正しさの居場所|『 鍵のない檻 』
『残高 11,420円』
スマホに表示された残高は、胸を締め付ける
同時に…鈍痛が、妙なリズムで胃に響く。
マフラーから吐き出される白濁した排気ガス。それがアスファルトを湿らせていく。
「くそっ!」
空缶を蹴飛ばそうとするが、見事に空振る。
よろけた拍子に、足首に痛みが走った。
バタン。
軽自動の扉を荒く閉める。
ステアリングに額を押し当てたまま、
スマートフォンのバックライトが消えるのを
待っていた。
車内には、微かに生温い湿気……
飲み干したコーヒーの空缶から漏れる匂いが充満している。
「OFF」になったままのエアコン。
アイドリングの振動が、シートを通じて
直接背骨を揺さぶる。
家賃と光熱費……。
この鉄の塊を動かすためのガソリン代…。
「クソっ!!」
再び、言葉が漏れる。
スマホには、タイムラインが次々と流れる。
見知らぬ誰かが切り取った「エモい休日」の
短い映像。
ブルーライトが瞳を白く照らし出す。
「……あいつ
またコンマゼロイチ、外したな」
工場の二階、油の匂いが染み付いた作業着の袖口を凝視しながら、舌を打った。
顕微鏡のレンズ越しに見える、直径数ミリの
金属歯車。
そのエッジに刻まれた、肉眼では決して
捉えられない微細な歪み。
それは製品の機能としては何の影響もない、
ただの確率の範疇の「誤差」だった。
だが、手は止まらない。
無言でその部品を弾き、廃棄箱へと
放り込んだ。
「百パーセント」
その言葉が、乾いた唇から零れ落ちる。
それは誰に向けたものでもない。
そうやって自らの身体を針の上に
置き続けなければ……
自分が毎月受け取る二十三万円の重みが、
ただの「買い叩かれた対価」に変貌して
しまうからだ。
完璧という名の檻が存在するなら…。
その鍵をかけるのは誰だろう?
ラインを見下ろすプレハブの窓から、
吐き出された煙が、ゆっくり浮かぶ。
デスクの上には、銀行からの融資返済の
催促状と、従業員たちの名簿が並んでいる。
喉は、液体の侵入を拒み…
胃は、その作業を放棄している。
「止まったら……終わりだ」
誰に言い聞かせるでもなく呟く。
ヒーローは存在しない。
ただ、歪な椅子の座り心地を手放した瞬間、
檻から放たれた存在は、次の檻を求め彷徨う。
しかし…
次の檻は見つからないかもしれない。
だからこそ、
この檻は維持しなければならない。
底寒い全能感だけが…
『使命』という名を借りて繋ぎ止めていた。
港区のタワーマンションの二十七階。
遮光カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、
液晶ペンタブレットを走らせていた。
軽自動車の中でエアコンを消して耐えている
動画。
そこにエモーショナルなピアノの音を重ね、
コントラストを極限まで引き上げる。
「これ、めっちゃ伸びるわ」
小さな呟き。
そして、炭酸水を口に含んだ。
画面の向こうの飢餓感は…
ただの良質な「画素(ピクセル)」だった。
再生数が回るたび、口座の数値が変わる。
大衆の生活の縮図を、最も安全な特等席から
切り刻む作業は、退屈な夜を潰すには最高の
玩具だった。
だが、午前三時。
スマートフォンに、クライアントからの
容赦のない修正指示が届く。
「世界観が合わない!
明朝までに全替えでよろしく!」
指が止まる。
暗い画面に反射した顔を見る。
クマの浮き出た執拗な疲労。
大きく息を吐き、無意識にSNSの検索欄に
「地方 移住 癒やし」と打ち込んでいた。
流れてきたのは、瀬戸内の穏やかな海と
郷土料理の映像。
「……いいな。
ここは時間がゆっくり流れていて」
呟いた指は、動画に「いいね」を押す。
消費していたはずの「地方の哀愁」に、
今度は削られた精神が……
吸い寄せられるようにして同化していく。
駅前のロータリー。
ハザードランプの点滅に合わせて、
ダッシュボードの上のスマートフォンが
震えるのを見た。
通知に表示されたのは…
東京で話題の、有名クリエイターが今しがた
アップロードした、あの「エモいルーティン」の動画だった。
その動画を開き…
無表情のままスクロールする。
次のギアを顕微鏡にセットし、
灰皿に三本目の煙草を揉み消す。
東京では…
再びタイムラインの海へ潜っていく。
誰も笑っていない。
誰も…この劇を外側から観てはいない。
ただ、互いの輪郭が…
スマホのガラス越しに、じっとりとした
冷たい水のように混ざり合っていくだけ
だった。
エンジンのアイドリング音だけが、
変わらずに夜明けの街へと溶けていく……。
