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正しさの居場所|『 サシミとワサビ 』

海は、その名を持たない世界があった。

そこには地図が存在していないし…
国境もない。

だから、目的地を示す言葉が無かった。
ただ…どこまでも続く海が広がる。

船乗りのサシミは、その海を愛していた。

朝日が昇る瞬間や夕日が沈む瞬間。
そして、風が吹き始める瞬間と雨が落ちる数秒前の匂い。

サシミが好きなのは、完成した景色ではなく…変化の狭間だった。

船の舳先に立ち、サシミは空を見上げる。

「なぁ、ワサビ」

「はい」

「海って、面白いよな」

航海士のワサビは海図を閉じた。もっとも、その海図には何も描かれていない。

白紙だった。

「何がです?」

「何がって…お前さ…」

サシミは笑いながら、ボサボサの頭をボリボリ掻いた。

「波が変わる瞬間だよ」

ワサビは頷き、「はいはい」と言った。
彼は、そんなこと昔から知っていた。

サシミは島を探しているようで、島には興味がない。港を探しているようで、港には興味がない。

彼が見ているのは、島が現れる瞬間だったし、港へ辿り着く瞬間だった。

だからサシミは、不思議な癖を持っていた。

他の船員が宝を見れば、きっと声をあげて言うに違いない。

「すごい宝だ!」

しかし、サシミは違う。

「その宝、何から出来てるんだろう?」

他の船員が立派な灯台を見れば「立派な灯台だ」と言う。

しかし、サシミは違う。

「その灯台を建てた理由は何だろう?」

そして灯台を建てた理由を聞けば、今度は…

「その理由は何を守っているんだろう?」

さらに…

「その守りたいものは何処から来たんだろう?」

そんなサシミの答えに、ウンザリさせられる日が多い。

だけど、ワサビは頷きなが聞き流し続けた。
気付けば灯台の話は消え…人の話になり、人の話も消え…風の話になり、最後には言葉にならない場所へ辿り着く。

最初の頃、ワサビはちゃんと答えたし、真剣に聞いていた。彼の答えに憤り、滾々と説教したこともあった。……結局、変わらなかったけど。

だから…いつからか忘れたが、彼の話をワサビは聞き流すようになっていた。

ただ、ワサビが感じるのは…
サシミは港へ入ろうとしているのではない。港に荷下ろしされるもの。そこで乗り降りする人の流れを見ている……そんな男だった。

ある日のこと……。

サシミは甲板へ寝転び、ボサボサの顎髭をボリボリ掻ながら言った。

「なぁ、ワサビ」

「はい」

「俺、宝石が好きなんだ」

「そうですか」

「でも宝石そのものじゃない」

ワサビは溜息をつく。
また始まったと思った。

「光が変わる瞬間が好きなんだ」

サシミは空へ手を伸ばした。

「同じ石なのにさ…
 角度が変わるだけで別の色になる」

「はいはい」

「俺、あれが好きなんだ」

海風が吹いて帆が揺れる。
そして、船体が小さく軋む音が聞こえる。

ワサビは、なるべくその音や風の感覚に集中する。何故なら、サシミの言葉を聞いてるよりマシだから…。

そんなワサビの心境を気にする様子もなく、サシミは続けた。

「人間も似てると思うんだよ。
 人間そのものじゃなくてーー」

「はいはい」

「何かに触れて変わる瞬間さ」

ワサビは雑巾を手に取り、テーブルを拭き始めた。埃は無いが、潮風で運ばれた塩が、雑巾を白く染める。

次に椅子を拭きながら、尚も話続けるサシミに対してワサビは心の中で呟く。

(サシミは昔からそうだ。
 誰かの答えに興味はない。
 答えが生まれる瞬間に興味がある。
 その上、誰かの価値観に興味はない。
 悪趣味なことに…
 価値観が揺れる瞬間に興味がある。
 だから、誰かの意見に興味はない。
 一方的に話続けて、自分のなかで何か
 満足を得られる瞬間まで話続ける…)

ワサビから深い溜息が漏れる。
しかし、そんな様子にお構いなくサシミは相変わらずボサボサの髭を掻きながら話続ける。

「俺さ、意味とか価値を溶かしたいんだよ」

ワサビは、手にした雑巾をサシミの口へ突っみたい衝動に駆られた。

しかし、それをグッと飲み込むようにして…代わりに…ゆっくり言葉を紡ぐ。

「危険な発言ですね」

「だろ?」

「だいぶ危険です」

「でも壊したいんじゃない」

サシミは少しだけ真面目な顔になった。

「見たいんだ」

「何をです?」

「何から出来てるか」

ワサビは今すぐ部屋を出て、甲板で新鮮な空気を肺いっぱい吸い込み………大声で叫びたい衝動に駆られる。

サシミの話を聞いてるだけで……イライラする。

「でもな」

「……はい」

「溶かしすぎると煙になる」

この意味不明な彼の話が、いつ終わるのか?それより先に、ワサビ自身の我慢の限界に到達するのが先なのか…。

握り締める雑巾から、堅く絞って無いハズの水滴が……床へ滴る。

しかし…尚もサシミは続ける。

「だからさ…一番好きなのは煙じゃないんだ」

「……」

「溶けてる途中なんだ」

その時、水平線の向こうで太陽が沈み始めた光が…部屋へ射し込む。

その光に気付いたサシミは、話すのを止め立ち上がった。そして、その景色を見ながら、嬉しそうに呟いた。

「うわぁ……」

その横顔は、まるで宝物を見つけた子供だった。

「美しいですか?」

少し、怒気をはらんだ声でワサビが尋ねる。サシミは真面目な顔で答えた。

「いや、美しいんじゃない。
 今、美しくなってる」

ワサビは、サシミに背を向け…急ぎ足で部屋を出た。そして、甲板へ出ると大きく息を吸った。

「意味わかんねぇーーよ!!
 お前と次の港で別れてやるからな!!」

叫んだワサビは、足元にある木箱を思いっきり蹴飛ばした。

「……、っっってぇぇぇーー!!」

木箱は、予想より頑丈で重かった。ワサビに残ったのは、激しい痛みだけだった。


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