     今、このホテルで味わう時間には、終わりがない。ただ、ゆっくりと、確実に、腐敗していくだけだ。
    「ご署名はお済みでしょうか?」
     私はゆっくりとペンを下ろした。革張りのソファが、腰の古い傷を覚えさせながら沈む。
    「このコンテスト……」
     声がかすれた。窓の外で波が岩に砕ける音が、私の問いを飲み込んだ。
     ダニエルは微動だにしない。彼の影が夕陽を受けて絨毯の上に伸び、私の足元まで届いている。
    「オテル・ド・パリで開催されます。主催者一同、あなたの参加を……強く望んでおられます」
     彼の言葉は完璧に調整されていた。かつてマイケルが脚本の台本を読み上げるように、情感を排した正確な発音だ。
    「……表舞台への復帰となるわけですが……」
     彼はわざとらしくないように、しかし確実にその言葉を落とす。私の胸の奥で、長年眠っていた何か――恐怖か、あるいは忘れかけていた昂揚か――が蠢く。オテル・ド・パリ――モナコの断崖に佇むその宮殿は、かつてジャックと私がパパラッチに撮られた場所だ。
     右手の人差し指が、かつてマイケルがはめた指輪の跡をなぞる。あの頃の私は、彼の用意する脚本通りに生きることが、いつか本当の自分を見つける近道だと信じていた。
    「審査員長……そんな役柄はもう……」
    「あなたにしか務まりません」
     ダニエルが素早く遮る。彼の目が一瞬、鋭い光を宿したように思えた。
    「この業界で、あなたほど多くの栄光と……現実を知る者は他にいない」
    「現実」という言葉が、冷ややかに室内に響く。彼はわかっている。私がもうあの華やかな世界の偽りも、その後の転落の痛みも全て知っていることを。私をこの役に引き込むために、最も効果的な圧力だ。
     遠くで救命艇の汽笛が聞こえる。私はゆっくりと契約書に近づき、ペンの先を紙の上に置いた。インクが滲み広がる前に、もう一つの記憶が蘇る――ジャック・ウェストンとの共演作のプレミアで、初めてマイケルの手を握った夜のことを。彼の手のひらは温かく、そして少し汗ばんでいた。
    「署名が必要な箇所は三ヶ所です」
     ダニエルの声が、過去の幻影を打ち消す。
     私は息を深く吸い込み、一番目の欄に名前を書き始めた。それぞれの文字が、過去への墓碑銘のように重く感じられる。
     ペンの先が、契約書の上でかすかに震えていた。インクの滲みが、四十年前にこぼした涙の跡のようだ。エヴリン・モーガン――かつては輝きに満ちていたその名前が、今は紙の上で色あせて見える。それぞれの文字を書き進めるたび、あの日々が甦る。スタジオでマイケルが「君は天才だ」と囁いた声。ジャックの甘く危険な笑い声。観客の拍手喝采……
     ダニエルは立ち尽くしたまま、私の動作を静かに見守っている。彼の影が夕闇に溶け、まるで死神のようだ。部屋の中には、過去の亡霊たちの囁きが満ちている。
    「……エヴリンさん?」
     彼の声が、現在へと引き戻す。窓の外では夕陽が水平線に沈み、海が血のように赤く染まっている。あの光は、かつてジャックと共演した『サマータイム・ブルース』のラストシーンそのものだ。あの時、私は役になりきって泣いた。今思えば、あれは自分の運命を予感していたのかもしれない。
    「……大丈夫ですか?」
     うなずくしかできない。三つ目の署名欄に名前を書き終えると、ダニエルはさっと書類を受け取った。彼の指が触れた紙の部分だけ、なぜか冷たく感じる。
    「では、詳細は改めてご連絡します」
     ドアが閉まる音が、墓穴を埋める土の音のように響く。部屋には潮の香りだけが残る。テーブルの上には、契約書のコピーが一枚。オテル・ド・パリ――あの場所で、またあの世界に足を踏み入れることになる。まるで墓場に飾る花のように美しく、そして死臭を放つ舞台へ。
     窓の外では、とうとうテニスの試合が終わり、青年たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。彼らにはまだ無限の未来がある。私には――もう残された時間が少ないことがわかっている。この手はかつてスタジオで輝いていたが、今は老人斑が浮かび、震えるだけだ。
     遠くで教会の鐘が鳴る。夕べの祈りの時間だ。私はソファに深く沈み込み、目を閉じる。まぶたの裏に、マイケルの最後の笑顔が浮かんで消える。彼はあの日、私にこう言った。「君はもっと大きな舞台に立つべきだ」と。なんという皮肉だろうか。今、私に与えられた舞台は、自らの墓標の前で踊る最後の舞台なのだから。
     ダニエルが去った後の部屋には、鉛のように重い沈黙が残された。扉の閉まる音の余韻が、長く、長く、壁にぶつかっては消えていった。
    私は立ち上がり、窓辺に歩み寄る。足取りはかつてのキャットウォークのそれではなく、むしろ、終演後の舞台から楽屋へと引きずるように歩く老女優のそれだ。窓の外では、夕闇が海をゆっくりと包み込み始めている。水平線は、さきほどまでの金色から、深い藍色へと変わり果て、やがて闇に飲み込まれようとしていた。遠くに灯る一隻の船の明かりが、かつてのスポットライトのように、ただ一点、虚しく輝いている。
     テーブルの上には、契約書のコピーが一枚、無造作に置かれている。オテル・ド・パリ。その名前を見つめるだけで、胸の奥が締め付けられる。あの場所は、私がジャックとパパラッチに捕捉され、人生の歯車が狂い始めた現場だ。そして今、その同じ場所が、私を「審査員長」として招き入れる。これは何かの皮肉なのか、それとも、過去の亡霊たちが私を呼び寄せる罠なのか。
     冷たいガラスに額を預ける。その冷たさが、かえってほてった皮膚を癒す。ふと、マイケルのことを思い出す。彼は今、どこで、どんな人生を送っているのだろう。あの穏やかな笑顔は、もうとっくに別人のために輝いているに違いない。私が署名を終えたそのペンは、かつてマイケルがくれた万年筆とは、あまりにも重さが違った。
     部屋の隅では、小さなデスクランプが淡い光を放っている。その灯りに、細かな塵が舞い、そして沈んでいく。まるで、私自身の時間のようだ。
     
     その時、ドアノブが軋む鈍い音がした。
     最初は、ダニエルが何かを忘れて戻ってきたのかと思った。しかし、ノブが回る音はあまりに重く、不器用だった。ドアがゆっくりと開く。廊下の闇が、一人の男の輪郭を浮かび上がらせる。背は高く、やせ細っている。そのシルエットは、私の知っている誰とも違う。
     彼は一歩、室内に足を踏み入れる。フロアライトが彼の顔を照らした。
     四十歳前後だろうか。浅黒い肌。乱れた黒髪。そして、何よりも――その目だ。灰色の瞳は、曇ったガラスのように、すべての光を吸い込み、何も反射させない。私は息を飲んだ。声が出ない。彼は無言で私を一瞥し、ゆっくりと口を開いた。その声は、砂利れきを踏みしめるような、低く濁った響きだった。
    「俺のこと、誰だかわかる? わかんねえよな」
     その言葉が胸を貫く。私は無意識に一歩後ずさり、背中が冷たい窓ガラスに触れた。ガラス越しに伝わる海の冷たさが、一瞬で背筋を伝い上がる。
     彼は微かに口元を歪めた。それは笑うにはあまりにも苦い、嗤いのようなものだ。
    「返事が遅いな……母さん」
    「母さん」という言葉が、部屋の中を鈍く響き渡る。私の鼓動が耳の中で狂ったように速くなる。眼前の男――ピーター・ウェストン。私が産み、ジャックに引き取られ、それきり会うことのなかった息子。彼は痩せているが、無駄のない筋肉がTシャットの下で緊張している。彼の存在そのものが、この穏やかなホテルの部屋に、修復不能な亀裂を走らせた。
     彼はゆっくりと近づく。革靴の音が絨毯を踏みしめる。彼の視線は私の全身を這い、細かな震えさえ見逃さない。彼の髪はわざと乱したようにも整えられ、色黒の肌は、かつてのジャックの面影を不気味に映し出していた。
    「随分と長い時間だったな。四十年……だろ?」
     彼は立ち止まり、外套の袖口に手をやる。その動きはゆっくりで、儀式的ですらある。そして、彼は袖をまくり上げる。腕には、無数の注射痕が古い楽譜のように刻まれ、青黒く変色した血管がうねっている。その痕跡は、首筋へと続き、やがて襟の陰に隠れた煙草の火傷の痕へとつながっていく。星座のように散らばったその瘡蓋は、言葉にならない苦痛を叫んでいた。
    「見ろよ」
     彼の声は低く、しかし鋭い刃物のようだ。
    「これが全部……あんたの選択の結晶だ。あの男がぶち込んだ寄宿舎で、俺がもらったものは……これだけだ。先輩に無理やりファックされてな、それから尻がバカになって売り専とドラッグの生活をもう何十年も続けてる。どんな汚ねえジジイでも、金をくれるなら俺の聖なる尻を差し出してる。もう四十にもなろう男が、アホな両親に人生転がされた結果」
     私は言葉を失う。喉が渇き、声にならない。テーブルの上の契約書が、あまりにも陳腐なものに思える。オテル・ド・パリの華やかな舞台など、この現実の前では色あせた紙切れでしかない。
     ピーターは私の沈黙を嘲笑うように、さらに一歩近づく。彼の身長が私を覆い、ランプの光を遮る。
    「でな、母さん。二つ、用件がある。一つは、あの男……ジャックが死んだこと。もう一つは……」
     彼はわざと間を置き、私の反応を楽しむようにじっと見つめる。
    「……あんたが、これからどうするつもりか、だ」
    「あんた」という言葉が、冷たく胸に刺さる。彼は私を「母さん」と呼びながら、最も距離を置く二人称で罵倒する。
    「ジャックが……?」
     ようやく絞り出した声は、ひび割れていた。
    「ああ。先月だ。心臓らしいぜ」
     ピーターはそっけなく言う。父親の死を伝えるその口調は、他人事のようだ。彼はポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出し、テーブルの上に放り投げる。それは死亡通知の写しだった。
    「で、問題はこれからだ。あんた、遺産のことは知ってるのか?」
     遺産。その言葉で、部屋の空気が一変した。ピーターの目に、初めて熱のようなものが灯る。それは愛情ではなく、切実な欲だ。
    「あの男はな、とんでもない額を残して死んだ! で、あんたには権利がいくらかあるはずだ。相続人としてな!」
     彼はテーブルを拳で叩き、こちらの反応をじっと窥う。その仕草は、もはや取引ではなく、要求だった。
    「俺は、あんたがその権利を放棄するって文書にサインしてほしいんだ。今すぐにな!」
     波の音が遠くで砕ける。私はようやく理解した。この息子は、四十年ぶりの再会を、金の話で始めたのだ。
    「どうして……そんなことを?」
     ピーターは嗤った。白い歯が闇の中で不気味に光る。
    「ふざけたこと聞くんじゃねえ! 金だよ、金! 金がなきゃ、あんたみたいにのうのうと、こんな豪華なホテルで暮らせるわけねえだろ、あのクソ寄宿舎以来、ずっと金に縛られて生きてきたんだ、金がなくちゃやってられねえ。あのジジイの金は全部俺のもんさ、あんたには一銭もやらねえよ!」
     ピーターの吐息がアルコールと安いタバコの匂いを運び、わたしの顔にかかる。彼の目は充血し、瞳孔が不自然に開いている。
    「文書はここにある」
     彼は内ポケットから折り目のついた書類を引き裂くように取り出す。
    「今すぐサインしろ。じゃないと……」
     彼の視線がわたしの腕をつかむ。その握力は思いがけず強く、皮膚が骨に押しつけられる。
    「痛っ……」
    「痛いだと? ……いいだろう、これが痛いって言うなら」
     彼は突然、自分のシャツの襟を乱暴に引き裂く。首から胸にかけて、注射痕と火傷の痕が複雑に交錯している。先ほど見えた腕の比ではない。
    「これを見ろ! 全部あんたのせいだ! あんたが俺をあの男に引き渡したから……あの地獄の寄宿舎に放り込んだからだ!」
     彼の叫び声が部屋中に響き渡る。遠くで波の音が砕ける。
     ピーターの狂乱した姿を前に、私の内で何かが音を立てて変わる。これまでの受動的な態度が、静かな怒りへと変質する瞬間だ。彼の吐息のアルコール臭、震える拳の先、そして襞の深い苦悶の表情。すべてがわたしの視界に微細に焼き付く。
    「……それで十分なの?」
     声は絞り出すように、しかし鋭く部屋を切り裂いた。ピーターの手首が、わたしの腕の中で微かに緩む。彼の瞳孔が、わずかに揺らめく。
    「あなたは私を責める。確かに私は全ての責任から逃げてきた。四十年前のあの選択から、ずっと。でもあなたは……ただ私を呪い、こんな風に遺産を要求するだけで満足するの?」
     私は一歩前に踏み出す。足の裏が冷たい大理石の床を感じる。震えは、いつの間にか全身を貫く熱に変わっていた。
    「私はあなたを産んだ。そして……あなたを失った。この四十年来、毎日が地獄だった。あなたが想像する以上に。でもあなたはその地獄を、単なる金銭問題に矮小化しようとしている。あなた自身の苦しみさえ、ただの駆け引きの材料にしている」
     私の目には、初めて涙がにじむ。しかしそれは悲しみではなく、長年抑え込んでいた怒りの沸点だった。
    「それで本当にいいの? ピーター?」
     私の問いかけに、ピーターは一瞬、言葉を失った。彼の目が虚ろに彷徨い、そして再び焦点が合う。そこには、深い傷ついた幼子の怒りが燃え上がっていた。
    「……ふざけるな」
     彼の声は震えていた。かつてないほどの感情の渦が、彼の内側で暴れているのが見て取れる。
    「あんたが……あんたが地獄だって? じゃあ俺は何なんだ? あの寄宿舎で、毎晩ベッドのシーツを噛みしめてた俺は何だったんだ?」
     彼は再び近づき、その歪んだ顔を私に寄せる。
    「金銭問題? そんな生易しいものじゃない。これは……生きるか死ぬかの問題だ。俺は……俺はあの男の金でしか、自分がまともだった証しを築けないんだよ!」
     彼の拳がテーブルを強打し、上のコーヒーカップが揺れた。カチカチと鳴る音が、不気味に部屋に響く。
    「あんたは豪華なホテルに住み、のうのうと暮らしている。でも俺は……俺は地獄の底だ。その事実を、あんたは一生忘れるな」
     彼は突然、力が抜けたようにその場にしゃがみ込む。荒い息遣いが部屋に響く。私は彼の震える肩を見下ろしながら、あることに気付く――彼はまだ、あの寄宿舎で助けを待ち続ける少年のままなのだ。
    「ピーター……」
     私も膝をつき、彼と同じ高さになる。
    「あなたは……ただ私に、あなたの痛みをわかってほしかっただけなのね……」
     彼は顔を上げた。その目には、怒りの奥に深い悲しみがたたえられている。その瞳は、かつて私が抱いたことのない幼い彼そのものだった。
     しかし、その彼の悲しそうな瞳は一瞬で消え、再び冷たい嘲笑いに変わった。彼は私の腕を掴み、ゆっくりと立ち上がる。
    「ふざけるな! ……きれい事はやめてくれ!!」
     彼の声には、再び鋭い刃が宿っている。
    「絶対、あんたには俺の痛みなんてわからねえ。わかってくれるふりをするだけだ」
     彼は私を離し、テーブルの上の遺産放棄の書類を指さす。
    「サインしろ。これが、あんたにできる唯一の償いだ」
     その言葉が、部屋の中に冷たく響き渡る。ピーターの目には、もはや怒りさえもなく、ただ空虚な決意だけが残っている。私はその書類を見つめ、そして彼の瞳の奥にある深い闇を見た。
    「……少し考える。でももうほぼ……サインするのは決まってる。心の話」
     私の声は驚くほど静かだった。
    「……いいだろう。またすぐに連絡する。応じなかったら、ナイフを持ってあんたの前に現れてやるよ」
     ドアが乱暴に閉まった。部屋には、再び重い静寂が訪れる。テーブルの上では、二通の書類が互いに対峙している。
     オテル・ド・パリの招待状は、上質な用紙に印刷され、金字が淡い灯りに照らされて微かに輝いている。それは、過去の亡霊たちが私に用意した、完璧に見える逃避の道だ。舞台の上で、またあの「エヴリン・モーガン」を演じればいい。誰も、ホテルの一室で震える老女など知らない。
     一方、遺産放棄の書類は安っぽいコピー用紙で、ピーターの乱暴な扱いで隅が折れている。インクの滲みが、彼の人生そのものの荒廃を物語る。これにサインすることは、私が最後に彼にできることだ。
     私はゆっくりと、ダニエルに電話をかけた。
    「あの審査員の件……引き受ける」
     彼が何か言おうとするのを遮り、私は続けた。
    「ただし、私の条件があるわ。オテル・ド・パリの本番で、私に十分な時間をちょうだい。脚本通りにはいかないかもしれないと、主催者に伝えておいて」
     受話器の向こうで、ダニエルがわずかに間を置いた。
    「……かしこまりました。ご希望をお伝えしておきます。あと……エヴリンさん、何か気がかりなことがありましたら、いつでもご連絡ください。たとえ深夜でも、すぐに駆けつけます」
     彼の声は心配に満ちていた。私はかつてマイケルからも同じような言葉を聞いたことを思い出した。
     
     
     ホテルの部屋に充満する夕闇は、薄汚れた綿埃のようだった。テレビのリモコンが冷たく、埃を被ったボタンの隙間に、過去四十年分の脂と悔恨が詰まっている。指が押し込む。電源が入る。青白い光が部屋を切り裂く。
     画面には、リチャード・モリス――私とジャックをパパラッチした彼がもう六十五歳だなんて。時間の速さを感じる――の顔が映る。彼の皮膚は、スタジオの過剰な照明に照らされ、古い羊皮紙のようにひび割れ、無数のシワが彼の長いキャリアを物語っている。背景は深い藍色。彼はゆっくりとカメラを見据える。その瞳は、墓場を管理する者のように平静だ。
    「今夜……私は一つの真実を暴きたいと思います。ハリウッドの黄金時代を彩ったスター、ジャック・ウェストンと、彼の人生を狂わせた女、エヴリン・モーガンについて――その隠された真実に迫りたいと思います」
     彼の声は低く、葬儀の司式者のようだ。
     第一の真実。画面が切り替わる。一九七〇年代後半のハリウッドを思わせる、華やかなパーティーの映像。ジャック・ウェストンがシャンパングラスを掲げ、はじけるような笑顔を見せている。その傍らには、当時、急速に台頭してきたばかりの若き女優、私、エヴリン・モーガンがいる。私の瞳は輝き、未来に満ちていた。
    「彼らはハリウッドで最も輝くカップルのように見えました」
     モリスの声が被さる。
    「しかし、この華やかな映像の陰で、ある婚約者は苦悩していました。エヴリンの当時のマネージャーであり、婚約者――マイケル・コールドウェルです」
     画面は、マイケルと私が静かなレストランで食事をするパパラッチ写真に切り替わる。私たちの間には、目に見えない緊張が走っている。
    「エヴリンのキャリアは急速に上昇していました。ジャックとの共演作は大ヒットし、彼女はトップ女優の座に駆け上がった。しかし……」
     モリスの声が強調される。
    「この成功が、ある一夜の過ちを招くことになります」
    第二の真実。画面は再び、あのサンタモニカのビーチでの私とジャックのスナップ写真に戻る。しかし今度は、その写真を大きく引き伸ばし、私の笑顔の裏にある虚ろさ、ジャックの奔放な眼差しを強調する。
    「これは単なるロマンスではない」
     モリスの声に熱がこもる。
    「これは……計算されたスキャンダルの始まりでした。そして、このスキャンダルが、エヴリンのキャリアに致命傷を与え、マイケルとの婚約を破談へと追い込んだのだのです」
     次に映し出されるのは、当時のゴシップ誌の見出し。「エヴリン・モーガン、ジャック・ウェストンと不倫!」「婚約破棄!」「人気女優、失墜の危機!」
    「一夜の過ちが暴露され、エヴリンの名声は地に落ちました。世間は彼女を唾棄し、ハリウッドは冷たく背を向けた。そして、マイケル・コールドウェルは……」
     モリスはわざと間を置く。
    「……静かに去っていきました。愛と信頼を裏切られた男として」
     第三の真実。茶色い手帳のアップ。ジャックの特徴的な走り書きが大写しになる。インクの滲みが、まるで古い血痕のようだ。モリスが朗読を始める。
    「『エヴリンは妊娠した……まさにその夜、パパラッチが待ち構えていた』」
     彼の言葉一つ一つが、私の鼓膜を打つ。
    「『子供が産まれた。ピーターと名付けた。奴は……弱々しかった』」
    モリスの指が、次のページをめくる。紙が擦れる乾いた音。
    「『寄宿舎に放り込んだ。金は払った。それで十分だ』」
    『……金は払った』
     その言葉が、部屋中に金属音のように響き渡る。私の視界が一瞬、歪む。テレビの光が滲んで見える。
     第四の真実。画面が再び切り替わる。そこには、廃墟同然の煉瓦造りの建物が映っている。寄宿舎だ。カメラが薄暗い廊下を進み、一つの部屋のドアを開ける。壁には、無数の傷跡がある。最初は無造画な引っかき傷のように見えるが、カメラがゆっくりとズームインする。
     それは、無数の「助けて」だった。
     大小様々な文字が、壁一面を埋め尽くしている。鋭利なもので刻まれたもの、爪で引っかいたようなもの、そして……暗赤色の、錆びたような色で書かれたものさえある。それらは層を成し、何年分もの絶望の堆積を物語っている。
     カメラはさらにゆっくりと、一つの文字の前に寄る。「て」の文字の曲線部分に、小さな、黒く乾いた染みがこびりついている。
     モリスの声が、これまで以上に煽情的に響く。
    「これが……ジャック・ウェストンがその息子に与えた『教育』の現場です。華やかなスターの影で、一人の少年が……このようにして助けを求め続けていたのです」
     私はテレビの電源を切る。リモコンのボタンが軋む。部屋が再び闇に沈む。しかし、まぶたの裏に、無数の「助けて」という文字が、蛍光塗料のように焼き付いて離れない。あの黒い染みの匂いが、鼻腔の奥にこびりつく。
    体が、意志とは別に動く。暗闇の中、テーブルの上の遺産放棄の書類へと直行する。ペンを手に取る。冷たい金属の感触、私は名前を書いた。
     その時、スマホが光った。
     テーブルの上で、無音のバイブレーションと共に、画面が青白く浮かび上がる。

    差出人:不明な差出人

     その文字が、暗闇にぽつりと灯った蝋燭のように揺れる。
     誰だ?
     私はゆっくりとスマホを手に取る。画面のロックを解除する。指先が少し冷たい。

    メッセージ:『モリスの番組、見た?』
    『……君は大丈夫か?』
    『実は、オテル・ド・パリのコンテスト、運営プロデューサーの一人として関わっている。すぐ近くまで行く予定だ』
    『その節は……よかったら、少しだけ会えないだろうか』

     私はスマホを握りしめ、暗闇の中で目を閉じる。心が揺れる。マイケル だ。マイケルとの再会。
     その時、軽いノックの音がした。
     私ははっと顔を上げる。ダニエルだろう。このノックの優しさ。時間を置かず、静かに「どうぞ」と答えた。
     ドアが開き、ダニエルがひとつの大きな服袋を丁寧に抱えて入ってきた。  彼の表情は、いつにも増して誠実そうに見える。
    「失礼します、エヴリンさん。コンテストのお衣装のサンプルをお持ちしました。イメージに合うかどうか、早めにご確認いただければと」
     彼はテーブルの上の空いたスペースに、黒い布地の服袋をそっと置いた。ファスナーの引手に指をかけ、ほんの少し躊躇いを見せてから、ゆっくりと、ほぼ儀式的な丁寧さでジッパーを開けた。
     袋の中から現れたのは、深いブルーのドレスだった。
     それは、夕闇が海の深みに沈みきる直前の、あの限りなく深く、わずかに紫がかった青。シルクサテンの地は、部屋の灯りを受けて、かすかに水のような光沢をたたえている。胸元は控えめなVネックで、袖は七分丈、わずかにAラインに広がるそのシルエットは、確かに――
    「あの時」のドレスだった。
     四十年以上前、ジャック・ウェストンとの共演作『黄昏の波』のロンドンプレミアで私が着た、まさにあのドレスを思わせる。いや、正確には「思わせる」ものではなく、年月を経て、私の現在の身体に合わせて再構築された、ある種の復刻版と言うべきか。
     素材はあの時と同じシルクサテンだが、色合いはあの夜の記憶そのままに再現されている。ただ、所々に、この四十年の歳月の重みを感じさせる仕掛けがあった。袖口の内側には、当時はなかった細やかな刺繍が施され、それはまるで記憶の断片を繋ぎ止めるかのような、繊細なステッチの模様を描いている。
     ダニエルは、そのドレスを両手でそっと持ち上げ、光の中に浮かび上がらせた。ドレスはゆらりと揺れ、ほのかにサテンのきしむ音を立てる。彼の目には、複雑な想いが去来していた。過去への懐かしさと、現在の切なさ、そして――このドレスに込めた新たな願いが、静かに交錯しているようだった。
    「これは……」思わず声が出る。
    「あなたの栄光の時代を思い起こさせる色を選びました」
     ダニエルは微笑みながら、しかしどこか探るような目で私を見る。
    「この色が、オテル・ド・パリの舞台を再びあなたのものにするでしょう」
     彼の言葉は滑らかで、そして重い。
    「例えば……昔の共演者との再会のような、特別な場面にも、きっとお似合いです」
     私は顔を上げた。彼は相変わらずの職業的な微笑みを浮かべている。しかし、その言葉は偶然の選択ではありえない。マイケルからのメッセージを受け取ったのは、ほんの数十分前のことなのだから。
    「試着されますか? サイズ調整の必要があれば、すぐに手配いたします」
     彼の気遣いは完璧だ。あまりに完璧すぎる。
    「……あとで、一人で試着してみる」
    「かしこまりました。何かございましたら、いつでも」
     ダニエルは深々と一礼し、静かに部屋を去った。
     ドアが閉まる直前、一瞬だけ彼の視線がドレスへと戻り、そこに――かつてのマネージャーとしてのそれとは違う、どこか遠い、切ない思いに沈むような陰りが走ったのを、私は見逃さなかった。それは、単なる仕事への情熱などではなく、はるかに個人的で、深い傷に根ざした執着のように見えた。
     

     夜更け、私はふと気づいた。ダニエルが管理する私の公式の携帯電話の調子がおかしい。バッテリーの減りが異常に早い。単なる故障? 明日、ダニエルに相談してみなければ。
     私はダニエルが持ってきてくれた深いブルーのドレスを見つめる。それは過去への誘いのように美しく、そして罠のように危険に輝いている。
     
      
     潮風が運ぶ夕暮れの気配が、部屋の隅々にまで浸透していた。私は、ダニエルが置いていったオテル・ド・パリの契約書のコピーをただ眺めている。その上質な紙面に、窓越しの弱った光がかすかに反射し、まるで遠い昔のスタジオの照明をわずかに思わせる。
     スマホが震えた。見知らぬ番号だった。
     しかし、受話器を取った時の一声で、全てがわかった。
    「……エヴリンか?」
     その声は、四十年の歳月を隔てても、瞬時にして聴き覚えがあった。マイケル・コールドウェル。その響きは、かつてほど鋭くはなく、深みと、いくぶんの疲れを帯びている。しかし、その核を成す、確固たる意志の感触は変わっていない。
    「ええ。マイケル」
    「この前、メッセージしたけど、今ニースに来ているんだ。たまたま、君が審査員を引き受けたと聞いて……よかったら、会えないか?」
     私たちの会話は、最小限の言葉で進んだ。時間と場所。かつてのように長々とした前置きはなかった。彼は、私が今いるホテルからそう遠くない、小さな港町のレストランを指定した。
     一時間後、私はそのレストランに足を踏み入れた。四十年ぶりの再会に、私はクリーム色のリネンのワンピースを選んだ。かつてマイケルが「君の肌に優しい色だ」と言った色だ。首元には何もつけなかった。かつて彼が贈ったペンダントは、とっくに手放している。
     イタリア製の革サンダルは、ホテルの部屋からここまで歩いて来たためか、かかとにほのかな擦れ跡がついている。バッグは編み込みのストロー製。
     店内は薄暗く、テーブルには一つ一つ、灯りの弱いランプが置かれている。彼はすでに来ていた。奥の、窓際の席に。彼の背後にある窓には、高級ヨットが数隻停泊する小さなマリーナが見えた。
     マイケルは立ち上がり、私を迎えた。彼の髪はかつての豊かな砂色から銀灰色へと変わり、顔には年輪のように深い皺が刻まれている。かつての若きマネージャーの面影は、確かな風格を纏った男のそれへと変貌していた。彼のスーツは、かつて私が彼に選んだものよりも、ずっと地味で、上質なものだった。
    「随分と……久しぶりだな」
    「ええ」
     私たちは向かい合って座った。最初の十分間、会話はほとんどなかった。過去の重みが、言葉を押しつぶしていた。
    「妻のマーガレットの家が持ってるコネクションで、いくつか映画関連の仕事に携わっている」
     彼が静かに口を開いた。
    「今回のコンテストにも、一部、協賛という形で関わっている。だから、君の名前を知って、驚いたんだ」
    「この歳になって、また審査員なんてね」
     私はわずかに笑った。
    「あなたから見れば、滑稽でしょう」
    「そんなことはない」
     彼は真っ直ぐに私を見た。
    「君の審美眼は、昔から確かだった。コンテストの趣旨にも合っている」
     彼はワインリストに目を通し、何かを見つけると、微かにうなずいた。ウエイターに静かに注文した。
     グラスが運ばれてくる。彼はそれを手に取り、私のグラスに注ぎ始めた。 その流れる音は、このレストランの囁きのようなBGMに溶け込む。そして、彼は驚くべきほど正確なところで注ぐのをやめた。
    「……君のワインの量、覚えているよ」
     その言葉が、私の胸を静かに貫いた。彼は、私が一口で満足する量を、四十年経った今も忘れていない。
     私はグラスを手に取った。その重み、バランス。指先が、かつてマイケルがくれた婚約指輪の存在した場所で、かすかに疼く。
    「家族は?」私が尋ねた。
    「二人の息子がいる。もう大人だ」彼の口元がほころんだ。「上の子は医者で、去年結婚した。もうすぐ父親になる。下の子は……上の子のようにはならなかったようで、画家をしている。ローマでな」
    「二人とも、あなたに似ているの?」
    「マーガレット似だ。それが何よりの救いだ」
     彼はそう言い、わずかに視線をそらした。
    「おめでとう」
    「ありがとう」
     その祝福の言葉が、私たちの間に、越えられない距離を改めて刻んだ。
     私は無意識に、唇を舐めた。すると、ほのかに、リップグロスの感触がした。今日は何もつけていないはずなのに。それは、四十年前、あのプレミアの夜に塗った、甘ったるいピンクのリップグロスの感触だった。その化学的な甘さと、その下で交わした彼との最初のキスの記憶が、嗅覚と味覚として蘇り、現在のワインの渋みと混ざり合う。
     私は微かに目を閉じた。まぶたの裏に、スタジオの喧騒と、マイケルが「君は天才だ」と囁いた声がよみがえる。そして、その瞬間、現在のレストランのざわめき。
     マイケルは深く息をついてから、言った。
    「……君には、すまないと思っている」
     私は顔を上げた。
    「どうして?」
    「あの時――全てを放り出して去ったことを」
    「あなたが去るのは当然だった」
    「そうじゃない」
     彼は首を振る。
    「一関係者として、このコンテストの審査委員長に君がなるのを知って、喜んだ。かつての栄光を取り戻すチャンスだと……思った。しかし、モリスの番組を見て、それは単なる自己満足だったと気付いた。君は、もう……」
     彼は言葉を切った。窓の外を一艘のヨットがゆっくりと過ぎていく。
    「……もう、私が、戻れる場所なんて、どこにもない?」
     私が彼の言葉を続けた。彼はうつむいたまま、微かに頷いた。
    「コンテスト……」
     マイケルが再び口を開いた。
    「……うまくいくことを願ってる」
    「ありがとう。あなたも……お幸せに」
     私たちの再会は、一時間ほどで終わった。彼は伝票を手にし、私はそれに抗議することもなく、ただそれを見送った。かつてのように。
     レストランを出て、彼は少し立ち止まった。マリーナの灯りが彼の横顔を浮かび上がらせる。彼は何か言おうとしたが、口を閉ざした。代わりに、ごく自然に、通りすがりの観光客に自分のスマホを渡して、私と「写真を一枚撮ってくれないか」と頼んだ。私はほんの一瞬、ためらった。彼は苦笑いを浮かべ、「やめておこう」と言った。その仕草の裏に、何か違和感を覚えたが、深くは考えなかった。
    「それでは……コンテストでまた」
    「ええ。またその時に」
     彼は軽く会釈をすると、薄暗い路地へと歩き去った。その背中は、私の記憶の中の、あの若きマネージャーのそれよりも、ずっと遠くに見えた。
     ホテルへの帰路、車の中では、ただ波の音だけが響いていた。私は指先で、またしても幻のリップグロスの感触を確かめていた。それは、過去が現在に刻んだ、消えることのない傷跡のようだった。
     

    それから三日後の午後、再びマイケルからメールが届いた。
     
    件名:コンテストについて(非公式)
    本文:審査の基準について、一度、事前に意見を伺えればと存じます。明日の午後、同じ場所でお会いできないでしょうか。――マイケル
     
     文章はビジネスライクで、一点の曇りもなかった。前回、あれだけ過去に触れながら、これほどまでに引き締まった態度を取れる彼のしたたかさ、あるいは自分自身への戒めのようにも感じた。
     私は了承の返信を送った。
     翌日、同じレストランの同じ席。二回目、彼が待つレストランに足を踏み入れた時、私は前回とは違う服装を選んでいた。
     濃い藍色のシルクのブラウスと、それに合わせた生成りの麻のストレートパンツ。ブラウスは光の加減で色合いを変え、パンツで全体のトーンを落ち着かせていた。前回のクリーム色の柔らかさとは対照的に、今回は少し距離を置いた、しかし品位を保った「審査員長」としての服装だ。
     持ち物も、前回の編み込みバッグから、黒い皮革の小型トートに変えた。書類が入れられる実用性と、わずかなシャープさを演出するため。
     しかし、細部に過去は滲み出ている。耳には、彼がかつて「君の耳元で光るのが似合う」と言った、ごく小さなダイヤのピアス。それは、全身の中で唯一の、そして誰にも気づかれないかもしれない、彼へのささやかな合図だった。
     午後の光は前回の夕暮れとは違い、水のように澄んで、テーブルの上を冷たく照らしていた。マイケルは前回より幾分、気楽な様子で、革のフォリオを開いて待っていた。
    「来てくれたか」彼は立ち上がり、ほのかに笑みを浮かべてイスを引いた。
    「ええ。仕事の話ですから」
     私たちはすぐに本題に入った。彼はフォリオから書類を取り出す。
    「まずは、ファイナリスト三人の資料を見せるよ。二十一歳のルーシー・モレル。パリ出身。両親は哲学教授とピアニスト。オデオン座の舞台で既に評価されている」
     彼はルーシーの舞台写真をテーブルに滑らせた。鋭い眼光の、痩身の少女だった。
    「メリッサ・デュラン、十九歳。リヨン郊外の出身。工場地帯で育ち、役作りのために肉体労働を経験したという。いわゆる raw talent だ」
     メリッサの写真は、素顔に近く、無防備な笑顔が印象的だった。
    「そしてクロエ・ヴァンサン、彼女は二十四歳だ。モナコ在住。元体操選手で、身体表現が特徴的だね」
     私はそれぞれの写真と経歴を見つめながら、かつての自分を思い出していた。ルーシーの知性、メリッサの野生、クロエの鍛え上げられた身体。どれもが、私の過去の一片を映し出しているようだった。
    「審査のポイントは……」マイケルが続けた。
    「脚本の文字を超えた『真実』を、どのように評価するかだ。具体的には、台本にない涙、役の背景を物語る仕草、カメラが捉える無意識の瞬間……そういったものを、我々は重視する」
     彼の言葉は、まさにオテル・ド・パリで行われる「ヴェリテ・シネマ賞」の理念を体現していた。それは、かつてスクリプト通りにしか動けなかった私にとって、痛烈なまでの批評にも聞こえた。
    「時間配分は?」
    「一人の審査に五分。質疑応答を含めて十分だ。君には最終的な講評もお願いしたい」
     打ち合わせが一段落し、コーヒーが運ばれてきた頃、彼はこぢんまりと置かれた砂糖の入れ物を弄りながら、ふと尋ねた。
    「……ところで、ピーターには会ったのか?」
     その名前を口にされたとき、微かな電流が走るような覚えがあった。私はゆっくりとカップを置いた。
    「ええ。会ったわ」
    「……そうか」
     彼はそれ以上を尋ねなかった。その沈黙が、すべてを物語っていた。彼はピーターがどういう境遇にあり、私がどのような思いで彼に会ったかを、おそらく知っているのだ。モリスの番組を通じて、あるいは彼独自の情報網を通じて。
     私たちは再び沈黙に落ちた。が、前回の気まずい沈黙とは違った。共有された苦い認識によって満たされた、重いがどこか通い合う沈黙だ。
     窓の外では、白いヨットがゆっくりと岸に向かっている。彼はそれを見つめながら、小さく呟いた。
    「……時が経つのは早いな」
     その言葉は、単なる感慨を超えて、私たちに与えられた時間の有限性を、そっと告げているように聞こえた。
     打ち合わせはそれで終わりだった。彼は書類を鞄にしまい、私はコートを手に取った。
     レストランを出てみると、夕方前になっていた。光がまぶしい。彼は少し躊躇ってから言った。
    「次は……書類を持たずに会おう。ただ……食事をしよう」
     私は少し考えた。危険だとわかっていながら、頷いてしまった。
    「……ええ」
     彼はほっとしたように微笑み、去っていった。私はその背中を見送り、また会う約束をしてしまったことに、胸の奥で静かな波立つ思いを感じていた。それは、罪悪感とも、期待ともつかない、複雑な感覚だった。
     

     三度目のレストランは、彼が選んだ新しい場所だった。海から少し離れた、山側の隠れ家的な小店。石造りの壁に、地元の画家の小さな絵がかけられている。
     私は袖口がレースで飾られた、淡い桜色のブラウスを着ていた。もはや「偶然の装い」などではなく、私は女としてマイケルに会っていた。彼の目が一瞬、私のブラウス、そしていつもより丁寧に結った髪を見て、ほのかに揺らぐのを感じ取った。
     マイケルはノーネクタイの開襟シャツに、ややくたけた感じの上質なブレザーという姿だった。彼もまた、硬いビジネスの殻を脱ごうとしている。
    「やあ」
    「ごめんね、遅れて」
     挨拶も、もはや儀礼的なものではなかった。
     ワインが運ばれ、料理が運ばれる。会話は、コンテストの話から、思いがけない方向へと広がっていった。
    「先日、たまたま『情事の鍵』のリマスター版を見たんだ」とマイケルが言う。
    「あのトラックバーのシーン」と私は笑った。
    「私は『太陽はいずこに』の、あの浜辺の長回しの方が好きだったな」
    「監督はあのシーンで、三日間も待ったらしいぞ。雲がちょうどいい具合になるのをな」
    「バカね。でも、あのこだわりがなければ、名画にはならなかったわ」
     私たちは、昔のイタリア映画の話で盛り上がり、最近のフランスの新進監督の才能を語り、はたまた四十年前のあの共演者のとんちんかんな失敗談を思い出して、声を上げて笑った。彼は、私がグラスを手に取る仕草を、まだ覚えていると言い、私は、彼が苛立つときに無意識に眉のあたりを触る癖が、相変わらずだと言ってからかった。
     ふと、窓の外を通り過ぎた路面電車の鐘の音が、遠い記憶を呼び起こした。
    「……ねえ、あの、サンタモニカの路面電車のそばにあった駄菓子屋、覚えてる?」
     マイケルの目が、はるか彼方を見るようにかすんだ。
    「ああ。脚本の打ち合わせの帰りに、君がどうしてもアイスクリームが食べたいって駄々をこねたね。大事なシーンの台本を抱えていたのに、溶けかかったそれを僕の上着にこぼして」
    「あなた、本当に怒ったんだったわね」
    「違うよ」彼は静かに首を振り、ワイングラスの縁を揺らした。
    「君があの時、無邪気に笑った顔が、すごく珍しくて……。スタジオで脚本通りに芝居をする君じゃない、本当の君がそこにいるようで、ただただ見とれていたんだ」
     その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられた。あの頃の私は、彼の前でだけは、「エヴリン・モーガン」であることを忘れられると信じていた。かつての傷は、まだ深く口を閉ざしたままだが、その周囲に、奇妙なほど生き生きとした親密さが芽生えていた。それは、危険だとわかっていながら、あまりに心地よいものだった。
     ほのかに酔いが回り、気持ちが緩んだ頃、マイケルがふと本音を零した。
    「マーガレットは……君が好きだった映画を、一緒に見たがったんだ」
     彼の目は依然として私を見つめているが、その焦点は少しだけ過去に向けられている。
    「『太陽はいずこに』をね。彼女は決して……君の代わりにはなれなかった。君の幽霊と二十年以上、同居しているようなものだったんだ。でも、僕は、マーガレットを愛した。彼女も、そんなふがいない僕を、愛してくれた。マーガレットと僕は愛し合った。それは確かだ。でも……」
     その告白は、あまりに重く、そして哀れみを帯びていた。私はただ、「ごめんなさい」と呟くことしかできなかった。彼はゆっくりと首を振った。
    「謝るな。僕の選択だ。僕とマーガレットは、お互い、不器用だが、できる限り愛し合った。それは紛れもない真実だ。だが……君との時間が、僕にとってどれほど特別なものだったか、改めて思い知らされている」
     

     食事も終盤、デイニッシュチーズを味わいながら、窓の外の暗い庭を見ていた時だった。
    「……もう少し、ここにいたいな」とマイケルが呟いた。
     私も頷いた。
    「ええ」
     その時、ふと、窓の外、庭の植え込みの陰で、一瞬だけ小さな光が揺らめくのが見えた。まるで、誰かがスマホの画面を操作した時の、あの反射光のようだ。
    「……あれ?」私は思わず声に出した。
     マイケルも視線を向ける。「どうした?」
    「いえ……何でもないわ。鳥かしら」
     私は首を振った。暗がりと、楽しい時間の名残で、目が錯覚したのだろう。そんな些細なことは、今のこの幸せな気分を邪魔したくなかった。
     私たちは勘定を済ませ、並んで店を出た。夜気がひんやりと気持ちよかった。
    「次はいつ?」彼が聞いた。
    「あなたが決めて」私は答えた。
     彼は満足そうにうなずき、私を車まで送っていった。彼の車が路地の角を曲がり、見えなくなるまで、私は手を振っていた。
     ふと、向かいの路地に一台の地味な車が停まっているのに気がついた。特に気にかけるでもなく、私はゆっくりとホテルへ向かって歩き出した。
     その時、背後でごくかすかに、エンジンが静かに掛かる音がした。
     振り返ると、あの地味な車のテールランプが、闇の中で二つ、赤く光り、ゆっくりと走り去っていくところだった。誰かが停車していただけなのだろう。特に気にも留めず、私は再び歩き出した。
     しかし、なぜか、なじみのないその車のシルエットが、ふと、ダニエルが時折使うレンタカーのそれと重なって見えた。いや、もっと確かだ。あの車のルーフについていた小さな傷の形まで、ダニエルのレンタカーと一致する。 そんなはずはない。考えすぎだ。今夜の楽しい時間が、私の感覚を過敏にしているだけだ。
     そう自分に言い聞かせながらも、何故か背筋に、かすかな冷たいものが走るのを感じていた。それは、楽しかった時間が色あせていく時の寂しさとも、何か別の、不吉な予感ともつかない、嫌な感覚だった。
     電話は深夜に鳴った。ベッドの上で浅い眠りについていた私は、飛び起きるより早く、手がスマホを掴んでいた。表示にはマイケル・コールドウェル。
    「エヴリン……!」
     彼の声は、引き裂かれたように歪んでいた。息が詰まり、咽び泣くような息遣いがスピーカーを伝わってくる。「マーガレットが……マーガレットが……」
    「落ち着いて、マイケル。どうしたの?」
     私の心臓が、不規則に鼓動し始める。
    「死んだ……彼女が……浴室で……」彼の言葉が途切れる。
    「帰省していた息子……下の子が……発見した……」
     冷たい塊が、私の胃の底に沈む。部屋の空気が一瞬で引き締まった。
    「え……ごめんなさい、どういうこと?」
    「写真だ……」マイケルが嗚咽をこらえる。
    「息子から……写真が送られてきた……鏡に……」
     私のスマホが、同時に震えた。マイケルからの転送だった。画面をタップする。写っているのは、曇った浴室の鏡。その表面に、鮮やかな赤い口紅で、くっきりと書き殴られた文字。
    『マイケル、あなたの永遠の夏が、私を凍らせた』
     その文字は、鏡の曇りの中で不気味に脈打っている。口紅のワックスと油の匂いが、スマホの画面から漂ってくるような錯覚に襲われる。「誰かが……」マイケルの声が、力なく続く。
    「僕たちの食事の写真を……マーガレットに送りつけた……僕は、僕は……」
     彼の声が再び割れる。それは、全てを失った男の、底なしの絶望だった。
    「君とまた同じ時間を過ごせて、ただただ嬉しくて……それだけだったのに、なのに彼女をこんなふうに失うなんて……」
     その時、マイケルのスマホ越しに、別の着信が執拗に鳴り響く音が聞こえた。彼は嗚咽を呑み込み、切れ切れに言う。
    「息子だ……下の子から……何度も……」
     彼は一度通話を保留にしたようで、一瞬、無機質な保留音が流れた。そして再び接続されると、彼の声はさらに打ちのめされていた。
    「息子からだ、『お前のせいだ。二度と家に戻ってくるな。母さんが死んだ。お前の顔なんか見たくない』……」
     彼は声を詰まらせた。
    「僕は……遠いニースで、一人で、彼女の遺体にも、息子たちにも、会いに行くことも、許されない……」
    「許して……許してくれ……」マイケルの声は、もはや祈りのようだった。
    「エヴリン……僕は……僕は……」
    彼は、言葉を失い、ただ嗚咽を繰り返すだけだった。
     

     コンテスト前日。オテル・ド・パリにほど近い、リハーサル用のホテルスイート。明日の本番に向けて、最終的な打ち合わせを終えた私は、一人、楽屋に残っていた。
     その時、ドアがノックもなくいきなり開いた。
     ピーターが立っていた。彼の目は、前回会った時以上に、曇ったガラスのように冷たく、焦点が合っていない。彼は静かに、しかし確実に室内に踏み込み、ドアを背後に閉めた。
    「明日だな、母さん」
     彼の声は低く、渇いていた。
    「あの華々しい舞台の上で、審査員なんて気取って……世間の喝采を浴びるんだろう? いいぜ。存分に楽しめよ」
     彼は一歩近づく。
    「持ってきたんだろうな? 書類。さもないと……」
     彼はゆっくりと、自分のジャケットの内ポケットに手をやった。中には、短い刃先が不気味に光るナイフの輪郭がくっきりと浮かび上がっている。
    「……お前の大事な本番を、血で染めてやる。全世界の前でな。観客席の一番前から、ちゃんと拍手してやるからよ」
     私は彼の狂気の目を見つめた。そして、静かにドレッシングテーブルの引き出しを開け、中からペンを取り出した。すでに署名済みの、あの遺産放棄の書類を、彼に差し出しながら。
    「……これであなたの気が晴れるなら。私は今の暮らしが続けばいい。もう十分」
     ピーターは一瞬、言葉を失った。彼は書類を奪い取るように手に取り、署名欄を確認する。嘲笑いが彼の顔を歪めた。
    「やっと分かったか、自分の立場ってやつを」
     彼は書類をジャケットの内ポケットにねじ込み、ナイフをしまった。そして、ポケットからわざとらしく小さな薬の袋をこぼし落とし、踵を返してドアから出ていった。
     私は震える手でその袋を拾う。中には、合成麻薬と思われる数粒のカプセルが入っている。
     

     審査が終わり、オテル・ド・パリの大サロンは、空気は期待と緊張で張り詰めている。シャンデリアの光がきらめく、ヨーロッパの社交界と映画関係者で埋め尽くされた空間。 
     私の、ダニエルが選んだ深いブルーのドレス。それはかつての栄光を想起させながらも、過ぎ去った時間の重みを纏っている。観客席の暗がりには、憔悴したマイケル、そして約束通り、最前列で腕を組み、冷たい目でこちらを見つめるピーターの姿があった。
     私は、楽屋に戻って、最後の口紅を塗ろうとしていた。
     すると、ノックの音がした。
    「入って」
     ドアを開けたのは、三人のファイナリストだった。ルーシー・モレル、メリッサ・デュラン、クロエ・ヴァンサン。それぞれが、緊張と期待でピンと張り詰めた、美しいエネルギーを放っている。
    「エヴリンさん」ルーシーが代表して口を開いた。彼女のフランス語は完璧に教育され、舞台慣れしている。
    「本日はご指導いただき、光栄です。私たち三人を代表して、感謝をお伝えしたく」
     その言葉は礼儀正しいが、その奥には、計算ずくで研ぎ澄まされた野心の刃がひそんでいる。かつての私のように。
    「ありがとう」私は微笑んだ。
    「でも、今日は私があなた方から学ぶ日よ。あなた方のなかにこそ、未来があるのだから」
     すると、うつむいていたメリッサが顔を上げた。彼女の目は、ルーシーのように鋭くはないが、その代わり、内側から湧き上がる感情の渦が、揺らめく炎のように見えた。
    「あの……私、お名前、ずっと知っています。『黄昏の波』を……母とよく見ました」
     その言葉は、脚本にも演出にもない、純粋な敬意だった。私ははっとした。私の作品が、もう「母の時代」のものになっているのだ。
     クロエは無言でいたが、その筋肉の締まった肢体は、言葉以上に彼女のこれまでの努力と鍛錬の日々を物語っていた。彼女は私のドレスを見つめ、そして私の目をまっすぐに見た。そこには、一人の表現者からもう一人への、静かな共感があった。
    「さあ、行きなさい」私は静かに言った。
    「あなた方の持っているものを、私は目に焼きつけました。迷うことはない。あなたたちには確かな才能があるわ」
     彼女たちが去った後、楽屋には再び静寂が訪れた。三人の少女――いや、女優たちは、それぞれに私の過去の一片を映し出していた。ルーシーの知性と計算、メリッサの野生と純粋さ、クロエの鍛え上げられた身体。審査などおこがましい。私はただ、かつての自分たちへの、せつないほどの郷愁を感じているだけなのかもしれない。
     

     いよいよ審査員講評の時間。スポットライトが私を照らす。千を超える観客の視線。
     私はマイクの前に立つ。喉がカラカラだ。しかし、口を開いた時、声は驚くほど澄んで、通っていた。
    「ルーシー・モレルさん、二十一歳の才女へ。あなたの『知性の涙』は、脚本を超えて、言葉にできない喪失とは何かを教えてくれました。それは、失って初めてその重みを知る、愛の形而上学です」
    「メリッサ・デュランさん。あなたは十九歳でしたね……。あなたの肉体からほとばしる『野生の祈り』は、全てを失うことによってのみ得られる、ある種の自由を体現していました。それは、私たちを根源的にしてくれる」
    「そして、クロエ・ヴァンサンさん、二十四歳の元体操選手へ。あなたの『完璧な身体』が描く軌跡は、傷つき、壊れ、それでも尚、美しくあろうとする意志そのものでした。それは、私たちの内なる修復不可能なヒビを、輝きへと変える錬金術です」
    「本日、最も『真実』を曝け出した演技は――」
     私は観客席のピーターをまっすぐ見つめ、マイクに向かって静かに言う。
    「――メリッサ・デュランさんです」
     観客席から割れんばかりの拍手が起きた。メリッサは涙を流し、その場で歓喜のために崩れ落ちた。私は、メリッサへと向き直り、授賞理由を語り始める。
    「あなたの演技は、『演技』という概念そのものを揺るがすものでした。洗練された技術や、計算された表現の彼方にある、もっと根源的なもの。肉体そのものからの迸りでした。あなたは、この舞台で演技をし、全てを失いました。誇りも、未来への希望も、時に人間らしい感情さえも、その身を切り裂くような痛みと共に、舞台の上に置き去りにしていった。それは、社会が私たちに貼り付けたあらゆるレッテル——女優であること、娘であること、恋人であること、あるいは罪人であること——そういった一切合切を、肉体の激しい運動によって振りほどき、剥ぎ取る行為そのものだった。あなたは、何も持たない裸の魂の状態にまで自らを還元し、そこから迸る生命そのものの叫びで、虚空に祈りを捧げた。それは、失うことでしか到達できない、魂の根源的な地点への回帰でした。あなたのその祈りは、私たち観客一人一人の内に眠る、失うことを恐れてきたものすべてを、容赦なく揺さぶります。そして問いかける——果たして、私たちは、本当に必要なものを、ただ抱えすぎているだけではないのか、と。あなたの演技は、私たちを、私たち自身の『根源』へと連れ戻す、強烈で、痛みを伴う、しかしどこか清々しい旅路でした」
     再び拍手が起こった。その音が、天井のシャンデリアに反射して、宝石のようにきらめいていた。私が受賞トロフィーを渡そうとしたその時……。
     一発の鋭い炸裂音が、ホールを切り裂いた。
     天井の巨大なシャンデリアが、重量を伴ったまま、上から落ちてくる。無数の水晶が粉々に散り、ガラスの雨が観客席に降り注ぐ。悲鳴と、逃げ惑う人々の足音がホールに響き渡る。
    「動くな」
     ダニエル・エヴァンスが、ステージ脇から現れた。彼の手には小型拳銃。銃口は私に向けられている。彼は素早くステージに駆け上がると、私の手からマイクを奪い取った。
    「エヴリンさん、そのままじっとしていてください」
     ダニエルの声は、マイクを通して増幅され、パニック状態のホールに響き渡る。彼は銃を構えたまま、観客席を見渡す。
    「長らく、私はあなたにお仕えして参りました」
     彼の声は冷たく澄んでいる。混乱する会場に、その言葉だけが不気味に響く。
    「でもそれも全て……あの子のためでした」
    ――あの子? ダニエルがそんな心情を込めた言葉を使うのを聞いたのは初めてだ。
    「私は、マーガレット家の使用人の息子……私はただの下働きの息子に過ぎなかったのです。けれど……」
     彼の銃口が微かに揺れる。目には涙がにじんでいる。
    「マーガレット家の裏庭のリンゴの木……私が木から落ちて泣いていると、いつも……マーガレットは駆け寄ってきてくれた。膝の擦り傷に……自分のハンカチを当てて……」
     その言葉の端々に、職業的なマネージャーの顔ではなく、遙か昔に傷つき、ただ一人の優しい少女に救いを求めた少年の面影が重なって見える。
    「『ダニエル、あなたは私の一番の友達よ』……そう言って、いつもお菓子を分けてくれた」
     彼の声が詰まる。そして突然、激情が爆発する。
    「なのに! なのにマイケルさんは! あなたは! あの子を……あの優しい子を……ないがしろにしてきたんじゃないですか!? エヴリンさんのことが忘れられなかったでしょう!?」
     ようやく理解した。これは単なる狂気ではない。あまりに長く、あまりに深く飼いならされ、内側で腐敗していった愛が、歪んだ果実を結んだのだ。
    銃口が微かに揺れる。彼の目には涙がにじんでいる。
    「マイケルさん、エヴリンさん……私は……マーガレットを傷つけたお二方を、絶対に赦せない。お二人の写真をマーガレットに送ったのは私です」
     観客席のマイケルが立ち上がろうとするが、ダニエルが銃をひらりと彼の方に向けると、彼は動きを止める。
    「でもそれでマーガレットは死んでしまった」
     ダニエルの声が詰まる。
    「だからマーガレットを殺したのは、私」
     彼はゆっくりと銃口を自分のこめかみに移す。
    「だから私は後を追います!」
    「ダニエル!」私の叫び声は、マイクのない声ではかき消された。
     二発目の炸裂音が、ホールに響き渡る。
     ダニエルの身体が崩れ落ちる。マイクが床に転がり、ハウリングの音が不気味に響く。
     天井から、シャンデリアの部品が一つ、また一つと落下し、粉々のガラスが舞い散る。観客たちの悲鳴とパニックがホールを包み込んだ。
     コンテストは、血と狂気に包まれた。
     

     その直後、ホールは地獄と化した。
     悲鳴と嗚咽、逃げ惑う人々の足音が入り乱れる。ダニエルの身体から流れ出た血は、深紅の絨毯をさらに暗く染め広がっていた。微かなガラスの軋む音、そしてどこからか響く女性のすすり泣き。甘ったるい鉄の臭いが、かつては華やかな香水で満ちていた空間に充満する。
     やがて、遠くからサイレンの音が近づき、駆けつけた警察官たちが現場を封鎖した。フラッシュを焚く警官のカメラが、この惨劇の一部始終を冷徹に記録していく。私はステージの上に立ち尽くし、マイクスタンドにすがりつくようにして、この非現実的な光景を見下ろしていた。スポットライトはすでに消え、ただ緊急灯の不気味な赤い光が、断絶された時間の中をゆらめいていた。
    「エヴリンさん……」
     誰かが私の名前を呼んだ。振り向くと、メリッサ・デュランが、授賞式のトロフィーを抱えたまま、恐怖に打ち震えていた。彼女の輝かしいはずの瞬間は、完全に粉々に打ち砕かれていた。彼女のその瞳——「野生の祈り」で全てを失う自由を体現したその瞳が、今はただ、理解できない暴力に怯える幼子のそれだった。その視線が、私の胸を深く、鋭く貫いた。私は思わず、彼女を抱きしめた。
     ホテルの外には、事件の報せを聞きつけた報道陣が蟻のごとく押し寄せている。カメラのフラッシュが窓を白く染め、マスコミの叫び声がかすかに聞こえる。「モーガンさん!」「ダニエル・エヴァンスとは?」「コメントを!」
     その喧騒の中、私は静かに目を閉じた。
     ダニエルの狂気と絶望。メリッサの砕かれた未来。ピーターの呪いのような苦悩。マイケルとマーガレットの修復不可能な傷。そして、私自身の、忘却へと向かう脳裏に焼き付いた数々の過ち——。
     これらすべては、私という一点から放射状に広がった亀裂だった。今、ここで、この混乱の只中で沈黙を守ることは、もうできない。ダニエルが全世界の前で暴いたこの歪んだ物語を、私自身の言葉で、最後まで紡ぎ終えなければならない。
     口を糊するための虚飾も、脚本に沿った演技も、もう必要ない。
     私はゆっくりと目を開け、近くにいた制服の警官に向かって、驚くほど静かな声で言った。
    「……全て、お話します」
     

     数日後、私は、報道陣の前で、記者会見を行った。複数のカメラの点滅フラッシュの灯りで、気絶してしまいそうだ。この数日でやつれ果てた私の顔に、どこか吹き抜けるような清らかさが宿っているとしたら、それは全てを語り尽くすという覚悟の表れかもしれない。
    「まず、今回のコンテストで起きた悲劇的な事件について、お詫びしなければなりません。ダニエル・エヴァンス。彼は長年、私のマネージャーとして献身的に支えてくれていました。しかし、その真の目的は、マーガレット家の使用人の息子として、幼い頃から兄妹のように、あるいはそれ以上に慕っていたマーガレットさんへの、歪んだ愛と忠誠心からの復讐劇でした。私とマイケルへの復讐です。彼の狂気と悲劇は、私の過去が生み出した、もう一つの犠牲です。心から、哀れみと責任を感じています。
    そして、ジャック・ウェストン。彼は、かつて私に輝かしい成功と、一夜の過ち、そして、息子ピーターを与えました。私は長年、あの夜のことを過ちと呼び、逃げ続けてきました。しかし、真実は、あの瞬間、脚本から解放された『私』という役柄を、初めて演じたかったのだと思います。ジャックは、彼なりの方法で、私に真実を教えようとしたのかもしれません。彼の無責任さは許せませんが、今は、ただ、彼の魂の平安を祈るのみです。
    ピーター。私の息子。私は、あなたを産みながら、母親としての役割を全うできませんでした。その結果、あなたは計り知れない苦しみを背負うことになりました。ごめんなさいという言葉は、あまりに無力です。あなたの人生の重みの一端でも、私が引き受けられるのであれば、たとえ、これからの私に残された時間が、記憶として確かでなくなるとしても、その責任から、決して逃げはしません。
    マイケル。あなたは、私に真実の愛と、穏やかな未来を約束してくれました。そして私は、それを自らの手で壊しました。あなたを、マーガレットさんを、そしてご家族を、深く傷つけました。あなたとの時間は、私の人生で、最も役柄ではなく『私』でいられた、かけがえのないものでした。それ故に、裏切りの傷は、いっそう深いものになったでしょう。どうか、あなたと、ご家族に、静かな時が訪れますように。
    そして、マーガレット・コールドウェルさん。あなたは、何の罪もない方でした。ただ、マイケルを愛し、家族を守ろうとしただけでした。そのあなたの平穏を、私という存在が、根底から破壊してしまいました。『あなたの永遠の夏が、私を凍らせた』、そのお気持ち、痛いほどに理解できます。どうか、安らかにお眠りください。
    最後に、メリッサ・デュランさん。あなたの『野生の祈り』は、全てを失うことの痛みと、そこから生まれる自由を、これ以上ないほど真実に体現していました。このような恥ずかしさに満ちた老女優が審査員であったことは、あなたの不運だったかもしれません。しかし、あなたの才能は、確かなものです。どうか、この出来事に惑わされることなく、あなたの道を進んでください。あなたの今後の活躍を、私は、たとえどのような形であれ、心から楽しみにしています」
     私は、ホテル「レジナ・マリス」の部屋に戻ってきた。ドアを閉め、ようやく独りになると、全身の力が抜けていくのを感じた。記者会見の熱気、カメラのフラッシュ、自分自身で発した言葉の重み——それらすべてが、今は遠い波の音のように、かすかに尾を引いているだけだった。
     ふと、テーブルの上に一枚の絵が置かれているのに気づいた。三つの太陽。それぞれが独特の形に歪み、異なる角度から、同じ漆黒の海へと沈みかけている。一つは激しい赤で、悔しさのように燃え尽きようとしている。一つは深い青で、諦めのように静かに沈んでいく。そして最後の一つは、かすかな金色をまとって、まだ水平線にすがるようにかかっている。
     ……ピーターと、最後に会ったのは、いつだったか?
     その疑問が、突然、鋭い棘となって私の胸を刺した。私は絵の前で硬直した。窓の外を渡るヨットの白い帆、カーテンが揺れる微風の感触――すべてはありありと感じている。 
     なのに、彼がこのキャンバスを手渡した瞬間の記憶だけが、完璧に、徹底的に消え去っている。ない。最初から存在しなかったかのように、そこにはっきりとした、人為的としか思えない空白が口を開けている。ほの暗い恐怖が、冷たい汗として背中を伝い落ちた。 
     ──まるで誰かが、私の内側の書架から、たった一冊だけを選んで抜き取ったように。綴じ目も残さず、ページの落ちた跡も。ただ、そこにあるのは、完璧なまでの「無」。その空白は囁く。ただの忘却ではない、と。何かが、確かにここで刃の仕事を終えたのだ、と。私は震える指先で、その空白の輪郭をなぞる。記憶の地層の断層面は、驚くほど滑らかだ。斧やノミの跡はなく、むしろ、研磨され、撫で尽くされたような──そう、まるで何度も何度も、愛情を込めて、痕跡が消されるまで撫でられたかのような……。
     

     ニースの旧市街から少し入った路地裏に、そのクリニックはあった。表札は質素なブロンズ板で、「記憶と神経のクリニック、ドクター・ルブラン」とある。ドアを開けると、かすかに消毒液の匂いが混ざった、古い本と床ワックスの匂いがした。待合室は狭く、壁は褪せたオリーブグリーンで、イタリア製の古い医療ポスターが掛けられていた。時間がゆっくりと流れ、あるいは完全に停止しているような空間だった。
     医師、ルブラン先生は六十歳ほどで、髪は白髪交じりで丁寧に梳かされ、質素だが上品なツイードのジャケットを着ていた。彼の目は灰色がかっていて、とても穏やかだが、その奥には、数えきれないほどの患者の物語を聞き、看取ってきた達観ともいうべき静かな諦念が潜んでいた。それは冷たさではなく、深い理解から来る、ある種の慈悲に似ていた。
    「では、エヴリンさん、結果をご説明します」
     彼の声は低く、驚くほど滑らかで、一つ一つの単語が明確に、しかし決して押し付けがましくない口調だった。
    「まず、こちらがあなたの脳のMRI画像です」
     彼はライトボックスに、白と灰色のコントラストで描かれたフィルムを貼り付けた。
    「私たちの脳は、様々な部位がそれぞれの役割を担っています。記憶において、特に重要なのが、この……海馬(かいば) と呼ばれる部分です。タツノオトシゴのような形をしているでしょう? ここが、新しい記憶を一時的に保管し、整理し、必要であれば大脳皮質という長期記憶の書庫へと送り届ける、いわば記憶の図書館の司書のような役割を果たしています」
     彼の指が、画像の中央付近、左右対称にある二つの小さな湾曲した領域を、丁寧になぞる。
    「そして、エヴリンさん……ご覧になってください。あなたの海馬体は、ご年齢の平均的な状態と比較して、明確な萎縮の兆候が見られます。特に、この部分の組織の密度が低下し、体積が減少している。これは、単なる『もの忘れ』の域を超えた、器質的な変化です」
     私は無言でうなずくしかなかった。その「くぼみ」が、私の中で確かに存在していた「空白」の、物理的な証拠としてそこにある。
    「このような海馬体の萎縮が起きる原因はいくつかあります。最も一般的なのは、アルツハイマー病に代表される、変性性の疾患です。しかし……あなたの場合、詳細な血液検査や他の認知機能テストの結果を総合しますと、その典型的なパターンとは、少し違う経過を示しているように思います」
     彼は少し間を置き、私の目をしっかりと見つめた。
    「あなたの場合は、ご年齢による自然な変化に加えて、長年にわたる、極度の心理的ストレスが、症状を強く引き出し、進行を早めている可能性が非常に高い」
     彼の声は、さらに静かで、しかし一つ一つの言葉の重みを増して響いた。
    「……あなたの脳が、それに耐えられなくなった。あまりにも多くのことを『忘れよう』『記憶の奥底に封じ込めよう』としてきた、ご自身の心の、いわば最終的な自己防衛策として、この萎縮が始まっているのです。 それは、もうこれ以上、痛みを覚えていられない、という叫びなのかもしれません」
    「自己……防衛?」 ようやく私の声が、かすかに震えながら絞り出された。
    「そうです」
     ルブラン先生は深くうなずいた。
    「忘れることで、生き延びようとしている。それは、生物としてごく自然な反応です。しかし……」
     彼はここで、深く、そして悲しそうなため息をついた。
    「しかし、いったんこの歯車が狂い始めると、それはもう、ご自身の意志では制御できなくなります。『忘れたい記憶』だけを選り分けるような、都合のいい病気ではありません。 それは、新しい記憶から、古い記憶へと、ゆっくりと、しかし確実に、無作為に、全てを飲み込んでいく……『忘却の波』 のようなものです。やがては……あなたという『現在』を、あなたの『過去』から、静かに、しかし確実に切り離していくことになるでしょう」
     彼は沈黙した。診察室には、ライトボックスの微かなブーンという音だけが響いていた。
    「……進行は止められないのですか?」
    「現時点では、完全に止めることは難しい。ですが、進行を遅らせ、残されている機能を最大限に活かすための方法はあります。薬物療法、そして……できる限り、穏やかで、ストレスの少ない環境を保つこと。それが、今、私たちにできる最善のことです」
     穏やかで、ストレスの少ない環境。その言葉が、私の内部で空虚に反響した。私の人生は、ストレスそのものの連続ではなかったか。スポットライトの灼熱も、世間の好奇の目も、ジャックの甘く危険な囁きも、マイケルを失った痛みも、ピーターという生きる証の苦悩も――すべてが、この脳を焼き尽くすための燃料だったのだろうか。そして今、私に残された「穏やかな環境」とは、まさにこの、すべてを忘却へと沈めていくプロセスそのものなのか。
     私はただ、うなずくことしかできなかった。
     診察室を出た。午後の光がギラギラと街を照らし、あまりに現実的だった。私は通りすがりのカフェのテラスに、力なく腰を下ろした。テーブルの上のコーヒーカップが、微かに、しかし明らかに揺れている。私の手が、震えていた。
     

     その夜、マイケルがホテルの部屋に現れた。ドアを開けた瞬間、私は息を飲んだ。この数週間で、彼は別人のようにやつれ果てていた。スーツの肩ががらりと空き、顎のラインには無精ひげがぼうぼうと生え、その中に深い疲労が刻まれている。
    「エヴリン……」
     彼の声は、砂利を踏みしめるような、かすれた音だった。
    「マーガレットの……葬儀に……あの日、行くと言っていたのに、結局、僕は……招かれなかったんだ」
     彼の視線は虚空を見つめ、拳を握りしめた。指の関節が白く変色する。
    「マーガレットの家族は……僕を『存在しなかった男』として扱った」
     彼はゆっくりとグラスを取り上げ、こぼれそうな水の表面を必死に見つめながら、言葉を続けた。
    「それで……君からのメールを受け取った。病のことを知って……僕は」
     彼の声が詰まった。深く息を吸い、ようやく言葉を紡ぎ出す。
    「君を支えたい。救いたい。この先、どんなに辛くても……僕は君の望むようにする」
     窓の外の街灯が、彼の銀髪に淡い光の輪を描いていた。私は彼の手を、私の両手で包んだ。その手は冷たかった。
    「マイケル……あなたは……」
     私は言葉を選び、一つひとつを丁寧に紡いだ。
    「私の一番美しい思い出よ。スクリーンに映る幻じゃない。私自身の、たしかな、温もりのある思い出。だから……忘れたくない。絶対に」
     彼の目がわずかに揺らめいた。深い闇の底で、かつての愛の残り火が、かすかに、しかし確かに灯った。
    「でも」
     私は喉の奥で震える声を必死に押し殺した。
    「この病は……私から、あなたとの時間を、ひとときずつ奪っていく。大切な瞬間を、微笑みを、触れた温もりを……すべてを、ゆっくりと、確実に、曇りガラスの向こうに追いやっていく」
     私は彼の手を強く握った。私の指もまた、震えていた。
    「そばにいて。マイケル。あなたと、ゆっくりと、過去から現在へと流れる時間そのもののように、くり返し、別れていくために」
     それは、決して終わることのない別れの宣言だった。彼は深く、深く息を吸い込み、目を閉じた。そのまぶたの裏で、彼は何を見ているのだろう。四十年前の、すべてが輝いて見えたあのスタジオか。それとも、これから訪れる、私という名の風景が少しずつ色あせ、やがて白紙に還っていく長い冬か。
     長い沈黙が部屋を満たした。その沈黙は、私たちが交わす最後の、そして最も美しい契約書だった。
     やがて、彼はゆっくりと目を開けた。その目には、苦しみと、受容と、そして揺るぎない決意が映っていた。彼はうなずいた。たった一度、深く、重たいうなずき。
     私たちは、これから、私の記憶が色あせ、剥がれ落ち、消えゆくその過程そのものが、私たちの「別れ」の儀式となることを、静かに、確かに決断したのだ。それは、終わりに向かって逆戻りする時計の針のような、残酷で、そして唯一の、愛の形だった。
     

    「……記憶障害だと?」
     ピーターの声は、低く、危険な震えを帯びていた。それは、火種がくすぶり、やがて爆発する前の、不気味な静寂をはらんでいた。
     次の瞬間、彼の拳が傍らの小テーブルを叩き壊した。木片が炸裂し、飛び散る。上のランプが転がり落ち、ガラスが粉々になる音が鋭く響く。彼は獣のように唸り、家具を蹴りつけ、壁に体をぶつけた。荒い息が部屋中に充満し、カーテンが激しい動きに合わせて揺れる。
    「ふざけるな……!」彼の叫びは、怒りを通り越して絶望に歪んでいた。
    「忘れられるってのか、俺のことも……お前が俺にしたことも、全部を! この……この傷まで、全部が霧散するってのか!?」
     しかし、その怒りの炎は、激しく燃え上がった後、急速に萎んでいった。彼は突然力が抜けたように、その場に崩れ落ちた。ひざまずき、肩を激しく震わせ、嗚咽にも似た荒い息を繰り返す。涙ではなく、怒りと無力感が混ざり合った、苦しげな喘ぎだった。
    「ふざけやがって……この、ボケ婆さんが……」
     その日、彼は立ち去る前に、よろめくように窓辺へ歩いていった。ジャケットの内ポケットから、合成麻薬の小さな袋を取り出すと、一瞥もせずに、まるで自分自身の一部を切り捨てるように、海へと放り投げた。
     彼はその場にしばらく佇み、荒い息を整えていた。波が岩に砕ける音だけが聞こえる。そして、彼は呟いた。
    「クソ……こんなものに縋ってる場合じゃねえな。あのボケ婆さんより先に逝きそうだ」
     それからというもの、ピーターは定期的に私を訪ねてくるようになった。ある日は、鋭い眼差しで私を睨みつけ、嘲るように問い詰める。
    「おい、ボケ婆さん。今日はわかるか? 俺が誰だか」
     その次の訪問時には、無言でドアの前に現れ、新しい絵を一枚、置いていく。歪んだ果実、絡み合う鎖の素描……どれも彼の内面の暗がりを映し出すように、荒々しいタッチで描かれていた。
     ある雨の午後、彼は私がコンロの火をつけ忘れたまま、冷えたスープの缶を呆然と眺めている光景を見つけたらしい。彼は一言も発せず、ずぶ濡れのジャケットから、買い込んできた食材を無造作にテーブルに放り出した。そして、黙って厨房に立ち、エプロンもつけずに調理を始める。
     トマトを乱暴に切り刻む鈍い音。油の跳ねる音。焦げつきそうな鍋が振動する音。それらは、荒々しくも確かな生活の音だった。麻薬に蝕まれた廃人から、不完全ではあれ、一人の“生活者”へと自らの手で這い上がり始める、彼の静かで確かな再生の過程であった。
     私たちの関係は、愛情や赦しなどという綺麗事からはほど遠い。「互いの傷を、最後の一人になるまで直視し続けることを運命づけられた者同士」という、救いのない共依存の縁で結ばれている。
     彼のスケッチブックには、歪んだ太陽が幾度も描かれていた。三つだったり、一つだったり、あるいは激しい筆致で塗りつぶされていたり。それは、彼が寄宿舎の壁に「助けて」と刻んだ無数の傷の、静かなる変奏のように私には見えた。あの頃は外界への叫びだったものが、今は紙の上で、自身の内なる景色への問いかけへと昇華されつつあった。麻薬の代わりに、彼は絵筆を握りしめていた。破壊ではなく、創造という名の、かすかな再生の道を。
    「どうして……絵を描き始めたの?」
     彼は鉛筆を止め、窓の外の雨を見つめた。しばしの沈黙の後、彼は自嘲気味に呟いた。
    「あのクソ寄宿舎でな、壁に『助けて』って書きなぐったんだ。最初は指で、その次は割れたプラスチックで、最後は……自分の血でな」
     彼の言葉が、部屋の空気を一瞬で張りつませた。
    「でも、あの『助けて』は誰にも届かなかった。ただの傷にしかならなかった。だったら……せめて、あの時に壁に刻みたかったもの、叫びたかったものを、形にしてみようと思ったんだ。殴る代わりに、線を引く。壊す代わりに、何かを作る。……ま、こんなもの、ただの自己満足だろ?」
     彼はそう言って、自らの過去を嘲笑うように、スケッチブックのページを力強くめくった。しかし、その次の瞬間から、再び絵筆を握る手は、麻薬を求めていた頃よりも、確かに力強く、そして真剣だった。
     

     しかし、その変化は、容易なものではなかった。
     ある夜、彼は私の部屋のドアを激しく叩き、よろめきながら入ってきた。汗が額を伝い、痙攣した指先がジャケットの裾を握りしめている。瞳孔は開き、呼吸は浅く速い。彼は床に膝をつき、まるで肺が破裂するかのように咳き込み、嗚咽した。
    「ちっ……くそ……!」
     彼の体は麻薬を求め、地獄の苦痛で震えていた。私はただ傍らに跪き、冷たいタオルでその汗まみれの額を拭うことしかできなかった。彼は私の手を払いのけようとしたが、その手には力がなく、逆にその腕が、飢えと苦痛に苛まれる子どものように私の袖を掴んだ。
     彼は歯を食いしばって叫んだが、その体は全く動いていなかった。私は黙って彼の震える背中をさすり続けた。それは、産まれて初めて、おこがましいかもしれないが—―母としての役割を果たしている瞬間だったかもしれない――苦しみと向き合う彼の横顔は、寄宿舎の壁に「助けて」と刻んだ少年そのものだった。
     そして、苦しみの波が引いた時、彼は虚脱したように眠りに落ちた。翌朝、目を覚ました彼は、恥辱と怒りで私を睨みつけたが、それからというもの、絵を描くことにさらに没頭し始めた。
     スケッチブックを前にすると、彼の表情は変わった。荒々しい激情が、静かでしかし執拗な集中力へと変わる。鉛筆が紙の上を走る音、時にキャンバスを殴りつけるような筆の音。彼は絵の具で自分自身を塗りたくり、時には完成した絵を破り捨てた。
     初めはただの暴力だった。キャンバスを殴るように描き、自分自身を傷つけるように塗りたくるだけだった。しかし、ある時から変わった。描くことで、初めて自分と真正面から向き合えるようになったのだ。逃げずに、あの寄宿舎の部屋に立つ少年と、鏡のように向き合うために。絵筆は、彼が初めて手にした、自分自身を裁くでも慰めるでもない、ただ「見つめる」ための道具に変わっていった。
     私はそれを、ソファの隅で息を殺すようにして見守っていた。彼の背中が震えるのを、握りしめた筆が時に優しく、時に激しく動くのを。かつては破壊へと向かっていたそのエネルギーが、紙の上で、かすかながらも確かな「形」を求め始めている。それは麻薬以上の激しい中毒であり、彼なりの、自らを構成し直すための、血みどろの作業だった。麻薬は彼を「無」へと逃がしたが、絵筆は彼を「有」――苦痛に満ちた「現在」と「過去」とに、しっかりと縛り付ける。彼はその苦痛から逃げず、それと格闘するための武器として、絵筆を選び取ったのだ。
     

     彼は、私が彼を忘却の彼方に置き去りにしていないか、確認しに来る。そして私は、彼を「知っている、大切な、誰か」として受け入れ、そのたびに、彼の怒りと痛みと、そして微かな成長を、初めて体験するかのように、くり返し、くり返し、胸に刻みつけていく。
     そこには救いがない。だからこそ、偽りが混じる余地もない。
     

     雨が窓を叩く音だけが響く、ある午後のことだった。
     ドアが勢いよく開き、ずぶ濡れのピーターが食材の袋を抱えて入ってきた。彼の髪からは雨滴が滴り、フローリングに小さなしずくを作っている。
    「……また、火、つけっぱなしだぞ。ボケ婆さん」
     彼はコンロの前に立ち尽くす私を見て、すぐに状況を理解した。その声には、以前のような激しい罵倒はなく、どこか諦めに近い感情がにじんでいた。
     ちょうどその時、背後から優しい声が聞こえた。
    「ピーター……中に入ってきたら、ドアを閉めた方がいいよ。エヴリンが風邪をひくから」
     マイケルが静かに部屋に入ってきた。銀髪もコートの肩も雨に濡れ、きらめいている。彼はぬれたコートを丁寧にハンガーにかけると、ピーター手中的の食材の袋を自然な流れで受け取った。
    「ちっ……あんたまで来るなんてな」
     ピーターは嘲るように言ったが、今回は特に抵抗せず、手を離した。
    「エヴリンのために買ってきたスープが、冷めたままになっているのは忍びないからね」
     マイケルは厨房に立ち、焦げた鍋を洗い始めた。彼の動作はピーターの荒々しさとは対照的で、洗練され、丁寧だった。
    「おい、そこはもっと強火でいいんだぜ」
     ピーターが横から口を出し、自分でも隣の鍋を手に取る。二人の男性が狭い厨房で、互いの動きを意識しながらも、何故か調和して動いている。
     私はテーブルに着き、その珍しい光景を見つめていた。ピーターが乱暴に野菜を切り、マイケルがそれを丁寧に整える。マイケルがスープの味を整え、ピーターが辛辣な批評を吐く。
    「まずいな、その味は。もっとスパイスを効かせないと」
    「エヴリンの今の体調には、刺激が強すぎるよ」
    「だからって、この味気なさは……まあいいや」
     彼らの会話は衝突しそうでいて、何故か不思議と調和している。私はふと、長い間忘れていた、ある温かさを感じた。それは、家族というものの、不完全ではあるが、かけがえのない温もりだった。
     スープが完成すると、ピーターが不器用に椀を並べ、マイケルがそれを丁寧に盛り付ける。三人で食卓を囲んだ時、ピーターが突然、声を潜めて言った。
    「なあ……婆さん、これでも、俺のことも忘れるのか?」
     マイケルが彼をたしなめるように見たが、私はゆっくりと首を振った。
    「あなたがピーターだということは……忘れない、多分」
     沈黙が流れた。雨音だけが部屋に響く。
     ピーターはスープを一口すすり、顔を上げると、珍しく穏やかな、どこか幼さを感じる表情でつぶやいた。
    「次は……パスタを作ってやる。忘れる前に、な」
     マイケルが微かに笑みを浮かべ、ゆっくりとうなずいた。その瞬間、歪んでばかりいた時間が、ほんの少しだけ、優しい形を取り戻したように感じられた。
     私たちはもちろん家族なんてものではない。そもそもマイケルは他人だし、お互い傷だらけで、歪んでいて、いつまた崩れるかわからない、はかない関係。それでも、この雨の午後だけは、私たちはまるで家族のように食卓を囲んでいた。
     

     翌週、私はマイケルを伴って、あのニースの路地裏のクリニックを再訪した。
     待合室で、マイケルは私の横で微かに硬直していた。彼の膝の上で握り締められた拳の関節が白くなっている。彼はかつて、私の契約交渉という戦いには常に同席し、冷静沈着な参謀だった。しかし今日という「戦い」の前では、明らかに動揺を隠せない。これは、交渉術や契約書ではどうにもならない、絶対的なものとの対面だったからだ。
    「エヴリン・モーガンさん」
     ナースの呼ぶ声に、私たちは同時に立ち上がった。マイケルは無意識のうちに、私の肘をそっと支える。その手のひらに、かすかな震えが伝わってくる。
     診察室のドアが閉まる音が、あまりに堅く響いた。
     ルブラン先生は、私たち二人を一瞥し、特に驚いた様子もなく、むしろ覚悟を決めたような深いうなずきを返した。彼の目には、このような同伴者を数多く見てきた諦観に満ちた優しさが浮かんでいる。
    「では、ご一緒に結果をご確認ください」
     ライトボックスに再び貼られた、私の脳のフィルム。ルブラン先生の説明は、前回と変わらぬものだった。海馬体の萎縮。記憶の司書の退場。ゆっくりと、確実に押し寄せる「忘却の波」。
     ルブラン先生の淡々とした、しかし一つひとつが重い言葉の間、マイケルは一言も発しなかった。ただ、ライトボックスに照らし出された白と灰色の影像を、そして時に私の横顔を、貪るように見つめ続けた。その視線は、もう二度と戻らないものを見つめている者の、必死の記憶の作業のようだった。
    「……つまり、これは」
     ようやくマイケルが口を開いた。声は渇いて、低く軋んでいた。
    「彼女は……私たちのことを、すべて忘れていく。そういうことなんですか?」
    「その通りです。新しい記憶から、古い記憶へ。その順序や速度には個人差がありますが、方向性は変わりません」
     ルブラン先生の言葉が、診察室に冷たく落ちた。
     マイケルの息づかいが荒くなった。彼は顎をぎゅっと噛みしめ、目を閉じた。そのまぶたの裏で、彼は何と戦っているのだろう。怒りか、無力感か、あるいは――この宣告を、自分への罰だと受け止めているのか。
    「マイケル」
     私がそっと彼の名前を呼んだ。彼の拳が、ひときわ強く握り締められる。
    「ご家族のサポートが、これからは何よりも重要になります」
     ルブラン先生が静かに付け加えた。
     その「家族」という言葉に、マイケルの肩がわずかに揺れた。彼はゆっくりと目を開け、私を見た。その目は、マーガレットの死の時と同じくらい、いや、それ以上に深く傷ついていた。
    「……わかりました」
     彼の声は震えを押し殺していた。
    「私は……彼女の、最後の記憶であり続けます。たとえ彼女が私を忘れても」
     それは、私に対してというより、自分自身への、そして去っていったマーガレットへの、静かなる宣誓のように聞こえた。
     診察室を出て、廊下を歩く。マイケルは私の一歩後ろを、まるで影のように、あるいは護衛のように付いてくる。エレベーターまで来た時、彼が突然、私の手を握った。その握り方は、ほとんど必死の縋り付きに近かった。
    「大丈夫よ」
     私が囁く。誰に向けての言葉か、自分でもわからない。
     エレベーターのドアが閉まり、我々だけの密室ができたその時、マイケルは深く、深く息を吸い込み、そして涙を一つ、零した。音もなく、ただ一粒、光る水滴が彼の頬を伝い、絨毯に消えた。彼はそれ以上は流さず、ただ  私の手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
     外に出ると、午後の光がギラギラと街を照らし、あまりに現実的だった。
     

     それからというもの、私たちはよく海辺のベンチに座るようになった。言葉は少なく、ただ並んで波の音を聞いているだけの時間が多かった。
    「今日の海は、少し荒れているね」
     彼がそう呟けば、私はうなずく。それだけの会話だ。しかし、その沈黙の中に、若い頃には理解できなかった深い安らぎがあった。言葉で埋め尽くさなければならない焦りは、もうどこにもない。
     ある夕暮れ、彼がそっと私の手を握った。その掌の温もりが、なぜだか懐かしい。誰の手だろう? 名前も顔も思い出せないのに、この温もりだけは、確かに胸の奥で共鳴する。私はその手を離さず、ただ海が次第に闇に包まれていくのを見つめていた。
    「エヴリン」彼がごく低い声で呼ぶ。
    「気にしないでくれ、全てを忘れても……」
     彼の声がわずかに震えた。言い切れないその先を、私はもう理解していた。忘れられる悲しみよりも、忘れる者への憐れみの方が、ずっと重いのだということを。
    「大丈夫よ」私は彼の手を握り返した。「今、この瞬間は……覚えているから」
     それは嘘かもしれない。明日にはこの会話さえ忘れているかもしれない。それでも、この瞬間の温もりだけは、きっとどこかに残ると信じたかった。
     
     
     時は、静かな澱のように流れていった。
     ホテルの一室では、古いフィルムプロジェクターが、かすかな回転音を立て続けている。白い壁に映るのは、おそらく数十年前の私――波打ち際で笑い、太陽の下で踊り、カメラに向かって手を振る若き日のエヴリン。その映像はところどころ傷み、時折、砂を撒いたようなノイズが走っている。
     ドアが開く音がした。振り返ると、見知らぬ若い男性が立っていた。痩せた頬、乱れた髪、その手にはスーパーの袋が下がっている。
    「……また、新しい、お客さん?」
     私は自然にそう聞いた。最近、ホテルの客がよく私の部屋を訪ねてくる。みんな親切な人ばかりで、話し相手になってくれる。
     男性の顔に一瞬、苦痛が走った。彼はゆっくりと部屋に入り、ドアを閉めた。
    「俺だ、ピーターだ」
     その名前は、どこかで聞いたことがあるような……胸の奥でかすかな鐘の音が鳴るが、すぐに消えてしまう。
    「ピーター……」私は微笑んだ。「今日はどんな絵を描いてきたの?」
     彼の顎の筋肉が微かに痙攣した。その目には、慣れないものだという苦痛が走っている。
    「毎回、同じことを聞きやがって」彼は呟くように言い、テーブルの上にスケッチブックを置いた。そこには、三つの太陽が描かれている。一つは鮮やかに輝き、一つは雲に隠れ、一つは海に沈みかけている。
    「前にも……こんな絵を見たような気がするわ」
     私がそう言うと、彼の拳がテーブルを叩いた。プロジェクターが揺れ、壁の映像がゆがむ。
    「あんたはいつもそうだ! いつも忘れる! 俺が誰だか、俺たちが何をしてきたか、全部忘れやがる!」
     彼の怒鳴り声に、私は驚いた。でも、なぜ彼がそんなに怒っているのか、よくわからない。
    「ごめんなさい……あなたは、ピーター……ピーター……」
     名前は出てくる。でも、その先がつながらない。ただ、胸の奥に、言いようのない悲しみが広がっていく。
     彼は深く息を吸い、スーパーの袋を厨房に運んだ。包丁の音が聞こえる。人参を切る音だろうか。最近、彼はよく料理をしてくれる。なぜだかはわからないけれど。
     フィルムは回り続け、若き日の私はスクリーン上で笑い続ける。その笑顔は、今の私からは遠い国のことのようだ。
     ピーターが戻ってきて、黙って私の隣に座った。彼はスケッチブックを開き、新しいページに線を描き始める。鉛筆の音が、波の音と重なる。
    「なあ」彼が低い声で言った。「母さん……本当に俺のこと、もうわからねえのか?」
     私は彼の横顔を見つめた。無精ひげが生え、目元に深い皺が刻まれている。どこかで見たような気がする。でも、いつ、どこで……?
    「さあ……」
     それしか言えなかった。彼は唇を噛みしめ、再び描き始めた。
     三つ目の太陽が、海の底に沈んでいった。
     

     部屋には、プロジェクターの微かな回転音だけが残された。
     私はベッドの縁に座り、傍らに置かれた木箱を手に取った。蓋を開けると、そこには過去の残骸が詰まっている。かつては私の人生そのものだったものたちが、今はただの物体として、無言で横たわっていた。
     一番上にあったのは、銀のフレームの写真だ。笑いながら抱き合う、若い私と――金色の髪を輝かせた、どこか見覚えのある男。その輝くような笑顔が、今はどこか他人事のようにすら感じられる。この男は誰だったろう? この写真は、どんな大切な瞬間を切り取ったのだろう? 胸を締め付けるような感覚だけが、確かに残っている。しかし、その感覚が何に由来するのか、言葉にならない。
     その下には、トロフィーの小さなレプリカがあった。「新人賞」。指でなぞると、冷たく、ざらりとした感触だ。これは褒美なのか? それとも、何か別のものの証しなのか?
     そして、一番奥から現れたのは、黒漆の万年筆だった。使い込まれた跡があり、誰かの手のひらになじんだ形をしている。キャップを外すと、ペン先に古いインクの痕がこびりついていた。これは――誰かがくれたものだ。大切な人に。その人の顔も名前も、もはや思い出せない。ただ、このペンを見つめていると、どこか温もりを感じる。そして、その温もりと同時に、取り返しのつかない何かを失った、巨大な喪失感だけが、静かに胸の奥で共鳴する。
     私はそれらを、順不同に、ただ手に取り、じっと見つめるしかなかった。かつては私を形作っていたこれらの品々は、今や私から遊離し、ただの「物」へと還元されつつあった。記憶という海からぽつり、ぽつりと浮かび上がっては、意味もなく手のひらに載り、そして再び、忘却の深みへと沈んでいく。
     プロジェクターは、まだ回り続けている。白い壁には、誰かの、とても美しい笑顔が映し出されていた。
     

     そして、彼がやって来た。
     ある黄昏時、金色に輝く海を背にして、一人の男が立っていた。その姿は、かつて傷ついた獣のように荒々しかったあの青年の面影を、かすかに残しているだけだった。今の彼には、長い旅路を経てたどり着いた者の、静かな覚悟が宿っていた。
    「やあ」
     彼の声は、かつての鋭さを失い、深い渓谷のようになっていた。
    「これ、持ってきたんだ……」
    差し出されたキャンバスには、三つの太陽が描かれていた。一つは燃えるような赤で、苦悩と激情の年月を。一つは深い青で、癒えぬ傷と孤独の海を。そして最後の一つは優しい金色で、ようやく見出した和解の光を。三つの太陽は、もはや争うことなく、同じ水平線の上で調和していた。
    「これは……」
    「俺の……今のすべてさ」
     彼の目には、もう怒りはなかった。ただ、長い闇を抜けてきた者だけが持つ、澄んだ悲しみと、かすかな温もりが浮かんでいた。私はその絵を受け取り、指でそっとなぞった。絵の具の盛り上がりが、彼の歩んできた道のりそのもののように感じられた。
    「あれ……? もしかして、あなた……ずっと……」
    「ああ」彼は静かにうなずいた。
    「実は、数日間、ずっとここにいた。でもな……フィレンツェに行くことにした。絵の修復を学びたいんだ」
     窓の外では、夕日が海を黄金に染めていた。彼は深く息を吸い込み、私を見つめた。その視線は、私という存在全体を、最後のひとときまで記憶に刻もうとするかのようだった。
    「たとえ……母さんが完全に俺のことを忘れても」
     彼の声がわずかにうわずった。
    「俺は母さんを覚えてる。苦しみも、悲しみも、全部を。そして……母さんが最後にくれた、ほんの少しの優しさも」
     彼は一歩近づき、そっと私の手を握った。その手は、かつては震えていたが、今は確かな温もりに満ちていた。
    「もう……私のこと、怒ってないの?」
     その問いかけの意味も、私はもうわかっていなかったが、静かな部屋にゆらりと浮かび、やがて彼の胸に届くまでに、いくつもの歳月が過ぎ去っていくように感じられた。
     彼はしばし沈黙し、ゆっくりと目を閉じた。まぶたの裏で、あの忌まわしい寄宿舎の壁に刻まれた無数の「助けて」が、そして自らの腕に刻まれた傷の数々が、よみがえっているのだろうか。やがて彼は目を開け、その瞳には、怒りを通り越した深い悲しみと、それを受け止めた者の静かな諦観が浮かんでいた。
    「あの頃の俺は……怒りでしか生きられなかった。すべてが痛くて、すべてが歪んで見えて……母さんを呪うことしかできなかった」
     彼の声は、遠い雷鳴のように低く響いた。
    「でも、絵を描くうちに……わかったんだ。あの怒りは、本当は……助けてほしいって叫びだったんだって。届かない叫びが、やがて怒りに変わっただけなんだ」
     彼はキャンバスに描かれた三つの太陽をそっと撫でた。
    「この赤い太陽……これは、俺の怒り。この青い太陽……これは俺の悲しみ。でもこの金色の太陽……これは……」
     彼の声がふと柔らかくなった。
    「……母さんが最後にくれた、『ごめんなさい』の言葉を表現した。あの日、母さんが泣きながら謝った時の、涙の輝きを描いたんだ。だから怒りは……もう全部描き終えた。この絵に、すべてを込めた。もう大丈夫なんだ。ただ……」
     彼は深く息を吸い、私の目をまっすぐ見つめた。
    「ただ悲しい。もっと早く、母さんのその温もりに気づけなかったことが」
    彼はゆっくりと手を離し、私の額にそっと唇を触れた。それは、祝福のような、別れのような、そして許しの印のような口づけだった。
    「じゃあな……」
     彼はそう呟くと、踵を返した。ドアが静かに閉まる音が、永遠の別れを告げるように響いた。
     部屋には、彼が残した絵だけが、夕闇の中で微かに光っていた。三つの太陽は、これから訪れる長い夜を恐れることなく、静かに輝き続けているようだった。
     

     ある雨上がりの午後、男性が静かに部屋を訪ねてきた。彼の銀髪は窓から差し込む柔らかな光に包まれ、優しく輝いていた。彼は私の隣に座り、そっと手を握ってくれた。その手のひらは、長い年月を感じさせる温もりで包んでくれる。
    「エヴリン」
     彼の声は、遠くで砕ける波の音のように優しかった。
    「今日は、とても綺麗な夕日になりそうだ」
     窓の外では、雨雲が切れ始め、夕陽が雲の隙間から差し込み、海を琥珀色に染めていた。私は彼の手の温もりを感じながら、その美しい光景を眺めた。どこかで、こんな夕日を一緒に見た記憶があるような……ないような……。
    「昔……」
     男性が静かに語り始めた。
    「君はいつも、夕日が沈むのが寂しいと言っていた。でも僕は言ったんだ。『また新しい日が昇るから』って」
     彼の目には、たくさんの思い出がきらめいている。私にはもうはっきりと思い出せない、大切な時間たちが。
    「君は僕の人生で、一番美しい思い出だ」
     彼の声がわずかに震える。
    「たとえ君が忘れてしまっても、僕の中では君は永遠に生き続ける」
     彼の頬を一筋の涙が伝う。なぜか私の胸も、言い知れぬ悲しみで満ちていった。
    「マイケル……」
    その名前が自然と口をついた。
    「あなたは……いつも優しかった」
     彼はゆっくりと頷き、私の手をもう少し強く握った。二人は沈黙のうちに、最後の夕日を見つめ続けた。光が少しずつ弱まり、部屋の中が薄暗くなっていく。
    「もう……行かなくては」彼が囁くように言った。
     立ち上がる彼を見送りながら、私は深い安らぎを感じていた。まるで長い旅から、ようやく家に帰ってきたような心地だった。
     ドアが静かに閉まる。部屋には波の音だけが残る。テーブルの上には、一枚の写真が置かれている――若き日の二人が、夕日を背景に笑っている写真。
     私はそっと写真に触れ、窓の外の海を見つめた。
     記憶がぼやけてきて、よくわからなくなって、目を閉じる。そうしてようやく私は、『Mr.サマータイム』——かつてジャックが演じた、エヴリン・モーガンの人生を狂わせた役柄——という幻想から解放されたことを知った。
     
    (了)

    自己解説――あるいは、誰にも頼まれていない100枚の言い訳

    『Mr.サマータイム』は3分強の歌である。私はその3分を4万字に水増しした。1秒あたりおよそ200字。この换算レートを聞いた夫は「為替なら通報されてる」と言った。正しい。これは文学ではなく錬金術であり、しかも卑金属から卑金属を錬成するタイプの錬金術である。

    そもそもこの曲はフランスのシャンソンの日本語カバーだ。つまり本作は二次創作の二次創作、いわば孫請けの罪。建設業界なら行政指導が入る多重下請け構造を、私は文芸でやった。中抜きしたのは品位である。

    執筆中、私はこの曲だけを再生し続けた。サブスクの年間まとめは再生履歴の97%が同一楽曲となり、レコメンドAIは沈黙した。あれは機械学習が人間に絶望した音だったと思う。残り3%は作業用BGMを探して挫折した形跡である。

    主人公を68歳の元大女優にしたのは、30代の私が「老い」と「忘却」を書けば誰も答え合わせができないからだ。取材ゼロ。コート・ダジュールにも行っていない。あの断崖のホテルはストリートビューと、近所のスーパーの鮮魚コーナーの照明から合成された。潮の匂いの描写は全部サバの記憶である。

    作中にコンテストの審査員が出てくるのは、落選通知を溜め込んだ人間が最後に行き着く復讐の形だからだ。選ばれないなら、選ぶ側を書けばいい。神になれないなら神を書け。これを業界では「こじらせ」と呼び、私は「方法論」と呼んでいる。

    主人公が記憶を失っていく展開については、執筆中の私が自分のプロットを忘れ続けたことに起因する。第三稿あたりで「この登場人物は誰?」と本気で思った瞬間があり、その恐怖をそのまま主人公に転嫁した。作者の管理能力の欠如を主題に昇華する。これが純文学のテクニックである。真似しないでほしい。主に私の同業者に。

    執筆経費はカモミールティー代のみ。作中で主人公が飲んでいるのは、あれは取材ではなく在庫処分である。確定申告の欄に「文学」と書いたら税理士に消された。

    最後にもう一度だけ本当のことを書く。私はこの曲が、本当に、どうしようもなく好きだった。夏の終わりに一人で聴いていると、自分が犯してもいない過ちまで懺悔したくなる。その「犯してもいない罪の感触」を100枚かけて捏造したのが本作である。

    つまりこの小説は、嘘の制作秘話で包んだ、本物の愛の話だ。

     
     
    夜になってもあそびつづけろ