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日本の変わり兜|なぜ武将は、こんなものを頭に載せたのか?


第1章 なぜ武将は、こんな兜をかぶったのか

戦国時代から江戸時代にかけて、動物や植物、器、山、人間の頭など、さまざまな形を取り入れた兜が作られました。こうした個性的な兜は、一般に「変わり兜」と呼ばれています。

兎の耳を付けたもの。富士山をかたどったもの。器をひっくり返したようなもの。中には、栄螺や手拭を思わせる兜まで残っています。

もちろん、兜は頭を守るための武具です。

それなのに、なぜここまで変わった形にしたのでしょうか。

単に目立ちたかったのか。それとも、それぞれの形に何か理由があったのでしょうか。

実際に残る兜を見ていくと、その答えは一つではありません。


第2章 戦場では「目立つ」ことにも意味があった

変わり兜を見ると、まず気になるのはその派手さです。

大きな立物たてものを付けたり、普通の兜とはまるで違う形にしたりすれば、当然目立ちます。現代の感覚では、「戦場でそんなに目立って大丈夫なの?」と思ってしまいます。

けれど、大勢の人間が入り乱れる戦場では、自分がどこにいるのか、どのように働いたのかを味方や主君に認識してもらう必要がありました。武将や有力な家臣にとって、遠くからでも分かる姿であることには意味があったのです。

❖銀大中刳半月脇立頭形兜 — 黒田一成

黒田長政に仕えた黒田一成の兜には、目立つことの危うさを感じさせる逸話が残っています。

福岡市博物館に残るこの兜には、銀色に輝く非常に大きな脇立わきだてが付いています。高さは1メートルを超え、戦場でもかなり目立ったことでしょう。

福岡市博物館には、この大きな脇立が遠くから旗指物のように見え、敵から狙われたという逸話が残されています。

味方から見つけてもらいやすいということは、敵からも見えるということです。変わり兜の派手さは、単なる飾りではありませんが、目立つことにはそれなりの危険も伴いました。

ただ、変わり兜が目立つためだけに作られたわけではありません。中には、武将たちの信仰との関わりが見えるものもあります。


第3章 祈りを頭に載せる

変わり兜が、目立つためだけのものではなかったことは、信仰との関係が確認できる作例を見るとよく分かります。

❖兎耳形兜

兎の耳を思わせる長い立物を付けた兜があります。

高知城歴史博物館では、兎について、大きな耳で情報を集め、素早く走る動物と考えられていたことや、後ろへ下がらないと捉えられていたことを紹介しています。さらに、兎は月とも結び付けられ、信仰的な意味を持つ存在でもありました。

ただし、兎耳形兜ならすべて同じ願いが込められていた、とまでは言えません。ここでは、高知城歴史博物館が紹介する兎の意味として見ておきます。

それでも、動物の姿や性質に特別な意味を見いだし、それを兜に取り入れる文化があったことは分かります。

❖長烏帽子形兜 — 加藤清正(伝)

信仰との結び付きが、さらに具体的な形で残るのが、加藤清正が使用したと伝わる長烏帽子形兜です。名前の通り、細長い烏帽子えぼしを思わせる形をしています。

徳川美術館の解説では、この兜には多数の紙が使われ、その紙には清正自身が「南無妙法蓮華経」と書いたと伝えられています。

信仰に関わる言葉が書かれた紙そのものが、兜を形づくる材料の一部になっているのです。

❖魅前立兜

福岡市博物館には、「魅前立兜」と呼ばれる兜も残っています。

前立は、「魅もののけ」の顔を表した箱状の造りで、その中にお守札を納めるようになっています。

なぜこの顔が選ばれたのかまでは分かっていません。しかし、お守札を兜に収める構造が実際に残っていることで、武具と信仰がどのように結び付いていたのかを具体的に見ることができます。

兜には、戦場で自分を目立たせるだけでなく、目に見えない力への願いも持ち込まれていました。


第4章 手柄まで兜になる

信仰だけでなく、戦場での働きや主君との関係が、兜の姿に残ることもありました。

❖桐山丹波守の兜

桐山丹波守の兜は、一目見ただけでもかなり情報量があります。

前には梵字ぼんじ、左右には蟹の爪を思わせる大きな脇立、さらに上には金色の瓢箪ひょうたんが載っています。

これだけ多くの意匠が付いていると、すべてに一つの意味があるように考えたくなりますね…。

福岡市博物館の解説では、金色の瓢箪について、桐山丹波守が戦場で手柄を立てたことで、豊臣秀吉から使用を許されたものとされています。

この瓢箪は、単なる飾りではなく、主君から認められた戦功と結び付くものでした。

一方で、左右に大きく張り出した蟹の爪については、意味を確認できる資料が見つかっていません。

一つの兜の中でも、意味が追える部分と、理由が分からない部分が同居しています。


第5章 兜を交換する武将たち

兜は、武将本人の信仰や戦功だけでなく、武将同士の関係まで伝えることがあります。

その代表的な例が、福島正則と黒田長政です。

❖銀箔押一ノ谷形兜 — 黒田長政

福岡市博物館に残る一ノ谷形兜は、桃山時代・16世紀の作とされています。

銀箔を施した大きな立物は、一ノ谷の険しい崖を表したものです。一ノ谷といえば、源平合戦で源義経の「鵯越ひよどりごえの逆落とし」が語られる場所として知られています。

ただし、兜が一ノ谷の崖を表していることまでは確認できても、黒田長政が義経の戦術まで意識していたのかは分かっていません。

❖大水牛脇立兜 — 黒田長政

もう一つ、黒田長政を代表する兜として知られるのが、大きな水牛の角を付けた大水牛脇立兜です。

左右へ大きく張り出した角は非常に重そうに見えますが、こうした大型の立物には紙や木などの比較的軽い素材が使われました。

そして、この二つの兜は、武将どうしの関係によって持ち主が変わります。

一ノ谷形兜は、もともと福島正則が愛用したものと伝えられています。一方、大水牛脇立兜は黒田長政の兜として知られます。

福岡市博物館では、正則と長政が「不仲の仲直りのあかし」として、互いの兜を交換したと紹介しています。

福島正則の一ノ谷形兜は黒田長政へ、黒田長政の大水牛脇立兜は福島正則へ渡りました。

関ヶ原の戦いでは、黒田長政が一ノ谷形兜を着用したと伝わっています。その後、黒田家ではこの兜が長政の戦功と結び付く重要なものとして扱われ、写しも作られていきました。

兜を見る手がかりは、形だけではありません。誰の手を通り、どの戦いで使われ、どのように受け継がれたのかも、その兜の歴史の一部です。


第6章 巨大な兜は、どうやって作った?

一ノ谷の崖や水牛の大きな角を見ると、形の意味とは別に、もう一つ疑問が出てきます。

これほど大きなものを、本当に頭に載せられたのでしょうか。

もちろん、巨大な部分をすべて厚い鉄で作っていたわけではありません。

変わり兜では、鉄だけでなく、紙や木、革、漆など、さまざまな材料が使われました。大きな立物や複雑な形を作るときには、重量を抑えながら、遠くからでも形が分かるよう工夫されています。

❖大水牛脇立兜 — 黒田長政

前章に登場した大水牛脇立兜も、その一例です。

大きく張り出した水牛の角には、紙や木などの軽い素材が使われています。

❖銀箔押一ノ谷形兜 — 黒田長政

一ノ谷形兜では、薄い檜板を曲げて大きな立物を作り、その表面に銀箔を施しています。

銀色に輝く大きな崖のような形も、鉄の塊ではありません。

こうした造形を可能にした技法の一つが「張懸はりかけ」です。紙や革などで形を作り、漆などで仕上げることで、金属だけでは作りにくい立体を比較的軽く作ることができました。

❖鯱形兜

東京富士美術館に残る鯱しゃち形兜からも、こうした技術を見ることができます。

口を開けた鯱の姿が、立体的に作られています。この兜について、なぜ鯱という形が選ばれたのかを示す資料は確認できません。

鯱のような複雑な形まで、実際に兜として作られています。こうした形を実際の武具にできたのは、紙や木、革、漆などを使いこなす甲冑師の技術があったからです。


第7章 戦が減っても、変わり兜は終わらなかった

戦国時代が終わり、江戸時代になると、大規模な戦は次第に少なくなります。

しかし、変わり兜まで姿を消したわけではありません。

甲冑には、戦場で使うこと以外にも、威儀を示したり、家の歴史を伝えたり、祖先の記憶を受け継いだりする役割がありました。

❖合子形兜 — 黒田如水(伝)

そのことがよく分かるのが、黒田家に伝わる合子ごうす形兜です。

合子とは、ふた付きの器のことです。黒田如水じょすいの兜として知られる合子形兜は、器を逆さにしたような独特な形をしています。

なぜこの形が選ばれたのかは、現在確認できる資料からは分かりません。

この兜には、その後の話があります。福岡市博物館の資料によると、福岡藩3代藩主・黒田光之は、貞享じょうきょう5年(1688)、曾祖父・黒田如水が用いたことで知られる合子形兜を再現させています。

如水の兜は、一代限りの奇抜な意匠として終わらず、「祖父が使った兜」として孫の時代にも作り直されました。

最初になぜ器の形が選ばれたのかが分からなくても、その後、誰の兜として記憶され、なぜ再現されたのかという別の歴史は残っています。

合子形兜の場合、江戸時代に作られた理由には、祖父・如水の記憶を受け継ぐことが関わっていました。


第8章 ところで、なぜその形に?

変わり兜の中には、史料や伝承から、形の背景をある程度まで追えるものがあります。ところが、形や意味の一部は分かっていても、なぜそれを選んだのかまでは分からない兜もあります。

❖白糸威富士山形兜

東京国立博物館所蔵の白糸威しろいとおどし富士山形兜は、江戸時代・17世紀の作です。

兜そのものが富士山を表し、頭頂部には銀箔を施して山頂の雪まで表現しています。

東京国立博物館の公式データベースでは、霊峰れいほうとして信仰されてきた富士山にあやかるとともに、「不二」「不死」「天下一」の意味が込められていると説明されています。

形も意味も比較的はっきりしていますが、誰がこの兜を作らせ、どのような願いを持っていたのかまでは公開資料から分かりません。

❖蝶形兜

高知城歴史博物館では、蝶について、毛虫から蛹を経て姿を変えることから、「よみがえり」や「不死」のイメージが重ねられてきたことを紹介しています。

ただし、これは蝶そのものに重ねられた意味で、個々の兜の制作意図まで分かるわけではありません。

❖頭巾形兜

高知城歴史博物館には、頭巾のような形をした兜も紹介されています。

表面には、天帝てんていの守護に関わる文言が記されているとされ、信仰との結び付きは見えます。

信仰との結び付きは見えても、なぜ頭巾という形が選ばれたのかまでは分かっていません。


第9章 そして、理由は分からない

変わり兜の中には、作者や年代、形まで分かっているのに、なぜその形が選ばれたのか分からないものがあります。

❖紺糸素懸威栄螺こんいとすがけおどしさざえ形兜 — 明珍吉久作

天和3年(1683)、明珍吉久みょうちんよしひさが作った栄螺さざえ形兜があります。

形はその名の通り、巻貝の栄螺を大きくして頭に載せたような姿です。

作者も制作年も分かっていますが、なぜ栄螺だったのかは確認できません。

❖大小字頭立置手拭形兜 — 黒田一成(伝)

名前だけでも気になるのが、置手拭形兜です。

福岡市博物館には、黒田一成が用いたとされる大小字頭立置手拭形兜が残っています。

といっても、兜の上に本物の手拭を載せているわけではありません。

兜の上部にある幅広い板が、頭に畳んだ手拭を置いた姿に似ているため、「置手拭形」と呼ばれています。

ただし、「置手拭形」という名称が、そのまま制作当初の意図を表しているとは限りません。

福岡市博物館の資料では、黒田一成が60歳を超えて参加した島原・天草一揆の原城攻囲戦こういせんでも、置手拭形兜を着用したと伝えられています。

見た目の面白さと、実際に戦場へ持ち込まれたと伝わる歴史が同居している兜です。

❖熨斗前立頭形兜

福岡市博物館には、熨斗のしを前立にした兜も残っています。

贈り物や供え物に添える、あの熨斗です。

福岡市博物館は、これを江戸時代中期の装飾的な兜として紹介しています。ただし、なぜ熨斗が選ばれたのかは分かっていません。

❖蝙蝠前立兜

17世紀の蝙蝠こうもり前立兜では、桐材で作った蝙蝠に金泥きんでいを塗り、前立としています。

さらに、この兜には交換用の鍬形くわがた前立も残っています。

つまり、同じ兜でも前立を付け替えることができました。

蝙蝠を選んだ理由は分かっていませんが、兜の見た目そのものが必ずしも一つに固定されていたわけではないことが分かります。

❖野郎頭形兜/束髪形兜

人間の頭や髪型そのものを表したような兜もあります。

野郎頭形兜や束髪形兜では、鉄の兜に毛を付け、髷まげや束ねた髪のように仕立てています。

高知城歴史博物館の束髪形兜では、鉄鉢てっぱちの上に束ねた髪を植毛し、その上に冠を載せる構造が紹介されています。

なぜ髪型を兜にしたのかは、現在確認できる資料からは分かっていません。

❖尉頭形兜

尉頭じょうがしら形兜は、老人の頭を表したように見える兜です。

高知城歴史博物館では、百戦錬磨の老戦士にあやかった可能性を紹介しています。

ところが、別の可能性もあります。もともとは壮年男性の頭を表していたものの、長い年月のあいだに毛が抜け、現在では老人のように見えているだけかもしれないというのです。

もしそうであれば、現在の見た目から制作当初の意味を考えること自体が難しくなります。

❖八角笠形兜

さらに、何を表しているのかについてさえ説が分かれる兜があります。

高知城歴史博物館で紹介されている八角笠形兜です。

笠をかたどったとする説が有力ですが、朝顔の花、富士山とする見方も紹介されています。

少し前に見た富士山形兜では、富士山を表すことも、そこに重ねられた意味も公式解説から確認できました。

一方、八角笠形兜では、そもそも何を表しているのかから答えが一つに定まりません。


第10章 変わり兜に「答え」を求めすぎない

最初に、「なぜ武将は、こんなものを頭に載せたのか」と問いかけました。

実際に調べてみると、その理由は一つではありませんでした。

戦場で目立つためだったと考えられるもの。神仏への祈りが見えるもの。戦功や主君との関係が形に残っているもの。武将同士で交換されたものや、後の世代が家の記憶として作り直したものもあります。

その一方で、栄螺や髪型のように、なぜその形が選ばれたのか分からない兜も残っています。八角笠形兜のように、そもそも何を表したのかについて複数の説があるものまでありました。

変わり兜を調べ始めたとき、私は「この形には、どんな意味があるんだろう」と考えていました。

でも、調べればすべての答えが出てくるわけではありません。

意味が分かるものもあれば、途中までしか分からないものもある。そして、今のところ理由が分からないものもある。

それでも、その兜を前にすると、「どうして、これを頭に載せたんだろう」と考えてしまいます。

その問いが今も残っていることも、変わり兜を見る面白さの一つなのだと思います。


武将の姿を追っていると、兜だけでなく「家紋」も気になってきます。

家紋というと「武士の家系の証」というイメージがありますが、こちらも調べてみると、それだけでは説明できない歴史がありました。

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月凪(つきなぎ) ありがとうございます!