近代スポーツの父 岸清一物語
#創作大賞2026 #ファンタジー小説部門
第1章、カラカラ橋を渡って
その1、巣立ちの時
一人の青年が宍道(しんじ)湖(こ)から少し離れた所にある自宅の門の前で、朝霧に包まれて深々と一礼をしていた。
「清一(せいいち)、もう良いのか」
声を掛けたのは朝霧の中に立ち清一と同じような羽織、袴に草鞋(わらじ)履きで背中に包みを斜めに背負い旅支度をした青年であった。
「おう、銀之助か。夕べのうちに水杯(みずさかずき)で家族と別れの挨拶も済ませておいたからもう大丈夫だ。銀之助はどうだ」
答えた清一は細いながらも引き締まった身体(からだ)を持ち,頭の形が内包された優秀な頭脳と頑固なまでの意志の強さを示しているように横に大きく張り出していた。
密かに「福助」と渾名(あだな)されているのも無理のないことであったが、銀之助にとってはこの同級生の清一が誰よりも頼りになる存在であることに小さい頃から全幅の信頼を寄せていたのである。
「清一、実はな」
「どうした」
「いや、今日の出発の件だが。実は源のさぁにばれてしまって。父上たちの了解も取り付けてどうしても四十曲(しじゅうまがり)峠まで送って行くといって聞かないんだ」
銀之助は頭を掻きながら下を向いて答えた。
「そうか。そうだろうな。そんなことだと思ったから、御挨拶に伺った時にはっきりと日時はお答えしなかったんだが。
まあ、ありがたくお受けしようじゃないか」
清一が草鞋(わらじ)の具合を確かめるように、何度か足を踏みしめながら下を向いて四股を踏みつつ答えた。にわかにほっとしたような表情を浮かべて、銀之助は胸の中でやれやれ良かった清一の奴は一辺言い出したら何があっても聞かない、妙に頑固なところがあるから本当に心配したがこれで一安心というものだと一人合点していた。
「さあ、急ごうぜ銀之助」
「おう!」
17歳になった若い二人は互いの心を勇気づけるようにして、家の前を通っている津田街道から旅を始めたが、その旅の始まりは松江の津田街道から出雲街道そして西の箱根といわれる中国地方最大の難所である四十(しじゅう)曲(まがり)峠を抜けて、まだ見ぬ東京までの長い道のりであった。
それは今から123年前の明治16年(西暦1883年)初夏の5月11日の早朝七つ立ちといわれた午前4時のことであったが、後に日本における近代スポーツの父と呼ばれるようになる岸清一の生まれたのは、慶応3年(1867年)7月4日のことで山陰地方の松江市、当時は雲州松江藩と呼ばれていた島根県意宇(いう)郡(ぐん)雑賀(さいか)町(まち)1丁目の通称地(じ)行場(ぎょうば)という所に、父7代目伴(ばん)平(ぺい)の7人兄弟の次男として誕生したのである。
その2、松江市の歴史
岸家の初代伴平は徳川四代将軍家綱時代(1651年~1680年頃)に家を起したといわれ、代々の伴平は松江藩主に仕えたが清一の父の伴平は出雲公と呼ばれた松江藩18万6千石の第10代藩主松平定安(さだやす)に仕えた。
その資性は剛毅にして武術に優れていたといわれ幕末期に長州藩が幕府・諸藩連合軍との戦争を引き起こした時、徳川幕府の親藩でお目付け的な役割もあった松江藩にも征長の役への参加が命じられ出陣した際に十分にその武勇を発揮している。
しかしどちらかというと伴平と違って松江藩はこの戦争に消極的であったため大きな戦いは無かったといわれているが、あるときの戦いで味方は総崩れとなり命からがら鉄兜(てつかぶと)やその他の武具を打ち捨てて退却した時に父伴平のみが鉄兜を初めとして何一つ武具を失わずに帰りついたので、それを終生の自慢として長く家族に物語りその鉄兜を家宝として床の間に飾っていた。
一方で長く毛利家が支配していた出雲の国は関が原の戦いで西軍が破れた後、豊臣秀吉の元武将の一人で隠居中であった堀尾吉春と息子の忠(ただ)氏(うじ)が遠江(とおとうみ)浜松より24万石で移り住んだ。
当初は月山(がっさん)富田(とだ)城に入ったが出雲の国を治めるには立地的に出雲東部にありすぎ、また敷地が狭すぎると考えた堀尾吉春は息子の忠氏の急死という悲劇を乗り越えて現在の亀田(かめだ)山に慶長16年(1611年)5年の歳月をかけ松江城を築き、建設に必要な資材の運搬と人の往来のために別名カラカラ橋と呼ばれている白(しら)潟(かた)橋(はし)を架けたが、それは明治7年から呼ばれている現在の松江大橋のことである。
また松江城は外壁が黒塗板張りで出来ており別名千鳥(ちどり)城とも呼ばれ三方を水と山とに守られた天然の要害であるが、完成を待たずに堀尾吉春は死亡し忠氏の息子である忠春に跡継ぎが無かったため無嗣改易となってしまった。続いて若狭の国小浜から移り住んだ京極忠高も跡継ぎに恵まれず無嗣改易となり、信濃松本から徳川家康の次男であり結城秀康の三男である松平直政が、幕府にとって脅威であった長州藩や海からの外敵に備えて藩主として幕末まで統治した。
そして山陰地方の中央にある宍道(しんじ)湖を望んで縦横に河川と堀が巡らされた巨大な城下町は松江城と城を取り巻く堀川を中心にして、水運と防御にも適したとても美しい水都として、また観光都市として今日の発展を見るにいたったのである。
その3、雑賀(さいか)町(まち)
松江城を築いた堀尾吉春が仕えた豊臣秀吉、またその主人織田信長の生きていた戦国時代の一地方である紀州和歌山にポルトガルから伝来した種子島といわれる鉄砲の製造と射撃の術を良くした雑賀(さいが)衆と呼ばれた強力な傭兵集団があった。彼らはその卓越した戦闘能力を生かして各地の戦国大名に雇われては、合戦の中に生活の糧を得ていた。
しかし織田信長と石山本願寺との間に戦争が起こると、自らも門徒であった石山本願寺に入り戦う道を選んだが、その後雑賀衆の間で内部分裂が起こり織田信長に従おうとする親織田派と反織田派に分裂した。
その後本能寺の変で織田信長が急死すると親織田派の中には豊臣秀吉の部下になる者も現れたが、反織田派の者は豊臣秀吉に敵対したため紀州和歌山に攻め込んできた豊臣秀吉によって滅ぼされた。
一方松江城を築いた堀尾吉春は、敵に攻められた場合に備えて雑賀衆を中心とした鉄砲隊を戦の場合には前線に配置しやすいように町造りを進め、寺町(てらまち)などに見られるように戦争の時には作戦行動のために必要な空間を十分に取った上で敵が容易に松江城に攻め込めないような袋小路などを設けたのであった。
時が過ぎて松江藩主松平直政の時代になると鉄砲町と呼ばれ鉄砲足軽などが住む雑賀町が出来上がったが、当時の鉄砲などの射撃練習場跡などがある整然とした町並みは当時の武士が住んでいた頃の名残りである。
その4、橋(きょう)北(ほく)と橋(きょう)南(なん)
江戸時代の松江藩では白潟橋を住居の身分的境界としていたが、橋北には松江城を囲むように配置された殿町(とのまち)、母衣(ほろまち)町、北田(きたたまち)町、南田(みなみた)町(まち), 中原(なかばら)町地区には上級士族や藩医および儒学者などの住居が並び、広大な屋敷と共に美しい庭園が並んでいたが、そこでは文武を奨励する藩主の勧めにより茶道や生花などの風流も楽しんでいた。
これに対して橋南の雑賀町の士族は通称「2合半(ごうはん)」と呼ばれ禄高(ろくだか)は二十五俵扶持(ふち)(解説1)の下級武士が多く暮らしていたのであった。
また屋敷の大きさは二畝(せ)五歩(解説2)にしか過ぎなかったので,それぞれの屋敷の部屋数は平屋で五部屋ぐらいであり、床の高さが通常の屋敷よりも低く出来ていたのはいかにも下級士族の住居区域らしく控えめな造りであったからであったが、当時の下級武士の暮らしは生計の不足を自ら内職などで補うというようなことが一般的であった。
つまり現代とは異なり当時はまだ封建制度の影響が大変に強く、家計の不足を忍耐で凌い(しの)でいるのが普通であり、そのことと併せて松江地方の風光明媚な環境は温和な性格を人々に形成していったのだが、時には増水などの大水による苦労を克服してきているということから温和でありながら辛抱強く情に厚い性格が形成されていった。
しかしこのような風土の中で雑賀町では日本全国の地域とは多いに異なり実務に適する若く有為な才能が大きく花開いていくのであるが、それは地域に根ざした学問への道が私塾という形で在野の偉大な教育者によって開かれていったからでもある。
またそのような実務的学問が伝統的に行なわれたという背景には、戦国時代に工業の最先端である匠の技を生かした最高の武器である鉄砲の製造と、射撃術の向上に必要であった読み書き算盤(そろばん)などの学問と、鉄を鍛えるという工業的な要素が不可欠であったのである。
さらにそのような当時の松江藩では雑賀町の下級士族及びその師弟はどんなに才能や向学心があったとしても藩校である藩学(はんがく)修道館(しゅうどうかん)へ入学することは許されず、まして当時の日本の中で学問の最高峰である江戸の昌平校に入学して学問の道を究めるなどということは絶対に許されることではなかったのであった。
しかしそのような幕藩体制当時行なわれていた教育は、黒船来航から始まった未曾有の混乱期にあって封建制度の崩壊と明治維新の完成によって大きく外へ向けられるようになり、大きな時代の流れと共に中央へあるいは諸外国へと向けられるようになるのは歴史上の必然であったのである。
その5、澤野先生(号は含(がん)斎(さい))と尾原先生
下級武士の出身でありながら松江藩主の教育係までつとめるようになった澤野修輔(しゅうすけ)先生(1828~明治36年1903)は雑賀町出身でここに私塾・培(ばい)塾(じゅく)を開いて青小年のために漢学教育を行い後の雑賀小学校の初代校長となるが、その学徳をしたって橋北を始めとして多くの生徒が松江中から集まるようになった。
特に橋北の松江藩医の次男に生まれた梅謙次郎は終生先生に師事した後に上京し東京外国語学校(現東京外国語大学)を主席卒業した後、現東京大学法学部教授や法政大学の校長を歴任し日本民法学の父と呼ばれるようになったがいつまでも出来上がった著書等を贈りなお指導を受けることで恩師への報恩を怠らなかった。
また岸清一の親戚であり後に二度も日本国の総理大臣を勤めた若槻禮(わかつきれい)次郎(じろう)も師事し、小学校の教員を務めた頃も先生に詩文の添削を受けていた。同じように清一も中学時代には澤野先生に師事し漢学を修め、後年松江に帰った時には先生の令孫敏行を全ての面において今まで受けた教育の全てをかけて叱咤督励した。彼はその後見事に帝国大学に合格したので、岸精一は当然のように卒業まで学費を提供するなどの面倒を見たのであった。
その他にも後に雑賀町小学校の第二代校長を務めた尾原惣八(そうはち)先生は数理の造詣深く津田街道二丁目に算数学の共進学舎という私塾を開き子弟の教育に力を注いでいたが、内村友輔先生、宮川邦八先生、蒔森和平衛先生なども競って私塾を開き、読み書き算盤のみではなく男子としての心の育成を図りながら師弟の薫陶に努めた。
俗に雑賀町千軒といわれた岸の生家のあったこの小区域に、数多くの在野の教育者が集い人材の育成に努めたのは当時の日本ではほとんど奇跡に近いことであり、山口県において吉田松陰が起こした私塾・松下村塾と同じように多くの偉人を輩出したことは、いかに当時の松江の人々が子弟のための教育にかけた思いが熱かったのかを伝えてくれているのである。
その6、松江藩と軍艦
幕末における松江藩は親藩でありながら時代の流れをよく見ており、海に面した諸藩と同様に軍艦の所有というものに非常な期待を寄せていた。
しかし軍艦の運用にはそれに長じた人間が必要不可欠であったが、幕府が長い間鎖国政策を採っていたために専門家が絶対的に不足しており、幕府を初めとして海兵としての船乗りの育成が急務となっていたのであった。
一方で外国に向かって大きく開かれていた長崎では、相次ぐ外国艦艇の入港に伴い事件などが相次いだためその対策として幕府の肝いりで嘉永七年(1854年)7月29日軍艦の運用等の訓練が行なわれ始めた。そして翌年の安政2年(1855年)10月24日には勝海舟に命じて創設させた軍艦等の訓練を行なう長崎海軍伝習所が完成したのである。
また当時の長崎海軍伝習所には各藩から派遣されたまさに多士済々の人物が集まっていたが、彼らはその後の日本の政治と海軍を支えることになるのであった。
それは外様大名と日本海に度々出没した黒船などの海外に対する備えとして、松江藩が幕府から第一八雲丸(文久二年1862年正月イギリスより購入の鉄製蒸気船)と第二八雲丸(同じく文久二年アメリカより購入の木製艦)の二隻の所有を許されたことと無関係ではない。
また松江藩は通称出雲往来と呼ばれた出雲街道を使って参勤交代をしていたが、常にこの別名砂鉄の道と呼ばれた街道を整備して大切にしていたのは他の中国地方の諸藩と同様に量産された砂鉄をたたら製鉄法により精錬された良質の鉄に加工することにより藩の経済を支えていたからであった。
そして実にその売り上げ額は明治20年頃(1887年)まで島根県全体で日本の全国鉄生産高の50%を占めていたほどであった。
このような資金力以外にも2隻の軍艦購入に当たっては松江藩の主たる産業であった雲州人参と蝋燭(ろうそく)の売り上げが大きく貢献したが、軍艦を持つことによって図らずも親藩でありながら諸外国の事情や幕府の置かれている状況などについて、軍艦を運用する人間の育成という外部との交流を通して大きく目を開かれていったのである。
松江藩が2隻の出雲丸を購入した翌年の文久三年(1863年)11月4日、幕府は将軍家持の上洛のために外国製の軍艦や蒸気船、帆船を所有していた各藩に対して江戸湾への集結を命じたのである。
それはペリー提督の来航からわずか9年後にして、早くも日本における始めての艦隊運動を行なうことになったことを意味していた。
松江藩では二艘の軍艦を派遣する予定であったが、第二出雲丸は何らかの事情で参加することが出来なかったため第一出雲丸単独で参加したが、軍艦の操作については各藩とも多少の不安を感じていたようで、今回の演習で総指揮を取っていた勝海舟の指示により長崎海軍伝習所で育成された者が数名ずつ各艦に配置されたことにより、各藩は面目を施すことが出来ると同時に操船の技術を学ぶことが出来たので非常に協力的であった。
また幕府の求めに応じて参集した船は、蒸気船及び帆船を含めた12艘で動力も外輪船やスクリュー船などが混在していたので、艦隊の士気を高めるためもあり大阪に向かう途中の静岡県御前崎から愛知県伊良子岬までの遠州灘で各艦艇によるレガッタが行なわれ、松江藩の第一八雲丸が見事に第一位の栄冠に輝いたのであった。
それはたたら製鉄法で鍛えられた職人達の火に対する高い技術が軍艦の速力を支えつつ、もう一つの主産業であった鋳物製造の技術が軍艦機関部の整備や修理等に大きく貢献した事を示していた。
したがって19歳で藩主となり当時29歳であった松江藩第十代藩主、松平定安(1853年~1872年)も大いに面目を施したが、それは藩主自らがレースの勝利により学問の必要性と時代の変化を痛烈に実感した瞬間でもあった。
またそのような名誉は松江藩の今後の教育方針にも大きな影響を与え、その後まさにその時代に生きた人たちが封建制の呪縛から解き放たれつつあることを実感していくことになるのである。
その7、松江藩の教育
松江藩では時代の求めに応じて陸軍を整備し当初幕府に習いフランス人を雇い入れ軍事学とフランス語を教えさせるのと同時に、数多くの青年を海外に留学させるなど早くから教育に力を注いでいた。
また文学面では第七代藩主、松平治(はる)郷(さと)(寛延4年~文政元年1751年~1818年)が開いた皇漢洋の三学(日本、中国、西洋の学問)を教える藩校修道館があり、それらは上級士族の教育が行なわれていたが後には下級士族の教育のために、橋南雑賀町に教導所を設置し澤野先生達の私塾を持ってこれに当てたのであった。
当時において教育の機会均等などという考えは十分に理解されてはいなかったので、上級士族と下級士族の師弟を同一の学校において教育するということはなかったが、とりあえず松江藩においてあらゆる階層に教育を施そうという考えが生まれてきたことは事実であった。これにより橋北の学問所と橋南の教導所を区別して前者を卒教導所、後者を教導所と呼び教育に当たったのであった。
やがて時代の流れから必要に応じて士族の子弟が同じように机を並べて学ぶことが許されるようになると、藩学修道館に雑賀町の教導所から数名の俊才が選抜され授業料等の免除を受けられる官費生として入学した。
しかし残念なことに明治維新後の廃藩置県に伴って修道館は廃校となり明治24年私立中学修道館として再興されたが、明治40年山陰地方初の工業高校として設立されると私立中学修道館は廃校となったので、校舎の移転に際して松江市立工業学校修道館として名を残し昭和19年からは現在の島根県立松江工業高校となっているが、橋南の教導所は澤野先生の下で私塾として明治30年頃まで存続していたのであった。
第2章、小・中学校時代
その1、雑賀小学校の設置
明治5年8月2日内閣が出来るまでの明治政府の最高行政機関であった太政官(だじょうかん)から学事奨励に関して出された布告に基づいて、翌明治6年(1873年)4月20日雑賀町に第七区小学校が開設された。
当時の松江全市は7区に分けられそれぞれの区に小学校が設立されたが、第7区小学校は天神川以南の全市外を包括する大地域で堅(かた)町(まち)、雑賀町、津田町近辺を含んでおり生徒数も市内で一番多い地域として知られていた。
これが現在の雑賀小学校で岸清一少年が入学したのはその年の春4月20日5歳のときであったが、当時の雑賀小学校の教育方針といえば全くの寺子屋式で、自宅のある雑賀町から全て約300m以内にある新町(しんまち)の洞光寺(とうこうじ)や同じ雑賀町の徳専寺(とくせんじ)、堅(かた)町(まち)の正源寺(しょうげんじ)の本堂を利用し畳の上に正座して机を並べて読み書き算盤を習い、入学当初より儒教の中の「大学」「中庸」あるいは中国の国の治乱のさまを説いた十八史略のような小学生には難解な書物をおおきな声で読む素読(そどく)で教えた。その内容は児童には到底理解できないようなものであったが、門前の小僧が意味も理解しないままお経を読むように暗記するまで反復教授したのである。
それはまさしく過渡期の教授法であり個人よりも団体向きの教え方であったが、そのような全体的で画一的な教授法しか取れなかったということがその後の日本の学校教育にたいして少なからず大きな影響を与えたのではないだろうか。
やがて入学してきた児童達の向学心も次第に高まり児童数も増えてきたため、校舎は分校を設けたがそれでも間に合わず遂に雑賀町五丁目に新校舎を建設した。
校舎はその後増改築を行い現在の校舎に至ったが、当時の教師陣は藩学修道館(卒教導所)や教導所で教えていた者たちが多くその職に就いたのでレベルの高い教育が行なわれていたのであった。
岸少年は小学校在学当時常に勉学に精励し常に首席を占めていたが、当時としては珍しい小学校の開設を聞いた県の高官達がたびたび見学に訪れると毎回各学校間で比較試験が行なわれ常に優等生として賞品を授与されていたが、賞品は時に文房具であり書籍であったがそれらの賞品は児童間に良きライバルとして競い合う風潮を育てていったので少年達の負けず嫌いの性質はこの頃より養われていったのである。
また当時の少年達は好んで大自然に囲まれた地形を使って東西両軍に分かれて戦争ごっこなどに興じていたが、良くその場所に選ばれたのは雑賀小学校の東方にある売(め)豆(ず)紀(き)神社の境内や後方にある小山であった。
しかし伸びやかに育つ少年達と違って遥か100年以上前の雑賀町の人々の暮らしは依然として苦しく、次男以下の教育などは思いもよらぬところであり小学校も中途退学して職業に就いたり役所の給仕係になるというのが多かったのは当時の日本の中では全国のどこでも多く見られたことなのであった。
そのような状況にもかかわらず貧しい家庭の次男である岸少年が小学校を卒業し中学校へ進学することが出来たのは、父伴平と岸少年の能力を見抜いていた私塾の先生、あるいは小学校の先生たちの先見力によるものっであったのはいうまでもない。
したがって小学校卒業後に進学を考えるものは当時全国に設立されつつあった教員養成のための官費で教育を受けられる無料の松江師範学校へ入学する道を選ぶか、新設された中学校への進学を選択するかのどちらかを選ぶしか道はなかったのである。
その2、源のさぁと呼ばれた少年
岸少年の親戚で現在の雑賀小学校より南に約100mのところにある10軒ばかりの集落に住む一歳年上の奥村源之丞と名乗る少年がいた。源之丞は幼名であり人々からは「源のさん」あるいは「源のさぁ」と呼ばれていたが、後に若槻禮次郎とよばれる源之丞は慶応二年1866年2月5日生まれで、東京帝国大学佛法科でフランスの法律を学び主席卒業後大蔵省を経て大臣を経験し二度に渡って内閣総理大臣を務めるのだった。
しかし藩主が新しく生まれた子供に源之丞という名前をつけたので、忌み名(い な)は避けるということから源の字のついていた者は名前を改め、奥村源之丞は奥村禮次郎という名に改められた。
また禮次郎は小さい頃から随分とやんちゃで気に入らないことがあると一際大きな声で泣くため近所中で有名であったが、その家庭は複雑で実母の夫は若くして2人の男子を残して亡くなっていたが、下級武士である足軽でも多少は禄をもらっていたため親戚一同の合議で戸主不在を理由に禄が貰えなくなることを避けるために、禮次郎の実父である奥村仙三郎が婿入りし家を継ぎ一人の姉と禮次郎が誕生したが実母には先の夫との間に10歳以上年の離れていた兄2人が居たのであった。
そして明治元年1864年4月22日父が京都に仕事で出かけているとき、11歳の姉と3歳の禮次郎を残して実母が病死し、二人が声を上げて泣いているところを近所の人に見つけられると急を知らされた祖母が彼らの世話を見ていたが、やがて禮次郎は姉と実父の後妻ヤオに愛情を持って厳しく育てられたが、禮次郎は実母の顔を覚えてはいない変わりに数年に1度大水が出て家来の禄高も何割か減らされると一家は内職する事によって苦しい時期を乗り切ったことなどを覚えていた。
明治6年1873年7歳になった禮次郎は寺子屋に入ったが、当時はまだ帯刀(たいとう)の習慣があったので、幼いものは木刀を腰に一本差して通ったが、そこでは並べた机に座り師匠の手本を見ながら草紙に字を書き紙が筆の墨で真っ黒になると外の竿に干し、次の紙がまた墨で黒くなると乾いた黒い紙と取り替えてそこに字の練習を行った。
そして最後の仕上げは白い紙に清書して師匠に見てもらい手直しを受けるのが決まりであったが、ある時などは(あいうえお)を紙に書くとき、(あ)の字を紙の真ん中に大きく書いてしまい(い)の字を隅に書いて提出し笑われるというような経験もしていた。
禮次郎はそのような寺子屋生活を数ヶ月送り、明治6年1873年4月20日新しく出来た第七区小学校(現在の雑賀小学校の前身)に8歳で岸清一とともに入学したが、当時の小学校は上等小学校と下等小学校に分かれていたので上等小学校を終了してから中学校に進学するというのが当時の仕組みであった。
やがて小学校を卒業した禮次郎は兄の意見をいれ中学には進学せず二葉亭四迷も学び影響を受けたといわれている内村友輔先生の漢学塾相長舎で学んだが、これは貧しい奥村家にあって他の家庭と同じように働いて家計を助けるために必要な読み書きを学ぶということを意味していた。
しかし学問への情熱を断ちがたく反対する父を母ヤオと共に一年がかりで説得し、一年遅れの明治13年1880年7月当時4学年制であった教員伝習校内変則中学科(後の松江中学校)の試験に合格し入学を果たしたのであったが、やはり学費が続かず一年を待たずに退学すると失意のままに山に薪を取りに行ったり家事を手伝ったりして過ごしていたのであった。
その3、松江中学校
一方で岸少年は明治12年(1879年)12月に松江市殿町にある教員伝習校内変則中学科の試験に合格して入学を果たした。
※ 松江中学の沿革
明治9年 (1876年)教員伝習校内変則中学科
明治17年(1884年)島根県第一中学校
明治19年(1886年)島根県尋常中学校
明治40年(1907年)島根県立松江中学校
昭和24年(1949年)島根県立松江高等学校
昭和36年(1961年)島根県立松江北高等学校
一時は寺町(てらまち)にある善導寺の本堂を使用していたが、明治9年1876年に新しく出来た校舎は殿町にあった県教育会館に県の学務課や松江師範学校と同じ建物の中にあり、学務課長が松江師範学校の校長を兼任していたり松江師範学校長が教員伝習校内変則中学科の校長を兼任しているなど、制度確立前後の極めて混沌とした状況を呈していたが、師範学校と教員伝習校内変則中学科はその教育方針の違いや生徒の学習内容の違いからその学風の違いは明らかであった。
※ 松江師範学校の沿革
明治8年(1875年)島根県小学教員伝習所
明治9年 (1876年)松江師範学校
明治17年(1884年)島根県師範学校
明治19年(1886年)島根県尋常師範学校
明治31年(1898年)島根県師範学校
昭和18年(1943年)島根師範学校
昭和24年(1949年)島根大学
それは師範学校の学生が卒業後すぐに教壇に建つために必要な教育や学科を教え教師としての品性を育てたのに対し、教員伝習校内変則中学科は国家の将来を担うべき人材の育成のため、学科も多岐に渡ったうえに外国語も教えていたので両校の生徒間はともすると円滑を欠き、やがては校舎を分けるに至り明治10年1877年新校舎の完成を待って教員伝習校内変則中学科は独立を果たしたのである。
また教員伝習校内変則中学科新校舎の完成によって、さらに向学心が向上すると橋北の上級士族の子弟及び橋南の下級士族の人々も、子弟の将来を考え中学校に進学させることを望んだが、そのことは当然のように競争試験に合格しないと入学が出来ないということを意味していたのでそれぞれの学問に対する意識はさらに熱を帯びていったので、岸清一が入学した明治12年1879年は募集人員50名の所に100名を越える志願者が集まったのであった。
その4、二つの中学
このようにして発足した当時の中学校はしかも2種に分かれていたのが更なる混乱を招いた。つまり第1科は修業年限3年で普通学を履修し第2科は修業年限4年で英語によって修行したが、当時の第1科が目指していた教育は県内の上流社会を担う人々の育成を目指していたので日本語に訳された外国の教科書を用いることで十分目的を達せられたが、第2科は学問の基礎から学ぶ事で大学で学んだ後は日本の未来を担う人材の育成を目標としていたので各科目はイギリスの原書を教科書としていた関係で、生徒が必要な教科書は各人が毛筆を持って放課後遅くまで残って書き写すというような忍耐を強いられたのである。
また師範学校は当時学費免除の上に学費の給与もあったが、教員伝習校内変則中学科では当初こそ学費免除であったものの生徒数の増加に伴い月額3銭を徴収するというような違いもあった。
※ この月謝3銭とは明治10年当時の白米10kgが51銭との記録があることから、現代の白米10kgを3000円とした場合約176円程度に相当すると思われるが、今よりは年収が少なかったので家計における負担は相当に高かったでしょう。
その5、松江大橋を渡って
卒業を来年度に控えた清一は相変わらず学問に励んでいたが、ときには天神裏に夜相撲の見物に出かけた友人が清一を誘いに来ると、部屋に釣った蚊帳の中でひたすら勉強している清一の姿に驚き慌てて帰ってしまうというような事もあった。
また暗いうちから起き出すと家族を起さないように身支度を整え津田街道から堅町を通り小学生のころよく遊んだ寺町を経て天神橋を渡る頃には白々と夜が明けてくるのであった。
湖上には大きく白い帆を膨らませた帆掛け舟が蜆(しじみ)を取っている姿が見られ、清一はその美しい宍道湖の景色に思わず橋の上から見とれてしまうのを常としていた。
やがて白(しら)潟(かた)本町(ほんまち)から松江大橋にかかる頃には物売りも忙しく下駄の音をカラコロと鳴らしながら往来するようになり、正面に千鳥城を見ながら清一は内中原(うちなかばら)町にある内村友輔先生の相長舎に急ぐのだった。彼はこの3年間早朝の学習を終えてから学校に行くことを日課としていたが、塾に着く頃には内村先生は既に起きて待っており一度も待たされたことがなかったし費用を求められるということも無かった。
勉強を終え先生と朝食を一緒に食べ終わると必ず先生から今日の日本国を取り巻く諸外国の事情や国内の出来事などのお話があり、次回までの宿題を出されるのが恒例であった。
やがて門を出るといつも同級生の山崎銀之助が一緒に登校するために待っていた。
「おはよう、清一。今日の先生のお話はなんだった?」
「おはよう。実は東京でのハイカラについてだった」
「そりゃまた今日は思いっきり変だな。ところでハイカラって何だ」
清一は先生の話をよく思い出すように、大きな頭を少し傾げて話し出した。
「ハイカラとはだ。外国から帰ってきた人たちが皆白いシャツを着ていたというのだが、まあいわゆるホワイトシャツだな
そのシャツの襟が着物の襟より高かった様子を見た人たちが、その様子が素敵だと言うので縮めてハイ・カラーと呼ぶようになったのだそうだ。まあ、ハイカラはそのぐらいにしてだ
話は変わるが銀之助も昔、第一八雲丸が遠州灘で行なわれた軍艦競争で一等になった話は知ってるな」
「それなら大人たちが何かにつけて松江藩の優秀性を話すときに出て来る話だから、この辺の子供なら誰でも知っているよ」
「その軍艦競争についてなんだが、それはペリー提督の来航で日本中がひっくり返るような騒ぎになったことや、ご維新のときには長州藩や薩摩藩がイギリスの軍艦に負けたことで新政府は海軍力の増強に真剣に乗り出したという証のようなものだということだ。」
「ところで、その軍艦競争と俺達とどんな関係があるんだ」
銀之助はあくまで屈託がない。
同年輩の清一の話を目を輝かせて聞いてはいるが普段は無口な清一が一段と大きな声で話し始めると、いつも仲間が回りに集まり始め喧々囂々(けんけんごうごう)の大弁論大会になってしまうという日常に慣れているのでいささか慌てて清一の話をさえぎるのだった。
「清一、声がでかいよ。まだ朝が早いんだぜ」
すると清一は若干顔を赤らめながら声を潜めて話し出したが、千鳥城を右手に見てお堀端を歩く2人の声は次第に大きくなっていった。
「それはかつて中国が外国に支配されてしまったように、この日本も諸外国に狙われているというのだ。だから海軍を強くするために兵隊を鍛えければならないという訳だ」
「それで、どうした」
「ところで銀之助。お前は何をして体を丈夫にしているん。」
唐突に清一の話は飛ぶ。虚を疲れて銀之助は口ごもった。
「俺は歩く。ひたすらただ歩く」
それを受けて笑いながら清一はいった。
「それは俺も同じことだ。そうただ歩く。しかし何か遊戯をしながら身体を丈夫にすることが今東京では一番流行っているらしいぞ」
「じゃあ兵隊さんも学生さんも、遊びながら身体を鍛えてるとそういうのか。」
清一は良くぞ言ってくれたといわんばかりに立ち止まった。
「そうだ東京や横浜では居留地に住む外人たちが何か遊戯をしながら楽しんでいるそうだ。しかも彼らは身体も大きく強い。中でも横浜港で行なわれたバッテーラ競漕はイギリスとアメリカが戦ったということですごい人気となったそうだ。また去年墨田川で行なわれた海軍の水兵さんによる端船競漕は、天皇陛下、皇后陛下のご光臨を賜り墨提(ぼくてい)が万余の・・」
「まてまて清一。バーテーラとはなんだ。墨堤とは。端(はし)船(ふね)ってなんだ。まるでお前の言っていることは理解が出来ん。」
清一はにわかに気が付いて、自分の興奮を抑えるようにいった。
「続きは、また今度だ」
「なんだよ。おーい待ってく。」
銀之助は登校する仲間をかき分けながら子犬がじゃれ付くように清一を追いかけて行ったが、こうしてまた彼らの充実した勉学の日々が過ぎて行くのであった。
第3章、当時のボート事情
その1、バッテーラとカッター
当時新政府の置かれた東京では外国文化の吸収熱は非常な高まりを見せていたが、諸外国に私費官費で派遣されていた学生の多くや工業を学ぶべく派遣されていた職人なども続々と帰国し始めていたし、特に外国から帰ってきたばかりの日本人達は洋行帰りとか新帰朝(しんきちょう)などと呼ばれて大いに羽振り良く暮らしているのだった。
また新政府が工業技術や文化芸術等の吸収に力を入れていたこともあって、長崎、神戸、横浜、築地などにあった外国人居留地にはそれらの職業に携わる諸外国人や新政府から高給を持って招聘された外国人たちも居留していた。
彼らが未知の外国である極東の島国まで波頭を越えて参集してきた理由は当時の日本の青少年達と同じようなもので、新生日本に夢を抱き国の建設という崇高な使命にそれぞれの情熱と成功の夢を抱いて来朝して来たのだったが彼らは一般的に「お雇い外国人」と呼ばれていた。
しかし明治新政府の設置された頃より200年以上昔にも幕府はポルトガルとの交流を長崎で行なっていたが、江戸幕府はそれまでキリスト教の布教と密貿易を未然に防ぐため長崎市中に比較的緩やかに居住させていたポルトガル人を寛永13年1636年に2年の歳月を費やして完成した扇の形をした人工島の出島に隔離する政策を行なったが、寛永14年1637年10月25日に島原の乱が起こると、一挙に日本とポルトガルの外交関係は悪化し寛永16年1639年ポルトガル人来航禁止令を発したが、それはポルトガル船に乗った異文化の伝来を禁じたという事を意味していた。
やがてその後の出島には寛永18年1641年長崎県平戸にあったオランダ商館とイギリス商館の激しい売り込み合戦の結果、早くから幕府と接触をもっていたオランダ商館を移すことに決し以後の外国貿易はそれ以降200年に渡ってオランダの独占するところとなるのであった。
しかし長い鎖国政策の中にあった日本にとってポルトガル人との交流の中で、日本で使われていない言葉や日本語に当てはまらない言葉が数多くあっただろうと想像するのは容易なことであろう。
それは維新後に諸外国から輸入されたスポーツや文化などに関連した言葉の多くが日本語に訳される試みがなされた結果、同じ言葉を訳した言葉でも違う日本語の言い方が混在していた時期があったことを示していたが、それらの言葉は時間の経過によって話しやすい言葉が市民に選択された結果、新しい日本語として定着を見るようになっていったのである。
そのように考えるとポルトガル人の来航時に大きな船と陸地を結ぶ小型の船をポルトガル語のBateira、バッテーラ(もしくはバッテラ)と呼んでいたのを日本人が口真似し、目新しい言葉として使うようになるとポルトガルとの交流がなくなってもバッテーラという呼び方は残ったが、それ以外にもカルタやカステラ、タラップ(船の乗客用はしご)などという言葉が今も伝えられていると考えられるが、現在でもその記憶は日本海沿岸に開かれた航路の北の港として知られる青森県今別町で小船のことをバッテラと呼んでいることに見られるが、西国地方でもしめ鯖の押し寿司のこともその形が小型の船に形が似ていることからバッテラと呼んでいると思われるのである。
一方ポルトガル船の来航が禁止された後はオランダ船がそれに取って代わって来航したが、やはり出島内での限られた生活のため比較的緩やかに市井で生活していたポルトガル人のように市民にあまりカルチャーショックは与えられなかったようで小船を示すオランダ語は定着しなかったのであった。
また幕末になって日本国民を襲った黒船来航という衝撃はアメリカという英語を話す国民によって成されたが、富国強兵策をとる新政府は軍事面でも諸外国を手本にし、陸軍では初めフランス軍による指導を仰いだがドイツがヨーロッパにおける普仏(ふふつ)戦争(明治3年1870年~1871年)でフランスに勝利すると軍制をドイツ式に改め、海軍にいたっては当初長崎海軍伝習所などでオランダに指導を受けていたが次第にオランダの影響力が低下していった東南アジアにおいて勢力を伸ばしてきたイギリスが中国とのアヘン戦争(天保10年1839年~1860年)に勝利した結果中国が半植民地化されていくと、日本の海軍力の強化のために軍艦の購入から運用、操船にいたるまでイギリスの指導を受けたが、そのようなイギリス製の軍艦では陸地との連絡用にカッターと呼ばれていた船首と船尾が同じ形ではなく船尾は真横にカットされ舵を装着していた小型の船も使用していた。
一方でペリー提督の要求によって開国された日本の江戸湾には、太平洋のハワイ諸島を基地として活動をしていた捕鯨船が新鮮な水と食料などを求めてたびたび来航していたが、それらの捕鯨船に艦載されていた小型の船は鯨にロープのついた銛を打ち込み曳航させることにより鯨が弱るまで追跡するという理由から、怒った鯨が急に前後どちらに向きを変えても船が転覆するのを防ぐために、小船の構造は船首と船尾の作りが同じように丸く出来ており舵は装着されていなかった。
このような捕鯨に使われていた小船の特徴がバッテーラと比較的によく似ていたと思われるので、日本人にとってかつて馴染みのあったバッテーラという呼び名を持ってこの小船を呼んでいったのではないだろうか。つまりカッターと捕鯨用の小船の二つの違いはその船の形にあったが、この二つの小船の呼び方が当時の日本語には無かったために両方をボートと呼ぶなど混用されるようになっていったと思われるのである。
そして外国から来た大型船は当然のようにまだ整備されていない日本の港湾内では、岸壁や波止場もなく直に大型船から荷物や人たちを上陸させることが出来なかったため、カッターやバッテ-ラと呼ばれた小型の船が陸海連絡用に活躍したのであったが、その様子をいち早く大きな驚きをもって大勢の江戸市民に見せたのがペリー提督に率いられた蒸気船(黒船)であった。
その後は大きな外国船と陸地との連絡用に使用される色々な種類の艇を水兵などが座ったまま揃いの制服を着て、橈先(オール)を揃えあるいは高々と各国の旗をなびかせ整然と漕ぎ進む様子は、上陸時に行なわれる各国の海軍音楽隊が奏でる聞きなれない音色と共に櫓や棹を使って立ったまま漕いでいた当時の日本人達の好奇心を大いに集めた。
やがてその興味は先進的文化の偉大さに対する憧憬(どうけい)に変わっていったが、その象徴として市民の心をとらえたのが陸地と巨艦を行き来するたびに水を切って素晴らしいスピードで進む艇の爽快さであり、日本人と西洋文明との繋がりをより身近に感じさせてくれたのがカッターやバッテーラという小船であったのである。
推敲済み
その2、ボートレースというレガッタ
普段私たちはボートレースのことをレガッタと呼んでいるが、レガッタという言葉の元はイタリア語(Regata、競い合う、議論するなど)に起源があるといわれ、イタリアの都市ベニスなどで行なわれていたゴンドラでのレースや華麗に装飾したボートで水上をパレードする事や、何かについて議論することなどの全般をレガッタと呼んでいたので諸外国では今でもカヌーやヨットのレースなども含めた総称をレガッタと呼んでいるのである。
また一方で日本において早くからボートレースを楽しんでいたのが長崎や神戸、横浜、築地などの外人居留地に住むイギリス人を中心とした外国人達であった。彼らは本国から艦艇で本格的な競争用ボートを取り入れたりしてレースを楽しんでいた。
※ 日本におけるボートレースの歴史は対校競漕の嚆矢(こうし)と知られている東京大学と東京師範学校(後の東京高等師範学校・現筑波大学)のレースは明治16年6月(1883年)であり、一方イギリスではそれより78年前の文化2年(1805年)にロンドンではじめてのアマチュアのボートレースが行なわれたことがスポーティングマガジンで報告されている。
また長崎海軍伝習所では安政1年(1854年)オランダ人教官による指導でオランダから贈られた咸臨丸のカッターで操船の練習が行なわれ、勝海舟はカッターを座礁させたりしていたが翌年の安政2年(1885年)にはカッターのレースが行なわれている。
そして文久1年9月26日(1861年)長崎で外国人居留地に住むイギリス人を中心にして長崎レガッタが開かれ、他にも大浦レースや九州レース・稲佐レース・長崎カップが行なわれている。
なかでも元治元年(1864年)新生明治政府と関係が深い長崎のグラバー商会のT、B、グラバーが弟のA、T、グラバーと現代のダブルスカルと思われる2人乗りの種目で優勝しているが、そのレースが日本におけるボートレースの嚆矢と思われるが、それ以降も続々と各外国人居留地でレースが開かれている。
慶応2年(1866年)バージクラブ 横浜オリエンタルホテル前
明治2年5月4日(1869年)イギリス兵 横浜
明治3年(1870年)神戸レガッタアンドアスレチッククラブ
明治4年(1871年)横浜対神戸の外国人クラブ同士のレース
明治10年(1877年)横浜でイギリス対アメリカのレース
明治11年(1878年)東京漕艇クラブ外国人メンバーで
秋季競漕会を大橋と永代橋間で開催
またそれぞれの居留地では上海や長崎、神戸、横浜の港で持ち回りのインターポートレースという各港対抗のボートレースを開催するようになっていった。娯楽の少なかった時代のこと見物に訪れる人出は相当数に上り、海軍や学生を初めとする多くの日本人に強く影響を与えたのであった。
その3、短艇と端艇(たんてい)
外国人居留地におけるボートレースの人気はますます高くなっていったが、当時の日本海軍も水兵の肉体的訓練と士気の高揚を狙って港湾内に停泊する多くの外国艦艇と好んでカッターによるレースを行なっていた。
そして学生も外国人居留地の本格的ボートレースや海軍のカッターレースに刺激を受け、隅田川でボートを漕ぎ始めることとなるのである。
また今までは昭和18年発行の宮田勝善著(櫓と橈・漕艇百科)によると、短艇とは外国艦船搭載のバッテーラが海軍用に改良された艇を呼び、競技及び娯楽用に発展したのが端艇であるとし短艇の中にカッターを含めているが、明治時代の艇の呼び方は必ずしもそのように一概には区別されていなかったと思われるのである。
※明治32年(1899年)7月23日初版発行の海軍中佐、木村浩吉氏口述の漕艇案内(東京兵事雑誌社)では漕艇という言葉で競技を示し端艇の競漕(きょうそう)と艇の総称を示している。したがって端艇と呼ぶ船とは水上に浮かぶ無蓋(むがい)(ふたのない)の器で橈、帆、蒸気、電気、ガスで進行するものとしている。したがってその中にはカッターやランチなどの名前があげられ特にカッターは軍艦に備えられた艇8種の中にあげられている。他には航洋船に備えられた艇、河川用の艇があり競漕用としてはスキフとアウトリガー艇の2種類が上げられている。スキフは長さ30尺(約9m)アウトリガーは長さ60尺(約18m)とあるので、おそらくスキフは6人漕ぎ以外の一人及び2人から4人漕ぎぐらいまでの小艇の総称と思われる。
またここではガンネル(艇の縁)にオールをつける穴をローロックと言いガンネルの縁の小穴にオールを支える道具を装着している場合の金具をクラッチと呼び現在の呼び方とは異なる。
そして軍用の端艇という言葉も見られ、艇に乗り込むことを乗艇としている。
※ 明治22年(1889年)8月29日 初版発行で明治33年5月14日(2000年)4版発行の陸軍省印刷御用による体操教範付録の目次によれば漕艇術という漕艇演習に関する要領という記述が見られ、漕ぎ手を漕手(そうしゅ)としているがこれは橈手(ぎょうしゅ)という橈を漕ぐものと、櫓手(ろしゅ)という櫓を漕ぐものの総称としている。また小船を日本古来の呼び方である端(はし)船(ふね)とし船を漕ぐことを漕艇と呼びまた漕ぐ動作を漕法としている。
※ 明治34年4月10日発行の少年世界(競漕会)では墨田川で行なわれた学生の競漕会を記述し端艇と書いてボートと読ませているが、琵琶湖で行われた学生の大会を短艇競漕としている。また短艇行のところでは海軍の予備科で短艇(ボート)という呼び方をしている。またカッターのことをボートと言い、英国の端艇競漕のところではオックスフォード大学対ケンブリッジ大学のボートレースを短艇競漕としている。
そして実に同年の4月7日から5月12日までの短い期間中隅田川で行われたに端艇競漕会が10回も行なわれているのを見ても、いかにボートレースの人気が高かったかがわかるのである。
※ 昭和14年5月25日三版発行の海軍省教育局検閲済み,
短艇操式という教範(教科書)などでは短艇操式の目次に機動艇、橈(とう)艇(てい)(橈(かい)を用いて漕ぐ船)、帆走艇、櫓艇などと比較的小さい艇の総称として述べられている。また乗組員のことを短艇員と呼び漕ぎ手を漕手(そうしゅ)とし、艇に乗り込む場合を乗艇(じょうてい)としている。
つまりボートレースが良く行なわれるようになった明治16年以降(1883年)でも競漕用のボートも海軍の使っていたカッターもその呼び方は端艇や短艇などと混用して使用されていたが、それはボートを表す日本語がまだ生まれていなかったためだと思われる。
またボートレースを表す競漕という言葉以外には、陸上競技での競走や飛行機レースの競争などの字も用いられていたことから当初は端艇や短艇、競漕やボートレースというようないくつもの表現が用いられていたのであった。
したがって当初は外国からきたボートは端(はし)船(ふね)という日本語の表現から来たと思われる端艇という言葉で表される場合が多く、やがて海軍においてレースに使われるカッターは、船尾が短くカットされていたので特に中国語にもあった短艇という字を使っていったと思われるが、日本では海外から入ってきた新しい言葉は多くの場合新しい日本語として訳されながら人々に受け入れられていく言葉と、やがて一部でしか使われなくなっていく言葉、あるいは全く使われなくなる言葉とに分かれていく運命にあるのであった。
推敲済み
第4章、いざ東亰(とうきょう)へ
その1、宍道湖とカッター
ある日の午後、連れ立って帰る途中で銀之助が話し出した。
「この前の話だが。」
「何の話だった。」
「ほら、端艇やらバッテーラの事だよ。」
「それで、バッテーラがどうした。」
清一と違って銀之助は世上(せじょう)の話に耳が早い。どこで仕入れてきたのか校内の噂話を語り出した。
「なんでも東京の体操伝習所の学生達が、初めの頃は体力の向上にと
いう理由で郊外まで遠足をしたりしていたが、今はやりの捕鯨船の
中古のバッテーラを手に要れて課外や休みの日に神田川上流の御茶
ノ水界隈や隅田川を漕ぎ始めているらしいんだ。
それで学校当局も学生の体力向上に役に立つとして、茗渓(めいけい)と昌平(しょうへい)
という2艇の新艇を建造するなど大いに端艇熱が盛り上がっているらしいぞ。」
銀之助は鼻の穴を膨らましながら得意げに語る。
「しかも、その端艇熱が松江にも伝染し師範学校の連中がその端艇
をどこで手に入れたのか、軍艦のお古でも調達したのか宍道湖で漕
ぎ始める準備をしているというじゃないか。そして中学科でも体育
の授業に端艇を取り入れる準備をしているという噂だ。」
清一は驚きのあまりいつもの癖でその大きな頭を少し傾げて立ち
止まってしまった。
銀之助は清一を驚かした事に大満足である。いつもやられっぱな
しでは銀之助の立場が悪くなるばかりだからだ。
男同士の間柄はいつも対等じゃなくちゃいかんと、一人納得
する銀之助であった。
「驚いたぞ本当に。」
「そうだろう、そうだろう。」
「銀之助。俺が何で驚いているのかわかってるのか?」
「それは端艇のことに決まってるじゃないか。」
「そうじゃないよ。いやそれもあるが、その端艇熱がこんなにも早く松江に伝わってきたという事に驚いているんだ。聞けば去年の事だというじゃないか。先生もいつか言っていたが、俺が驚いたのは、その話の伝わる早さだよ。全く文明開化というものの凄さを今実感したよ。」
負けず嫌いの清一は簡単には負けを認めないものの腕組みして立ち止まったまま、お城を取り巻く堀川に目を落としながら話し始めた。
「やはり東京の学校に行きたいものだ。東京で今起こっていることや外国のことをもっと知りたい。今学校で習っている英語は本当に外国人に通じるんだろうか。
東京の学校に行って見たいなあ。」
銀之助は黙って聞いていたが、やがて決心したように清一の顔を見つめた。
「実は俺は東京の学校に行くことに決めていたんだ。お前も誘おうと思ってはいたが東京に行くにはお金がかかる上にその額はちょっとやそっとの額じゃ足りんぞ。家はどうなんだ。」
清一は心底驚いて友達の顔をただ黙って見つめ返した。 いつの間にそんな事を考えていたのか。
「よし決めた。俺も東京に行く。東京の学校に行って端艇を漕ぐ。東京中を騒がしているハイカラだ端艇だといったって、俺達が2年前の5月に見た11年ぶりのホーランエンヤの櫂(かい)伝馬(てんま)船(せん)の漕ぎ方に毛が生えたようなもんだろう。大橋川の水も墨田川の水もそんなに変わるわけじゃなし、水は流れに流れて端艇の本場イギリスにも通じてるからな。そして中学科の後輩達に東京仕込みの最新式の漕ぎかたを教えてやるんだ。」
これには話した銀之助も驚いた。
確かに清一は目を輝かして城山(じょうざん)稲荷(いなり)のお神輿(みこし)を追いかけて堀川から大橋川まで走って行ったし、夢中になって数多くの船行列を見ていたことを思い出したからだったがこれほどまでに船というものに強い憧れを持っていたとは。
また今思えば八雲丸の軍艦競漕や海軍の話を話題にすることも、このあたりに多い船大工の作業場に出入りしていたのが多かったのもそういう訳だったのかと一人得心していた。
しかしそれにしても銀之助は岸家の台所事情の苦しさも知っていた。また清一の親戚である源のさぁがやはり家計の苦しさから一年遅れで松江中学に入学したものの、一年を待たず県内の八束郡(やつかぐん)玉湯(たまゆ)村大谷村小学校の代用教員を月給一円五十銭(約5万4千円)で代用教師をしていた事も知っていたからであった。
そして源のさぁは一年後に出雲市簸川(ひかわ)郡の今一という所で郡書記という役人をしていた兄の勧めで兄の所に寄宿しながら2年間大津小学校の代用教員を月給五円(約18万円)で勤めていた。
銀之助が危ぶむのも無理はなかった。
それは清一と銀之助は教員伝習校内変則中学科の第4期生であったが、1期生は家庭の経済的事情でわずか3名しか卒業する事が出来なかった上にいずれも郷里で就職したことを知っていたからであった。さらに2期生は2名の卒業であったが同じようにそのまま職につき3期生は一人も卒業する事が出来なかったが、4期生は入学当初50名であったがやはり多くの生徒が途中で病気や家計を助けるために就職し学窓を離れたにもかかわらずからくも18名が卒業することが出来たのであった。
しかし家計の比較的裕福な同窓生の志立鐵(しだちてつ)次郎(じろう)ら3名は、岸たちに先駆けて東京に上京していたのであった。
そんな事情もあり清一も上京を思っても家計がそれを許すはずもなかったが、友の一言で一旦上京することを決意した清一はそれがどんなに困難が伴う道であるのかも良く理解していたのであった。
※ 実際に宍道湖でカッターが漕がれるのは翌年の明治16年(1883年)のことで島根師範が初めたといわれており、校舎が隣接していた教員伝習校内変則中学科でもカッターを借りて体育の授業を行なったといわれている。
※ ホーランエンヤは日本の三大船神事に数えられ、天保2年
(1645年)の凶作のとき五穀豊穣を願って始められたといわれており、300有余年も続いている祭りである。
祭りは数えで11年ごとに行なわれ、多いときでは300艘もの供船を引き連れた大変盛大なものであったと伝えられている。
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その2、上京就学準備
いち早く決心した清一ではあったが、自分の気持ちを父親に話すのは気が重かった。それは家計の苦しさを承知していたせいもあるが、内中原(うちなかばら)町にあった赤レンガの松江監獄の司獄官(しごくかん)(現在の松江刑務所、警務官)をしていた父はその武術を先の長州征伐で高く評価され、いまだに家宝の兜(かぶと)を床の間に飾っているぐらい謹厳でことのほか怖い父親だったからである。
また子供心にも松江監獄の傍を通ったときには体を硬くしながら急ぎ足で通り過ぎたが、さらに謹厳な父の酒席での手柄話が何より苦手でその上正座をするのが一番嫌いだったからでもあった。
父の書斎に入るときはいつも胸がドキドキして思うことも上手く話せない情けない自分がいたが、始終多くの来客に対して母が料理やご酒の工面に走り回る姿を見ていたが、そんな母には全く無頓着の来客は決まって深夜まで大きな声で談笑し口角泡を飛ばして議論するのもごく普通のことだった。
そしてなにより酒席に兄と共に呼ばれ直立不動のまま大きな声で挨拶を何遍もさせられることが苦手であった上に、仕事の都合上夜勤も多い父は家を留守にするときも多かったのでむしろ清一は寂しい思いをすることのほうが多く、小さい頃からあまり父と語り合った経験はなかった。
しかしいつかは切り出さなければならない。
「ただいま帰りました。」
清一が声を掛けると驚いたことに母が正座をして待っていた。
「父上がお待ちですよ。急いで書斎に伺いなさい。」
母は清一を促すように、荷物を受け取ると書斎に先導していく。
不意を衝かれた清一は動悸が激しくなってくるのを覚えていたが、珍しく今日は来客がいないらしい父の部屋は静まり返っていた。
「清一がただいま帰りました。」
母はそういうとなぜか微笑むと美しい所作で去っていった。
書斎に入ると父は読書中だったが、ランプの明かりを少し落として振り向きながら清一を手招きした。
父の話は何時も短い。
「 幸い我が家には遊学修行の資金となるべき三百円(約一千八十万円)がある。かねてより今日が来ることを思い、家禄(かろく)奉還(ほうかん)金(きん)を取っておいたのだ。母上と兄に感謝の気持ちを忘れず東京の大学に行ったら身体に気をつけて文武に励めよ。」
伴平はそういうと、くるりと背を向けてランプを明るくしたが、思わぬ事態に清一は呆然と座り続けていた。
「詳しいことは母上から聞きなさい。」
父の言葉に打たれたように額を畳に擦り付けると、退室した清一は走った。
台所では包丁の音を立てながら母が夕餉(ゆうげ)の支度をしていた。
「まず、いただきなさい。お話はそれからでも逃げていきませんよ。」
箱膳の箸を取らない清一を見て母は話し出した。
「かねてから父上は色々な先生方より、あなたの勉強振りや努力を聞いていました。また先生方は口をそろえて、時には我が家にわざわざお出でになり清一を東京の学校に上げてくれと頼まれていきました。本当にありがたいことです。母も誇りに思いますよ。」
清一は知らないうちに自分の頬(ほお)を熱いものが伝い落ちるのを感じたが、自分のどこにこんなに熱いものがあったのかむしろ不思議なものを感じていた。
母は続けた。
「清一は小さかったので解らなかったでしょうが、父上は昔から多くの人の就職問題あるいは夫婦喧嘩まで、時にはお仲間のお仕事上の不始末までご相談に乗り、ご近所の揉め事を上手に収めておりましたから随分と人様のお役に立っておりました。
本当に父上の所にはあきれるぐらいの難問が持ち込まれておりましたが、それらの問題を無事に解決することで人様の安堵したお顔を見ることが、なによりお好きだと言っておられました。
人様のお役に立つということは、そういうことだと母は思っています。
しかし父上は司獄官というお役目上あまり出すぎたことも出来ず、かといって頼まれごともそのままにしておけないということで、色々悪く言う人もいましたがこの世の中に生きていく以上それは仕方がないことでしょう。
また父上の人々に対する優しさは随分甘いと人様から言われることもありましたが、ご自分の信念からお気持ちを抑えて今日まで勤めていらっしゃいました。
随分と理不尽なことややりきれないことをお感じになったこともあったのですよ。
お勤めの厳しさと苦しさは何事も家族を守るために耐え忍ばなくてはなりません。清一もやがては理解出来るようになるでしょうが、男子たるもの不平不満と私利私欲に流されず毅然として生きていかなくてはなりませんよ。」
清一は袴を固く握り締めて初めて聞く父のようすに聞き入った。
「常に感謝の気持ちを忘れてはいけません。二人とも可愛い息子ですが兄上は早くからお家のために働いてくれました。しかも父上に清一の上京を進めてくれたのですから。あなたにご自分の夢も重ねていたのではないでしょうか。
またこれは兄上の木綿の袴と飛白(かすり)の着物を仕立て直したものです。これを着ていつまでも松江藩士の子息であることを忘れず、矜持(きょうじ)を持って東京にお行きなさい。」
清一は生涯この日のことを忘れることはなかった。
それは父が家宝として扱っていた床の間の兜がなくなっていたことの意味が理解できたからであり、この出来事が彼の生涯に渡る生き方の基本というようなものを作り、生涯その気持ちのままで出会う人々との関わり方に貫き通したのだった。
※秩禄(ちつろく)処分(しょぶん)とは明治新政府が出した政策で、維新後の廃藩置県で行なった旧領主や武士団の身分制度の変化に伴いそれまで石高にあわせて米で支払っていた家禄(給料)を引き続き新政府が払っていたが、その出費による財政負担が新政府の新しい国つくりの妨げになっていた
したがってその出費を抑えるために、政府は士族が農商業等へ転業を申し出た場合に家禄を返還させる方法として、一時金と5年分の家禄(退職支度金と退職金)として家禄奉還金を支給したが転業に成功した士族は少なくあまり効果を上げなかった。
そこで新政府は明治8年(1875年)9月に金禄制を採用するとそれまでの米による支給から貨幣による支払いへと変換し、明治9年(1876年)8月金禄公債証書(利子をつけて順次支払う)を発行して完全に士族の禄制(給料制)を廃止したが、武士の商法と言われたようになれない商売に手を出し財産の全てを失うものが続出したのであった。
推敲済み
その3、県費補助金の申請
清一の就学上京についての費用について、伴平は家禄奉還金を持って当てる心算をしていたがまだ心もとないものであった。
というのも先に上京していた梅謙次郎の父親に幾たびも費用について相談した結果、額の大きさに暗澹(あんたん)とした気持ちになっていたからである。
しかし松江中学の同窓生で中学卒業後に上京遊学の途についた志立鐵(てつ)次郎(じろう)に対して、県から補助金19円20銭が下りたとの話を聞き及んで息子のために補助金の交付を願い出てみようと心を決めた。
明治11年(1878年)当時、今の県知事に当たる島根県の県令(けんれい)は、天保7年(1836年)長州藩生まれで47歳になる境二郎(旧名斉藤栄蔵)であり、学者肌の上に生真面目で堅苦しいと評判であった。
しかし伴平は我が身を思うとき長州との戦いを思い出さずにはいられなかったが、それは長州の出身者が県令になっている事から来る迷いだった。散々迷った末に伴平は学校の先生達に口添えを頼むことを思いつきお伺いを立てる事にした。
すると幸いにも先生たちのとりなしもあり境県令からの呼び出し状が届いたが、そこには補助金の交付に当たっての証書を持参の上すぐに殿町の県庁県令室まで出頭するように書かれていた。
伴平は急いで証書を書いた。
一金三十二円五十銭也
岸伴平の次男清一、今般東京大学入校修行の支度を整えましたが、家計不如意のため困却しております。よってご救助の儀を嘆願いたします。右の金額を旅費としてご扶助いただければ誠にありがたき幸せです。また頂いたからには退学や転学した暁には速やかに返納いたします。
※ 岸が上京の途についた年から3年後の明治19年(1886年)当時代用教員の初任給は約5円であったといわれている。現在の教員の初任給を約18万円とした場合、受けた補助金32円50銭はおよそ117万円に相当する。
証書を持って県庁に行くと既に話が通っているようで、清一と同年齢ぐらいの給仕に案内されて大きな県令室に向かったが、ドアを開け室内に入ると背後から光りを受けた境県令が待っていた。
「やあ岸君、話は聞いているよ。ご子息の清一君は大変な秀才と言われているようだし、兄の正明君も中々親孝行のようだね。
ところで補助金の件だが、ありがたくも東京の殿様からもよろしく頼むとの口添えが届いていることもあり、私としても学生の就学についてはぜひ応援させていただきたいと思っていたところだ。
ぜひ頑張らせてくれたまえ。また何か困ったことがあったら、家宝の兜を処分したりしないで相談に来くるように。」
境県令は証書を見ることもなく言った。
伴平はありがたく深々と頭を下げると一つの疑問を口にした。
「誠にありがたいお話で、感謝の言葉もありません。清一にはきっと督励いたします。殿様には感謝の言葉もありません。誠に有難うございました。
ところで、県令。」
「なにかね、岸君。」
「県令はなぜ兜の話を御存知なのでしょうか。」
「その話か。」
一呼吸おいてから県令は話し出した。
「実は先日、学校の先生方が大挙して県庁に押しかけて参って絶対言ってくれるなという条件で兜の話をしていったのだ。どこにこんな親子がいるかと言(いい)立ててな。そしてこうも言っていた。松江のみならず、清一に学問を納めさせることは日本のためだとな。
何か懐かしい言葉であった。
その昔のことだが。君も知っているだろう高杉さんの話だ。
私が高杉さんと江戸へ遊学の途につくに当たって、高杉さんは何をするにもこれは日本のためだとよく言っていたものだよ。
もっとも高杉さんの「日本のためだ」という言葉は、遊ぶときの口実のようでもあったがね。
そんなわけで政府としても県庁としても、士族の方々の窮状を考えて胸を痛めていたところだったから、日本のためと言う言葉を出されたら否とはいえないじゃないか。
岸君。君が心配しているような長州だとか松江だとかもうそんな時代じゃないんだよ。もっと大きく世界に目を向けるべきときだとは思わないかね。」
伴平は己の不明を恥じながら県令室を後にした。さすがに県令は修羅場をくぐってきただけのことはあり、日本のためと言う言葉には新しい深い感動があった。
このような人たちが新しい日本を作っていこうとしているのだろう。めったに松江を出たことのない伴平は、これから東京に行こうとしている清一に少々羨ましさも感じつつもありがたいことだと感謝の気持ちを深くしたのであった。
※ 境県令は嘉永3年(1856年)頃明倫館で吉田松陰に兵法学を学びやがて松下村塾に入塾、その後明倫館の教授に任ぜられた。後に島根県の官職につき県令となった。安政5年(1858年)には長州奇兵隊の創設者である高杉新作と江戸に向かって遊学修行を共にしている。
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第5章、上京の旅
その1、四十曲峠を越えて
明治16年(1883年)4月に17歳で松江中学を主席卒業した清一は盟友山崎銀之助と共に東京遊学の途についた。
当時の日本には電気はおろか鉄道もなかったので、東京へ行く事は船に乗って外国に行くより遠くへ旅するように感じるものだったが、今と違っていたのは鉄道や船の料金が宿泊費よりも高額だったので旅人たちはひたすら歩いて旅費を軽減する方法をとった。
したがって2人もお殿様の参勤交代で使われた天神川沿いの津田街道を出雲富士あるいは伯耆(ほうき)富士とも呼ばれる大山(だいせん)を目指してひたすら東進し、宍道湖と日本海の間にある中海にある松江港を左手に見ながら少し離れて五反田を過ぎて八束(やつか)郡を過ぎ中海から安来(やすぎ)や諏訪の街を通って米子へ出、さらに米子から出雲街道に右折すると日野川沿いに上流を目指し出雲富士を左手に見ながら岡山に向かって深い山中に分け入った。
松江から岡山まではまず徒歩で米子宿、根(ね)雨(う)宿と勝山宿で3泊し、早朝勝山宿から高瀬船で岡山宿まで下って一泊し早朝岡山の三蟠港(さんばんこう)から蒸気船で神戸港まで行き神戸で一泊、さらに神戸から再び蒸気船で船中と横浜で一泊ずつしてから、明治5年(1872年)7月1日に開通していた鉄道に乗って新橋まで向かうという気の遠くなるような7泊8日の旅であった。
またの名を出雲往来とも呼ばれた出雲街道は藩主松平候の参勤交代の道、あるいは優秀な鉄の道と宍道湖でとれる鰻を献上するための道として知られていた。
雑賀町から米子までは約七里三十三丁(30,97km)であり、米子宿から雲州松平公の本陣があった根雨宿までは約六里四十四丁(27,96km)と短いが、日野川を三回渡船でわたり最初の難所である間地峠越えがあった。根雨宿から勝山宿までは約8,5里(34km)であり、東の箱根に対して西の四十曲峠と言われる出雲街道最大の難所を越えて本陣があった新庄(しんじょう)宿(しゅく)を通り越して行く厳しい峠越えだったのである。
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その2、峠の別れと旅立ち
二人が津田街道にある津田の松原を通って雑賀小学校に曲がる角まで来ると、松の根元に親戚である奥村禮次郎が座って待っていた。
「来たな。二人とも。準備は抜かりないか。」
「見送り有難うございます。準備万端整っています。」
二人が声をそろえて返答してから銀之助が聞いた。
「源のさぁは、そんな普段の格好で大丈夫でしょうか。」
清一は天真爛漫な銀之助の問いかけに、慎ましく暮らしている源のさぁを思って顔を少し曇らせる。
それに気づいたのか気づかないのか闊達に禮次郎は答えた。
「四十曲峠ぐらいなんでもない。むしろお前達のおかげで口うるさい兄の所から一晩実家に戻ることが出来てのんびりしたよ。
それより遅くならないうちに行こうか。」
三人は銀之助を先頭にして、禮次郎と清一が並んで歩き始めた。
清一は親戚でありかつては松江中学の同級生として共に学んだ、一つ上の禮次郎に多少気後れしている自分を感じていたが、それは本家で育った自分とは異なり若くして小学校の代用教員をしている禮次郎が誰よりも学問に対して情熱を持っていることを知っていた上に、成績面でも努力型の自分と違って非凡なものを持っていることをかねてから感じていたからである。
また全てを整えてもらった自分とは違い粗末なものを身につけていても、禮次郎はいつも凛としたものを持っており何か打ち解けにくいものを感じていたのだった。
やがて八束郡のあたりに来ると、牛を引いて道行く人たちが腰を屈めてお辞儀をしながら声を掛けて行く。
「先生さん、お久しぶりでございます。」
「旦那さん、ごきげんようございます。」
若干18歳の禮次郎に声を掛けていくのであったが、銀之助ははるかに通り過ぎてから振り返って聞いた。
「源のさぁ、すごいもんだなあ。学校の先生と言うのは。こんなふうに大人に話しかけられるなんて、今まで一度だってなかったよ。」
清一も禮次郎の威厳を垣間見たように思って、改めて年上の親戚を眩しそうに見ていると、禮次郎は一々立ち止まると腰を屈めて礼を返していく。
「こりゃたまらん。二人とも急ごうぜ。」
禮次郎の呼びかけに若い二人も歩を早めたが、その日は米子に宿をとり食事を取った後は初めての長旅に疲れてひたすら寝むるのだった。
翌日は出雲街道が日野川沿いに通っていたため、雲州松平候が参勤交代のときに米子から船と人足を呼んで渡船したという日野川を2度わたり、溝口宿では藩候が船を待って休んだと言われるお茶屋で休憩してから最初の難関である間地(まじ)峠を3人で声を掛け合い励ましながら登った。
明日に控えている四十曲峠の厳しさを思い、また籠で超えた参勤交代の苦労に思いをはせながら峠の一番上に登り着くと、頂上からは北前(きたまえ)船(ぶね)の風待(かぜまちみなと)港であり全国から鉄を購入するために多くの船が訪れている美保関(みほのせき)港や船の往来で賑わう日本海がきらきらとはるか遠くに見え随分と遠くまで来たことを改めて実感するのだった。
そして再び日野川を渡船で越え川沿いの松平候の本陣がある根雨に宿を取り、入浴を済ませた一行は夕餉までの間に川風に当たりながら足の手入れをしていると禮次郎が話し出した。
「しかし代用教員と言っても初めて16歳で赴任した玉湯村の大谷小学校では、村一番の豪家農の座敷で教えていたが親方と呼ばれていた60歳過ぎの校長先生と2人だけの先生だった。
そこで寝起きしていたが俺の食費は村が校長先生に払っていたのだ。やがて牛小屋を改造した2階で教え出したが、下を見ると板の隙間から牛が見える。すると生徒が悪さをして小石を落とすと、牛がもうもうと鳴き出す。上では生徒がわいわいと騒ぐ、また下では牛がもうもうと鳴き出すようなそんな中で毎日教えていたのだ。
まったくこれで日本の行く末は大丈夫だろうか。このような教育の仕方で成果が上がるのか本当に心配だった。」
足の手入れを止めて、清一が言った。
「それはひどい。そんな環境じゃ勉強も手につかないだろうし第一不衛生極まりないぞ。」
銀之助も足をさすりながら言う。
「それで授業が終わってからの源のさぁは、どうしていたのですか。」
「まあ明日の下調べをしたりしたが、授業が終わると本当に楽しかった。近くの田んぼや小川でメダカを取ったりしていると、近所の人たちが肥料を天秤棒で担いで通りかかり、先生さんご苦労様と挨拶をするだろう。」
二人はこの前の禮次郎の威厳に満ちた挨拶を思い出して頷いていると、禮次郎がニヤニヤしながら言った。
「いいか二人とも。そこでお辞儀をしている俺はといえば、川に入っているから着物がぬれないように裾を端折(はしょ)ってだな。
つまり褌(ふんどし)を締めた尻丸出しだから情けないこと極まりなかったがその辺からかな。少なくとも先生の心掛けが解って来たように感じたのは。
つまりらしくすれば良いということだろうな。」
禮次郎が本当に尻を端折って腰を屈める真似をしながら声を上げて照れていると、二人も釣られて笑い出すのだった。
山間部の夜が暮れるのは一段と早い。
明日の峠越えを思ってそれぞれが寝床につくと、聞こえるのは梟の声だけだった。
翌日は最大の難所を控えて十分に足ごしらえをし、宿で用意してくれた熊笹の葉に包まれた握り飯と沢庵を持って気合を入れながら峠に取り付いたが、四十曲峠は名前の通り右に左に蛇行しているので歩きにくいこと極まりない。
暫く登ると木々が鬱蒼(うっそう)として青空も見えなくなったがその代わりに汗が滴り落ちるのを冷やすような日陰がありがたい。
行きかう人もいない。やがて先を行く二人の姿が左右に見え隠れするようになると、いつも饒舌な銀之助もこのときばかりは顎(あご)を出し始めていたので、とうとう立ち止まり腰を落として先を行く二人に声を掛けた。
「二人とも少し待ってくれ。」
清一は先を行く禮次郎の背中に声を掛けた。
「少し休みましょう。」
「そうしよう。山賊が出るらしいから、ゆっくり休もう。」
あわてて銀之助は立ちあがったが、清一は上手いことを言うものだと感心した。ただだめだというばかりでなく、こんな言い方が人を動かすのかと世慣れた禮次郎にひたすら尊敬の念を抱くのだった。
やがて三人がようやく頂上にたどり着くと出雲富士がはるかに光って見えたが3人は息も絶え絶えに空を仰いで倒れこんだ。
やがて汗も引き呼吸が少しと整ってきた頃、清一がごそごそと背中の荷物を解いて梅干の包みを開いて二人にも配った。
「この梅干は一体どうしたんだ。」
「これは隣のおばあさんが峠の上で食べろといって持たせてくれたものだ。」
「いつもお前達兄弟に庭に実った木の実などを分けてくれる有難いおばあさんだな。」
禮次郎はニコニコと二人の話を聞きながら、身体を拭(ぬぐ)いつつ上半身を起して話し出した。
「あのおばあさんに頂いたもので俺たちまで随分と空腹を助けられたものだったが本当に有難いことだ。
それはそうと参勤交代のときはお殿様が峠を越えられるとお使いのものが、殿様がただいまご無事で峠を越しましたとお城まで伝令に戻ったと言うから俺もそろそろ帰るとするか。
親父さんたちには心配するなと伝えておくが二人とも生水には十分気をつけろ。また初めての旅だから油断してきょろきょろしていると悪い奴らに目をつけられて、大切な路銀を取られたなどという事がないようにするのだ。
なにしろ生き馬の目を抜くと言うぐらい都会の奴らは狡賢(ずるがしこ)く素早いというから、夜寝るときも枕探しに気をつけて財布は腹にしっかり括(くく)りつけて寝るんだ。
お前達は酒も飲みたいだろうがくれぐれも用心して酒は東京に着くまで飲むな。これはきっと約束しろ。
いいか二人とも。遅れをとって失敗したら腹を切るぐらいじゃあ追いつかないし家名に泥を塗ることになる。
このことを肝に銘じておけ。
やがて何時かは俺も上京するつもりだが、そのときは二人に世話をかけるだろうが万事よろしく頼むぞ。」
禮次郎は年下の二人に居住まいを正して深々と頭を下げた。
さすがに先生だけあって注意は細かく周到である。
父親達が路銀(ろぎん)を負担してまで見送りを禮次郎に託した理由が今ははっきりと腑に落ちた上で、二人は禮次郎の胸のうちを慮(おもんばか)って、強く頷いていた。
「清一、銀之助。それでは暫(しば)しの別れだ。気をつけて行ってくれ。」
二人はしばしば立ち止まって手を振る禮次郎を振り返りながら心細げに峠を下っていったのだが、この後禮次郎が上京して三人が再会を果たすのは一年後の明治17年(1884年)9月まで待たなければならなかった。
※ 明治17年(1884年)に日本中観光の旅に出た人の記したものによれば、宿賃は東海道筋や都会と言われるところの一流どころで約二十銭(約7200円)以上であり山間部や安い所で十二銭(約4320円)ぐらい、中堅どころでも十七銭(約6120円)ぐらいであった。
また食事代は約七銭(約2520円)で、汽車代は横浜か
ら品川まで25銭(約9000円)、馬車代は三里(12k
m)で七銭(約2520円)、人力車代二里(8km)五銭(約1800円)、草鞋代全国一律一足一銭(約360円)というのが相場であった。
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その3、高瀬船
出雲街道の勝山宿に着いた二人が町の賑やかさに驚いたのは、松江が海運の町だったのに対して勝山は旭川を利用した水運の町で、鰻の寝床といわれるように間口は狭いが奥行きのある旅館が軒を連ねて各旅館ごとに客引きが明朝の船があることを連呼していたからであった。
通りは行き交う人々と華やかさに溢れおいしそうな匂いが二人を戸惑らせたが、旅館は口々に岡山までの高瀬船があることを言い立てて客の取り合いのために宿泊していない客は高瀬舟に乗れないことを強調していた。
そんな取り決めがあることなど知らずにうろついていた二人に客引き達は纏わりついて離れなかったが、とうとう銀之助が若い女に袖を掴まれた。
「助けてくれ。どうしよう。」
「よわった。こんな時、源のさぁがいたら助かったのに。」
初めての経験に戸惑い相手を上手く裁けなくて困っていると、必死の客引きが言った。
「おや随分とお若いけれど、どちらまで。」
「岡山から船に乗って東京まで行くのだが、とりあえず今晩泊まる所を探しているのだ。」
そんな会話を聞きながら源のさぁから田舎もんらしくするなと言われていたことを思い出していた。
「東京の大学に勉強に行くのだ。」
聞かれていないことまで銀之助がべらべらとしゃべり出したので、慌ててその口をふさぐように言った。
「ところでお女中。船に乗るのはどうすればいいんだろう。」
おもわず清一が旅の初心者であることを告げると、客引きが口に手をあてがいながら微笑みつつ袖から手を離していった。
「それだったら悪いことは言わないから、うちにお泊まりなさい。この辺ではどこも旅館が持ち舟を持っていて、岡山に下がるお客をまとめて高瀬船でお送りするんですよ。ぼやぼやして船の予約をしないと明朝乗せてくれる船なんかありはしないよ。明朝の出立時には起してあげるから。」
おもわず二人は顔を見合わせて以心伝心ほっとしたように頷きあったのは、ここで船に乗りはぐれたら再び歩かなくてならないからだったが客引きは万事心得て粋な所作で店の奥に声を通した。
「お若い二名様、ごあんなーい!」
やっと表の喧騒から開放され部屋に通された二人に、客引きは女中へと変身して何くれとなく面倒を見ながら顔を見比べて聞いた。
「ところで、お食事のときのご酒(しゅ)はどういたします。」
銀之助が我が意を得たりと酒を注文する様子を、黙って聞いていたが女中がいなくなると思わず咎めるのだった。
「お前、源のさぁが酒だけはだめだといっていたじゃないか。」
それには構わず銀之助は応える。
「まあ、いいじゃないか。今晩は二人だけだし明日は船旅だ。船の中で寝て行こうじゃないか。気を詰めっぱなしではかえって東京までもたないよ。清一だってホーランエンヤのときはお神酒(みき)を結構飲んでいたじゃないか。」
元来酒が嫌いではない清一が答えられないでいると、さらに銀之助は止めを刺した。
「東京に行ったら酒を飲むのも修行だ。学生には学生の付き合いというものもある。父上もそういっていたし多少は嗜む(たしな)のも芸のうちだ。」
こうして峠を越えて国を出て来た開放感から楽しいひと時を過ごした二人は、三時ごろ起しに来た女中から既に他の客は船に乗り込んでいると聞かされ、慌てて身支度を整え裏手が旭川の川端で石造りの船着場に石畳を歩いて向かった。
石段を降りていくと先客は船の中に場所を定めて眠っていたが、静かに乗り込んだ二人に気づくと身じろいで空けてくれた隙間に腰を下ろしていると空が白々と明けてくるのだった。
やがて船がしずかに下り始めると二人は眠い目をこすりながら移り行く両岸の景色に目を奪われつつ、川面に浮かぶ高瀬船の揺れに心地よく身を任せ両岸の子供に手を振りながら岡山に思いをはせて旭川を下って行くのであった。
※ 江戸時代から昭和の初期に姿を消すまで輸送用の下(さ)がりの高瀬船は下流の岡山や倉敷、備前に、岡山県の三大河川といわれる旭川や高梁(たかはし)川、吉井川をつかって米、炭、薪や鉄などを運び、上(のぼ)りは塩、油、畳表などの日用雑貨品などを運んだ。 操船(そうせん)はだいたい3人の船頭が当たり、上りは風がないときは船から船頭が下りて曳船(ひきふね)道(みち)を引き綱でのぼった。激しい労働から気性の荒いことでも有名であり、時には千八百貫(約675kg)の荷物を積んだという。
また森鴎外の名作で有名な「高瀬舟」は、江戸時代初期に京都に生まれた豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)(1554年~1614年)が吉井川の高瀬船が船底が浅く荷物を大量に運搬できるという特性に目を着け、全国の河川での水運に用いたことから広まったといわれている。
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その4、三蟠(さんばん)港
旭川を高瀬船で下がってきた二人は若いだけに十分体力も回復していたが、やがて瀬戸内海の児島湾に臨む河口近くにたどり着くと、慌てて立ち上がり船を大きく揺らして船頭に小言をいわれた銀之助が恥ずかしさを隠すようにいった。
「もう少しで落ちるところだった。しかしここから神戸までの蒸気船が出る三蟠港まではどのくらいあるんだ。」
「お女中の話では一里ばかり南に行くとのことだったぞ。」
それを聞きながら歩いていた銀之助はまたまた客引きに袖を掴まれたが、二度目のことで多少はゆとりを持って執拗な客引き達を裁いていったが、港へ近づくに従い人の数が増えものすごい勢いで馬車や荷車がガラガラと埃を上げて通り過ぎ、人々が口々に声高に何か言い合いながら脇目もふらずに人ごみを縫うように行き過ぎていった。
二人はくらくらと眩暈のようなものを感じた。
「あそこに汽船旅行案内という看板を下げた旅館があるぞ。」
うれしそうに看板を指差して銀之助が声を掛け、往来の雑多な人波から避難するように看板の下に駆け寄って格子の中を覗き込んだ。
店の中では旅姿の人たちと前掛けをかけた店員達が忙しく立ち回っていたが、表の格子にしがみついて覗き込んでいる二人に気が付いた女将がすばやく外に走り出ると手招きをして店内に招じ入れるのだった。
「お二人はどこまでお出でになるのです。ぼやぼやしてると迷子になりますよ。田舎から出てきたばかりはみんな人酔いといって人ごみに酔ってしまうんですから。」
上がり口に二人を腰かけさせると、すばやく女中に目配せしてお茶を出させた。
ようやく人心地を取り戻して、銀之助が聞く。
「ところでおかみさん、田舎者だとわかりますか。」
女将が笑いながら訛りは国の手形ですよと告げると、二人は納得して蒸気船への乗りかたを素直に聞いた。
明治10年(1877年)の西南戦争終了で政府に徴用されていた多くの艦船が民間に払い下げられると、それまで瀬戸内海で物資の運搬を一気に引き受けていた旧来の日本製帆船を一気に衰退に追い込んだのである。
またそれにともない目先の利いた船主達は物資や乗客の運搬業に乗り出し、新規参入してきたイギリスやフランスの資本による艦船との間にも猛烈な客の奪い合いから値引き戦争に発展した結果過当なまでの値下げ競争を繰り広げるようになってきていた。
つまり瀬戸内海は外国と神戸、大阪、横浜などを結ぶ艦船の高速道路として鍋が沸き立つような活況を呈するようになってきていたのであった。
※三蟠(さんばん)港は岡山県を流れる旭川河口近くにあり、瀬戸内海に面した児島湾の干拓地に作られた今では使われることの無くなった港の名前である。干拓は江戸時代から新田開拓のため本格化し、明治時代は失業した武士の救済のために引き続き行なわれた。明治初期には瀬戸内海で汽船による運行が活発化し明治3年(1870年)には神戸との間に航路が開かれ蒸気船が就航したが、明治18年(1885年)8月6日には明治天皇の山陽道巡行が行なわれ三蟠(さんばん)港より上陸したことを記念する石碑が立っている。
※明治27年発行の汽車汽船旅行案内の価格によれば、明治17年(1884年)設立の大阪商船会社の大阪玉島線(玉島港は岡山県高梁川河口にある現水島港)で岡山、神戸間の船賃は上等で八十銭、中等四十銭、下等三十銭(これは代用教員の一月の給料を5円とした場合で上等は約28800円中等約14400円約下等は約10800円となる。)
また明治18年(1885年)には全てにおいて過当競争を繰り広げていた三菱会社と東京帆船会社を合併して設立された日本郵船会社が誕生した。日本郵船の神戸小樽間(東回り)では上等7円五十銭、中等五円、下等二円五十銭(上等約270000円、中等約180000円、下等約90000円)の船賃であった。ちなみに上等船客は食事が洋食であることをアピールしていたが、食事を別にした場合は一日五十銭(約18000円)の費用がかかった。
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その5、神戸港から横浜へ
「起きろ。神戸港が見えてきたぞ。」
叩き起こされた清一は目をこすりながら飛び起きると、慌てて甲板に駆け上がり船首を目指した。
そこには今まで見たこともないような多くの巨大蒸気船が黒々と煙突から煙を吐きながら停泊していたが、それらの巨船の間を縫って神戸港に近づいていく二人の蒸気船はずっと見劣りがする。そばを通ると巨船は身体をぶるぶると震わせていたが、よくみるとひどく小さい船が陸とそれらの船の間を漕ぎ進んでいた。
「あれがバッテラだな。なるほどホーランエンヤの櫂伝馬船とよく似ているが船の幅が随分細いし速度も速いようだ。
しかし船尾がとがっていずに舵が付いているから、カッターという舟かも知れん。櫂も随分と長いし櫓で漕いでいる船も結構あるじゃないか。」
「それにしても良く解るな。さすがに船大工の所に入り浸ってた奴は違う。」
やがて汽船は岸壁に着きタラップを下ろしたので他の乗客に揉まれるように降りていくと、常に揺れるタラップに足元が覚束ない二人の顔は煙突の煤で黒光し目玉ばかりが白く光っていた。
神戸の外国人居留地は明治7年(1874年)頃からガス灯が点灯していたが、当時の神戸港はまだ文明開化による電灯の恩恵は受けていなかったが、それでもはるかに街は明るく東洋一と歌われた外国人街は美しく国際的な雰囲気に満ちている。
明朝の早立ちと横浜までの乗船を考え三蟠(さんばん)港で女将に聞いてきた旅館に宿を取ったが、銀之助は観光する間もなく出かけて行く。
やがて息を切らせて帰ってきた。
「今お女中から面白い話しを聞いてきたぞ。」
「ほう。」
「以前から客の取り合いでしのぎを削っていた三菱と東京帆船会社が船賃の値引き競争に加えて、乗船してくれれば手拭やお土産までくれるということになっているそうだ。
これじゃ、いくら素人が考えても赤字だろうが大丈夫かな。」
「聞いているのか。何処かおかしいんじゃないか。」
清一はそれには答えないで長々と横になった。
「なにか酒も飲んでいないのに体がまだ揺れているような感じだ。」
「お前船酔いになっているじゃないのか。」
「わからんが変な気分だ。」
「やはり船酔いだな。いいから横になっておけ。」
そう言ってさらに続ける。
「幸い明日イギリスの船が出るそうだが、なんと船賃は無料だと言うんだ。」
「それは本当か。何か理由があるんじゃないか。」
起き上がった清一がいつもの癖で頭を傾げて考え出したのは、特別な理由があるのではないかと思ったからだった。
「実はその通り。これには訳があってイギリス船は客船ではなく貨物船だよ。」
「それでは俺達は荷物と同じ扱いか。いくら貧乏でもそんな船に乗って沈没したらどうするんだ。」
「だから訳ありなんだ。つまり食事もなしで荷物と一緒。今後のために日本人に恩を売っときたいということだろう。しかもただというのに手数料は掛かるという訳だ。」
世の中にそんな商売があることを知り清一は驚いていたが、イギリスは目先のことに構わずここは静観して客船という立場で日本の船会社との競争に加わらず、貨物船という例外で固定客を増やそうとしているのだと気が付いたからであった。
また貨物船なので日本の船会社から因縁をつけられても上手く言い訳出来るように食事も出さない。
「しかし無料と言うのに手数料が掛かるとはどういうことだ。」
「よくそこに気づいた。それはタダだといっても外国船に乗るには役所から許可証を取らなければならないが、その手続きを代行する所には費用を払わなくてはならない。つまり旅館が儲かるということだな。
速く返事をしないと人数がいっぱいになるそうだぞ。」
日本の蒸気船にはすでに岡山から乗ったが、これから東京で学ぼうとしている法科という学問には、そういう経験が必要になるのではないか。机上の学問ではなく現実にこそ問題がある以上、現場を知らなければ解決の糸口はつかめないと考えたからである。
そして法は人のための法であり法のために人がいるのではないと、父の姿を見ながら思っていたからでもあった。
決断は早い。
「よし。乗って経験してやろう。」
合点して走り出した銀之助に声をかけた。
「お女中にお神酒を頼んでくれ。船酔いを直すんだ。」
旅館に外国汽船に乗船する手続きをしてもらい握り飯を持ってイギリス籍の貨物船に乗り込むと、すでに船内には横浜まで送られる乳牛という先客がいて柵の向こうでもくもくと藁を食べていた。
二人が顔を見合わせながら隅に筵を引いて横になっていると汽笛が高らかに鳴り、船体をぶるぶると振るわせながら岸壁を離れ出港した。
「これはたまらん。」
二人は口々に叫びながら慌てて船内を右往左往したが、それは船の傾きで牛がもうもうと騒ぎ出すのと同時に牛の糞尿がこちらに押し寄せて来るからであった。
しかし乗ってしまったからには何を言っても無駄であり、ただで乗せてもらっている身分だけにひたすら横浜まで我慢するしかなかったのである。
※ 明治3年(1870年)神戸の外国人居留地(あるいは外国人租界)では薬剤師で有名なスポーツマンだったアレキサンダー・キャメロン・シム(天保11年1840年スコットランド生まれ)の尽力によって、神戸レガッタ・アンド・アスレチッククラブ(K、R、&、A、C)が誕生していた。
1870年に香港から長崎をへて神戸に着いた彼は、当時既に有名なスポーツマンで各種の大会で優勝していた。
やがて彼はそこでボートハウス(ボートを格納する艇庫および更衣室や娯楽室も備えたもの)の建設を提案し多くのオアーズマン(ラグビー競技を行なうものはラガーマンと呼び、ボート競技を行なうものはオアーズマンと呼ばれている。)が答え神戸開港後3年にして、京町79番地の初代オリエントホテルで会議が開かれ創設者43名による署名をもって基本的会則が決められた。
そしてボウリングや乗馬及び狩猟、陸上競技、海水浴などが行なわれ、居留地に住む多くの外国人たちがスポーツ(娯楽・息抜き)を楽しみ、現在までクラブは継続されているがクラブの内陸地への移転に伴いボート競技は行なわれていない。
当初ボートハウスは東の船溜りとよばれた近くに建設され、おそらくクリンカー艇(厚板合板の鎧張り艇、滑席艇・スライディングシート)の舵付きフォア(舵手つき(コックスという)5人乗り4人漕ぎ艇・1人でオール1本を漕ぐ)と、シングルスカル(1人漕ぎ1人オール2本を漕ぐ1人乗り艇)、ダブルスカル(2人漕ぎ1人2本のオールを漕ぐ2人乗り艇)、舵付きペア(コックス付きで2人漕ぎ1人オール一本を漕ぐ3人乗り)などを数艇所有していた。
カッターなどの固定席艇とは異なり競争用の滑席艇(スライディングシート)は選手が座る座席の下にコロが装着されていて、膝を曲げ伸ばすことにより力をオールに伝えることが出来る。非常に艇のバランスを取ることが難しいが、明治3年(1870年)アメリカのニューヨークにあるナッソー・ボートクラブのキャプテン、J・C・Babcockによって発明されたこの装置はスピードが固定席艇を上回るためすでに諸外国の競技用ボートでは装備されていた。
また1人で1本のオールを漕ぐ種目をスイープ種目といい、1人で2本のオールを漕ぐ種目をスカル種目というが、艇庫の広さは舵付きフォア(コックス付きで1人1本のオールを漕ぐ4人漕ぎ5人乗り艇)が8艇収容できる広さであった。
ボート競技の艇は初期の頃に中国の広東に注文したが、舵付きフォア(4)はドイツのフランクフルト、シングルスカルはイギリスから取り寄せていた。
K、R、&、A、Cのボートレースは明治3年(1870年)12月24日にクラブの創立を祝して行われ以降は春と秋の2回行われた。
一方横浜では慶応2年(1866年)に横浜アマチュアローイングクラブの前身であるバージクラブ(バージ、手漕ぎ船の一種)が横浜市中区山下町12番地のオリエンタルホテル前の通称フランス波止場にボートハウスを建築し創立された。
さらに4年後の明治4年(1871年)初のインターポート・レガッタが横浜で行われ、当時二つあった外国人のレガッタ・クラブ(横浜レガッタ競技クラブとニッポン・レガッタ競技クラブ)の間で行なわれ、種目は滑席艇(スライディングシート)で舵付きフォアと舵付きペア、ダブルスカルおよびシングルスカルで行なわれた。
また同年横浜アマチュア・ローイングクラブ(YARC)がアメリカ人のジョージ・ハミルトンらの努力で創立されると国際的なボートレースであるインターポート・レガッタは
明治6年(1873年)神戸R、&、A、Cが長崎に遠征し長崎クラブとレースを行ない、明治8年(1875年)には再び長崎に遠征し長崎クラブや上海クラブとレースを行ないレガッタカップを獲得した。
明治12年頃には横浜・神戸・長崎・上海で開催地持ち回りの大会が行われ、4人漕ぎ・6人漕ぎの滑席艇レースや海軍のカッターレース、ヨットでのレースも行なわれた。 以後インターポート・レガッタは外国人社会の恒例行事となった。
一方長崎ではすでに文久一年(1861年)9月26日火曜日にイギリス人による滑席艇(スライディングシート)で長崎レガッタが行なわれたが、長崎レガッタのレースには大浦レース(ヨーロッパ人舵付き4人漕ぎ、1,5マイル、参加費5ドル、賞金25ドル(1位と2位に賞金付き)や九州レース(日本船のレース)、稲佐レース(日本人4人組)、また長崎カップには2種目あり男子舵付き4とシングルペア(これはダブルスカル)があり舵付き4では1マイル、参加費5ドル、優勝カップ、総合優勝に75メキシコドル、もう一つの長崎カップは快走舟レースといわれていた。他にも帆船レースなどの合計8種目が行なわれ複数種目の出場が認められていたが、3年後の元治元年(1864年)に行なわれた長崎レガッタではグラバー商会の代表でイギリス人のトーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド・アバディーン州出身)が弟のA・J・グラバーと組んで長崎カップのダブルスカルで優勝している。 後年グラバーは東京に移り住み三菱の会社顧問に迎えられ、麒麟ビールのラベルに彼のトレードマークである頬から鼻下までつながった見事な髭を残している。
長崎レガッタがいつまで続いたか不明だが、グラバーが優勝した長崎レガッタが行なわれた年より6年後に神戸に向かったイギリス人で高名なスポーツマンであったアレキサンダー・キャメロン・シムは大会を観戦したり影響を強く受けたとも考えられる。
それ以外でも横浜では文久3年(1863年10月5~6日)にかけてイギリス艦隊の水兵がカッターでレースを行いグランド・ヨコハマ・インターナショナル・レガッタとして人気を呼び以後神戸や長崎の艦隊との間でレースを行ない、6年後の明治2年(1869年)にはイギリスのビクトリア女王の誕生日を祝してカッターレースを行なった。
さらに明治10年(1877年)にはアメリカ対イギリスのカッターレースが行なわれアメリカの勝利に終わった。
また隅田川では明治11年(1878年)11月16日に外国人の東京漕艇クラブが、秋季競漕大会を大橋と永代橋の間で開催し隅田川の両岸は見物人が多く集まった。
そして明治14年(1881年)6月16日に隅田川で行われた海軍のボートレースに横浜アマチュア・ローイング・クラブが出漕(しゅっそう)しているが、さらに端艇ブームが高まったのは明治15年から17年にかけて3年連続で(1882、83、84年)隅田川で行なわれた海軍のカッターによる端舩(はしふな)(端船)競漕を天皇、皇后両陛下がご観覧されたので墨提(ぼくてい)と呼ばれていた隅田側の両岸は見物の市民で立錐の余地がないほどに溢れかえり、明治16年の競漕会の様子は江崎礼二により写真撮影された。
つまり二人がこれから向かおうとしている明治16年(1883年)は、新生日本の首都である東京・隅田川に空前のボートレースブームが巻き起ころうとしている直前のことだったのである。
推敲済み
その6、For East、もう一つの船出
1875年(明治8年)1人のイギリス人がロンドンから遥か遠く離れた極東の島国、日本に向かう船のデッキに立っていた。
乗っていた汽船はイギリスのP&O汽船会社(Peninsular and Oriental Steams Navigation Company)の所有するOrissa号である。
かつてはイギリスからアジアの国々を経て日本まで旅する場合、アフリカの喜望峰を回って半年もかかる気の遠くなるような旅だったが、1869年(明治2年)に地中海とインド洋を結ぶスエズ運河が10年の月日を経てエジプトに完成しその行程は約2ヶ月と大幅に縮小されたのだが、この20代前半で立派な口髭を蓄え少し物憂げな青年の名前は、ストレンジ(1853年、嘉永5年頃ロンドン生・身長約5尺7~8寸約175cm・体重約17~18貫約67kg)といった。
汽船の中でストレンジはテームズ川で見たヘンリーレガッタの風景の中で、紳士淑女が着飾ってクラブのネクタイを誇らしげにしたり、ブレザーの胸に付けた団体ごとのエンブレムに憧れたことを思い出していた。
またクラブごとに異なる色で塗られたオールの先端部分であるブレードカラーを見れば、一目でそのクルーの所属先がわかると同時に優勝したクルーは記念のメダルを胸から下げおり、中にはクラブごとにテントにブレードカラーと同じ旗を掲げていたので関係者はその旗のもとに集い歓談していたが、クルーの家族は皆一様に喜色をあらわにしている。また試合で力漕を終えた選手たちは汗に濡れたユニホームのまま誇らしげに会場を歩き回っているのだった。
ストレンジはそんな中を所在無げに歩き回っていたが、時には見知った顔を見出しても彼らは大学ボート部の選手や卒業生である以上ボート部の集団の中にいるので関係者ではない自分が声を掛けるのもはばかられたが、時にはクラブの先輩達が後輩クルーの力漕と健闘を称えあって乾杯しているビールが肩にかかってしまうことも経験していたし、時には優勝クルーの小柄なコックス(舵手)が恒例行事の一つとして大きな選手によってテームズ川に投げ入れられたときの飛沫(しぶき)がかかることもあったがそれらの事を嫌いではなかった。
なぜならばヘンリーレガッタの会場はそのまま巨大なイギリスの社交場であり、見物に来ている多くの外国人たちの国籍を見ても広く世界を感じることが出来るからであった。
ストレンジはレガッタ会場での煌び(きら)やかで華やかなようすを思い出しながら、当時イギリスを覆い始めていたアスレティシズム思想の強い影響下で行われた授業の中で感じた、ボートを漕ぐ楽しさや陸上競技の勝利や球技の持つ偶然のスリルなどを懐かしく感じていた。
しかし大学を卒業はしてみたもののストレンジにはこれといってなりたい職業や大きな夢もなかったが、ただ漠然と新聞で読んだイギリスと良く似た小さな島国の外国人居留地でローイングクラブを作りスポーツを楽しんでいるという記事に心を惹かれたことがあった。
そこでストレンジは漠然と自分というものの存在意義を探すための旅に出ることにしたが、特に仲間意識が強く面倒見が良いことで知られているオアーズマン達(ボート仲間)に横浜のアマチュア・ローイング・クラブへの紹介を依頼してこの船に乗ったのである。
やがて波頭を越えて東洋の小さな島国の港横浜にたどり着いたのは1875年(明治8年)3月22日のことであり後に清一達と運命的な出会いをすることになるのである。
ストレンジの正式な名前はフレデリック、ウイリアム、ストレンジ(Frederick William Strange)といって、ストレンジという言葉のようにかなり奇妙で不思議な雰囲気を持つ青年であり、やがて日本に芽生える近代スポーツの中でも特に初期に人気が高まったボート競技と陸上競技の恩人と称えられるようになるが、これらの2種目が日本人のスポーツに対する考えかたにまで大きく影響を及ぼしていくとは夢にも思ってはいなかったが、彼自身も日本まで来た本当の理由については理解していなかったに違いない。
しかし教師として彼ほど情熱を傾けて日本の学生にスポーツを指導したお雇い外国人はいないが、それ以前の半生はいまだ知られていない。そして日本に近代スポーツをもたらした彼の教えた教科は以外にも体育ではなく英語だったのである。
一説によればイギリスのデボンシャー州の出身で、イートン校卒業あるいはイートン校からオックスフォード大学に進み卒業、又はケンブリッジ大学卒業、そして最近ではロンドン出身でユニバーシティー・カレッジスクールに1867年から1868年に在籍していたと思われる。
※イギリスでは4年間のジュニアスクールと呼ばれる初等教育が終わると、11歳からシニアスクールあるいはパブリックスクールという中等教育を5年間受け16歳から2年間の高等教育(大学)を受けるための6th Form(シックス フォームカレッジ)で学ぶ場合が多いが大学に当たる高等教育は3年間で終了するので20歳で卒業ということになる。
19世紀当初の中等教育時代の体育としては、クリケットとゴルフだけが公認されたルールの元で活動が行なわれていたが、徒歩競争はまだ陸上競技会の形を成しておらずボートも1716年からトーマス・ダゲット(Thomas Dogget)が後にブレザーと呼ばれるようになる赤色の上着を賞品として第1回のレースを始め、当時は漁師や渡守りあるいはプロのコーチ達が1人乗り2本オールのシングルスカルを漕ぎ時には金銭が賭けられるような形式で近代的なボートレースの形式はまだ出来ていない。
そして1805年(文化2年)にロンドンで初めてアマチュアのボートレースが行なわれたことをスポーティングマガジン誌が報告し、1829年(文政12年)には初めての第1回ケンブリッジ大学とオックスフォード大学による対校レースが行なわれたが、1839年(天保10年)に行なわれたボートレースはヘンリーレガッタ(Henley Regatta)と呼ばれ大会に参加する資格として、5月10日に世界ではじめてプロの選手が参加できないというアマチュア規定を定めた。
そのような中で1840年頃にはボート競技の指導者のことをコーチ(coach)と呼ぶようになっていくが、コーチという名前の由来はヨーロッパのハンガリーという国の北部にあるコーチェ村の名前だと言われている。そこでは昔から幌付きの四輪馬車が作られていたが幌付き四輪馬車の乗客を乗客の望む目的地まで運んだという事から、コーチという言葉が使われるようになったと思われる。
やがてそのコーチという言葉は19世紀のイギリスに伝わり、1840年代になるとオックスフォード大学では大学合格を目指す学生のために受験指導をした個人教師を学生達の俗語で「コーチ」と呼ぶようになったが、スポーツでは1829年に初めて第1回大会が行なわれて以降、現在も継続して行なわれている世界的に有名な大学対校戦であるケンブリッジ大学対オックスフォード大学のボートレースの中でボートの指導者のことをコーチと呼び初めたのであった。イギリスでは現在も長距離バスのことを「コーチ」と呼んでいることから、これも同じように乗客を目的地まで連れて行く役割を担っているからだと考えられている。
一方でコーチという呼び方は他のスポーツにも影響を与え、やがてアメリカ大陸に渡った移民を通してスポーツの指導者をアメリカ合衆国ではコーチと呼ぶようになって行ったと考えられる。
しかし各競技の各分野における技術的な指導者のことはコーチと呼ぶが、日本の監督に当たる言葉はヘッドコーチという言い方が一番ふさわしいようである。しかしアメリカ合衆国以外の国では、サッカーを見た場合コーチのことを違う呼び方で呼んでいる場合もある。
すなわちイングランドではマネージャー(現場の統括責任者、選手のスカウト、メンバー決定、練習、試合の指揮まで行なう)
ヨーロッパではトレーナー(ドイツでは統括責任者であるが試合における指揮は取らない、試合における指揮を取るのはマネージャー)という具合に違いがあるがそれはやはりそれぞれの国における文化的な歴史の違いに原因があると考えられるのではないだろうか。
一方日本ではスポーツの指導者は監督とコーチと呼ばれている場合が多く、中にはコーチを束ねるヘッドコーチと呼ばれるコーチの最高責任者もいる場合があるが、コーチはチームの練習、ヘッドコーチはコーチの意見をまとめて監督に対する助言を行うというように考えられている。
またストレンジが教育を受けていた19世紀の後半になると体育の授業の中でボートや陸上競技あるいはクリケット・フットボール(1863年文久3年にサッカーとラグビーが競技として分かれた)などの種目をシーズンごとに選択して受けるようになる。したがって正式にクラブや大学のメンバーとして選手活動をしていなくても、学校で受けた授業の経験からそれらの種目を行なうことが出来るある程度の技術を身に付けることはできた。
そして当時イギリス中を覆っていたアスレティシズム思想は学校教育の身体活動を単なる遊びとしてしか容認してこなかった考え方から、青少年の健全な育成にはスポーツがギリシャやラテンなどの古典を学ぶ教養などと同じように必要であるとして世界中に文化と共にスポーツを輸出していったと思われる。
すなわちそれは紳士の条件としての学問的教養であり、スポーツを通して体得していくフェアプレーの精神や協調性・忍耐力などの精神的強さが社会から求められるようになってきたことを示していたが、強靭な精神力と健康な肉体を持つということは外国において強力なイギリスの軍隊を維持するために必要であった頑健な兵士の養成を図るという側面をも持ち合わせていたのであった。
推敲済み
その7、当時の世界情勢
しかし一方でストレンジの生きていた当時のイギリスと世界中の列強は鎖国により平和を享受していた日本より遥かに早く、他国を軍事力で恫喝し侵略し植民地化するなどして戦争に明け暮れていた。
18世紀(1700年代)後半までにイギリスはアメリカに13箇所もの植民地を持っていたが、イギリス政府軍と植民地軍との間に戦争が起こり1776年に独立宣言を出したアメリカは、19世紀後半1846年のアメリカ・メキシコ戦争を経て1865年南北戦争を終了し再び統一されてからは目覚しい発展を続けた。
また貿易や戦争などで植民地から富の収集を行い大英帝国を築き上げたイギリスは、18世紀後半に産業革命に成功しそれまでの大地主が経済を握っていた状況から、資本家の支配へと変化していった。さらに労働者と富裕層との格差が大きくなっていく中で、世界の工場として工業製品や武器を大量に輸出しさらに国力を高めようとしていた。
フランス帝国ではイギリスに対抗しアメリカの独立戦争に資金的援助を行なったが、結局はそのことによる国力低下と王室の贅沢な暮らしに憤った市民達によって18世紀後半の1789年、フランス革命が起こり国王は処刑され共和制となった。しかしフランス革命がヨーロッパ諸国に広がることを恐れた列強の国王達(ローマ帝国からその地の統治を許された領主の子孫達)は、イギリスの呼びかけによりロシア・プロイセン(ドイツ)・オーストリア・スペインなどが参加しフランスを包囲する軍事同盟を結んだ。そこで市民の期待を担って登場したナポレオン・ポナパルトはさらに戦火を拡大し、イタリア・エジプト・オーストリアなどに勝利しさらに領土の拡大を図った。
しかし陸上戦ではオーストリア・ロシア連合軍を撃破したものの、海上戦ではフランス・スペイン連合艦隊がイギリス艦隊に敗れ、さらに戦いが続いた後再びフランスを包囲する軍事同盟がひかれ、ナポレオンが死去すると革命によって国力を大幅に減少する要因となったのである。
さらにロシア帝国は18世紀後半にトルコに戦いを挑みクリミア戦争を引き起こすが、ロシアの南下政策を警戒したイギリス、フランスなどがトルコ側に付いたので破れ、奴隷化した農奴の開放政策に失敗し皇帝の支配力が弱まりロシア革命へとつながっていく。
またドイツ帝国では軍備拡張と領土の拡大を図り、デンマークとの戦争やオーストリア帝国との戦争にも勝利しさらにはフランスとの戦争などをへて強力な帝国へと変貌していくのであった。
つまり二度の世界大戦の前も、日本を取り巻いていた世界は戦国時代そのものだったのである。
推敲終了
第6章、東京遊学時代
その1、東京大学予備門受験準備
横浜港に着いた二人は飽きることなく歩き回っていたが、それは全てが新鮮で刺激に満ちていたため頭が痺れるような興奮を覚えたからだった。
やがて彼らはその興奮を帯びたまま宿を取ったが、体が疲れているにもかかわらず目がさえてとても眠れる状態ではなかった。特に二人の感動を呼んだのは話では聞いたことのある駿河湾から見た霊峰富士の姿であり、富士山は刻々と色を変えながら二人を歓迎しているように感じられ、ふたりは伯耆(ほうき)富士とも呼ばれる大山(だいせん)がなぜ富士と呼ばれているのかが初めて理解できた思いだった。
「銀之助、富士のお山は美しかったなあ。母上にも見せてあげたかったよ。特に真っ白な残雪を頂いた富士山が青空に浮かんでいる様子は何物にも例えようがないくらいの美しさだった。」
「まったくだ。大山も美しいお山であったが、霊峰富士には少しばかり敵わないだろう。しかし都会となると少しばかり塵が多いように感じるのだが、これはしょうがないことなのだろうか。」
「しかし横浜駅で見た岡蒸気も驚いたな。真っ黒い煙を吐きながらすごい速さで走っていた。汽船の何倍もの速さに感じたが、乗っている人たちは転んでしまわないのだろうか。明日乗る岡蒸気が怖くもあり、楽しみでもあるが新橋までの運賃が12kmで1人7銭というのにも驚いた。」
「そうだ。岡蒸気に乗るときは窓をうっかり開けっ放しにしておくと煤が入ってきて、また顔が真っ黒になってしまうそうだぞ。
田舎者と思われないように、周りをしっかりと見て落ち着いて動こうじゃないか。」
互いに励ましあいながら緊張と疲れの中、雑賀町からの旅はようやく終わろうとしていた。二人はどちらが先ということもなく、期待と不安に包まれて深い眠りに落ちていくのだった。
明朝は蒸気機関車で横浜から新橋までの行程であったが、二人にとってはまるでタイムマシンに乗るようなものであったに違いない。
それは雲州から東京までの旅は、まさに新生日本の近代化の道程をたどって来たものだったからである。
新橋についてからはひたすら歩いて、神田駿河台にある元松江中学の校長先生を務めていた田所貢先生宅を目指した。当時の雲州から上京した学生はこの田所先生宅で一先ず旅装を解き、その後の心構えや身の振り方を教授された。
また田所先生宅ではしばしば同郷の者が集まり、意見交換や情報収集などが行なわれ後輩達の指導や薫陶に務めたが、そのおかげで知己を得ることや自然に助け合うことが多かったのである。
また時には島根県の役人が上京したときなどは、明治16年に同期卒業した岸と山崎ら7名を集めて上野の精養軒で洋食をご馳走してくれたこともあったが、まだ上京したばかりの7人は塩と砂糖を間違えたり、大事に食べていた料理をさっさと給仕に片付けられて呆然としてしまったこともあったが、かれらは失敗を繰り返していくうちに、順次続くであろう後輩達のためにこのような経験をもって力になりたいと考えはじめていた。
そこで明治16年(1883年)10月17日に清一の呼びかけで一足先に上京していた志立鐵次郎を加えた八名で外神田福田屋にて出雲学生会を結成したのであった。山崎銀之助もその後6代目の幹事を務めているが出雲学生会はその後も連綿と続き、50年後の昭和7年には会合数三百六十二回を数え同郷の若者の多くの苦難を救い現在もその活動は続いている。
また当時の東京は火事と地震が多く出雲から出てきた学生たちを驚かせたが、それ以上に不景気による諸費用の高騰にも頭を痛めていた。
当然のように設立当初の大学は学術の奨励と人材の育成のため、月謝が無いばかりではなく優秀な成績の学生には学費の給付さえ行なわれていた。しかし純然たる官費による学校ではなかったので次第に給付額が半額に下げられたが、全国からは優秀な学生が続々と入学を目指して上京しつつあった。
そこで清一は東京大学予備門を受験する学生のための予備校である神田駿河台にあった成立学舎に通って受験準備をしたり、すでに東京大学の学生である郷土の先輩の中で特に山口鋭之助に数学を習いながら、学費節約のために上級学年への編入学試験合格を図ったのであった。
推敲済み
その2、ストレンジその後
一方ストレンジは明治8年(1875年)4月19日に慢性的な外国人教師不足に悩んでいた東京英語学校のお雇い外国人教師として採用されたが、その身分は現地採用あるいは推薦人がいなかったことに理由があるのか官費で旅費等が支給されて雇い入れられた他の外国人教師とは異なり正式採用された教員である訓導という身分ではあっても若干給料が他より低いものであった。
科目は数学と英語を教えたが当時の日本人校長の150円の月給に対して、初めの3ヶ月間は月給100円であり次の一年間は月給125円であった。しかし彼の月給は他の外国人教師の中では低いほうで、外人教師の最高額は800円の月給をもらっていた教師も2人いたのである。
日本に到着して以来横浜アマチュア・ローイング・クラブでボートを漕いだり、外国人居留地で開催された陸上競技会に参加するなどして過ごしていたが日本の学生はスポーツに対する関心が薄く座学だけにこだわっていたので、学生にスポーツの楽しさを理解してもらおうと努力していた。しかし学生には郷土の期待が高い上に、学費のために生活を切り詰めなければならずストレンジの呼びかけに答えてスポーツを行おうというものは現れなかった。
しかたなくストレンジは何人かの学生を連れて明治9年(1876年)5月に築地本願寺前の広場で築地外国人居留地に住む者たちを中心にした東京・アスレチック・アソシェーション(T・A・A・A)が行なった春季競技会に出場した。
やがて競技会の委員や事務局長も務めつつ出場すると、クリケットボール投げと1マイル競争で優勝を果たし、翌年には築地海軍兵学寮前の広場で行われた大会にも出場し、クリケットボール投げ3位、ハンマー投げ2位、棒高跳び2位、1/4マイル競争と1マイル競争2位と活躍し面目を施している。
さらには野球やクリケット及びフットボールなどの大会にも出場したが得意とするところはクリケットと1マイル競争及びローイングであった。
明治10年(1877年)10月横浜アマチュア・ローイング・クラブの開催した秋季レガッタの中で行なわれた東京対横浜の舵付き4の対抗レースでは、東京クルーの進行方向先頭のポジションであるバウを漕ぎ、レースには破れたものの良い漕手であるとの評価を受けている。
やがてそのような時代の中で西南戦争が勃発した明治10年(1877年)5月12日には横浜港でアメリカ対イギリスの水兵によるバッテーラ競漕などが人気を呼び、東京英語学校でもその時期と前後して学生たちの有志がクラブを作りボートを漕ぎ始めていた。
学生たちはボートを新造するためにお金を出し合う醵金(きょきん)を行い、固定席艇でカッター仕様のバッテラと呼ばれていた4人漕ぎ艇を2艇作って漕いでいたが、その2艇はやがて東京英語学校の学生とともに統廃合に伴って東京大学予備門や東京商業学校に受け継がれていった。
また東京大学の前身である東京開成学校(明治7年~明治10年)では学生の岡山兼吉(後法律家・明治9年11月入学、明治14年7月東京大学法学部卒業)によれば砂川雄峻(後弁護士)の提案で他の学生達と行なった醵金十五円により4人漕ぎ固定席艇の飛鳥丸というボートを建造し、校舎のあった神田一橋から隅田川に一番近い遊舟屋の野田屋に預けていた。
さらに明治10年頃砂川雄峻達の勧告を受けて東京大学の幹事服部一三が捕鯨船の固定席艇で4人~6人漕ぎで橈も帆も備えていた中古バッテーラ3艇を購入し、同じように浅草橋付近の野田家の付近に吊るして保管し、時には荒川上流の川越付近や神田川の御茶ノ水付近まで出かけたが時には東京湾まで足を伸ばしては楽しむことも多かった。
また当時の学生達はこのバッテーラの船尾に白い布に赤字で大きく大学と書いた旗を立てて盛んに漕ぎまわっては楽しんでいたが、時には隅田川で花見見物のために芸者衆を乗せた屋形船に漕ぎ寄っては、障子に水をかけるなどの悪戯をした上に酒肴の御馳走に預かるというような無邪気な遊びもしていたが、これらの艇は明治10年(1877年)に起きた神田花岡町の大火で大部分が焼失してしまったが、焼け残った6人漕ぎのバッテーラと数本のオールもしだいに老朽化して来たので、この艇を中心にして理学部関係者だけで出来ていた舟行組というクラブは明治13年(1880年)7月ごろ自然解散してしまった。
しかし目先の利いた野田屋はバッテラの需要が高まることを見越して、日本で始めての貸しバッテラ業を営み大繁盛したので大学のバッテラの保管などには進んで協力し便宜を図った。
また夏休みには隅田川の中州での水泳練習やアメリカの中古捕鯨船を手にいれた学生たちが操船練習を行うようになっていったが、明治13年(1880年)10月には体操伝習所の学生達が余暇に漕櫓法を研究すると、翌年に行なわれた第二回内国勧業博覧会にはボート競技の陸上練習用で使用するばね仕掛けのバック台のような器具を出品するようになっていった。
そして清一達が上京した前年の明治15年(1882年)3月14日には、体操伝習所(現筑波大学)が石川島造船所に命じて茗渓(めいけい)・ 昌平(しょうへい)の二艇のボートを新造している。
ストレンジが日本に渡ってきてからしばらくたったある日のこと、東京大学理学部教授の菊池大麓から突然の呼び出しを受けたが、菊池教授は明治3年(1870年)から明治10年(1877年)まで、ケンブリッジ大学のセント・ジョーンズ・カレッジで2度目のイギリス留学を終え帰朝したばかりの新進気鋭の教授である。
面識も無いストレンジは多少の戸惑いを覚えながら、薄暗い廊下を奥まで歩き研究室のドアをノックすると直ぐに返事があった。
「ストレンジ君よく来てくれた。実は君に相談があって来てもらったんだがね。まあ掛けてくれたまえ。」
「菊池先生、何事でしょうか。」
「私は君も知っているとおり、大のスポーツ好きとして鳴らしているのだが、イギリスで経験したフートボールや徒競走の味がどうしても忘れられないのだ。しかし私の相手をしてくれというのではないが、何とかして日本の学生に学問ばかりではなくこれからの日本を背負って立つ紳士としての気概というものをスポーツを通して体得してほしいと考えているのだ。
たしかスポーツマンシップというのだったかな。
またそれには理由があってね。明治12年(1879年)に英字新聞のJ・W・M(Japan Weekly Mail)が日本の高等教育にはPhysical Educationすなわち体育という教科が無いのは大いなる欠陥だという説を掲載したんだが、これが大いに大学当局の上層部を動かしたと見え、ついに東京大学初代綜理加藤弘之先生の肝いりでイギリス帰りの私に白羽の矢を立てて体育の充実と実現について研究するようにとのお達しがあったんだ。
そこで私なりにイギリスの陸上競技会を参考にして実現に向けて試行錯誤していたんだが、実はストレンジ君の陸上競技やボートでの活躍を伝え聞いたものだからぜひ君に協力を頼みたいとこういう訳なんだがね。」
ストレンジは意外な話の展開に胸がわくわくしてきた。まるで1マイル競争のスタート地点に立つような興奮を覚えたのであった。
「菊池先生、それは大変にありがたいお話です。実は私も日本に来て以来何とか学生を引っ張り出そうと考えてきましたが、中々希望者がなく数名の者とボートを漕いだり徒競走などをして気晴らしをしてきました。
それで、実現に向けてどのようにお手伝いをすればよろしいでしょうか。」
スポーツマン同士の話は早い。あっという間に協力関係が出来上がった。
「実はそのことだ。学校当局と予算関係や人的関係は僕に任せてもらって、君の活動と熱心さを見込んで我が日本国にスポーツを根付かせるためにぜひとも知恵を貸してほしいのだ。そして私は陸上のことなら多少の心得はあるが、ボートのことはあまりなじみが無くて困っていたところだ。
ところで君はヘンリーレガッタなども見たことがあるだろう。あの大会のように華やかで意義のある会にしたいと考えているのだ。」
ストレンジは全て了解した。人として生まれて人から必要とされるほど胸踊らすことはない。ましてここは故郷から遠く離れた日本なのだ。そして私が日本国に必要とされるようになるとは。
ストレンジは感慨深くその意味を反芻するのであった。
さらに二人のスポーツ談義は続いたが、菊池教授の計画によれば最終的にはスポーツを通してそれぞれが独立している感のある東京大学の法・理・文の学部間の対抗意識を払拭し一体感を持たせる。ただし東京大学予備門の教師であるストレンジの指導を東京大学の学生が受け入れやすいように、予備門の学生も参加する本邦初の陸上競技会を開くというものであった。
さらに野外における運動を解説した本を出版し、国民のスポーツに対する意識の啓蒙を図るために、本の出版と陸上競技会の開催前に東京大学の講堂においてスポーツに関する講演をストレンジが行ない、準備に時間と予算がかかるボートレースは綜理の加藤先生を大会会長に戴いて来年度に行なうというまさに壮大な計画であった。
そして度重なる会合を経て本のタイトルは《Outdoor・ Games》と決定し講演日は、明治16年(1883年)6月9日、本の出版は東京丸善出版社から6月11日、そして記念すべき東京大学と東京大学予備門合同による第一回陸上運動会は6月16日に開催することに決定したのであった。
※スポーツやベースボール、ボートのように新しく西洋からその言葉自体がない日本に新しく入って来た言葉は多いが、日本にも昔から身体を動かすときの言葉なども多く使われていた事も事実である。身体の養生とか身体の鍛錬、あるいは稽古というような言葉がそれに当たるが、西洋から伝来して来た言葉を日本語に訳さなければ不便を来していた事も事実であった。
また訳された言葉はいくたびかの変遷を経て人々に支持されて、膾炙(かいしゃ)されることによって今日に至り定着しているが、当時日本に取り入れられ注目されて使用されてきた言語は、幕末の軍政改革や教育及び経済などに伴なったものでありオランダ語、ドイツ語やフランス語および英語などである。
この事が西洋から伝来した言葉を日本語に訳する時に、さらに大きな混乱を呼んだであろう事は否めないが、数ある訳語の中から特に体育という言葉がどのように訳され生まれていったのかと言えば、「体 育」という訳語が最初に用いられたのは明治10年ごろと考えられている。
また「体 育」という言葉を造語した人は近藤鎮三氏で、教育雑誌等でこの言葉を用いたと言われているが、明治11年には「体 育」という訳語は言葉として定着し以後広く使われるようになったのであった。
またどのようにして「体 育」という言葉が生まれたのかというと、一般に言われる体育は(physical education)という言葉の訳語であるが、この言葉を日本で初めて訳した人は、明治8年ごろに箕作麟祥氏という人であり初めのころは「体の教」(からだのおしえ)という今でいえばなんとも古風なものであった。
それいらい(physical education)という言葉は明治8年頃にどのように訳するかということについて、多くの試みがなされ「身体之教育」 「身体教育」 「身教」 などという訳語が多く用いられたが、このような試みを経て先に上げた近藤鎮三氏は明治9年、「身体教育」という言葉から「身体教育」を簡約化した「体育」の造語を試みたとされるが、明治11年には「育体」などの訳語も現れたが「身教」という言葉や「体教」というような訳語は試みられなかったようである。それはすなわち今の日本における「縮め言葉」やJOC(日本オリンピック委員会)などというような略語のように、口触りがよく使い易く語感に優れていたからであろうと推察される。
しかし以外なことに「体育」という言葉はそれ以後、第2次世界大戦後になるまで一度も教科名として使われる事は無かったが明治時代には「学校体育」「女子体育」「国民体育」「公衆体育」「社会体育」などの言葉が広く一般的に使用され、今日ではそれらの言葉の大部分が残って今でも用いられていると考えられている。
※スポーツという言葉の語源
私達は普段何気なくスポーツとか体育という言葉を使っているし、体育の授業というように使ったりしているがスポーツの授業と言うことはあまりないようである。しかし一般的に使われているこの二つの言葉は共に身体を動かす事を表している。
しかし私達の中では、体育という授業の中でスポーツと言う身体を動かす事を行なうというイメージが強いようである。では普段何気なく使っているこの「スポーツ」という言葉はどこの言葉で、どこから来たのであろうか。
それはラテン語の「ものを運ぶ」(portare・ポルターレ)という言葉が語源でやがて「気晴らしをする」
(deportare・デポルターレ)という言葉に変化して行ったようである。その言葉はやがてフランスに伝わり「気分転換する」(desporter)という言葉に変わり、イギリスに伝わった時には「日常からの脱出」(disport)となりやがては、
「休養、娯楽のために行なう運動で踊りや絵画及び遊び」(sport)という言葉になったのである。そしてその言葉が日本に伝わって来た時にはスポーツという娯楽全般の運動(運動会、競技会、遊戯など)を示すようになったと考えられる。
また当時の日本には適当な言葉が見当たらなかったため、東京帝国大学で初めて行なわれた複数の競技を行なう運動競技会などから、運動そのものをスポーツと呼ぶようになったがスポーツの持つ本来の意味は息抜きや気晴らしという意味を持っており、クーベルタン男爵らの努力により復活した初期の近代オリンピックでは絵画や芸術部門の大会が行われていたのであった。
つまりは私達が日常的に使っているスポーツという言葉の本来の意味は単なる身体の運動ではなく娯楽そのものであったと言える。
一方で英語の表現では「競技」を表すアスレチクス(athletics)という言葉があり、それが競技そのものを行なう人を示してアスリートというように使われている。またアスリートという言葉はイギリスでは陸上競技に限って使われ、アメリカではスポーツを行なう人全般を表しているといわれている。
推敲済み
その3、近代オリンピックの復活
19世紀のフランスは度重なる革命や戦争によって国力を下げ青少年達も生きる希望を失っていたが、当時のフランスではスポーツの必要性を認めずスポーツは余暇と経済的に余裕のある貴族階級の特権的なものという考えが大勢を占めていた。
1871年(明治4年)にはナポレオン3世が対ドイツ戦争で歴史的大敗を喫し領土の割譲、巨額な賠償金問題で帝政は崩壊し革命も起きていたが、その革命によって青少年達は精神的に荒廃し生きる希望を失いつつあった。そのような青少年の現状を嘆き再びフランスに生きる活力を与えたいと考えていたのが体育教育の重要性を主張していた近代オリンピックの父と呼ばれるクーベルタン男爵であり、その痛烈な思いから彼は岸が東京遊学に登った明治16年1883年にイギリスに留学しアスレティシズム思想を学んだ。
またクーベルタン男爵はこのイギリス留学でラグビー競技の生まれたたラグビー校などを視察し、英国教育の一環であるスポーツこそが規律を重んじ心身ともに優れた若者を育成出来ると考え、当時在籍していた士官学校を退学して教育者としての道を歩み出したのであった。
そして留学から13年後の1896年(明治29年)第1回近代オリンピック大会(アテネ大会)の開催に漕ぎつけたが、本当の近代オリンピック復活のアイディアはクーベルタン男爵の独創的アイディアではないとも言われている。
それはイギリスのロンドンから車で3時間あまり離れた所にある「マッチ・ウエンロック」という田舎町で1850年から「ウエンロックオリンピック」が行われているからであり、当時古代ギリシャ文化に関心を持って研究をしていたウイリアム・ブルック博士が、古代オリンピックの遺跡が発掘された事に触発され大会を考案し、司教などの反対を押しきって当時のイギリスでは珍しい市民の全階層参加型の競技会を開催しているからであり、大会を視察したクーベルタン男爵は表彰台やメダルなどのアイディアを得たと言われている。
推敲済み
その4、日本初の学生による陸上運動会とボートレース
フランスでクーベルタン男爵が青少年の体育活動を重要視したいと考えイギリスに渡った明治16年(1883年)は、日本のスポーツにとって極めて記念的な年となった。
それは日本にイギリスからストレンジがきてから8年後のことで、他のお雇い外国人たちや外国人居留地の人々あるいはスポーツを愛する多くの日本人達の努力もあって、ようやくに日本に近代スポーツの華が一気に咲き出す年となったからである。
幕末期の徳川幕府のもとではオランダ語やポルトガル語などの洋書の翻訳や通詞(通訳)の養成のため、安政4年(1857年)蛮書調所が設けられそれが後には英語も加えられ、文久2年(1862年)洋書調所、文久3年(1863年)には開成所そして明治2年(1863年)には開成学校と改められたが、明治維新後の日本では学校もその混乱の影響を受け、校名の変更や併合あるいは廃止などが相次いだ。
さらに外国語の重要性に気づいた政府は明治6年(1873年)幕府の蛮書調所(ばんしょしらべしょ)の流れをくむ東京外国語学校を創設し、明治7年(1874年)には英語科のみを分離独立させて東京英語学校を設け全国にあった6ヶ所の外国語学校を各英語学校と改めた。
その後開成学校は明治2年(1869年)大学南校、明治6年(1873年)開成学校、明治7年(1874年)東京開成学校、そして明治10年(1877年)ついに日本で始めての近代的な大学として東京大学が誕生した。
しかし当初の教師陣の多くは外国から雇い入れられた外国人が占めていたため教科書も原書を用い授業からノート及び答案に至るまで全て外国語で行なわれていたため、それらの専門教育を受けるにはまず高い外国語能力を習得することが必須であったので、大学での専門的教育を受けるための語学を身に付けるために、明治10年(1877年)予備教育機関として東京大学予備門が設置されたのであったが、当初東京英語学校の教師としてボート競技の種を蒔いたストレンジも校名の変更に伴い東京大学予備門の教師となっていたのであった。
清一たちが上京して間もない明治16年(1883年)6月16日に東京大学主催の第一回陸上運動会が開催されたが、なにしろ本邦初の学生による運動会の開催ということで新聞はもちろん各方面の注目を大いに集めていたので清一と銀之助も連れ立って見学に出かけたが、大会が終わって頬を薄く上気させ、興奮のさめないまま熱く語りながら二人は歩いていた。
「とにかく運動会というのは大変なものだ。今まで俺達はどちらかというと遠足しかしてなかったが、あのような種類があるとはイギリスとはすごい国だ。とにかく驚くことばかりだ。」
「見ていた俺まで手に汗をかいた。応援もすごかったし皆が大きな声でわいわい言っているからあまり審判の声など聞こえなかった。」
「それから俺達が入学を希望している予備門の先生たちも随分と手伝いに行っていたが、大学の偉い先生たちも大勢出ていたから大学あげての大会開催のようだったな。
それからスターターをしていたのが予備門の服部一三先生で、破れたこうもり傘で(いいか、一、二、三!)と出発させていたし、審判をしていたのが英語のストレンジ先生だったのに気が付いたか。」
「それからすごい顔ぶれといえばイギリス帰りの菊池先生という人が作戦参謀格で全てを取り仕切っていたそうだ。またグランドの回りを走っていたりするかと思えば、グランドの中では砲兵(ほうへい)工廠(こうしょう)から貰ってきた砲丸を使った砲丸投げやクリケット投げと棒高跳びなどが行なわれていたが、ハードル競争などは教室の椅子を使ったり準備が本当に大変だったと大学生達が言っていたよ。」
「しかし見物人の多いことといったら、6月3日の隅田川での海軍カッターレースのようだった。まるで芋を洗うようで立錐の余地がないという言葉が実感できたのは初めてだ。」
こうして上京間もない二人は偶然にも世紀の一大イベントの学生による本邦初の運動会を興奮のうちに目撃し、飽きることなく運動会の感想や気が付いた点を話しながら評論を試みるのだった。
やがて夏が過ぎ秋の気配を感じたころ志立鐵次郎が遊びにきてこんなことを言い出した。
「同郷の山口鋭之助さんから聞いたのだが、なんでも明治の6・7年頃から東京大学理学部の連中が舟行組というボートクラブを作ってしきりに漕ぎまわっていたそうだ。そして当時は屋形船やバッテラや艀など漕げれば何でもありだったようだが、やがて火事で焼けたり古くなって漕げなくなり自然解散したというんだ。」
「なるほど。それでどうしたんだ。」
清一はボートの事になると膝を進めて先を促す。
「その後ボート漕ぎがいたく気に入って夢中になっていたのが偉大なる我らが先輩、山口鋭之助を初めとする5人だったということだ。また近頃のボート人気で浅草橋の西北橋近くにあった野田屋に行ってもボートを借りることは難しくなり、一番の問題はお金がかかってしまうのでその費用の捻出も大変だということだそうだ。そこで大学のボートを漕ごうと思ってもボートは2艇あるのにオールが6本しかないから、漕ぎたくてもなかなか漕げないと言う現状で学校のある神田一ツ橋からオールを担いでボートソングを声高らかに歌いながら通っていた先輩達もとうとう困り果て大学にオールを買ってくれと頼みに行ったそうだ。」
「しかしオールが無ければ岡に上がった河童も同じことだ。大学は買ってくれただろう。」
「ところが、大学は予算が無いから買ってやれんと断ったそうだ。」
「随分と物分りが悪いじゃないか。慶応義塾の福沢先生や多くの偉い人も学生にスポーツは必要だと言っているのに。」
「予算が無いから買ってやれんと大学側は言ったのでそれじゃしょうがないと一旦は諦めたのが、我らの先輩山口鋭之助を初めとする例の常連組だ。ところが予算がないと諦めていたら大学は年度最後の3月に予算の消化ためなのかどうか、寄宿舎に板囲いと食堂の玄関を作ったそうだが、学生のために予算を使わないでこんなものを作ったと憤慨した常連組みが、コレラという流行り病のために9月に伸びた卒業式のときに板囲いと玄関を叩き壊してしまった。
すると大学はボートの連中は暴徒だ暴動だといってそのままにも出来ず、官物破毀を理由に学生を調べたら張本人が我らの山口鋭之助先輩であることがわかって退校処分にしたということだ。」
「それじゃ先輩が退校処分ということは、もうボートが漕げないじゃないか。先輩から誘われていたから予備門に入ったらボートを漕ごうと思っていたのにそれじゃあ困る。」
「本当に困ったものだ。先輩達はどうするつもりなんだろう。せっかく大学に入ったというのに。」
しかしそれでも二人の受験勉強は倦むことなく合格目指して続くのだった。
推敲済み
第7章、東京大学予備門時代
その1、ついに予備門合格
年の明けた明治17年(1884年)1月に東京大学予備門の一級(3学年)二級(2学年)三級(3学年)の各級で補欠募集が行なわれることになり、彼らはその入学試験に満を持して応募したが清一の受験した二級の試験は1月8日より12日まで予備門で行なわれ15日に改めて教場掛より呼び出しがあり、翌日英語の読みかたの試験がコックス先生より実施された。
そしてついに17日に合格の知らせを受けた清一は喜び勇んで在学證書(しょうしょ)を提出し、ここに晴れて憧れの東京大学予備門の生徒となったが、それは2年生の3学期に入学したことで予備門の3年間を1年と数ヶ月で卒業できるということを意味していた。
また各級を受験した者の内訳は一級2名、二級10名、三級110名の合計122名を数えたが合格したのは2級に応募した清一ただ1人だったので、直ちに寄宿舎への入舎を希望し速やかに手続きを完了したが、三級を受験した銀之助と同郷のものは残念ながら合格を逃したので再度の受験で入学を果たすのだった。
さらに昨年暴動を起して官物破毀の罪に問われた者の中から順次復校を許されたが、それには学生のスポーツが健全なものであるから出来るだけ学生の希望を叶えたほうが良いとする教授たちの気持ちから教職員が一致して資金の援助をするようになったことを意味していた。
山口鋭之助が退校処分になっていた明治16年(1883年)7月から明治17年(1884年)三月の間に学生のボート熱はさらに高まり、東京大学の文学部の学生たちが中心となって忘濤会(ぼうとうかい)という後のMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ)が上級生を含めた13名の学生により設立され復学した山口鋭之助も当然のように加入したのだった。
また東京大学以外にも東京師範学校(現筑波大学)が日本で一番初めに茗渓(めいけい)と昌平という4本オールで漕ぐカッターより横幅が狭いギグ艇を2艇造り明治16年には茗(めい)淵(えん)と言われていた神田川にこの2艇を繋ぎ週末には学生に貸与して墨田川や神田川を御茶ノ水あたりまで漕がせている。
慶応義塾大学も現在の港区三田に校舎があった関係で品川湾が近かったため、福沢諭吉と同郷で大分県出身の塾長小幡篤次郎の甥で慶応義塾卒業後日本で始めての歯科医となった小幡英之助が明治12年頃ボートを持っていたので学生達がボートを借りて漕いでいたが、塾長の福沢諭吉は早くから学生に運動と健康の重要性を説き、校庭に体育器具を設置するなどしてスポーツを奨励していたので学生達は比較的早くから漕ぎ出す機会に恵まれていたのだった。
彼らはレッドクラブと名乗り隅田川や品川沖を漕いでいたが、墨田川でボートを漕いでいる所を枕橋近くにあった料亭八百松楼の2階から見た福沢諭吉はこれを大いに面白がり時には学生達と一緒に漕いだと伝えられている。
そして後に東京大学工学部となる工部大学は虎ノ門の西側に校舎があり鉄道、鉱山、電信などの人材育成のために設けられたが、当時は別の大学であったので東京大学のボートを使うわけには行かなかったが、明治15年頃(1882年頃)工部大学のお雇い外国人のウエスト教授(チャールズ・ディッキンソン・ウエスト・Charles・Dickinson・West)が4~5艇のボートを所有していたのでこれを借りて漕ぐ者達があった。
また明治16年から17年にかけては築地にあった海軍兵学校の軍艦攝津(せっつ)に学生を派遣し水兵の指導を受けてボートの練習を行い、上達するにつれて品川沖まで出かけたが、その後東京大学のボートレースに刺激を受け新艇1艇を建造し明治18年に隅田川で第一回の競漕大会を開催した。
そのようなボートに対する学生達の努力は当時の社会とそれぞれの学校の教職員達の理解を深めることとなり、東京大学では翌年の競漕会の開催と隅田川における艇庫の建設へと発展し、やがて日本で始めての競技団体である日本漕艇協会の設立へと繋がったのである。
当時予備門の先生たちの多くは正装である五つ紋の黒紋付羽織袴で仙台平の袴を着用し、自宅からお抱えの人力車で通勤してくるという豪勢振りであったが、ある日のこと教場で自慢の髯を撫で上げながら、ストレンジ先生が話し始めた。
「ボーイズ、ボーイズ。君たちは何故身体をきたえないのか。教場で座ってばかりの学問では心も鍛えられず、ジェントルマンにとって最も大切なチームワークやフェアプレーの精神を体得できないではないか。またやがては世界に向かって羽ばたく日本の若者達がスポーツもできないというのでは、列強各国の猛者を相手に交渉事もスムーズには行えないだろう。ボーイズ諸君はぜひスポーツをやりたまえ。」
学生たちは昨年の陸上運動会の余韻が消えないうちにストレンジ先生からの感化を強烈に受けていったが、彼らにとってスポーツへの勧めはときに絶対であり、乾いた砂に水が染み込むようにジェントルマンとしての心得をスポーツを通して吸収していったのである。
やがて学生たちの中には陸上競技会の選手として活躍するものも現れ始め、さらにストレンジ先生の手ほどきを受けてボートを漕ぐようになると、ついには一人前のスポーツマンに成長して行くのだった。
※ ウエスト教授は1847年1月7日現在のアイルランド共和国の首都ダブリン生まれ、明治15年(1882年)~明治19年(1886年)まで工部大学教授、明治19年(1886年)~明治41年(1908年)まで帝国大学、東京帝国大学の教授を務め船舶工学を担当した。明治41年(1908年)1月10日死亡後、ストレンジ先生と同じ青山霊園外人墓地、S2-i4/24-25に埋葬された。
推敲済み1月25日
その2、奥村禮次郎の上京
学生達は学問にも熱中したがあり余る若きエネルギーは一方で出雲学生会の仲間を中心にして、トランプや玉突きと呼ばれていたビリヤードなどの遊戯にも当然のように向けられていった。
そんな予備門生活を送っていたときに開かれた出雲学生会の会合で、集まっていた仲間を見渡して清一が立ち上がって演説を始めた。
「我らが郷土の大先輩にして松江中学の同輩である奥村禮次郎さんがこのたび首尾よく上京されることになった。ついては新橋駅まで出雲学生会のメンバーは全員迎えに行かなくてはならん。今日はそのことについて議論してもらいたい。」
一同は割れんばかりの拍手で賛意を表したが、四十曲がり峠まで見送ってもらった銀之助は今にも泣き出さんばかりに手を打っていた。
「岸君、ところで禮次郎さんはどのようにして資金面を克服したのか、ぜひそこの所を話してもらいたい。」
周りを見渡しながら仲間の気持ちを代弁して銀之助が意見を述べると、一同がうなずいているのを見届けてから清一は話し始める。
「そのことだ。皆も周知の通り小学校の代用教員をしていた禮次郎さんは司法省の法学校が官費生を採用するとの発表を受け、急遽叔父の若槻さんから三十円の資金援助を受けることに成功し、晴れて上京することになったのだ。これは実にわれわれ出雲学生会にとっても喜ばしい次第である。」
一同は故郷を思い出し感激の涙を流したが、手回しの良い銀之助が幹事として酒肴の用意を整えていたため引き続き楽しい宴会となったが、一息ついた所で志立鐵次郎が感嘆したように話し始めた。
「しかし岸君の東京弁もだいぶ板についてきたではないか。初めの頃は東京生まれの武田千代三郎君も君が外国語で話していると本気で思い込んでいたほどだったが、近頃では本当に流暢な東京弁になったものだ。」
一同は頷きあいながら禮次郎を新橋駅まで出迎える約束をして杯を重ねると白熱した議論に時を忘れていくのだった。
やがて禮次郎が新橋駅に着く9月が訪れた。
出雲学生会の一同が連れ立って新橋駅に出向くとやがて蒸気機関車が到着し、改札から奥村禮次郎が姿を現すと学生たちは我先に荷物を奪い合っては大騒ぎの中に岸たちが借りている下宿へと向かったが、彼らが借りていた下宿は予備門が夏期休暇中のため宿舎から出て志立鐵次郎と山崎銀之助、岸清一の3名共同で8畳間を借りていた部屋であった。
到着した夜は歓迎の宴が開かれ出雲学生会の面々から歓迎の言葉が述べられたが、それぞれのメンバーの口から出る東京弁に禮次郎は目を丸くするぐらい驚いていた。
それは今にも喧嘩が始まるのではないかと思うぐらい強く勢いの良いものだったため、口を挟む余裕もなく彼らが披露する新しい知識はさしもの禮次郎をして聞き役に回るしかなかった。
やがて歓迎の宴も終わり仲間が帰っていくと、清一が頭を掻きながら話し出した。
「実は禮次郎さん。我が家には小さい蚊帳が一張りしかありません。
皆雑魚寝ですので、ご不自由をかけると思いますがお許しください。」
そういうと既に酔いつぶれている銀之助はそのまま放置され、部屋の真ん中に頭をそろえて寝ることになると、禮次郎が思わず笑いだしたのは彼らの生活ぶりが、松江の頃と何も変わらぬ慎ましやかで質素なものであったからである。
やがて夜は更けていく。
彼らは小さい蚊帳に丸く頭を並べ入れ、胴体から下はそのまま外に投げ出して無頓着に蚊の攻撃に晒していたが、蚊帳の中は鼾と歯軋り、酒臭い寝息で充満していた。
禮次郎は逞しく成長した仲間達への感動と将来への多少の不安から、いつまでも寝付けない夜を過ごしながら清一と語り明かすのであった。
推敲済み
その3、隅田川での走舸組競漕会
明治16年(1883年)から17年(1884年)にかけてはMBC(メンバー・オブ・ボート・クラブ)の他にも武田千代三郎たちの創設したORC(オリエンタル・ローイング・クラブ)や岸清一が島田剛太郎たちと創設したSRC(スミダ・ローイング・クラブ)などのクラブが続々と誕生し隅田川を我が物顔に漕ぎ回っていたし、明治17年(1884年)には9月に東京大学予備門に入学していた柴野是公(通称是公(ぜこう)、後中村是公・なかむらこれきみ・後の満州鉄道総裁・東京市長)や橋本佐五郎ならびに夏目金之助(夏目漱石)達が好んでボートを漕いでいた。
そこでMBCのメンバー達はボートレース用の正式ユニホームなどまだ無かったため他のクラブとの違い歴然とするために、下着のシャツと股引きで漕いだり、後にはそれらを揃いの色に染めて試合に出たのだった。
やがて外国の写真を参考にして帽子を作ったが、この帽子は厚手の布であるフランネル地で緑色の頭巾型であり、頂には白毛糸の玉を付けていた。
また他のボートクラブでは先端が菱形の帽子を作って着用しているところもあったが、その他の明治初期の学生はだいたいが和服に紺の足袋(たび)と麻裏(あさうら)草履(ぞうり)と皮製の日除付鳥打(とりうち)帽子(ぼうし)といったいでたちのものが多かった。しかし貧乏学生のため服装や態度が大いに乱れて巷の顰蹙(ひんしゅく)を買うことが多くなっていったので、大学当局は東京大学と予備門の生徒にイギリスのオックスフォード・ケンブリッジ両大学を参考にして風紀を正すべく制服と制帽の導入を図ったが、貧しい学生が多いことから制服採用は一先ず先送りにしとりあえず制帽の導入を計画するにいたった。
そこで東京大学の和田義睦(後の工学博士)初め他のボート仲間などが創案したボート選手の帽子を元にして学帽の型案を提出したところ和田義睦達の提出した案が採用されたので、MBCのメンバーである山口鋭之助等と和田義睦が役員に選ばれ、以後東京大学と予備門の学生に学帽の着用が進められた。
また明治16年に墨田川で行なわれた天覧海軍カッター競漕会に刺激を受け東京大学でボートを早くから漕いでいた学生たちは、6月に東京師範学校付属体操伝習所でボートを漕いでいた学生たちにボートレースを申し込むと、快く受けた体操伝習所との間に日本で始めての学校対校のレースが行なわれることになり、墨田川の竹屋の渡しから約400mの距離で3度の回航レースが行なわれた。
結果は3度とも体操伝習所の圧倒的勝利に終わり、ボートの先覚者を自認していた東京大学のオアーズメンたちの間では体操伝習所の漕いでいた新型艇にショックを受け、これを機会に新艇の建造待望論がにわかに高まっていった。
しかしボートを漕ぎたくても大学所有のボートは古い6人漕ぎが2艇しかなくしかもオールは6本しかなかったので各ボートクラブは週末の土曜日になると、毎回2艇のボートを使用する権利の抽選をめぐり舎監室で大騒ぎを引き起こしていた。
また首尾よく抽選に当たったクラブはボートを使用する場合、舎監から使用許可証として「走舸組(そうかぐみ)」と書かれた木製の鑑札を渡されていたが、その大騒ぎに終止符を打つべきして生まれたのが、全クラブの統合機関としてルールを守ることを申し合わせた鑑札から名前を取った「走舸組(そうかぐみ)」(後に走艇と改められた)であり後の東京大学漕艇部の前身であった。
走舸組の委員達は相談の結果大学からの正式な援助には頼らずに、学生たちの手で大学の規則に縛られない学生の自由になるボートを建造することに意見が一致し、速やかに代表から醵金を求める激が各方面に飛ばされた。
しかし当時の貧乏学生のこと醵金はせいぜい10銭ぐらいしか出せない者が多かったが、幸いにもボートの指導をしていたストレンジ先生が5円提供したことを知ると他の教職員からの申し出が相次ぎその総額は300円にも達したのだった。
こうして確保された資金でストレンジ先生指導の下、固定席艇の設計が成され新しく3艇の建造をすることになったが、この設計が後の日本におけるフィックスと呼ばれる固定席艇の祖型となるが、 この新しく設計された固定席艇はこれまでのカッター艇に比べ艇の幅も狭く格段に競技用に適していたためかなりのスピードが出ることが予想され、監督役の山口鋭之助(身長約6尺・180cm・後の理学博士・学習院長を経て宮中顧問官)達はその完成を楽しみに毎週土曜日になると発注先の品川にある諸明造船所に出かけては、わくわくしながら出来上がっていく木の香も芳ばしい新艇を撫でたり頬擦りしては、造船所の帰りに酒を酌み交わしてレースや練習方法などについて遅くまで討論することを楽しみにしていた。
やがて新艇の完成は明治17年の秋と目処が付くと、ただ漕ぐのでは社会にスポーツの素晴らしさを啓蒙することができないという意見が大勢を占め、ついに10月17日に新艇の披露を兼ねて学生競漕会を墨田川で挙行することとなったのである。
それらの情報を聞いたストレンジ先生は黙っておれず、さっそく走舸組の主なメンバーを招集したのであった。
「ボーイズ、ボーイズ。まことに今回の快挙は喜びに耐えぬばかりか非常に名誉なことである。特に独立自尊の精神が素晴らしい。またこれだけ社会の関心を呼んでいる以上は失敗など許されぬことであるから、今回のボートレースは万事ヘンリーレガッタを参考にして本家イギリス流に則って行なわなければならない。」
ストレンジ先生の発言を受けて山口鋭之助が立ち上がって挨拶を述べた。
「このたびの競漕会は昨年の陸上競技会の成功を受けて、水上運動会ともいえるものである。したがって我々オアーズメンもこの競漕会を成功させなければ、乏しい資金を提供してくれた諸氏に対しても申し訳が無いものである。故に諸君も万難を廃して協力していただき、ぜひ成功させるようにご尽力いただきたい。」
この鋭之助の挨拶を受け走舸組の面々は等しく奮い立った。何よりも中古艇ゆえに満足な練習が出来ず体操伝習所に苦杯を嘗めさせられたこともあっただけに、今度の競漕会では厳正なルールの元で同じ条件の艇でレースを行なうことが可能になったからであった。
さらにレースは東京大学の教職員をあげて行なわれることになり、教授を含めた関係者の寄付で海軍の軍楽隊が華やかな演奏で大会を盛り上げることや、勝者には先輩学士からの寄付でストレンジ先生デザインの銀のメダルを神田にある簪屋(かんざしや)に作らせ授与することも決まり、隅田川の安全は海軍の端艇競漕で実績のある水上警察が全面的に協力してくれた。
また競漕会は毎年春と秋の2回行なうことも決まり、オールを立てるなどの礼法等は万事海軍式で行なわれたがその記念すべき第一回大会は午前9時30分から隅田川に掛かる吾妻橋の上流地点で13回の回航レースを行なうこととし、審判としては発艇(スタート)と判定(ゴール)をストレンジ先生が統括した。
ボートレースの最後には番外の模範レースとして東京大学の物理学を教えているノット教授が舵手を務めるクルーと(山口鋭之助、阪倉銀之助他4名)東京大学予備門のストレンジ先生が舵手を務める(武田千代三郎他5名)2クルーによるレースが行われることも決まった。
そしてこの日のために招待された大学関係者から文部省の書記官など数百名に及ぶ来賓のために向島の料亭(植半(うえはん)・言(こと)問(とい))には川岸に特別観覧席を設け、収容できない数千人以上の応援者たちはそれぞれ隅田川の両岸に陣取って互いに旗や鉦、太鼓を用いて応援したが、水上には海軍兵学校、商船学校、体操伝習所の大応援団が数隻ずつの船に便乗して大声援を送った。
このように盛大なる大競漕大会は日本におけるボートレースの歴史の中でも、カッター艇からフィックス艇(固定席艇)への転換点となるもので東京日日新聞ではその快挙を二日間に渡って大きく取り上げるなど全市民の興味と関心を大いに曳きつけ、今後長く隅田川に巻き起こるボートレースブームを引き起こすことになるのであった。
しかし最後に行なわれた模範レースは一マイル(約1609m)以上のロングレースで両岸全てを巻き込んだ熱狂的レースとなったが、結果はわずかな数尺の差で最後に一呼吸早くラストスパートを掛けたノット先生クルーの勝利に帰しストレンジ先生の教え子達を大いに悔しがらせたのであった。
※ 回航レースとは現在のボートレースのように一定方向に向かって漕ぎ着順を競う形ではなく、スタート後ある地点に浮かべられた浮標をいかに早く回ってスタート地点に帰ってくるかを競う形式のレースでオールや艇の一部でも浮標に接触すると失格となる。
※ C・G・Knott(カーギル・ノット、1856年~1922年スコットランド生、明治16年1883年来日、明治24年1891年、解任により帰国)
推敲すみ
その4、競漕会前夜
明治17年9月当時本郷に在った東京大学予備門の医学部分校が一つ橋にあった東京大学と合併すると、学生達のボート熱はさらに高まり日本ローイング・クラブ(N・R・C)が設立されたが、その結果医学部の学生が発起人となり全学生に新艇建造を働きかけると学生教職員から530余円の醵金を得て5艇の建造を可能にした。
するとこの新艇建造がますますボート熱を高める結果となり合併された法理医文のほかに予備門の本校と分校とを加えた6部から選手を出して、明治18年4月12日に選手競漕を行なうことになったのである。
大会にはストレンジ先生も再び名誉職として発舸ならびに判定者として名前を挙げられていたが、山口鋭之助や岸清一ならびに武田千代三郎達も大会成功に向かって予備門と大学の関係斡旋に奔走したのであった。
当時の発艇は工学部の関係者が正確に測量した地点へペンキ塗りの石油缶を投げ入れ浮きとし、スタート時には空砲を撃って合図とした上で、ゴールの判定は両岸に竹の棒を用意し艇の先端が通過した順にそれぞれの艇が占有しているコースの色を叫びながら空砲を撃つと、それに応じて旗上げ役が指定された色の旗を揚げるという仕組みである。
また競漕会は午前9時から枕橋の上流へ向かって3000尺(約900m)の距離で争われ、ゴールは上流の料亭植半の正面に来賓の特等席と共に設置されていた。レースは最初のみ5杯(艇)で行なわれたが2番から17番レースまでは3杯レースが行なわれ、野次レースと呼ばれたがストレンジ先生に仕込まれた学生たちがそれぞれ漕手と舸長(舵手)として一度ずつ出漕していた。
さらに最後の18番は選手競漕として学部と予備門の代表漕手6クルーが競うため3クルーずつの予選競漕が陸上競技会に習って日本におけるボートレース史上初めて導入された。
この東京大学走舸組春季競漕会の前夜には出雲学生会を中心にしてクルーごとにボートレースについて喧々囂々の作戦会議が繰り広げられたが、中でも第7番レースに紫組の第6櫓手(漕手・整調・クルーの漕ぐリズムを司る)として登場する山口鋭之助は同じレースで争うことになる赤組、3番櫓手の清一には先輩として負けられない意地もあった。
また集まりはそれぞれの作戦会議が一応終了した頃になると、自然といつものように先輩たちへの質問の時間へと移って行ったが、このような時には先輩の務めとしてクルーの作戦以外はきちんと答えなければならなかった。
しかし何事にも研究熱心な清一は無論そのことを承知した上で、舌鋒鋭く肝心な所に矛先を定めていく。
「鋭之助さん、レースにおいて6番櫓手を務める場合に一番気をつけなければならないところは何処でしょうか。」
彼はこの質問に対して思わず唸った。
なぜならば直接スピードに繋がる一分間に漕ぐ回数(ピッチ)などを聞かれた場合には作戦上のことであるからと回答を保留することも許されたが、どこに気をつければ言いのかという質問には対しては迂闊に答えようものなら相手クルーの技術を上達させてしまうことに繋がるからであった。またピントのずれた答え方をして誤魔化そうものなら、清一の鋭い質問が何処までも追いかけてくる事を十分に知っていたからでもある。
銀之助は先ほどからちらちらと二人の顔を見比べながら、上手い質問をするものだと感心しながら大先輩がなんと答えるかについてレースには出ないながらも非常な関心を持って聞いていた。
「6番櫓手の一番気をつけなければならい所はだ。」
「それは何処でしょうか。」
「ピッチのだ。」
「ピッチをどうするのでしょうか。」
「整調として。」
面々は日頃何事にも動じない先輩が顔色を変え脂汗を流しながら返答に窮していくのを、日頃の演説や弁論大会での清一の鋭い舌鋒を思い出しながら夜が更けていくのも忘れて見つめていったのであった。
2月14日推敲すみ
その5、競漕会7番レース
やがて夜が明けるとボートレース当日である。
午前中は曇天であったものの次第に晴天となり絶好のボートレース日和となった。人々は早くから墨堤(ぼくてい)と呼ばれた両岸に春の到来を告げるお花見をかねて繰り出していたが、そこには所狭しと屋台が並べられていたが、大会関係者の中には混雑を嫌って屋形船をしつらえて向島の艶やかに着飾った芸者衆を伴い見物を決め込む者や一家総出で見物に訪れたりしていた。
なかでもそれぞれの学校関係者は早くも興奮のピークを向かえ旗をふりたて太鼓や鐘に合わせて口々に声を嗄らして声援を送っていた。
またさらに人々の興奮を高めていったのは海軍の音楽隊が、応援団の声に負けまいと張り切って演奏する勇ましい音楽であった。娯楽の少なかったこの時代にあって明治維新がようやく終了し、やっと訪れた平和のありがたみを人々が実感できたのがこのボートレースであり、これ以降人々は誰言うとなくこの時期のボートレースをお花見レガッタと呼び習わすようになり新東京の風物詩となっていった。
一方ストレンジ先生は早くから予備門クルーと合流して、大会本部に役員として詰めるまでのわずかな時間に、大会に出場する漕手たちにそれぞれ大会本部が仕立てた揃いのユニホームと帽子を着用させこまごまと注意点を言い聞かせていた。
「ボーイズ、ボーイズ。ボートレースにおいては勝つことに意味があるのではない。紳士としてのマナーと教養を養うのが目的である。したがって自らがレースにおいて勝ったからといって、驕ってはいけない。ウエル、ローすなわち敗者にも良く漕いだといってその漕ぎを認め慰労しなさい。これこそがオアーズマンシップなのだから。」
「ハイ!」
直にストレンジ先生の教えを受けた予備門の漕手達は素直で屈託が無い。むしろボートレースの本場イギリスよりも漕手たちは漕手らしく、よりオアーズマンらしくなることを目標にしていたがむしろ興奮の極みに達して騒擾の気配を見せていたのは、大会を取り巻く応援団と市民達のほうであった。
やがてレースの時間が迫り桟橋で漕手が並んでオールを立てて待っていると先のレースが終了し、漕ぎ疲れて息も絶え絶えの様子でクルー達が帰ってきたが、顔からは汗が滝のように滴り落ちている者や立って艇から降りられない者もいた。
そして桟橋から6人漕ぎ固定席艇(フィックス)のクラッチといわれるオールの装着具にオールを入れて、7人全員が片足を桟橋にかけて舸長(舵手・コックス)の号令で揃って桟橋を蹴り出し出艇して行った。
「両舷、いいか。蹴ろうー1,2,3」
シートに座り足が動かないようにストレッチャーに納めてから見ると、銀之助や去年司法省の法律学校生となっていた奥村禮次郎達が盛んに手をふっている。
クルーは舸長の号令で少しずつ川の中央に漕ぎ出していく。
「2番、チャボって」
「1番、あわせて。バウペア、ノーワーク。さー行こうー」
「両舷、合わせてノーワーク、さー行こうー」
「ありがとー」
左右3本ずつ6本のオールが生き物のように呼吸を合わせて動くと、いかにもスピードの出そうな新艇がピカピカと光を反射して水面を滑り出して行く。
この時が一番胸躍るときである。
両岸の風景が次第に前方に流れ出すと、クルーは全くの一体となり、聞こえるのは艇が水切る音ばかり。
両岸の喧騒はもう届かない。
「良い気持ちだ。」
水の上では屋形船の舷側を手で叩く応援がすさまじい。少しいくと清一と声が川面から掛かるので振り向くと、先に艇を出していた鋭之助達のクルーである。
「お前ら、今日は手加減しないぞ。付いてこいよ。」
「おう」
答えるクルーはオール持つ手に力が入り、力瘤がもりもりと盛り上がり桜の花びらがひらひらと風に流され水面に散り掛かる。
いよいよレースだ。ボートレースの始まりだ。
彼らが出漕する第7番競漕は3艇レースで鋭之助達のクルーが紫組、間に白組を挟んで清一達は赤組であった。スタート時間が刻々と近づき3艇は粛々と大会本部が設置した石油缶で出来たスタート地点を示すブイに結ばれたロープを舸長が握って流されないようにしながら、上流のゴール地点に向けて徐々に艇の方向を直していくと漕手は互いに励まし合っては気合の充足を図りつつ待機している。
また各艇は舸長の号令によって一つの生き物のように、機敏な動きでその位置を修正しながら船首を揃えスタートに備える。
やがて辺りは静寂に包まれた。
「各艇、いいか」
「おー」
「スタート 用意」
気合の充実と各艇の船首がそろった段階で、空砲が響き渡りボートレースの始まりである。
「ふんぬっ」
漕ぎ始めの一本はブレードが水をまともにとらえて大きくしなりながら小山のような水塊を作り出し、艇はその固まりに弾き飛ばされるように飛び出していく。漕手はスタート初めの10本は息もしないでピッチを上げる。
さらに思いきり上半身を後方に飛ばすことを繰り返す。
やがてスタートダッシュが終わりコンスタントピッチに落とし始めるとようやく漕手は視界が開けてくるが、それまでは急激な運動のために肺に酸素の供給が追いつかないのだ。
清一は周りを素早く一瞥し他艇が既に視界から消えていることに気付いた。
そんな3番櫓手の様子に気が付いた舸長は怒鳴る。
「3番、前を見て漕げ」
しかし舸長は今の状況をクルーに伝えることを忘れていない。
「紫2艇身差、白1艇身差。慌てず大きく行こうー」
クルーはこれで今の状況が理解できた。後ろの状況が見えなくてもそれぞれの位置関係はすぐに理解できる。あとは舸長の判断を信じて一丸となって漕げば良いのだ。
クルーにおける全くの信頼関係、これが漕ぐ者と見る者を曳き付けてやまない最大の理由である。
クルーは舸長の指示通り、慌てずに1本1本のオールに集中し力を込める。誰一人後ろを振り返えらず先行する2艇との差を詰めることに努力し後半の逆転を期す。
そして漕ぐ。
やがてクルーを励ますように舸長から指示が出た。
「よし。差が詰まってきた。白との差、約半艇身。」
「おー」
ようやく残りの半分、距離450mとなったところで先行する艇との距離が詰まりだしてきた。
この頃になると漕手もちらちらと他艇の船尾が見え始め、一層足を踏ん張りオール持つ手に力が入る。隣の艇は簡単には抜かれまいと、さらにピッチを上げて引き離しに懸かる。
「ミドルスパート10本行こう。さあ、行こうー。」
相手の声は耳に入る。耳で相手の様子を判断するのだ。ここからは事前のミーティングで決めたとおりにすれば良いのだ。つまり相手のミドルスパートが終わるまではピッチを上げずに我慢の水中だけを強く引き、満を持して一気にピッチを上げて抜き去るのだ。
「まだ、まだ。水中強く。」
「よし。ミドルスパート行こう。さあー行こうー!」
クルーが待ちに待ったスパートである。この日のために不平不満も言わず、腹の減るのも我慢して漕いできたのであった。各漕手は全身に酸素を充満して一気呵成に追い上げる。
やがて先行していた艇がするすると前方へと消えていくのを見て、すかさず舸長が指示を出す。
「先行する艇まで、あと1艇身半。大きく行こう。さあ行こうー!」
思いのほかの力漕で艇差が詰まってきたことに気を良くして再びピッチを落として追漕する。さらに追いすがる。
やがて残り200m、追われるクルーも辛い。
今まで冷静にリズムを作ってきた6番櫓手が堪り切れずに舸長に怒鳴る。
「スパートまだか。」
「まだ早い、まだまだ。」
さらに数本漕いだ頃、差はじりじりと詰まって来る。
我慢できずに清一は叫ぶ。
「スパート入れろ。スパート!」
舸長は頑として応じない。まだ早い。まだ早いのだ。
やがて満を持して鋭く指示を出す。
「スパート行こうー。さー行こうー!」
おうと声も出さずにクルーは答える。
ここから本当の醍醐味だ、漕ぐ、また漕ぐ、さらに漕ぐ。
「スパート!スパート!スポート!」
舸長が叫ぶ。差が詰まる。先行艇は既にほぼ横に並んでいる。クルーの力漕も見える。息をするのも忘れている。
やがて空砲が響き渡る。
ゴールだ。漕ぎ切ったのだ。
やがて全艇ゴールしレースが成立すると、それぞれのクルーは漕手が後方に倒れ込み息も絶え絶えに空を仰いでいたが、澄み渡った青い空を都鳥が飛んでいくのに励まされるように起き上がると、次のレースに出漕するクルーに艇を引き継ぐために桟橋に向かって漕ぎ始めた。
それぞれ前の漕手の肩を叩き健闘を称えていたが、1位となった鋭之助の乗る紫組のクルーからも3位となった白組のクルーからも声が掛かった。
「有難うございました。」
互いに有難うございましたと声を返しながらストレンジ先生のウエルロー精神、すなわちオアーズマンシップについて始めて納得するのだった。
やがてクルーが桟橋に漕ぎ寄せると次の8番レースの樺(かば)組に出漕するクルーの中に柴野是公の姿とそれを見送る夏目金之助の姿を桟橋上に見つけた。
清一は柴野と夏目とは年が同じでありながらも、自分がいささかの先輩であるので声をかけた。
「お前達はこれから出るのか。気合を入れてしっかり漕いでこいよ。」
「はい」
柴野たちクルーが出艇していくと桟橋に残った夏目がブレードを上手に引き寄せて艇を引き寄せ、クルーの乗り降りのためにガンネルを抑えた。
「ご苦労様です。」
「ありがとう。ところで夏目達はまだ神田猿楽町の末広屋に大勢で下宿をしているのか。」
「ええ。10人ぐらいの大所帯ですから、わいわいと賑やかですよ。」
「それならいいが、顔が白いぞ。いつか一緒に競漕会に出ようじゃないか。」
「ありがとうございます。そのときはよろしくお願いします。」
オールを艇の上に引き上げて次のクルーに引き渡すと、もう喧騒の中に夏目の姿は見えなくなっていたが、鋭之助も桟橋に上がってきて声をかけた。
「今のは夏目じゃないか。彼は意外と神経が細いところがあるようだが、仲間と牛鍋を食べたりして楽しそうだ。彼は教授連中にも文学の才能があると嘱望されているということだぞ。」
鋭之助はさすがに教授連中の情報に素早かった。
清一は夏目の意外な面を見たように感じたが、この大会で用意されたチャンピオンフラッグは選手競漕に出場する6クルーの色を表したモスリンを6段に縫い合わせ、6色の木綿糸を房にして下げたものであった。
また選手競漕以外の17番の野次レースに出漕し勝利を収めた者にはストレンジ先生の図案による桜の5枚の花弁を表した銅板を2枚繋ぎ合わせて金メッキを施したものと、選手競漕の勝者には銀メッキが施されたメダルを授与して日頃の支援と理解に感謝の気持ちを表したのであった。
※樺(かば)色(かば・あるいはかんば色)濃い茶色がかった橙(だいだい)色
※モスリンとはフランス語の生地の名前であり日本では唐(とう)縮緬(ちりめん)、メリンスとも呼ばれた薄地の織物で、寝具、半纏(はんてん)などに広く用いられた。
※柴野是公、是公(ぜこう)は渾名。後の中村是公(これきみ)。広島県佐伯郡五日市村生まれ。帝國大学卒業、元台湾総督府局長、満州鉄道総裁、第八代東京市長
※夏目金之助は後の文豪夏目漱石。慶応3年(1867年)江戸牛込生まれ。帝國大学卒業東京高等師範学校講師、松山中学、第五高等学校端艇部部長を経て官費イギリス留学。東京帝国大学講師を経て朝日新聞社入社。
推敲済み
その6、選手競漕判定をめぐって大紛争
最後の選手競漕は6艇レースのため陸上競技に倣い日本のボートレースで初めての3艇レースの予選を行い、一組は理学部、法学部、文学部で理学部が最下位となり法学部、文学部の2艇が決勝に進んだ。もう一組は医学部、予備門本校、予備門分校で医学部が最下位となり予備門分校と予備門本校が決勝に進出し、決勝は法学部、文学部、予備門本校、予備門分校の4艇で競われることになった。
決勝レースは吾妻橋から上流の植半までの4000尺(約1200m)で行なわれたが、各クルーの友人や関係者を巻き込んで応援は最高潮に達し、ついに予備門本校が勝ちを収めて午後6時半頃終了した。
しかし同着に近いきわどいレースであった事と着順判定を行った旗係の不慣れさに加え、異様な雰囲気でのレースであったため一着の予備門本校と2着となった予備門分校の間で勝利にこだわるあまり紛争が起こった。
それは予備門本校の6番櫓手の杉浦吉太郎が屋根の上に飛び上がり、医学部の学生との間で表勝旗をめぐって取り合いを演じた時のことであった。
当時医学部予科が分校となっていたので当然のように医学部の学生が応援に駆けつけたからであったが、さらに騒ぎを聞きつけた他学部の学生達も徐々に旗の周りに集まりだし、それぞれのクルーを贔屓するあまり腕を捲り上げて血気盛んな体力自慢の若者達が目を血走らせて一触即発の危険を張らんでいったのは、予備門分校と予備門本校との戦いが法学部・理学部・文学部対医学部の代理戦争の意味も持っていたからである。またその原因は明治10年(1877)4月12日に東京開成学校と東京医学校とが合併し東京大学となって以来の学生間の軋轢も代弁していたのであった。
幸いにも予備門学長の杉浦重剛先生に急を知らせる学生がいて、慌てて数名の関係者を引き連れて学長が現場に到着した。
「君達は何をしているか!」
学生達ははっとしてその大音声に振り返る。
「本日の大会は学生のスポーツにとって記念すべき初めての東京大学走舸組春季競漕会である!市民を初め多くの方々の御来臨をいただいているにもかかわらず、このような騒擾を引き起こしたとあっては誠に恥ずべき行為だ。
この騒ぎは不肖予備門学長、杉浦が預かる。速やかに解散せよ。」
さすがの学生達も学長が乗り出してきては無理が利かない。結局この騒ぎを収めるために優勝旗は予備門学長の杉浦重剛先生の預かる所となって一旦は沈静化したように思えたのであった。
翌日鋭之助達は三学部の寄付金で作った艇を大学に寄付したが、気持ちの収まらない医学部では大学に艇の寄付を行なわず新たに端(たん)舟会(しゅうかい)という組織を作り一学期ごとに届け出てボートを漕ぎ出していた。
慌てたのは鋭之助達である。同じように大学にボートを寄付すると思っていた医学部が寄付せず新たな組織を作ったので、自分達は今後舟無しの陸に上がった河童状態になってしまうからであった。
やがてそのことを協議した結果再び走舸組を作ることにして大学に届け出ようとしたが、大学側では学期末になっても喧嘩ばかりしているような状態では許可することは出来ないとの連絡で、しばらくはボートに乗れない状態が続いたのであった。
その7、日本初の陸上競技会
明治18年(1885年)6月6日に東京大学と東京大学予備門合同の陸上競技会が東京大学予備門の校舎が東京の本郷に移ったのを記念して行なわれた。そこでも前年に行なわれ大成功を収めた陸上競技会の役員を務めたストレンジ先生が選手のために競走者心得5条を作成した。
このとき岸は親友の志立鐵次郎達らとともに陸上競技会を成功に導くべく大いに手伝い時には選手としても参加したが、飛鳥山で行なわれた慰労会ではその成功に多少とも貢献したという喜びから大いに日本酒を鯨飲した。
本来清一の父伴平は酒に強いことで有名で、日本酒を三升飲んでも殿様の御用を務めることが出来たし、殿様の前ではいくら飲んでいても一滴も飲んでいない振りが出来たというほどの酒豪であった。
後にはその父の血を大いに受け継ぎ清一もどれほど飲んでも乱れることも無く酔った醜態を人に見せたことはなかったが、この頃はかなり学生達の中でも有名ないける口であった。
飛鳥山での慰労会の帰り三々五々と仲間達と連れ立って歩くうちに、志立鐵次郎はふと清一がいないことに気が付いて渡邊千代三郎に聞いた。
「おい。どこにいったか知らないか。」
「そういえば今日はいつもよりかなり冷酒をぐいぐいといっていたぞ。」
「まあ、あいつが飲むのはいつものことだから特段驚くに値しないが、居なくなってはこまるからなあ。ちょっと探してこようぜ。」
二人で飛鳥山からの見物人たちを掻き分けて探しに戻ると、なんと太い桜の根元で大の字になって大きな鼾(いびき)をかきながら眠りこけていた。
「やっぱりか。おい。しっかりしろ。」
しかし清一は鐵次郎と千代三郎がいくら揺すっても声を掛けても起きない。途方にくれていると人力車がやってきた。
「おっ。これは有難い。おい、この車に早く乗り込め。」
すると清一はやにわに立ち上がった。
「何を言っているんだ。この俺は断じて酔っていない。したがって歩いて下宿まで帰るのは当然のことである。」
二人はまたかと驚きあきれて見つめたのは、余計なことを言うと余計に駄々を捏ねることがあることを知っていたからであった。
しかし二人が酔っていることを殊更いわないので得意げに人力車に手を掛け乗り込もうとしてそのまま後ろ向きに倒れてしまった。
車夫が慌てて抱き起こそうとするのを二人は笑いながら制しつつゆっくりと覗き込みながら待っていると、しばらくしてゆらゆらと上半身を前後左右に揺らしながら起き上がりつつ講釈を話し出す。
清一の話しは実に面白いのでうっかり相槌を打ってしまうと、この講釈は終わりの無い迷路に突入するため、途中で気分を害さないように合いの手を入れながら、本人に気がつかれないように脚や腰に手を添えて巧みに人力車に乗せてしまう技は芸術的でさえあったが、一旦乗せてしまうと後は一気に下宿まで送り届けることが決まりごとだった。
また当時彼らは本郷にある時計台前の今川小路にある関根方で暮らしていたが、その頃は学生間にトランプや玉突きが大流行していたので暇があると良く遊んでいたが、それらの遊びが社会人になってから随分と役に立つことになるのであった。
※ 渡辺千代三郎・・・後大阪瓦斯会社社長
※ 下宿代・・・・・・当時の下宿料月4円五十銭
※ 玉突き・・・・・・ビリヤード
推敲済み
その8、遠足
4月に行なわれたボートレースは選手競漕の判定をめぐって未だに揉めていたのでボートに乗ることは出来なかったが、清一は7月4日をもって19歳になっていた。
8月には東京大学予備門を卒業した記念として、毎月体力の養成を図って行なっていた遠足を一泊二日で行なおうと思い立ち、同郷で下宿仲間の安江豊太郎と山崎銀之助に声をかけた。
一行は8月25日(月)の早朝3時半に神田今川小路の下宿を出発したが、甲州街道の四谷門をくぐる頃にようやく東の空が白々と明けてきた。内藤新宿を抜け代々木村付近の右手にある長楽寺の門前広場で小休止をとりながら旧藩主松平の殿様屋敷後を眺めた後、一同は若さに任せていろいろと話しながら歩く距離を稼いだ。
やがて東海道の脇往還として知られた大山街道が多摩川に突き当たる双子渡しに到着し小休止で息を吹き返した3人は、四十曲がり峠に比べれば楽なものだと話しながら多摩川に沿って上流の小金井方面に向かって歩き始めたが、昼頃にはとうとう足が棒のようになり歩くことが出来なくなってしまった。
しかし彼らは行程11里あまりを約8時間半で歩き通した結果に満足して多摩川沿いの旅館に一泊することになり、湯に入ると疲れた足を揉み解した後に仮眠を取ってからの食事となった。
開け放たれた障子からは川風が火照った身体を冷ましてくれたが、何よりお膳に並べられた多摩川の水でよく冷やしたスイカが元気を呼び戻した。
「銀之助はさすがに気が利くなあ。」
「いつもは真面目な豊太郎が真剣な顔をして相談事があるというので硬い話にならないように酒を頼んだだけだ。」
「大体の想像は付くが、豊太郎。何でも話してみろよ。」
「そういわれるとなんだか話しづらいが、東京に来てからはやいものでもう2年が経ってしまった。そろそろ学費のほうが続かなくなってきたんだ。何しろ東京の物価の高さといったら松江の比じゃないし、噂によれば大学からの給費制度も無くなり今後は月謝を納めなければならないそうだ。」
清一と銀之助も身の上は同じようなもので、普段は慎ましく暮らし遠足も日帰りを原則としていたが今回の卒業旅行は大きな蚊帳を購入するのも惜しんで貯めたものであった。
「遣り繰りして暮らしている実家には、送金してくれなどとは言えないし。」
「なにか良い手立てはないものだろうか。」
「清一。こうなったら大学院で勉強している鋭之助先輩に相談してみようじゃないか。」
「それが良い。鋭之助さんだったら何か妙案をひねり出してくれるに違いない。」
やがて外では将来への不安を示すように雨戸を風雨が激しく叩いて心をかき乱したが、翌朝には雨も止み一同は足元を整えてから帰路についたが、道路は泥濘のため歩行には随分と難渋を極めたが夕方には無事下宿に到着し、夜には源のさぁに相談を持ちかけ揃って鋭之助に窮状を訴えに出向くことになったのである。
※ 四谷門は現在の新宿区にあった木戸の名称
第8章、東京大学入学
その1、松平伯爵
晴れて東京大学の学生となった岸達の窮状を聞き取った鋭之助は、早速21歳で出羽様と呼ばれていた松平伯爵が維新後に移り住んでいたお屋敷に参上することを決意した。
お屋敷は学習院大学のあった四谷から約250m程にある赤坂離宮を左手に見て学習院の分校を通り過ぎ、約750mの左前方にある陸軍の青山錬兵場手前の右手にある出羽坂と呼ばれるようになっていた坂道を150mぐらい上がった一段と高い所にあった。
鋭之助が巨体を揺らしながら坂を一気に上って後ろを振り返ると、そこには緑が美しい東京の街が青山方面に広がっていたが、さっそく門を入ると修徳園という名庭を通って玄関に到着し来客を告げると中へと招じられたのであった。
鋭之助は平伏したままご挨拶を申し上げた。
「殿様におかれましては、ますますご機嫌麗しゅう存じます。」
「山口君も元気そうで何よりである。本日は用向きが済んだならば、世情を賑わす陸上競技会やボートレースのことについても話を聞かせてもらいたいものである。山口君や岸君などは随分と名前が売れているようだな。私としても誇らしい気持ちで一杯である。」
「有り難きお言葉を賜り、恐縮でございます。
それでは早速ながら失礼いたします。近頃ようやく松江藩出身の者たちの多くが大学校や予備門などに入学するようになってまいりましたが、学生達は勉学の熱意は十分にあるものの給費制度の打ち切りという事態から困窮の度合いを深めてまいりました。
また世の中においては諸物価の高騰傾向が拍車をかけて生活を逼迫してまいりました結果、学生達は学費その他の生活費の支払いに終われるようになり、その結果が学業への集中を損なうという事態を招く事となり憂慮される事態となってまいりました。」
「なるほど。私たちも諸物価の高騰には頭を痛めていたところである。しかし政府からも苦学生救済の件についてはお達しがあったように何とかしなければと感じていたところであるから、苦学生救済の件についてはしかるべき方法を講じようと思っていた。」
「有り難き幸せでございます。よろしくお願い申し上げます。」
こうして苦学生救済を願い出た鋭之助は、松平候の快諾を得てからは酒肴のもてなしを受けながら話題は多岐にわたり何時果てるともなく楽しいひと時を過ごすのであった。
そして明治19年には松平伯爵家の貸費制度が設けられ、若槻、岸をはじめとする学生5名と軍人希望の5名がその恩恵を受けることになり、貸費金額は5円~10円の範囲と定められたが、この制度により明治28年(1895年)1月に既に社会へ出て俸給を得ていた清一や出雲学生会の会員で貸費制度の恩恵を受けたものたちを中心にして、今後続々と上京する松江藩の後輩たちのための出雲育英会発足へと繋がったのである。
※ 当時の旧松江藩当主は出雲松江藩の最後の第十代藩主、松平出羽守定安が1882年明治15年12月1日に47歳で没したため跡を継いだ三男の松平直亮(なおあき・1864年~1940年、伯爵後貴族院議員)が継いでいた。
明治維新後の政府は明治2年6月17日をもって公家と旧大名を華族とし、領地等を離れて東京に住むことを義務付け明治17年7月7日の華族令の規定により旧公家、大名家以外にも明治維新での勲功者が公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5等爵を授けられた。
要約すれば
公爵(徳川宗家、旧薩長藩主、国家に偉功のあった者など)
侯爵(徳川旧御三家、旧15万石以上の大藩及び琉球藩主、国家に偉功のあった者など)
伯爵(旧5万石以上の中藩知事、国家に偉功のあった者など)
子爵(旧5万石未満の小藩知事、国家に偉功のあった者など)
男爵(徳川旧御三家の付家老他一万石以上、毛利家の分家などの他国家に偉功のある者など)
したがって松平直亮は1871年明治4年8月29日の廃藩
置県によって東京府と呼ばれるようになった四谷に、旧5万
石以上の中藩知事の資格を持って伯爵に任じられ居住してい
た。
※ 青山錬兵場は明治維新まで北青山付近にあった丹波篠山藩6万石の藩主青山忠成の屋敷跡地に明治16年(1883年)陸軍大学校(現在の青山中学校)が設立されその付帯施設である陸軍青山錬兵場として設けられた。第二次世界大戦後は国立競技場や明治神宮外苑秩父宮ラグビー場などが設けられた。
※出羽坂は信濃町駅近くにある坂の名称。
推敲済み
その2、髀肉之嘆
清一は学費の心配もなくなって東京大学に入学すると、その勉強に対する真摯さにはますます拍車が掛かったが特に英語については最も得意とするところであった。
また当時の大学生達は卒業するとあらゆる方面から争って迎え入れられるというような状況だったが、彼は早くから将来は代言人(だいげんじん)として身を立て人の為に努力していこうと決心していた。
しかし当時の弁護士の地位は今日のようにはあまり高くはなかったので他の学生達の多くは弁護士になろうと考える者は少なかったが、清一は在学中から机上の学問を嫌い先輩の伝を頼って弁護士事務所での実務を手伝うなどして研鑽を積んでいたが、かなりの運動好きになっていた彼は遠足以外に身体を動かす機会がなくなり、髀肉之嘆を覚えていた。
それはまるで陸に上がった河童状態であったが、艇の使用権を独占していた端(たん)舟会(しゅうかい)では着々と準備を重ね、春季競漕会と同じような形式で明治18年(1885年)10月4日(日)をもって東京大学の私設端舟競漕会を挙行した。
競漕会は午前8時から午後5時まで吾妻橋より橋場渡船場の間において行なわれ、参加は法学部、理学部、文学部ならびに医学部と予備門との間で競われた。それら4学部と予備門の教職員は春季競漕会での判定での不明瞭さを避けるため、ゴールである料亭植半の傍らに設けた事務所に集まり対岸には判定船数艘を浮かべて正確な判定が行なわれるように心掛けた。
また距離は約1100mで行なわれ9時58分の最初の端舟4艘競漕が小銃の空砲による合図で始められゴール時にも空砲が撃たれるようにするなどの工夫がなされた。また各端舟はいずれも赤・白・青・紫の4種類の帽子と同色のユニホームを着用し海軍音楽隊の音楽の中で実に華々しく行なわれたのだった。
しかし端舟会に入らなかった面々は大会当日になってもすることがなく墨堤に腰を下ろしてはボートレースを見ているのであった。
彼らは主に走舸組の設立に貢献したメンバーでどちらかというと若者らしく血気盛んな面々が揃っていたが、土手に陣取っては贔屓のクルーを応援したり熟練度を批評したりして時を過ごしていたが、中には向島の言(こと)問(とい)団子(だんご)を食べながら昔の伊勢物語と在原業平(ありわらのなりひら)の歌
「名にしおはば、いざ言問わん都鳥、我が思う人はありやなしや」
について地方出身者に薀蓄を傾ける者もいたし、長命寺(ちょうめいじ)の桜餅を美味そうに頬張っているものもいた。
しかし清一は心の中でなんとかこの状況を打開する妙手はないものだろうかと考えていたが、いくら代言人の勉強をしていても郷土の大先輩の鋭之助には迂闊な口を挟めないでいたのだった。
「こんなところで人のレースを見ていたって何も面白くないし、何より身体のためにはならん。よし。」
思い付いたら彼の行動は早い。瞬くうちに大会本部にいたストレンジ先生を土手まで引っ張ってきたのだった。
「ボーイズ、どうしたのかね。こんなところでしょんぼりとして。」
桜堤ではメンバーが抜けるように高い秋空に飛んでいく都鳥を眺めながら草笛を吹いていたが、ストレンジ先生は既に大体の顛末は歩きながら聞いていたので何食わぬ顔で堤防に腰を下ろした。
すると彼らは驚いた顔を見せながらも、頭を掻いている清一を横目に見ながらストレンジ先生の周りに集まってくるのであった。
鋭之助が代表して答えた。
「実はストレンジ先生。ボートを漕ぎたくてもボートはないし。いまさら端舟会に入れてくれとも言いにくいしほとほと困っていたところでした。」
ストレンジ先生は回りを見渡して自分の教え子達を見つめていたが
意を決したように話し出した。
「私が以前、横浜居留地にあるローイングクラブに所属し試合に出ていたことは話したことがあると思うが、毎年行なわれていた上海、長崎、神戸、横浜のローイングクラブ持ち回りで行なわれているインター・ポート・レガッタが今年は例の流行り病で長崎開催を返上し横浜港のオリエンタルホテル前にあるボートハウス沖で行なわれることになったのだ。
そこで9月頃より先方と交渉していたのだが、どうだね諸君。初の国際レースに出漕して見ないかね。
これは、中々に諸君の実力を測るには良い機会だと思うのだが。」
このストレンジ先生の突然の提案には一同唖然とするばかりであった。なにしろ外人たちはすでに滑席艇を使用して漕いでいると聞き知っていたが、彼らはいまだに滑席艇は漕いだことがなかったからである。
また彼らが漕いでいる固定席艇とは海軍などが使用しているカッターのようにそれぞれが横に張られた一枚の板に腰掛けて伸ばした足先を固定し上半身のみで漕ぐというものであった。
しかし現状が漕ぐことを許さない以上、このストレンジ先生の申し出に心を動かされない者はなかったし、何よりの決め手になったのは本邦初の国際競漕大会を自分達が行なうのだという名誉に大いに火がついたからであった。
※都鳥・・・東京都の都鳥で百合鴎・ユリカモメ
※長命寺・・・享保2年・1717年に初代山本新六が隅田川の土手に咲く桜の葉を使って考案した桜餅で以後200猶予年隅田川の桜とともに名物となった。
※言問い団子・・・江戸時代後期に初代の植木職人の外山佐吉が趣味で始め、明治元年に店名を言問団子とした。
※ 代言人とは今日の弁護士のこと
※ 滑席艇・・・スライディング・シートと呼ばれる個人用の座席の下にコロが付いていて、固定された足先に向かって膝を曲げていく動作とオールを水に入れるキャッチという動作を一緒に行なわなければならないのでバランスを取ることと、一連の動作を同時に行なわなければならないため非常に難しいのである。
推敲墨
その3、初の国際ボートレース
それからしばらくはストレンジ先生によるメンバーの選考に時間が費やされ、やがてメンバーの発表が行なわれたが彼らはいずれも直伝を受けた者ばかりであった。
「それでは今度のボートレースにおけるシートポジションを発表しよう。選考は身長体重のみではなく技術力とやる気をあわせて行なった。選ばれた者も選ばれなかった者も自分が出来ることをよく考え、オアーズマンシップに則って試合に臨んでもらいたい。
ボートレースは試合に勝つことが真の目的ではない。なによりもジェントルマンとしての素養の育成が目的であるのだから。つまりベストを尽くせということであり、結果はあとから付いてくるものなのだから。」
一同の割れんばかりの喝采の中、順次メンバーが発表された。
「まず舵手はMBCの中から阪倉銀之助君、整調は日高(ひだか)真実(まさね)君。三番は山口鋭之助君。この3人ともMBCのメンバーで春季競漕会の選手競漕では日高、阪倉君で良いリズムで漕いでいることから日高君に整調をお願いし、阪倉君には舵の腕を見込んでコックスの大役をお願いした。また山口君には自慢の体力でしっかりと整調を助けていただき確かなリズムを後ろに伝えていただきたい。
また2番と舳手(じくしゅ)はともにORCから武田千代三郎君と神崎東蔵君にお願いしたが、武田君は春季競争の5番レースで阪倉君の舵で整調を漕いでいるから気心も知れているだろうし、神崎君は武田君に合わせて漕ぐのはお手の物だろうからこのメンバーで行くこととした。
なおSRCからは岸君に総務全般と予備漕手である補漕をお願いしたい。また漕手の体重は以下の通りである。(1ポンド約454g)
整調・日高(134ポンド・約60、8kg)
3番・山口(167ポンド・約75,8kg)(約6尺、180cm)
2番・武田(128ポンド・約58,1kg)
舳手・神崎(129ポンド・約58,6kg)
補漕・岸 (138ポンド・約62,7kg)
(正漕手4人の体重平均は、139,5ポンド、約63,3kg)
試合は明治18年(1885年)11月3日に横浜アマチュア・ローイング・クラブ(YARC)の外人クルーとクリンカー艇のフォアで行なわれることになった。
コースは横浜港内で山下町のフランス波止場に立つオリエンタルホテル前に立つボートハウス沖からの1000mだったので、YARCから競漕に使うペトレルという名前の艇を借用し、横浜から伝馬船で運び浅草にある井生(いぶ)村楼(むらろう)という料亭の貸席がある広い縁側を借りて艇を置かせてもらった。
また毎日学校からストレンジ先生は人力車、漕手たちは歩いて通い3週間の乗艇練習を厳格にこなしていったが、井生村楼に着くと漕手達は重い艇をコックスの号令にしたがって隅田川に運んだ。
「両舷いいかー。両舷、手をかけて。持とう!一、二、三!。」
この号令にしたがって整調側を漕ぐ偶数番号のストロークサイドも、舳手側を漕ぐ奇数番号のバイサイドも、協力して艇を水面に出すために艇の下部にあるキールに手をかけて、腰に力を入れ阿吽の呼吸を合わせてきびきびと艇を水面近くに移動した。
したがってオアーズマンシップとは一つの目的に向かって利害を度外視して行動することであり、100十数年を経た今でも美しい伝統として受け継がれている。
「降ろそう、一、二、三!」
見ていた清一は心からレギュラーになりたいと願いつつ、クルーがペトレルを船尾からポチャンと水に浮かべると絶妙のタイミングでトップに付けられたロープを静かに引き寄せ舷側を桟橋に押さえた。漕手は各自のオールを取りに行きポジション横から艇に乗り込むと、オールをローロックに固定し両手は両サイドのガンネルを持ちながら片足を桟橋に残したままコックスのほうを注視すると、コックスがクルーの状況を何気なく観察し異常のないことをクルーの表情から読み取って号令を発する。
「蹴ろう!一、二、三!」
その号令に従いクルーは息を揃えて桟橋を蹴り出す足に力を込めるのだ。やがて桟橋からすっと蹴り出されてゆらゆらと水面に漂うパトレルが安定を取り戻すころを見計らって、漕手は静かに腰を下ろすとコックスは安全と艇内での練習環境確保のために準備を促す。
また号令は「両舷良いか!」という一回で済まさずに、必ず各ポジションに安全確認を行なわなければならないのは、ストレンジ先生のボートの基本は安全であるという教えを実行することで、面倒くさそうな顔をしているクルーに確認を取るためであった。
コックスはいつも思う。
冷えに耐えることで自らを奮い立たせて発する号令は、選手に元気を与えると同時にクルーを辛い練習に追い込むための儀式であることを。
「整調、いいか。」
「ハイ。」
「3番、いいか。」
「ハイ。」
「2番、いいか。」
「ハイ。」
「バウ、いいか。」
「ハイ!」
元気の良い声で返事をするクルーは学年の区別はなく、あるのは艇長としてのコックスへの全幅の信頼であった。
なお練習時におけるストレンジ先生の方針は次のとおりである。
1、 オールを見ないで前の漕手の肩を見て漕げ
2、 首をふるな
3、 クイック、オブ、チェスト(ブレードを素早く反転する)
4、 スペースを長く(水中を長く漕ぐ)
5、 波のないときは水面より3インチ(約7,62cm)の高さ、波が高いときは5インチ(約12,7cm)より高くするな
また試合に用いるコンスタントピッチは毎分27回。コックスの後ろに座ったストレンジ先生の掛け声の「クイック、オブ、チェスト」に合わせて漕手は厳しい練習を積んでいったが、時には有り余る体力からピッチを30以上に上げようものならこっぴどく叱られ、座りなれない動くシートがどこかに飛び出したりするのでシートをレールに縛り付けて動かないようにしているところを見つかりひどく叱られたりもしていた。
しかし執念というのは恐ろしいものであれほど手こずっていたスライディングシートも何とか漕ぎこなせるようになると、試合の数日前にはタイムトライアルで好タイムが出せたので、安心した彼らは東京日日新聞に掲載された端舟大競漕会の記事を読んだりしながら休養を取っていた。
生憎試合前日は暴風雨であり日頃から荒天時にはレースをするものではないと教えられていたので国際試合の当日になっても試合は行われることはないだろうと安心していると、青い顔の清一が電報を握り締めて走ってきたのであった。
「大変です!大変です!先方は悪天候によらずボートレースを決行するといってきました。どうしましょう。
ストレンジ先生には既に知らせておきましたが、急がないと間に合いませんよ。」
「なに。そりゃ大変だ。」
一同は大慌てで荷造りと身支度を終え陸蒸気の新橋駅まで走ると、ストレンジ先生は既に到着してにこやかに待っていた。
「ボーイズ。何も心配することは無い。
ボートレースは人生と同じで何が起こるか解らないから愉快なんじゃないか。さらに主賓である私たちが着かなければレースは始まらない。ゆっくり行こう。」
この話に納得した一同は汽車旅行を楽しんでいたが、次第に時化(しけ)た海が見えるようになってくると、自然に無口になって行くのであった。横浜駅からレース会場に行く前は新聞に取り上げられていたこともありかなりの人出を予想していたが、以外にも会場にはフランス軍艦の軍楽隊が演奏するマーチだけが鳴り響いているだけで観客は多くなかった。
また会場は風こそ少なかったものの前日の暴風雨の余波で大きくうねっていたが、東京大学のクルーは揃いの浅黄色の帽子を着用したのに対しYARCクルーは紅白の帽子を着用していた。
数回の野次レースのあとはもう本番である。
両艇が船首を揃えた所でスタートのゴー!という号令が掛かり、両クルーのレースが始まったのであった。
しかし練習の甲斐なく大きなうねりに翻弄されて東京大学クルーはオールを波にとられて腹きりをする漕手や、オールが空を切ったりする漕手が続出し全く良い所がなかったのに対して、YARCは日頃から海で練習している地の利を生かした滑らかな漕ぎでレースを展開し最後には4艇身の大差をつけてゴールしたのであった。
最後まで良い所がなかった東京大学クルーは、あまりの敗北に意気消沈しこのままでは応援していただいた皆様に申し訳ないと、一同頭を丸めて帰校し教師や学友に陳謝して回ったのであった。
※東京日日新聞・・・明治5年(1872年)に発行された新聞で後の毎日新聞
※電報・・・・・・・明治2年(1869年)横浜、東京間に開通
※日高真実・・・・・後3年間のドイツ留学後高等師範学校教授兼文科大学教授、教育学明治27年急逝、後日高文庫設立
※武田千代三郎・・・・後山口、秋田、山梨の県知事、日本海事協会、大日本体育協会副会長、大阪市立商業高校校長
※神崎東蔵・・・・・・後弁護士
※クリンカー艇・・・・4人漕ぎ滑席艇で鎧張り艇・外板が鎧の直垂(ひたたれ)のように少しずつ重なり合って出来ており昔の公園にあった貸しボートの外板と同じような構造
※腹きり・・・・・・オールが水にもぐって水圧を受けるので腹部にハンドルが食い込んで漕げなくなり艇速を止めてしまう状態)
推敲済み
その4、若槻禮次郎誕生
明治17年(1884年)9月に政府が裁判官を養成する司法省法律学校に合格した奥村禮次郎が受験した試験科目は、論語孟子の解釈と資治通鑑の漢文に訓読に必要な記号を付ける白文訓點(はくぶんくんてん)の2科目であった。
入学試験は一回ということだったが実際には受験生が約1200人もいたので、まず一次合格者を200名選抜した上で50名を採用した。
当時の司法省法律学校は4年に一度の募集で修学期間は予備門4年、大学4年の合計8年間だったので卒業できる者は官費という学費免除制度があったとしてもわずか7,8人であり多くは病気や厳しい授業についていけずに退学していくというのが現状だった。
当時政府は多くの優秀な卒業生を必要としていたので現状の打開策として、今年度は50名を官費合格とした上に25名を私費合格としたのだった。
したがって松江の漢学塾で孟子は学んだが白文訓點(はくぶんくんてん)を学ぶ機会がなかった禮次郎は、漢学を専門に学んできた私塾の二松学舎などの卒業生を相手に苦戦を強いられ私費入学生として合格を果たした。
また禮次郎は文房具や教科書代などは支給されていたので学習に関しては支障がなかったが、下宿代などの生活費に困ったため郷里と叔父の若槻敬から毎月4円の援助金を得て入学を果たしたが、法律学校は東京大学に合併され本科の生徒は大学の法科、予科の生徒は予備門に編入されたので禮次郎は予備門に編入され学生生活を続けていたが、明治19年(1886年)1月に子供のいなかった叔父の若槻敬の養子となり若槻禮次郎として生まれ変わった。
そして学費の心配がなくなった禮次郎は以前から郷土の先輩であった山口鋭之助や梅謙次郎及び親戚の岸清一達に誘われていたローイングクラブに入会することが可能となりこの年以降毎年行われている競漕会に出漕するようになったが、予備門が東京高等中学校、第一高等学校と校名が変更を重ねても学問とスポーツの両立に努力を惜しまず勉強面では首席を占めるようになった。
そして明治22年(1889年)2月11日日本国憲法が発布されることになったが、各学校の規律を厳格に守らせていた森有禮(もりありのり)文部大臣が官邸玄関で暴漢に刺殺される事件が起きたが、当時の第一高等学校の生徒達は袴など汚れているのが当然とし普通の服装をした学生には因縁をつけるなどしたので一高伝統の弊衣(へいい)破帽(はぼう)が生まれていった。
また背が高く優秀であった禮次郎は第一高等学校の総代と校旗の旗手を命じられ学校関係者と森邸に赴き弔辞を述べたり、明治天皇が代々木錬兵場で観兵式を行うことを聞きつけた東京大学と第一高等学校などの学生達は皇居近くの二重橋付近に整列して場所を占めていたが、当時の日本には胸中に湧き上がる尊敬と親愛の感情を唱和するような、仏蘭西語の(ビィブ・ラ・フランス)英語の(ブラボー)あるいは(セーブ・ザ・キング)および(ロング・ライフ)という言葉に相当するものがなく何かの時には丁寧にお辞儀をするくらいであったが、物足りなさを感じていた東京大学の和田垣謙三教授達が中心となって(萬歳、萬歳、萬々歳)という言葉を唱え、これを将来の日本の歓喜の言葉としようとを提案したのであった。
したがって学生達の歓呼の声に御車の馬が驚かないように宮内省に申し込んでおいたが、当日馬が驚き棒立ちになる事態となったので次第にその声は小さくなり、とうとう第三声は唱えられなかったが、以降萬歳は国民的な歓呼の声として唱えられるようになったが第三声の萬々歳の言葉は省略されるようになっていったのであった。
代々木連兵場・・・現在の代々木競技場
推敲済み
その5、運動会の設立と競漕規則
明治19年(1886年)3月1日の大学令改正により校舎を本郷に移転し各学部を統合した結果、東京大学は新生帝國大学として生まれ変わったが、新たに帝國大学總長となった渡邊洪基には大いに頭を悩ませる問題があった。それは前年に行なわれた競漕会以来統合前の学校を中心とした各学部ごとのメンバーが常にいがみ合い、新しい規則や組織を作る場合でも精神的なしこりをもとに対立していたため、大学の運営面において非常な困難が生じ始めていたからであった。
しかし總長の渡邊(わたなべ)洪基(こうき)は慶応大学のレッドクラブに所属して品川沖を良く漕ぎまわっていた関係で、前年に行なわれた走舸組春季競漕会の会長役を当時の東京大学初代総理の加藤弘之や同じく慶応大学のレッドクラブのボート仲間出身で加藤を助けて副総理をしていた濱尾新(はまおあらた)と共に勤めていたので、それぞれの主張は良く理解できた。
そこで渡邊總長はこの最も困難な問題を早期に解決するために、ボート仲間とその理解者である実力者達を秘密裏に招集することにしたのであった。招集されたメンバーは初代総理の加藤弘之ならびに副総理濱尾新、スポーツ通の菊池教授、実質的スポーツの指導者ストレンジ先生、最も多数のメンバーを有するMBC代表で大学院生の日高真美などであった。
「お集まりいただいた皆さん。この難問解決のためにぜひ皆さんのお知恵をお借りしたい。しかも緊急に対策を立てなければせっかく日本に息づいたスポーツの芽を摘むことにもなりかねない。それぞれの苦しいお立場は理解しているつもりであるが、ぜひ妙案を示していただきたい。」
しかし良い考えは一様に思いつかないようであったが、責任の一端を感じている菊池教授がストレンジ先生を振り返りながら発言した。
「ストレンジ先生。最近では仏蘭西人のクーベルタン男爵という人が古代に行なわれていたオリンピックゲームスと言う競技大会の復活を盛んに唱え出しているようですがそれはどういうことなのでしょうか。」
ストレンジ先生は控えめに自慢の髯を撫でながら話し出した。
「YARCの人たちに聞いた話によると、クーベルタン男爵は先のパリ・コミューンといわれる民衆が蜂起して誕生した革命政府の失敗により、生きる希望と目標を失っている自国の青少年たちにスポーツを通して喜びを与えたいのだと聞いています。」
海外留学の経験が多かった一同は意外な話の続きを待って身を乗り出した。
「つまりクーベルタン男爵は古代オリンピックの遺跡が発掘されたことにヒントを得て、国家間での戦争に拠らないでスポーツの力で人間のエネルギーの発散を図れないかと考えたからではないでしょうか。
スポーツを通して健全な外交関係を築くということもこれからの日本という国家にも必要なことではないかと考え、日高君たちに国際レースを経験していただいたのですが。」
ストレンジ先生は明治維新を経験し多くの若者の死を見てきた、日本の教育者達の心情を慮って発言したが、スポーツの持っている影響力の大きさについて触れた内容は出席者達の心を強く打った。
「それではストレンジ先生。他のスポーツに先駆けて隆盛を極めようとしているローイングの力をもってして、今拗れている問題を解決するにはどうすればいいでしょうか。あるいはローイングの本家であるイギリスではどのようにしてこのような問題を解決しているのでしょう。」
ストレンジ先生はかつて見たヘンリーローヤルレガッタの煌びやかな様子や、同好の士が集まって活動しているクラブというもののことなどを語った。
「イギリスでも河に生きる人たちがいます。その人たちは特にウオーターマンシップというものも大切にしていて、それがやがてはオアーズマンシップに繋がっていくのですが、やはり時には問題が起こりました。しかしイギリスでは大学などでボートが漕がれるようになる前に既にリアンダークラブというようなクラブチームが出来ていました。」
「そのクラブのローイングチームというものは、外国人によって既に日本でも活動していると聞いていますが、どんなものでしょう。」
「それは明治の初め頃東京の築地外国人居留地あたりに住んでいた人達が作った東京漕艇クラブというものや、横浜のYARC、神戸にあるKARCなどもそのようなクラブです。つまり国籍年齢職業を問わずローイングを楽しみたい者が中心となって、親睦のためのルールを作りますがメンバーは何人もルールに違反することは許されませんし、自らクラブの事に無償で奉仕することを厭いません。又入会には厳正な審査もありますが、クラブチームとはそのようなものなのです。」
「それでは現在の我々に一番必要とされている親睦を深めるために必要なものは、ルールとそれ以外何があるでしょう。」
「ローイングを愛する者たちに必要なもの。それはルールとボートハウスです。」
参加していた一同は大きな吐息をついた。
人が集まる場合の原則であるルール作りを一番苦手としているのが日本人であったが、それは伝統に従って行動することに慣れている日本人は逆に伝統がない場合にはそれぞれが暴走する傾向があるからであった。
やがて一同は問題の本質にとうとうたどり着いた。
諸外国から輸入される同じ意味を持つが発音が違う言葉の乱立はカルチャーショックを引き起こす上に、日本語に訳された場合でも人々に支持される言葉と支持されない言葉があり支持された言葉が必ずしも正しい意味を持たない場合もあるからであった。
したがって今回の混乱を解決するためにボートレースにおける用語の統一とボートハウスの建設によるルールの確立によって、今回の諸問題を一気に解決するという強力な流れとなって動いていったのである。
そこで大学院生の日高真実達が音頭を取り新しく水陸各種の遊戯(スポーツ)の実行と支援を行なう運動会という団体を設立したが、その規則の立案決定も順次行なわれ運動会の設立を機に毎年大学より組織の維持金として約二千円が下附されることになったが、運動会としても約600名に上る会員からも年に30銭ずつを収めることになった。
さらにレースについての公平性を確立するために、競漕規則とボート用語の統一も計ったので、舵手、整調、競漕、端艇、艇庫等の名称もこのときから統一されたのであったが、特に前年の反省に立ち再びレース結果について紛糾しないように競争規則の18条で無勝敗の競漕については再び競漕(再レース)を行なわせることとし、19条20条では特に最終決定である裁決については争うべからづと定めており、このルールによる美点は驚いたことに連綿と受け継がれ約120年後の現在のボート協会まで伝えられている。
※濱尾新(はまおあらた)・・・慶応大学から大学南校に学び後帝国大学三代目総長,文部大臣
※リアンダークラブ(Leander・C)・・・イギリスにある100年以上の歴史を持つローイングクラブで、19世紀以降テームズ河畔にあった有力な三つのクラブのうち(スタークラブ・アロークラブ・シャーククラブ)スタークラブとアロークラブが合併してできた。桜色のネクタイとブレードカラーを誇っている。
第5回ストックホルム大会(1912年日本初参加)のボート競技の男子エイトで優勝している。
※当時は陸上競技の場合は競走、ボートレースは競漕、飛行機などのレースでは競争などという字が当てられていた。またボートの場合も短艇競漕、端艇競漕、ボートレースなどという言葉が使われていた。
※明治20年4月に行われた第一回競漕会のために定められた
競漕規則
※ボートハウス・・・艇庫
第一条
発艇の号令は左の如く之を定む。
発艇者競艇の整列するを待ちてまず用意の令を下し、次に砲声を以って発艇を命ずべし。もし競漕者用意の命を受くるも用意未だ整はざるときは、すぐにその旨を発艇者に告げ発艇者は暫く待ち合わせたる後再び用意の令を発すべし。この再度の令下りたる後は競漕者は如何なる理由あるも更に発艇の猶予を請願することを得ず。
第二条
審査者もし競漕を中止するの必要ありと認むるときは、汽笛を鳴らして之を競漕者に通知すべし。
第三条
審査者の合図無きにみだりに競漕を中止するものは、之を理由として再競漕を請求することを許さず。
第四条
再競漕は当日各競漕の終わりたる後、又は他日に之を執行すべし。ただし審査者はその見込みにより即時之を執行することを得る。
第五条
発艇者自ら発艇を過り、又は競漕者に不正ありと思惟するときは、直ちに各競艇を発艇線に呼び帰すべし。命に従はざる者は競漕の権を剥奪す。
第六条
定時に発艇線にあらざる競漕は、審査者之を除去することを得る。
第七条
審査者は自ら発艇者の職務を兼ねることを得、ただし然らざるに於いては発艇者は万事審査者の指揮に従うべし。
第八条
各競艇は自己の水路に従うべし。ただし他艇を妨害せずして他の水路に入りたるは妨げなしといえども、ただし他艇のその正路を経て追いつき来るときは之にその水路を譲るべし。
第九条
水路の中途適宜の所に浮標一個を置きてその西を最西競艇の水路とす。
第十条
競漕中各艇の取りたる水路の正否は、審査者1人之を裁決するの権を有す。
第十一条
衝突は如何なるあるも之を許さず。之を犯すものは直ちに競漕の権を剥奪す。
第十二条
衝突とは競漕の始まりたる後、競漕者の身体、橈、艇体に触接するときをいう。ただし審査者においてもしこれらの触接を未だ競漕を妨ぐるに至らずと認むるときはこの限りに非ず。
第十三条
競漕中衝觸の恐れあるときは、審査者は衝觸を犯さんとする競艇に命じてその進路を転ぜしむることを得る。
第十四条
衝觸に関する一切の訴訟は、審査者1人之を裁決するの権を有す。
第十五条
他艇のために妨害されたりと思惟するものは、必ず上陸前に自ら之を審査者に口訴してその裁決を受くべし。
第十六条
衝觸の起こりたるときは審査者は左の権を有す。
1、 衝觸あるも勝敗に関係無しと認むるときはその競漕を止めざること。
2、 競漕を止め衝觸を犯せる競艇を除き他艇をして再び競争せしむる。
第十七条
各競艇自個の過難は自ら之を忍ぶべきものとす。
第十八条
無勝敗の競漕は再び競漕せしむ。
第十九条
判定者は審査者指揮を受け、競艇到着の順序を判定することを掌り、その裁決は最終争うべからざるものとす。
第二十条
審査者の権限は発艇より帰着に至るまで競漕一切行為に渉り、その裁決は最終争うべからざるものとす。
第二十一条
審査者発艇者判定者の命令裁決に従わざる者は、悉く競漕の権を剥奪す。
第二十二条
審査者は必要な場合に於いてはその裁決の発表を遷延することを得る、ただし競漕当日中に必ず之を発表するものとす。
第9章、固定席艇時代
その1、艇庫新設と新艇建造
運動会の創立で艇庫落成に必要な予算の目処も付き、明治20年(1887年)4月16日に行なわれる帝国大学の第一回競漕大会当日にあわせて開かれる艇庫の開場式及び新艇進水式の準備も始められ、2月に民間地を455円で購入して竣工した最新式の巨大木造艇庫は2階建てで建坪約150坪に総建築費1、389円85銭4厘で南葛飾郡須崎村15番地の言問団子の地名のもととなった向島言問岡にある団子屋の裏手に建設されたもので、第一回競漕会見物客のためには仮設の桟敷が設けられていた。
またこの艇庫は隅田川に面した所に閘門を設け隅田川の水を取り
入れた一階には10艇を収容し、2階の前面には常設の観覧席が備
えられ後方には優勝したクルーの写真などが飾ってあったと言われ
ていたが大正12年(1923年)9月1日に起こった関東大震の
ときに消失してしまった。
またこの大会のために平野造船所に建造を依頼していた6人漕ぎ
4艇も完成したが、新艇は従来のカッターと一線を画するためにY
ARCの使っていたアルバトロス艇を参考に工学部の学生達が設計
を担当しスピードが出るよう考えられた。
そして4艇の建造費はそれぞれ約100円程度であったが、艇名は国内の名瀑の名前より(那智、華厳、布引、養老)と名付けられ長く新艇にはその名を踏襲していった。
南葛飾郡須崎村15番地・・・後の本所区向島須崎町199番地に編入
その2、第一回競漕大会
さまざまな困難と想像を絶する準備に忙殺されながら、運動会の面々はとうとう第一回競漕大会の開催に漕ぎつけたのだった。
桜満開の中で絶好の競漕会日和となった艇庫には楼上から万国旗が翩翻と翻るように飾り付けられ4月16日午前9時を持って開始されたが、開場式と新艇の進水式のために渡邊總長以下大学職員並びに学生達は艇庫の楼上に参集し、總長は祝辞の中で精神の練習は学問にありて身体の練習は運動にある、またそれは共に学生の努めなければならない事ながら、運動においては身体の健全を図るのみならず自ら智仁勇の特性を養成することに努めなければならないと昨年の競漕会における騒擾を戒めながら述べている。
祝辞に対する運動会幹事長北川乙治郎の答辞終了後は海軍軍楽隊が蒸気船で音楽を奏で大会を盛り上げたが、このような密接な関係からオールを立てるような礼法の多くは海軍に則ったのであった。
さらに学生漕手は競漕用の帽子とユニホームを紅白緑紫の4色に染め分けるために染物屋に依頼したが、依頼を受け意気に感じた染物屋では無理な注文にも精算を度外視して答えた上に応援のために駆けつけたので墨堤はさらに立錐の余地もないほどの人出を見た。
また新艇はそれぞれ艇の底を4色の色に塗り分けられクルーが間違わないように工夫されていたので、それぞれが艇に乗り込み吾妻橋に設けられた発艇線まで蒸気船に曳航されスタート時間を待った。
当日は東京大学運動会による初めての競漕大会を見学するために多くの観衆が殺到したが、水上には警察船を配して万全を図り陸上では招待券を持参したものでさえ洋服か紋付袴の正装でないものと風紀に乱れのあるものは如何なる者であっても艇庫への入場を許さないなど万全の厳戒ぶりであった。
そして当日の競漕水路は吾妻橋の上流から大学艇庫までの1100mで行われ、第一番競漕からから第九番競漕までは学生並びに職員のレースが行われたが、第十番競漕では2艇の外国人クルーをYARCから招待し、十一番競争では文部省直轄でボートを漕いでいた学校3校、(緑組、第一高等中学校・後の第一高等学校)、(紫組、東京商業学校・後の一橋大学)(紅組、高等師範学校・後の筑波大学)を招待して競漕を行い第一高等中学校が勝利を飾ったが、翌年から高等師範学校がメンバー不足で競漕会への参加を断念したので、次年度以降この招待レースは第一高等学校(昭和24年、東京大学教養学部に合併)と高等商業学校(昭和24年、一橋大学)の対校戦である東商戦という現代の対校戦に引き継がれている。前編
清一達にとって大会当日は正に大車輪の活躍であった。
ストレンジ先生は大会委員として、日高真実は大会幹事兼選手として参加していたし清一は第三番競漕では白組の舵手、松江中学出身の志立鐵次郎は第四番競漕の整調、また第五番競漕では赤組に武田千代三郎整調、山口鋭之助5番、清一は4番として出漕し、隣の白組には神崎東蔵が5番、阪倉銀之助が4番で出漕し、同じレースの紫組でも日高真実が整調で出漕していた。
さらに渡邊千代三郎は第6番競漕の白組で5番、神崎東蔵が第7番競漕赤組舵手、日高真実は第8番競漕紫組舵手、武田千代三郎が第9番競漕緑組舵手とほとんど出ずっぱりの大活躍であったが、観客の多くが知らなかったこの活躍のもう一つの理由は、経験者である彼らがなるべく分担して出漕し大会の運営面を陰から万事遺漏のないように円滑に補佐するという大きな役割もあったのであった。
ただ残念ながら競漕規則を制定するなど、入念な準備をした上でのレースであったにもかかわらず規則が周知徹底できなかったのは、緑組舵手で武田千代三郎が出漕していたにもかかわらず、判定に苦情が出てレースは審査者の預かりとなるノーレースになったことである。
それでも番組は着々と進行し法(紅)医(紫)工(白)文理(緑)の4艇による最後の第十二番分科大学選手競漕を迎えた。清一の出漕する赤組は整調に武田千代三郎、5番に神崎東蔵、4番に清一を据えて第一回大会優勝に向けて万全のリズムを作り出す作戦であった。また最大のライバルである文理科は先に行なわれた横浜での国際レースで清一達を指導してきた先輩達が乗り込んでいて、整調に日高真実、5番に山口鋭之助、4番に阪倉銀之助を配してこれまた先輩としての意地を十分に漲らせつつ虎視眈々と優勝に向かって準備を整えていた。
一方の清一達は一月にクルーとして選抜されて以来、この日のために備えてきたが法科は6人の漕手の平均体重が(126,5ポンド、約 57,4kg)であるのに対して鋭之助達の文理科の平均体重は(135,3ポンド、約61,4kg)なので、墨堤で応援する口さがない雀達は平均体重と漕いだ経験を表す漕歴を盛んに言っては文理科クルーの優勢を予想していた。
しかし墨堤にあってただ1人だけ法科クルーの勝利を誰よりも確信していたのがストレンジ先生であったが、それは彼らを予備門のころから(艇は心で走る)として心構えと技術面からコーチしてきたのでこのクルーが体は小さいながら実に練習熱心で勝利に対する貪欲なまでの欲求が他艇に比べて非常に高いということを知っていたからであった。
また法科では初の分科競漕ということで多くの学生が熱心に練習に参加していたが、徐々に参加メンバーが少なくなってきたので、クルーの中から集中して練習しようという声が起り大会の二日前から早朝に千住大橋近くまで漕ぎあがり試合と同じ約5分間全力で漕いでは休憩を取とるという乗艇練習をしたのであった。しかし他のクルーはそのような練習をしているはずもなく、レースに対する清一達の高い意識が勝敗を大きく分けた原因となったが、結果は法科が5分42秒で1位となり、この大会のために作られたチャンピオンフラッグを一年間保有する権利を得たのであった。
こうして法科が記念すべき奇跡の優勝を遂げた第一回競漕大会は午後6時15分頃に全ての競漕を終了したが、レース中には貴婦人令嬢と思われる女性が散り掛かった桜の花びらを絹布で出来た蝙蝠傘で受け止めるというような風情が見受けられたり、時には紅色のハンカチーフを打ち振って応援に努め漕ぎ終わったクルーに対して祝意を表すなどというような奥ゆかしき光景も随所に見かけられた。
特に桜餅で有名な長命寺付近から今戸あたりまでは見物の老若男女で溢れかえり、レースの結果が知らされるたびに両岸に陣取っていた人々は拍手と大きな歓呼の声をもってクルーの勝利を祝したので川面にはその声が響き渡りボートレースの興奮と余韻を長く人々の記憶に留めたのであった。推敲済み
その3、禮次郎遭難
礼次郎は叔父である若槻敬の養子になり学費の心配はなくなったが、清一のように特になりたい職業があるわけではなかった。
出雲学生会の会合に出ると早くからボートを漕いでいた清一などは一度ボートを漕いで試合に出ましょうと口煩く誘ってきたが、どうもクルーと称して徒党を組むのが今ひとつ肌に合わないような気がして中々ボートを漕ぐ気にはなれなかったので初めのころは大体60日ぐらいある夏休みには見聞を広めるためと称してよく旅に出た。
そして夏休みの半分は普段勉強している法律関係以外の勉強を心がけ、残りの30日ぐらいは諸国を巡ったが、旅といっても金銭的に余裕がないためもっぱら草鞋でてくてくと歩いて行く旅路であった。
特に松江の四十曲峠で体験した山登りは気に入っていたので旅といえば山に近い所を選んで登ったが、大学に入学して最初の旅は明治19年(1886年)に東海道を桑名まで行き、帰りは中山道経由で善光寺を見て帰京するというものだったがそのときの宿賃は15銭から18銭くらいであったが浜松で泊まった最高の宿は25銭であり、宿屋は朝夕2食付きで出発時には昼食用に麦飯をお握りにして竹の皮に包んで持たせてくれたのだった。
次の東北方面に向かった旅では日光から会津方面に向かう途中で喉の渇きで道端の水を飲んだことによって、ひどい下痢となり難渋したことがあったが、明治21年(1888年)の旅の途中では7月15日に会津磐梯山が噴火したという記事を新聞で読んだ清一が心配のあまり手紙で郷里に遭難し死亡しているかもしれないと伝えたので大騒ぎになってしまったこともあったのである。すみ
その4、第二回競漕大会への勧誘
そのころの出雲学生会では第一回競漕会の話題で持ちきりだったが特に鋭之助や清一は常に話題の中心であり、彼らの情熱に引きずられた形でボートを漕ぎ始めた志立鐵次郎も次第にその魅力にはまり込んでいったので、松江中学以来の盟友を自負していた銀之助はこのところ些か面白くないものを微妙に感じていた。
松江を出立して以来清一は交友関係が多岐に渡るようになり、常にボート仲間と居ることが多くなったので以前のように気軽に話せない雰囲気が感じられるようになっていたからだった。
特に銀之助の気に入らないのは清一がボートの練習に関することになると目の色を変えて夢中になり、クルーと称する仲間からお呼びが掛かるとまるで恋仲の女に会いに行くようにいそいそと居なくなってしまうことであった。
銀之助にはどうもそのあたりが理解できない。
「ボートは、何が面白いのだろう。」
しかし銀之助は迂闊にボートの話題を振った場合、幾夜も関心のないボート談議に付き合わされて閉口した経験を持っていたが、この最大で素朴な疑問は在るとき清一により唐突に解決を見たのであった。
「銀之助。そろそろボートを漕げ。」
この言葉は待っていたような。あるいはいなかったような、とても不思議な感覚を伴って受け止められた。
「なんだって。俺にボートを漕げだと。どこからそんな言葉が出るんだ。入学以来応援をすることはあってもボートを漕ぐのは嫌だと言っていたじゃないか。」
その返事を聞いた清一は俄かに顔を曇らせて俯いてしまったが、それを見た銀之助は胸中なにかとても嫌なものを見てしまったような感覚にとらわれたのだった。
やがて二人の間に長い沈黙が流れたが、銀之助のそれだけは言わないでくれという願いもむなしく沈黙に耐えかねた清一はかつて福助と渾名された鉢の大きく張った頭を抱えつつ話し出した。
「競漕会に出漕するクルーのメンバーが足りないんだ。」
ああやっぱりその話か。
銀之助はうすうす感じていたことをつい口に出してしまった。
「足りないとは、どういうことなんだ。」
この質問を聞いたとたん、俄かに元気を盛り返した清一は熱く語りだした。
銀之助は心から後悔した。
「銀之助、聞いているのか。銀之助。」
銀之助は清一に名前を呼ばれるたびに何か喜びに似た感情と、嫌悪の感情が交錯したが、清一はその感情に気付かないふりをして話し続けた。
「実は銀之助。第一回は成功したのだが2回大会の出漕は都合が付かないというものがいるんだ。しかし出れないといったって競漕会は何とか成功させなければならないが、大会を続けるということがこんなに大変だとは全く思わなかった。
無理は言わん。今回だけ助けてくれ。今回だけメンバーになって漕いでくれ。一度でも漕げばその魅力が解るはずだ。」
頭を下げる清一を見ながら自分はいつも頼み事ばかりしていたことを徐々に思い出していた。
「わかった。今回だけだぞ漕ぐのは。
俺はどうも苦手なんだ。手の平にまめが出来るなんて真っ平だ。」
騙されたような暗い顔を見ながら喜色を表した清一は、一気にボートレースの心構えを説き始めるのだった。推敲済み
その5、銀之助始めて出漕
第2回競漕大会は明治21年(1888年)小雨のふる中で4月21日の午前9時より挙行された。当日の天候は両岸を埋め尽くす者にはぬかるんだ地面に足を取られたり着物に泥が跳ね上がったりと難渋をもたらしたが、各クルーにとっては風がないため水面が鏡のような状態で漕ぎやすく非常に絶好のコンディションであった。
大会役員の顔ぶれは会長の渡邊總長、委員の1人にストレンジ先生と大きくは変わらなかったが、新しく幹事長に菊池先生が就任したので神崎東蔵がこれを補佐する意味を持って幹事に就任した。
競漕は昨年より2競漕の増加を見た14番競漕が行われたが、それは各科の漕手希望の教員と学生が増えてきたことを意味しており、
第一番競漕から第3番競漕までは法・理・医・文科の教員と学生が4艇に混成で出漕した。また第4番競漕から第11番競漕までは文科と理科の学生が少なく出漕することが出来なかったので法科大学(緑)・医科大学(赤)・工科大学(白)の競漕として行われた。
さらに第十二番競漕は昨年と同じように来客競漕としてYARCによるレースが行われ、第十三番競漕も昨年度と同じく文部省直轄学校競漕として第一高等中学校と高等師範学校、高等商業学校のレースが予定されていたが高等師範学校はメンバーが揃わず出漕を断念したので人々を残念がらせた。
またこれらのレースには最後の14番競漕である分科大学選手競漕に選抜されない漕手たちが、互いに各科対抗の形をとって新人選手の育成を図る目的もあったのであった。
したがって昨年とはことなり清一や分科大学選手競漕に出漕する者たちがレースに集中できるように負担を軽くするという側面も持ち合わせていたので、番組に登場する回数が減少した結果として人員が足りなくなるということも発生したのであった。
いよいよ銀之助の出漕する第二番競漕が始まろうとしていたが、銀之助(108ポンド、約49kg)が二番手をつとめる赤組は最も浅草寄り、ついで緑組、隅田川の中流は紫組で白組は最も向島寄りにコースを設定されていたが、スタートに向かって蒸気船に引かれていく途中では観客を満載にした外輪船から出雲学生会の連中も声をからして応援していが、紫組の整調をつとめ第一回競漕から出漕していた志立鐵次郎(130ポンド、約59kg)が声をかけてきた。
「お前もとうとう清一に騙されたな。これでボートは止められなくなるぞ。」
「俺はお前とは違う。今回だけだと頼まれたから出てやったんだ。しかし競漕では容赦しないぞ。」
こうして各艇はわいわいと騒ぎながら、スタートラインに向かっていくのであった。
それらのレースが終了し競漕は次第に雨脚を強めていく中で、第14番競漕の文科大学競漕のスタートが迫ってきたが、緑組の法科は昨年度の優勝に続いて連覇を目指し整調の武田千代三郎、4番手岸清一、3番手の神崎東蔵らを要しての出漕であったのに対し、紫組の文科は阪倉銀之助を舵手にして難しい川でのコース取りに万全を期した上に日高真実を整調にしての出漕であったが、法科も文科も昨年の敗北に対する雪辱を誓って猛練習を積んでいた工科に敗れ去った。
しかも優勝した工科のタイムは6分52秒3、二着の医科は6分52秒5でその差はわずか0,2秒で極めて熾烈なレースであったので、その上位2艇に大差を付けられた法科と文科は完璧な敗北を喫したのであった。推敲済み
その6、ストレンジ先生の結婚と叙勲
来日後の明治14年頃(1881年頃)27歳になっていたストレンジ先生は東京大学予備門の教師をしていたが、夏の休暇を箱根にある芦ノ湖畔で過ごしていた。
ある日のこと何時ものように湖面に貸しボート屋から借りた手漕ぎボートを漕ぎ出して楽しんでいると、かねてから顔見知りで郵便汽船三菱商会外事支配人のヘンリー・オーガスタス・ハウが、姪のエディスをボートに同乗させて漕ぎだしてきたのに遭遇した。
軽い会釈を交わしながらストレンジ先生は、かねてから在留外人の間でも噂になっており鹿鳴館の華と歌われていた芳紀24歳のエディスをそのとき始めて見たのであった。
すると俄かに富士山の裾野にある十国峠から芦ノ湖めがけて突風が吹きつけると、ボートに乗ったことがないエディスは艇の揺れに驚き立ち上がったのでバランスを崩したハウ艇はエディスの悲鳴を残して転覆してしまった。
その転覆事故を目撃したストレンジ先生は、腕も折れよと自慢の漕力に任せて素早く漕ぎ寄るとオアーズマンシップに則り引っくり返った艇にしがみついていたエディスを拾い上げ、つづいてハウを救助に向かい舷に掴まらせているところに現れた他艇と協力してハウを救助したので二人は数日後ストレンジ先生を別荘に招き感謝の宴を設けたのであった。
やがて若い二人が散歩する姿はしばしば湖畔に見られるようになり、その年も押し迫ったクリスマスの頃に多くの友人達の祝福を受けて結婚へとゴールインしたのであったが、ストレンジ先生が陸上競技とボートレースに時間がとられるようになってくると、次第に二人の愛情には溝が生じるようになったが、それはストレンジ先生を慕って何時も若い学生達が本郷追分町にある新居に入り浸り、英語の速記術やスポーツの話などをしているので新妻のエディスは多少とも寂しい思いをしていたからに他ならない。
しかし華やかなことが好きで当時盛んに鹿鳴館で行われていたダンスパーティーなどに行こうと誘うエディスに対して、生真面目で華やかな場所が苦手なストレンジ先生は取り合わずに書斎で本を読むか、休日にはメガホンを持ってボートを漕ぐ学生を追い掛け回して指導していた。
その頃になるとエディスはフランス語の勉強のため神田三崎町にある仏和女学校に通っていたが、親しくしていたフランス軍のブリアン大尉に対して、これでは私はボートウイドウのようですと愚痴をこぼすようになっていたが、明治18年(1885年)には長男のフレデリックが誕生した。
豊臣秀吉とワシントン大統領を尊敬していたストレンジ先生は、長男を太閤と呼んで可愛がったがこの頃から時には学生達と料亭に上がって、沈痛な顔で飲めないお酒を飲んで学生達を驚かしたこともあった。
しかし第二回競漕大会も無事に終わったある日、ストレンジ先生は菊池教授の呼び出しを受けたので、何事かと訝りながら研究室を訪ねるとにこやかに迎えてくれた。
「よく来てくれました。日頃ストレンジ先生がわが国の学生に陸上競技やボートなどを献身的に指導していただいているのを見て、先生の処遇などについて随分と気にしていたのです。」
ストレンジは幾分緊張しながら多少は感じていた他のお雇い外国人教師との待遇面での違いに関することのようなので慎重に返事をした。
「日頃の御理解と支援活動に対して感謝申し上げます。私がこのようにスポーツに打ち込むことが出来るのも、渡邊總長と菊池教授を初めとする関係者の皆様のご協力の賜物と感謝しております。」
そう答えたが、菊池教授の言葉は意外なものであった。
「そのことです。ストレンジ先生のご指導に感謝する気持ちを表すべく関係の諸氏が多方面から集まり推挙しておりましたが、このたび
の春の叙勲にて勲五等雙光(そうこう)旭日(ぎょくじつ)章が授与されることに内定いたしました。」
ストレンジは思わず絶句してしまった。
というのも旭日章は日本で始めての勲章として明治8年(1875年)に制定されたもので、特に外国人で文化的に著しい貢献のあった者に送られるものであったからである。
「そうです。ストレンジ先生の貢献度を考えればもっと早くしかるべき処遇についても考えなければならなかったのですが、とかく何かという人もいることから処遇に関しては叙勲後ということを考えています。
ストレンジ先生。やがては共に帝国大学のために努力したいものですね。」
ストレンジは謝礼の言葉を述べて退室したが、外人の受賞はフランス陸軍のエシュマン大尉が明治7年(1874年)口述で述べたものを長坂昭徳がまとめ体操教範として出版したことや、日本陸軍に対して射撃や体操教育を指導した功により明治11年(1878年)5月23日に勲五等雙光旭日章を受賞していたのであった。
これに対して明治16年(1883年)に隅田川で行なわれた海軍の端船競漕から始まって東京大学等の競漕会でも海軍の人たちとは大会の運営について、例の紛争以来ゴールにおける着順の判定などの混乱防止のために審判を依頼するなどの協力関係にあったので、陸軍に対する牽制の意味も込めて海軍のほうからも強い推薦があったのではないかと思われた。
そして明治21年(1888年)5月18日にストレンジ先生は多くの関係者の祝福の中、旭光の形を模し白い光が四方に放たれている中に赤く輝く日章をいただいた勲章を宮廷にて授けられたのであった。
※ヘンリー・オーガスタス・ハウ、Henry、A、Howe・1844~1889年43歳で没し青山外人墓地のN1-i5/37-38に埋葬
※郵便汽船三菱商会は後に共同運輸会社と合併し日本郵船となった。
※東京大学は明治19年(1886年)から帝国大学と名前を改めた。
※勲章の種類
・大勲(だいくん)位(い)菊花(きっか)章(しょう)は旭日(きょくじつ)大綬章または瑞(ずい)宝(ほう)大綬章を授与されるべき功労より優れた功労のあるものに与えられる。
(大勲位菊花章頸飾(けいしょく)、大勲位菊花大綬章、桐(とう)花(か)大綬章)
・ 旭日章と瑞宝章は国家または公共に対し功労あるものに与えられ、
旭日章は功績の内容に着目し顕著な功績を挙げたものに対し、瑞宝章は公務等に長年従事し成績を上げたものに与えられそれぞれ6段階に分かれる。
(大綬章、重光章、中受賞、小受賞、双光章、単光章)
・ 文化勲章は文化の発達に関し特に顕著な功績のあるものに与えられる。推敲済み
その7、出雲学生会の決議
明治21年(1888年)の8月に出雲学生会では前例のない臨時会を開催し幹事を務めていた清一は次のように述べた。
「暑中休暇中は出雲学生会の規則により会議は行わないことになっているが、今回は会員諸君の送別と歓迎会の意味を持って特別に会合を開いたのである。」
清一達が上京してから松江の学生達は続々と大きな志を立て、ある者は東京へ出てから地方の高等中学校へ入学、ある者は札幌農学校を卒業後帝国大学へ入学するなど同胞の移動の数は日増しに多くなったので、出雲学生会の会員は毎年任意で自己にふさわしい金額を寄付し会員に厄難疾病等の困難が起こった場合に何らかの支援を行うために貯金の組織を設け会員の困窮に対して多少の金銭的支援を行うことを決議したのであった。
また新しく決議されたのは貯金額が相当額に達した場合は松江にある学校に奨励金を寄付し、金銭的に就学困難な子弟には学費の補助をするための基金とすることも含まれていたが、やがてこれらの寄付金は出雲育英会(明治31年1988年創立)や寄宿舎(明治37年1904年完成)の建設および岸奨学金(大正8年1919年創立)となって結実していくのである。推敲済み
その8、長命寺での合宿練習
第2回競漕大会での惨敗を受け法科クルーは清一達を中心にして翌年の第3回大会に向けてミーティングを繰り返していた。今度の大会では絶対に負けるわけにはいかないが、ではどうすれば勝つことが出来るのか鳩首を集めての話し合いでもどうにも解決策は浮かばなかった面々は隅田川沿いの牛肉屋でポテンシャル・エナジーを養うと称してしばしば会合を持ったが、そこに銀之助が耳寄りな情報をもってきた。
今までの会合で勝つための対策としては乗艇練習しかないだろうという点と、どこかに選手を缶詰にして集中的に練習する環境を作ったらどうかという意見が出ていたので、銀之助は散歩をかねて艇庫から少し上流にある水神様が祀ってある隅田川神社に願掛けにいったのであった。
隅田川七福神の一つ隅田川神社には亀に水神様が乗って現れたことを記念して水神様が祭られていたので、ボートレースにも何か助太刀してくれるようない感じがしていたからであったが、帰り道で銀之助がふと周りを見渡すと意外なことにこの辺りは神社やお寺が多いことに気付いたので、これは水神様の霊験のおかげと感激した銀之助はかたっぱしから神社仏閣に飛び込んでは、選手の下宿の件を交渉してきたのであった。
しかし大概の場合は神様仏様が驚くと体よく断られたのでこの世には神も仏もないものかと嘆きつつ歩いていたが、艇庫の下流すぐ近くにあった長命寺にだめもとで下宿の件を交渉してみたところ帝大の学生さんのためなら喜んで寺の一角を提供してくれるというものであった。
一同は喜び勇んで早速宿泊するメンバーの決定を行い、合宿(あいやど)あるいは相宿(あいやど)という形の日本初の試合に向けた宿泊練習を明治22年(1889年)3月26日より開始したのであったが、工科を初めとした他のクルーも下宿まではしないものの同じような練習を行って密かに必勝を期していたのだが、帝国大学が始めた相宿形式で宿舎を用意して行う練習形態は、その後には合宿(がっしゅく)と呼ばれるようになったのであった。
そのときに必勝を期して選抜されたメンバーは以下のとおりである。
舵手、曽我祐保 (111ポンド、約50,4kg)
整調、武田千代三郎(130ポンド、約59、0kg)
5番、神崎東蔵 (128ポンド、約58,1kg)
4番、岸清一 (133ポンド、約60,4kg)
3番、野村彌三郎 (145ポンド、約65,8kg)
2番、島田剛太郎 (126ポンド、約57,2kg)
艇軸、潮田万蔵 (127ポンド、約57,7kg)
つまり法科漕手の体重平均が、約59,7kgであったのに対し
医科平均体重は、約58,9kg、工科平均体重は、約58,6kg、文理科平均体重が、約47,9kgという構成であった。
これを見ると漕手の平均体重は法科が経験者で体格的に優れていた者を選考したのに対し、文理科は学生数が少ないために漕手集めに苦労しているかが理解できるがその中で山口鋭之助は身長約180cm、体重160ポンド、約72,6kgの体格を持て余してレースの予想をつけては一人嘆いていたが、法科は必勝を期して学業との両立を図りつつ多少の降雨や悪天候にもめげず、早朝と夕方に乗艇練習を積み重ねっていったのであった。
銀之助は大忙しである。
金銭的には法科の諸先輩や運動会から合宿の費用は十分に出ていたので困窮することはなかったが、なにより選手たちの食べることに対する凄まじいまでの執念には本当に驚かされることの連続であった。なかには飯をたらふく食べさせてもらえるのでボート漕ぎになったという者もいるぐらいであるから、食事の下準備には大変な苦労をしたが、ボートを漕いだことがある銀之助には腹の減るのは十分に理解できたので、近隣の農家などを回って材料を買出しするのが日課になっていたのであった。
やがて猛練習の甲斐あって艇速もかなり感じられるようになってきたが、彼らはひたすら競漕会の雪辱に向かって新聞も読まず外出も控えストレンジ先生の叙勲に対しての祝賀会にも出席せずにただひたすらに、愚直なまでに乗艇練習を繰り返す毎日を送っていったのであった。
やがて第3回の競漕回を間近に控えた4月のある日のこと、何時ものようにライバルクルーの偵察を買い物のついでにしていた銀之助が青い顔をして駆け込んできた。
法科クルーは午前の乗艇練習終了後の時間を読書や勉強に時間を費やしていたが銀之助のただならぬ声にそれぞれが集まってきた。
「どうしたんだ。つまらんことじゃ許さんぞ。」
少々退屈気味で時間を持て余していたクルーは、走って本堂の玄関前にある階段を少し上がったところに6人が折り重なって日に焼けた顔を揃えた。銀之助はそんな彼らの顔を見ながら今年は勝てるかもしれないと頼もしく思いながら、言葉を選んで話し出した。
「喜べ。なんと言っていいかわからんが、工科の連中は5番の漕手以外は全員大腸カタルにかかって満足に漕げない状態になったそうだ。まさに水神様の御利益かも知れん。これで今年の競漕会の勝ちは決まったも同然だな。」
「それがどうかしたのか。」
意外なことに彼らは少しも驚かなかったが、整調の武田千代三郎が代表して返事をした。
「なるほど。そうだったのか。何日か前から奴らの姿を水の上で見かけなくなったので何かあったのかとは思っていたんだが。」
銀之助には競漕会に出漕する彼らの考えがあまり上手く理解できなかった。なぜチャンスを喜ばないのだろうかと不満に思いながら、庫裏で夕飯の支度に掛かっていた舵手の曽我の所に買い出した食料を持って行きながら聞いてみることにした。
「おい。これは今日の買出しだ。また旨いものが何とか買えたが、それにしてもこの買出しの量は何とかならんのか。どこ行っても相撲さんですかと。それはもう大変だ。
しかしお前も少しは何か食べろ。お前が体重を落とすより、あいつらに十分嫌というほど食わせてもっと漕がせてやればいいんだからな。少しは食え。」
馬のように食べる漕手の横で自分の食べ物を漕手に分け与え減量しているのを知っていたので回りの気配を窺って懐から取り出した饅頭を渡したが、銀之助にはそんな舵手の気持ちはもっとわからない。
一体何が楽しくてボートを漕ぐんだろう。いや舵手を務めるのだろう。自分と全く違う彼らを見ながら、いそいそと買出しに行きクルーがあっという間に腹の中に平らげるのを見ながら、しかし心中は痛快なものを感じているのであった。
青年とはこんなにも飯を食べるものだったのだろうか。
もっとも漕手は食事時には一様にお前も食べろと舵手に進めるのだったが、その目は舵手が食べることなどは初めから無いと知っているように、あっという間に舵手の食事も胃袋に収めるのだった。
舵手はそんなクルーを見ながら、体の小さい自分が漕ぎもせず選手競漕に出ることを喜び、日頃威張っている漕手が試合になると素直に自分の指示に従い、作戦の主導権を自分だけが握っていることに感謝して彼らには力いっぱい漕いでほしいと思うのだった。
しかしいよいよ大会当日の朝になって、銀之助の想像を絶するような事を清一が言い出したが、それは全く空前絶後の内容であった。
「これから俺たちが話すことを良く聞いてくれ。
先輩達からはお前もとやかく言われるかも知れんが、これはクルーで決めたことなんだ。これからすぐに工科の連中の所に行って、文科大学選手競漕について一週間の延期を申し出て来い。」
彼はこの時ほど度肝を抜かれたことはなかった。
前年の雪辱を期して3月から今まで辛い練習に耐えてきたから最大の勝機が巡ってきたのに、クルー自らがチャンスを棒に振るような選択をしたからだった。
「ちょっと待ってくれ。そんなことは俺には絶対言えん。言える訳がないだろう。工科の連中が延期を申し出てきたのならわかるが、なんでこっちからそんなことがいえるんだ。」
色をなして言い募る銀之助の大きな声に本堂にクルーが集まると、武田が話し出した。
「まあ待て。よく聞け。実は俺たちがこのような選択をしたのには理由があるんだ。お前だって去年ストレンジ先生が勲五等雙光(そうこう)旭日(ぎょくじつ)章を叙勲したことは知っているだろう。」
「知っているさ。ボート関係者なら知らない者はいないだろう。お前達は俺をバカにしているのか。ストレンジ先生と今回の件がどう結びつくんだ。いくら俺たちが試合に出ないからといってそんな役目は引き受けられん。」
「まあ待て。そうじゃないんだよ。俺たちクルーは口では言わんがお前達漕ぎ屋でないものにも、ちゃんと感謝の気持ちは持っている。舵手にしても陰に隠れて飯も食わんと毎日レースの作戦について頭から湯気を出しながら夜も寝ないで考えていることも知っているし、銀之助を含めた応援団がどんな思いで農家の方々に頭を下げて食料を調達しているのかということにも感謝している。
しかし今度の話はそんなことではない。以前から俺たちがストレンジ先生を通して教示してもらったことはなんだ。ただ勝てばいいというのではないだろう。オアーズマンとして紳士たれと教わってきた事を、今体現しなくて何時その教えを行えるというんだ。
工科といえども同じオアーズマンではないか。相手の不調によって勝ちを得たからといって俺たちは少しも嬉しくはないぞ。
いいか良く聞け。ストレンジ先生の教えを受けてきた俺たちがその教えを守らなくて、今後の日本にボートレースが根付くと思うか。 しかも今日俺たちがやろうとしているボートレースというものは、近代スポーツの精神的基礎を構築しているということなんだよ。」
なんだかんだと言い包められてしぶしぶ使いの口上役を引き受けた銀之助であったが、レースにも出ない自分が何故このような役を行わなければならないのか本当は腑に落ちないものを感じていたが、工科の対応はさらに彼を驚かせるものであった。
「申し出の件については非常に感謝しており、できることならば延期していただきたい所ではあるが病人を出してしまったのは我々の責任である。したがって有り難い事ながら今回は我々の責任においてレースに臨ませていただきベストを尽くさせていただきたい。
ただ許されるならば一人だけ体調が思わしくない者がいるので補欠と交代させていただければ有り難いことである。」
銀之助の伝えた言葉を受けて長命寺では住職が漕手の背中に波阿弥陀仏と墨痕鮮やかに書き上げると、漕手はその上からユニホームを着用して大会に臨んでいくのであった。
こうして競漕大会は非常事態の中で明治22年(1889年)4月10日の午前十時より桜の花もようやく咲きほころんできた帝国大学の艇庫前で行われたが、観衆の多くはその事を当然知らされておらず大会は例年のように始められようとしていた。すなわち大会会長は渡邊總長でストレンジ先生は委員として参加し、菊池教授は幹事長を務めた。
最初の一番から五番は学生と卒業生である学士ならびに教員の混合レースであり、6番競漕では法科の学生によるレースが行われ志立鐵次郎が整調で出漕したが勝つことは出来なかった。また7番から9番競漕までは各科の対校で行なわれたが、第10番の競漕は教職員で争われ、菊池教授が舵手で出漕した赤組が勝利を収めた。11番競漕は各科の対校で行なわれ12番は人気が沸騰し応援団も含めてとかく騒ぎになりがちな第一高等中学校と高等商業学校のレースが行われ第一高等中学校が3連勝を飾ったのち今大会最後の文科大学選手競漕は墨堤を埋め尽くした観客と来賓の凄まじい応援のなかで法科(白)、医科(赤)、工科(白)、文理科(紫)の4艇で行われ法科の勝利となって午後7時頃に終了したのだった。推敲済み
6月12日
その9、帝国大学卒業と訃報
明治22年(1889年)7月5日、23歳になった清一は帝国大学英法科の卒業を5日後に控えていたが、突如ストレンジ先生の急変が伝えら関係者が駆けつけたときには敬愛する先生は既に帰らぬ人となっていたのであった。
驚いて言葉もないまま立ち尽くす彼らにもやがて事情が聞こえてきた。昨年には長女ノラも生まれていたので結婚8周年を記念してストレンジ先生は2児を女中のお松に託して6月20日から旧婚旅行をエディス夫人と群馬県の伊香保温泉に試みたが、一週間すると答案整理という理由で婦人を残したまま1人で帰京した。
やがて夫人も帰郷し先生はいつものように書斎に閉じこもり黙々と答案の採点に当たっていたが、午後4時頃夫人が運んできた日本茶を飲むと突然胸をかきむしって苦しみ出したので、 驚いたエディスは女中のお松と苦しむストレンジ先生をベットに運び関係方面には急を知らせたが一時間後には息を引き取ってしまった。
やがてスクリッパ博士、第2回第3回と共に競漕会で委員を務めたベルツ博士、ブリアン大尉らが駆けつけて注射などの治療を試みたがついに息を吹き返すことはなかったので、薫陶を受けた者たちは変わり果てた恩師の姿に茫然と合掌するも、慟哭は止まずただその場に立ち尽くすのであった。
明治22年(1889年)7月5日、享年35歳。死因は心臓麻痺で葬儀は7月7日に行われ青山墓地に埋葬されたが、その後突然の訃報は多くの新聞や少年世界などという雑誌にも取り上げられ、若くして急逝したスポーツの大恩人ストレンジ先生の死を悼んだのであった。
翌年の夏にはエディス未亡人がブリアン大尉と築地明石町のフランス教会で結婚式を挙げたが、ストレンジ先生の墓はしだいに忘れ去られていった。
「Faithful unto death」
やがて(死ぬまで信義を守った)と記され無縁仏になりかけていた墓石は、後に日本陸上競技連盟により発見され追悼式がおこなわれたのであった。
※ジュリウス・カール・スクリバ(ドイツ、1848年~1905年 東京帝国大学名誉教授で外科医、後ストレンジ先生と同じ青山墓地北ニ種イ一側、N2-i1/3に埋葬)
※(Frederick William Strange。北一種イ三側、N1-i3/28-29)推敲済み
第10章、就職し代言人となる
その1、代言人から弁護士へ
明治時代に入ると諸外国ではにわかに戦争による暗雲が広がりつつあった中で、日本も近隣諸国との緊張が高まっていたが、清一が帝国大学法科大学英法科を7月10日に卒業した明治22年(1889年)は近年になく世情が騒がしくなっていった年でもあった。それは1月22日に徴兵令が改正され国民皆兵主義が実現し、2月11日に大日本帝国憲法が発布されたことで、近代国家への道を歩み出した日本が世界情勢の変化に伴って軍備を整えつつあることにより否応なく世界情勢に巻き込まれていくことになるからであった。
また一方では各国のスポーツが独自に競技会を開催するようになり、各競技連盟が組織されてくると国際競技大会が開かれるようになっていった時代でもあったが、当時は官権万能主義が旺盛であったので帝国大学を卒業して学士となった者は、競って官職に就きその道での高位顕官に登り栄達することを目的としていたので、今の時代とは異なり民間に就職する人数などは極めて少なかったのである。
したがって法学士となった彼は帝国大学の卒業生の中でのちに弁護士と呼ばれるようになる八番目の代言人となったが、明治13年(1880年)5月に代言人規則の再改定が行われた時は登録している正確な人数すら不明瞭であり、なおかつ無免許で活動する者もいたので人格的に劣る者も多く含まれていたので、弁護士の社会的地位は今のように高くはなく、代言人は三百文もあれば他人の訴訟や談判事を無資格で引き受けた者もいたので三百代言と呼ばれていたが「八百の嘘で誤魔化す三百屋」あるいは「法律も暗き夕べの蛍狩、三百ばかりとる代言人」などと揶揄されていた。
清一は卒業から5日目の7月15日には早くも弁護士免許を受け、京橋区加賀町一番地に居間と事務所を兼ねた六畳二間の住居においてお雇い車夫歌吉と雑用係の老婆を雇い開業したのであった。
それは松江時代に周囲が父の行うよろず揉め事解決の重要性を認めながらも誤解されることに悩む父の姿と、家庭を守り自分を送り出してくれた母に誓って将来の職業を早くから心に決めてきたことであったが、彼が代言人を志したことは多くの人々を驚かせたのである。
また就職もせずに自由気ままに居候を決め込んでいた渡邊千代三郎は事務所を構えた当初何の依頼もなく英語の翻訳などで清一が在宅している時には来客を彼に任せておいたが、清一が英(イギ)吉(リ)利(ス)法律学校で講義などのアルバイトに出かけるようになると訪れる人数の多さにほとほと呆れ、頭を下げることの嫌いな渡邊千代三郎は何処にも逃げられず弱り果てていた。
特に在学中から代言人檜(かい)島(じま)六一郎先生の法律事務所で指導を受けていた関係で恩師である先生は頻繁に訪れたが、檜(かい)島(じま)先生は法律事務所開設に当たり直接掛川銀行に交渉して金一万円までは何時如何なるときでも清一が必要とするのであれば融資を行うようにと万全な経済的保障を行う保証人となっていたのであった。
したがってこの金一万円が事務所を立ち上げる軍資金となったので渡邊千代三郎も居候という立場上、苦手の先生が突然訪問して来ても慌てて最上の礼を尽くして先生の説諭を大人しく拝聴するしかなかった。
また弁護士事務所開設以来収入的には苦しかったが、一流の代言人となるためには一流の服装を着用すべしとの先生の助言を受け高価な洋服を仕立てて着用していたが、苦しい中から父母に孝養を積むつもりで歌吉には鰻丼を御馳走して驚かせることもあったが、彼は常に先輩達から驕って貰った時の言葉を思い出すのだった。
「お前達が牛鍋を食べて感謝するのなら、お前達はその気持ちを後輩たちに返すのだ。つまりそのことが日本という国家を作るということなのだから。」
また当時は盛んに新聞広告で売り出すことが流行していたが、彼は実力主義を取り一度依頼を受けた事件の解決に全力を尽くしたので、その仕事振りが評判を呼び続々と以来が舞い込み始めると事務所の経営に目処がついた処で父母を郷里から呼び寄せたのであった。
※英(イギ)吉(リ)利(ス)法律学校・・・現中央大学
※檜(かい)島(じま)六一郎先生・・・後法学博士
推敲済み
その2、第4回競漕大会
厳しかった冬がようやく終わりを告げ隅田川の水がぬるむ頃、待ちかねたように人々の関心は墨堤に咲き乱れる満開の桜とボートレースのことに集中するのだった。
土手の雀達はそれぞれに口煩く贔屓のクルーの練習振りや、ピッチの高低を比較したりメンバーの予想を立ててはレース当日を待ち焦がれていた。
そんな試合も間近になってきた頃、今度の大会に念願かなって初めて出漕する事になった若槻禮次郎をかこんでボートレースの話で一杯やろうと武田千代三郎、居候の渡邊千代三郎と志立鐵次郎および銀之助の6人で牛肉屋の2階で会合を持ったが、周りを見渡した銀之助が驚いて報告した。
「福沢先生がおられるぞ。ご挨拶に伺ってご一緒しようじゃないか。」
その言葉に一同が頷いていると、最後に上がってきた禮次郎が慌てて皆を制した。
「今日は止めておけ。」
怪訝に思った彼らであったが席に腰を落ち着けると禮次郎の話を待った。
「お前達が知らんのも無理はないが、福沢先生と御同席されているのは5人居られる先生のお嬢さんの中でも美人の誉れ高い瀧子さんだぞ。」
一同は驚きながらも興味津々で話し始めた。
「福沢先生といえば慶応義塾の校庭に体育器具などを設置し、学校教育にはスポーツが必要だと力説している先生だろう。それならぜひともご挨拶しておいたほうがいいじゃないか。」
昨年まであれほどボートレースに出る事を嫌がっていた銀之助も一度出場するやその魅力に取り付かれた1人であり、競漕会の将来を心配する仲間になっていたが、禮次郎が静かに話し出した。
「ここだけの話だが。福沢先生はお嬢さんたちの結婚をことさら心配されているそうで、今日もどなたかとご令嬢をお引き合わせなるつもりかも知れんぞ。」
一同は小さく感嘆の声を上げると一目お顔を拝見しようと衝立越しに覗きにかかり禮次郎に厳しく窘(たしな)められていた。
すると笑みを浮かべた福沢先生が話しかけてきた。
「皆さんは天下に名高いボートレースの関係者ではありませんか。ご招待いただいた会場で何度かお顔をお見かけした方も居られるようです。もしよろしかったらご一緒してレースのお話など聞かせてはいただけないでしょうか。」
いわれた一同は狼狽しながらも覚悟を決めると競って席を移り、、年長の禮次郎が代表して天下の福沢先生にご挨拶を申し上げた。
「そんな堅苦しい挨拶はいらんよ。実は私も品川沖で義塾のレッドクラブという連中がボートを漕ぎ出しているのは承知していた。何を隠そう私もちょっとは漕いだこともある。
ボートは実に良いね。爽快だし学生の健康上の理由からも欠かせないものだと常日頃から思っていたのだが、日本の教育においてスポーツの重要性を真っ先に大会という形で人々に知らしめた功績は非常に大なるものがあるじゃないか。」
しかし喜んで席を移っても若い女性と話をしたことの無い田舎出の若者達は東京生まれの渡辺千代三郎以外は、座っているだけで顔も上げられず全く何を話しいていいかも解らずひたすら冷や汗を流していたが、福沢先生はそんな様子を気にする風もなく若い者たちに大会の苦労話を聞いてくるのであった。
こうして第四回の競漕会は明治23年4月12日(土曜日)に行われる予定であったが、雨天のため翌日の午前9時より全部で12番の競漕が開催されたが、風雨のため墨堤の桜は散り、川面に浮かぶ花びらはオールに未練を残して姿をとどめているのであった。
しかし会を重ねるごとに市民の関心は増大し、第一回大会の参加以来部員不足で不参加を余儀なくされている高等師範学校を除いて行なわれている第一高等中学校と高等商業学校の勝負は競漕会での呼び物となって市民の動員数を高めたのであった。
競漕会は第一番より第五番までは各分科大学生と教授達からの推薦のあったものが混合で出漕するレースが行われ、卒業していた者たちも大会を盛り上げるために競って参加していたが、二回目となる山崎銀之助や初めての若槻禮次郎のほかにも清一と武田は舵手や漕手として出漕しレースを大いに楽しんだのであった。
また第9番競漕は第一高等中学校と高等商業学校の対校戦が行なわれたが、特に第一高等中学校の応援は墨堤の応援だけでは足りず川面に三十艘以上の小舟を浮かべ幾つもの応援旗を翻しながら、鉦や鈴を打ち鳴らしては鬨の声を上げるという応援振りは凄まじいものがあったので、これ以上の興奮は危険と判断した大会本部の判断によって翌年以降の対校競漕は中止となってしい人々をらくたんさせた。さらに二軍レースであるセコチャンレースや横浜来賓競漕も行われて大会に花を添えたが、最後に行われた分科大学選手権競漕は医科が4回目の挑戦で悲願の初優勝を遂げたのである。
やがて慎ましい交際を経て福沢先生の令嬢瀧子さんと志立鐵次郎は結婚式を上げたが、二人は参列していたボート仲間から手荒い祝福を受けたのであった。
推敲済み 7・11
その3、第5回競漕大会と引退
帝国大学を卒業し弁護士となって2年が経っていた。仕事のほうはとことんまで依頼人の要求に答える誠実さと、生来の負け嫌いが相乗効果をもたらし徐々に評価を受けるようになったが、その代わりに彼は隅田川に足を運ぶ時間というものがなくなっていった。
そろそろ潮時か。
あるいは仕事とボートの両立を図るべきか。決断を迫られる時期にきていたが、年が明けてお花見の時期が迫ると競漕会の話題で町中が持ちきりとなり心を騒がすのであった。
さらに最近では禮次郎がボートに入れあげ、何時も墨堤で応援するしかなかった鬱憤を晴らすようにレースに出ようと誘いに来るのを無碍に断るわけにもいかず、さりとて仕事で机に向かっていても内心から湧き上がってくるボート好きの虫が騒ぐので苦しむのだった。
やがて第五回競漕大会は明治24年(1891年)4月11日午前9時から隅田川で行われることになったが、先輩と学生の混合で行われる第5番競漕には禮次郎や武田千代三郎も出漕することに加え、前年の約束通り梅教授も法科の第3学年で構成されたクルーが出漕する第8番競漕で舵手を務めるということもあり出ないわけには行かなかったのである。
また禮次郎のクルーが武田や清一のクルーに勝利を飾ると、さらに禮次郎はボートレースに熱を上げるようになっていったが、明治25年(1892年)4月9日午前8時より吾妻橋と大学艇庫間の1100mで第6回競漕大会は行われることに決まると27歳になっていた清一は寝る間も惜しんで働いておりあれほど好きだった競漕会にも顔を出せないようになっていった。
忙しく働いているある日のこと昨年の7月に若槻家の長女徳子と25歳で結婚し、帝国大学法科4年生になっていた若槻禮次郎が文科競漕の正選手にはなれなかったものの最終学年として初めて大会の委員を務めることになった報告を兼ねて清一の参加を促すために事務所を訪れてきた。
「四十曲がり峠を越えてから早いもので8年になるが、実に多くのことがあったものだ。私もようやく最終学年となったが就職のことは清一のように何になるとか何がしたいとかまだ決めたものはないが、大蔵省のほうから試補として採用してくれるという話もあるので、たぶん大蔵省に行くこととなるだろう。
しかし今年の競漕会はボート仲間の何人かが皇室の職務についているという関係から皇太子殿下もお出でになるということだから、第一回競漕会の優勝者たる清一が出ないわけにはいかんだろう。第一高等学校の先生をしている鋭之助さんや武田千代三郎も久しぶりに漕ぎに来るということだから副会長の菊池教授の張り切り方もすごいものがあるんだ。」
ただでさえ頭の上がらない禮次郎にそのように言われては清一としても全く出ないとは言えないので、頭の中は大会当日にスケジュールが空くかどうかフル回転で思案していったが、考え込む様子を見て禮次郎も大人しく返事を待っていた。
「解りました。禮次郎さんにわざわざ足を運んでいただいた上に、そこまでお話していただいた以上何とかしましょう。喜んで出漕させていただきます。」
大会当日日程をやりくりして会場に赴いたが、法科は武田千代三郎と清一以外には数人しか集まらなかったのでクルーを組むことが出来ず、文理科も日高真実と山口鋭之助以外には数人しか集まらなかったのでクルーを組むことが出来なかったが、医科と工科は既に人数が集まりレースの開始を待っていたが、このような状態での開催の是非がさらなる混乱を呼びレースは結局中止となったのであった。推敲済み 7・24
その4、弁護士登録と大会欠場
明治26年(1893年)3月に弁護士法が公布されるのを待って弁護士登録を行う準備に取り掛かったが、第7回競漕会は4月8日に行なわれる事になった事もあり、卒業後新天地に赴任する仲間達と話し合い今大会の出漕は見合わせることにしたが、東京地方裁判所所属の弁護士となった清一は仕事がさらに忙しくなっていった。
また海外の仕事も増えてくると英語の読み書きに不足はなかったが、不足を感じていた会話能力に磨きをかける語学留学という希望を胸に納めて先送りしたが、隅田川下流の両国橋付近には明治25年(1892年)学習院大学が艇庫を建設すると明治27年(1894年)には第一高等学校が艇庫を建設したのをきっかけに艇庫建設が相次ぎ、明治後半になると15個の艇庫が林立し艇庫村と呼ばれる賑わいと隅田川下流に生まれた独自のボート文化の出現を見るに至ったが、ボートの味を忘れられない卒業生達が就職した会社でもボート部出したので三菱、日本郵船、三井、日本鉄道なども早くから社員の団結心を高めるために会社対校のボートレースを行うようになっていた。
やがて仕事に没頭していた清一のところに、桜の開花を告げるように後輩の中村是公が尋ねて来た。
「岸さん。お仕事がお忙しい所申し訳ありません。」
難しい顔色から何か問題を抱えて相談に来たに違いないと思ったが、それらの相談事は大体決まっているのだった。
「私は出れんぞ。手伝うことも無理だ。何とかしてやりたいとは思うが、何しろ体は一つしかない。」
事務所の椅子に腰掛けてうな垂れている後輩を見て、先輩とはかくも弱いものであるのかと思いながら彼は思案を始めていた。
「まあとにかく、話してみろ。聞いてやるしか出来ないが、何か良い智恵が浮かぶかも知れんぞ。」
すると中村は少しずつ事の顛末を話し出した。
「実は今度の4月14日に行われる大会には皇太子殿下がご来臨されることになりました。」
「それは有難い事ではないか。今迄にも同じようなことがあったのだから別に問題はないだろう。」
「それだけならいいのですが。」
「じれったいな。さっさと先を話してみろ。」
「解りました。実は皇太子殿下は今回学習院のご学友を伴われてお見えになるそうですが、特に選手競漕を見たいとおっしゃられるため番組を繰り上げて選手競漕を早めに行う事になりましたが、そうなりますと学士競漕が大会の最後になるのですが、先輩諸氏はお仕事がお忙しいとの事で遅い時間では学士競漕不成立ということになる恐れもあります。」
清一が頭を抱えてしまったのは仕事で今年の予定は全て埋まっており、今頃クルー集めの相談が来るとは思わなかったからであった。
「他の先輩方は洋行か留学中であり、国内でも愛媛県で収税長をしている若槻さんや床次竹二郎さんにもあたりましたがご都合がつかないとの事で、昨年から嘉納治五郎先生が校長をされている高等師範学校に英語嘱託として勤務している夏目金之助にも無理を言って幹事を引き受けてもらいました。」
清一は目の前の中村がすでに10年近くも大会に出漕しており昨年は大会の委員を務めていたことを思い出していたが、その中村が直接関係がない夏目まで引っ張り出しているということが、競漕会の存続が苦境に陥っているのではないかと思い、どうしても先輩として助けてやらなくてはならない気分になっていた。
「分った。私が出漕することで大会が存続するのなら出よう。ただし、最近は漕いでいないので舵手として出ようじゃないか。」
「岸さん。有難うございます。それで結構です。私は紫組の整調で出漕しますので、岸さんは白組の舵手をお願いします。」
こうして問題も解決すると飲みに誘った清一に、皆が心配しているからと中村は急いで帰っていったが、関係者の努力もむなしく大会当日の集合状況は思わしくなく急遽大会役員に漕がせるなどして大会は無事終了したのであった。
※床(とこ)次(なみ)竹二郎は薩摩藩士の父を持ち、帝國大学時代には第二回競漕大会にも出漕しているボート界の先輩。明治23年(1890年)帝國大学卒業後大蔵省から内務省に転じ徳島県・秋田県の知事後政界に進出して内務次官、鉄道院総裁を歴任した。
※柔道の父と呼ばれる嘉納治五郎は万(まん)延(えん)元年(1860年)勝海舟や福沢諭吉が海臨丸で太平洋を横断した年の10月28日に兵庫県武庫郡(むこぐん)御影(みかげ)村に生まれた。御影村は御影石とも呼ばれる優良な花崗岩の産地として知られているが、酒造家であった嘉納治郎作の八人兄弟(姉5人兄2人)の末弟として誕生した。明治3年(1870年)10歳の頃に父に連れられ上京、明治7年(1874年)14歳で東京英語学校に入学、翌年東京開成学校に入学し東京大学一年に編入した後の明治14年(1881年)21歳で卒業。
明治16年(1883年)道義学及び審美学の選科(規定の学科の中から一部を選んで学習する)を卒業し、講道館を創立し学習院の教授補を経て教授兼教頭をつとめた。その後官費で欧州を視察し、明治24年(1891年)8月熊本県の第五高等中学校に校長として赴任し翌年高等師範学校の校長となる。第五高等中学の校長時代には東京大学でボートを漕いだ経験から、ボートは効率良く運動が出来ないとボート部を廃しボートを私立尋常大村中学校に譲渡した。明治42年(1909年)国際オリンピック委員となり、明治44年(1911年)大日本体育協会を創設し初代会長となり、翌年には日本初参加となった第6回ストックホルムオリンピック大会に団長として参加した。
その後は岸とともに東京オリンピック実現のために奔走し、オリンピック・カイロ会議にて東京オリンピック開催決定を成し遂げたが帰国中の太平洋上の氷川丸船中で肺炎のため急逝。
(墓地は千葉県松戸市の都営八柱霊園5区1種5側13番)
※私立大村中学校は現在の長崎県立大村高等学校のことで、明治17年(1884年)に大村藩4代目藩主大村純長(すみなが)が寛(かん)文(ぶん)10年(1670年)に開校した藩校である五教館を私立中学として開校した。
推敲済み 7 28
その5、第一回大日本連合競漕会挙行される
明治27年4月に第八回競漕大会も終了し清一が仕事に邁進していたある日のこと、かつてクルーであった野村彌(や)三郎(さぶろう)が訪ねてきた。野村は法科の後輩で体重約65,8kgと筋骨逞しく実に頼もしい漕ぎ手であった。
「岸さん。お久しぶりです。今年の競漕会での法科の優勝は一年ぶり三度目ということになりますね。」
「ばか。一年ぶり四回目。
私は2回優勝しているんだ。」
「そうでしたね。何か私は第2回競漕で武田さんと整調ペアで漕がせていただいたのに工科の連中に負けてしまって、長命寺の合宿練習があまりに強烈だったので第三回大会での優勝しかあまり記憶にないのです。」
「そうだった。あの第2回大会ではさすがの野村もへばっていたからなあ。あの合宿は本当に命がけだったよ。よく勝てたものだ。この大会が野村の初陣だろう。」
「実は違いまして明治18年の競漕会にも第8番競漕と14番競漕に出てはいますが、たいした漕手じゃありませんでした。
しかし明治18年の第一回陸上運動会では槌投(ハンマー投げ)、第二回の220ヤード競走、第五回の880ヤード競走と三度優勝したのが少ない自慢です。武田千代三郎さんは第3回の440ヤード競走が初優勝ですから、これも自慢の一つですね。
それから岸さんや武田さんが卒業した時、後をお前に頼むといわれたのに医科に遅れをとってしまいました。」
「そうか。失礼ながら運動会と明治18年のレースのことはあまり記憶に残っていないが、まあいいじゃないか。それよりOBとして出た第5回での学士競漕では整調武田、5番野村と4番が私であの優勝3人がまた漕げて随分と楽しく痛快だったが、あの勝利の美酒は忘れられんな。」
「そうでした。あの味は本当に忘れられないものでしたが、あの時の感激が忘れられずに先輩のように私も後輩のために尽くしていこうと心がけていますが、6回大会では是公(ぜこう)(中村是公(これきみ)、通称ぜこう)が頑張ってくれたおかげで再び優勝することが出来て見事でした。」
清一は野村と話しながら不思議な感じを受けたのは、クルー仲間として寡黙で辛かった合宿中も弱音を吐かずに黙々と漕ぐという印象が強かったからであったが、久しぶりに色々の昔話を聞くことは懐かしくもあった。
「ところで。彌三郎。今日はどうしたんだ。」
「実は岸さん。このたび私は京都の第三高等学校に教授として赴任することになりましたので、ご挨拶とお願いに伺ったような訳です。」
「それはめでたいが、そうなると久しぶりに牛肉でも食べに行こうじゃないか。まあお願いの件は長くなりそうだから、ゆっくりと飲みながら聞くよ。」
彌三郎が有難味をしみじみと感じていたのは、先輩達は実に面倒見が良く就職を始めどんな相談事にも快く力を貸してくれた上に、大会中には差し入れと称して米やビールなどを持参してくれるので選手の間は空腹で困ることがなかったが、それは先輩達が空腹で苦しんだ思いを後輩に味あわせたくないとの配慮であることを知っていたからであった。
したがって新入生は飯をたらふく食わせてくれるので端艇部に入ったという者や、合宿所に入れば下宿代がいらないという理由でボートを漕ぐことになった者も多くいたのである。
彌三郎がなにげなく奥の会話を聞くと、今夜の軍資金を工面している様子が伝わってきたので、今夜も先輩が何処かで素晴らし御馳走を食べさせてくれるに違いないと早くも空腹を覚えたが、先輩から受けた恩は後輩に返そうと心に刻むのだった。
そして本来の目的である関西出身のボート仲間から仕入れた琵琶湖のボートレースの活況と、第一高等学校の選手たちが先の大会での騒擾からボートレースの出来ない不満を解消するために、ボート競技を全国に普及する目的も兼ねた全国的規模の競漕大会を琵琶湖で開催するための相談に来たのだった。
やがて話を聞いた清一は大変な驚きを覚えたが、隅田川での各団体の競漕大会などで満足していた自分が少し恥ずかしく感じていた。
しかも今までこのような心躍らせる破天荒な相談は受けたことがなかったが、飲みながらの話はさらに膨らみイギリスで行われている格式高いヘンリーローヤルレガッタで用いられている競漕規則を参考にして競技の普及と大会における紛争を未然に防ぐための正式ルールを制定した全国規模の競漕会を開催することになったのであった。
またこのような全国規模の競漕会の開催行われようとしている背景には明治22年(1889年)7月1日に新橋と神戸間で東海道線、明治24年(1891年)9月1日には上野と青森間で東北線が全面的に開通したのを受け続々と各地で私鉄を含めた鉄道の建設が進んでいたことにより、遠方からの大会参加が可能となったので関西地区での大規模な競漕会の開催が現実味を帯びたのであった。
さらに鉄道の開通によって大会の役員及び審判やコースの選定および使用する艇の抽選や借用する艇の運搬などの配艇業務については帝國大学端艇部の卒業生や部員たちの絶大なる支援が可能になったことも大きな要因であったが、このような大きな大会を支援するにはそれら人材の総元締めが必要だったのでその大役を清一に依頼してきたのだが、清一の総元締めが実現すると東京以外でも松山にいる若槻禮次郎のように琵琶湖に比較的近い所に赴任しているOBたちの支援を受けることが可能になるからであった。
このような大会はストレンジ先生について指導された彼らにとっては、何時か日本におけるヘンリーレガッタを開きたいと願いながらも先送りしてきたことだったので、驚きを覚えつつ大会規模の壮大さに思いをはせて快く快諾を与えたが、その理由の一つには琵琶湖からの帰路には禮次郎や梅教授などの同郷の者と松江に帰京しようと思いが浮かんできたからであった。
しかしこの計画に対して先輩や朋輩等の賛成が得られないはずはなかったが、清一が改めて連絡を取ると先の学士競漕のように各々の人生がそれぞれの土地で始まっているため参加についての快諾はなかなか得られず、それぞれの境遇を思って前途を悲観することも多かったが、野村彌三郎の遠大で破天荒な計画は長い準備期間と多くの困難を乗り切って明治28年(1895年)7月14日に第一回大日本連合競漕会が北は秋田と仙台。南は九州と四国、中国。さらに関東からの参加校を加えた日本で始めての全国的規模の大会として大津、打出の浜で多くの関係者の支援を受けて開催することが決定したのであった。
また大会会長は瀬田川を浚渫し改修工事を行った滋賀県県知事大越(おおこし)亨(とおる)に依頼し、審議長は大阪市長の肝付兼行とした。またかつて第一高等学校の校長をしていた杉浦重剛も檄文を送ったりして後方からの支援に努めたのである。
関西におけるボートの起こりは琵琶湖では明治12年(1879年)頃から同志社大学が漕いでいたといわれ、大阪の堂島川では明治13年(1880年)に第三高等中学校が4人漕ぎの短艇を二隻浮かべて漕ぎ始めていた。そして野村彌三郎が赴任する第三高等学校は京都に移転のあとは、翌年の明治23年(1890年)に完成した土地を切り開いて設けた水路である琵琶湖疏水(そすい)で練習を始めたのであった。
さらにボート好きの仲間は大阪時代に黒派と称して後の堂島川である淀川を遡っては桜宮や中之島近辺まで漕ぎまわっていたが、移転のあとは赤党と白党に分列して互いに競っていたが、疏水の完成により合流し青党と名乗ったが後に千鳥倶楽部となり、明治25年(1892年)には学内に壬(じん)辰(しん)会という学生組織ができたので後の水上部となる水上運動部として水泳と漕艇を行うことになった。
しかし当初は水泳は行なわれなかったので、水上運動部の中でボート好きの者が集まり千鳥倶楽部という私会を作るとさらに競漕の機運が高まったため明治26年(1893年)3月17日には千鳥倶楽部が第一回競漕回を大津の柳ヶ瀬(今の柳ヶ崎)で開催したが悪天候のため4レースで中止となると、千鳥倶楽部が膽吹(いぶき)、水上運動部も比良、比叡という新艇3艇を建造したので4月1日~5日にかけて最初の琵琶湖周航を挙行した。
また同志社大学は明治24年(1891年)4月以来毎年水上運動会を大津の三保ヶ崎で開催していたが、明治25年には最終番組で泰西学館との対校戦を実施すると、翌年の5月6日に行われた水上運動会では第三高等中学校と泰西学館が招待を受け水上運動部の有志である千鳥倶楽部が参加した。
しかし第8回レースで同志社大学に破れるとその判定を巡り大会は大いに紛糾したが、水上運動部は同年11月24日大津の三保ヶ崎(1100m)で第一回学内競漕大会を開催するなど琵琶湖におけるボートレースも隅田川と同じように大変な盛況を迎えるようになっていったのであった。
またこの第一回競漕大会は広く全国に参加を求めたので参加校は旧制中学校が30クルーを数え、他には日本銀行、第百十九銀行などが参加したので漕手の数は270名を超える大規模な大会となり実にレース数は24回を数えた。さらに関東からは第一高等学校、帝国大学、高等商業学校(現一橋大学)と慶応義塾大学のレッドクラブが遠征し同志社大学と特別競争を行い同志社大学に破れたが、第一高等学校、帝国大学、高等商業学校、第三高等学校、日本銀行、第百十九銀行らが出漕した混合レースが一番の人気を呼んだのであった。
こうして大会が無事終了すると翌年野村彌三郎が岡山県参事官に就任したあとは次第に勢いを失うと、後を受けた大日本(だいにっぽん)武徳会(ぶとくかい)により大会は引き続き開催されたのであった。
やがて大会終了後に清一は故郷を訪れることにしたが、今回の帰省は前回とは異なり神戸まで陸蒸気で行きそこからは海路で行く旅であった。
懐かしくも美しい松江の山河は12年の時を経ても変わらずに彼を迎えてくれたが、あまりゆっくりする余裕もない中で母校である雑賀小学校と島根県尋常中学校から講和依頼を受け、母校出身で初の法学博士として約200名を前に後輩たちに向学の種を植え付けるのであった。
静まり返った講堂の壇上に渡部寛一郎校長先生に導かれて登場した清一は静かに語り出した。
「私は在学当時、身体があまり強健ではなかったが大学に入ってからは大いに体育に意を注ぎボートレースや陸上競技に随分と力を入れた結果、ご覧のような壮健の体格となったのであります。
ここから諸君を見渡すところでは、あまり壮健ではないものもいるように見受けられます。須(すべか)らくは大いに身体の鍛錬に意を用いて強健な身体の持ち主となられたし。
また在学中は常に剛健な気風の養成に努めたものである。由来出雲人は頭脳明晰な者が多いが、剛健の気宇には乏しいところもある。
世界の大勢は苟安(こうあん)を容さない。各自大いに奮発して豪壮勇健の気性を養い相互に切磋琢磨して将来の国家有為の人材たれ。」
また若槻禮次郎や梅謙次郎なども帰省の時には時間を作り後輩たちに訓話を行ったが、在校生たちにはその訓示は多大なる感化をもたらしたのであった。さらに清一は明治20年(1887年)に端艇部の誕生によりボート熱が高まっていった島根県尋常中学校端艇部を訪れ、具体的な漕ぎ方からボート選手の心構えに至るまで丁寧に指導して琵琶湖の大会への参加を奨励したのであった。
さらに彼は必ず氏神の売(め)豆(ず)紀(き)神社に参拝し、母校の雑賀小学校に立ち寄ったが、明治44年(1911年)11月には秀才児童奨励金として300円を寄贈、大正9年(1920年)4月には運動機械費として300円を寄贈し、後輩たちの身体の育成を願ったので各運動器具は全て一新されたが、禮次郎は「独立自主」、清一が「至誠努力」と揮毫した書面を送ると、感激した関係者の手により二つの額面となって現在も後輩たちを見守っている。
※整調ペアはストロークペアともいい整調と5番手を指しクルーのリズムを作り出す役割を担う。
※関西地方にも大学を作ろうという動きが早くからあり慶応4年(1868年9月から明治元年)7月に明治新政府は科学、物理学の施設を大阪に設置することにし、校名は科学を意味するケミストリーを漢字で表していた舎(せい)密局(みきょく)と命名し明治2年(1869年)5月1日に開講式が大阪で行われたが、明治22年(1889年)第三高等中学校時代に京都に移転したのであった。
やがて校名は政府の混乱振りを示すように東京大学と同じく幾多の変遷を経ることになり、明治27年(1894年)第三高等学校となった。(理学所、大阪開成所、第一番中学、大阪開明学校、大阪外国語学校、大阪英語学校、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校、第三高等中学校)
※大越(おおこし)亨(とおる)・・・相馬中村藩出身後病没
※肝付兼行・・・大阪市長 後海軍少将、大阪市長
※杉浦重剛(1855年~1924年)は膳所藩の出身で儒学者杉浦重文の次男として大津、別保に生まれる。6歳にして藩校遵(じゅん)義(ぎ)堂に入学後大学南校に入学し英国留学を経て大学予備門の学長。退官の後郷里で私塾弥好塾を開き後進の育成に当たる。
※大日本武徳会は明治28年(1895年)4月17日、京都において武術教育による精神鍛錬とそれを支える団体の組織化を目的として設立された。大日本武徳会は会員から会費を徴収して運営を行っていったが、昭和17年(1942年)には会員数224万人を数える全国的な組織に成長する。
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その6、撞球(どうきゅう)競技会に参加し大活躍
再び仕事に没頭する日々を過ごしていたある日のこと、内幸(うちさいわい)町にある東京倶楽部(くらぶ)で英国伝統のビリヤードの競技会が行なわれる事になった。
清一達は学生時代に覚えたビリヤードの腕前も相当のものになっていたので、仕事の後には外国人や多くの著名人も会員となっている東京倶楽部に出入りしては多くの知己を得ていた。
ボートレースと同じように勝負事には徹底的にこだわる清一達は競ってその個人戦に参加すると参加者の中に副島道正がいたが、彼とは以前から撞球を通して既知の間柄であったが、その実力が伯仲していた二人はそれぞれの予選を勝ち抜きとうとう決勝戦で合間見えることになった。
決勝戦当日は多くの観覧者で溢れており二人の実力は戦前の下馬評通り接近していたのでシーソーゲームが繰り広げられていたが、二人は常に礼を尽くして戦い、勝つという目的以外にも紳士としての嗜みを身につけているということを示すことに日本男子として最大の努力を払ったのであった。
試合は300点対299点で清一の勝利に帰したが、試合が終わってお互いの健闘を称えている二人に外国人の老紳士を伴って銀之助が近づいてきた。
「清一。東京倶楽部の長老であるミスター、グラバーが特に二人の試合を見てお話があるそうだ。」
ミスターグラバーは長崎でボートレースに出たこともあり、長崎カップを勝ち取るなどボート界でも相当に顔が売れていたが、グラバー商会が明治維新で幕府や各藩に武器等の販売をした後、幕府や各藩が消滅して売掛金の回収が出来なくなると倒産してしまった後は佐賀藩と共同で高島炭鉱の開発に着手していたが、炭鉱が三菱に買収された後は三菱の顧問を長く勤め、芝公園53番地に住居を定めていたが鹿鳴館の外人名誉書記なども務めながら日本と外国の人脈的な通詞を務めていたのだった。
「ただ今の試合を拝見しておりましたがまさに紳士の手本とも言えましょう。お二人の実力はまさに伯仲、甲乙付け難いというものですね。
どうでしょう、私が大切にしていた家宝を賞品として提供いたしますので、再戦を行ってみてはいかがでしょうか。」
明治維新の陰の立役者としてその名を広く知られているミスターグラバーからの意外な申し出に驚いている清一と銀之助を尻目に、副島はいささか顔色が晴れないようであったが、両人を急いで会場の隅に引っ張って行くと副島は真面目な顔で語り出した。
「岸君。彼の申し出をどう考えるかね。君とは撞球を通じてお互いの心中を察しることが出来るようになってきたと思っているので、あえて聞くのだが。」
副島の心中を推し量りかねて清一は頭を傾げて見つめていたが、さらに銀之助は両人を見比べてはミスターグラバーを引き合わせたことが何か問題になりそうな気がして穏やかではない。
副島はやがてライバルでありよき友に向かって遥か昔に父から聞いたことを思い出すように話し出した。
「ガラバのことは長崎にいたこともある父からは、良く聞かされたものだった。いやガラバとは当時から彼をみなそう呼んだということからつい言ってしまったのだが。
それより岸君はこれからの将来を考え、ここは迂闊にガラバの話には乗らないほうがいいと思うがどうだろう。特に岸君は弁護士だからなおさらのことだと思うし、ここは考えどころだと思うのだが。」
清一は色々と考え込んでしまったが、道正のことは撞球を通して浅からぬ付き合いである上、彼のその慎重で将来を見通すものの考え方とお互いに父の影響大なるもの同士、お互いに親しいものを感じていたので予てからお互いに一目置いていたのであった。
「そんなことは簡単だよ。道正とは撞球の仲間。いわばクルーだろう。クルーとは一心同体。クルーが言うことを聞かない漕手はいないよ。ここはきちんとクルーの言うことを聞こうじゃないか。」
その話を聞いて愁眉を開いた道正は銀之助の顔もつぶさないように、なおかつ観衆の見ている前でグラバーの面子も潰さないように答えるのだった。
「ミスター グラバー。貴公の申し出は非常にありがたいと感じておりますが、今回の撞球の試合については私と岸君との間で既に決着が付いております。私たちは今回勝敗の如何に関わらずこの競技会を非常に楽しむことが出来ました。また今回の競技会に関しても争いながらも互いに融和することを、亡きストレンジ先生から直に学んだと岸君も申しておりますことから、今回はありがたいご提案ながら次回ということでよろしく御了承願います。」
その申し出を快諾したグラバーではあったが、彼はこの返答に時代の流れを感じないではいられなかった。なぜならばグラバーの知っていた日本の若者達の多くは、このようなときには目を輝かせて彼の申し出に喜んで乗ってきたものだったからである。
全ては維新のあとの日本という国の成熟が目の前にする若い彼らの口を借りて、老いたるグラバーに向かって語られているようであり彼は鷹揚に頷いて見せるしかなかったのであった
※東京倶楽部は外務卿の井上馨が不平等条約改正を目指すための欧化政策の一環としてイギリスのクラブを手本に明治17年(1884年)に開設された社交クラブで鹿鳴館をクラブハウスとした。政財界のトップクラスが会員であり、入会を認められた者は男性に限られ英語以外の使用を禁じられた。
※副島種臣の三男後伯爵明治4年4月14日東京芝烏森で生まれた。(1871年~1948年)明治21年17歳で渡欧しイギリスのケンブリッジ大学に学び明治27年(1894年)帰国。東宮侍従、式部官を歴任後学習院大学で教鞭をとり明治38年(1905年)伯爵となる。昭和11年(1936年)ベルリン国際オリンピック委員会日本代表として東京オリンピックの招致に尽力。
※トーマス・ブレーク・グラバー通称グラバ 横浜外人居留地内で売り出されていた日本で始めてのビール工場を共同で買収したのが、ジャパン、ブリュワリー、カンパニーで(後の麒麟麦酒株式会社)トレードマークの麒麟の髯はグラバーの髯を自らがデザインしたものと伝えられ目の青さにも痕跡を残していると言われている。
明治41年(1907年)7月、外国人としては異例の勲二等旭日重光章を外国への密航留学を手伝ったこともある伊藤博文公爵と井上馨侯爵の推薦により受賞した。
その7、ついに自費洋行す
明治30年(1897年)29歳になっていた清一はいつも梅謙次郎から聞かされていた外国への憧憬を押さえ切れなくなっていたが、それは明治27年(1894年)8月に起こった日清戦争や明治29年(1896年)4月6日にアテネで13カ国が参加した第一回オリンピック大会がクーベルタン男爵らの努力により開催されたことなどを聞くにつけても日本という国が、戦争と平和の国際社会の中で今後の方向性を見出していかなければならないと考えるようになってきたからであった。
しかしさすがの彼も近年増えてきていた外国人からの依頼を受ける場合に英会話が苦手なことで仕事上支障をきたすことも多くなり、読み書きが得意でも会話が出来なければ埒が明かないということを身にしみていたので海外留学の願望が強くなってきていた。
そこで清一は自費による海外留学を思い立ち2月に横浜港から神奈川丸という蒸気船に乗ってアメリカ、さらにはイギリスへとに向かったが、船中では暴風雨でテーブルに枠をはめて暴れる食器が飛び出さないようにしている時でも、平然として食事を取ることができたが、それは海外に旅したボート仲間たちと同じようにボート経験者は時化(しけ)に強いということを実感させてくれるものであった。
つまりイギリス生まれで屋外型のスポーツであるボートレースは、ロンドンの天候のように何時も快晴であるとは限らなかったので多少の風雨でも開催される事が普通であったからであり、ボート競技の特性であるゴールに背を向けて漕ぐ経験により予期せぬ波の高低や揺れに見舞われることは、前後左右の揺れに馴れているということであったので驚くには当たらないことであった。
アメリカではサンフランシスコでミラー弁護士事務所に所属して法律実務を学びパトナム氏宅に寄寓して社交術と英会話を学んでいたが、思わぬ人物の訪問が清一を驚かせたが、それは一代にして浅野財閥を築き上げ日本の経済を世界的にも大きく発展させようと考えていた浅野聡一郎だったからである。
浅野は当時の日本を代表する巨大船会社日本郵船でもまだ外国と航路を開く権利を獲得できなかったため、外国船に高い運賃を払って輸出物や旅人を運ぶしかなかった時代にサンフランシスコに渡り横浜~サンフランシスコ間の航路権を獲得するために渡米して来たのであった。
清一は東洋汽船の航路獲得に賭ける浅野の情熱と将来展望の確かさに共感すると、アメリカで得た語学力と人脈を使って適切なアドバイスを与えてニューヨークに本社がある太平洋郵船会社との航路権獲得のための会談が成功するように下準備を整えたのであった。
首尾よく日本郵船でも成し遂げられなかった日米の太平洋を繋ぐ航路権の獲得を果たした浅野は、そのままイギリスに向かい日本で始めての豪華客船、日本丸(6,168トン)、アメリカ丸、香港丸(共に6,070トン)三隻の発注を果たしたのであった。
やがてサンフランシスコからイギリスのロンドンに渡り教養を深めた清一は翌年の明治31年4月に1年2ヶ月に及んだ海外遊学の旅を終えると、帰国後の明治31年(1898年)6月15日に東京市麹町区5番町の美濃国不和郡十六村出身でかつて実業家であった坂井五一氏の1人娘で虎ノ門女学館出身の澄子(21歳)と結婚し、新居を事務所とは別の芝区櫻川町12番地に母親と供に移り住みさらに精力的に仕事に取り組むのであった。
※梅謙次郎は後に日本民法の父と呼ばれる。フランス、リヨン大学、ドイツ、ベルリン大学留学
※国内における外国人の訴訟事件は明治20年代は全国で約200件であったが30年代に入ると約300件を数えるようになった。
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その8、宍道湖のボートレース
明治16年(1883年)松江師範学校と教員伝習校内変則中学科の生徒達が宍道湖でカッターを漕ぎ始めて以来ますます宍道湖におけるボート熱は高まっていった。
明治20年(1887年)には島根尋常中学校が短艇2艘を建造し短艇部が誕生すると、明治22年(1889年)2月11日には帝国憲法発布祝賀端艇競漕を校舎に隣接する堀の続きで東へ約一キロの所にあり川幅が広くなっている御船屋川で行ったが、400ヤードの距離を6人漕ぎでカッターのように右舷左舷のシートが同じ板上に設置された赤白2艘で浮標を回って往復競漕しオールが浮標に接触すると失格となった回航レース形式の対抗競漕であった。
明治24年(1891年)5月10日には島根尋常中学校同窓学会創立5周年記念端艇競漕が同じように御船屋川で開催され、明治27年(1894年)3月20日には島根県第一尋常中学校の寄宿舎生が宍道湖の夜行一周を成功させると翌日には他の生徒が昼夜兼行で中海一周を成功させて気炎を上げた。
さらに8月に日清戦争が始まると島根県第二尋常中学校は端艇二艘を購入して10月10日の進水式では凱旋・進撃と命名し11月3日の天長節に松原湾において第一回校内端艇競漕を開催したが、島根県尋常師範学校との対校戦が実現できなかった第一尋常中学校も同日全校生徒による競漕会を距離6町で開催した。
明治28年(1895年)になると島根県尋常師範学校が第一回校内端艇大会を音楽隊付きで華やかに開催するなど、さらにボート熱は高まり、琵琶湖で第一回大日本連合競漕会後に母校を訪れボートの漕ぎ方なども熱心な指導した清一を喜ばせた。
さらに明治29年(1896年)6月には第一尋常中学校の新艇2艘(八雲、亀山)が完成し、レース会場を宍道湖姉が島沖の直線コースに変更したことにより明治31年(1898年)には県知事を初めとする多くの来賓の見守る中で島根師範学校と第一尋常中学校の間で他種目も含めて島根県初の対校競漕が行われ、第一尋常中学校は大差で勝利を収めたので城山二の丸広場で祝勝慰労会が行われたが、明治32年(1899年)には松江市内の各高等小学校の第一回競漕大会が御船屋川で開催されたが、島根県第二尋常中学校は24名の生徒により日本海の浜田港からほぼ島根県の沿岸中央に位置している温泉津(ゆのつ)港までの片道約40kmの遠漕を成功させるなど、島根県のボート熱はますます高まりを見せていったのである。
※松江師範学校・・・後の島根師範学校 島根県尋常師範学校
現島根大学
※教員伝習校内変則中学科・・・後の松江中学 現松江北高校
※400ヤード・・・約364m
※島根県第二尋常中学校・・・後の浜田高校
※6町・・・約600m
その9、夏目漱石とボートブーム
20世紀を迎えた明治33年(1900年)は明治27年から行われた日清戦争以来の緊張が再び中国大陸に起こり、日本も義和団事件に乗じて列強各国と同様に陸海軍を派遣したので日本を取り巻く状況は新たな局面を迎えようとしていた。
したがって陸海軍の増強を図る事が急務とされた関係で日清戦争の戦利品である軍艦や日本の軍艦などに搭載されていた古くなったカッターなどは日清戦争後各地のボートを始めようとしている学校などに積極的に盛んに払い下げられるようになってきていた。
明治26年(1893年)熊本の第五高等学校の校長であった嘉納治五郎がボート部を廃して東京に去った後、かつてボートを漕いでいた生徒達は深い溜息をついては私立尋常大村中学校の生徒達が楽しそうにボートを漕ぎ回っているのを見つめていた。
今彼らが漕いでいるボートはかつて第五高等学校のボートであり、余暇には水上で遊びときには夢を語り合ったりする大切な居場所だったが、ボートがない今では漕ぐことは叶わなかったので陸に上がった河童のように髀肉之嘆に耐えていた。
しかし明治28年(1895年)日清戦争において日本が勝利を収め戦争が終結すると、国内には海軍の充実が叫ばれ隅田川では学生の端艇競漕会や海軍の短艇競漕も盛んに開催されるようになると、日本各地でも続々とボートが漕がれ始め、7月14日には第一回大日本連合競漕会が琵琶湖の大津、打出の浜で開催され広く全国から参加を求めたのであった。
すると第五高等学校同窓会発行の龍南会雑誌に端艇部の創部を求める投稿記事が見られるようになり、11月にはついに艇も艇庫もないままに龍南会付属端艇部が創設され翌年の明治29年(1896年)1月25日には早くも3艇(花陵、金峰、龍田)の新艇が江津(えず)湖に浮かび、4月12日には第一回春季競漕大会が盛大に開催されたのであった。
夏目金之助は松山から瀬戸内海航路を蒸気船に乗って門司駅に着き、明治24年(1891年)7月1日に九州鉄道株式会社が開通させた門司熊本間を蒸気機関車に乗って終点一駅前の池田駅に向かったが、車中では松山で愛媛県収税長として赴任していたボート仲間である若槻禮次郎から聞かされていた話を思い出していた。
それによるとかつて大学南校で幹事をしていた服部一三(かずみ)はボート仲間に多くに知人がいたが、明治17年(1884年)文部省から学務視察を兼ねて派遣された「ニューオーリンズ産業綿花百年記念万国博覧会」のために訪れたアメリカのニューオーリンズで会場を取材しながら日本文化に興味を抱いていたパトリック、ラフカディオ、ハーンに出会ったが、当時タイムズ・デモクラット社文芸部長をしていた彼に美しい日本と、日本における英語教育の必要性を説き日本が優秀な英語教師を求めていることを話すのだった。
やがてハーンは作品を出版しながら二度に渡るフランス領西インド諸島の旅行を経て、ますます異国への興味をかき立てられていったが、ハーパー社から特派員として訪日の話が舞い込むと勇んで受け蒸気船アビシニア号で太平洋20日間の船旅を経て明治23年(1890年)4月4日に横浜港に上陸を果たしたが、待遇面でのもつれから5月にはあっさりと退社し、当時文部省普通学務局長をしていた服部の元を訪れ日本での就職斡旋を願い出たのだった。
当時は森有礼文部大臣が全国の尋常中学校に英語教育の中で特に会話を中心に据える方針を打ち出していたため多くの外国人教師を求めていたことと、島根県立松江尋常中学校で一人目のアメリカ人のタットル先生が辞任したため早急に次の外国人教師を求めているとの情報があったため、民俗学に興味のあるハーンに松江尋常中学校の職を世話したのだった。
したがってハーンは9月の新学期に合わせるために8月下旬に新橋から横浜で出会った英語の堪能な若い僧である真鍋晃(あきら)と神戸まで向かった。そこから民営の山陽鉄道で終点の明石まで向かい、さらに人力車や籠を乗り継ぎ4日間かけて中国山地を踏破して松江に向かったのであった。
その旅は清一の場合とは逆に文明の世界からタイムマシンで古(いにしえ)の日本に向かうような、深い感動と不思議さを十分に感じさせてくれる旅だったが、松江では清一の中学時代の同級生で教頭をしている西田千太郎の知遇を得て通訳や資料の蒐集などの公私にわたる協力を得たのであった。また明治24年2月には西田の勧めでフランス留学から帰国した梅謙次郎と親戚である松江藩の旧士族小泉湊の次女節子と結婚したが、後嘉納治五郎の引き抜きにより新しい家族を連れて翌年11月に第五高等学校へ転任したが、尊敬していた嘉納治五郎が東京の高等師範学校に去ると後ろ盾を失い、誰よりも日本人として生きようとしていたハーンは明治27年(1894年) のある日、突然講義を放棄すると辞職してしまった。
その後神戸の英字新聞の神戸クロニクル社に記者として就職していたが4ヶ月あまりで辞職し、文筆業で生計を立てていたが教師としての才能を惜しんだ梅謙次郎の斡旋により明治29年(1896年)から帝国大学の英語講師として東京に住むことになったのであった。
第五高等学校ではハーンの辞職により次の英語教員の派遣を元校長の嘉納治五郎に依頼したのであったが、その依頼には端艇部創部の動きが高まってきたこともあり出来るだけボート競技の経験者という希望が付けられていたのであった。
嘉納は校長時代にボート部を廃したという事実と自分が招聘したハーンが辞職したことに責任を感じていたが、かつて高等師範学校で英語教師をしていた夏目がボート経験者でボートレースの役員を経験していたことを思い出し、普通学務局長の服部を通して松山にいる若槻禮次郎に熊本行きを夏目に承諾させるよう依頼したのであった。
これには松山着任後日の浅い夏目もさすがに驚いたが、かつて学習院大学の教員を希望しながら希望を叶えることができなかった時に彼を高等師範学校が採用してくれたからであり、若槻によれば夏目の才能を惜しんだ文部省が時機を見て、海外留学とその後の帝国大学への就職を考えてくれるという内容も含まれていたのであった。
夏目はそんな話を思い出しながら英語の授業に多少の不安を感じていたが、ボートは隅田川のように座っていれば是公のようなボート経験者達が取り計らってくれるだろうと楽観しているのだった。
しかし現在の第五高等学校のボート事情は全く知らされていなかった夏目金之助は明治29年(1896年)の春季競漕大会の余韻が強烈に人々の間に残っていた翌日の4月13日午後2時に上熊本駅に降り立った。
夏目は到着した瞬間からホーム上で幾重にも取り囲まれて質問攻めに合ったが、彼らが声高に話し掛けてくる内容はボートレースの単語しか理解できなかった。
「どうも私がボートレースの達人との噂が広まっているらしいが、体も弱いし正式には競漕会にも出たこともない。是公の奴に騙されて大会役員に引っ張り出されて座っていただけなのにとんだ迷惑だ。」
そんな漱石の心中にはお構いなく瞬く間に端艇部第二代目の部長と名誉部員に就任したが、12月に完成する艇庫の落成式準備などで忙殺されながら、名誉部員としては強制的に寄付金の支払いが義務付けられる始末であった。
さらに部長として艇庫の建設費を集めることが最重要課題であり、たびたび寄付金のお願いに走り回らなければならなかったが、是公達が金策に走り回って競漕回を成功させているのを見ていたので、部員達の情熱に触れると次第に応援する気持ちになるのだった。
やがて金之助を慕って始終学生達は下宿に入り浸り飲食なども自由にしていたが、是公たちと10数人で暮らした下宿時代を思えばそのようなことは驚くことではなかった。またボートの先輩から部員ではない夏目も度々驕られていたことを思えば、出入りする学生達を分け隔てなく可愛がったのであった。
明治30年(1897年)6月12日に第五高等学校の校長が海軍佐世保鎮守府に中古カッターの払い下げを希望すると、即座に日清戦争で捕獲した中国の戦艦・鎮(ちん)遠(えん)の14人漕ぎと8人漕ぎの中古カッター2艘が払い下げられることになったので、大連、旅順と命名されたカッターを江津湖に回航するために修理が必要となったので、五高の在校生16名と卒業生1名及び五高以外の生徒13名の合計30名が召集され2艘の回航計画が綿密に立てられたのであった。
そこで選ばれた2名が現地に急行し修理の手配と必要な機材の購入および食料の調達などが図り、後続のものと合流して計画は実行に移され無事に2艘のカッターは回航に成功したが、計画とは何時の場合も多少の狂いを生じるものであり、この一大回航計画も最終的に100円の不足を生じてしまったのであった。
そこで夏目はボートの先輩達がみなそうであったように自分の給料とほぼ同額であった100円を提供し、周囲からの余分な圧力がボート部に加わり今後の活動に支障が出ないように自らは部長の職を辞任したのであった。
やがて夏目は明治33年(1900年)文部省から2年間の英国
留学を命じられロンドンに留学するため第五高等学校を去り、
明治36年(1903年)1月にイギリス留学を終え日本に帰って
くると東京帝国大学の英語講師となったが、一方のハーンは夏目の
帰国により失意のうちに辞職したが、梅謙次郎の説得と周旋を受け
明治37年(1904年)3月から早稲田大学で再び英語講師とし
て教鞭をとるのであった。
推敲済み 7・31
※第五高等学校・・・後の熊本大学
※池田駅・・・現上熊本駅
※島根県松江尋常中学校・・・現松江北高校
※山陽鉄道・・・明治23年(1889年)民営で開通
※真鍋晃・・・詳細不明
※小泉湊・・・旧松江藩の500石取りの士族。維新後武士の商法で没落
※服部一三(いちぞう)・・・山口県出身、嘉永4年(1851年)~昭和4年(1929年)アメリカ留学後官吏、後貴族院議員。
岩手、広島、長崎、兵庫県知事を歴任した。
※小泉八雲・・・パトリック、ラフカディオ、ハーン(Patrick、Lafcadio、Hearn)1850年(嘉永3年)6月27日~1904年(明治37年)9月26日。イギリス軍少佐とギリシャ人の娘との間に生まれた後イギリスに渡ったが、6歳のときに父母が離婚のため親戚に引き取られた後、20歳の時に移民船でアメリカに渡る。
明治37年(1904年)9月26日に狭心症のため急死54歳
お墓は雑司が谷霊園、1種1号8側35番
※夏目金之助(漱石)・・・は慶応3年(1867年)1月5日~大正5年(1916年)12月9日に胃潰瘍のため死去49歳。明治22年1889年から漱石を名乗る
お墓は八雲と同じく雑司が谷霊園、1種14号1側3番
その10、島根尋常中学校悲願の全国大会初優勝
明治28年(1895年)7月琵琶湖で行われた第一回大日本連合競漕会を手伝ってからも、暇を見ては手伝いや各団体の隅田川艇庫の落成式へ出席していたが松江に帰省した時には後輩達へボートレースの技術と精神面および金銭的支援を行うことを無上の喜びとしていた。
しかし大日本連合競漕会が明治32年(1899年)に終了すると、明治34年(1901年)8月4日、大会の主催を滋賀県から大日本武徳会が引き継ぎ再び開催されることになった。
また大会は第一回全国中等学校端艇競漕大会として全国に参加を呼びかけたので、全国規模の大会として琵琶湖のボートレースは広く知れ渡り、春は隅田川、夏は琵琶湖のボートレースと大変な活況を呼び多くの見物人を集めたが、その知らせは松江にも届いていたので、宍道湖で腕を磨いていた島根県師範学校や尋常中学校と第二中学校及び松江商業では、端艇部以上に学校関係者が沸きかえったのであった。
またこの年は師範学校と尋常中学校との間で対校戦が行なわれることになっていたが、ルール上の交渉がまとまらず流会となっていたが、早くからこの対校戦のために必死の練習をしていた両校と第二中学校の三校に全国大会への参加というチャンスが訪れると、 各校は7月19日に選手10名と引率教員の選手団を形成し蒸気船で西回りの航路を取り大阪到着後、明治22年(1889年)に開通していた東海道本線に乗り込み大津に向かった。
レース当日は競漕用ボートに乗り込んだ選手たちが1100mレースのスタート地点まで蒸気船に曳航された後、湖岸の貴賓席前に設けられたゴールを目指すレースが行われ、島根師範学校が見事に栄えある第一回大会を制すると、終了後三校合同の優勝祝賀会が開かれ元島根県知事で大会副会長をつとめていた大浦警視総監から祝辞と記念品ならびに金一封を送られたのと同時に広くボート王国松江の名は全国に知れ渡っていったのであった。
清一の喜びも大きかったが母校優勝のために色々と支援した結果翌年の第二回大会では、尋常中学校から出漕した2クルーが1位の滋賀師範学校に続いて2位と3位を独占すると松江のボートはさらに広く知られたが、前年度に2位になったクルーが優勝に一番近いとの言葉どおり翌年の明治36年(1903年)尋常中学校は松江で必勝を期して3ヶ月の長期合宿を4月より開始し、松ノ木を削った特別に重いオールで漕ぐことを日課にしたので授業中に眠り込んでしまう者も現れたが、級友たちはノートを筆記するなどの支援体制で応援したのである。
さらに東京でも卒業生達の興奮は日増しに高まり連日合宿先には激励のために食物や金品などが続々と届けられたが、長い合宿練習に耐えクルーの完成度を高めて自信を得たクルーは7月29日に松江を出発し境港から蒸気船三河丸に乗り込み北回りで舞鶴港に到着すると明治33年(1900年)に民営の京都鉄道が開業していた園部駅から京都を経て大津の越前屋旅館に到着後、直ちに大会本番に向けて乗艇練習を開始した。
今大会は精鋭30校で行われ8月4日に行われた初戦は3杯レースとなったが、前評判の高かった強豪秋田中学クルーと戦い2艇身の大差で名誉競漕と呼ばれた決勝戦に進出したが、琵琶湖に敵なく近畿にまで相手を求めて遠征して連勝を重ねていた強豪滋賀商業と、体格と漕法において遥かに第一尋常中学校を上回り優勝候補筆頭の秋田師範学校との間で行なわれる事になったのであった。
今回審判役員として参加していた清一は何時になく辺りを歩き回り何とか強い自制心で審判業務の公平さを保つよう努力していたが、スタート時間が近づいてくると心臓が張り裂けそうな緊張感を味わっていた。
「まいった。これじゃ自分がレースに出たほうが楽だ。」
やがてスタート時間が近づいてくると、練習と経験から生じた自信と精神力に満ちたクルーが落ち着いて見えるので、清一は小鳥のように戦慄(わなな)いている自分を恥じるのだった。
そして注目のレースはスタート直後から秋田師範クルーとの間で一進一退の攻防を繰り返していたが、気付くと滋賀商業クルーは2艇の間隙を巧みに抜け出して大きくリードを奪っていた。
しかし半ばを過ぎるころようやく秋田師範クルーを引き離すと先を行く滋賀商業クルーに懸命に追いすがったが、舵手はクルーの練習量とラストスパートに絶対の自信を持っていたので、漕手も自信に満ちたレース運びに信頼を寄せているのだった。
「これが、クルーだ。」
そこには誰一人も存在していない。
あるのは水を切って進む艇首から発する透明な音だけであり、絶対的な自信に満たされた静寂であった。
舵手は自分自身に言い聞かせていた。
必ず先を行く滋賀商業は疲れてくるに違いない。またリードしていることで精神的にも油断が生じているに違いないので、ここは一本一本を大切に漕がせて先行するクルーとの差を縮めてから一気に勝負をかけたスパートで抜き去るのだ。
完全無欠の意思を持った艇は音もなく進み、先行するクルーに肉薄する。
先行する滋賀商業クルーがゴールに近づき優勝の夢を思い始めたころ、突如大きく見え始めた相手クルーに脅威を感じだすと小さな不安は少しずつオールを乱していったが、第一尋常中学クルーには猛練習で鍛えられた絶対的な信頼があった。
舵手から満を持してラストスパートがかかると全ての忍耐から解き放たれたように、漕手は何の苦もなく強く蹴り楽々とピッチを上げて漕いでいくのであった。
「こいつら本当にすごい。」
残りの何秒か。そしてゴールは一瞬。
静寂後の歓喜と悲嘆。
以後長く語り伝えられることになるこの名高い激烈なレースを制したのは、第一尋常中学クルーであった。
判定に拠ればその艇差わずかに5尺(約1m52cm)タイムにしてわずか一秒の名勝負であり、勝利が確定したクルーは感極まって湖上を波に乗って何時までも漂っていったが湖岸で見ていた応援団も音無き声を発していた。
やがて念願の初優勝を成し遂げたクルーは表彰式に臨み、大浦兼武逓信大臣から優勝旗を授与されたのと同時に大会関係者の計らいによって清一から金一封と祝辞を受けたのであった。
勝利を祝して遥か遠くの湖面に屈強な漕手たちによって投げ込まれる小柄な舵手。
そこにはお互いの信頼を称えあうクルーの姿があった。
※2艇身差・・・艇の長さ二つ分のリード
推敲済み 8・3
第11章、オリンピック大会初参加への道
その1、密命を帯びたアメリカ行き
明治34年(1901年)になると東京で学ぶ島根県出身者の数はさらに増えたので清一を中心にした出雲学生会という組織が活動していたが、そこに法律、政治、経済関係を専門的に研究する仲間をもって新たな組織を作ることになった。
したがって10月27日に梅謙次郎を会長、清一が副会長に就任して神田連雀町金清楼で約60名の出席者による会合がもたれ、郷土の先輩後輩が互いに交わり研鑽を積むための島根県法政会が誕生したが、清一は法政会の会員や来客訪問時に手狭になった法律事務所を京橋区宗十郎町一番地に移転したのであった。
しかし明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発すると、36歳になっていた清一の仕事は日清戦争後に増えていた海外企業からの外貨投入がさらに増大したが、その場合語学に堪能な彼に必ず依頼することが多くなっていった。
またそれには日清戦争による一時的な軍需景気に沸いた日本も、二年続きの凶作のため農民の疲弊が目立つようになり景気後退がはっきり見えるようになっていたことも原因であったが、苦しい経済状態を脱却するために財界からは外資を輸入して各種事業の振興を図る以外に経済の建て直しは出来ないとの考え方が大勢を占めるようになったことを示していた。
しかし当時の外資輸入は国家的な問題との認識からあえて行うものはいなかったが、清一の大学時代の恩師で第4回と第5回の競漕会の役員を勤めた後アメリカに帰国した弁護士のアレキサンダー、チゾン先生からの連絡によりアメリカの煙草会社が、それまで紙巻煙草の喫煙習慣がなかった日本で新帰朝と呼ばれていた文化人がもたらした紙巻きタバコの流行と将来の需要を見込んで、日本での出資先として選んだのは京都でいち早く煙草の販売に乗り出していた村井兄弟商会の巻煙草製造会社を設立する際に資本提供の橋渡しを行ったのであった。
やがて爆発的な利益をもたらした銘柄は洋風の「ヒーロー」、「サンライズ」、「ピンヘッド」などで長く人々の記憶に残ったが、利益の大きさに気付いた政府がタバコ産業を占有するまで彼らは莫大な利益を上げ大成功を収めたのであった。
このように大阪でも明治29年(1896年)大阪瓦斯会社が設立されていたが、不況の波に押され縮小方向に向かっていた大阪瓦斯会社の将来性を惜しんだのが、東京で実業家として成功を収めていた浅野總一郎であり、さらに多くの事業を手がけようとしていた彼は首都におけるライフラインである水道、電気および瓦斯などの経営が大きな利益を生むとの予測からその経営に乗り出していたのだった。
しかし東京の資本ということもあり容易には経営に食い込むことは出来なかったが、煙草事業で大成功を収めた清一に白羽の矢を立てると大阪瓦斯の経営建て直しに外資を導入することを依頼したので、明治37年(1904年)4月、彼は大阪瓦斯と外資の提携を図るために日露戦争の最中に知人の制止を振り切ると多くの危険を顧みずアメリカ渡航を決心したのであった。
やがて渡航準備に追われていた清一は、久しぶりに禮次郎からの呼び出しを受けたが当時禮次郎は明治31年(1898年)11月からの4年間にわたる愛媛県松山での収税長の仕事を終え、10月から東京の主税局長兼裁判所評定官に着任する準備のために東京にいたが、出向くと驚いたことに法学博士梅謙次郎まで同席していたのでこの呼び出しはひどく唐突なものに思えた。
「禮次郎さん。お久しぶりです。変わらずお元気のようですがお仕事はどうでしょうか。このたびは東京にご栄転のご予定とか。誠におめでとうございます。」
「清一の活躍は遠く松山まで聞こえており、俺も鼻が高いという訳だ。」
「ところで御二人同席でのお呼び出しとは何事ですか。」
「アメリカに渡航する話を前回の会合で聞いたので、禮次郎が来たこともあり一杯飲もうという訳だ。」
「ところで何事です。」
怪訝な顔つきの清一を見ながら禮次郎が話し出した。
「清一もハーン先生の話は聞いているか。」
「もちろんです。松江では随分後輩が面倒を見てもらっていたようで、感謝していると出雲会で聞いていますよ。」
「そのハーン先生だが日本に帰化されて小泉八雲と名乗られるようになったのだが、梅先生とも親戚関係になったこともありこのたびハーン先生のアメリカ時代に書かれた本の著作権を日本に移したいとの希望が謙次郎さんに出されたのだ。」
今度のアメリカ行きでハーン先生の著作権を移す交渉をまとめる依頼だろうと想像が付いたが、禮次郎の話はさらに清一を驚かすに十分であった。
「実はこれから話すことは他言無用だが、今度の日露戦争のことはどう考えている。」
「禮次郎さんいきなり何ですか。私はただの国際弁護士ですよ。政府の方針に何らの感想はありません。全く驚きました。」
ここで初めて謙次郎が話し始めた。
「日清、日露の戦争について、本当は国民の誰も望んでいないだろう。日本の国民は維新の時のように凄惨な内戦で政権交代を成功させ、外国支配から逃れることには感謝しているが、今度の戦争に参加したことで世界的規模の戦争に日本が巻き込まれ、若者が多くの血を流すようになるのではないかと危惧しているのではないだろうか。
私が留学したヨーロッパでも国民はだれも戦争を望んでいなかったと私は感じていたが、国家が志向する方向に国民は引きずられやすい傾向が強いのだ。私はそれを心配している。」
会合を終えた清一は腕組みしながらただひたすらに歩いていた。
酔いはすでに消え先輩達の話をひたすら反芻していたが、先輩達は私に一体何をさせようとしているのであろうか。
さらに禮次郎の話によれば明治33年(1900年)に行われた第二回パリオリンピック大会に続いて、フランスのクーベルタン男爵が唱えるスポーツが平和に果たす役割が、アメリカで行われる万国博覧会の一部として開かれる第3回セントルイスオリンピック大会で平和に貢献する可能性とアメリカ市民の反応を視察してこいと命じたのだった。
一体日本の将来は何処に向かおうとしているのか。彼は改めて渡航の意味を考えない訳にはいかなかった。
推敲済み 8・4
※浅野總一郎(嘉永元年1848年~昭和5年1930年)・・・富山県出身の実業家。明治4年24歳のとき御茶ノ水で始めた水売りから出発し太平洋セメント、日本鋼管など多数の会社を設立し、鶴見臨海鉄道の浅野駅に名前が残っている。
※アレキサンダー、チゾン先生・・・アメリカセントルイス出身
※渡辺千代三郎(慶応元年1865年8月生~昭和11年1936年4月5日死亡)・・・岐阜県出身日本銀行などを経て大正6年1917年7月~大正15年1926年まで大阪瓦斯会社社長就任、岸清一は32年間に渡り取締役を務めた。
※村井兄弟(けいてい)商会・・・タバコ王として名を馳せた村井吉兵衛が明治23年(1890年)京都市東山区で、日本で初めて両切巻紙タバコを米国タバコ会社と合同で販売し成功を収めた。明治37年(1904年)煙草専売法の実施で国営となるまで世界に名を知られ、たばこ製造工場発祥の地碑が立っている。
その2、ロンドンにおける邂逅
明治39年(1907年)1月7日40歳になった禮次郎は第一次西園寺内閣のときには主税局長から大蔵次官となっていたが、4月になると西園寺(さいおんじ)公(きん)望(もち)首相がお忍びで日本軍の占領下の満州に視察旅行に出かけるにあたり同行したのであった。
西園寺首相は京都の貴族である公家(くげ)の出身で明治4年(1871年)にはフランスのソルボンヌ大学に留学し、明治15年(1882年)には伊藤博文が内務卿として憲法制定のためにヨーロッパに渡った際に随行し視野を広めた国際人であった。したがって戦国時代の状況を呈していたヨーロッパの情況と戦争で悲惨な体験をしている市民生活にも詳しかったので、軍部が満洲にずるずると居座り続けて権利を主張し市民を迫害することを避けるための早期撤兵理由を見出すために視察旅行だったが、禮次郎は梅謙次郎と同じように西園寺の人柄と平和に賭ける情熱に触れることによって精神的に多大な影響を受けたのであった。
また禮次郎は明治40年(1907年)4月には政府財政委員としてロンドンとパリに駐在していたが、当時の日本の自治制度の中で地方税の役割をイギリスに学ぶ事と日本の財政状況を海外に開示して外資を獲得する機会を増やすことにあったので、多くの財界関係者や、新聞雑誌の関係者とも情報交換の場を常に設けていたのであった。
また清一からは第3回セントルイスオリンピック大会の詳細な報告を受けて平和に対する思いが強くなっていったが、明治41年(1908年)第4回ロンドンオリンピックがそれまでの個人での自由参加を改め国別参加として4月27日~10月31日まで開催されることが決まっていたことと第二回のパリオリンピック大会からボート競技も行われるようになっていたボートレースの見学を兼ねてオリンピックの視察に清一を誘ったのである。
そこで連絡を受けた41歳の清一はオリンピック視察以外にも長野、山梨と静岡県を流れる大井川の上流にダムを建設し、電気を東京及び東海工業地帯に供給するという計画にイギリスからの資本参加を求め日英の共同出資による日英水力電気株式会社を設立するという計画を立案し盟友の副島道正たちと敦賀から船でウラジオストックを経由しシベリア大陸鉄道でロンドンに向かう18日間の大旅行に旅立ったのであった。
やがてロンドンで無事落ち合った彼らは、時には偶然を装いロンドンのレストランで禮次郎の知人達に清一達を引き合わせることによって情報収集に奔走したが、オリンピック視察に当たっては1894年(明治27年)6月23日にパリ大学内のソルボンヌ講堂で、クーベルタン男爵が世界20カ国47団体79名が集まったスポーツ競技者連合の会場で近代オリンピック大会の復活とその主催者である国際オリンピック委員会(IOC)の創設を訴えるためにおこなった「ルネッサンス、オリンピック」という講演内容を理解することであった。
なぜならばクーベルタン男爵が唱えるオリンピックを通して世界平和を実現しようとする考え方を、フランスのリヨン大学に留学したことがある梅謙次郎から何度も聞かされていたからで、特に今回の赴任にあたってはパリ大学ソルボンヌ校に留学したことがある西園寺首相から禮次郎のフランス語能力を会話レベルまで引き上げることとクーベルタン男爵の講演内容をぜひ一読するように強く勧められたからでもあった。
やがて講演内容を熟読した禮次郎は清一達に熱く語って聞かせたが、清一は先のアメリカ視察旅行のときに与えられた課題の持つ意味を初めて理解するとともに、スポーツと平和の関わりという大局的な視野に立って考えるという、クーベルタン男爵の思想により新しく視野が開かれた日本人の魁となったのであった。
第4回ロンドンオリンピックが開催されていたある日、フロントから連絡を受けた清一が下りて行くと一人の紳士が立っていたが、ミスター若槻に告げた名前を聞いたとたんに清一は慌てて部屋に駆け戻った。
「大変です!」
「なんだ、珍しく慌てているじゃないか。どうしたんだ。」
「禮次郎さん、ピエールという人が禮次郎さんに面会を求めて下に来ています。」
副島が慌てて部屋から駆け出すのと同時に残った二人は慌てて室内を片付けていたが、訪れたクーベルタン男爵は気さくに勧められた椅子に腰掛けると静かに話し出した。
「本日の突然の訪問については、まず失礼をお許しいただきたい。
実は先日のボートレース会場ではるばる日本国から高名なボート選手であった皆様が視察に来られていると伺ったので、失礼ながらお尋ねした次第です。」
三人は偉人の突然の訪問に驚き発する言葉もなかったが、続いて話された内容はさらに3人を驚かすものであった。
「実はみなさんもご存知の通り第4回の今大会はホワイトシティースタジアムを主会場にして22カ国から2035人の参加をいただき23競技107種目を実施している訳ですが、いまだにアジアからのご参加はありませんが、オリンピックの世界平和に貢献するという精神に賛同していただけるのであれば、アジアで台頭してきた戦雲を何とかするためにもアジアからの初参加を日本国に果たしていただけないかというのが訪問の理由なのです。
また皆様の愛するボート種目は第一回大会で海上での開催を試みましたが荒天のため中止されましたが、第二回大会からは行われているのは実に喜ばしいことです。さらに日本ではスポーツに関心も高いと伺っております。」
高名な男爵の人柄は極めて実直でありこの行動力がオリンピック大会の実現を可能にしたことを思うと、彼らは興奮のために上気している自分を感じているのであった。
「しかし日本国に出場をお願いすることにしてもIOCに加盟していただくためには、日本国にスポーツ団体を統括する機関を設けていただかなくてはなりませんが、それはJOCとでもいいましょうか。」
三人はひたすら驚き互いの顔を見合わせていたが、帰国後の難しさに思いを馳せていると話はさらに具体的になっていった。
「また私の経験からすると適切な人物を選抜しなくては成功する見込みはないでしょうし、政府筋の方にも尽力を願わなければなりません。したがってクレマンソー首相からも西園寺首相へは協力依頼を行っていただいており、西園寺首相も快諾されたと伺っておりますが、日本で会長の人選に困惑するようであれば若干の心当たりはあるのですが。」
驚いた三人が声を揃えて尋ねると、男爵の挙げた人物は驚くべきものであった。
「嘉納治五郎さんです。」
やがて男爵が多忙を理由に退室すると、興奮している清一と副島は禮次郎の考え込んでいる様子から次第に会話を控えた。
「嘉納先生の名前が出るとは驚いたが、確かに西園寺首相もドイツで公使をしていたときに嘉納先生が学習院の三浦院長との折り合いが悪く二人の関係が悪化するのを回避するために、宮内省から特別の配慮で欧州への視察を命じたのでドイツに行ったときはよろしく頼むといわれて会ったことがあると話されたことがあった。
また当時ベルリンには日高さんも留学していたので、入魂(じっこん)になったと聞いていたが残念なことに帰国後高等師範学校と文科大学の教授をしておられた明治27年(1894年)に29歳の若さで惜しまれつつお亡くなりになってしまった。
そして日高さんが留学中に集められた蔵書が日高さんを記念して日高文庫として明治29年(1896年)高等師範学校に受け入れられるにあたっては、嘉納先生や夏目くんも寄付金を出しているのだ。」
かつて共に隅田川の水面を漕ぎまわっていた先輩の死を悼みつつ再び禮次郎は話しだした。
「そして嘉納先生の名前が一気に世界に広がったのは、その視察旅行のときの武勇伝によるのだ。」
「それなら私でも知っております。新聞にそのときのことが配信され世界各国で評判になった例の事件ですね。」
副島の話を受けて清一が話しだした。
「なんでも明治23年(1890年)12月に視察を終えられた嘉納先生がマルセイユを出発しスエズ運河からインド洋に向かう船中、カイロからスフィンクスとピラミッドの見物後のことですね。」
黙っていられなくなった副島が続ける。
「見物の後再び船に乗り込みコロンボに向かう7日間のインド洋上の甲板上では船旅に飽きた乗客の中で暇つぶしに色々な遊びが行われたそうですが、その中の力比べでロシア海軍士官の巨漢が勝利を誇っていたそうです。するといつも嘉納節を聞かされていたロシアの商人が海軍士官に柔術の嘉納先生が君を押さえつけるのは簡単だと言っていると焚きつけると、 怒りを発した士官が甲板に集まっている船客注視の中で小柄な嘉納先生に試合を迫った所、先生は見事に背負い投げで投げ飛ばしてしまった。
しかも嘉納先生はそのとき相手が頭を打って怪我をしないように襟を引いて助けたので、見ていた観客は拍手喝采したそうですが大衆の面前で気を失う失態を回避できたことに感謝した士官もまた握手を求めたので船中での嘉納先生の人気はさらに高まったとのことです。また勝つばかりではなく敵に情けを掛けたというところに感服した英国人の話が横浜で読売新聞の記者に伝わると、一気に嘉納治五郎の名前が世界中に高まったという痛快な話ですね。」
「さすがに嘉納先生を知らない者はいないが、高等師範学校の校長として明治35年(1902年)から毎年春秋の2回全校生徒参加で陸上競技の長距離競走を行ったり、夏には千葉県北条で生徒有志に水泳を練習させるなどしてスポーツを盛んに奨励している事実と、柔道の大道場も完成しその勢いや旭日のようであることから明治39年(1906年)には勲三等瑞宝章を叙勲されているので一番ふさわしいといえば相応しいのだが。」
清一と副島はなにか禮次郎が奥歯に物の挟まったような言い方をしたのに気が付いていた。
「ただ私が多少なりとも心配するとすれば嘉納先生はやはり意地っ張りというか信念の人だから、一度言い出したら中々他人の意見を入れないところがあることと、はっきりとはいえないがどうも嘉納先生はボートが嫌いというか、あまり快く思っていないのではないかと思われるのだ。」
ようやく全国的にボート競技の人気が高まって来ていただけに、将来はオリンピックに参加できるのではないかと期待して清一は落胆の色を隠しながら禮次郎の話を待った。
「嘉納先生は官立の英語学校から官立開成学校を経て東京大学に偏入学されたわけだが、どうも当時ボートを漕いだことがあるようで隅田川まで時間をかけて歩かなくてはならないのは柔道に比べて合理的に体力が鍛えられないと思われたようだった。また例の熊本の第五高等学校の校長時代には折角あったボート部を廃したこともあるぐらいだ。
たぶん嘉納先生は体が小さいので舵手でもさせられたのではないだろうか。そのことが運動家としての先生のプライドをいたく傷つけたのではないかと考えているのだが、高等師範学校の学生達は嘉納先生のご理解とご支援のおかげで明治35年11月22日の第一回競漕会の時には清国への出張から帰ったばかりで忙しい嘉納校長に変わって校長のご夫人である須磨子さんのご出席を戴いて新艇(はやぶさ・いなずま・あけぼの)3艇の命名式を行ったり、38年には艇庫を作ってもらえたのだが校長が陸上と水泳を奨励しているものだからボート部の連中は何時も部員が少ないと嘆いていたものだった。」
「なるほど。確かにそういうこともあるかもしれませんね。でも嘉納先生はやはりスポーツを愛していることに変わりがないでしょうから、そんなに心配しなくても大丈夫でしょう。
またJOCなどという組織を作るためには資金も必要になりますから、私たちも陰ながら組織作りにはお手伝いしなければならないでしょう。ボート競技も嘉納先生には理解していただけるようになると思いますがどうでしょうか。
それよりもイギリスでは他国に先駆けて明治23年(1890年)にボート協会を発足させていますが、その2年後には早くも国際ボート連盟がスイスで設立されているということですから、JOCの件は一先ず嘉納先生に任せておいて、我々はオリンピック参加を目指して日本漕艇協会というような団体を早急に立ち上げることが重要になるのではないでしょうか。」
やがて清一と副島は帰途についたが、日本では松江市民念願の山陰線が松江まで開通し近代的な松江駅が完成したので文明の恩恵は山陰まで届くようになったが、禮次郎は7月に西園寺内閣の総辞職にともない桂園時代と呼ばれた第二次桂太郎内閣において桂首相兼大蔵大臣のもとで大蔵次官に就任するため急遽帰国したのであった。
遂行済み 8・5
※西園寺公望・・・公爵(嘉永2年、1849年10月23日~昭和15年、1940年11月24日)は江戸時代前まで天皇に直接仕えていた京都の貴族である公家(くげ)のなかでも家格の高い徳大寺家の次男として誕生し後に西園寺家の養子となった。
若くして倒幕を志し山陰軍事総督を命じられ朝命によりパリ大学ソルボンヌ校に9年間留学したときには、下宿が同じで後のフランス首相となるクレマンソーの議会政治の元に下層階級の生活を改善することにより国力を高めるというフランス急進主義を日本で実現しようと試みた。
(お墓は府中市、多磨霊園8-1-1-16)
※バロン、ピエール、ド、クーベルタン・・・Baron、Pierre、de、Coubertin・1863年文久3年1月1日~1937年昭和12年9月2日
※IOC・・・国際オリンピック委員会
※JOC・・日本オリンピック委員会
※コロンボ・・・スリランカのかつての首都
※国際ボート連盟・・・略称FISA・Federation、Internationale、Des、Societes、d‘Aviron
その3、国際オリンピック委員嘉納治五郎誕生
帰国した禮次郎達はクーベルタン男爵の依頼を受けアジア初の国際オリンピック委員となる嘉納治五郎の説得のために慌ただしく動いていたのは、翌年の明治42年春に駐日フランス大使ゼラールが正式に嘉納治五郎を訪問し国際オリンピック委員就任を要請する段取りが決まっていたからであり、嘉納治五郎がクーベルタン男爵からの手紙を持参している駐日大使の要請を断るようなことがあればオリンピック大会のもつ国際平和への貢献に日本が参加できなくなるという恐れがあったからであった。
またクーベルタン男爵の意向はクレマンソー首相から旧友の前総理大臣西園寺公望を通して第13代総理大臣の桂太郎に伝えられ政府筋からは非公認の形で嘉納治五郎の推薦が決まっていたので、禮次郎と清一は慎重に嘉納治五郎の説得工作に取り掛かっていったのであった。
「しかし禮次郎さん。ここまでの段取りは出来ましたが最後の説得には誰が行くのでしょう。嘉納先生は中々意思の硬い人ですから慎重な人選が必要だと思いますが。」
「その辺は少し確かな心積りがあるんだ。」
「禮次郎さんよろしかったら、そのお名前を後学のためにも教えていただけませんでしょうか。」
「なに。清一も良く知っている梅謙次郎さんだよ。」
「驚きました。まさかここで梅さんのお名前を聞くことになるとは。その理由を教えていただけませんか。」
「簡単なことだ。人と人は思わぬ所で助けたり助けられたりしているもんさ。嘉納先生と謙次郎さんの繋がりも実は深く講道館を財団法人化する時に財団法人寄付行為規則を制定したのも梅先生が成案を脱稿して初めて成立をみたものであり、不肖この若槻も嘉納師範が館長となられるのをお手伝いした理事の一人であるのだ。」
「なるほど。驚くばかりです。」
「さらに首尾よく嘉納先生が国際オリンピック委員に選ばれた場合、財界からの経済的支援がなければ参加費用の調達は望めないと思われるので、清一に元締めを担当してもらいたいという訳なんだが。引き受けてくれるな。」
「解りました。ご安心ください。陰ながらご支援させていただきます。」
「それはよかった。清一なら必ず引き受けてくれると確信していた。では実際に3人で嘉納先生の所にお伺いする日時は、調整の上で改めて連絡することにしようじゃないか。」
互いの心が通じていたことを喜びながら、オリンピックに日本のボートが参加する日を夢見て何時までも杯を酌み交わしていた二人であったが、日本ボート界が世界で主流となっている滑席艇への移行がスムーズに出来なかったのは、高等商業学校が横浜アマチュア・ローイング・クラブとの競争用に建造した6人漕ぎ滑席艇を乗りこなすことが出来ずに艇庫に格納されたことに始まり明治大学なども固定席艇で用いられた左右交互に座るという固定概念から脱却出来ずに艇のバランスを取ることが出来なかったためであったが、海外と比べて未熟な日本ボート界に思いを馳せると国際試合への参加に不安を感じないわけにはいかなかった。
やがて嘉納治五郎の快諾を得た国際オリンピック委員会では11月に行なわれた総会で嘉納治五郎を国際オリンピック委員として推薦し、ここにアジア地区から初めての国際オリンピック委員が誕生すると、3年後の明治45年(1912年)第5回ストックホルムオリンピック大会参加に向けて各方面での体制作りが急ピッチで行われていくのであった。
明治43年(1910年)10月25日44歳になっていた清一は博士会の推薦によって法学博士の学位を授与されると、弁護士の仕事も順調で大車輪の忙しさだったが、国際オリンピック委員に選任された嘉納は明治45年(1912年)に開かれる第5回ストックホルムオリンピック大会への参加を正式に要請されたので、ここに日本の選手派遣の母体となる日本オリンピック委員会の設立に向け準備を進めていった。
明治10年代から始まった日本の近代スポーツは主に英米の影響を受け東京帝国大学、東京高等師範学校、第一高等学校、札幌農科大学、学習院大学、早稲田大学、慶応大学、東京高等商業学校など官立私立高等専門学校等を中心に広まったが、その種目は主に陸上競技、端艇、野球、テニス、蹴球などであり他には学校体操、兵式体操、柔道、剣道などがあった。
したがって他種目を統合した新しいスポーツ団体の結成に当たった嘉納は文部省に協力援助を求めたたが、国民的な理解を得ていないという理由で全面的な協力を得ることは出来なかったので、明治24年8月11日(1891年)日高籐吉郎によって東京牛込に創立されていた私立体育会に協力を求めたが、国民体育の振興を目標に掲げて活動していたため同意に至らず、先の各学校に協力を求め東京帝国大学、早稲田大学、慶応大学の各学長から賛成を得たことで初めての会合を明治44年(1911年)春に神田一ツ橋にある学士会館で開催すると、7月6日には大日本体育協会の初代会長に嘉納治五郎が就任したことにより校長を務めていた東京市小石川区大塚窪町の東京高等師範学校内に事務所を設置したのだった。
大日本体育協会創立当初はストレンジ先生の伝えた当時のイギリスにおけるアマチュア精神とボランティア精神の影響を強く受けており、運営に必要な経費の多くは国内の諸学校と体育に関する諸団体を対象にしている関係で、協会の活動に賛成してくれる篤志家や有志の寄付金で全て賄うしかなかった。
つまり貧しかった当時の日本人の多くはスポーツというものに寄付を行うなどは考えられない時代であったし、大会を見る者から入場料や関連グッズを販売した利益を協会の運営費に充当するなどということは到底誰にも思いつかないことであった。
そこで大日本体育協会では醵金を行って費用を集める計画を立て、百円以上の寄付金を提供してくれた者と毎年十円以上を寄付してくれる者を翼賛員及び維持員と呼んで彼ら篤志家の友情と支援に答えたのであった。
当初の翼賛員にはボート競技の経験者が多く、またそれらの多くは陸上競技も経験したものが多かったのはスポーツが輸入されて間もない当時学生であった彼らが色々なスポーツを経験し、やがて成長し社会人となって協会を盛り立てようとしているのは当然なことであったが、オリンピック大会の期日は確実に迫ってきていた。
したがって維持員として参加した清一以外に集まった顔ぶれは若槻禮次郎、岸清一、志立鐵次郎はじめ西園寺公望や嘉納治五郎および渋沢栄一などの財界の有志を含めた総勢24名にのぼり、男達の熱情が予選会の成功の鍵を握っているといっても過言ではなかったのである。
成立を見た大日本体育協会は始めての事業としてオリンピック派遣選手の予選会を、明治44年(1911年)11月18日土曜日から19日日曜日にかけて東京府下荏原郡羽田村運動場において開催することを決定し、選手募集の宣伝文を添えた18ページのパンフレットを作成し全国に配布したのであった。
この未曾有の企てが新聞などで広く国民に知れ渡ると両対戦以来の国家的挑戦と受け止めた国民は熱狂し、旅費を始めとしたすべての経費が自己負担であったにも関わらず初日は全国からはせ参じた91名で予定通り午後一時から開催されたが、この予選会開催にあたり多くの国民の心を沸き立たせた趣意書の内容は以下の通りである。
「国家の盛衰は国民精神の消長により、国民精神の消長は国民体力の強弱に関係し、国民体力の強弱はその国民たる個人および団体が特に体育に留意すると否とによりわかれるところである。 以下略」
大会当日は天候に恵まれなかったが禮次郎を初めとする大会役員は、小説家が中心となってスポーツ活動全般を行っていた天狗倶楽部の応援を得て無事に終了することが出来たのであった。
さらに予選会の成功を受けた明治45年(1912年)2月15日には、第5回ストックホルムオリンピック大会へ参加する選手として短距離競走の三島弥彦(みしまやひこ)とマラソンの金(かな)栗(ぐり)四三(しそう)をオリンピック代表選手に決定したのであった。
※6人漕ぎ滑席艇・・・ヨール艇と呼ばれフィックス艇からの移行期に用いられた滑席艇
※滑席艇・・・選手が座る椅子が動くのでスライディングシートと呼ばれた
※日本体育会・・・栃木県佐野市出身で西南戦争にも参加した軍人
出身の日高籐吉郎が退役後、軍人を志す若者の予備教育を行うため
に作った私立学校。後軍人だけではなく広く国民の体力を向上させ
ることが国家の発展に繋がるとの考えから、教育の分野で知育・徳
育に比べて指導者不足から遅れていた体育教育に取り組み私財を投
じて体操練習所を開設し卒業生の多くは各地の学校で教鞭についた。
やがて体操練習所、体操学校、体育専門学校、体育大学へと成長
し今日では日本体育大学を含む多くの私立学校経営を中心とする学
校法人日本体育会となった。
※自弁・・・自己負担と自己責任を意味していた
※三島弥彦(みしまやひこ)・・・学習院大学時代には野球とボートの選手を経験し東京帝国大学へ入学後天狗倶楽部会員となった
※金(かな)栗(ぐり)四三(しそう)・・・東京高等師範学校
推敲済み 8・9
その4、滑席艇時代の到来
オリンピック参加に向けてボート界ではシェル艇採用への機運がにわかに高まっていき、明治42年1909には東京高等商業学校がいち早く6人漕ぎクリンカー艇を建造し横浜アマチュア・ローイング・クラブとの対校戦で滑席艇への変換を図ったが、乗りこなすことが難しくそれ以降あまり使われることはなかった。
また同年明治大学でも6人漕ぎのシェル艇でYARCと行うレースに備えて野口造船所に依頼をしたが、結局今までの固定席艇と同じようにクルーの乗り込む位置が前後に一直線ではなく交互に左右に分かれていたためバランスを崩すことが多く乗りこなすことが出来ずに艇庫の高い所にしまわれてしまったのであった
そのような滑席艇への変換熱は東京帝国大学にも及び、YARCとのレースに備え世界的に使用されているエイトの建造を計画したが、現在の実力では乗りこなすことは出来ないとの声があがり、結局アウトリガーの6人漕ぎのシェル艇2艇と予備を含めた2艇分のオールを東京帝国大学を代表して国際弁護士の清一がイギリスに注文した、注文を受けたロンドン市内を流れるテームズ川沿いのシムス&サンズ造艇所はその注文が現在では世界の主流を占めているエイトではなく、古いタイプの6人漕ぎの注文がはるか東洋の日本から来たことに驚き、6人漕ぎ艇の建造は費用面でも高価になるので現在の世界基準であるエイトの建造を進めてきたが結局東京帝国大学漕艇部では6人漕ぎ艇の建造を決定したのであった。
翌年の明治45年1912、5月には輸送船で運ばれた2艇は無事に日本に到着したが、艇庫についた2艇は大きく長い木製の箱に新聞や雑誌を丸めて使った紙の中に丁寧に収められておりしかもその木箱の中にはボートを岸から押し出したり引き寄せたりする先端にフックのついた長い棒や、胸の所までゴムが伸びた長靴も納められていたが、開封した部員や艇庫番たちはゴム長の使い方が理解できなかった。
そこでイギリス帰りの先輩に詳しく聞いたところ当時のテームズ河では台船が使われていなかったので、練習時に艇を出し入れする者が濡れないように使うものだと判明したのであったが、当時の隅田川沿いのスロープや台船が無い艇庫ではアームから吊るした艇をチェーンを使って下ろしていたが、漕手たちはその作業も練習のうちと考えて取り組んでいるような状況であった。
やがて世界最高水準の美しくニスに塗られた艇は全長約16m5cm、最大幅約72,7cm、全重量120kgの美しい雄姿を現したが、見ていたものたちの中からは思わず感嘆の声があがったが、
艇を浮かべるための台船が無い艇庫も多かったがフィックス艇用の台船からでは舷の高さが低いシェル艇に乗り移るときにはバランスをとり損ねて隅田川に投げ出されたりすることも多く大変な不興を呼んだ結果、その新艇を始めて漕ぐ初漕ぎの名誉はYARCに譲ることになったが、やがて優美な姿は艇庫内に高々と吊り下げられてしまったのであった。
しかし日本のボート界は始めてのスライディングシートに苦労しながらも外人コーチから指導を受けたり英語の指導書を取り寄せるなどの研究を続けた結果、大正2年1913にはYARCなどとの招待レースを開催して実力を蓄える一方で、艇を外国に注文した場合の費用と時間を倹約し国内の造船技術を向上させ日本人漕手にあった艇を建造するという目的から、東京帝国大学の造船、工学関係の関係者を含めた日本の最高頭脳を結集してイギリス製の艇を徹底的に研究し分析し、大正8年1919年3月21日に初めて隅田川造船所が東京帝国大学の注文に答えてイギリス製の艇と同形の6人漕ぎのシェル艇4艇を建造することに成功すると4月12日には東京帝国大学が2マイルの距離で分科レースを行い、医科クルーが優勝し、ここに国内産の新式滑席シェル艇時代の幕が切って落とされたのであった。
明治時代後期の両国橋上流の向島地区両岸には東京帝国大学を始め13団体の艇庫が建設され艇庫村を形作るようになっていたが、大正時代の中ごろには上流に向かって白髯橋の下流右岸の寺島地区に15団体の艇庫が移転して新たな艇庫村を形作っていたが、東京大学、早稲田大学、明治大学の3大学がシェル艇での対校戦を計画したが明治大学は残念ながら人数が揃わず棄権したため本邦初のシェル艇での対校戦は11月23日に隅田川のコースで東京帝国大学と早稲田大学の2校によって行われ、第一回大会優勝の栄誉は東京帝国大学漕艇部にもたらされたのであった。
また漕艇界のシェル艇採用という新しい動きは他のスポーツ界にも影響を与え、テニス競技の硬式球の採用や水泳界にはクロールの採用などにも大きなきっかけを与えたのであった。
遂行済み 8・10
※台船・・・水面ぎりぎりの高さに浮かべて艇の乗り降りを容易にするための桟橋
※初漕ぎ・・・新艇を始めて水に浮かべるときの儀式
※エイト・・・スライディングシート8人漕ぎ舵手1人の9人乗りシェル艇・船底の形状が貝のように丸く竜骨が前部から後部まで外に露出していない艇
※アウトリガー・・・艇の幅を狭くしクルーがキール上に一直線上に並んで漕ぐため、よりスピードが出るように考案された鉄製のオール受け具)
※艇庫番・・・当時は住み込みで食事を作ったり艇庫の管理をしていた人たち
明治時代後期の艇庫があった団体
※ 学校・・・東京高等工業学校(後東工大)、第一高等学校
東京高等商業学校(後一橋大)、明治大学
学習院大学、東京外国語大学
早稲田大学、慶応大学、日本大学
大蔵高等商業学校(後東京経済大学)
東京高等師範学校(後筑波大学)
東京帝国大学(後東京大学)
※実業団・・・日本銀行
大正中期に艇庫があった団体
※学校・・・東京高等工業学校(後東工大)、第一高等学校
東京高等商業学校(後一橋大)、明治大学
日本大学、学習院大学、東京外国語大学
早稲田大学、慶応大学、
大蔵高等商業学校(後東京経済大学)
東京高等師範学校(後筑波大学)
東京帝国大学(後東京大学)
千葉医科大学(後千葉大)
※ 実業団・・・静水会(東京海上保険)
※ 他・・・・・野口造船所
その5、極東オリンピック大会騒動
明治45年(1912)5月16日第5回ストックホルムオリンピック大会に参加するため、日本選手団一行は新橋駅から多くの関係者に見送られて壮途についたが、東京高等師範学校の校長を務めていた嘉納治五郎は一行を見送った6月7日に内閣から欧米各国への出張許可が出たのを受け20日あまり遅れてストックホルムに向かった。
しかし大会も終了し各自が帰国の途に付いた頃、大日本体育協会ではエルウッド、S、ブラウンという人物の来訪を受けたが彼はアメリカYMCA所属でアメリカから独立を果たしていたフィリピンに派遣され体育協会の理事を務めていたが、彼も第1回オリンピック大会の成功に刺激を受けた1人であった。
彼が思いついたアイディアは上海・マニラ・日本の3国で2年ごとにオリンピックを開催するというもので、大会名はアジアオリンピックと決めていたが、上海には日本が開国する前の弘化5年(1848)からイギリスとフランスが占領していた租界でYMCAの宣教師が各種スポーツの指導を行っていたので、今回オリンピック大会に初参加を果たした日本の参加が実現すれば大会は成立すると考えての来日であったので、精力的に大日本体育協会やマスコミなどに参加を説いて回ったのであった。
また大会に予定されている種目は陸上、水泳、テニス、野球、バスケットボール、バレーボール、サッカー、自転車と8種目に渡っていたがその種目はどれもアメリカが得意としている分野であり、スポーツの黎明期であった日本にとってはかなり不利な状況であったのは、当時の日本では大日本体育協会の傘下に陸上部と水上部がある程度で、他の種目が協会を設立して独自の発展を目指すようになるのは大正9年(1920年)6月1日に他の種目に先駆けて日本漕艇協会が創立されてからになるのだった。
また連絡を取りたくても嘉納はオリンピック終了後ヨーロッパを視察中だったこともありようやく返ってきた返事は今の日本にそのような余裕は無いというものだったが、半ば諦めかけていたブラウンを喜ばせる知らせが大阪からもたらされたが、当時関西地方では琵琶湖のボートレースやマラソン大会などが人気を呼んでいたのだった。
それらの大会を主催及び後援していた大阪毎日新聞社は名誉顧問にスポーツ好きとして知られていた京都帝国大学の学長鈴木大麓先生を迎えると、4月には参加選手を全国的に募集し日本最初のクロスカントリー大会を開催すると優勝した選手と、足自慢の社員1名に加えて対戦相手に困っていた明治大学野球部を第一回の極東オリンピック大会に大日本体育協会の承認なく送り出巣ことが出来たのは、大日本体育協会にそれらの問題に対処できる責任者の不在という問題があったからであった。
また財政的危機に常時立たされていた大日本体育協会は支払いが滞ると借金取りが東京高等師範学校に押し寄せたので、対処に困った事務担当者は裏口から逃走することも度々あったが、担当者からこの苦境を聞かされた清一は他の理事や翼参員と協力して経済状態を改善するために手形の書き換えや利子の調達等に奔走していたのだった。
したがって問題の原因が嘉納会長の不在にあると考えた清一は、志立鐵次郎と共に良い解決策を探るべく禮次郎の所に相談に行ったのであった。
「今回は本当に困りましたが、皆さんのご理解をいただき財政的危機は切り抜けることが出来ました。しかし今回のような大会の参加問題が起こったときに会長不在というのでは、日頃から不満を持っている方々の怒りが爆発寸前の所まで来ている状態です。」
「それについては西園寺公からも、折角芽生えた日本スポーツの統括団体を何とかさらに発展させるよう、全面的に協力してやれといわれているのだが何か妙案はないものか。」
やがて清一に促されて鐵次郎が話し出した。
「禮次郎さん。そもそも今回の原因は先の羽田予選会に原因があったのではないでしょうか。」
禮次郎も膝を乗り出して先を促す。
「なんでも短距離に参加した三島選手は当日出場を思いつき願い出るとなぜか許可された。そして優勝したので日本代表に選考されたわけです。」
「それは3人とも会場にいたから良く知っていることだろう。それがどうしたんだ。」
「じつはあの予選会に出場しようとする者は事前に所属団体もしくは市町村長の推薦を得て、10月31日までに申し込み書を発送した者でなければ受理されないと書かれておりましたから、当然三島選手は正式な参加申し込み手続きをしていないわけです。したがって選考に漏れた関係者は嘉納会長が東京帝国大学出身だから贔屓したとか、金栗選手も東京高等師範学校ですからこれまた嘉納先生が贔屓したなどと口煩く騒ぎ立てているようなわけです。」
「それにしても一着だったのは間違いがないのだから、いまさら騒ぎ立ててもしょうがないだろう。」
清一はそのあたりの事情を見ていなかった者の気持ちとして代弁した。
「我々も始めての事ばかりで多少の手落ちがあったことは否めませんが、発送が間に合わずに参加できなかった者の気持ちは分らなくはありませんね。」
「それでこの混乱を収束できる手とはなんだ。」
「実はストレンジ先生の筋金入りの弟子で、アマチュア精神の権化と呼ばれ謹厳実直なおかつ石部金吉を絵に描いたような男が1人おります。しかもこの男は第一回陸上競技会の優勝者で陸上界の第一人者です。したがって会長を補佐する役職として副会長職を設け、この男を体協の副会長にすれば、今後のことを考えたとき同じような間違いは起こるはずがないとみんなが得心してくれるのではないかと考えたのですが。」
「なるほど。副会長職か。それでその男の名前はなんだ。」
珍しく興奮する禮次郎を見ながら、清一は冷静に話し出す。
「でも是には、問題が一つだけあります。」
「問題なんて何とかなるだろう。何時だって解決してきたじゃないか。」
鐵次郎が清一と顔をあわせてから答えた。
「千代三郎です。」
「どっちの千代三郎だ。渡辺か武田か。」
「それは武田千代三郎に決まっているじゃありませんか。」
考え込む禮次郎を見て二人は事の成り行きを見つめていたが、なにしろボート仲間の武田はまじめな性格を生かして官吏になっており遠く離れた青森県の官選知事を務めていたのであった。
「忙しかったのでしばらく武田の名前を聞かないとは思っていたが、なんと青森にいたのか。
よし解った。西園寺公にお話して何とか移動していただくようにすればいいだろう。まず問題なくいくはずだ。
しかし嘉納先生と武田の組み合わせがうまくいくかな。なにしろどちらも当代随一の頑固者だ。二人がぶつかったら多少の出血じゃすまないだろう。しかし、これ以上の妙手も見つからないとすれば、何かあったら清一が体協を纏めるんだな。それしかないだろう。」
こうして難問解決の糸口が見えた3人は安心して楽しい酒を飲むのであった。
やがて青森県から呼び戻された武田千代三郎は、大正2年(1913年)当時帝國海軍の膨張に伴いイギリスを見習って出来た帝國海事協会の評議委員として奉職しながら、嘉納会長をよく助けて
大正10年(1921年)3月まで大日本体育協会の副会長を務めたのであったが、禮次郎が心配したような事態はやがて清一の身にも思わぬ波乱を呼ぶのであった。
推敲済み 8・11
※ 帝國海事協会・・・明治32年(1899年)11月に海
事全般の発達をはかるために創設された。日露戦争での船舶不足を痛感した協会は総会の決議によりイギリスに習って国民から寄付を募り帝國義勇艦隊の建設を決定した。
※協会設立年度・・・大正9年、日本漕艇協会
大正10年、日本蹴球協会
大正12年、日本陸上競技連盟
大正13年、関東ラグビーフット
ボール協会
大正13年、日本水泳連盟
など
※YMCA・・・1844年(弘化1年)産業革命時にロンドンで生まれた働く若者達の祈りの会として誕生した。
(Young Men‘s Christian Association)
※武田千代三郎・・・慶応3年(1867年)~昭和7年
(1932年)福岡県出身 教育者 官吏 東京帝国大学卒業後内閣法制局に出仕同参事官、広島県参事官
長野県警察部長、群馬兵庫県書記官
秋田、山口、山梨、青森県知事を歴任
帝國海事協会 日本体育協会副会長を
経て大阪高等商業高等学校校長事務取り扱い後第6代校長、皇典講究所所長、神宮皇學館第、7代館長などを歴任
スポーツ界の大先達といわれている。
その6、若槻禮次郎再び大蔵大臣に就任
大正3年1914、6月の吉日に出雲学生会が中心となり若槻禮次郎が第二次大隈重信内閣の大蔵大臣に再び就任したことと、昨年来から痛み出した清一の膝関節リュウマチが全快したことを祝う祝賀会が上野精養軒で開かれたが、時は日清・日露両大戦に続いて再び日本が第一次世界大戦に連合軍側として参戦し中国に進出し始めた時期であり、世の中の経済状態は大戦景気に沸きかえるという危うげな時代を迎えようとしていた時でもあった。
日本は本当に列強の仲間入りを果たしているのかと思いながら、祝賀会の終わった後の軽い疲れのまま帰りかけた清一は、禮次郎から誘いを受けて禮次郎の自宅まで向かったのだった。
「どうしたんです。禮次郎さん。お疲れのご様子ですが。」
「俺のことは取るに足りないことだが、まあ座れよ。久しぶりにゆっくり一杯やろう。それより膝の様子はどうなんだ。このところさしもの清一もすっかり大人しくなったともっぱらの評判だぞ。」
「それはそうです。気がつけば私も人生の半ばを迎えた48歳になりましたから、今後の人生は付け足しのようなものですね。」
「それは俺も同じようなものだが、以前西園寺公の勧めもあり大蔵次官を辞任し勅選議員となったが第二次桂内閣の総辞職と共に全くの浪人となっていたんだ。久しぶりに楽しい時間を過ごし好きな漢詩が書けるのも雑賀町の澤野先生のお陰だと感謝して学問のありがたさをしみじみと感じたものだった。
しかし急遽桂公からヨーロッパに行こうと呼び出しがあったので、その時は桂公の通訳ぐらいだろうと軽い気持ちで引き受けたのだが、そこからが本当に大変だった。」
「それはいったいどういう訳ですか。」
「人に言うなよ。清一だから話すんだからな。」
「禮次郎さん。いまさら何をおっしゃいますやら。弁護士稼業には秘守義務がつき物です。私は口の堅さでは業界一ですよ。」
「それは失敬した。実はヨーロッパ行きの話が来たあとで西園寺公から手紙が来たが、鉄道の国有化が完成した祝賀会を開くから駿河台の屋敷に来てくれのことだった。」
「非公式にお屋敷に御呼ばれするなんてただ事じゃありません。よほどのことでもあったのでしょうか。」
「そこで行ってみると主賓は桂公でこのたびヨーロッパに行くにあたって、送別の宴を西園寺公が開いたものだと感じた次第だが、今回の漫遊は間違いなくオリンピック大会が平和に対してどのような貢献ができるかという観点からオリンピック大会を視察する手配をする事が私に与えられた使命であったのだ。
また私が知っている政財界の方々に桂公を紹介しながら政党政治の意義を深めていただくことと同時にロシアの政府筋と領土面で禍根を残さないように腹蔵なく話し合って今後の日露関係を改善しておきたいとの狙いもあり、このことはすでに明治天皇に内奏してあるとの事であった。」
ここまで話をした禮次郎は遠くを見つめて静かに杯を口に含んだが、聞いていた清一は意外な成り行きに言葉もなく聞き入るのだった。
しばらくして杯を置いた禮次郎が再び話を始めた。
「しかし当時の私は浪人中だ。しかもただ行くだけならどんな格好でもかまわないが、桂公はロシアの皇帝やドイツ留学中に親しくしていたカイゼルと呼ばれていたドイツ皇帝にぜひ遊びにこいと言われているそうだから、それらの方々に謁見したり大国の大官や要人に会うのであれば大礼服を着用しなければならないとの事であった。
しかし私には資格もなく大礼服も持っていないのだ。どうする。」
問われた清一には全く理解できなかったのは、これまで政治に興味を覚えたことも四十曲峠を越えて以来一度もなかったからであったが、返答に困る様子を見た禮次郎は楽しそうに峠の宿で話した事を懐かしそうに話すのであった。
「また私はその後桂公の特別の計らいで・きんけいのましこう・にしていただいたのだ。」
「きんけいのましこうとは一体全体何のことです。私には全くわかりません。」
「そうだな。錦鶏間紙候と書き功労のあった華族や官吏に与えられた名誉職で時々宮中にある錦鶏間に上がって天皇陛下のご質問などにお答えするので金ぴかの大礼服の使用が認められているという訳だな。」
「そうですか。そんな役職があることさえ知りませんでした。全く驚きです。」
「しかし桂公はそれらの大願を抱いて渡ったモスクワに着いた途端に明治天皇御大患の報に接し、外遊を断念して急遽引き返されたのでそれらの望みは遂に実現することは無かったのだ。まさに千秋の恨事であったろう。」
「そんなことがあったのですか。それで禮次郎さんは第三次桂内閣の大蔵大臣に就任し、桂公の立ち上げた立憲同士会に入党したのですね。そろそろ明治の元勲たる9長老の藩閥時代が終わり新しい国民に開かれた政党政治の幕開けがすぐそこまで来ているのではないかと、最近の憲政擁護運動の高まりを見て感じてはいました。
それにつけても最近の軍関係者の横暴ぶりは目に余りますし、いよいよさらに激しい世界大戦に突き進んでしまいそうで心配ですね。この世界大戦だってどうなるか誰も解っていないのじゃありませんか。」
こうして禮次郎と清一は朝まで杯を重ねるのであった。
推敲済み 8・11
※9元老・・・明治維新に功のあった実力者で日本の首相を 決定できる権限を持っていた。山県有朋、井上馨、松形正義、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎、黒田清隆、伊藤博文
※憲政擁護運動・・・明治維新以後から大正時代にかけて日本の政治は元老といわれる彼らによって仕切られていたが、新しい時代を迎えた国民はこのような藩閥政治を批判し憲法による開かれた民主的な政治を望んでいた。
第12章、生まれ変わる大日本体育協会
その1、岸の登場と協会副会長
大正5年(1916年)第一次世界大戦の影響を受けて第六回ベルリンオリンピック大会は、関係者の努力もむなしく急遽中止と決まったので、大会視察を兼ねてアメリカに渡っていた清一もむなしく帰国の途についたが、帰国早々彼は驚くような事態に直面したのだった。
大日本体育協会は設立後存続のための費用は寄付金と維持金によって成り立っていたが、初めてのオリンピック大会参加を契機に国民のスポーツに対する関心が増大すると各種大会数は大正二年から四年にかけて大幅に増えたので予算不足を招いたこともあり第3回極東大会開催はさらに多くの問題を呼ぶことになってしまったのだった。
また東京開催を求められたことにより大日本体育協会の嘉納会長は開催の可否について進退極まるまでに追い込まれたが、副会長に就任した武田のことを気にかけていた鐵次郎と清一は打開策を検討するために、協力して禮次郎のところに武田を誘い出したが久しぶりに会った武田千代三郎は心労の深さを示しているようにまるで生気が失われていたのだった。
「やあ。元気そうじゃないか。」
「若槻さん、お久しぶりです。」
「挨拶はそのぐらいにして、ここはとりあえずビールでしょう。」
「これは気が利かないことで、誠にすまん。」
かつてのオアーズマンたちは互いに離れていた時間は瞬間にして消え去り、懐かしいボートレースのことなどを思い出しながら胸の中には温かなものが溢れてくるのだった。
しかし何時までも思い出話で終わるわけには行かず、鐵次郎が口火を切って用件を切り出したが千代三郎は語らず、また清一も語らなかったので、とうとう禮次郎が話の口火を切った。
「ところで協会のほうはどんな様子だ。聞けば嘉納先生ともいろいろと意見の食い違いがあるそうで心配しているところだ。」
「嘉納会長とは意見の違いといっても両方正しいことを言っているわけですから世間で言うようにそれほど問題ではありませんが、何しろこの頃は大会開催数を増やせとか極東大会に積極的に参加しないのは如何なものか、あるいはもっと自由に国際大会に参加させてはどうかという意見が多くの競技関係者から出ており困っております。
しかし嘉納会長はご存じのとおり予算化出来ないものは参加しないというご意見ですから、当然IOC委員である嘉納先生は極東大会よりオリンピック大会に参加することに意義があるとお考えで、極東大会参加問題は本当に手詰まり状態になってしまいました。」
何気ない武田の言葉には苦悩の深さが表れているようであったが、気が付くと皆同じような目をして清一を見ているのだった。
遠く父の姿を思い出しながら清一は覚悟を決めると、千代三郎の目を見て強く言った。
「千代三郎。後のことは心配するな。俺に任せておけ。」
武田の両眼から涙が滴り落ちた。
それは大日本体育協会副会長に清一を推薦することによって、とりあえず経済危機を回避すると言うものであったが、開催時期の問題でその前に膠着した第3回極東選手権大会問題を解決するために、大日本体育協会副会長就任はとりあえず先延ばして嘉納会長が難色を示していた外国人に有利な種目やルールなどのルール変更をおこなうことで、今回は主催国の襟度を示しながら次回から次第に日本の要求を受け入れさせた規則の改正を条件に開催を決定したのであった。
さらに極東大会を成功に導くために留学時の知人である林愛作が各種レセプション会場の提供が可能な帝国ホテルの支配人に就任したことを知ると宿泊等の協力も取り付け、資金面では三越デパート専務の朝吹常吉に日本スポーツを代表する協会の困窮を訴えてスポンサーとしての援助を依頼したのであった。
そして嘉納会長と両者の内諾を得て大日本体育協会理事会では正式に東京開催を決定したが、今回は寄付金を募る行為を特に工夫し大会終了後に余剰金が生じた場合は寄付金の額により利益金を割り戻すことを決めた上で、大正6年(1917年)5月に極東体育協会の副会長に推薦され就任すると、極東大会を実質的に取り仕切る競技委員に就任し第三回極東選手権競技大会は5月8日より12日まで東京芝浦埋立地において、名誉会長大隈重信の祝辞、会長嘉納治五郎の開催の辞によって盛大に開催されると日本が初めての総合優勝に輝き国民は熱狂的に歓喜の声を上げたが、さらに余剰金が寄付者に割り戻されたことで国民に圧倒的な好評を博したのであった。
やがて大会の成功を見届けた武田千代三郎は、副会長の任期を3年残したままの大正7年(1918年)4月に教育者への道を進むために大阪高等商業学校へ去っていったのであった。
推敲済み 8・15
※三越デパート・・・越後屋三井呉服店
※林愛作・・・明治30年(1897年)アメリカのワシントン留学当時の知人でニューヨークで山中商会という古美術商の支店長をしていた林愛作が米国滞在10数年を経て明治42年(1909年)8月18日に帝国ホテルの財政的再建を任されて支配人に就任すると、経営を立ち直らせる事に伴って大正5年(1916年)3月、帝国ホテルのライト館と呼ばれた新館建設にあたって国際弁護士として林愛作とフランク・ロイド・ライトの間で交わされた契約を成功させた。
※朝吹常吉・・・明治30年アメリカ経由でイギリスに留学した当時知り合った三井連合の重鎮で、元内閣総理大臣、早稲田大学総長の大隈重信侯爵とも非常に親しく三井工業部の理事をしていた朝吹英二の長男常吉が父の三井呉服店専務理事の後を受け三越デパートの専務をしていたが明治40年(1907年)には三井銀行と三越デパートが隅田川で三井連合端艇競漕会を開いたりするなどボート競技を通してスポーツに理解を示していた。
その2、驚きの岸育英事業創設
大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発し日本も中国に進出する形で戦争に参戦していたが、海外での戦争であるため日本国内は比較的平穏に過ぎていった。
大正6年(1917年)5月上旬には極東大会を盛り上げるように東京活動写真が帝国大学ボートレースという作品を上映するなどボートレースの人気はさらに高まったが、8月4日には琵琶湖の大津で第15回全国中等学校競漕大会が開催され滋賀師範学校と米子中学が優勝を果たすと清一は大会終了後久しぶりに帰省を果たしたのであった。
当時の島根県では小学校を優秀な成績で卒業しても貧しい家庭では学費不足から中学校への進学を諦める生徒が多かったので、今回の帰省は母校の雑賀小学校から何らかの経済的支援の手を差し伸べることは出来ないかという陳情を受けたものだった。
そこで清一が支援の方法としてとった方法は学費の貸与ではなく、当初松江中学を卒業するまでの学費一切を給与するというものであったが、これは彼自身も恩恵を受けた松平伯爵の教育尊重学生補助の壮挙とこの制度を継承して成立した出雲育英会と大きく異なっていた点は、学費の貸与を受けた者は卒業後に返済すれば関係が終了すると考える者が次第に多くなっていったことを憂慮した結果であり、真実の報恩とは成功後も出来るだけ多くの後輩たちに私財を提供して彼らを大成させることがやがて国家のために繋がると信じていたからであった。
したがって清一は給与制度を慈善行為ではなく英才を育英する行為であると位置づけ、私財を投げ打って設立したので選考するための資格標準は非常に高かく給与を受けることが出来る条件としては次の3つが挙げられたのであった。
○ 将来有望の青年
○ 学資に乏しき者
○ 出雲国内に本籍または住所を有する者
また大目的としては、将来国家有用の人物に成長することを挙げ、資格には次の6つが挙げられたのであった。
○ 遺伝的疾病が無く身体強健なるもの
○ 意志強固にして堅忍剛毅の精神に富めるもの
○ 頭脳明晰にして才幹あるもの
○ 素行端正にして親に孝行なもの
○ 性質誠実にして同級生に人望あるもの
○ 父母の性質善良なるもの
これらの資格は秀才と呼ばれる者に対する清一の理想であり、当
時社会が望んでいた青年像を色濃く反映していたものであったが、今日の青年像と大きく異なる点は将来の日本を背負ってたつ青年に対する期待とそれに答えようとする青年の気概が感じられる点が伺われることであった。
そしてついに岸育英事業は大正8年(1919年)4月より開始され次第にその規模を大きくして行ったが、大正8年から昭和14年までの21年間でその恩典に預かった者の人数は、松江中学、大社中学、三刀屋中学の3中学校と、松江高校、山口高校、神戸高校の3校、東京大学法学部を初めとする各種学部学科13校以上で実に546名に上っているのだった。
遂行済み 8・17
その3、ついに日本漕艇協会創立
日本がオリンピックに初参加してから第一次世界大戦で中止になったベルリン大会をはさんで8年ぶり2回目の参加となった大正9年の第7回アントワープオリンピック大会は、戦火で疲弊した人心にスポーツの力で希望と競技施設建設により景気回復を図るという側面もあった。
また日本からの参加種目は陸上競技と水上種目として水泳競技が参加し他国の実力を見ることになったので他競技の関係者を羨ましがらせたが、特に早くからボート競技に取り組んでいたボート競技の関係者の落胆は一段と大きかったが、当時の大日本体育協会は外国のように各競技団体が協会に加盟して派遣種目を決定する制度とは異なり、陸上部と水上部のみだったので派遣種目も道具運搬等に費用のかからない両種目に限られていたのは、嘉納会長が国民の体力向上のために費用がかからず手軽にできるスポーツとして高等師範学校の生徒にも陸上競技と水泳を推奨していたことにも関係があったからである。
一方世界のボート関係者は1829年(文政12年)にイギリスでオックスフォード大学とケンブリッジ大学の間で対校レガッタが行われたことに端を発し、十年後の1839年(天保10年)にはテームズ川で行われていたヘンリーレガッタの参加資格にあらゆる競技に先駆けてアマチュア規定が盛り込まれると、アマチュア選手とプロ選手の決別が他競技にも大いに影響を及ぼしたのであった。
さらに1871年(明治4年)にアメリカで大学の漕艇協会が結成されると2年後にはアメリカで全国アマチュアオアーズマン協会が結成されたので、それに刺激を受けた本家イギリスでも1882年(明治15年)アマチュア漕艇協会が設立され翌年にはドイツ漕艇競技連盟が誕生したのであった。
また1890年(明治23年)にはイギリスを代表するボート協会が結成されたことで、1892年(明治25年)国際ボート連盟が創立された結果、第一回アテネオリンピック大会こそ適切な漕艇場がなかったのでレースが開催されなかったが、第二会パリオリンピック大会からはボート競技が正式にオリンピック種目に加えられたので、日本のボート関係者の共通の夢となったオリンピック大会への参加するために日本漕艇協会の設立を図り大日本体育協会に加盟するべきであるとの意見が、隅田川の向島地区に艇庫を隣接して設置していた各大学の間でにわかに高まっていたのでる。
そして国際競漕力をつけるためにフィックス艇が主流である全国の漕艇関係者にもシェル艇への変換を求めていくために、日本漕艇協会の設立に当たり精力的に各大学を斡旋していたが極東大会を成功に導いた彼は大正8年(1919年)大日本体育協会の規約改正に伴い新たに理事として迎えられようとしていた。
一方大正9年(1920年)6月1日には東京帝国大学の呼びかけに応じて、帝大キャンパス内の山上御殿で他競技に先駆けて日本漕艇協会の創立のために7大学が集まり結盟式をあげると初代漕艇協会の会長には清一が就任したのであった。
そして弁護士として多忙を極めていたため日本漕艇協会の会長に就任することを理由に林愛作と朝吹常吉を大日本体育協会理事に推薦すると、彼は大日本体育協会の会計監督担当理事と日本漕艇協会の会長としてボート競技のオリンピック参加をめざして邁進していった。
そこで漕艇協会は昨年11月23日に初めて行われた東京帝国大学と早稲田大学の6人漕ぎシェル艇の対校戦や、9月23日瀬田川で行なわれた日本初の8人漕ぎシェルエイトを用いた京都大学と東京帝国大学の対校戦を受けて、協会創立後の初事業として10月23日~24日まで第一回インターカレッジ競漕大会を隅田川で開催したことによって急速にシェル艇時代へと移り変わっていったが、参加校は漕艇協会の創立に加わった7校のうち東京師範学校と東京外国語大学の2校がシェル艇の建造が間に合わず運営面で協力することになったのであった。
推敲済み 8・18
※ 山上御殿・・・・・・旧加賀藩内育徳園の築山に移築され
た江戸時代の木造建築で会議室として使用されていた。現山上会館
※ 結盟式参加大学・・・東京帝国大学 早稲田大学
東京高等商業学校 明治大学
東京高等工業学校
東京外国語学校
東京高等師範学校
その4、極東体育協会脱退とママチュア資格を巡る大騒動
先の第3回極東選手権大会終了後正式に極東体育協会に加盟を果
たした大日本体育協会は、かねての思惑どおり偏ったルールや開際
期間を是正すべく大正8年1月にフリッピンに交渉を開始したが、
5月開催では参加学生の学業に支障が生じるので夏期休暇中の8月
に変更してほしいという希望はフィリッピンと中国からの同意を得
られなかったので、3月に開かれた理事会において以下の理由を挙
げて正式に極東体育協会を脱退したのであった。
1、5月開催では学生選手の学業に支障が生じること。
2、文部省と外務省が日本の参加を望まないこと。
3、第5回大会が中国で開催された場合に日中間で紛擾(ふんじょう)を生じる恐れがあること。
また翌年には第7回アントワープオリンピックが開催されることから、嘉納会長は2年連続の海外試合に選手団を派遣することが財政をさらに逼迫する恐れがあるためオリンピック参加を最重要事項と考えていたからだったが、この突然の発表は大会に向けて懸命の努力を続けていた選手と指導者たち全てに大きな衝撃として伝わったので各地で非難の声が燃え上がり始めたのだった。
この事態に慌てた協会は以前にも単独で極東大会に参加した実績を持つ大阪の大日本体育協会西部支部に、特例として日本青年運動クラブという派遣団体を作ることを認めたので、西部支部では広く関西方面に寄付を呼びかけ17名の選手を含む選手団をフィリッピンの首都マニラに派遣したが、第4回極東選手権大会選手団はマニラの在留邦人が集めた寄付金で滞在費の一切を負担してもらった他に、東洋汽船と日本郵船も積極的に支援の姿勢を打ち出し船賃を半額に割り引くなどの便宜を図ってくれたのであった。
しかしこの時の苦肉の処置は、以前から協会の方針に異議を唱えていた日本青年運動クラブが帰国後解散せずに単独で極東体育協会に加盟申請を行い認められるという問題に発展し、国内に日本を代表する団体が二つ存在する異常事態が起きたが、さらに協会を困惑させるような問題が第7回アントワープオリンピッック大会出場を目前にして発生した。
それは前回行われた羽田の予選会で噴出した出場資格問題の再燃で、今回再び同じような過ちが起これば、大正8年(1919年)5月から各大学の運動部が大日本体育協会の組織改造を求めていた問題と併せて、大日本体育協会の存続すら危うくなるような危機的状態だったので、協会では慎重にIOCのアマチュア規定を元に厳正な参加資格を決定し周知徹底を図ったが、その規定は世界のスポーツ界から大きく遅れたものであった。
すなわち天保10年(1839年)イギリスのテームズ川で行わ
れたローヤルヘンリーレガッタで定められたアマチュア規定は、公
平を期すために漕艇競技のプロ選手がクルーになることを禁じたも
のであったのに対し、第一次世界大戦後はプロではないアマチュア
の職業は問わずに専門的に指導している者に規制をかけるようにな
っていたが、当時の日本では予選会のアマチュア資格では人力車夫、
牛乳配達夫、郵便配達人及び荷車を引いて運搬を手助けする魚屋の
引き子などを脚力を用いる生業と規定し認めていなかったが、IO
Cの規定ではそのような規定や年齢制限も無かったが日本の予選会
ではその二つが盛り込まれていたのであった。
つまり文化を輸入した国では本家よりその文化を忠実に守ろうとする気風が生じるのに対して、輸出した国はいち早く時代の変化に合わせて変化していくが、スポーツを輸入した日本ではスポーツが当初学生を中心に広まったのでアマチュアは学生でありそれらに似た職業に従事している者をプロという判断がなされたのは、当時の学生がスポーツを継続して行うのではなく学業の余暇に行っていたからであった。
当初の第一次予選会は準備不足から東京と大阪の2ヶ所だけで行う予定であったが、国内各地からの熱烈な要請を受けて次の10ヶ所で参加者三千余名の参加者が集まり行われることになった。
主催または後援
○東京・・・・4月17~18日 大日本体育協会
○大阪・・・・4月11日 大阪支部
○福岡・・・・4月10~11日 福岡日日新聞
○広島・・・・4月10~11日 広島体育協会 中国新聞
○松江・・・・4月18日 松江連合青年会
○岡山・・・・4月10~11日 中国民報
○名古屋・・・4月4日 名古屋新聞
○新潟・・・・4月10~11日 新潟市体育協会
○仙台・・・・4月10~11日 東北帝大運動部 朝日新聞
○札幌・・・・4月17~18日 札幌農大遊戯部 小樽新聞
また二次予選は全国から選ばれた201名が集まり4月24日から25日にかけて駒場の東京帝国大学農学部競技場で行われ、水上競技大会は4月22日から23日にかけて2万5千株の花菖蒲と美しい松並木と桜並木が有名であった神奈川県生麦にある三笠園の淡水100mの池に造られた特設コースで行われたのであった。
そして嘉納会長以下役員3名と陸上競技11名、水泳競技2名、庭球競技2名の合計19名の選手団が8月4日からベルギーのアントワープで開かれた第7回オリンピック大会に参加したが、初めて採用されたアマチュア資格は当時の日本人自らの手によって忠実に実行された結果、大正9年(1920年)11月に行われた第8回陸上競技大会のマラソン競技では1位から5位までの選手が職業についていたとして除外すると6位の学生選手を優勝者と発表したので、彼らの憤りにアルバイトをしながら陸上競技を行っていた学生達や新聞記者たちが加わり、ついに浅草千束(せんぞく)町で日本体育競技会という新団体を立ち上げ大日本体育協会と全面対決を招く事態にいたると、それら騒擾のようすが各新聞社によって社会面で大きく報じられた結果大日本体育協会はさらなる苦境に立たされてしまったのであった。
推敲済み 8・19
その7、ついに嘉納会長辞任
嘉納会長がまたしてもオリンピック大会に選手団を引率して出かけている最中に沸きあがった諸問題は大正10年2月21日に嘉納が帰国してからも連日新聞各紙の社会面を賑わしていたが、それら新聞を眺めてはビールを飲みつつ深い溜息をついているのは禮次郎と清一であった。
「禮次郎さん。またしても問題が起きてしまいましたがこのままで大丈夫でしょうか。例の連絡はまだ来ていませんか。」
「問題はそこだな。実は先日杉村から電話がかかってきて嘉納先生が会いたいとおっしゃっているそうなので、明日二人で千葉県の我孫子駅にお伺いしますと返事はしておいたんだが。はたして杉村と先生との間でどのような話になり、また嘉納先生がどのように協会の改造について決断を下されたのかは皆目わからん次第だ。
まあ行ってみれば解るだろうが。」
「そうですね。かねてから世界情勢にも明るく協会のあり方について嘉納先生から随分とご相談も受けていた杉村のことですから心配はないと思うのですが。
それにしても杉村は身長180cmを越える巨漢で鋭之助さんと同じように極めてボート選手として恵まれていましたね。記憶では明治38年(1905年)4月8日、例のバルチック艦隊を撃破し旅順の要塞が落ちた年の第19回東京帝国大学の競漕大会に一年生ながら法科の3番として出漕していましたよ。」
「そうだったな。あの大会は医科と法科の大接戦が墨堤の観客を魅了し、明治35年の大接戦と並び称された名勝負であった。
翌年も2年生で法科の3番を務め、とうとう最後の分科競漕で悲願の優勝を成し遂げたんだが、一年生から対校クルーに乗るとは本当にすごい漕手だった。」
「しかし杉村のお父さんが外交官としてブラジルに赴任したため、嘉納塾に預けられ第一高等学校では水泳部に所属し二年からボート部に転部し相当に鍛えられたそうです。だから一年生で対校クルーに乗ることが出来たというわけです。
また惜しいことに彼のお父さんがブラジルでなくなられた関係でその後試合に出なくなったことは非常に残念なことでした。
しかしその後外交官試験に合格し、柔道もかなりの猛者に成長して嘉納先生には非常に可愛がられているそうですよ。」
「したがって外務省としても非常に期待し日本の将来を担う者になってほしいと考えているんだ。また彼の人脈と語学力は大日本体育協会にとっても得がたいものだから嘉納先生にも協会の理事として推薦しているところだ。彼のような若手が出てこそ嘉納先生と我々の夢でもある東京でオリンピック大会を開催することが近づいてくるはずなのだが。」
やがて夜が明けて二人は常磐線に乗り込み千葉の我孫子駅に降り立ったが、車中ではボートレースやマラソンに刺激されたボート部の選手たちが、隅田川から銚子までの遠漕コースを開拓したりした話で盛り上がった。
特に一橋大学のボート部が明治31年(1898年)隅田川から銚子までの遠漕航路を開拓すると、各大学も競って遠漕に行ったがOB達も率先してモーターボートで伴漕したり先回りしては食料品などを届けては部員達を励ましたのだった。
また銚子遠漕と呼ばれた航路の途中で江戸川の上流と利根川を結ぶ利根運河の建設計画は明治20年(1887年)帝国大学の第一回ボートレースより一週間前の4月10日に、隅田川に掛かる厩橋の近くにある料亭八百松楼で千葉と茨城の有志による利根運河株式会社の発起人会が開かれたことに始まり、日本最大の運河建設計画は当時学生だった清一達の関心時で、計画によれば江戸川から利根川まで現在の流山、野田、柏の三市を通る全長約8、5kmの難工事で明治23年(1890年)3月に完全完成した。
これにより各校のボート部は隅田川から江戸川に漕ぎ入れ松戸のえびや旅館に宿泊する場合と上流の流山市にあった最大の難所を漕ぎ抜き利根運河にある新川旅館に宿泊する場合があったが、この難所は急流のためいくら漕いでも岸辺の光景が変わらず、漕手泣かせの流山と遠漕歌でも歌われたが最後まで漕ぎ抜くことで精神練成に役立ったので、この遠漕が一人前のボート選手を作ったとも言われていた。
やがて利根運河にはいると緩やかな流れのなかで荷物輸送の高瀬船や蒸気船とすれ違いながら利根川に入り、取手か木下(きおろし)で一泊してから水郷潮来か銚子まで漕ぎ進んだが、時には予備オールとシーツで作った三角帆に風を受けてのセーリングを楽しんだりもしたのだった。
また利根川が大きく左にカーブする布佐や木下のあたりでは上流から流れてきた土砂による浅瀬に差し掛かると、艇が乗り上げるので漕手はフィックス艇を降りて艇を押しながら浅瀬を乗り切る事が多かったが、銚子では大新旅館で宿泊して英気を養ったが時には芸者さんを交えた宴会の後再び同じ航路を漕ぎ戻るか、艇を蒸気船に曳航させてから漕手は蒸気機関車に乗って隅田川の艇庫に帰ってくることもあったが、これらの遠漕はボート部員にとっては最大の難行でありながら美しい風景や橋の上から手をふる女子学生に声援を送られるような思い出も多く大きな思い出の一つとも言われていた。
しかし鉄道網の発達に伴い荷物が鉄道に奪われるようになると、水害による水門の破損などが追い討ちをかけ利用者が激減したので利根運河はとうとう昭和16年にその役割を終えてしまった。
かつてボート部の漕手たちが高らかに歌を歌いながら漕ぎ進んだ利根運河は現在では通水が終了し船舶の通行は行われていないが、日本最大の運河遺跡としてその姿を残している。
やがて我孫子駅に着くと杉村が迎えにきていた。
「お久しぶりです。若槻先輩も岸先輩もお元気そうで何よりです。
嘉納先生も少々お疲れのようすではありますが、首を長くしてお二人を待っています。」
はじめて我孫子を訪れた二人は自然が多く残っている光景に感嘆の声を上げながら杉村に案内されて、駅の東口から柏方面に向かうと左手に広く開墾されていた白山という小高い場所についた。
「杉村君。ここがイギリス型の寄宿舎タイプの学園都市建設を嘉納先生が夢見ておられた嘉納後楽農園かね。」
禮次郎が杉村に尋ねるのを聞いて、清一は我孫子が北の鎌倉と呼ばれ白樺派の志賀直哉や武者小路実篤その他多くの作家や文化人達が別荘を持ち交流を行っていたことは知っていたが、そこに嘉納先生の壮大な夢との繋がりがあったことに驚きを隠せないでいた。
また清一は明治38年7月19日に東京市芝区伊皿子70番地に約543,9坪を購入し自宅としていたが、その土地はボート仲間の1人で日本の歯科医師第一号の小幡英之助の友人でアメリカ帰りの高山紀斎が、東京市芝区伊皿子町に日本初の歯科医養成学校である高山歯科学院を創設した時の隣地で高山紀斎の住居であった。
また我孫子駅前にある、かど屋旅館の長男で現在は高山紀斎から学院の運営を譲渡され神田小川町に移転して名前を東京歯科医学院に改めた血脇守之助が嘉納の友人で、時にはかど屋でオリンピックの講演等を行なっていたことを知っていたため今日はかど屋で一席設けられるのだろうと予想していたが、面談は嘉納の別荘で行われるようであった。
「実は明治44年ごろから嘉納先生が順次土地を購入し今では約2万坪ほどもあるでしょうか。
また嘉納先生の計画では視察で訪れたイギリスで伝聞した寄宿舎型の学校をここに作り、将来の日本を背負って立つ若者を育成するという夢でもあったのですが、私も在籍し大変お世話になった嘉納塾は残念ながら大正八年に閉塾したため、ここで理想の学園作りを希望されたようですが予算面で政府の理解を得ることができず中止された時の先生の嘆きは大きいものがありましたが、先生は嘉納塾再開の夢を重ね合わせていたのではないでしょうか。
現在では農園と言う形を借りた学びの場としてほぼ開墾は終わり、特別に改良したカボチャに嘉納後楽農園のラベルを張り他のカボチャとの差別化を図るなどの工夫をして販売しています。」
やがて三人は当初校門として作られた正面入り口の両側に植えられた二本ずつのヒマラヤ杉と椎の木が大きくそびえている所で立ち止まったが、奥まで続く道幅約50mの両側には4重に植えられた樹木が美しく刈りそろえられていた。
「農園を見学していかれますか。それとも別荘に行かれますか。」
杉村の問いかけに清一は夢半ばに終わった嘉納先生を思って答えた。
「嘉納先生もお待ちかねだろうからここは後日に回させていただいて、手賀沼を見下ろすという別荘に急ごうじゃないか。」
禮次郎も同じ思いで杉村に先導されて手賀沼に通じる坂を下り始めると、木々の間からキラキラと湖面を輝かせて風が渡っていく風景に思わず足を止めた。
「おお清一。この光景はまるで松江の宍道湖を見るようじゃないか。おまけに遠くには大山がくっきりと雪を戴いておられる。」
「禮次郎さん、あれは正真正銘の富士山ですよ。」
二人の話を面白そうに聞いていた杉村が湖畔に近づくと坂の上を見ながら言った。
「この天神坂を少し上った右手に見える瀟洒(しょうしゃ)な2階建ての洋館が嘉納先生の別荘で、反対側には先生の甥ごさんで民芸運動を起こし思想家で美術評論家の柳(やなぎ)宗悦(むねよし)さんの三樹(さんじゅ)荘(そう)がありますし、柳さんの友人でイギリス人陶芸家のバーナード、リーチも創作活動をしておりました。また手賀沼沿いを少し歩いたところには志賀直哉先生の別荘もありますよ。」
杉村の説明を聞きながら二人が石段を登っていくと、門前には嘉納先生が立っているのだった。
「先生、ただいまお二人をご案内してまいりました。」
「杉村君ご苦労様だったな。早速で悪いが準備をしてくれたまえ。」
杉村が軽く会釈して奥に回っていくと、丁寧な二人の挨拶をさえぎるように嘉納は二人の手を握りながら屋内に案内するのだった。
「やあやあ。お二人には随分とご足労をかけてしまった。今湯の準備をしているから、一風呂浴びてきなさい。話はそれからだよ。」
風呂に案内されると外から湯加減を聞く杉村の声が掛かった。
さすがに嘉納塾で躾られている杉村の心配りは行き届いていたが、久しぶりに男二人で湯に入ると童心に帰り疲れた体を癒すのであった。
「嘉納先生、お先にご馳走になりました。素晴らしい湯加減でした。」
禮次郎が浴衣に着替えて汗を拭きながら声をかけると、嘉納は縁側のガラス戸を大きく開け放ったまま手賀沼を見ていた。
やがて清一が上がるころには酒肴の準備も整いつつあったが、忙しく立ち働いていた杉村に嘉納が振り返っていった。
「杉村君、準備はそれぐらいにして落ち着いて一杯いこうじゃないか。」
「解りました。それでは失礼させていただきます。」
それぞれが席に着くと話題は学生時代のことからボートレースや柔道の話しから始まり国内外の情勢から今回のオリンピック大会に及んだところで、一枚の地図が畳に広げられると目ざとく覗き込んだ清一は感嘆の声を上げたのだった。
「おお。これが学園の設計図ですね。なんと手賀沼にはボートハウスやボートコースの位置までが記入されているではありませんか。さっきから私もこんな所でレースが出来たら素晴らしいと思っておりました。どうですか禮次郎さん。」
「かつてこの計画について政府内で検討されたことは聞いていたが、これほどまでに完成度の高いものであったとは。
正直驚いたよ。」
「そうですね。これはまるでイギリスのパブリックスクールが手賀沼に来たような感じです。まさにスポーツが学生を育てるというイギリスのアスレティシズム思想そのものを具現化したようです。
またすぐにでもオリンピック大会が開けそうじゃありませんか。」
嘉納はニコニコと聞いていたが、突然居住まいを正すと清一に向かって深々と頭を下げるのであった。
驚いた清一はしきりに嘉納の手を取ると頭を上げてくれるように頼んだが、禮次郎と杉村は何かを感じたように黙って二人のやり取りを聞いているのだった。
「岸君。大日本体育協会をよろしく頼む。スポーツの力で日本の若者を救ってほしい。そしてオリンピック大会を東京で開催し日本を救ってくれたまえ。私はこのまま戦争に突き進むと日本が世界の孤児になってしまう事が心配でたまらんのだ。」
嘉納治五郎にここまで言われた清一には断る理由などあるはずが無かった。そしてついに大日本体育協会の2代目会長に岸清一が就任することで、日本の近代スポーツが夜明けを迎えることになるのだった。
推敲済み 8・20
※杉村陽太郎・・・明治41年に東京帝国大学法学部卒業後外務省に入省。大正12年駐フランス大使館一等書記官をへて昭和2年国際連盟事務局長に就任。昭和8年にIOC委員に選ばれ、1940年東京オリンピックの招致に尽力したが、病気のためIOC委員を辞任した。講道館柔道6段。フランスの柔道普及に努力したといわれる。
※嘉納塾・・・明治15年2月23歳の時に親類や友人から預かった子どもと書生を、有用な人材に育成するために開いた私塾
※高山紀斎・・・岡山県出身慶応義塾卒業後アメリカで歯科医科学を学んだ後高山歯科診療所開業。高山歯科医学院は後の東京歯科大学で小幡英之介たちと日本歯科医会設立 初代会長
※アスレティシズム思想・・・イギリスで生まれた身体活動(スポ
ーツ)を通して人格形成を行おうという思想
第13章、近代スポーツの曙
その1、会長としての初仕事
大正10年(1921年)3月8日に嘉納治五郎は名誉会長に就任し54歳の清一が大日本体育協会の2代目会長に就任すると、協会事務所は京橋区宗十郎町一番地にあった2階建木造モルタル造りのモダンな岸法律事務所一階玄関を入った左側の一室に移転したのだった。
この建物は都電銀座4丁目の停留所から都電通りを新橋方面に約2分程歩いた所の亀屋洋酒店の角を電報通信社のほうへ入った通りにあったが、付近には他の法律事務所や時事新報社、朝日新聞社、国民新聞社などが立ち並んでいたため各新聞社の運動記者には非常に好評だったが、映画館の金春館や銭湯の金春湯もあったので新橋の花街から訪れる襟足を白くした芸者衆の艶姿(えんし)を見かけることも多かった。
会長に就任した清一が初めに解決しなければならなかったのは、第4回の極東選手権大会に臨時処置として日本青年運動クラブが代表団を送ったが、極東体育協会がこのにわか造りの団体を正式に日本の代表機関と認定したことにより発生した問題を解決し極東大会参加の代表権を元通り大日本体育協会に移譲させなければならないという極めて困難な問題であったため、両団体の交渉は大正10年1月19日に協会代表4名が大阪に出向き日本青年運動クラブと会談を持つことから始まり、1月30日には大阪より日本青年運動クラブ代表3名が東京の帝国ホテルで協会代表と会談を行ったが、当初両団体の意見が食い違いを生じ一大波乱を起こすのではないかと危ぶまれたが、清一が弁護士として長年培ってきた交渉力と大阪瓦斯の専務に就任していた関係で関西方面における政財界の人脈を活用した結果、相互の理解と信頼及び協力が必要だと説いた清一の努力が功を奏し良い方向に向かおうとしていた。
さらに清一は多年にわたる海外での経験を踏まえ大日本体育協会の方針が日本の地位をスポーツを通して世界で高めることであると伝えると、共にスポーツを愛好するもの同志の素直な共感が生じ無事に解決を見が、当日両団体が交わした覚書はおよそ次のようなもので非常に完成度の高いものであった。
1、第5回極東選手権大会は大正10年(1921年)全日本競技委員会の名称で両団体が連合して選手を派遣する。
2、委員会の役員の総数は両団体協議の上それぞれがその半数を選任する。
3、選手認定の方法は予選会によることを原則とし、正当な理由があって予選会を欠席した者に限り選考の上入選させる。
4、選手派遣費用の分担は両団体で協定する。
5、大正12年以後に開催すべき極東競技大会はすべて大日本体育協会において全日本を代表して参加する。
6、大正12年度日本で開催する極東競技大会は大阪において開催し、大正18年度に開催する極東競技大会は東京において開催し、以後大阪と東京で交互に開催する。
さらに数回の会合を重ね委員長に岸清一が就任することが決定したので、覚書のとおりの予選会を経て第5回極東選手権大会には陸上競技トラック部門29名、フィールド部門15名、水泳15名、
庭球5名、野球12名、蹴球13名、バレー・バスケット11名の合計100名以上の役員と選手団が5月30日から6以下間の予定で上海で行われた大会に参加することになった。
また協会は国内の大会人気を高め派遣費を捻出するために、
「日本選手を勝たしめよ!」
というポスターやシールを作り国民の啓蒙に努めた結果、各方面からの協力が集まり東京日日新聞は国技館で大音楽会を開きその余剰金3、000円を寄付すると、政府も本格的にスポーツを奨励する態度を表明し今大会に始めて1、000円の国家補助を行った。
しかし日本の選手団は当時一流の選手をそろえた布陣であったにもかかわらずマラソン以外の各種目で全敗を喫してしまったが、逆にこの敗北が日本のスポーツを覚醒させる働きを果たした結果、大正12年(1923年)新築された大阪築港運動場で5月21日~26日まで開かれた第6回極東選手権大会は、岸が極東体育協会の会長として満を持して望んだ大会であった。
さらに前回の敗北に奮起した日本選手団は街頭に張られたポスターや日本国中からの大声援を受け、初めて大正天皇から極東体育協会に下賜された純銀製の天皇賜盃の獲得を目指し奮起した結果、圧倒的な強さで天皇賜杯を獲得したのであった。
遂行済み 8・20
※京橋区宗十郎町一番地・・・現在の西銀座5丁目
※マラソン競技・・・日本人選手のみ出場
その2、灰燼(かいじん)の中から
大正12年(1923年)9月1日午前11時58分。
相模湾を震源として発生した関東大震災は広く関東一円に被害をもたらしたが、実にマグニチュード7.9、最大震度6はそれまでの日本人の誰もが経験したことの無い災害をもたらし、各家庭では昼食準備のために火を使っていたので家屋の倒壊に火災や延焼が加わり家屋の全壊約13万戸、全焼に至っては約45万戸余りにのぼり死者及び行方不明者は約14万人に上る未曾有の大災害となった。
その被害の大きさは単純には比較できないが、平成7年(1995年)に起きた阪神淡路大震災の被害状況と比べてもその被害の大きさを推し量ることが出来るだろう。
つまり首都東京は完全にその機能を失い全てが灰燼に帰してしまったが、大震災当日は清一を初めとした事務員や弁護士達が仕事中だったので素早く敷地内にあったコンクリート造りの倉庫に大日本体育協会関連の書類、トロフィー、訴訟関係の書類など全ての搬入を指示すると、彼は当時芝区伊(い)皿子(さらご)町70番地にあった高台に建つ自宅に運転手と共に車で急行したが幸いにも自宅は土蔵が潰れた外は怪我人もなく比較的に被害は軽かったのを確認すると、2時頃に車で事務所に向かったが、新橋に近づくと避難する人や消火活動に関わる人などで混雑を極め全く動くことが出来なくなってしまった。
そこで乗用車を道端に放棄した彼らは事務所で、全ての書類が倉庫に搬入されたのを見届けると施錠の上付近の地盤が水道工事の関係でぬかるんでいたのを幸いに、倉庫の壁全てにその泥土で目塗りをすると所員には帰宅と自宅待機の指示をして5時頃には再び自宅に戻ったのだった。
駆け戻った自宅では近隣住民が広い敷地の中に家財道具を大八車に積み込んで続々と避難していたが、そのころになるといたるところで火の手が上がり始めたので住民達は恐怖に慄いていたが、さらに井戸に毒が投げ込まれたというような流言(りゅうげん)蜚語(ひご)が伝わってくると住民達の恐怖はさらに高まったが、緊急事態に接した清一は即座に書生を集め炊き出しなどの指示を与えて住民の不安解消に努めたので、住民から乞われて自警団長となると都心の激しい火災が治まるまで急遽近隣の青年を含めた自警団を組織し治安維持のために町内の警邏(けいら)に当たらせたのだった。
やがて数日が経過し伊皿子町内に比較的安定が訪れると、清一は夜になると江戸湾から登る美しい月が見られるので月の岬と呼ばれた台地の上を目指して伊皿子坂を登っていった。
坂を登りきるとその頂上からは麻布方面に下っていく魚藍坂(ぎょらんざか)をとおして市内を眺め、さらに東海道の道筋に出来ていた国道一号線を目印に芝増上寺を通して事務所のほうを眺めていた。
そこには全ての光景が跡形も無く消え去り、無人の荒野が薄く流れる煙の中に横たわっていた。
やがて伊(い)皿子(さらご)坂(ざか)を泉岳寺の方に下っていくと、いつものように品川沖の光る江戸湾と富士山が見えた。
松江から上京した時には不安と希望しか持ち合わせていなかったが、今は命があっただけでも幸いだと思いながら書生達と事務所に向かったが、道の両側には死体がそのまま積み上げられ、川に架かる橋の鉄は溶けあらゆるものが原形をとどめておらず、隅田川でボートを漕ぐものにとって良き目印となっていた浅草の12階作りの凌雲閣も8階あたりから上部が倒壊し無残な姿をさらしていた。
清一達は焼け野原の中を手拭で顔を覆って異臭を避け、躓(つまづ)いて熱い鉄板や釘で火傷や怪我をしないように杖を突いて注意深く徐々に事務所に近づいていった。
ようやく心血を注いで作り上げた事務所にたどり着くとモダンな事務所はすべて焼け去り姿を見ることは出来なかったが、目塗りをした倉庫だけは無事だったので第6回極東選手権大会において大正天皇が下賜された天皇賜盃その他大日本体育協会関係の重要書類などは焼失を免れたのであった。
しばらくすると隅田川近辺の惨状が伝わってきたが、両国橋の上流左岸の蔵前にあった東京高等工業学校と上流右岸の長命寺近くにあった木造の東京帝国大学の艇庫はその全てが焼失してしまったが、帝大の上流に隣接して立っていた東京商科大学はバルコニーが一部鉄筋コンクリート造りのため飴のように溶けて垂れ下がった鉄筋が無残な姿を残していたが、川の上には半壊の台船に繋がれたままのフィックス艇一艇とダブペアー二艇が半焼の状態で残されていた。
それに対してより上流に位置していた残りの大学や実業団の艇庫は幸いにして一部の倒壊程度の被害で済んだが、この大災害の中にあって想像を絶する体験をしたクルーがあった。
それは当時10月に行われることになっていた日本漕艇協会主催の第4回10大学対校競漕に出漕するために合宿練習をしていた東京高等工業学校のボート部員達で、大震災当日は上流左岸の尾久地域で民家を二件借り合宿練習中であったが、午前の乗艇練習を終え昼食の一杯目のお替りをしようとすると突然床が突き上げられ大きく飛ばされると続いて壁が崩れ始めたので彼らは急いで窓から空き地に避難したのだった。
全く市内の状況が分からない彼らは自宅の近かった部員を帰宅させると残りは隅田川沿いの浅草区蔵前に建っていた学校の柔道場で合宿を続けようということになり、東京高等師範学校端艇部からフィックス艇を借用し台船から鍋釜その他を積み込んで漕ぎ始めたが、漕ぎ下っていくと厩橋と両岸はすでに火に包まれていたが、校舎や艇庫などは煙と炎で跡形も無かったが岸辺には台船が漂っているばかりだった。
呆然とするクルーの周りを老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)の死体が流されていくのでオールを水につけるのさえ憚られるような有様だったが、勇気を振り絞り互いに励ましあったクルーが再び上流の尾久を目指して漕ぎ始めると、隣で煙草や塩、樟脳などを作っていた大蔵省専売局第3製造所の川に面した石垣下に煤けて人相も解らない一人の男が顔だけ出して避難していたので救助したが、途中の崩れかけた厩橋や吾妻橋が掛かる東岸の墨堤は避難する人々の大群が続々とつめかけ大変な混雑をおこしていたが、中には腰まで水に浸かりながら口々にボート、ボートと呼びかけつつ手招きをして救助を求める者たちや、子供を抱き上げてこの子供だけでも乗せてくれと懇願するものも多かった。
それらの惨状を目の当たりにして呆然とするクルーに、コックスは努めて平静を保って号令を発し漕がせたのは、うっかり岸に近づけば人々が殺到しフィックスが沈むほどの騒ぎになることが予想できたからで、クルーは念仏を唱えながら心を鬼にしてさらに上流に漕ぎ進み、男性を野口造船所の台船に降ろしてから夕方尾久に帰り着くと艇庫での再会を約してそれぞれが郷里に向かったのだった。
遂行済み 8・21
※芝区伊(い)皿子(さらご)町70番地、電話番号高輪62番・・・現在の港区三田4丁目18番地の高山歯科医学院の跡地 約1,015坪の自宅
※東京高等工業学校・・・現東京工業大学
※東京商科大学・・・現一橋大学
※東京高等師範学校・・・現筑波大学
その3、東京市長永田秀次郎登場
第一次世界大戦終了後に日本を含めた戦勝国の利益調整のために開かれたワシントン会議に出席し、日本海軍の出身ながら戦争になることを嫌い大幅な軍縮を選択した第21代内閣総理大臣加藤友三郎は大腸ガンのため大正12年(1923年)8月25日に惜しまれながら臨終を迎えた。
臨時総理を立てつつ首相不在のまま新たな組閣を目指していた政府は9月1日の関東大震災発生という混乱の中で、第22代内閣総理大臣山本権兵衛によって第二次山本内閣を組閣したのであった。
山本内閣では急遽4月27日まで第7代東京市長を務めた後、内務大臣を務めていた後藤新平を帝都復興院総裁と兼任させ震災復興計画を立案した。
彼は医者出身の政治家で日清戦争終了後の帰還兵に対する検疫業務に当たったときの行政手腕の巧みさから陸軍参謀の児玉源太郎に見出され、明治28年(1895年)の下関条約により清朝から割譲された台湾において、明治31年(1898年)第4代台湾総督となっていた児玉源太郎の抜擢により台湾総督府民生長官となり台湾の経済改革に大きな業績を残した。
また日露戦争後ポーツマス条約によりロシアから租借権が移っていた満州において明治39年(1906年)南満州鉄道初代総裁に就任した後藤は植民地行政に発揮した手腕を十分に発揮して、台湾時代の人材を広く登用して大連の都市建設を行うと共に鉄道、炭鉱、製鉄、港湾、電力関係など幅の広い満州経営に成功したのであった。
その後第2次桂内閣(第2代台湾総督)の元で逓信大臣、初代内閣鉄道院総裁を務めたのを皮切りに内務大臣、外務大臣を務めた後第7代東京市長を大正9年(1920年)12月~大正12年(1923年)4月まで務めていたが、関東大震災後は満州での都市建設などの実績を生かし内務大臣兼帝都復興院総裁として、大規模な区画整理と公園および将来の交通渋滞の緩和を見越した巨大な幹線道路の整備を計画したが、後藤の後に第8代東京市長を務めたのは後藤が市長時代に約2年半にわたり助役を務めていた永田秀次郎であった。
震災後大日本体育協会事務所は伊皿子町の清一の自宅から焼け跡に出来た木造平屋建ての岸法律事務所の建物に移転していたが、復興に向けて人々が動き始めると岸法律事務所も麹町区の丸の内海上ビル内に移転するための準備に追われていると、会わせたい人物がいるとの禮次郎からの呼び出しを受け麹町区中6番の自宅に向かうと意外な人物が待っていたのだった。
「禮次郎さん、お久しぶりです。お互いに命があって本当に良かったですね。しかし聞いた所では禮次郎さんが3月に行った4時間にも及ぶ一般市民から選ばれた男女が陪審員として被告の有罪無罪を決めるという陪審法に反対された長演説により論客としての評判はうなぎ上りですね。」
「ばかを言っちゃいかん。私は一貴族院議員として自分の心情を述べたまでだよ。それよりここにいる永田君を紹介しようと思ってね。」
清一がその言葉を引き取って今を時めく東京市長に挨拶しようとすると、すばやく永田が立ち上がって握手を求めて来たのだった。
「岸先生。お久しぶりです。その節は大変お世話になり有難うございました。」
面食らっていると禮次郎が面白そうな顔をして、二人に座るように促しながら話し始めた。
「そうか。清一も覚えていないのも無理はない。私も忘れていたぐらいだ。永田君に言われて初めて思い出したような訳なんだが。
なんでも明治28年に琵琶湖で開かれた第一回大日本連合競漕会のときに、永田君は第三高等学校のボート部員として大会の委員を務め運営していたということだ。」
「そうですか。例の野村弥三郎の件ですね。あの大会もずいぶんと大きな大会でしたが第5回大会で終了したのは惜しいことをしましたが、縁とは分からないものですね。全く驚きです。」
「それは私も同感ですが当時先生はすでにボート界で知らない者は居りませんでしたが、こうして大日本体育協会の会長となられてからお会いできるのは非常に感激です。」
「そしてあれからもう28年が経ってしまったというから、月日の経つのは早いものだ。所で清一は何歳になったんだ。」
「いやだな、禮次郎さん。一つ下の57歳ですが年の話は勘弁してください。」
やがて懐かしいボート談義に花が咲きつつしばらくした頃、永田が膝を乗り出して話し始めた。
「お二方もご存知のように私は後藤さんの指示を受けて、大々的な帝都の復興計画を行おうとしているわけですが、私としてはやはり昔漕いだボートの味が忘れられませんし、何より極東大会にボートが無いのが気に入りませんでした。
しかし聞く所によると来年には嘉納先生のアイディアでオリンピック大会の精神に則り日本でも全国的な競技会を開催する予定だったところに、大震災からの帝都復興を祝い市民を元気付けるという目的を併せ持った第一回明治神宮体育競技会を行なうということですから、当然今度はボート競技もあるだろうと考え色々とお話をお聞きして東京都としても全面的に協力をさせていただこうということでお伺いしたような次第です。」
「それは心強い味方を得たというものだがここだけの話し。私はどうも来年当たり何かと忙しくなりそうだがしっかり支援するつもりだ。しかし清一も来年にはパリで行われるIOC総会でオリンピック委員に推薦されるようだぞ。嘉納先生がそのように根回しをしているようだから、まあ間違いはないと思うがね。これでまた一歩日本でのオリンピック大会開催の可能性が高まってきたというものだ。」
「それはそうとして、禮次郎さん。例のハーン先生の残された書物が富山県で廻船問屋を営んでいる馬場はる子という方に突如売却されたという新聞記事には驚きました。そこで急遽松江市長と八雲会から相談が持ちかけられまして、郷土の偉大な文学者のことですから遺品の収拾等には私が代表して直接小泉家に出向き交渉してみるつもりですが、それらはとりあえずパリオリンピックから帰国してからということになると思います。」
「それはありがたい。いつも苦労をかけて申し訳ない。なにぶん松江は東京から見たら地方なので、郷土の人たちにも誇りと自信を持ってもらいたいと考えていたところだったからね。出雲学生会のほうも変わらずに勉強に精を出しているとのことだから、安心して見ていられるというものだな。」
こうして彼らはいつまでも楽しい盃を重ねていくのだった。
推敲済み 8・22
※丸の内海上ビル・・・麹町区永楽町1-1
その4、財団法人大日本体育協会の誕生とオリンピック大会
清一が会長に就任すると協会の財政問題を改善するために大正10年7月11日の理事会決定で比較的認可の下りやすい社団法人化をめざし、合計10万円の寄付金を集めるために林愛作理事を中心にした4名の理事が研究を続けていたが、清一の意見で毎年文部省に3万円の補助金を申請する時には財団法人のほうが補助金を受けやすいことから急遽財団法人としての認可申請を行うことになった。
そして極東大会などの準備に忙殺されながらも第6回極東大会の勝利とパリオリンピック大会への参加が財団法人化へのチャンスと見た協会は、大正12年(1923年)6月8日の会議で基金10万円を集めることになり、7月10日の財団法人設立準備委員会で清一自ら3万円の資金を寄付することを申し出た上で一般からの寄付は一口100円からとして広く募集する事になった。
しかし大震災で一般からの寄付を望めなくなったため9月30日に行なわれた役員会では清一の3万円と三井、三菱からの各3万円ずつの合計9万円の寄付金を基金として、大正13年(1924年)3月28日にはこの財団法人設立許可申請と寄付行為を政府に提出し認可を求めると、大日本体育協会は新たな組織作りを目指し大正13年11月から組織改造調査委員会を設置して草案を練っていたが、大正14年3月14日に陸上、水泳、蹴球、庭球、バスケットボール、スキー、ラグビー、漕艇競技の各代表と新団体組織協議会を開き賛同を得たので、4月25日には国内のスポーツを統制する正式団体として生まれ変わったのであった。
それは協会自らが大会を開催し国際競技に出場する選手を選出するという方法から、それぞれの加盟団体が大会を運営し代表選手を選考するという手法を用いながら、各団体を尊重して推薦された理事が協会に参加するという開かれた団体として生まれ変わったことを意味しており、その時の加盟競技団体は全日本陸上競技連盟、全日本水上競技連盟、大日本蹴球協会、全日本スキー連盟、日本庭球協会、日本漕艇協会、大日本ホッケー協会の7団体であった。
一方関東大震災の発生で翌年に控えたオリンピック参加に暗雲が生じるのではないかと思われたが、10月1日には早くも大日本体育協会は以下のような第八回パリオリンピック大会参加の宣言を発表して広く朝野の識者一般の好意ある理解を求めたのであった。
「帝都今回の大震災は独り一帝都に就いてのみならず全日本帝国にとりての一大打撃にして此れを速急に恢復(かいふく)するはこの際全日本国民の一致協力して努力すべき所なりといえども一方昇天の勢いをもって向上を続けつつあるわが国現在の運動会をしてこの一変革のために頓挫せしむるは我が国将来のため極めて遺憾なりと言わざるべからず。以下略」
この宣言は機宜を得て国民はオリンピックに参加する選手たちに、自らの希望を重ね合わせて盛んな声援を送ったが、その声に後押しされるように陸上競技の第一時予選会は大連、京城、青島、台湾などを初めとした15ヶ所で開かれ参加者は5200余人に達した。
また大正13年(1924年)3月に多額の私財を公共の目的のために寄付した行為により紺綬褒章を授与された清一は、さらにオリンピックに向かって準備を進め二次予選会は4月12日~13日にわたって駒場の運動場で470余名が参加して行なったが、水泳と庭球及びレスリング競技は当初から予選を行わずに前年の全日本選手権大会、極東選手権大会その他の大会での成績を参考にして代表を選抜したのだった。
また今回のオリンピックではより国民の関心を喚起するために参加することより成果を求めたため、本大会で予選通過が望めそうな選手を選考するために発表された基準は概ね以下のようなものであった。
1、 代表選手の選考は主として2次予選の成績を基礎とし、記録においてなるべく国際オリンピックのものに近く少なくともオリンピック競技会の予選を通過し得る見込みがあるものを推薦すること。
ただし勝ち目の無い競技種目でも将来を慮り、特別に選考す
ることがあるかも知れない。
2、 大会終了後もなるべく長く日本の競技会に関係し、これを指導しえる者を推薦すること。
3、 日本青年の代表として恥ずかしくない人格を備うる者であること。
こうして発表された日本選手団は岸団長を初めとした役員9名、陸上競技8名、水泳6名、レスリング1名、庭球4名の選手合計19名と、指導者育成のための見学員3名が加えられた合計31名であった。
しかし陸上競技の代表選考に関して早稲田大学、慶応大学、明治大学の3大学陸上競技部は5000mで優勝した選手が代表から漏れたことや第一次予選会で参加資格が無いと認定した選手を代表に選んだなどの理由を挙げ、発表から10日経った4月23日夜、慶応義塾内の万来舎に呼びかけに応じて集まった農業大学、東京高等師範学校、法政大学、東京帝国大学、駒場農大実科などと協議した所、直ちに賛成した駒場農大実科と早慶明の4大学は態度を保留した他大学に先駆けて以下のような決議文を作成した。
1、 不徹底極まりない現大日本体育協会の改造を期す
またこの要求が入れられない場合は目的を完遂するまで如何なる理由があっても競技会には参加しないというもので、この決議文は深夜の伊皿子町にある清一の邸宅に届けられたが就寝中で会えなかったため翌日協会事務所に提出し25日の5時までに回答を求めたが、オリンピックへの出発が2日後に迫っており公式な役員会を開くことが出来なかったため無回答を通したのであった。
さらに今回のオリンピック大会には始めて国家からの支援金が支出されたことに加え秩父宮殿下からは日章旗も下賜されたので、余裕をもって出発準備を進め26日には先頭に日章旗を掲げて選手団が急行列車で東京から出発し翌4月27日には関西方面の選手と合流の後、乗船する船に選手の練習用に特別に用意されたマット、鉄アレイ、砲丸と海に向かって投擲し回収が出来るように50mのロープを結びつけた円盤、やりなどが用意されたほか練習用の特設プールを備え付けた日本郵船の香取丸で神戸港からヨーロッパに向かって出帆したのであった。
遂行済み 8・24
※大連、京城(けいじょう現ソウル)、青島(チンタオ)
その5、国際陸上競技連盟への加盟問題と13校問題
一方万来舎で午後5時まで回答を待っていた4校の代表委員は協会からの回答が得られなかったので、再び29日に万来舎で全国学生陸上競技連合の態度を決定する会議を開き、新たに賛同した法政大学、立教大学、日本医科大学、日本歯科大学、東京慈恵医科大学、拓殖大学、駒場農大実科、横浜商工高校、東洋協会大学の9校を加えた13校が協会改造を求めて競技会に出場しないことを申し合わせたのであった。
しかし決議文の内容には賛同するものの実行案が過激すぎるため態度を保留して円満解決を見るまでは競技会に出場しないと申し合わせた団体は、東京帝国大学、東京高等師範学校、第一高等学校、学習院大学、青山学院大学、水戸高校、浦和高校の7校に上ったので合計20校が競技会に出場しないという異常事態になったのである。
一方選手団がパリ着いた6月7日にはこの13校問題とは別に、オリンピックを機会に開かれる国際陸上競技連盟の総会で、見学員として同行を許された者を中心にして協会とは別の団体が日本を代表していると加盟を申し込む運動が展開されたのは、協会が個人の集まりで地方と競技者の声を反映していないという不満が全日本陸上競技連盟という新団体を立ち上げ6月19日に国際陸上競技連盟に加盟を申し込むという緊急事態を知った大日本体育協会は、以前から計画していた国際陸上競技連盟と国際水泳競技連盟に加盟の申し込みを行うと共に、新団体の組織に参加した者達を除名処分にしたのであった。
また清一は東京帝国大学法学部を明治29年(1896年)に卒業し日本銀行総裁を務め大正10年3月に清一の会長就任と同時に協会の監事に就任し、杉村と共に協会の発展に協力しながら貴族院議員に勅選され第二次山本内閣の大蔵大臣を大正13年(1924年)1月まで務めた井上準之助が、貴族員議員ならびに国際商工会議所会員としてパリに滞在している事を知ると、彼が国際商工会議所会員で以前ストックホルムオリンピック大会の組織委員会の副会長を務め現在は国際陸上連盟の会長を務めているジークフリード・エドストロームと懇意だったので井上から大日本体育協会の苦境と会長の人柄ならびに平和に賭ける熱い思いを伝えてもらった上で、元体協理事でパリの日本大使館参事官を務めていた杉村陽太郎を加えた3名でサントノレ街にあるサンジャームホテルにエドストロームを訪問した結果、協力を取り付けることに成功したのだった。
やがてエドストロームは国際陸上連盟の総会に先立って行われる執行委員会の席上、日本の責任者ドクトル・キシからの加盟申請を援護する発言で日本の国際陸上連盟加盟問題は無事解決を見たが、結果を聞いた清一は感激のあまり男泣きしたのだった。
また一方の国際水泳競技連盟への加盟も承認されると、6月25日には国際オリンピック委員会総会で岸清一が嘉納治五郎に次いで二人目の国際オリンピック委員に推薦を受け無事に任命されると、極東会議を開催し国際オリンピック執行委員長のバイエ・ラツール伯爵に極東体育協会の事業内容と平和に貢献する意義を説明することにより、フィリッピンの国際陸上競技連盟加入申し込みに対して強力な支援活動を行ったのでフィリッピンからは非常な感謝を受けることとなったが、今回の騒動を通して多くの知己を得たことは日本へのオリンピック招致問題が急速に実現に向かって動き出していくことを意味していたのであった。
さらに大会ではレスリングの銅メダル一個と水泳と陸上競技の6位入賞を果たすというオリンピック大会で初の日の丸を揚げることができたのであった。
推敲済み 8・25
※横浜商工高校・・・現横浜創学館高校
※東洋協会大学・・・元台湾協会学校現拓殖大学
※ジークフリード・エドストローム・・・後第4代IOC国際オリンピック委員会会長
その6、明治神宮外苑競技場の完成と第一回明治神宮競技大会
明治45年7月30日に明治天皇が崩御すると大正3年4月11日には皇后であった昭憲皇太后が亡くなられたが、国民の間からは夫妻を祭る神社の建設を求める声が高まっていった。
「うつせみの 代々木の里は しづかにて
都のほかの ここちこそすれ」
そこで政府は大正4年(1915年)5月1日に明治天皇がと詠んで愛した代々木の御料地に明治神宮を創建することを決定し内務省から告示されたが、境内は和風の中庭である内苑と青山錬兵場跡地に外回りとして造られた洋式庭園である外苑に別れており、内苑には約12万本の樹木が計画的に植えられたのに対して、外苑には国民のスポーツ熱の高まりを背景にして当時大日本体育協会の会長であった嘉納治五郎の提案を受けストックホル大会のスタジアムを模して1周400m幅10mのトラックと、直線200mコースを挟んで15000人収容のスタンドと50000人収容の芝生席を備えた東洋最大規模の競技場として、大正11年(1922年)11月9日から120万円という巨費を投じて工事が始められ、関東大震災時の避難民の収容とその後の資材不足による中断を経た大正13年(1924年)10月25日に晴れて竣功式を迎えたのであった。
そこで10月13日にパリオリンピックから無事に帰国した清一は、6月に誕生した第24代内閣総理大臣加藤高明内閣の内務大臣に就任していた禮次郎と嘉納治五郎そして大正11年(1922年)12月2日から体協の評議員を務めていた伯爵副島道正と共に、10月30日に開催される第一回明治神宮競技大会の開催準備が進んでいる明治神宮外苑競技場のメインスタンドに向かって400mトラックに立っていた。
嘉納は抜けるように青い秋の空に翩翻(へんぽん)としている日章旗を見上げながら、光を浴びて輝くスタンドを見上げている清一の肩を叩いて話し始めた。
「岸君。オリンピックは疲れたろう。特に加盟問題もあったから気苦労は並大抵ではなかったと思うが。」
「ええ。杉村君がいてくれたので本当に助かりました。ミスター・エドストロームも先生によろしくとのことでした。また13校問題に関しては組織の改造を図り来年には新生大日本体育協会が生まれる予定ですが、今回の競技会には13校の参加は望めないようです。それにしても禮次郎さん。内務大臣に就任するとは驚きです。」
「まあ。明治神宮の件があったから、いつかはこのようなこともあるのではないかと思ってはいたんだが。それにしても資材が足りなくて建設が中断した時は本当に困ったよ。」
「しかし岸さん。オリンピックでとうとう日章旗が上がりましたね。
おめでとうございます。」
副島が振り返ると嘉納は3人から離れて歩き始めていた。
「嘉納先生はどうしたんでしょう。」
「ストックホルム大会から12年も経ち嘉納先生も数えで65歳になられただろう。色々と感慨深いのだろうし、東京にオリンピックを招致するという夢の一つが叶ったのだから。」
清一はパリ大会を振り返りつつ話を続けた。
「それから禮次郎さん。例の小泉文庫の件ですがパリで馬場家の一族である朽木義男君と幸いにも会うことが出来たので交渉してみたのですが、残念ながらすでに富山高等学校に寄贈することが決まっているそうで残念ながら今回の交渉は上手くいきませんでした。」
「それは残念なことをしたが、今後は御夫人に交渉してヘルン先生が日常お使いになっておられた遺品をお譲りいただけるよう話してみるしかないだろう。」
「わかりました。今後も松江のために努力してみますが、嘉納先生はこのところ少しお疲れなのでしょうか。」
「いや、まだ老け込む年でもないだろうが、ここは激励を兼ねて先生を飲みに誘ってみようじゃないか。どうだ君達。」
「それは名案です。内務大臣就任祝いと凱旋祝いも兼ねてお誘いしてみましょう。」
彼らが白線の間を追いつくと、振り返って答えた。
「何だ息が切れているじゃないか。そんなことでは任せられんな。しかし誘いを受けて敵に背を見せるようでは不肖嘉納治五郎。男子としての面目が立んので、ここは喜んでお受けしようじゃないか。」
三人は嘉納を囲んで歩き始めたが、清一が思わぬ名前を出すのだった。
「是公(ぜこう)の奴は公務が終わり次第駆けつけるそうなので、ロングスパートを掛けて来いと言っておきました。」
ボート用語に目を白黒させながら副島が聞いた。
「ロングスパートってなんですか。是公とは一体誰です。」
答えはなかったが、嘉納にはストックホルムの光景が見えていたに違いなかった。
ついにスポーツを愛する人たちの努力により大正13年10月30日よく晴れた秋空の元で五日間にわたり第一回明治神宮競技大会は内務省の主催により開催された。
開会式には内閣総理大臣加藤高明子爵の祝辞が代読されると、内務大臣若槻禮次郎による式辞が演説風に行われて競技は始まったが、満員の芝生席には先生に引率された和服姿の小学生達が日の丸の小旗を振って会場を盛り上げていた。
参加者は各地の青年男女で組織された青年団と、学生を含めた一般から募られ青年団の選手選出方法は道府県単位で10名程度、一般は北海道、東北、関東、北陸、東海、近畿、中国、四国、九州に台湾、朝鮮、関東州の地域ごとに予選を行い選出された。
また専用グランドが無かった野球は早大グランドで行われた始球式に若槻が燕尾服にシルクハットをかぶった姿で現れ、芝公園のプールでは水泳競技、隅田川では漕艇競技などが行われたがバレーボールやバスケットボールは屋外の明治神宮競技場において熱戦が行われた。
清一は今大会が内務省主催であったため東京市長の中村是公や大日本武徳会会長などと並んで体協を代表した嘉納治五郎、朝吹常吉らと共に大会顧問として参加したが、種目は陸上競技、水泳、野球、硬式テニス、サッカー、ラグビー、ホッケー、バスケットボール、バレーボール、漕艇、相撲、柔道、剣道、弓道、乗馬の15種目がおこなわれ軍人も海軍カッター競漕や柔道に参加していた。
やがて大会は徐々に種目を増やしながら3回目以降は明治神宮体育大会、明治神宮国民体育大会、明治神宮国民練成大会と名称を変え主催も3回目以降は明治神宮体育会、厚生省と時局を写して変化し昭和18年(1943年)の第14回大会まで続き、第二次世界大戦後に行われるようになった国民体育大会に大きな影響を与えたのであった。
推敲済み 8・27
※富山高等学校・・・現富山大学
※中村是公・・・ボート部出身 第二代満州鉄道総裁 元鉄道院総裁 終身貴族院議員 永田秀次郎の後を継ぎ第9代東京市長 夏目漱石の親友
※青年団・・・各地の青年男女で組織された社会教育団体で明治神宮造営にも積極的に協力した団体
※関東州・・・満州
第14章、昭和の足音
その1、出雲育英塾
大正15年(1926年)1月30日若槻禮次郎は62歳にして加藤高明総理大臣の急逝により、憲政党の総裁として内務大臣を兼任して組閣し第25代内閣総理大臣となった。
暮れも押し詰まった12月16日に出雲育英会総裁の松平伯爵から育英塾の創立に関して緊急協議を行うという連絡が入ったが、それは大正11年7月をもって本郷4丁目にあった出雲育英会寄宿舎が老朽化のために閉鎖され出雲出身の学生たちはやむなくそれぞれが下宿生活を送っていた。
しかし寄宿舎の復活を望む声は次第に大きくなり、松平伯爵は山口鋭之助を初めとした先輩達に出雲育英会の法人化と寄宿舎建設計画を提案したが、その資金として松平伯爵からの2万2千円と清一の1万5千円を含めた合計5万円の寄付金が集まったので、東京府豊多摩郡中野町字上ノ原に購入した約306坪の土地と、賃借した隣地約262坪の土地をあわせた約560坪の土地に建坪約224坪の木造スレート瓦造りの2階屋を建設することにしたのであった。
また12月25日には大正天皇の崩御によって年号は昭和と改められたが、昭和2年にはさらに松平伯爵から1万5千円の寄付を受けて借地を購入することによって全ての土地は財団法人出雲育英塾の所有するところとなり初代理事長には清一が就任したのだった。
また3月になると長年体育振興に貢献したことをフランス大統領に認められ(オフィシエ、ド、レジョン、ドノール)勲章を授けられ、25日には第一東京弁護士会の会長選挙に当選し弁護士の社会的位置の向上に努めた。
しかし一方では大正13年3月28日大日本体育協会は法人設立許可申請と寄付行為の提出は果たしたものの、第一回明治神宮競技大会の13校問題が尾を引き財団法人の設立許可書は実に3年半後の昭和2年9月26日に認可されたので速やかに登記が行われたのであった。
※大正天皇・・・第123代天皇
その2、第9回アムステルダムオリンピック
昭和2年(1927年)アメリカで世界の3大喜劇王の1人と呼ばれていたバスター・キートン主演の無声映画(COLLEGE・邦題キートンの大学生)が上映され人気を博すると、日本活動写真株式会社は主人公のキートンがボート選手として活躍しているシーンに触発を受け、主な撮影所が京都の大将軍撮影所に移転する前に東京府南葛飾郡隅田村に向島撮影所があり火災で焼失するまでボート競技の人気振りを見てきていただけに、新たにボート競技のオリンピック出場を目指していた日本ボート界の影響と協力を受けて7月1日に大井電気館で内田吐夢監督の漕艇王を上映した。
またそれを追いかけるように映画キートンの大学生は字幕入りで9月2日に浅草公園帝國館で上映され大人気を博したことは、ボート競技がオリンピック大会への出場を果たすために強力な追い風となったのである。
大日本体育協会も4回目のオリンピック大会ということで早くから準備を初め、5月には三越デパートでオリンピック展覧会を開催し、日本青年館ではオリンピックの夕を開き講演会や映画を上映したりして国民の関心を喚起して上で記念バッジを作成販売するなど一般からも広く寄付を募集した。
また今大会の参加人数は前回のパリ大会の活躍を受けて2倍に膨れ上がり役員13名選手43名にのぼったが、本部役員には嘉納治五郎と岸清一のほか6名と陸上競技1名と水泳競技3名、ボクシング1名がはそれぞれの競技を補佐する担当役員として参加し、それぞれの競技選手の内訳は女子として初参加の人見絹江選手を含めた陸上競技17名、水泳競技11名、漕艇競技8名、ボクシング2名、レスリング1名、馬術4名であり、それらの選手団はシベリア鉄道で数隊に分かれて出発したが馬術はすでに4月7日にはパリに着いて航海で弱った馬の回復と練習に着手した。
そしてボート関係者の念願であったオリンピック大会への出場が決まると、日本漕艇協会も早くからその準備に入り、昭和2年7月23日大隈会館で理事会を開き選手の選考方法や出漕種目について協議した結果、ピック・アップ・クルーという選抜チームを作るという条件の下で次のような内容を決定した。
1、 参加種目は舵手付きフォアとシングルスカル
2、 舵手付きフォアの候補選手は加盟の各校から漕手2名、舵手1名の推薦選手に全日本選手権大会舵付きフォアの優勝者を加えて予選を行いその中から選考する
シングルスカルは全日本選手権大会の優勝者とする
3、 練習日程は昭和3年1月から向島に合宿を行い、6月にはイギリス人からコーチを受けながら一ヶ月の練習を積んでからオランダ入りする
4、 漕艇協会の負担である練習諸費用、滞在費、新艇建造費は広く内地と在外のボート関係者から寄付金を募る
こうして各学校から推薦された選手15名は3組に分けられ昭和2年の10月末に行われた第4会明治神宮大会のレースを参考に選考され、12月末から翌年の正月にかけては固定席艇で利根運河を経て銚子にいたる大遠漕を行いそのまま向島合宿に入ったが、昭和3年1月イギリスでは始めての海外遠征を喜んだ関係者の寄付が予想以上に集まったため、パトネーのシムス造船所に新艇とオールの建造を依頼し準備を整えた。
やがて日本で練習を積んだ選手たちは5月30日午後9時50分東京駅を出発し伊勢神宮で参拝の後、日本海を横断して満州で合流した人見絹江選手とシベリア鉄道経由でロンドンに向かったが、シベリアでは物資不足で値段が高騰していたため、車中で自炊する食料を満州で大量に購入し節約を心掛けたのだった。
さらに車中では人見選手が炊事主任、舵手が炊事助手を務め他の選手は皿洗いとジャガイモの皮向きを担当し、料理は鍋の変わりに持参した金盥(だらい)をアルコールランプで煮立たせて調理していたが、3日目にボート選手の紳士的態度に感激した人見選手が皿洗いを申し出て窓からタライの水を捨てようとした瞬間に調理や洗濯洗顔と大活躍した金盥は風にあおられシベリアの大地に置き去りにされてしまったが、ボート選手にとって食べることは命の次に重要で最も神聖な儀式だったので、選手たちの落胆ぶりを心配した東京帝国大学ボート部出身で協会理事の郷隆は一度だけシベリアのお土産話として食堂車で食事を振舞ったが、選手達はその時のロシア料理を末永く後輩たちに物語ったのだった。
そして日本は陸上競技の三段跳びで織田幹夫と水泳の200m平泳ぎの鶴田義行が金メダルを獲得し大日章旗をメインポールに上げることが出来たが、陸上女子800mの人見絹江と水泳の800mリレーは銀メダル、水泳の100m自由形の高石勝男が銅メダルを獲得した以外にも陸上と水泳で6人が6位以内入賞を果たしたことで国民は新聞を通して世界の中の日本という国際意識が目覚め始めたのであった。
遂行済み 8・31
※世界の3大喜劇王・・・チャーリー・チャップリン、
ハロルド・ロイド、バスター・キートン
※日本活動写真株式会社・・・現日活
※シングルスカル・・・1人漕ぎ種目
その3、郷土への貢献
清一は愛する郷土のことを決して忘れる事はなく、明治44年
11月に帰省のときは雑賀小学校に秀才児童奨励金として300円を寄付し学習意欲の向上奨励に努めたり、大正7年5月には山陰地方で始めての官立高等農林学校の建設が決まると鳥取と島根がその誘致を巡って激しく争ったが鳥取県に破れ誘致を実現出来なかった。
そこで相談を受けた清一は禮次郎と相談の上で立憲政友会の第二代総裁原敬が岩手県盛岡に帰京しているという情報を得ると、松江市の立憲政友会の長老2名に旅費と手紙を送り上京を促し2名と共に陳情を行ったので新しい学校は松江に建設されることが決定したのだった。
さらに清一は大正9年4月に雑賀小学校に運動機器の購入費300円を寄付し小学生の体力向上と健康保育に貢献すると、大正12年には雑賀小学校創立五十周年記念事業として記念館建設のために費用の半額3000円を寄付したが、大正12年大日本体育協会の会長として他県に先駆けて財団法人島根県体育協会の設立を提案し、設立後の昭和3年3月には松江市末次埋立地に大日本体育協会公認50mプールの建設資金として5千円を寄付した。
また11月10日には京都御所で昭和天皇の即位儀礼としての御大典に参列の栄誉に浴したが、雑賀小学校に御大典事業として御真影奉安所などの建設計画が持ち上がると京都まで支給された旅費の千円を寄贈したが、昭和4年2月には体育会への功績を認められ天皇陛下から金杯を下賜されると6月16日には念願であったヘルン先生形見の自筆原稿やメモなど22種類と机及びトランクなどの日用品31種類の遺品について松江市長と協力し清一が購入費用を負担し譲り受けることに成功したので遺品は松江市に寄贈されたが、陳列する施設が無かったため建設費の半分にあたる5千円を寄付し小泉八雲記念館の建設を決定したのだった。
遂行済み 9.1
その4、禮次郎ロンドン海軍軍縮会議の首席全権大使
明治34年10月に誕生した島根法政会は更に広範な人材を包容する必要を感じ、明治40年11月2日に梅謙次郎会頭と清一ほか一名の副会頭就任をもって島根県協会と改称していたが、第25代総理大臣を昭和2年まで務めた禮次郎が昭和4年11月5日に翌年一月にロンドンで開催される5大国軍備縮小会議に首席全権大使として出席することになったので送別会を主催し松平会頭に代わって63歳になった副会頭の清一が、世論では海軍軍縮に反対する声も多いが日本が主張を押し通せば戦禍が世界に拡大する恐れもあることから、軍縮会議を成功させてほしいと送別の辞を読み上げた。
それに対して禮次郎は元来軍縮というものは相対的な性質をもっているので、各国が競って軍備の拡張に走ったならばその規模は際限の無いものになることは自明の理であり、その軍備にかける国家費用のために国民が困窮することは非を見るより明らかである。
したがって軍備の拡張は更なる戦争を呼ぶ事と同じなのは歴史が証明しているので、前回の失敗を繰り返さないよう国家のために身命を賭して今回の軍縮会議は成功させたいと答えたのだった。
やがて出発が迫ったある日のこと突然禮次郎の訪問を受けた清一は、何かただならぬものを感じていた。
「お久しぶりです。もうすぐですね。」
「いや別に何というほどではないんだが。とりあえず日本を出発する前に清一の顔を見ておきたいと思ったんだ。」
少しやつれた禮次郎を前にあれこれと考えながら酒を注ぐと、盃を一気に飲み干した禮次郎が話し出した。
「政党総裁を長く務めてきたので今回の憲政会と政友本党が合併する事を口実に新党である立憲民政党の総裁に浜口雄幸君を立てようと思い、居留守を使われる事にも負けず口説き落として総裁の件を承認させたという件は話しただろう。」
「ええ。それは何度もお聞きしました。
以前も浜口君が大蔵省時代に上司と喧嘩して地方に飛ばされて居た時に、同期の仲間から相談を受けた禮次郎さんが東京に呼び戻した後は、憲政会の幹部として一貫して軍縮政策を主張していると聞いています。
身を引いた禮次郎さんはその後しばらく伊東の別荘で楽しそうに花鳥風月を友として居られると伺っておりましたから、今回の急な全権大使任命には本当に驚きました。」
「誰より俺も驚いた。浜口から電報が来て昨年のジュネーブ軍縮会議についての報告会が財部海軍大臣から行なわれるのでこれに出席しろといってきたんだ。
なぜ俺が行かなくちゃならんかと訝っていたが浜口には口説いた時に陰ながら何でも応援すると約束していた関係上、知らぬふりも出来ずに出席したという訳だ。」
「なるほど。それでは今回の軍縮会議においても反対派と賛成派の対立があるというわけですね。」
「そのとおりだ。そして翌日には首相官邸に呼び出されて軍縮会議に首席全権で行ってくれという話があったが、私は英語はさっぱりだし海軍の専門知識もあるわけじゃないと断ったんだがね。全権の一人は海軍大臣であり通訳と海軍の随員が付いているから不安は感じなくてよいというのだが、なにぶん外交辞令も解らんからと更に辞退を申し出たが、さらに懇請されたのでこれもお国に対するご奉公だと思って一身を賭す覚悟で引き受けたという訳だ。」
「しかしこれは禮次郎さんだからいいますが、日本もだいぶ危険思想をテロ行為に移す者が多くなりましたから下手をしたら反対派の連中に暗殺されますよ。この任務は本当に命がけですが、なんで禮次郎さんなのでしょうか。」
「それについて思い当たるのは以前桂公に随行したロシアで軍艦製造費に関して調査した時に、常に臨時費から支出し財源に困っていた日本と違い、経常費から支出して軍艦を建造しているロシアの実態を報告した点が海軍の連中には若槻は理解があると思われたのだろう。しかし私は軍縮賛成だから筋違いだと思ったが、どうも政府の上層部には海軍の軍備増強派の誤解を利用して軍縮を成功させるためには、過去2回の軍縮会議を纏める事が出来なかった責任者が海軍出身者だったので文官で軍縮賛成の私に浜口君が白羽の矢を立てたと思うんだがね。」
「それじゃあ余計危険です。殺してくれと言っているようなものですが、禮次郎さんはそれでも行かれるのでしょう。
何かお力になれることはありませんか。」
「ありがとう。危険といえば先日も手紙で過激思想の若者達から全権を辞職しろと勧告されたことがあったが、男子たる者国家が私を必要としていることに対して一度引き受けた以上忠誠を欠くことはできんと突っぱねたが、内心では成否について若干心細く思う点もあるんだ。
そこでどうすれば本意を上手く伝えることが出来るのかを教えてほしいのだ。なにしろ私は外交術なぞというものが得意ではなく権謀術数などというもので相手の理解は得られないだろと考えているのだ。」
しばらく顔を見ていた。
「その通りですね。
私の少ない経験でも腹を割って真正面から赤心でぶつかれば相手の胸の内にすとんと届くように感じたことが何度もあります。
何時もの禮次郎さんのように自然体で相手にぶつかってみればいいのではないでしょうか。
ボートレースだって敵は相手ではなく、それに立ち向かう自分達クルーの心構え一つだったじゃないですか。」
「なるほど艇が走ったときのクルーに力みは無かったな。
しかし四十曲峠を越してからお前とはずっと一緒だったな。もし私に何かあったら後のことはよろしく頼むぞ。」
もしかしたら水杯なのではないかと思いついて泊まらずに帰るという禮次郎を玄関まで送りながら成功と無事を祈るのだった。
やがて禮次郎達は12月30日午後3時に横浜港から在港の艦船から轟く万歳と敬礼と五色のテープに繋がれながら、日本郵船のサイベリア丸でシアトルに向かって出航したが、出航に当たっては横須賀軍港派遣の駆逐艦4隻と潜水艦4隻が左右を守りつつ東京湾出口まで見送り、空からは横須賀海軍航空隊所属飛行機18機が横須賀沖まで見送ったのである。
推敲済み 9・4
※濱口雄幸(おさち)・・・高知県で3人兄弟の三番目として生まれるが、酩酊していた父が幸雄と間違って記入したためこの名前になった。風貌からライオン宰相と呼ばれるぐらい謹厳実直であり憲政会の幹部として国際協調と呼ばれた軍縮を終始唱えたことで国民に親しまれた
※財部彪(たからべたけし)・・・海軍大学校卒業後日清 日露戦争に作戦参謀として従軍 海軍次官 第一次若槻内閣で海相をつとめたがロンドン軍縮会議を成功させた責任を問われ予備役となり引退に追い込まれた
その5、第9回極東選手権大会
昭和3年4月1日清一は手狭になった法律事務所を麹町区丸の内2丁目の八重洲ビルディング3階に移していたが、アムステルダムオリンピック関連の事務処理が煩雑になった大日本体育協会の事務所も、昭和4年暮れも押し迫った頃にあわただしく同じ八重洲ビルディング3階317号室に設立以来初めて賃料月額162円を払うことにして移転したのだった。
昭和5年3月24日には関東大震災から完全復活を遂げた帝都を祝して行われた帝都復興際を記念して昭和天皇市内視察がおこなわれ、隅田川言問橋付近では日本漕艇協会加盟の大学代表12校のエイトがピッチ30で3艇ずつ4列に分かれて上流から300mの閲艇式が行われた。
かつて艇庫のあった隅田川の向島一帯は震災記念公園として蘇り、隅田川の向島地区には各大学の新艇庫が完成するに及んで第二期ボートレース全盛期を迎えるに至るのである。
第一列 東京帝国大学 東京商科大学 千葉医科大学
第二列 慶応大学 早稲田大学 明治大学
第3列 日本大学 拓殖大学 東京文理科大学(現筑波大)
第4列 東京工業大学 東京外国語大学 東京経済大学
また市内を装飾された花電車が走り夜には市民総出の提灯行列が行われるなど市民約200万人の参加によって帝都の完全復活を祝ったのだった。
大正14年5月に第7回極東選手権大会はマニラで開催されたが、13校問題に端を発した陸上競技と協会の軋轢は一旦は沈静化の方向に向かっていたが今大会では度重なる誤審問題が発生して清一たちを困惑させたのであった。
さらに大会4日目に行われた陸上競技400m決勝において2位の日本人選手が除外される騒ぎが発生すると陸上選手団はついに総退場を決行してしまったので、役員は出場を勧告したが選手団が応じなかったため、協会は監督を含めた13名を除名処分にしたため、単なる誤審問題はとうとう協会と日本陸上連盟の衝突に発展してしまったのである。
更に国内では新聞紙上で除名問題を知った文部、内務両省は選手側に同情し激励電報を送ったり出身学校の関係者達は13校問題の後だけに確かな事実を知らぬまま憤ったが、関西学生競技連盟はついに会長の進退について決議文を送ったのであった。
一方矢面に立たされた清一は冷静に行動していたが、時間の経過に伴い詳細が伝わると非難の声も沈静化し翌年には新たに誕生した全日本陸上競技連盟をへて陸上選手代表よりの陳謝状が改造の終了した協会に届けられたので選手の除名を解除し円満に解決を見たのだった。
昭和2年8月27日から上海で行われた第8回極東選手権大会では多少の誤審問題があったものの辛勝を果たし、数々の難問を解決した大日本体育協会は昭和5年5月24日第9回極東選手権大会を東京で開催し清一は野球競技の始球式を行ったが、新緑豊かな神宮外苑競技場には新たにインドから参加した陸上選手を迎えて熱戦が繰り広げられ日本選手団の圧倒的な勝利で、8日間の入場者数約52万人と国民を歓喜とスリルに酔わせた。
推敲済み 9・5
※八重洲ビルディング3階317号室・・・13,51坪
その6、ロンドン海軍軍縮条約の締結
昭和5年7月15日に上野精養軒で島根県協会主催のもとで行われる禮次郎の歓迎祝賀会を数日後に控えたある日のこと、嘉納と若槻ならびに副島の4名は清一の法律事務所に集まっていた。
彼らが話す内容が軍縮だけに人目のある料亭というわけにも行かなかったからである。
「若槻君。今回の軍縮会議をまとめるのは非常な困難があったと思うが、とりあえず無事に帰国されたことは本当にめでたいじゃないか。
12月1日の夕刊では一面で国民的感激の中東京駅を埋め尽くした人々の期待を背負って出発と書かれていたし、国民がこれ以上戦争を望んでいないことは軍艦製造費用の増大で国民生活が圧迫されていることからも解る。
そういう意味で軍縮会議の成功を望んでいたのだがジュネーブの国際連盟事務局次長の杉村君からも連絡があった。
アメリカ駐在大使からの情報では若槻君がバンクーバーで読み上げた異例の声明文は好意を持って迎えられということだ。」
嘉納の話を受けて国内情勢に詳しい副島が話し始めた。
「若槻さん岸さん。嘉納先生からもお話がありましたが、どうも軍部の中には今回の軍縮について不満を漏らすものが少なからず見かけられるようです。
初めから相手に手の内をさらしてしまうとは何事だというわけでしょうが、このまま何事もなければいいのですが。」
「それにつけても極東大会は大変でした。
アジア初となるオリンピックを東京に招致するための予行演習的な意味と、IOCへのアピールが無ければ揉め事を苦労して円満に解決するなどということは出来ません。
しかし軍縮会議はどうだったんですか。」
忘れていたように副島は左手を添えてコップに冷えたビールを注いで回ると、グラスを取り上げ小さく乾杯といった。
「やはり日本のビールが一番だね。
今回の滞在は長かったし内容が軍縮だけに気が気じゃなくて食事も喉を通らなかったよ。
それにしても当初はゆっくりインド洋回りで行きながら勉強しようと考えていたんだが、急にアメリカ政府から申し入れがあったのでフーバー大統領と晩餐の後で謁見して日本の意見を述べたという次第だ。」
「それで大統領はなんと言ってきたんですか。」
「まあ大統領はイエスもノーも言わないよ。
したがって日本の意見として海軍が大戦終了後各国に対抗して軍艦の増強に努め、仮想敵国アメリカに対しては新造の戦艦8隻と巡洋艦8隻による八八艦隊計画を立案した。
しかしワシントン軍縮会議では日本海軍の主力艦の比率が、戦艦と空母の総排水量を英5:米5:日3:仏1、75:伊1、75に制限された。
そこで規制が無い盲点を突き高性能の巡洋艦を建造したため、危機感を持った英米がジュネーブ海軍軍縮会議を提唱したのだが各国の利害が絡んで結局は決裂してしまった。
したがって今回の軍縮会議では日本は対英米7割を目指していると話したのは、政府から受けた訓令に国益を守るための3カ条があったからだがね。」
1、 巡洋艦の比率は対米7割にすること
2、 大型巡洋艦についても同様とする
3、 潜水艦については対米のトン数に関わらず日本は7万2千トンとする
「それでロンドンに着いてからはどうなったんだね。」
嘉納の問いにビールを飲み干すと話を続けた。
「ロンドンにはクリスマス後に着いたのですが大臣達は休暇でいない。アメリカはいつも自国の船で来るという主義でまだ来ていない。
フランスやイタリアも来ていなかったが、しばらくすると予定を早めたマクドナルド首相が帰ってきたので毎日のように訪問してとりあえず日本の主張を述べたのだ。
また時には霧のため車で5分の所に一時間も掛かることもあったが、軍縮会議を提唱したイギリスは事前にアメリカと具体的に取り組みを決めていた。
したがってこの時点でイギリスは何も言わなかったが、植民地がある関係で大型巡洋艦をアメリカより少なくする代わりに、小型巡洋艦を多く作るということで折り合ったということだろう。
そこで私は大型巡洋艦について英米共に同率の決まりを勝手に妥協して日本の7割を認められないのはなぜかと聞くと、イギリスは日本と違って世界中の植民地を守らなければならないので今回まとめなければ国民に顔向けできないと言い逃れるのでいつも堂々巡りだった。」
「そうでしょうね。彼らの交渉の手口はいつもそうです。はっきり言わない。しかしアメリカ代表が来ると少しは違うでしょう。 彼らはいつも他国を力でねじ伏せられると考えていますが、激してくると意外と本音を漏らしたりすることもあります。
さらに彼らは公明正大を国是のようにしていますからまるで世界の保安官のようですよ。」
副島は二人の顔を見比べ、嘉納は黙って聞いていたがまた禮次郎が話し出した。
「ようやく各国が揃うと首席会議や全権会議。英米日の大洋組の会議、英仏伊の大陸組の会議、更には専門委員会などの会議また会議さ。
特に新聞記者が書き立てる大洋組の会議は日米が自分の主張を繰り返すのみ。イギリスはすでに協議は終わっているから黙ってみており日本を攻撃もしないという状況で、とうとう2ヶ月ぐらい時間が流れてしまった。
そのうちに英米仏の婦人連中が各国の署名を携えて議長に面会を求めたため、議長のマクドナルドがアメリカ全権のスティムソンと私にも立ち会いを求めてきた。
そこには喪服を着用した婦人たちが国の寡婦と孤児を代表して来たが、どうか軍縮を成功させて平和に暮らせるようにしてくれと訴えていた。
私の経験でもヨーロッパ戦争でフランスが退廃した時は国中が喪服の婦人で溢れていたので、なんとしても軍縮会議を成功させる事で軍部の暴走を止めなければならないと強く感じた。」
感じ入ったように三人は聞いていた。
「しかし4月になっても話し合いは暗礁に乗り上げていたので、日米
1人ずつ委員を出して自由に検討させようという妙案が浮かんだ。
つまり不利な条約は短いほうが良いとの判断で期限を5年後の昭和10年までとし、アメリカは大型巡洋艦を期限内には現在の15隻以上は作らないが工事には着工して期限終了後に3隻を完成させ18隻とする。
したがって条約期限内は日本の要求どおりアメリカ15隻対日本10隻でいくことに合意したが、問題なのはそれ以外の巡洋艦と潜水艦の問題が残っていることだった。」
するといままで黙って聞いていた嘉納が語気鋭く言い放った。
「若槻君。そこだ。そこが勝負どころだ。」
清一と副島も頷くと膝を乗り出し条約締結の裏側を覗き込もうとした。
「そこで私は最後の腹を決め首席全権会議で自分の考えを十分に述べようとしたが、当日はスティムソンが風邪で休みだった。
そこで一旦は後日にしようと考えたが当日は気力が充実し、まるでボートレースのスタート直前のように気が漲(みなぎ)っていたから会議終了後マクドナルドを別室に呼び出したのだ。」
ここまで話した禮次郎が温くなったコップのビールを飲み干すと、副島がコップを突き出している3人にビールを注いだ。
「そこには私たちと通訳の齋藤博君の三人だけだったので、まず私はこの軍縮会議がここまで長引いたことに不安を感じていると述べた。
さらにこの軍縮会議は世界の平和を維持し国民の負担を軽減するためのものだと確信しており、これは国民の一致した希望であるから日本の主張が承認されないならばこの会議を打ち切って帰国することも厭わない。
しかし日本の主張が若干の修正をもって条約の締結に繋がるのであれば、帰国後国民の非難は集中し私の名誉と生命はどのようになるか全く予断を許さないが、私は首席全権を引き受ける時に生命と名誉を犠牲にしても省みない覚悟を決めて会議に臨んでいる。
ようやくこの会議も終わりに近づこうとしている今、英米両首席においても私の微衷を諒とするならば、ぜひこれを承諾していただきたい。」
嘉納は膝を打って短くいった。
「よく言った。」
清一と副島は深い溜息をついた。
「しかし良くそんなことが言えましたね。
以前から豪胆なところがあるとは思っていましたが、これには驚くばかりです。」
それを受けて副島はただ頷くばかりであったが、禮次郎は清一のほうを向いていった。
「 清一も少しは政治というものに興味を持ってきたようだな。
そろそろ勅選議員として国政に参加してはどうだろう。今度のオリンピックに行く時は東京大会招致の根回しという大問題が控えているのだから、ただのIOC委員というよりも効き目があるだろう。」
「参りましたね。きんけいましまのこうですか。」
副島が怪訝な顔をしていると嘉納は頼もしそうに二人を見ていたが、禮次郎はさらに驚くような内容を語った。
「私の話しを聞いたマクドナルドはにわかに顔色を変えて立ち上がり私の手を握ると何も言わずに部屋を出て行ったが、驚いたことにその日のうちにスティムソンから電話が掛かってきた。
風邪を引いて出かけられないので至急リッツホテルまで来いというので、通訳の齋藤君と訪問すると昨日マグドナルドに話したことは本当かと聞くので全くその通りだと答えた。
すると彼は日本はどれほどの巡洋艦を希望しているのかと聞くので、紙に書いて対米の割合について説明を始めるとスチムソンが自分は計算が苦手だから委員のリードを呼びたいと言い出したので了解した。
しかしリードの計算では6割9分7厘5毛なので対米7割を満たしていないと斉藤君から抗議するように伝えたのだ。
するこの数字はほぼ7割と同じですがアメリカ全権が帰って上院の批准を受ける場合に日本の要求に譲歩したのは問題だと騒がれた時の返答として、多少は日本に譲歩したが絶対7割は認めなかったと答えるための数字を出してきたと思われます。
したがってこのギリギリの数字には抗議しないほうが良いと、スチムソンには伝えず逆に私に注意してきたのだった。
私はさすがに外交官だと感じ入りその話を了解して次の潜水艦問題に進むと、アメリカは潜水艦の10対6に固執せず日米同数の5万2千トンに同意するから日本も7万2千トンに固執せず満足してほしいという非常な譲歩を引き出せたので快く同意したのだった。
こうして政府から受けた訓令は若干の修正はあったものの趣旨を貫き条約に調印することにしたが、気が付くとこの話し合いの時間はわずか一時間だった。
しかし一番勇気付けられたのは日本の小学生から届いた手紙だったので、なんとか全員に返事を書こうとしたが果たせなかったことが残念でならない。」
3人は新聞紙上で読む条約締結の裏面を知り国民と同じように感動を覚えたが、清一は心配そうに同行した反対派の様子を聞いた。
「それは勿論だよ。4月22日午前10時セント・ジェームズ宮殿での調印式を無事に終了した後、私は今回の約70名を宿泊していたグロブナーハウスに招待して慰労の晩餐会を開いたのだ。
食事の後に隣室で寛いでいると酒も入った軍人たちが条約締結に不満を訴えにやってきたが、中には激昂して鼻血を出しながら大声で喚きだすものまで現れ会場は次第に不穏な空気が満ちてきた。
またいつまでも私が残って話していたので、心配した文官たちが私の袖を引いて早く部屋に帰って休めとしきりに勧めた。
しかしここで私が部屋に戻れば首席全権が尻尾を巻いて逃げたといわれるのは明らかなので、最後の随員が部屋に引き上げた朝方まで残っていたのだ。
翌朝食堂に出かけると心配していたウエイターから声を掛けられたが、外に向かう戦いは内に対する戦いでもあると日頃から考えていたので一向気にはしなかったがね。」
禮次郎の話が終わると3人は頷きながら温くなったビールを飲み干すのだった。
推敲済み9・5
※国際連盟・・・日本が常任理事国を務め国際紛争の平和的解決を図る目的で創立された
※副島道正・・・大正14年まで貴族院議員を務めた
※ハーバート・フーバー・・・第31代アメリカ大統領
※ワシントン軍縮会議・・・大正11年に行なわれた
※ジュネーブ海軍軍縮会議・・・昭和2年に巡洋艦の建造を制限しようとした
※イギリス首相・・・ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド
※アメリカ全権大使・・・ヘンリー・ルイス・スティムソン
その7、3月事件と満州事変と10月事件
日露戦争の英雄で日本海海戦において東郷ターンと呼ばれた敵前回頭戦法によりロシア海軍を撃破し、世界の名提督と呼ばれた東郷平八郎を初めとした軍関係者達は猛烈な軍縮反対運動を展開していた。
一方で元老西園寺公望などの協力を得てロンドン軍縮条約を締結させた、ライオン宰相と呼ばれた濱口総理は昭和5年11月14日過激的軍備増強派の一人から東京駅の第4ホームで腹部を銃撃され、東京大学病院で手術を受けた結果一命は取りとめたものの重症を負ってしまった。
さらに昭和6年1月になると日蓮宗の井上日召が同志を集めて国家の転覆計画を企て血盟団を結成したが、その方法は現政府の指導者を1人1殺主義で暗殺するというもので西園寺公望や若槻禮次郎、井上準之助などを標的にしていた。
また以前から政治不信を抱き軍備の増強など国家改造を企てていた軍人や政治家達の一部は、昭和5年に秘密結社・桜会を結成した。
彼らは昭和6年3月下旬に一万人規模の大衆を動員し、混乱に乗じて出動した陸軍部隊が議会を包囲し首相官邸などを爆撃してから、戒厳令を発動した上で議会に突入し浜口内閣を倒すというものであった。
この軍事政権を樹立するという未曾有のクーデターは直前に発覚し3月17日に撤回されたが、これを聞いた浜口は無理をして議会に復帰し事態の収拾に努めた結果4月14日に病状の悪化で総辞職を余儀なくされ惜しまれながら8月26日に死亡したのである。
病院で浜口の臨終に立ち会った禮次郎は、彼の意思を継ぎこの難局を打破すべく立憲民政党の総裁に就任すると第二次若槻内閣を組閣し第28代総理大臣に就任した。
こうして未然に防がれた3月事件は厳正な処分が下されるはずだったが、首謀者の中に陸軍首脳部も含まれていたので処分を行わずに緘口令を敷いて事件を闇の中に葬り去ろうとした。
すると9月18日には突如満州において大日本帝国陸軍の関東軍が満州事変という中国との国家間紛争を引き起こしたので、日本は国際社会の批判を一身に浴びることになってしまったのである。
したがって禮次郎を初めとした日本政府は事件の翌日に開かれた閣議で、自衛行為であると主張する陸軍関係者に関東軍の謀略ではないかと質して外交活動による解決を試みた。
しかしこれ以上拡大しないという9月24日の閣議決定を無視した関東軍は、更に戦線を拡大していくという事態を起こしたが、これは日本の歴史上始めて政府の命令を聞かない軍隊が出現したことを示していた。
10月になると再び3月事件の残党である陸軍の中堅幹部120名余が近衛歩兵10個連隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機および抜刀隊10名によって、首相官邸と警視庁を襲撃し閣僚と要人を惨殺するというクーデターを企てたが、陸軍首脳部に漏洩したため10月17日早朝憲兵隊が幹部12名を一斉に検挙し未然に防がれたのだった。
しかし処分は再び秘密裏に行われ重謹慎20日程度の形式的なものに終わり、首謀者達は各地に転任させられた結果再び真相は闇の中に葬り去られた。
さらに陸軍は政府の命令に背いて部隊を進軍させると許可無く援軍を派兵したが戦費の調達に困った陸軍参謀総長は、参内して昭和天皇に事後の御裁可を求めたが政府が経費の支出を決定していないという理由で却下されたのだった。
ここにおいて窮した参謀総長は閣議を開いて経費の支出を認めるよう禮次郎に迫ったが、閣議でも政府の命令を無視して起した軍事行動には費用面の責任を負うことは認められないという意見が大勢を占めたのだった。
しかし禮次郎は経費を出さなければ出兵している兵は食に飢え、現地の日本人が苦しめられることを避けるために、参内し政府は派兵費用の支出の用意があると伝えたことで出兵の勅裁は下されたのである。
しかし満州事変が政府の意思に反してさらに暴走拡大していったのは、立憲民政党による一党内閣が全国民の意見を反映出来ず軍部の暴走を止められなかった原因であると考えていた禮次郎は連合内閣の成立を目指したのであった。
もし各政党による連合内閣が出来れば政府の命令は国民全体の意見を代表したものになり命令が徹底出来ると考えたが、閣僚の同意を得ることが出来なかったためこの構想は断念せざるを得なかったのである。
やがてこの連立構想は新聞紙上を賑わし臨時閣議に一部閣僚の欠席を見たため、これ以上戦争反対の立場を取り続ける事が出来なくなったとして総辞職に至ったのであった。
※濱口総理・・・第27代濱口雄幸総理、立憲政友会の初代総裁
その8、暗殺とオリンピック
昭和7年2月9日第二次若槻内閣で大蔵大臣を務め大日本体育協会役員でもあった井上準之助は金輸出解禁政策や緊縮財政を計っていたが、世界恐慌による大不況のあおりを受けるように選挙演説の応援に駆けつけた駒込小学校の校門で血盟団員により腹部に銃撃を受け死亡した。
また3月5日には三井財閥の総裁団琢磨がドルを買い占めているとして、批判していた血盟団員によって三井本館前で狙撃され暗殺された。
そして清一は3月15日に内閣の輔弼を受け貴族院議員に勅選されたが、5月15日には大日本帝国海軍の武装した急進派青年将校が首相官邸に乱入し、軍縮政策を支持していた犬養毅総理他要人を暗殺するという五・十五事件が勃発したのだった。
それは巨大な暴力が足音を立てて迫り、暗黒の不安に日本中が覆われたような気配を感じさせる不吉の前兆であった。
しかしオリンピックに向けた出発の日時は迫っていた。
6月23日午後3時横浜埠頭から日本郵船の新大型客船龍田丸(艦齢約2年、1万6955トン、定員839名)は、側面に各競技選手団の横断幕と日の丸を飾り、船上には万国旗と五輪の旗を翩翻とさせて出港した。
船内には日本選手団の第一陣として嘉納と清一のIOC役員2名と、大日本体育協会の副会長平沼亮三団長以下15名の本部役員並びに陸上競技と水上競技の男子選手48名がインド選手団とフィリピン選手団と共に乗船していた。
まさに満艦飾であった。
出航を告げるドラの音と共に埠頭に集まった数千人に上る人達によって投げられた五色のテープが一行を送り出し、特設ステージでは横浜工高のブラスバンド部員30数名が奏でる音楽と500余名の合唱団の歌声に見送られて小さくなっていった。
それはまさにスポーツ船と呼ぶにふさわしい状況で、両側には数十隻のランチが旗をたなびかせて並走し、空からは新聞社の飛行機数機が勝利を祈るビラを撒きながらマストを掠めるようにして翼を振って戻っていった。
やがて太平洋に出て揺れの少なくなった龍田丸では、選手団に清一から部屋を出た時の礼節ある立ち居振る舞いと服装についての注意が与えられて解散したのであった。
清一は余韻の残る船内から逃れるように甲板の船首に立って海を見ていた。
思えば三蕃港から銀之助とともに東京に向かってから50年近くが経っていたが、イギリス船の牛と共に過ごした数日が昨日のように思い出され出発前の慌しかった数日は遠い昔のような気がして不思議な気がしていた。
出発前の選手団は多忙を極め、17日4時には墨堤にある東京帝国大学の艇庫前で今大会の派遣漕艇選手推戴式ならびに新艇の進水式が行われ、スポーツ通の鳩山一郎文部大臣や清一ならびにオリンピック後援会長の永田東京市長の祝辞があり、始めて参加するエイトは(さくら)、2回目の付きフォアは(すみだ第二世)と命名された。
各艇は台湾(たいわん)檜(ひのき)で作られたがエイトは向島の野口造船所で従来より2インチ幅を狭くして仕上げられ、舵付きフォアは尾久のデルタ造船所、補欠選手の使う舵無しペア2艇は横浜の岡本造船所で作られたのだった。
またそれぞれのオールも日本人向けに改良されたので、両艇は隅田川でその素晴らしい艇速を発揮披露したが、大切な艇の輸送は龍田丸の船倉上部に特別のアーム設けることで揺れによる被害を防止した。
そして20日4時から米国大使の招待会、7時からは協会の公式送別会が丸の内東京會舘4階大食堂でインド選手団とともに英米国大使を迎えて嘉納名誉会長に隅田川から合流した清一達と選手の合計200余名が出席して盛大に行われた。
会場では永田市長から日米親善の役割も期待するとの挨拶が行われたが、選手団には恩賜のユニフォームである真紅のブレザーが授与されたのだった。
国内初のラジオ放送が決定すると更に熱狂は高まっていったが、23日には壮行会として午前10時30分丸ビル角の路上に紅白のバラをブレザーの胸に挿した選手役員が集合して日の丸と音楽隊を先頭に役員選手団と一般の応援団が4列縦隊で行進し、日の丸を振りながら見送る沿道の市民の声援に応えた。
さらに宮城では清一の発声で万歳三唱を行ってから東京駅に向かい、東京朝日新聞社が主催し車内を飾りつけた午後12時10分発の臨時オリンピック列車で応援団と共に、府立第一商業のブラスバンド部員と男女合唱団の声に送られて8番線から横浜港に向かって出発したが日の丸を振って見送る一般市民の数は数十万人にのぼった。
部屋に戻り着替えた清一は甲板で陸上と水泳の各選手たちから挨拶を受けていたが、気が付くと隣には嘉納が微笑みながら立っていた。
「これは嘉納先生失礼しました。いつからそこにお立ちでしたか。」
「少し疲れたから岸君を誘って一杯やろうと思ってね。ところで5月20日に亡くなった武田君はざんねんだった。君達クルーの友情には私も感じる所が多かったよ。」
思わずこぼれた涙を嘉納が差し出したハンケチで拭った清一は努めて明るく言った。
「それは有難うございます。私もビールを飲みたいと考えておりましたから、喜んでお相伴させていただきますが、少し船倉のエイトを眺めて来たいと思っていますがいかがでしょうか。」
「例の新式艇だね。日本造船工学の粋を集めた素晴らしい艇だというじゃないか。ぜひ見たいものだ。
連れ立って船倉に降りた二人は上部に固定された新艇を見上げつつ、真新しいニスの匂いのするオールをさすりながら今大会のことを話すのだった。
「これが新式艇かね。」
「そうです。海軍の新式軍艦にも勝るとも劣らない艇にするため東京帝国大学の教授連中を初め、世界にも例を見ない頭脳を集めて競艇建造委員会を作り世界に誇れる全長19m全幅56cm重量120kgのエイトを建造したのです。日本の造船技術の粋を集めた最高傑作ですよ。」
「しかし岸君。始めて日本がオリンピックに行ってからここまでの道のりは何かとても長かったような気がする。今大会もメダルの期待は出来そうだし。万々歳だな。」
「そうですね。とにかく陸上と水泳陣に頑張ってもらい30日には大洋丸で出発する第二陣の役員44名と選手団83名の中でも水陸女性陣とボート、ボクシング、ホッケー、体操、レスリングにも期待が掛かるところですが、日程の関係で艦齢の古い船で多少は窮屈させるのが気の毒です。」
「しかし岸君。ボート選手は第二陣なのに、なぜ先に艇だけ積んできたのかね。」
「それはロサンゼルスについて艇が破損していた場合修理の時間が無いので、余裕を持って新しく揺れの少ない龍田丸で艇が破損しないように先に持ってきたという訳です。
また修理の利かない破損であれば代わりの艇も輸送しなければなりません。本当に乗馬やボートは人間以外のものに気を使うので大変な種目であると思っている次第です。
また陸上選手の練習用には前回と同じように、紐付きの槍や円盤なども積んでいるので準備は万全です。
またボートの連中はバック台なども積んでくるようです。」
「ほう。バック台とはなんだね。」
「陸上で漕ぐ動作と筋力を鍛えるぎったんばっこんする奴です。」
「それならば高師の艇庫で見た奴だね。知ってるよ。」
やがて二人は嘉納の船室につくとビールを飲みつつ寛いでいたが、清一はおもむろにポケットから電報を取り出した。
「それにしても嘉納先生。東京からの電報によると軍縮会議の締結を祝い一時は海軍の軍人達に冷たい視線を送っていた国民達は、6月25日の満州事変の圧勝を祝して陸海の皇軍首脳が東京駅に凱旋すると、我々オリンピック選手団のときと同じように沿道に総出で日の丸を打ち振って歓喜の声で出迎えたそうです。」
「そのことだ。私も以前から心配していたんだが、どうも日本人は勝てば官軍という思想が強すぎるようだね。この先戦争が拡大し大変なことになると心配しないのだろうか。
日本には古来から負けて勝つという考え方があったはずなのだが。
全くもって不思議な国民だ。すぐに激して冷静な判断力を失う傾向があるように思える。
また今度のIOCの会議では何とかして東京にオリンピックを招致する足掛かりを作り、スポーツの力で戦争を回避することに務めなければならないと考えるがどうだろうか。
何と言っても、仮想敵国がアメリカでは勝てる見込みはないだろう。」
「全くの同感です。その方向で万全の努力をするつもりですし、IOC役員を招待して行う大晩餐会のために個人的な軍資金を十分に用意してきました。任せてください。」
「岸君。いつも金銭的なことでは苦労をかけて済まんな。」
「何をおっしゃいますやら。もとより私も武士の末裔です。
国家のためスポーツ振興に身を捧げた以上、子孫に美田を残すつもりは毛頭ありませんよ。」
やがて嘉納の元から船室に戻った清一は、出発前に禮次郎に言われたことを思い出していた。
それは皇紀2600年(昭和15年)を祝す一大行事の一つと位置づけた東京オリンピック招致活動を成功させる事と、満州事変に警戒感を高めたアメリカで起こっている日系人に対する排斥運動が日米親善にどのような影響を及ぼしているかを調査してくることであった。
かねてから一弁護士として終生を送る覚悟であった清一は、禮次郎と同じように時代の激変の中で人生の転換点を迎えようとしていた。
それは日米関係を改善し戦端の開かれる危険性を回避するために、ヨーロッパで杉村が果たしている平和活動と連携して清一が駐米大使に就任し両国関係を改善するための人脈を更に深く構築するということでもあった。
龍田丸はそんな複雑な思いを抱いている人間達と、勝利に向かって燃えるオリンピック選手団を乗せて太平洋を渡って行った。
遂行済み 8・8
※井上準之助・・・貴族院議員、大正10年3月から大日本体育協会役員
※犬養毅・・・第29代内閣総理大臣
※日本郵船・・・大正15年東洋汽船の太平洋航路権と旅客部門を吸収合併した
※大洋丸・・・第一次大戦でドイツからの賠償船、元カップフィンステル号艦齢約20年、1万4千458トン定員1389名
その9、メダルラッシュとロビー活動
66歳の清一と72歳の嘉納は7月30日に開会式が行われた陸上競技場で、大会5日目に行われている陸上競技の棒高跳びを役員席で観戦していた。
「しかし岸君。このスタジアムの見事さと巨大さはどうだね。競技場は総天然芝だし観客席が一周してるじゃないか。まさにアメリカの国力というものを痛感させられる。
総工費は神宮の数倍以上にものぼるだろう。またことに気に入っているのは入場門の上に飾られているオリンピックのマークだが本当に素敵だ。」
「まさにその通りです。このスタジアムは大正12年5月完成で9万2516人収容といいますから日本が関東大震災でひっくり返るような騒ぎの後、ようやく大正13年に外苑競技場を完成させたことを思えば多少見劣りするのは致し方ないと思います。」
「あの当時外苑競技場を完成させたことはまさに奇跡に等しい偉業だろう。日本はよく作ったものだ。」
「それにしても明治37年の第3回セントルイスオリンピックが万博の一部として開催された時にはあまり評判が良くなかったそうです。今回のオリンピック開催を言い出したIOC委員で組織委員長を務めるミスター・ガーランドは、ロスアンジェルスが西部の田舎で東海岸から遠すぎると苦情を受け対応に苦労したといっていました。
しかもヨーロッパからは選手が参加しないだろうとする予想の中で、昭和4年の世界恐慌が勃発したので更に状況が悪くなって大変心配したそうです。」
「そうだろう。折角苦労して大会を開催した以上、成功させなければ大変なことになるというものだ。しかし大きな声では言えんが、なんとなく前回のオリンピックより施設は立派で大会史上始めて作った選手村も大好評だが、選手が少ないように感じるのは気のせいだろうか。」
「さすが嘉納先生。鋭い所を見ておられます。参加国は46カ国から37カ国に減少した上に選手数は2694人から1328人と半減しているのです。」
「世界的不況の余波はこんなところにも影響を及ぼしているのか。やがてスポーツも資金がなければ何も出来ないという状況にならなければいいが。」
もう既にそうですと言いたい言葉を胸に飲み込んで、清一は自分を落ち着かせるように話すのだった。
「したがってミスター・ガーランドは太平洋を挟んだ隣国の日本に、大選手団派遣の要請を強力に働きかけてきたわけです。まさに懇願に等しいものでしたが軍縮会議や満州事変の件もあり、もし日本が来ていなければ間違いなく失敗だと酷評されたことでしょう。
また日本は戦争よりも平和に賭ける気持ちが強いと世界にアピール出来たことは大きな成果でした。
そして東京オリンピック招致を成功するためにはアメリカの一票が大きな影響を持っていますが、さらにフィリピンとインドの一票を得るためにも船に同乗させてきた訳です。」
「なるほど。アメリカにもオリンピックで平和を望む同志が1人いるというわけだな。確かに東京大会が成立すれば根本的戦争回避が出来るというわけだ。何しろ軍艦を作る鉄でスタジアムやその他施設を作るということは巨大な費用を伴うので自然と軍備の増強が出来ず世界平和が訪れるという訳だな。
しかし今大会の費用のほうは大丈夫だろか。
天皇陛下のご理解による御下賜金と、寄付がかなり集まったと聞いているが心配だね。」
「その点ぬかりありません。
選手団に先駆けて先発組みは早くから現地入りし、日本の記録映画を上映して迫害を受けて意気消沈している同胞に元気を与える努力をして来ました。
そこで資金的協力を願うと故国を愛する方たちの努力で日本選手後援会が組織され、深刻な不況下にあるにもかかわらず多額の寄付金が集まったのです。
さらに全選手歓迎会を市内のルナパークで開いていただいたので選手の中には感泣したものまでおりました。
まさに日本人というものはイベント好きというかお祭り大好き、あるいは感激することが大好きな国民とも言えるのではないでしょうか。」
「なるほど日本人とはそうかもしれない。
はっきり物を言わない替りに激するととんでもない力を発揮するからね。
おお岸君。この大歓声を聞きたまえ。観客全員が何かを祝しているようじゃないか。」
双眼鏡を覗きながら役員に確認すると清一が言った。
「嘉納先生。今しもフィールドでは100mの吉岡君の6位入賞、走り幅跳びの南部君の銅メダルに続いて棒高跳びの西田君の銀メダルが見事確定したようです。」
「私は日の丸が揚がっているのを見るとメダルの価値は参加選手の多寡によらず上から数えるものだとは承知しているが、今大会の少ない参加人数に支えられた日本選手団の活躍が招致活動に好影響を与えるのは間違いないと思っているのだ。
しかしこの事実は日本国民には到底言えることではない。
岸君。このことは共に墓場まで持って行くこととしよう。」
一方スタジアムでは日系人を含めた10万人以上の観客が総立ちで棒高跳びの選手たちに拍手を送っていた。
「よく解りました。
しかし陸上競技もすでに半ばが終了しましたが明日には日本のお家芸の一つである三段跳び金メダルの掛かった南部君の試合と、水泳競技も始まりますから楽しみは大きいですよ。
特に水泳陣は国内の練習会から世界記録に匹敵する高記録を連発していますから、金メダルラッシュに国内は沸きかえることでしょう。
そして国内のオリンピック待望論は燃え上がり世論に後押しされた東京オリンピックはますます現実味を帯びてくる事でしょう。
ありがたいことです。また以前からメダル獲得の隠し玉として極東大会で実力を練ってきたホッケー選手団は、金メダル最右翼のインドと互角に戦えるところまで来ていました。
しかし出場国がアメリカを含めた三カ国と少なかったので、逆にメダルの可能性は銀メダル以上が望めると思います。」
「しかし新聞によるとアメリカ海軍の大艦隊は南カルフォルニアの沖合いで、一大演習を展開しているというじゃないか。
一体全体彼らは何を考えているのだろうか、心配でたまらんよ。」
「嘉納先生、どこの軍人にも悲しいことに同じような人がいます。
それよりも今晩ホテルで行われる組織委員の皆様をもてなすパーティーの開催時間が迫ってきました。
急いで帰りましょう。ミスター・エドストロームに人選を依頼した皆さんが長老の先生に会いたがっていましたよ。」
「晩餐会だな。私はどうも洋服が苦手だ。
君が昔からスーツを着用していた意味が始めて理解できたよ。
私は昔から堅苦しいことは好きじゃないし、米語はあまり理解できんのだよ。アメリカはせっかちでいかん。」
相槌を打つと嘉納の手を引きながら車に誘導するのだった。
こうして8月3日の夕刻からドクトル岸がチェアマンとして、ロスアンジェルスのアンバサダー・ホテル4階で晩餐会が開催された。
席上では東京市が正式招聘状をIOC委員会総会に提出し立候補したことを5名の市会議員と共に報告し、約50名の出席者に対して協力を要請したのであった。
当日の招待客は招致選考に一票を投じることが出来るイギリスのIOC委員エドストロームと、カナダ・メリック氏、オーストリア・シュミット博士、ストックホルム大会に砲丸投げで出場したドイツ・カール・リッター・ホォン・ハルト博士、オーストラリア・ジェイムス・テーラー氏、インド・G・D・ソンディ氏などの委員が夫人同伴で出席した。
このような二つの意味を持ったオリンピックは閉会式の直前に行われた馬術競技で愛馬ウラヌス号と共にヨーロッパを転戦し、すでにバロン西として名高い西竹一中尉(男爵)が優勝国賞典競技(大障害飛越競技)で劇的な優勝を遂げ、全ての観客を熱狂の渦に巻き込んだ。
その結果日本は金7個・銀7個、銅4個のメダルを獲得し、スポーツでも一流国の仲間入りを果たしたことを印象付けたのであった。
遂行済み 9・10
※現ロサンゼルス・メモリアル・コロシウム・・・The・Grand・Old・Lady
※ミスター・エドストローム・・・後のIOC委員長
※ドイツ・カール・リッター・ホォン・ハルト博士・・・今大会陸上競技団団長で後のベルリン大会聖火の発案者
その10、凱旋帰国と大歓迎
日本選手団の活躍と東京への招致運動の成果は刻々と国内の新聞紙上を賑わしたが、これら船で運ばれた原稿は東京湾上で待機している各新聞社の飛行機によって神業のように吊り上げられて本社に持ち帰られ印刷の速さを競われたのであった。
また招致活動の一環として7月17日にはニューヨークにおいて東京市秘書課職員が、IOC本部があるローザンヌの新聞紙上で東京大会を支持する賛成意見を発表していたスイスのIOC委員メッサーリ氏を訪ねて重ねて協力を要請した。
また大会終了後の8月16日には日本選手団の帰国する日本郵船春洋丸でメッサリー氏がオーストリアのIOC委員シュミット博士などと東京大会視察のために帰国すると報じられると、国内のオリンピック招致熱は実現の可能性の高さを実感しつつ一層の熱狂を呼んだ。
また8月17日にはIOC委員でロスアンジェルス大会委員長であったガーランド氏は、新聞紙上で日本の協力に感謝しつつ次の大会は東京に決定するまで全面的に支持すると発表した。
そこでは東京大会が決定されれば、大会史上空前の施設と準備を整え成功させるだろうとも述べられていたのだった。
9月3日にシュミット博士と選手団が帰朝すると、東京朝日新聞広告部が主催する出迎えの東京汽船菊丸が約600人の株主を乗せて午前7時に横浜港を出発した。
やがて8時30分頃観音岬沖で春洋丸を迎えると、各新聞社の飛行機と共に数十羽の伝書鳩を放って両船はハンケチを振りながら帰港したのだった。
そして4日の夕刻に行われた5回の朝日新聞社主催の無料オリンピック・トーキー上映会は、翌日から小学校や駅前広場などに場所と時間を変えて9月9日までに7回にわたって行われ大勢の観客を集めた。
また帰国途中で全日本陸上競技連盟に招待され来日したフィンランドの陸上選手たちは、練習を開始すると同時に大きく暖かい声援を受けて大きな感激を残したのだった。
こうして招致活動はイタリアを含めた9カ国を相手に非常な高まりを見せていったが、9月13日にはアメリカのワイオミング州のイエロー・ストーン・パーク・ホテルから帝国ホテルに対して8年後の東京オリンピックの予約が入り人々を驚かせた。
そして22日11時に帰港し新聞紙上で発表された嘉納の率直な談話は、和服を着た笑顔と共に人々に大きな期待を届けたのだった。
※春洋丸・・・13、377トン
その11、皇室とボート
新政府は明治天皇即位と共に海軍の充実を図ったが、海軍ではカッター競漕には力をいれていた。明治時代の初期にはたびたび隅田川などで行われた海軍カッター競漕に明治天皇が行幸し、レースに賞金を出すなどして広く国民に海国日本の宣伝に努めていた。
また明治31年11月19日には大阪で行なわれた学生及び有志が行ったボートレースを天覧したりしたが、大正天皇は明治20年代の明宮(はるのみや)殿下時代には毎年帝国大学や学習院大学の校内漕艇大会に台臨した。また学習院大学の学生時代には学友と共にボートを漕いでいたが、そのきっかけは学習院大学初等科に在籍中の小学生であった明治20年4月16日に隅田川で行われた帝国大学の競漕会に帝国大学の渡辺初代学長と共に学生が漕ぐボートに同乗してコックスの林権助や清一・千代三郎、あるいは山口鋭之助達が漕ぐレースを水上近くから観戦し感銘を受けたことであった。
以降は帝国大学の競漕会を明治26年の第7回大会まで雨天ではない限り5回も台覧し、特に第7回大会は時間の都合上メーンイベントの最後のレースを繰り上げることを御所望になるなど熱心にご覧になられた。
その後は学習院大学にボート部が出来ると必ず競漕会には出席し、明治25年に学習院の校友会である輔仁会端艇部が石川島造船所で3隻の6人漕ぎ固定席艇を建造すると白髯橋下流東岸艇庫で10月に行われた進水式に台覧した。
また今上陛下(昭和天皇)もボート好きで知られ大正9年10月23日から行なわれた第一回関東インターカレッジ・レガッタの2日目に東宮殿下として御浜離宮から出発した海軍艦載艇に乗り決勝レースを見学したほどであった。
また当日は初代日本漕艇協会会長で大日本体育協会の会長である清一が自ら審判長を務めたが東宮殿下の御台覧レースとあって当日は墨堤に10万人余の人出を数えた。
さらに第二回大会も海軍大尉の御軍装で台覧され、軍艦榛名の艦載水雷艇に乗船し決勝レースをスタートからゴールまでご覧になられレース後の全選手に拝謁と御言葉を賜り協会には金一封の御下賜金が与えられた。
さらに昭和3年3月24日におこなわれた帝都復興記念レースをご見学され、協会加盟代表エイト12クルーを言問橋の橋上に車を止めピッチ30で漕ぎ進む各艇を閲艇されたのだった。
また今上天皇の弟君の秩父宮殿下と高松宮殿下は更にボートを愛好し大正13年には両殿下の御下賜金で艇庫を増築し、スカル種目の愛好者を中心に集めた醵金で学習院大学艇庫の隣接地にウラノ・クラブを創設し艇庫を建設した。
またこの艇庫にはイギリスのシムス造船所製で秩父宮殿下の愛艇も収容されオックスフォード大学のモーダレン・カレッジ留学中にアイシス河で本格的なトレーニングとコーチをイギリス人ビル・イーストから受けダブルスカルやフォアなどを漕がれたのであった。
ときには河で一番早いクルーを決めるパンピングレースを観戦し、その頃からボートとラグビーがことに気に入られたのだった。
またイギリスではコーチのビルがシングルスカルの乗艇を許可してくれなかったが、日本では御浜離宮の池や隅田川の尾久コースで乗艇練習を積みバランスの悪いシングルスカルを1人で乗りこなせるようになった殿下は、よく上流の赤羽方面まで遠漕された。
さらに葉山の高松宮殿下ご別邸には艇庫が置かれ、しばしば御兄弟お揃いで朝凪の時などスカルを漕がれる姿が見かけられたのである。
そして秩父宮杯と名付けられた優勝杯は全日本選手権大会エイト種目に優勝したクルーに殿下自らが与えられていたが、殿下なき後は毎年妃殿下が決勝レースにお出でになり優勝杯授与されることは日本漕艇界全員の名誉ある慣わしとなっていたのである。
※林権助・・・後元大使・宮中御用係
※山口鋭之助・・・後学習院院長・宮中顧問官
※第一回関東インターカレッジ・レガッタ・・・全日本エイト選手権レース
※御浜離宮・・・現港区浜離宮庭園
※スカル競技・・・一人で二本のオールを使用
※パンピングレース・・・ヘッド・オブ・リバーという河で一番早いクルーを決める追いつき競漕
その12、天皇陛下に御前進講
昭和7年(1932年)9月29日の朝から清一は何度もトイレに出入りして周囲を心配させていたが、今日は天皇陛下にロスアンゼルスオリンピック大会についてお話をするため御前に召される日だったからである。
清一が密かに心に期していたのは東京オリンピックの招致問題については楽観的な見通しは申し上げないが、開催されれば間違いなく軍部の独走は抑えられるだろうとの見通しだった。
それは東京大会開催のために使われる国家予算が軍部の要求額を圧迫し、戦争が回避できればアジアに平和がもたらされるという点をどう御理解いただくかということだった。
やがて法律事務所にお迎えの車が到着し、清一はオリンピック大会の様子を奏上するために宮中御学問所に向かった。
この日2時から行われた御進講の内容を要約すれば、以下のようであった。
1、 オリンピックの意義と歴史について
2、 日本の参加状況と成績について
3、 ロスアンジェルス大会の成績とアメリカ国民の反応について
4、 体育御奨励のためにいただいた御下賜金へのお礼
5、 国民がスポーツと体育の発展向上に理解を示すようになり、オリンピック大会派遣に反対する者が減少してきた事へのお礼
6、 日本選手団の見事なる礼儀が武士的美学として米国人に対して好印象を与え、排日気分が減少したことで日米関係に貢献できたことに対するお礼
7、 秩父宮殿下から文部大臣を経由していただいた激励の御電報へのお礼
8、 アメリカにおける在留同胞の歓喜について
これらのまとめとして第12回東京オリンピック大会招致については、日本のIOC委員名で招待状を国際オリンピック委員会に送付したことを報告した。
またローマを初めとする9都市が開催地に立候補している現状を報告し、委員長のラツール伯爵に毎日電報を打って御機嫌を伺いながら招致運動を行ってきたことを報告した。
さらに今回の開催では欧州からの距離が問題になったが、日本からの各国への旅費支援を考える必要があると述べたのだった。
そして昭和10年に行なわれる国際オリンピック委員会でもこれまで以上に東京大会招致について努力を続けていけば、相当数賛成者が増えると予測していた。
そして次回のベルリンオリンピック大会については、かねてからドイツのヒットラー率いるナチス党がオリンピック不要論を展開していたので、ヒットラーが政権を掌握すればオリンピック大会は急遽中止と成ることが予想されていた。
その場合ローマが開催を引き受けることがラツール伯爵とイタリア首相のムッソリーニの間で黙約が交わされていたこともあり、東京オリンピック大会招致は楽々と実現する可能性が高いと申し上げたのだった。
最後に幾つかのご下問に答えて、御前を退出し別室にて侍従長などとスポーツ談義を行ったのであった。
翌日の新聞には八重洲ビルの法律事務所で発表された清一の談話として、ドイツをヒットラーが掌握すればベルリン大会はローマ大会に移り、第12回大会を日本が開催することが出来るだろうとの見通しと確信を持った記事が掲載されたのであった。
遂行済み 9・14
その13、炎の前で
昭和8年(1933年)2月、67歳になっていた清一は静養のために逗子の別荘にいた。
この和洋折衷ながら瀟洒な中に質素さを感じさせる2階建ての洋館は完成したばかりだったが、禮次郎から御進講後に送られてきた手紙に何か胸騒ぎを覚えていたのだった。
手紙には新聞における清一の談話に対して軍部を刺激するような箇所があるので、今後は言動に十分気をつけるよう書かれていた。
しかし常に訴訟関係の書類を持ち歩き仕事第一を心がけていた清一は、眠りに付こうとした2月27日の早朝ぱちぱちと何かが弾ける音で廊下に飛び出すと既に喉を刺す煙と激しい炎が満ちていたのだった。
清一は飛び出した庭で呆然としながらも偶然握り締めていた二日前の新聞を読み始めたが、そこには大きな見出しで(見よ歴史的総会の全容)とジュネーブの国際連盟において、満州からの撤退を求めた勧告は松岡代表の激高退場のまま決定されたと書かれていた。
さらに同日の号外には(日満軍の熱河討伐進展す)の文字が躍り、十万人の満州国軍が支那軍の反満態度に対して国土保全と治安維持を名目に南部河北省の天津に向かって北部3方面から討伐作戦のため越境進軍したと報じられていた。
つまり第一次世界大戦後の世界平和を願い創立された国際連合のビッグ5として強い発言力を持っていた日本が、外交方針を変更し国際舞台から降壇したことで世界の中で孤立していくことを意味していた。
焦げた頭髪を振りながら清一は天を仰いだ。
今までの努力は何であったのか。
オリンピック招致と東洋平和の行く末を思い、暗澹たる気持ちになるのであった。
遂行済み 9・14
※火事・・・6時10分発火その後完全焼失 8時鎮火
※松岡代表の激高退場・・・賛成42票、反対1票、棄権1票欠席12票により決定
第15章、夢の続き
その1、清一死す
昭和8年(1933年)10月29日宮城県の塩釜漁港にある築港魚市場を視察中の民政党総裁若槻禮次郎は、突然関係者から渡された電報を手に喉から棒を突き刺されたように空を仰いで立ち尽くした。
すぐに異変を察知した関係者の配慮で県知事の歓迎宴を退席すると急遽22時30分発の列車で帰京したが、何時もの視察旅行と異なり禮次郎の乗る車両には誰も居なかった。
禮次郎は車窓に映る顔を通して尽きることの無い思いに浸っていたが、思えば別荘の炎上事件から体調を崩していた清一が4月中旬島根評論の百号記念祝賀会を風邪のために欠席した時も驚かなかった。
やがて一時肺炎となったが直ぐに回復の兆しを見せたので、丈夫な清一に優秀な医師が付いているのだからと禮次郎は心配しなかった。
一方清一は9月30日には浅野セメント株券偽造事件が勝訴となったので久しぶりに料亭山口で祝宴を張ったが、珍しく上機嫌で近頃節制していた酒を過ごしてはウイスキーを注文した。
すると体調を心配した弁護士仲間が横取りして飲み干したので、半分怒りながらも仲間の気持ちに感謝して数杯に止めたと楽しそうに言っていた。
また10月17日の出雲学生会の五十周年記念式典が学士会館で行われた時には姿を見せていたが、少し元気が無いように感じていた。
もしあの時清一の体調不良に気付いてやれば、死ななくても良かったのではないかと禮次郎は煩悶し続けた。
思い返せば帝国大学を卒業した時には医師から鍛えられたスポーツ心臓を心臓肥大と間違われ、静養することを勧められたので精神的に相当苦しんだと聞いたことがあった。
また大正2年の第一回極東大会の時は両膝の関節炎にかかったし、昭和4年のロンドン軍縮会議の時には軽い脳溢血を起こしたと笑っていたものだった。
しかし清一は運のいい男で今まで何とかしてきたが、あの時私が強く養生を命じておけばよかったのかも知れない。
(なぜ死んだ清一。あまりに早すぎるではないか。
まだやるべきことは山済みだぞ。お前の代わりは誰も居らん。)
駅の名を聞くたびに苛立ちを覚えている禮次郎であったが、このまま東京には帰りたくない自分が居ることも感じていたのだった。
その2、第7回明治神宮大会とスポーツ葬
昭和8年10月27日から始まった第7回明治神宮大会は、日々報道される新聞記事によって国民の関心を高めていった。
また今大会では新たに4種目が加わった24種目に対して全国から過去最高の1万数千人の選手が集って開催されていたが、大会3日目の29日午前7時30分急激な喘息の発作を起した清一は8時15分伊皿子町の自宅で波乱に満ちた67歳の生涯を閉じたのだった。
急を聞きつけた人たちは自宅に続々と詰めかけ、多くの弔問客によって邸内は非常な混雑を極めていたが、大会を視察中であった秩父宮殿下は予定通り3時から隅田川でモーターボートに同乗して清一が愛したボートレースをご覧になられた。
慌しく帰京した禮次郎は清一の自宅に到着し、最後の言葉が「参った。」であったと聞いた。
混乱の中で納棺式は31日に行われ葬儀は11月1日の午前9時から青山斎場で皇室、政財界、運動界からの花輪200以上が入口の両側を埋め尽くして取りおこなわれた。
また一般の焼香者は2千人以上に上ったため、交通整理に当たった巡査と在郷軍人は数箇所に分かれ業務を分担したのだった。
さらに10時過ぎには会旗を先頭にした陸上連盟に続いて14競技団体が役員選手と共に参列し、各団体の代表が焼香を行ったので日本における始めてのスポーツ葬の状況を呈した。
その後遺骸は幡ヶ谷火葬場に運ばれ荼毘に付されたたが、49日まで大日本体育協会の本部に安置されると、大日本体育協会は12月2日に故岸先生追悼会を主催した。
こうして多くの国民に別れを告げると12月18日に青山墓地で永遠の眠りについたが、昭和9年4月28日には松江市寺町にある久成寺で分骨埋葬式が行われたが、偉大な郷土の先輩を悼む人々の数は数千人にのぼったのだった。推敲済み 9・16
その3、若槻禮次郎暗殺未遂事件
昭和9年清一の一周忌も終わり68歳になっていた禮次郎は巨大な虚無感に襲われていた。
嘉納をはじめ清一たちと共に描いて来た東京オリンピックの夢とアジアの平和が急激に遠のいていくように感じられ、禮次郎の胸中を満たしていた空しさに秋の風が拍車をかけた。
嘉納は度々連絡をよこしていたが武道家として不穏な空気を感じ取っているようで、7月11日に過激派が引き起こし未遂に終わったクーデターの神兵隊事件以降は身辺警護を厳重にするように伝えていた。
何か禮次郎は全てを投げ出したくなっていた。
しかし今まであまり危機感を覚えてこなかった禮次郎は金沢市で開かれた民政党北陸大会から帰った11月21日午前6時50分、遂に上野駅で危険と遭遇したのだった。
禮次郎が正面改札口から自動車口に向かって階段を降りた所で、厳重な警戒網を潜り抜けた20歳代の巨漢が右手に短刀と書状をかざして喚きながら肉薄してきたのである。
結局暴漢はすぐに取り押さえられたが騒然とした上野駅からは、若槻総裁襲われるの報が各地に打電されたため不穏な空気が一気に広がった。
また急遽警備陣に守られて本郷大和村の自宅に帰宅した禮次郎は、数分後玄関に現れた1人の怪漢によって再び危機に襲われた。
ただちに警戒していた巡査に捕獲され懐に刃渡り7寸5分の白鞘短刀を隠し持っていた犯人は、上野駅で逮捕された共犯を目撃し単独で凶行に及ぼうとしたのだった。
幸運にも彼らの凶手から逃れることの出来た禮次郎は警備陣の進めにより、9時5分の東京駅発熱海行き列車で伊豆東にある別荘に向かって逃れていった。
その後の警視庁による取調べでは犯人の1人は昭和5年に起こった東京駅の浜口首相銃撃事件を引き起こした過激グループの元メンバーであり、ロンドン軍縮会議に対する怒りの矛先が遂に禮次郎にも及んだ事を意味していた。
彼らの主張はロンドン軍縮会議の結果が5・15事件などを引き起こした以上、当事者である禮次郎が自刃することは当然だとして切腹を勧告しに来たというものだった。
平和の意義を理解しない国民に、禮次郎は精神的にも追い込まれていった。
なぜ平和は国民に受け入れられないのだろうか。
反問する禮次郎は別荘で李白を飲みながら民政党の総裁を辞職し、政界を引退する事を考え始めていた。
そしてついに残された時間を東京オリンピック大会招致と平和活動に尽くそうと決意した禮次郎は、四十曲がり峠を1人で越えた時を思い出し俄かに気力の充実を感じるのだった。
※李白・・・自らが名付け親となりロンドン軍縮会議にまで持参した松江の銘酒
※神兵隊事件・・・海軍航空隊100機で首相官邸と警視庁を爆撃、地上部隊数十人規模の兵隊が山本五十六 若槻礼次郎などの官邸・私邸などを襲撃し放火の上各大臣などを殺害の上警視庁・日本銀行を占拠して暴動を起こそうとした事件
その4、指一本伝説と岸記念運動会館
かつて清一は昭和3年のアムステルダムオリンピック終了後に立ち寄ったベルリンで、関西一のボート馬鹿で琵琶湖の大鯰と呼ばれていた大阪商科大学教授の大国寿吉達と落ち合いしたたかに飲んだ事があった。
そこで大国達が政界に進出して大臣になることを勧めると、清一は色をなして反論し弁護士は勉強をしていればいいのだと仲間を叱った。
帰国後大阪に出張した時にはベルリンで飲んだ仲間たちに招待され唐物町の長崎料理店(とりせ)で痛飲したが、帰る間際に立ち上がると老骨を日本のスポーツに捧げるのだと宣言した。
また大日本体育協会本部の建設を計画していた清一は、俺がこれだけ出せば三井・三菱財閥も黙って資金提供するに違いないと指一本を差し出してタクシーに乗り込んだ。
残された仲間たちは示された指一本の金額について、10万円ではないかと長く語り伝えたのだった。
昭和7年清一が貴族院議員に勅選されると喜んだボート仲間は東京会館で祝賀会を盛大に開催したが、体育界の功績によると紹介された清一は急に立ち上がりスポーツは趣味で本業は天下の弁護士であると話し始めた。
すると大日本体育協会の評議員を務めたこともある鳩山一郎文部大臣が立ち上がり、推薦者の一人として第一にスポーツ、第二に法曹界の功績という点で担当大臣として印を押したとその場を取り持ったのだった。
清一は恥じたように再び立ち上がると来たるべき東京オリンピックのために優秀なスポーツ選手を育成するため、神田駿河台のニコライ聖堂の反対側に若人の肉体的道場を作ると明言したので満場の拍手を呼んだのであった。
また恩師ストレンジ先生が青山霊園の外人墓地に人知れず眠っていることを常に気にかけていた清一は、ストレンジ先生の偉業を後世に伝えようと考えていた。
その方法として明治神宮外苑の銅像案と向島の記念碑案を検討していたが、結局向島に石碑を建てる事にして自ら建設のための発起人となり向島に場所の下見に出かけたのであった。
しかし清一の急激な体調変化は遺言など残す時間を与えなかったし、まさか夢が途中で終わるとは全く考えたこともなかった急死だった。
それでも遺族は清一の思いを届けるように一周忌が迫った昭和9年10月2日、若干の希望を添えて若人の肉体的道場の建設資金として80万円(現在の約32億円)の寄付を大日本体育協会に申し出たのである。
その希望を要約すれば次のようなものであった。
1、 単に運動会館の利用によってスポーツ界に貢献しようとするばかりではなく、財政的不安定を救済しようとするものである。
2、 会館の名称に岸の名前を冠することは望まないが、出来れば胸像を造り一文を付していただければこの上もないことである。
3、 場所は利用率を考慮し東京市の中心とすること。また会館はスポーツのみならず音楽会、講演会など多方面にも利用してもらいその利益の中から協会の自給自足ならびにオリンピック大会やその他スポーツ団体の活動資金となるようマネージメントすること。
届を受けた大日本体育協会は緊急理事会を開き衷心感謝の意を表してこの申し出を受納するとともに、岸清一の名前を永遠に記念するために名称を「岸記念運動会館」とすることに決定した。
その上で会館建設のために岸記念運動会館建設委員会を設け平沼亮三副会長を委員長、清一の後輩郷隆を主事に任命し以下6名の実行委員と、嘉納治五郎、杉村陽太郎、並びに伯爵副島道正と朝吹常吉以下14名を加えた合計26名が選任された。
そこで委員会は建設用地として昭和11年5月高台にあった旧岩崎小弥太男爵の跡地約2,597坪を、三菱合資会社との交渉で購入すると神田川聖橋通りに面した吉川元光子爵の所有地二箇所約294坪も合わせて購入したので合計2891坪が建設予定地と決定を見たのだった。
また総費用は当時の坪単価が110円だったので地代約32万円、建物11万円、付属雑費その他10万円、協会基金10万円で残金17万円という予算であった。
推敲済み 9・18
※旧岩崎小弥太男爵邸・・・千代田区駿河台4丁目6番地の高台
その5、東京オリンピック大会招致運動
嘉納は体調の優れない清一を日本に残して昭和8年6月7日ウイーンで開催されたIOC総会に、国際連盟脱退後の対外政策を担ってスイス公使として就任していた杉村陽太郎を伴い出席した。
それは新たに杉村がIOC委員に承認されることで、今後は若い二人に東京オリンピック招致活動を任せようという狙いであった。
やがて無事に杉村の就任を果たした嘉納は、清一の死を上海経由で帰国する途中に知った。
(誰よりも一番に聞いてほしかった。君と喜びを分かち合いたかったが、この身は船中にある。
清一君。この老骨を残してなぜ逝ってしまった。これからは君達の時代ではないか。君達の手でオリンピックの感動を国民に届けてほしかった。君はずるいよ。)
帰国後さらに招致活動を繰り広げた嘉納は、昭和9年5月のアテネ総会から清一の跡を継いでIOC委員となった福島道正と共に帰国すると、10月4日には新たにイタリア大使に就任することになった杉村を見送るために副島と共に東京駅に来ていた。
「杉村君。よろしく頼む。10月2日には岸君の遺族から80万円が大日本体育協会に寄付されたことが国民に発表された。岸君のためにも東京オリンピック大会招致は実現させなければならない。
また天皇陛下も心よりオリンピックを望んでおられると岸君は話していたが、平和のためにもこの大会は日本で開催するしかないのだ。
またそれは志半ばで逝った彼に報いる道だ。」
三人は手を固く握り合うと、第12回オリンピック開催地を決定するIOC総会が開かれるノルウエーのオスロでの再会を期して分かれたのだった。
昭和10年1月25日には貴族院で、第12回東京オリンピック大会の開催に関しての建議案が可決された。
2月11日杉村と副島は、イタリアのムッソリーニ首相に東京オリンピック大会開催についての陳情を行うためにローマで再会したが、副島は責務に対する心労に風邪が加わり官邸の応接室で昏倒してしまったのだった。
やがてベッドで正気を取り戻した副島は、清一から叱咤激励を受けたかのように我が身を奮い立たせようと務めた。
一方副島を残して面会を果たした杉村は、ムッソリーニに対して熱情を込めて東京大会開催の意義を訴えた。
また彼らの死を賭した行為に感動を覚えていたムッソリーニは、日本人にとって皇紀2600年という年が特別な意味を持つのではないかと感じ、ついにオリンピック開催を辞退する内諾を与えたのだった。
この話を受けた日本では2月23日に衆議院でも建議案が可決されたが、それらを聞いた嘉納はオスロに到着すると招致運動を激烈に展開していった。
ドクトル岸死亡を報告する長老嘉納の説得は、良き後継者を失った悲しみと共に深い同情と感動を各委員に与え、開催国の決定は次回のベルリン総会まで持ち越されることになったのだった。
その後イタリア政府は日本にオリンピック開催を譲る事を正式に発表したので、日本政府は首相官邸において第12回オリンピック招致委員会を全国から有識者を集めて結成したのである。
遂行済み 9・20
その6、東京オリンピック遂に招致成功
昭和11年は日本国民にとって驚愕の年となった。
それは日本が1月15日に行われた第二次ロンドン海軍軍縮会議を脱退すると、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校に率いられた近衛歩兵第3連隊と他の4部隊1483名が完全装備で首相官邸などを襲撃した2・26事件が勃発した。
このクーデターにより斉藤実内務大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監の3名と警察官などが殺傷され、陸軍省、参謀本部、朝日新聞等も占拠された。
やがて反乱軍は積もった雪の中で完全鎮圧されたが、事件は長く人々の心に冷たく残ったのだった。
しかし3月19日にはIOC委員会のラトゥール会長が競技場と関連施設を視察するため来日したが、東京駅で迎えた大日本体育協会と関係者の中に体調を崩しIOC委員を辞任した杉村の姿はなかった。
翌日は帝国ホテルを出て牛塚東京市長を訪問したラトゥールは、親しい友である岸博士に会えないのが残念であると述べると特に青山墓地に向かい関係者が見守る中で墓前に手を合わせた。
午後には文部、外務両省と陸軍を訪問すると夕方からは、東京倶楽部で副島主催の歓迎パーティーに主席した。
また東京と同じように招致活動を行っていた伯爵の母国フィンランド大使館では、副島の勧めで当初予定に無かった歓迎晩餐会を行うことが出来たので非常に感謝されたのだった。
また高松宮殿下はラトゥール会長と同国代理大使、米、伊、独各国大使ならびに嘉納と副島を含めた関係者をお茶の会に招待しその労を労ったのであった。
さらに6月5日には体育奨励の思し召しにより天皇陛下から金1万円が大日本体育協会に下賜されると同時に、政府からはオリンピック大会の補助金30万円が下付された。
一方創部五十周年を迎えた東京帝国大学端艇部は、ボート競技のエイトでオリンピック出場権を獲得すると欧州に渡り準備に余念が無かった。
そこで6月20日には仕上げのために参加したマローレガッタで念願の国際大会初優勝を上げると、国民の期待は一気に高まっていったのだった。
そして清一死亡から3年目の昭和11年7月31日ベルリンのホテル・アドロンでおこなわれたIOC総会では、36対27票でついに東京オリンピック大会の開催を勝ち取ったのだった。
それは多くの国民が待ち望んだ瞬間でもあり、アジアに素晴らしい平和が訪れることを意味していたのである。
推敲済み 9・21
※陸軍皇道派・・・陸軍内の派閥で政財界をクーデターで改造することを目指し、昭和維新と称した。
その7、岸記念運動会館着工見直しと戸田ボートコースの建設
大日本体育協会は昭和11年7月に東京オリンピックの開催が決定すると、岸記念運動会館とその他の施設建設もオリンピックに向けて計画を留保することになった。
そして昭和12年3月9日になると新たにIOC委員となった徳川家達を会長にしたオリンピック組織委員会が組織されたが、東京市から第一室内競技場建設の要望が出されたため岸記念運動会館建設委員会もこれを了承した。
また3月27日にはオリンピック政府補助金430万円(初年度75万円)が提案されると、29日には衆議院と貴族院でも可決され具体的な準備が進んで行った。
そこで岸記念運動会館は第一室内競技場の一部として建設することになり東京市と契約しようとしたが、7月7日に盧溝橋事件から始まった日中戦争が勃発したため契約締結は見送られてしまった。
しかし政府は時局不拡大方針を取ったので8月には陸軍も7名の馬術代表選手を発表したが、9月になると突然衆議院予算総会で河野一郎議員がオリンピック中止論を展開したのだった。
さらに11月25日にベルリンで仮想敵国をソ連とした日独防共協定が結ばれると、昭和13年3月には衆議院に国家総動員法が上程されたのである。
すると再び河野一郎議員が東京オリンピック開催の可否について質問すると、政府は次第に消極的な態度を見せ初め4月1日にはとうとう国家総動員法が公布されてしまった。
こうして東京オリンピック開催に胸を膨らませていた青年達は、届けられた召集令状によって一気に現実を突き付けられたのだった。
結局開催を返上することになった大会の中で奇跡的に完成を見たのはボートコースだったが、当初漕艇協会は千葉県の手賀沼、印旛沼などを視察した上で、板橋区志村にある新川岸川に堰を作る案を内務省東京土木出張所に提案したが一蹴されてしまった。
しかし当時内務省では埼玉県の戸田村地方を水害から救うために用排水路を掘削する計画が進んでいたが、東京オリンピック開催が決定すると独特のアイディアで印旛沼や多摩川などの河川工事を完成させていた金森誠之所長から戸田村に静水のボートコースを掘削する案が出された。
その案が完成すれば流れが無い世界一のボートコースが完成すると思われたが、計画によれば150万坪の土地に区画整理を行い人口3万人規模の近代工業地帯を建設するというものだった。
また漕艇場用地10万坪には工費200万円で用排水路を拡張し、荒川と並行する形でボートコースを建設するというもので、長さは国際基準の2000mに耐える全長2500m、幅80m、深さ3mであった。
さらにゴール地点には鉄筋コンクリートの観覧席と奥行き50mの共用艇庫を備え、コース両側には各団体の艇庫と自動車道路を建設するという壮大な計画だった。
さらにコースはレース中にコックスが西日の影響を受けることを避けるために西をスタート地点とし、両端は水門により水位を一定に保つ工夫もされていたので、シェル艇で隅田川の波に苦労していたボート関係者を欣喜雀躍させたのであった。
また横浜市体育協会から鶴見川案と千葉県我孫子町から手賀沼案も提出されたが、鶴見川は改修工事が間に合わず手賀沼は浚渫困難と予想されたので戸田村を第一候補、手賀沼を第二候補に選定した。
さらに戸田村の建造に要する総費用約190万円の中で組織委員会の負担は約70万円であったが、工期が2年半に及ぶためオリンピック組織委員会の正式予算決定を待たずに内諾を得た段階で着工に邁進することとなったのである。
昭和12年5月30日は花火が打ち上げられ10時55分ピストルの合図で工事が始まると、下流から漕ぎ上がってきた20数クルーと戸田小学校の児童が旗行列を作り工事の無事と前途を祝したのであった。
また開削工事には浦和刑務支所の受刑者とボート部員も参加したが、オリンピックを思う受刑者達の気持ちは刑務官達を驚かすほどの能率を上げたのだった。
しかし東京オリンピック返上が決まると一旦中止されていた工事は、治水という理由で再開されたが予算が削減された結果、長さ100m、幅10m、深さ0,5mの縮小を余儀なくされたのである。
そして明治神宮大会の皇紀2600年記念競漕のために行われた突貫工事のおかげで、昭和15年10月27日に水入式が行われると荒川から引かれた水が水門から流れ込み関係者と受刑者の目頭を熱くしたのだった。
※工事費内訳・・・予算85万円の内訳は政府補助金40万円、漕艇協会の寄付金は艇庫敷地売代10万円、区画整理捨通路捨土代12万円、旧堤防土地売却代7万円、掘削土売代16万円の合計45万円
その8、嘉納治五郎氷川丸で死す
昭和11年の第11回ベルリンオリンピック大会には役員67名、選手180名合計247名の大選手団を率いて参加した日本選手団は、金6個、銀4個、銅10個という大量メダルを獲得した。
しかし喜びに満ち溢れた平沼亮三団長以下選手団が帰国すると、日本国内の情勢は激変していたので戸惑いを隠せなかった。
それは帰国早々新聞紙上で日本選手団の行動について非難する談話が発表されたことに始まり、一気に国民間に代表団を冷ややかに見る雰囲気が作られたからであった。
この今までに無い冷遇に平沼協会は辞意を表明しようとしたが、東京開催を控えていることもあり思いとどまったのである。
このような国内情勢の中で昭和12年6月9日にワルシャワで行われたIOC総会には、副島が体調の優れない嘉納に代わって東京大会の準備説明のため参加した。
そして昭和13年3月10日から東京大会を決定するエジプトのカイロで行われたIOC総会には、代表として体調不良の副島に代わって嘉納が出席し東京での準備状況を力説したのだった。
また今回嘉納がIOC総会に出席した目的はクーベルタン男爵の慰霊祭に出席するという目的があったが、この時期はドイツがオーストリアを併合しスペインで内戦が始まった時でもあった。
さらにソ連ではスターリンが憲法制定後反対派の粛清を断行し、ムッソリーニも侵略計画を推し進めていた。
このような時期に東京オリンピック大会招致を決定した嘉納は、帰国を急ぐように船と飛行機でシアトルに向かうと日本郵船の氷川丸に乗船した。
しかし78歳になっていた嘉納が横浜到着まで2日と迫った5月4日の太平洋上で死亡すると、日本は国家総動員法を成立させオリンピック返上を決定し戦争への道を突き進んでいくのだった。
※メダル獲得数・・・金メダルは女子水泳200mを初めとして6個、銀メダル4個、銅メダルは大会参加史上初めてメダルを得た芸術競技絵画部門と水彩部門を加えた10個
※国家総動員法・・・国家の目的のために人間と全ての資源を集中することができるという法律
その9、岸記念運動会館の建設と現在
その後IOC委員会は強くオリンピックを縮小して開催することを進言して来たが、結局東京大会は中止されてしまった。
大会の返上後岸記念運動会館の建設計画は白紙に戻されてしまったが、昭和14年になると加盟団体を初めとした関係者から建設復活を望む声が高まり建設の決定を見たのだった。
それは岸記念運動会館の建設計画から4年後の昭和15年のことで、9月17日には地鎮祭が行なわれ建設工事は始まった。
しかし岸記念運動会館の建設に必要な鉄材やコンクリートは国家統制で自由に使えなかったため、総建坪約390坪で地下85坪の木造瓦葺きの2階事務所2棟が昭和16年3月22日に岸記念体育会館と名付けられ完成したのだった。
やがて恐れていた太平洋戦争が真珠湾攻撃によって開始されたが、昭和20年には全面降伏をもって終了した。
月日は流れ昭和39年に開催されることになった第18回東京オリンピック大会に備えて、岸記念体育会館は現在の渋谷区神南1-1-1に移転することになった。
そのため神田駿河台の土地は売却されることになったが、購入を希望した20社以上のなかから日立製作所に25億円で売却された。
その中から日本体育協会の基金10億円を引いた15億円で1271坪の土地に総建坪642坪地上5階地下3階の豪華なビルが完成したが残金は6500万円にも上ったのだった。
これが長く密やかにボート関係者に語られて来た、岸清一の指1本10億円伝説の真相である。
終