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Photo bysuzumuraxxxjun

恋愛小説【薔薇と狼】94.それでも必要なんだ

    暗闇の奥から、また別の光景が浮かび上がる。
    20歳のころの、あの狭いアパート。

    薄いカーテンから差し込む朝の光。
    散らかった灰皿。
    脱ぎっぱなしの服。

    そして、布団の上で、若い自分がだらしなく寝転がっている。
    絵里奈が、髪を結びながら言う。

    「ねえ、今日こそタバコ減らしなよ」
    「あとでな」

    若い伊織は、笑ってごまかすように言う。
    その“あとで”が永遠に来ないことを、今の伊織は知っている。

    絵里奈は、ため息をつきながらも、灰皿を片付けてくれていた。

    「ほんと、身体に悪いんだから」
    「大丈夫だって」

    若い伊織は、彼女の心配を軽く受け流す。
    その軽さが、今の伊織には胸を刺した。

    夢の中の伊織は、何かと言えば絵里奈に甘え、彼女が帰ってくるとすぐに抱き寄せ、自分の欲求を優先していた。

    行為そのものは霞んでいるのに、その“空気”だけは鮮明だった。

    若さゆえの衝動。
    絵里奈の優しさに寄りかかる甘え。
    そして、彼女の気持ちを深く考えようとしない幼さ。

    今の伊織は、その光景を見て胸が痛んだ。

    ――俺は、こんなにも彼女に甘えていたのか。
    ――こんなにも、彼女を雑に扱っていたのか。


    場面がふっと切り替わる。

    二人で歩く商店街。
    安い定食屋。

    映画館の前で迷う絵里奈。
    夜の公園で缶コーヒーを分け合う。

    「ねえ、これ食べてみたい」
    「いいよ、買ってやるよ」
    「ほんと? ありがとう」

    そんな他愛のない会話。
    そんな小さな幸せ。

    若い伊織は、絵里奈が笑うと、それだけで満足していた。
    なのにその笑顔を守ろうとはしなかった。


    夢の中の光景が、まるで古いフィルムのように揺れている。

    若い自分は、絵里奈の優しさに甘え、彼女の笑顔に救われ、それでも何ひとつ返せなかった。

    今の伊織は、そのすべてを見せつけられながら、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。

    あの頃の俺は彼女の愛に値しなかった。
    それでも、絵里奈はそばにいてくれた。
    その事実が、夢の中で静かに重くのしかかってくる。

    光が揺れ、景色が遠ざかり、また暗闇が戻ってきた。
    伊織は、その暗闇の中で、ただひとつの名前を呼んだ。

    「……絵里奈……」


    「いい加減にして……タバコ、多すぎるよ」
    「タールの量、減らしたんだって。健康的だろ?」

    「そういう問題じゃなくて……臭いの」
    「うるせえな……」

    灰皿を片付けながら、絵里奈は眉を寄せた。
    早朝バイトから帰ってきたばかりで、身体は重く、目の奥がじんじん痛む。

    それでも、散らかった灰皿を見れば、つい手が動いてしまう。

    「ねえ……ほんとに減らしてよ」
    「はいはい、分かったって」

    返事だけは軽い。
    その軽さが、胸の奥に小さな棘のように刺さる。
    ――分かってない。
    ――分かろうともしない。

    そう思うのに、言葉にはできない。
    片付けていると、背後に気配を感じた。

    伊織が近づき、腰に手を回してくる。

    「ちょっと……!」

    驚いて振り返ると、伊織は悪びれもせず笑っていた。

    「あ、ごめん。怒ってる?」
    「……もう、知らないから」

    そう言いながら、本当は“知らない”なんてできないことを、
    絵里奈は自分で分かっていた。
    疲れているのに、
    怒っているのに、
    呆れているのに、
    それでも――
    伊織に触れられると、心のどこかがふっと緩んでしまう。

    「ごめん、ごめんって。ほら、機嫌直せよ」

    その軽い声に、絵里奈の胸の奥で、“好き”と“苦しい”が同時に揺れた。

    ――どうして私は、この人を嫌いになれないんだろう。
    ――どうして、この人のだらしなさを許してしまうんだろう。
    ――どうして、こんなに疲れているのに、そばにいたいと思ってしまうんだろう。

    答えは分からない。
    ただ、伊織の笑顔を見ると、そのすべてが曖昧になってしまう。

    絵里奈は、自分の胸の奥にあるその矛盾を抱えたまま、また灰皿を流しに置いた。


    その夜、アパートの部屋はいつもより散らかっていた。
    灰皿には吸い殻が山のように積もり、机の上には開きっぱなしのカップ麺の容器。

    床には脱ぎ捨てられた服。

    絵里奈は、バイト帰りの重い身体を引きずりながら、その光景を見て、胸の奥がすっと冷えた。

    ――まただ。

    何度目か分からないため息が漏れる。

    「……伊織、起きてる?」

    ソファに寝転がっていた伊織は、片手だけ上げた。

    「んー……起きてる」

    その返事の軽さが、絵里奈の胸に小さな棘のように刺さる。

    「今日、なにしてたの?」

    「別に何も」

    「……そう」

    その言い方が、あまりにも簡単で、あまりにも無責任で、あまりにも“いつも通り”で。

    絵里奈は、胸の奥がじわりと痛んだ。

    ――どうして私は、この人の“気分”に振り回されてるんだろう。
    ――どうして私は、こんなに疲れてるのに、まだここにいるんだろう。
    灰皿を片付けながら、絵里奈はふと、自分の手が震えていることに気づいた。

    「ねえ……」

    声がかすれた。

    「……私、もう無理かもしれない」
    「何が?」

    伊織のその一言で、胸の奥が音を立てて崩れた。

    ――ああ、この人は気づかないんだ。
    ――私がどれだけ疲れてるか。
    ――どれだけ我慢してるか。
    ――どれだけ、この関係にしがみついているか。

    「…別れようかと思ったの」

    その言葉は、自分でも驚くほど静かだった。
    伊織はようやく顔を上げた。

    だが、驚きよりも先に出たのは、不機嫌そうな眉の動きだった。

    「は? なんでだよ」
    「なんでって…」

    言葉が続かない。
    続けたら泣いてしまうと思った。

    「……疲れたの。私ばっかり頑張ってるみたいで、あなたは……何も変わらないから」

    伊織は、しばらく黙っていた。
    その沈黙が、絵里奈には耐えられなかった。

    ――ああ、やっぱり。
    ――この人は、私がいなくても困らないんだ。

    そう思った瞬間、胸の奥がひどく冷たくなった。

    「……勝手に言ってろよ」

    その言葉で、絵里奈の心は完全に折れた。
    涙がこぼれそうになり、慌てて背を向ける。

    ――もう、終わりにしよう。

    そう思った。
    本気で、そう思った。

    でも。

    背中に、そっと腕が回された。

    「……悪かったよ」

    その声は、いつもの軽さとは違っていた。

    「行くなよ。お前がいないと俺、何もできねえから」

    その言葉に、絵里奈の足が止まった。
    ――ずるい。
    ――そんなふうに言われたら、離れられない。

    「ほんとに好きなんだ、大好きなんだよ」

    涙が、ぽたりと落ちた。

    「……ほんとに、ずるいよ……」
    その夜、絵里奈は別れなかった。
    別れられなかった。

    それが、あの頃の二人の限界であり、弱さであり、そして――確かに存在した“愛”の形だった。

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