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『豊臣兄弟!』が描いた本能寺の変|「四国説」は本当に有力なのか?史料から探る光秀と四国の外交問題


1.はじめに

2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、日本史最大の謎ともいわれる「本能寺の変」が描かれました。

歴史の授業で本能寺の変を初めて学んだとき、多くの人が驚いたのではないでしょうか。天下統一を目前にした織田信長が、家臣である明智光秀によって討たれる。しかも、なぜ光秀がそこまでの決断に至ったのかは、今もはっきりしていません。

光秀は本能寺の変の後、羽柴秀吉との山崎の戦いに敗れました。後世では「主君を裏切った武将」「三日天下の明智光秀」という印象が強く残っています。

しかし、光秀はなぜ信長を討ったのでしょうか。

その動機を考えるうえで、近年注目されているのが、信長と長宗我部元親の間で起きた四国をめぐる外交問題です。

『豊臣兄弟!』でも、信長が元親との約束を覆したことで、両者の間を取り持っていた光秀が苦しい立場に置かれる様子が描かれました。

ただし、ドラマが描いたのは四国問題だけではありません。信長の甥・信澄の思いや、徳川家康の接待をめぐる事件など、複数の出来事が本能寺の変へとつながっていきます。

では、歴史研究で論じられている「四国説」は、本能寺の変をどこまで説明できるのでしょうか。

今回は『豊臣兄弟!』を入り口に、2014年に公表された石谷家文書や研究者の見解をたどりながら、四国説から分かることと、今も分からないことを見ていきます。


2.「謀反人」として知られる明智光秀

明智光秀といえば、まず「本能寺の変で主君・織田信長を討った人物」として知られています。

光秀の動機については、信長から受けた仕打ちへの恨み、天下への野望、政治的な対立など、さまざまな説が語られてきました。信長から侮辱されたことへの恨みが謀反につながった、という逸話もよく知られています。

しかし、本能寺の変の動機を直接記した光秀自身の史料が残っているわけではありません。後世に語られた逸話と、同時代の史料から確認できることは分けて考える必要があります。

一方、光秀が織田政権の中で重要な役割を担っていたことは確認できます。丹波攻略を任され、信長と他の大名との交渉にも関わっていました。

だからこそ、疑問が残ります。

なぜ、その光秀が信長を討ったのでしょうか。

その問いに対して、ドラマはどのような答えを描いてきたのでしょう。


3.『麒麟がくる』で変わった光秀の見え方

2020〜2021年に放送された大河ドラマ『麒麟がくる』では、明智光秀自身が主人公となりました。

そこでは、光秀が単純な「信長を裏切った男」としてではなく、信長に期待しながら、そのあり方に疑問を深めていく人物として描かれました。

私自身、学校の授業で初めて本能寺の変を知ったとき、明智光秀という人物には大きな衝撃を受けました。

主君を討った理由が十分に分からないまま、信長を討った人物として登場し、その後すぐ秀吉に敗れる。当時の私にとって、光秀は突然現れた「謎の裏切り者」のような存在でした。

だからこそ、『麒麟がくる』で、そこに至るまでの光秀が一人の人間として描かれたことには、何だかほっとしたのを覚えています。

そして『豊臣兄弟!』では、本能寺の変を考える材料の一つとして、信長と長宗我部元親をめぐる四国問題が大きく描かれました。

これはドラマだけの創作なのでしょうか。

実は、本能寺の変の直前まで、四国をめぐる交渉が続いていたことを示す史料が残っています。


4.『豊臣兄弟!』では本能寺の変はどう描かれたのか

『豊臣兄弟!』では、本能寺の変の直前に起きていた出来事の一つとして、信長と長宗我部元親をめぐる四国問題が描かれました。

第26回「信長を笑わせろ!」では、信長が元親との約束を覆したことで元親が激怒し、両者の間を取り持っていた光秀が苦しい立場に置かれます。

ここだけを見ると、四国問題が本能寺の変へ直結したようにも見えます。

しかし、続く第27回「本能寺の変」では、ほかの出来事も重ねて描かれます。

信長の甥・信澄が、信長への積年の思いを光秀に打ち明ける。そして、徳川家康の接待をめぐって事件が起こり、光秀と信長の関係も悪化していきます。

つまり『豊臣兄弟!』は、四国問題を本能寺の変直前の重要な出来事として描きながら、そこに複数のドラマ上の出来事を重ねて、光秀が謀反へ向かう過程を描いていました。

では、このうち四国問題については、どこまで史料から確認できるのでしょうか。

ここからはドラマをいったん離れて、「四国説」と呼ばれる研究上の仮説を見ていきます。


5.そもそも「四国説」とは何か

では、本能寺の変をめぐる「四国説」とは、どのような説なのでしょうか。

簡単にいえば、織田信長の四国政策の変更と、それによって生じた長宗我部元親との対立を、本能寺の変の背景として重視する説です。

光秀は、信長と元親をめぐる交渉に関わっていました。

ところが、信長の四国政策は変化していきます。元親との関係は悪化し、最終的には織田軍による四国への出兵まで計画されました。

この政治状況と、光秀による謀反との関係を考えるのが四国説です。

ただし、「四国説」といっても、その説明は一つではありません。

たとえば藤田達生氏は、本能寺の変を光秀個人の恨みだけで説明するのではなく、光秀・長宗我部側と、羽柴秀吉・三好康長側をめぐる織田政権内部の政治的対立という視点から論じています。

熊田千尋氏も、四国説を論じてきた先行研究と、2014年に公表された石谷家文書を組み合わせ、本能寺の変に至る政治状況を検討しています。

つまり四国説は、「元親との約束を破られて光秀が怒った」という単純な話ではありません。

信長の四国政策が変化するなかで、光秀と長宗我部氏を取り巻く政治状況がどう変わったのか。その変化が、本能寺の変とどのように関係したのかを考える研究上の仮説です。

ただし、四国をめぐる問題が本能寺の変の直前まで続いていたことは、史料から確認できます。しかし、それが光秀に謀反を決断させたことまで、史料に書かれているわけではありません。

では、実際に何が起きていたのでしょうか。

まずは、信長と長宗我部元親の関係がどのように変わっていったのかを見てみましょう。


6.信長と元親の関係に、何が起きたのか

では、信長と長宗我部元親の関係は、どのように変わっていったのでしょうか。

二人は、初めから敵対していたわけではありません。

1631年に成立した『元親記』には、信長が元親に対して「四国は切り取り次第」と認めたとする記述があります。元親が自力で獲得した四国の領地について、信長がその領有を認めたという意味です。

ただし、その根拠とされる朱印状そのものは現存していません。『元親記』も本能寺の変から約半世紀後に成立した史料なので、この記述をそのまま同時代の事実として扱うことはできません。

一方、信長と元親が一時期、友好的な関係にあったことを示す同時代の記録はあります。

天正8年(1580年)には、元親から信長へ砂糖などが贈られたことが『信長公記』に記されています。

ところが、その後、両者の関係は悪化していきます。

この時期、四国では長宗我部元親が勢力を広げる一方、阿波に関係を持つ三好康長も織田政権との結びつきを強めていました。信長の四国政策も、長宗我部氏との協調から、三好康長を利用する方向へと変化していきます。

そして1582年、信長は三男・織田信孝を総大将とする四国への軍事行動を準備します。

その渡海が予定されていたのが、本能寺の変が起きた天正10年6月2日でした。

つまり、本能寺の変の直前には、信長と元親の関係は、かつての友好的な関係から軍事衝突寸前にまで変化していたのです。

では、その直前、元親は何を考えていたのでしょうか。

それを知る重要な手がかりが、2014年に公表された「石谷家文書」です。


7.石谷家文書は何を明らかにしたのか

四国説を考えるうえで重要な史料の一つが、「石谷家文書」です。

2014年、林原美術館と岡山県立博物館は、共同研究を進めていた石谷家文書47点について、その内容を公表しました。

その中に、本能寺の変直前の長宗我部元親と織田政権との関係を知るうえで重要な書状があります。

天正10年(1582年)5月21日、元親から斎藤利三へ送られた書状です。

そこには、元親が信長の命令に従う意向を示していたことや、阿波の一宮・夷山城・畑山城などからすでに撤退していたことが記されています。

一方で、海部・大西の二城については「土佐国の門」にあたるとして、保持したいという希望を伝えていました。

この書状が重要なのは、本能寺の変直前まで、元親側と織田政権につながる人物との間で、四国の領有をめぐるやり取りが続いていたことを具体的に確認できる点です。

ただし、書状の宛先は斎藤利三であり、明智光秀ではありません。また、光秀が本能寺の変を決断した理由も書かれていません。

つまり石谷家文書から確認できるのは、「本能寺の変直前に四国問題が実際に存在していた」というところまでです。

「その問題が光秀を謀反へ向かわせたのか」は、史料そのものが答えてくれる問題ではありません。

ここから先が、研究者による解釈になります。

2020年、熊田千尋氏は、四国説を論じてきた先行研究と石谷家文書から判明した事実を結びつけ、本能寺の変に至る光秀の政治状況を検討しました。

参考資料
・林原美術館・岡山県立博物館「林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含む―」(2014年6月23日)
・林原美術館・岡山県立博物館「石谷家文書の研究成果と史料集の出版について」(2015年5月29日)


8.では、四国説はどこまで有力なのか?

ここまで見てくると、四国説が注目する四国問題には、本能寺の変直前の状況を具体的に示す史料があります。

では、「四国説は本能寺の変の有力な説なのか」という最初の問いには、どう答えればよいのでしょうか。

少なくとも、四国問題を本能寺の変の原因として重視する研究は存在します。

熊田千尋氏は2020年の論文で、四国説を本能寺の変の原因として論じてきた先行研究と、2014年に公表された石谷家文書から判明した事実を結びつけ、光秀が謀反に至る過程を検討しています。

また、藤田達生氏は、四国問題を光秀個人の感情だけではなく、織田政権内部の政治的な対立や、足利義昭の帰洛による室町幕府再興という構想とも結びつけて論じています。

このように、四国問題を本能寺の変の背景として重視する研究があることは確認できます。

そもそも、石谷家文書に残された元親の書状には、光秀が謀反を決断した理由は書かれていません。

分かるのは、本能寺の変直前まで四国をめぐる問題が続いていたこと。

分からないのは、それが光秀の決断にどれほど影響したのかということです。

つまり四国説は、本能寺の変直前の政治状況を史料から具体的にたどることのできる研究仮説の一つです。

ただし、現時点で「四国説が研究の主流である」「最も有力な説である」とまでは確認できませんでした。

参考論文
熊田千尋「本能寺の変の再検証―先行研究の成果と『石谷家文書』から判明した史実の結合―」『京都産業大学日本文化研究所紀要』第25号、2020年


9.史料の「四国説」と、ドラマの本能寺は同じではない

ここで、もう一度『豊臣兄弟!』に戻ってみましょう。

ドラマでは、信長と長宗我部元親をめぐる四国問題によって、光秀が苦しい立場に置かれる様子が描かれました。

ここまでは、実際の歴史にも背景があります。

本能寺の変の直前、信長と元親の関係が悪化し、織田軍による四国への出兵が準備されていたこと。そして元親から斎藤利三へ、信長の命令に従う意向などを伝える書状が送られていたことは、史料から確認できます。

しかし、ドラマはそこで終わりません。

『豊臣兄弟!』では、信長の甥・信澄が光秀に信長への積年の思いを打ち明けます。さらに徳川家康の接待をめぐる事件が起こり、光秀と信長の関係が悪化していきます。

脚本を担当した八津弘幸氏は、本能寺の変で重要な役割を担った信澄について、時代考証の担当者から「こういう人物がいます」と提案されたことがきっかけだったと明かしています。

つまり、ドラマで描かれた本能寺の変を、そのまま「現在の研究が示す本能寺の変」と受け取ることはできません。

史料から確認できる四国問題と、ドラマの中で描かれた光秀の決断。その間には、史実ではまだ分からない部分があります。

『豊臣兄弟!』では、史料だけでは分からない光秀の決断までを、ドラマとして描いたと見ることができそうです。


10.では、なぜ今も答えが出ないのか

ここまで四国説を見てきても、最後に一つの疑問が残ります。

これだけ研究が進んでいるのに、なぜ本能寺の変の動機は今も決着していないのでしょうか。

天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の軍勢が本能寺を襲撃し、織田信長がそこで死去したこと。その後、羽柴秀吉らの軍勢が山崎の戦いで光秀軍を破ったこと。事件の経過については、史料から分かることが数多くあります。

光秀自身が書いた書状も残っています。

それでも分からないのが、「なぜ信長を討つ決断をしたのか」です。

本能寺の変を起こす前の光秀が、自らその理由を明確に説明した決定的な史料は確認されていません。

だから研究者は、光秀や周囲の人物が残した書状、織田政権をめぐる政治状況、事件前後の記録などを組み合わせて、光秀の決断に至る背景を考えてきました。

四国説も、その一つです。

2014年に公表された石谷家文書によって、本能寺の変直前の四国をめぐる交渉は、以前より具体的に見えるようになりました。

それでもなお、史料から事件の背景をたどることと、光秀本人の決断を説明することの間には距離が残っています。


11.おわりに――四国説を調べてみて分かったこと

『豊臣兄弟!』を見ていると、信長の四国政策の変更によって追い詰められた光秀が、本能寺の変へ向かっていったように見えます。

実際に調べてみると、本能寺の変の直前まで、信長と長宗我部元親をめぐる四国問題が続いていたことは史料から確認できました。

2014年に公表された石谷家文書によって、事件直前の交渉も以前より具体的に見えるようになっています。

一方で、「だから光秀は信長を討った」と書かれた史料が見つかったわけではありません。

今回、私が一番意外だったのはそこでした。

ドラマを見たときには、四国説にはもっとはっきりした「答え」があるのだと思っていました。

けれど調べてみると、四国問題を本能寺の変の背景として重視する研究がある一方で、それだけで光秀の決断まで説明できるわけではありません。

四国説は、本能寺の変直前の政治状況を考える手がかりの一つ。
でも、その先にはまだ分からない部分が残っている。

『豊臣兄弟!』から史実をたどってみたことで、本能寺の変が今も研究され続けている理由が、少しだけ見えた気がしました。


📍『豊臣兄弟!』から気になった、もう一つのこと

『豊臣兄弟!』を見ていて、もう一つ気になった場面がありました。

千宗易(のちの千利休)が、割れた茶器を繕う場面です。

現在では「金継ぎ」として知られる修復は、利休の時代にも本当に行われていたのでしょうか。こちらもドラマを入口に、史料や資料をたどって調べました。

▼『豊臣兄弟!』で気になった金継ぎ ― 千利休は本当に割れた茶器を直していたのか?


🎧本能寺の変を、もう少し深く知りたい方へ

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本能寺の変について、もう少し知りたい方は、音声で聴いてみるのもよさそうです。

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月凪(つきなぎ) ありがとうございます!