正しさの居場所| 『 誰にも教えられない道 』
小さな村に、一つの立て札が立っていた。
そこには、こう書かれていた。
『汲み取って届けて下さい』
ニキタは、その立て札の前で何度もその文字を読み返した。意味は、分からなかった。
「行けばいいのよ」
後ろからアンビカが言う。
「どこへ?」
「さぁ」
アンビカは肩をすくめた。
「決まってないもの」
ニキタは立て札を見上げた。
「じゃあ、どうすればいいの?」
アンビカは少し考えて笑う。
「ちゃんと教えたら…もう遊べないでしょ?」
ニキタは首を傾げた。
アンビカは歩き始める。
「私は汲みに行く」
少し歩いて振り返る。
「ニキタは?」
風が立て札を揺らした。
ニキタは立ったまま、立て札を見て。それからアンビカの背中を見て……もう一度、立て札を見た。
「……」
数時間後、アテも無く藪を進むニキタの姿があった。
藪の葉が、肩や腕に静かに触れる。
道らしい道はなかった。
もちろん、踏み固められた土もないから人が歩いた跡も見えない。
それでもニキタは、立ち止まらなかった。
「……汲み取るって、何を?」
誰に聞くでもなく呟く。もちろん、誰からも返事はない。風だけが、葉を揺らしていた。
少し歩くと、小さな沢が現れた。
透明な水が、石の間をゆっくり流れている。
ニキタはしゃがみ込み、両手で水をすくった。冷たい感覚に思わず声が漏れた。
そから、飲もうとして…ふと止まる。
「……これを届けるのかな?」
そう思った瞬間、水は指の隙間から零れ落ちていった。届ける前に…消えてしまった。
ニキタはしばらく自分の手を見つめる。
「違うのか……」
また歩き始めると、沢沿いに小さな白い花が咲いているのが目にはいる。
もちろん、花の名前は知らない。けれど、不思議と誰かを待っているようにも見えた。
もう少し進むと、一人の老人が切り株へ腰掛けていた。
帽子を深く被り、何もせず…流れる沢を見ている。
「こんにちは」
ニキタが声を掛けると、老人は穏やかに頷いた。
「何か探しているのかい?」
「はい」
「何を?」
ニキタは答えようとして…言葉が見つからない。
「……たぶん、汲み取るものです。」
老人は笑わなかったし、驚きもしなかった。ただ、静かに答えた。
「そうか」
それだけ言って…また沢を見る。
しばらく…
水の流れる音だけが聞こえた。
ニキタは少し居心地の悪さを感じながらも、その隣へ腰を下ろした。
……。
………。
…………。
どれくらい時間が経っただろう。
静寂を破ったのは老人のひと言だった。
「水は、自分では自分を飲めない。」
「え?」
「だから流れる」
ニキタは意味が分からず…老人を見つめたまま次の言葉を待った。しかし…老人は続けない。また静かに沢を見ている。
しばらく、老人の言葉を持つように、その横顔を見つめていたが…やがてニキタも同じ方向を見た。
流れは止まらない。同じ水に見えても、さっき触れた水はもうどこにもない。
ふと、アンビカの言葉が浮かぶ。
『ちゃんと教えたら……
もう遊べないでしょ?』
その時、ニキタは少しだけ分かった気がした。いや……「分かった」のではない。
何かを分かったことにしてしまうと、この沢はただの沢になってしまう。
立て札も、ただの言葉になってしまう。
だから今は、それでいいと思った。
ニキタは立ち上がって、老人へ頭を下げた。
「ありがとうございます。」
老人は頷くだけだった。
ニキタはまた藪の中へ歩き始める。
何を汲み取るのか。
誰へ届けるのか。
まだ何一つ決まっていない。
それでも、不思議と最初より足取りは軽かった。
木々を揺らす風が心地よく感じられる。
どこか遠くで…
小さく誰かが笑ったような気がした。
ニキタは振り返った。
立て札はもう見えない。
それでも……
『汲み取って届けて下さい』
その文字だけは、なぜか少し近くなった気がした。
