
『君の隣で生きると決めた』
あらすじ
戦乱の世、そして大戦の炎。時代は違えど、ある小高い「丘」で惹かれ合い、その度に引き裂かれてきた二つの魂があった――。
西暦2026年。かつての丘に建つ美しい結婚式場で、心を閉ざして生きる青年・蓮と、親の支配に怯える美咲がいた。初対面のはずなのに、蓮の右肩にある奇妙な痣が熱く疼き、美咲は理由も分からず涙を流す。 決して抗えない引力で惹かれ合う二人だったが、またしても「見えない壁」が彼らを引き裂こうと動き出す。
なぜ二人は惹かれ合うのか? 魂の奥底に刻まれた痛みの正体とは? 数百年の時を超えて繰り返される悲劇のループに立ち向かう二人が、約束の丘で辿り着く結末とは――。
【第一章:戦国時代編(前半)】
天正の世、尾張の国。
見下ろせば果てしなく広がるはずの美しい濃尾の野山は、絶え間なく上がる戦火の煙によって黒く濁り、空は常に鉛色に沈んでいた。
風が運んでくるのは、土の匂いではなく、鉄の錆びたような血の悪臭と、焦げた肉の匂い、そして行き場を失った民たちの怨嗟の呻きだけだった。
地鳴りのように響く法螺貝と鉄砲の轟音は、この時代に生きる者たちの心から、安らぎという概念をとうの昔に奪い去っていた。
名もなき足軽である烈(れつ)は、泥と血にまみれた泥濘の中を、ただひたすらに這いずっていた。
彼に大義や野心などない。あるのは、明日の朝日を拝みたいという、生物としての原始的な生存本能だけだった。
昨夜半から始まった夜襲により、烈の所属していた部隊は壊滅した。暗闇の中で味方同士が殺し合うほどの阿鼻叫喚の中、烈は背後から迫った騎馬武者の凶刃を避けたものの、太い矢を右肩の付け根に深々と受けた。
肉を裂き、骨を砕くような灼熱の激痛が走った。
矢柄をへし折り、吹き出す血を汚れた布で縛り上げたが、出血は止まらない。意識が遠のく中、追手の足音から逃れるように、烈は道なき獣道をよろめきながら登り続けた。
行き着いた先は、戦場を見下ろす小高い丘の頂だった。
不思議な場所だった。下界の地獄絵図が嘘のように、そこだけは静寂が支配していた。
鬱蒼とした木々に守られたその空間には、いつの時代のものとも知れない朽ち果てた小さな祠があり、その周囲だけがぽつんと切り取られた別天地のように穏やかな風が吹いていた。
烈は祠の陰に倒れ込み、ついに限界を迎えた。薄れゆく意識の中で、自分もまたこの名もなき丘の土に還るのだと、諦めとともに目を閉じた。
――頬に落ちる、冷たく心地よい水滴の感触。
そして、鼻腔をくすぐる青々とした薬草の匂いで、烈は目を覚ました。
視界がぼやける中、自分の右肩に何かが当てられ、丁寧に布で巻かれているのが分かった。痛みが嘘のように引いている。
「動いてはなりませぬ」
鈴を転がすような、しかし凛とした声だった。
視線を向けると、粗末な麻の着物をまとった若い娘が、烈の傷口にすりつぶした薬草を塗り込んでいるところだった。
彼女の名は小夜(さよ)といった。
戦火で家族と村を失い、この丘の近くの隠れ里で薬草を摘みながら、一人でひっそりと生き延びてきた娘だった。
敵か味方か。
殺されるかもしれないという恐怖よりも、烈は小夜のその透き通るような黒い瞳に釘付けになった。泥にまみれた世界の中で、彼女だけが唯一の清らかなものに見えたのだ。
「なぜ、助けた……俺は、戦から逃げた落武者だぞ」
かすれる声で問う烈に、小夜は静かに首を振った。
「ここでは、武士も農民も関係ありませぬ。ただ、傷ついた命があった。それだけのことです」
その言葉と、傷口に触れる彼女の手の驚くほどの温かさに、烈の中で張り詰めていた何かが、音を立てて崩れ落ちた。
幼い頃から戦場に駆り出され、人を殺め、人に殺されかけてきた凄惨な記憶が、彼女の温もりによって少しずつ溶かされていくようだった。
それから、二人の奇妙で、そして夢のように穏やかな日々が始まった。
烈の右肩の傷は深く、二度と槍や刀を満足に振るえないほどの後遺症を残したが、それは烈にとってむしろ救いであった。
二人は、丘の上の朽ちた祠を直して風雨をしのぐ小屋を作り、ともに暮らし始めた。
夫婦の契りを交わしたわけではない。しかし、そこには言葉や儀式など必要のない、魂の底から結びつくような絶対的な安堵があった。
春には雪解け水をくみ、小さな畑を耕した。烈は人を殺すための武器を捨て、土を耕すための鍬を持った。小夜は森で山菜を採り、二人は囲炉裏の火を囲んでささやかな食事を分け合った。
夏には、丘を吹き抜ける涼風に当たりながら、遠くに見える山々の稜線を二人でただ見つめた。 秋には、実ったわずかな粟や稗を収穫し、冬の訪れに備えて寄り添って眠った。
「烈様、右肩は痛みませんか」
冷え込む夜、小夜は決まって烈の右肩に残った、黒く焦げたような大きな傷跡を優しく撫でた。
「お前の手が触れているときは、不思議と痛みを忘れる」
烈は小夜の細い手を握り返し、その手のひらの温もりに唇を落とした。
「いつか、戦が終わったら、ずっとこの丘で、二人で生きていこう。誰の指図も受けず、ただお前と一緒に笑い合うためだけに、俺は生きる。お前がいれば、俺は他に何もいらない」
「ええ……。どこへも行かず、ずっと、ここで。私が、あなたの帰る場所になります」
小夜は烈の胸に顔をうずめ、幸福に満ちた涙をこぼした。
戦火の煙が遠のき、世界には自分たち二人しかいないのではないか。
そんな錯覚に陥るほど、二人の時間は完璧に満たされていた。
彼らは互いの存在によって、過去のあらゆる恐怖と孤独から解放されていたのだ。
しかし、戦国の魔物は、決して彼らを逃がしてはくれなかった。
木々が葉を落とし始めた晩秋のある日。
遠くの空に上がっていた忌まわしい黒煙が、風に乗り、丘の麓へと急速に近づいてきていることに、二人はまだ気づいていなかった…
【第一章:戦国時代編(後半)】
その日、異変は空の色から始まった。
つい先刻まで澄み渡っていた秋の空が、突如として西の方角から不気味な濁った茜色に染まり始めたのだ。
それは日の入りを告げる穏やかな夕焼けではない。麓の村々を容赦なく焼き尽くす、赤黒く渦巻く紅蓮の炎の色だった。
冬を越すための薪を拾い集め、額の汗を拭っていた烈は、風に乗って微かに届く音にふと手を止めた。
遠く離れているはずなのに、地を這うように響いてくる人々の悲鳴、馬の嘶き、そして乾いた金属の打ち合う音。
さらに、鼻腔を突く焦げた肉と血の匂いに気づき、烈の顔はさっと蒼白にこわばった。
終わったはずの戦火が、這い寄る毒蛇のように、ついにこの平和な丘のすぐ下まで迫っていたのだ。
「小夜、逃げるぞ! 荷物はいい、とにかく奥の山へ――」
烈は腕に抱えていた薪をその場に放り出し、血相を変えて小屋へと駆け戻った。囲炉裏の灰をいじっていた小夜の手を強く引き、裏口から深い森へと逃れようとした、まさにその瞬間だった。
バキバキと太い枝を踏み折る無骨な足音が響き、獣道を蹴立てて、数人の野武士たちが丘の上に雪崩れ込んできたのだ。
彼らもまた、戦から逃げ延びた敗走兵だった。泥と返り血にまみれ、鎧はひしゃげ、極度の飢えと疲労によってその目は獣のように血走っている。
食糧や金目のもの、あるいは慰み者となる女を求めて山をさまよっていた残党の濁った瞳が、手作りの小さな小屋と、そして烈の背後に庇われた小夜の姿をはっきりと捉えた。
「おい見ろ、女だ! 隠れ小屋があるってこたァ、米や酒もあるかもしれねぇぞ!」
野武士の一人が、黄色い歯を剥き出しにして下品な咆哮を上げる。男たちは喉の奥で獣のような笑い声を漏らしながら、赤黒く錆びついた刃を振りかざし、獲物に群がる餓狼のように一斉に襲いかかってきた。
「小夜、俺の背から絶対に離れるな!」
烈はとっさに足元に落ちていた太い薪を拾い上げ、両手で強く握りしめた。先頭を切って飛び込んできた男の横薙ぎの太刀を間一髪で躱し、渾身の力を込めて男の右腕を薪で打ち据える。
鈍い骨の折れる音とともに男が体勢を崩し、苦悶の声を上げたその絶望的な隙を、烈は見逃さなかった。
宙に舞った男の刀を空中で奪い取り、返す刀で二人目の凶刃を鋭く弾き返す。火花が散り、金属の冷たい重みが烈の手のひらに伝わった。
かつて地獄のような戦場で培い、そしてこの丘で捨てたはずの足軽としての身のこなしが、愛する者を守るという強烈な本能によって無意識のうちに蘇っていた。
烈の目には、かつての虚無はない。小夜の命に指一本触れさせないという、鬼気迫るほどの執念だけが燃え上がっていた。
だが、三人の屈強な男たちを同時に相手に立ち回ろうと踏み込んだその時だった。
烈の右肩の奥深くで、突然、焼け火箸をねじ込まれたかのような、凄まじい激痛が走った。以前の合戦で受け、小夜の看病によって表面上は癒えていた矢傷の重い後遺症だ。
限界を超えた激しい動きと極度の緊張に筋肉と神経が耐えきれず、烈の右腕の感覚が、肩から指先にかけて完全に消失してしまったのだ。
動かない。
烈の脳がどれほど命令を下しても、腕は鉛のように垂れ下がり、強く握りしめていたはずの刀が、無情にもポロリと手からすっぽ抜け、乾いた土の上にこぼれ落ちた。
「もらったァ!!」
その絶望的で致命的な隙を、歴戦の野武士が見逃すはずもなかった。
下卑た笑い声と鈍い破砕音とともに、三人目の男が繰り出した槍の薄汚れた穂先が、烈の無防備な脇腹を深く、深く貫いた。
熱い血が噴き出し、烈の口から声にならない激痛の空気が漏れる。
「烈様っ!!」
自らの身の危険も顧みず、悲鳴を上げて烈の元へ駆け寄ろうとした小夜の華奢な背中にも、背後から無慈悲で冷酷な刃が力任せに振り下ろされた。
赤い飛沫が夕闇の迫る空に舞い散る。
二人は血しぶきを上げながら、かつて「いつまでもここで共に生きよう」と永遠の愛を誓い合ったこの丘の土に、折り重なるようにして無惨に倒れ込んだ。
男たちは、血溜まりの中で倒れている二人にはもはや見向きもしなかった。荒々しい足取りで小屋の中へ踏み込むと、二人が冬を越すために少しずつ、大切に貯めていたわずかな粟や干し肉などの蓄えを根こそぎ奪い取った。
そして、虫ケラを踏み潰した後のように、嘲笑いながら山を下って去っていった。
彼らの足音が完全に遠ざかり、静寂が戻った丘には、再び風が吹き抜け始めた。
しかし、それは先程まで二人を優しく包み込んでいた穏やかな秋風ではなく、血と死の匂いを孕んだ、肌を刺すような冷たい木枯らしだった。
烈は、口から赤黒い血の泡を吐き出しながら、霞む視界の中で必死に小夜の姿を探した。数寸先で、小夜が土に顔を押し付けるようにして倒れている。烈は、動かない右腕を引きずり、泥と己の血にまみれた左手を、地を這うようにして必死に伸ばした。
「さ…よ…」
小夜もまた、背中から深い致命傷を負い、その美しい顔から急速に血の気が失せていた。
しかし彼女は、烈の手が伸びてくるのに気づくと、残された最後の命の灯火を激しく燃やすように、わずかに身をよじり、烈の泥だらけの手を両手でしっかりと、強く握り返した。
その手は、冷たい土の上にあっても、二人が初めて出会ったあの夜と同じように、驚くほど温かく、そして優しかった。
「すま、ない……小夜……俺は、結局……お前を……守れ、なかった……」
自分の不甲斐なさに対する絶望と、小夜の未来を奪ってしまった深い後悔に歪む烈の顔を、小夜は涙で霞む目で見つめ返した。
そして、痛みをこらえるように小さく、しかし本当に優しく首を振った。
「いいえ……。謝らないで、烈様。私は……あなたとこの丘で過ごせた、この短い日々だけで……本当に、本当に幸せでした……。ひとりぼっちだった私に、あなたは……生きる意味を、人を愛する喜びを、与えてくださった……」
小夜の瞳から溢れた涙が、土のついた烈の指先を温かく濡らした。
二人の呼吸が、少しずつ、しかし確実に浅く、短くなっていく。傷口から流れ出る血とともに、体温が奪われ、周囲の世界が急速に暗く、冷たくなっていくのがわかった。
烈は、薄れゆく意識の底で、残されたすべての魂を振り絞るように、内なる叫びを上げた。
喉が血にまみれ、もはや声としては形にならなかったが、その強烈で純粋な想いは、繋いだ手を通して間違いなく小夜の魂の奥深くにまで届いていた。
「……生まれ変わっても。時代が変わり、どんなに姿や形が変わっても。俺は必ず、お前を見つけ出す。そして次こそは……誰にも邪魔されない世界で、絶対に…幸せにしてみせる……」
「ええ……。ええ、烈様。生まれ変わっても……私も必ず、あなたを見つけます。何度でも、何度でも……あなたを愛します……」
最期の微笑みを交わし、強く、強く握りしめ合っていた二人の手から、ふっと、同時に力が抜けた。
夕闇に完全に包まれ、冷たい静寂が支配する中、丘の頂にある朽ちた時の社だけが、二人の最期を静かに、ただ静かに見下ろしていた。
二人の身体から流れ出た温かい血は、やがて一つに混ざり合い、この丘の土の深き奥底へと、何百年も消えることのない永遠の記憶の種として、静かに染み込んでいった。
【第二章:昭和大戦編(前半)】
時代は流れ、世界は大きなうねりの中にあった。昭和十四年(一九三九年)。
かつて血と泥にまみれ、名もなき足軽と村娘が命を散らした戦国の丘は、近代化の波によってすっかり姿を変えていた。木々は綺麗に刈り込まれ、煉瓦造りの花壇や、洋風のガス灯が並ぶ、美しい見晴らしの公園として整備されていた。
眼下に広がるのは、もはや戦火の荒野ではなく、市電が走り、洋館や工場が立ち並ぶ活気ある近代都市である。
秋の柔らかな日差しが降り注ぐ中、公園の一番見晴らしの良い場所に置かれたベンチで、一組の男女が静かに肩を寄せ合っていた。
青年の名は、時生(ときお)。大学で文学を専攻し、翻訳の仕事で生計を立てる物静かな知識人だった。彼の右肩の付け根には、生まれつき、古い火傷の痕のような、赤黒く不思議な形の痣があった。
その彼の肩に頭を乗せているのが、カフェの女給として働きながらタイピストの学校に通うモダン・ガールの、沙織(さおり)だった。
二人は、籍を入れてはいなかった。
時生の生家は格式を重んじる旧家であり、身寄りのない沙織との結婚には強い反対があったのだ。
それでも二人は親の援助を断ち、見晴らしの良いこの丘の麓にある小さな文化住宅で、ひっそりと同棲生活を始めていた。
「時生さん。今日は風が気持ちいいわね。ここから見る街の景色、私、本当に好き」
沙織は、時生の右肩にある痣のあたりにそっと触れながら微笑んだ。彼女はなぜか、この痣に触れるたびに、言葉にできない深い安堵と、胸を締め付けられるような懐かしさを感じるのだった。
まるで、遠い昔からこの温もりを知っているかのように。
「ああ。この公園に来ると、不思議と心が落ち着くんだ。街の喧騒から切り離されて、世界に僕たち二人しかいないような気がする」
時生は、沙織の肩を抱き寄せた。
二人の生活は決して裕福ではなかったが、精神的にはどこまでも豊かだった。朝は二人でコーヒーを淹れ、時生が翻訳した外国の詩を沙織がタイプライターで打ち直す。
休日の午後には、決まってこの丘の公園に散歩に訪れ、他愛のない未来の話をした。
ある晴れた午後、ベンチで時生が持ち込んだ古い洋書を読んでいるとき、沙織が不意に尋ねた。
「時生さん、もし明日世界が終わるとしたら、何がしたい?」
時生はページをめくる指を止め、少し考えてから静かに答えた。
「君の淹れたコーヒーを飲んで、君の隣で眠る。それだけでいい。それ以上の願いなんて、僕にはないよ」
沙織はいたずらっぽく笑ったが、その瞳には時生と同じ、この穏やかな時間がいつまでも続いてほしいという切実な願いが宿っていた。
大きな結婚式など挙げられなくてもいい。ただ、この穏やかな時間がいつまでも続いてくれれば、それだけで十分だった。
しかし、彼らのささやかな幸福の裏側で、時代は確実に黒い影を落とし始めていた。
時生が広げた新聞の紙面には、「欧州大戦勃発」の文字が躍り、国内でも国家総動員法の影が人々の生活をじわじわと締め付け始めていた。
カフェのレコードから流れるジャズの旋律は軍歌へと変わり、街を歩く人々の服から鮮やかな色が消え、カーキ色に染まりつつある。
特に、徴兵の影は身近なところまで忍び寄っていた。
隣家の若者が戦地に赴く際、近所総出で見送った日のことを、二人は忘れられない。
紙吹雪の中、強制的に笑わされているような若者の表情と、それを押し殺した表情で見送る母親たち。あの光景を目にしてから、時生は鏡を見るたびに自分の顔色を確かめるようになった。
「……僕たちの国も、遠からず引き返せないところへ行くかもしれない」 時生は、眼下の街を覆い始めた鉛色の雲を見つめながら、ぽつりとこぼした。彼の横顔には、知識人ゆえの深い絶望が滲んでいた。
「自由な言葉も、美しい文学も、すべてが戦争という怪物に飲み込まれていく。僕のような人間は、これからの時代、君を守ってやれる自信がないんだ……」
その声の微かな震えに気づいた沙織は、時生の少し冷えた両手を、自分の両手でしっかりと包み込んだ。
「何があっても、私はあなたから離れません」
沙織の瞳は、真っ直ぐに時生を捉えていた。
「どんな時代が来ても、私たちはここで、一緒に生きていくのよ。この丘の空気が、きっと私たちを守ってくれるわ。だから、そんな悲しいこと、言わないで」
その夜、二人は小さな部屋で、来るべき見えない恐怖を振り払うように、互いを強く求め合い、抱きしめ合った。
窓の外では灯火管制の訓練か、遠くで笛の音が響いている。時生は沙織の温もりの中に、自分の生きる唯一の理由を見出していた。
彼女の髪に指を通し、その柔らかな呼吸を確認するたびに、時生は激しい焦燥感を覚える。
もし、自分が徴兵され、この部屋が空になったら、彼女はどうなるのか。この丘に一人残された彼女は、誰に守られるのか。
そんな考えが頭をよぎるたびに、時生は沙織を抱く腕に力を込めた。
沙織もまた、時生が何かを恐れていることを察知してか、彼の胸に爪を立てるほど強く抱き返した。
言葉にはしなくても、二人は暗闇の中で、今この瞬間が人生の最後の輝きかもしれないという予感を共有していたのだ。
そして、その予感は残酷な現実となって訪れた。 郵便受けに突き刺さっていたのは、薄い一枚の、しかし人生を決定づける重さを持った紙だった。 運命の歯車は、もはや戻ることのできないほど鋭利な刃となって、二人の静かな日常を切り裂こうとしていた。
二人の元に、一枚の「赤い紙」が届けられるのは、そのわずか数日後のことであった。
【第二章:昭和大戦編(後半)】
その薄っぺらい、しかし鉛のように重い「赤紙(召集令状)」が、粗末な文化住宅の郵便受けに突き刺さっていた日。
二人が懸命に守り抜いてきた、ささやかで完璧だった世界は、無情な音を立てて崩れ去った。 時生は区役所で兵役検査を受けたものの、軍医の首を傾げさせる不思議な事態が起きた。
あの右肩の大きな、赤黒い痣がある部分の筋肉と神経だけが極端に弱く、重い三八式歩兵銃をまともに構えることすらできなかったのだ。原因不明の異常として、時生は最前線への出兵こそ免れた。
しかし、それは決して救いではなかった。代わりに彼に与えられたのは、軍需工場での夜を徹した過酷な重労働と、空襲に備える郷土防衛の任務だった。
それからの日々は、二人の生活から文字通り「色」と「音」が失われていく、緩やかで絶望的な過程だった。
沙織が愛してやまなかったカフェの蓄音機からは、軽快なジャズのレコードが消え失せ、代わりに勇ましく、しかしどこか空虚な軍歌ばかりが一日中流れるようになった。
街ゆく人々の服装から華やかな色彩は消え去り、女性たちは皆、一様にカーキ色のモンペ姿を強いられた。
夜になれば、街を彩っていたネオンやガス灯の明かりは完全に消され、敵機の目を逃れるための、息が詰まるような不気味な灯火管制の闇が世界を支配した。
時生の白く細かった指先は、今や真っ黒な泥と機械油に深く染まり、ひび割れ、かつて外国の美しい詩集のページをめくっていた面影はどこにもなかった。
沙織もまた、華やかなタイピストになるという夢を完全に絶たれ、女子挺身隊として軍服を縫う薄暗い縫製工場で、毎日指から血を流しながらミシンを踏み続ける日々を送っていた。
配給の食糧は日に日に細り、すすり泣くような空腹を抱えながら、それでも二人は夜になると、冷え切った小さな部屋で身を寄せ合った。
互いの痩せた身体から伝わる微かな体温だけを頼りに、暗闇の中で、来るはずのない「戦争が終わったあとの未来」を語り合った。
「いつか、この戦争が終わって平和になったら。もう一度あの丘の公園へ行って、一日中、本を読んで過ごそう。太陽の光を浴びて、誰の目も気にせずに」
時生は、沙織の荒れた手を労るように撫でながら囁いた。
「ええ。その時は、私が一番お気に入りの、あの水色のワンピースを着ていくわ。時生さんは、一番好きな詩を私に読んでね」
暗闇の中で微笑み合う二人。
しかし、それは互いの心をどうにか繋ぎ止めるための、叶うことのない、ただの哀しい慰めの言葉に過ぎないと、二人の魂の底では気づいていた。
そして、運命の昭和二十年(一九四五年)。
あの日もまた、すべては空の色から始まった。
深夜、冬の冷たい空気を切り裂くように鳴り響いた、空襲警報の不気味で甲高いサイレン。それに呼応するように、遠くの空から地鳴りのような重低音が響いてきた。
空を黒々と覆い尽くす、B29爆撃機の大編隊だった。上空から雨あられと無数に降り注いだ焼夷弾は、木と紙で作られた脆弱な日本の都市を、瞬く間に阿鼻叫喚の紅蓮の火の海へと変えた。
猛烈な熱風が吹き荒れ、逃げ惑う人々の絶叫が炎の音にかき消されていく。 時生は、燃え盛る工場の屋根から這い出し、狂気のように業火の街を走っていた。
沙織の働く縫製工場のある区画が、真っ先に爆撃の標的になったと聞いたからだ。
熱気で肺が焼け焦げそうになりながら、時生は炎を避け、瓦礫を乗り越え、ひたすらに愛する人の名を叫び続けた。
「沙織! 沙織!! どこにいる!!」
黒煙に巻かれ、喉から血の味がした。
その時、崩れ落ちた建物の炎の中から、防空頭巾を被り、顔を煤と涙で泥だらけにした沙織が、よろめきながら飛び出してくるのが見えた。
「時生さんっ!」 「沙織!!」
二人は火の粉が狂ったように舞い散る道の中央で、互いの生存を確かめ合うように、骨が軋むほど強く抱き合った。
生きていた。
火の海の中で、奇跡的に再会できた。今はそれだけで十分だった。
「逃げるんだ! あの丘へ! あそこなら、公園の木々と土が延焼を防いでくれるかもしれない!」
時生は沙織の手を強く引き、かつて二人が何度も愛を語り合い、未来を夢見た、あの小高い丘の公園を目指して走り出した。
だが、数百年前の戦国の世と同じように、この狂った世界は、純粋に愛し合う彼らにとってあまりにも残酷だった。
息を乱し、炎をくぐり抜け、丘の中腹まで辿り着いた。かつて古い祠があったという、あの見晴らしの良い場所まであと少しというところだった。
突然、空気を切り裂くような鋭い風切り音が二人の頭上に迫り――
直後、耳をつんざくような凄まじい爆音とともに、至近距離に大型の爆弾が直撃した。
大地が火山のように爆発し、強烈な爆風と熱波が、二人をまるで紙切れのように軽々と、暗い宙へと吹き飛ばした。
――キーンという、脳髄を直接突き刺すような鋭い耳鳴りの中で、時生は微かな意識を取り戻した。
周囲は真っ赤な炎と分厚い黒煙に包まれ、深夜であるにもかかわらず、皮肉にも昼間のように明るかった。
時生は身体を動かそうとしたが、下半身は完全に感覚がなく、吹き飛んだ公園の巨大なレンガ塀の瓦礫の下敷きになっていた。
そして何より、右肩が焼け焦げたように激しく痛み、右腕が全く、ピクリとも動かなかったのだ。
(また、この右腕が動かないのか……)
戦国の世で槍を受けた記憶など、今の時生の脳には存在しない。
しかし、絶望的なまでの「既視感」が、時生の魂を容赦なく打ち据えた。
「またしても、肝心な時にこの腕は使い物にならないのか」という、理不尽な運命への激しい怒りと無力感がこみ上げる。
「さ、おり……! 返事をしてくれ……!」
口から夥しい血を吐きながら、時生は必死に視線を巡らせた。
すると、自分の数メートル先の瓦礫の向こう側で、沙織が倒れているのが見えた。
彼女の細い背中にも、鋭く重い瓦礫が深く突き刺さっており、周囲の土は黒黒とした血の海に変わっていた。
もはや助からないことは、素人の時生の目から見ても一目でわかった。
「……時生、さん……」
沙織が、微かに目を開け、炎に赤く照らされた時生を静かに見つめた。
その瞳には、恐怖ではなく、最期に愛する人の顔を見られたことへの、深い安堵が浮かんでいた。
激しい痛みと、身体を焼くような熱気の中、時生は這うようにして、泥にまみれた左手を必死に伸ばした。
神経が千切れ、全く動かない右腕を、左手と顎を使って無理やり引きずるようにして、沙織までのわずか数寸の距離を埋めようと必死に指を伸ばす。
沙織もまた、残された最後の命の力を振り絞り、血に染まった手を時生へと向けてゆっくりと伸ばした。
二人の震える指先が、熱く焼けた瓦礫の上でついに触れ合い、そして互いの存在を確かめ合うように、しっかりと結びついた。
その瞬間だった。 なぜだろうか。
二人の脳裏には、現在の燃え盛る炎の景色とは全く違う、別の時代の風景が、一瞬だけ鮮烈にフラッシュバックしたのだ。
どこかの見知らぬ山奥で、木枯らしが吹き荒れる中、冷たい泥土の上に血まみれになって倒れている自分たちの姿。
(ああ……まただ。また、僕は君を守れなかった。こんなにも君を愛しているのに)
時生は、絶望と悔しさで声にならない嗚咽を漏らした。
(いいえ……。あなたと出会えて、私は、本当に幸せだった……)
沙織の思いが、言葉ではなく、強く握りしめた手を通じて、直接時生の魂の奥底に流れ込んでくるようだった。
業火が、すぐそこまで二人に迫っていた。周囲の酸素が奪われ、意識が急速に白く濁っていく。
時生は、握りしめた沙織の手に、自分の残されたすべての命の熱を注ぎ込むように、血に染まった唇を震わせて誓った。
「生まれ変わったら……次こそは、絶対に、平和な世界で……君を……幸せに……」
「ええ……。何度でも……どんな世界でも……あなたを、見つけます……」
直後、凄まじい轟音とともに、燃え盛っていた丘の上の大樹が、炎に包まれながら二人の上へと崩れ落ちた。
真っ赤に染まった夜空の下、しっかりと繋がれていた二人の手からふっと力が抜け、その命はまたしても、無情な時代の波に飲み込まれ、この丘の土へと還っていった。
炎の粉が舞う夜空から、やがてパラパラと降り注ぎ始めた真っ白な灰が、まるで季節外れの雪のように、動かなくなった二人を静かに、そしてこの世の悲劇をすべて覆い隠すように優しく包み込んでいった…..
【第三章:現代・孤独編(前半)】
時代はさらに下り、西暦二〇二六年。初夏の風が青葉を揺らす季節。
かつて戦国の世に無数の血を吸い、大戦の業火に焼かれたあの丘は、完全にその姿を変えていた。
戦後の焼け野原からの復興、そして幾度かの再開発を経て美しく整地されたその丘の頂上には、現在、街を360度見渡せる緑豊かなガーデンと、全面ガラス張りの美しい独立型ウェディングチャペル(結婚式場)が建てられていた。
見下ろせば、かつて市電が走っていた街並みは、無機質なコンクリートとガラスのビル群へと姿を変えている。
空と大地を繋ぐような神聖な丘の上のその場所には、休日のたびに平和と愛を讃える祝福の鐘の音が鳴り響き、純白のドレスに身を包んだ恋人たちが永遠の誓いを交わしていた。
物質的に極めて豊かで、誰もが手のひらのスマートフォンを持ち、地球の裏側の人々とすら瞬時に繋がれる時代。
しかし、その過剰な情報と利便性の底で、人々はかつてないほどの透明で冷たい「孤独」を抱えて生きていた。
画面越しの希薄な繋がりに安堵する一方で、魂の底から触れ合える存在を見失っている現代社会。
青年、蓮(れん)もまた、そんな現代の深い孤独の底で息を潜めて生きる一人だった。
蓮は物心つく前に、不慮の交通事故で両親を同時に亡くした。
雨の夜の凄惨な事故だったという。幼かった蓮の記憶に両親の温かい顔はない。
ただ、ひしゃげた鉄の塊と、周囲を包む不気味な熱、そして「自分だけが生き残ってしまった」という得体の知れない喪失感だけが、泥のように心の底に沈殿している。
それ以来、身寄りを持たない彼は、親戚の家をたらい回しにされながら育った。「うちにも余裕がないのに」「あの事故で生き残った子だなんて、縁起が悪い」。
ふすま越しに聞こえる大人たちの刺々しいひそひそ話。
どこへ行っても「余計な荷物」として冷遇され、常に他人の顔色を窺い、息を殺して過ごした子供時代。
彼はやがて、これ以上自分が傷つかないための強固な防壁として、心を完全に閉ざし、誰にも頼らない一匹狼として生きる術を身につけた。
「誰かに期待するから、裏切られた時に傷つくんだ。最初から一人なら、失うものは何もない」
それが、蓮の生きるための絶対的なルールだった。
現在はフリーランスのシステムエンジニアとして、都内の無機質なマンションの一室で、冷たい複数台のモニターの光だけを相手に、感情を殺して仕事に没頭する日々を送っている。
無数のコードの羅列は、人間と違って決して嘘をつかず、裏切らない。キーボードを叩く乾いた音と、味気ないコンビニ弁当だけが、彼の世界を構成するすべてだった。
そんな蓮の右肩には、両親を亡くしたあの交通事故で負った、不気味なほど赤黒い痣があった。
医師からは単なる火傷や裂傷の痕だと説明されたが、その形はまるで、古い時代に受けた深い矢傷のようでもあり、あるいは何かに焼かれた生々しい刻印のようでもあった。
なぜか時折、天気が崩れる前や、夕暮れ時に街を見下ろしたとき、その痣が内側から燃えるように熱を持ち、激しく疼くことがある。
鎮痛剤も効かないその痛みは、まるで、失われた自分の半身を必死に探して泣き叫んでいるかのように、蓮の胸を締め付けるのだった。
一方、蓮のマンションから遠く離れたあの丘の上。
美しく飾られたチャペルで、レセプションスタッフとして働く美咲(みさき)もまた、美しい制服の下にボロボロの心を隠し、別の地獄の中で息を潜めていた。
美咲は、裕福だが極端に支配的な「毒親」の元で育った。立派な門構えの家は、彼女にとって冷たい牢獄だった。
母親にとって、美咲は一人の人間ではなく、自分の見栄と虚栄心を満たすための「完璧な着せ替え人形」に過ぎなかった。
進学する学校から交友関係、休日に着る服、果ては発言の一言一句に至るまで全てを厳密に監視された。
少しでも意に沿わないことや失敗があれば、「誰のおかげで生きていられると思っているの」「あなたなんて、私がいないと何もできない無能な子なんだから」と、存在そのものや人格を徹底的に否定されるような、ヒステリックな罵倒を何時間も浴びせられ続けた。
逃げ場のない密室での長年にわたる陰湿な心理的虐待は、美咲の心から「自己肯定感」という生きるための根を完全に腐らせていた。
呪縛から逃れるように家を出て、ようやく一人暮らしを始めた今でも、ふとした瞬間に鏡の中の自分と目が合うだけで、母親の冷たく軽蔑するような声が脳裏に響き渡る。
その度に心臓が早鐘のように打ち、息ができなくなる過呼吸の発作に襲われ、部屋の隅でうずくまる夜が何度もあった。
愛とは、相手を完全に支配し、服従させ、思い通りにならない時は残酷に傷つけるものだ。
そう脳の髄まで刷り込まれて育った彼女にとって、他人の純粋な幸福と無償の愛を祝う結婚式場での仕事は、本来ならば眩しすぎて正視できない、苦痛でしかないはずだった。
しかし、美咲はどうしてもこの丘の上の職場から離れることができなかった。
この丘の頂にある、見晴らしの良いガラス張りの空間に立っているときだけは、なぜか長年のトラウマによる心の波立ちが嘘のように凪いだように静まり、言いようのない安心感に包まれるからだ。
誰もいない早朝のチャペル。祭壇の前に立ち、見上げるほどの高いガラス窓から差し込む朝の光を全身に浴びていると、ふと、誰かの大きくて温かい手が、自分の頭を優しく撫でてくれているような不思議な錯覚に陥ることがある。
「ここは安全だ。誰も君を傷つけない」。
耳の奥で、風の音に混じってそんな幻聴すら聞こえるような気がした。
「本当の愛なんて、この世界のどこにあるんだろう……。もしあるのなら、どうして私はこんなにも苦しいの……」
誰もいない静まり返ったチャペルの祭壇を見つめながら、美咲はぽつりと呟いた。
週末になり、幸せの絶頂で微笑み合う新郎新婦や参列者の笑顔を見るたびに、彼らと自分との間には決して越えられない透明な壁があることを痛感し、自分の心の空洞がより暗く、深く、冷たく感じられた。
蓮と美咲。二人は、豊かで便利で、残酷なほどに孤独な現代社会に迷い込んだ迷子だった。
物理的な戦火に焼かれることも、身分の違いに引き裂かれることもないこの平和な時代で。
彼らの魂は、本当の「愛」と「居場所」を知らないという現代の重い病によって、氷のように冷え切り、ゆっくりと、しかし確実に死に向かっていた….
【第三章:現代・孤独編(後半)】
その日は眩しいほどに晴れ渡った午後だった。
抜けるような青空からは、暴力的なまでの強い日差しが降り注いでいるというのに、この丘を吹き抜ける風だけは、不思議なほどに涼やかで優しかった。
蓮は、丘の上のウェディング施設の音響システムのメンテナンスを依頼され、重い機材の入った黒いバッグを肩にかけて、緑に囲まれた石畳のアプローチをゆっくりと歩いていた。
普段であれば、こうした結婚式場という「他人の幸福の絶頂」を象徴するような空間での仕事は、蓮にとって決して居心地の良いものではない。
過剰なまでの笑顔、祝福の言葉、そして愛という不確かなものを信じ切っている人々の熱気。
それらはすべて、幼い頃から孤独を強いられ、愛着というものを切り捨てて生きてきた蓮の冷え切った心には、眩しすぎて毒のようにすら感じられるからだ。
しかし、今日に限っては、その足取りは奇妙なほど軽かった。この丘に近づくにつれ、なぜか胸の奥底に沈殿していた泥のような重苦しさが薄れ、代わりに、遠い昔に置き忘れてきた大切なものを探しに行くような、奇妙な高揚感が生まれていた。
緑のアーチをくぐり、重厚な造りの扉を抜け、冷房の効いたチャペルの広々としたロビーへと向かう。
吹き抜けの天井から吊るされたシャンデリアが、初夏の光を反射してプリズムのように輝いている。
そして、壁一面に設けられた見晴らしの良い巨大なガラス窓の向こうには、平和な大都会のパノラマが、まるで精巧なジオラマのように眼下に広がっていた。
――その景色を見た瞬間だった。 「……っ!」 不意に、蓮は立ち止まり、少し痛む右肩を強い力で押さえた。
いつもは天気が崩れる前などに鈍く疼く程度の痣が、今日はまるで、焼けた鉄の杭を静かに打ち込まれたかのように、芯から熱を放って脈打ったのだ。
だが、それは単なる肉体的な痛みというよりも、魂の深い部分が激しく共鳴して立てる「軋み」のようだった。息が詰まり、動悸が激しくなる。
怪我をしたわけでも、過度な運動をしたわけでもない。
ただこの場所の空気を吸い、この景色を見ただけで、身体の奥底に眠っていた「何か」が、堰を切ったように目覚めようとしていた。
同じ頃、ロビーの反対側にある大理石の受付カウンターで、週末の式のパンフレットを整理していた美咲も、全く身に覚えのない強烈な違和感に襲われていた。
トクン、トクンと、心臓が早鐘のように鳴っている。指先が微かに震え、並べていた紙の束がズレていく。
母親からの理不尽な着信があった時や、過去のトラウマを呼び起こすような幻聴に襲われるときの、あの胃が捻り潰されるような冷たい恐怖とはどこか違う。
もっと根本的で、生命の根源に直接触れてくるような感覚。魂そのものを激しく揺さぶられるような、巨大な波が迫ってくる予感。
怖いのではない。むしろ、ずっと長い間、暗い海の中で待ち焦がれていた「迎えの船」の灯りを見つけたような、言いようのない切実な引力だった。美咲は、息を呑んで顔を上げた。
蓮が、痛む右肩を押さえたまま、ロビーの自動ドアのセンサーを抜ける。 ウィーンという微かな機械音とともに、透明なガラス戸が開いた。
美咲が、整理していたパンフレットの束から顔を上げる。
その瞬間――世界から、すべての音が消え去った。
館内に流れていたはずの優雅なクラシックのBGMも、遠くで談笑するスタッフたちの声も、空調の微かな稼働音さえも、二人の鼓膜には一切届かなくなった。
真空の世界に投げ出されたかのような絶対的な静寂の中で、ただ互いの存在だけが、鮮烈な色彩と輪郭を持って浮かび上がっていた。
蓮の右肩の痣が、今までで一番強く、ドクンと大きく跳ねた。それはまるで、長きにわたる沈黙を破り、ついに主の帰還を歓喜して告げる鐘の音のようでもあった。
美咲の両手から、力が抜け落ちた。
抱えていた分厚いパンフレットの束が、床に向かってこぼれ落ちる。
バサバサと乾いた音を立てて、何十枚もの紙が純白の大理石の上に無惨に散らばっていく。
しかし、美咲はそれを拾おうとするそぶりすら見せず、ただ呆然と立ち尽くしていた。
蓮もまた、その場に目に見えない太い杭で縫い付けられたように、一歩も動けなくなっていた。
二人の距離は、およそ十メートル。広々としたロビーの中では、決して近い距離ではない。
本来であれば、業者とスタッフとして、無機質な挨拶を交わすか、あるいは目を合わせることもなくすれ違うだけの関係性だ。
しかし、蓮の鋭く、これまで何者も寄せ付けまいと凍りついていた孤独な瞳が美咲を捉え、美咲の、常に何かに怯えながらも、
心の底で無条件の愛を渇望していた瞳が蓮を映し出した時、二人の間で時空が歪んだ。
(なぜ、こんなにも懐かしいんだろう)
蓮の胸の奥から、理由のない感情がマグマのように湧き上がってくる。
目の前に立っているのは、間違いなく見ず知らずの女性だ。
自分の脳の記憶領域のどこを探しても、彼女のデータなど存在しない。しかし、彼女の少しおびえたような瞳、細い肩の線、その佇まいのすべてが、蓮の「魂」に強烈な郷愁を呼び起こしていた。
(なぜ、この人を見ると、こんなに泣きたくなるんだろう)
美咲の瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。自分でも信じられなかった。悲しいわけではない。嬉しいというのとも違う。
ただ、この冷たく孤独な世界で、何百年もの間たった一人で暗闇を彷徨い続け、ついに「安全な自分の居場所」を見つけたような、安堵感が彼女を包み込んでいた。
母親から植え付けられた「自分は愛されない」という呪いが、この瞬間だけは、完全に消えていた。
それは、言葉や理屈を超え…まるで強力な引力に引かれるように、あるいは、元々一つだった魂の片割れが、本来の形に戻ろうと強烈に磁力を発しているかのように。
二人は、互いの瞳から一瞬たりとも視線を外すことができないまま、無意識のうちに、ゆっくりと歩み寄り始めていた。
一歩、また一歩。蓮の足音と、美咲の足音が、静寂のロビーに重なる。
何を話しかければいいのかわからない。自分の身に何が起きているのか、論理的に処理することなど到底不可能だった。
しかし、視線を逸らすことだけは、絶対にできなかった。
もしここで目を逸らしてしまえば、この奇跡のようなつながりが途切れ、再びあの耐え難い絶対的な孤独の闇へと引き戻されてしまう。
それだけは避けなければならないと、二人の本能が叫んでいた。
やがて、二人は互いに手を伸ばせば触れ合うほどの至近距離で立ち止まった。
息が詰まるような沈黙。しかし、その沈黙は決して気まずいものではなく、むしろ雄弁に互いの魂の形を確かめ合う神聖な儀式のようだった。
「あの……」 干からびた喉から、絞り出すように、蓮がようやく口を開く。声は微かに震えていた。
「手伝いますよ」
それは、あまりにもありふれた、日常の些細な一言だった。
しかし、その声を聞いた瞬間、美咲の身体を、電撃のような懐かしさが貫いた。
あの声だ。
私がずっと無意識の底で探し求めていたのは、この低く、優しく、不器用な声だったのだ。
蓮はゆっくりとしゃがみ込み、美咲が足元に落としたパンフレットの束を一つ一つ拾い集め始めた。
美咲もハッとして我に返り、彼の手からパンフレットを受け取ろうとして、同じように大理石の床にしゃがみ込んだ。
二人の手が、散らばった紙の上で交差する。
そして、二人の指先が、ほんの少しだけ触れ合う。
――その瞬間。
蓮の右肩で激しく脈打っていた痛みを伴う熱が、嘘のようにスッと引き、代わりに、これまで生きてきて一度も感じたことのない、深く静かな安堵の波が、指先の触れ合った場所から全身へと満ちていった。
それは美咲も同じだった。
母親の呪縛に縛られ、常に氷のように冷え切っていた彼女の指先に、蓮の体温が流れ込み、凍てついた心を内側から優しく溶かしていくのを感じていた。
現代という、豊かでありながら果てしなく乾いた砂漠の中で。
何百年もの時を超え、無数の傷を負いながら彷徨い続けてきた二つの孤独な魂が、ついに互いという唯一のオアシスを見つけ出し、静かに寄り添うように、ただ指先を重ね合わせていた。
ほんの一瞬、まばたきの間だった…..
【第四章:再生・破壊編】
ロビーでの運命的な出会いから、二人が結ばれるまでに、それほどの時間は必要なかった。
劇的な告白や、計算し尽くされた駆け引きなど、彼らには無縁だった。ただ、休日のたびにどちらからともなく連絡を取り合い、並んで歩き、食事をし、他愛のない言葉を交わす。
それだけで、彼らの世界は変わっていった。
二人の恋は、燃え上がるような熱い炎というよりも、長く凍てついていた氷の塊を、静かに内側から溶かしていく春の陽だまりのようなものだった。
ある夜、蓮の小さなアパートで、二人は初めて互いの深い傷を打ち明け合った。
「俺は、ずっと一人が当たり前だと思って生きてきた。誰かを信じて、もし裏切られたり、失ったりしたら、その反動で自分が完全に壊れてしまうのが怖かったんだ」
蓮がぽつりとこぼした言葉に、美咲は静かに耳を傾けていた。
蓮は、美咲の膝に頭を乗せ、自分の右肩にある赤い痣を無意識にさすっていた。
美咲はその蓮の手に自分の手を重ね、あの痣にそっと触れた。
「不思議ね。この痣に触れていると、私はなぜか、安全な場所に守られているような気がするの」
美咲の指先から伝わる温もりに、蓮の強張っていた全身の力が抜けていく。 「私も……ずっと怖かった」
美咲は、震える声で自身の凄惨な生い立ちを語り始めた。
母親の過干渉、人格を否定され続けた日々。自分には愛される価値がないという呪詛が、いかに彼女の心を縛り付けてきたか。
誰にも言えなかった苦しみを打ち明けた。
話し終えると、美咲の目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
蓮は起き上がり、泣きじゃくる美咲を、壊れ物を扱うようにそっと、しかし力強く抱きしめた。
「君は、誰の所有物でもない。君が君として生きているだけで、俺にとってはこれ以上ない救いなんだ。……俺が、君の居場所になる。もう絶対に、誰にも君を傷つけさせない」
その言葉は、美咲の心に深く刺さっていた毒の棘を、根本から引き抜いていく力を持っていた。
互いの欠落を埋め合わせるように、二人は深く求め合った。
この平和な現代において、彼らを引き裂こうとするものは何もない。彼らが戦わなければならなかったのは、自分自身の内側にある「孤独」と「トラウマ」という敵だけだった。
二人の恋は、まるで磁石が引き合うような必然だった。
しかし、二人が結ばれることを拒む「現代の障壁」は、物理的な戦火ではなく、もっと陰湿で逃げ場のないものだった。
美咲の母親による執拗な「支配と隔離」ーー
美咲が蓮と交際していることを知った母親は、美咲がようやく手に入れた平穏を、引き裂こうと動き出した。
母親は美咲のスマートフォンを勝手に操作して蓮との連絡を遮断し、「あんな男と付き合うなら、あんたの人生を終わらせる」と、美咲が過去に負った心の傷を執拗に抉り、再発させようと脅迫した。
美咲の職場である式場にまで母親は現れ、蓮を「身分が低い」「美咲にふさわしくない」と蔑み、美咲の同僚の前で蓮を罵倒し、彼を式場の出入り禁止に追い込み、金で雇った男たちに蓮を襲わせ、二度と近づくなと脅迫した。
蓮は、美咲との連絡手段も会う場所も奪われてしまった。
それでも美咲の実家を探し出し何度も出向き、その度に男たちにボコボコにされた。
自分の無力さに涙も枯れた。
美咲は、再び深い暗闇の中に突き落とされた。
母親の管理下で、再び「何も考えない人形」に戻るよう強要される日々。
表情が消え、心が死んでいくのがわかった。
しかし、美咲の胸の奥では、蓮と過ごしたあの短い時間の温もりが、決して消えることのない残り火として燃え続けていた。
蓮の痣に触れたときに感じた、あの安心感。
あれが自分の人生で初めて知った「愛」なのだと、彼女は悟った。
美咲は、初めて母親に対して「自分の言葉」で立ち向かった。
「お母さんが支配したいのは、私じゃない…あなたの理想の分身でしょう!私は、もう誰のものでもない。私は、あの人の所へ行く」
それは、過去の人生で小夜が、そして沙織が、最後まで叶えられなかった「愛する人と共に生き抜く」という決意だった。
美咲は家を飛び出し、何も持たずに、あの丘の上のチャペルへと走り出した。
閉館間際の夕暮れ、チャペルの扉を美咲が開け放った。
そこには、疲れ果て、それでも美咲を待ち続けていた蓮の姿があった。
二人は言葉もなく抱きしめ合いました。母親という強大な壁を、美咲が自らの足で乗り越えたこと。そして蓮が、彼女を信じて想い待ち続けたこと。
その事実は、二人の絆を、過去のどの時代よりも強固なものに変えていました。
出会いから二年が経った春の終わり。 かつて烈が小夜とささやかな畑を耕し、時生が沙織と未来を語り合ったあの見晴らしの良い場所で、蓮は美咲にプロポーズをした。
「結婚しよう。どんなに時代が変わっても、俺の隣には、君しか考えられない」
論理的で感情の起伏が少ないはずの蓮の目には、涙が光っていた。美咲もまた、泣き笑いのような顔で、何度も何度も頷いた。
【結章:約束の場所】
見渡す限りの青空が広がる、秋の晴天の日。
あの丘の頂上にそびえ立つ、全面ガラス張りのウェディングチャペル。
祭壇へと続く白いバージンロードを、純白のウェディングドレスに身を包んだ美咲がゆっくりと歩いてくる。その一歩一歩が、毒親からの完全な自立と、新しい人生への確かな足音だった。
祭壇の前で待つタキシード姿の蓮が、美咲の手を優しく取り、自分の方へと引き寄せる。
参列者たちの温かい拍手、美しいパイプオルガンの音色。カメラのフラッシュが、幸福の絶頂にある二人を照らし出している。
鐘が鳴り、神父が誓いの言葉を述べようとした、まさにその瞬間だった。
ふっと、周囲のすべての音が、完全な無音へと吸い込まれた。
拍手も、オルガンの旋律も、参列者たちの気配さえも消え去り、世界には蓮と美咲の二人だけが取り残された。
ガラス越しに差し込む陽光が、一瞬、燃え盛る戦国の夕暮れの赤に染まった。
空調の微かな風の音が、遠い昔、激しい空襲の夜に聞いた木枯らしの音と重なった。
(……やっと、会えたね。)
脳内の記憶ではない。論理でもない。
ただ、二人の「魂」が、数百年という途方もない時間を経て、この場所に辿り着いたことを感じていた。
(ああ、そうか)
蓮は、美咲の潤んだ瞳を見つめながら、すべてを悟った。
自分たちが、これまでどれほどの血と涙を流し、この丘で理不尽に命を奪われてきたか。それでも、相手を想う心だけはどうしても消し去ることができず、何度も何度も輪廻の輪を回して、泥を這うようにして、今、ここで向かい合っている。
(また、あなたと)
美咲もまた、蓮の瞳の奥に、永遠とも呼べる長い長い旅路の終わりを見ていた。
もう、戦火に追われることはない。
もう、理不尽に引き裂かれることもない。
私たちは今度こそ、共に白髪が生えるまで、平和な世界で命をまっとうすることができる。
気づけば、二人の目から大粒の涙が溢れ、頬を伝って落ちていた。 それは、過去のすべての痛みを浄化する、想いの雫だった。
世界が再び、眩しい光と温かな祝福の音に包まれ始める。
蓮と美咲は、互いの手を強く、決してもう二度と離さないと誓うように握りしめ合った。
そして、何百年もの間、死の淵で繰り返し誓い合い、ようやく叶えることができたその言葉を、二人は涙に濡れた笑顔で、全く同時に口にした。
「……ずっと、愛してる。」
時の社が見下ろす丘の上で、かつて悲劇に散った二つの魂は、永遠の愛という名の奇跡の果てに、完全なる一つとなった。
高く澄み切った青空に、新しい時代を祝福するウェディングベルの音が
いつまでも、いつまでも鳴り響いていた。