
【小説】焦げ爛れた瞳 1
閻魔あいほどに美しいものを、私は知らなかった。
今でも、ある一つの場面を憶えている。閻魔あいが、熱を孕んで揺らめく火焔の舌のあいだを歩いている。蒼白い頬には、ひとすじの赤い血涙が凝り、そこだけが、世界の色をかろうじて繋ぎとめている。私はその姿を、毎日、頭の中で繰り返した。それは、彼女が裏切られ、見捨てられて生き埋めにされ、死後、悪鬼となって村を焼き尽くす場面であった。
その一幕において、閻魔あいは世界から拒まれ、彼女の知っていた世界そのものを無に帰した。私がその場面を、脳髄の奥深くへ焼きつけたのは、中学生の頃である。
幼い頃から高機能自閉症と診断されていた。私にとって唯一の依り代は、閻魔あいであった。日本のアニメ『地獄少女』の登場人物である。作中において、『地獄少女』とは一つの都市伝説であり、「地獄通信」と呼ばれる手段を通じて、赤い糸を解くことにより閻魔あいを呼び出し、憎む相手を地獄へ流すことができる。ただし、糸を解いた者もまた、死後は必ず地獄へ堕ちる。
私は、誰かを殺したいと思うほど憎んだことはなかった。たとえ閻魔あいが本当に存在していたとしても、彼女はきっと、私とは別の世界に生きているのだと思った。憎しみと別れを浴び、死と絶えず結びついた生活と心をもつ彼女は、私のように平凡で、つまらぬ空想ばかりしている生き物に比べれば、美しかった。
本当に閻魔あいを理解したのは、中学生の時、小説版の『地獄少女』を読んだ時である。
中学一年の最初の授業で、私は『地獄少女』のリズムに沈みこんでいた。その内容は、いわゆる「仲間外れ」と「共通の敵」をめぐる物語であった。私は友情を理解する前に、まず憎悪といじめとは何かを理解したのである。
中学の担任教師は、厳しい女性であった。禿鷹に似た顔をしていた。乾き、痩せ、醜かった。彼女は癇癪持ちで、授業中に小説を読むことを禁じていた。
彼女は片手を私の机に叩きつけた。クラスメートが私の机を揺すった。世界が震えた。ただ私だけが、『地獄少女』の世界の中にいた。もともと私の視界は、閻魔あいの無表情な絵によって占められていた。ところが、本が抜き取られ、迫ってきたのは、あの禿鷹のような顔であった。私は顔を背けた。
クラスメートたちの笑顔が、ずるく、見知らぬものとして視界を占めた。彼らはみな楽しげに笑っていた。彼らが何を笑っているのか分からなかった。
「授業中よ。本を読まない」
「文凱(ブンカイ)! じゅ、ぎょう、ちゅう! じゅぎょうちゅうじゅぎょうちゅう!」
歓喜の空気は、ある種の祭りであった。クラスメートたちは道化のように私の机の周りを取り巻き、私が何を読んでいるのかを覗きこんだ。教師は、私が懐に抱えた小説を悪意ある眼で睨みつけ、不意にそれを高々と取り上げ、床へ叩きつけた。
「何これ」
彼女は、床の上で数頁が開いたままになっている本を嫌悪の目で見下ろした。その表情は、地面を這う大きな虫を見つけた時のようであった。
「あなたたちの年頃って、こういう頭を使わないものが好きなの?」
「先生」
私は憎しみに耐えながら訊いた。
「先生は、また、思う、というか、感じる、つまり――」
私は吃った。一時に言葉が出なくなった。多くの言葉が頭の中で膨れあがっていた。しかし「表現能力」の差は、敗北をあらかじめ決定していた。
「先生はぁ、思う、感じる、って?」
教師は私の吃りを真似し、軽蔑しきった調子で、自分のこめかみの辺りに指をくるくる回した。
「授業中は、もう少し教科書みたいな正常な本を読みなさい」
「正常って、何ですか」
私はさっき読んでいた『地獄少女』の内容を思い出した。地獄少女は、人を地獄へ送る前に、いつも「いっぺん、死んでみる?」と言う。それだって正常ではないはずであった。
クラスメートたちは、いつもと同じように、誰ひとりとして私と眼差しを合わせようとしなかった。まるで私は、教室の中へ捨てられた化け物であるかのようだった。
なるほど。私は孤立させられているのだ。
彼女は教室の前へ歩いていき、わざととも偶然ともつかぬ仕方で、小説の美しい表紙を踏んだ。私は歯ぎしりするほどの憎悪を覚えた。彼女は芝居じみた深呼吸を一つして、鳥肌の立つような声で言った。
「皆さん、こんな話を聞いたことがありますか。昔、あるお爺さんが高速道路を運転していました。お爺さんは高速道路の車を見て、慌てて息子に電話をかけ、驚くべき事実を知らせました」
私は彼女が何をしているのか分からず、ただ憎々しげに、その物語を語る、蠢く赤い唇を見つめていた。あるいは、それは鳥のくちばしであった。まわりのクラスメートたちもまた、一つ一つの唇のように見えた。私は彼らの眼の光も、鼻筋から上の部分も、すっかり忘れてしまった。ただ憎い唇だけを睨んだ。
「お爺さんは言いました。息子よ、大変だ。みんな反対方向に走っている。警察に通報しなければ、と」
その瞬間、唇たちは一斉に裂け、笑った。教室全体が爆笑した。笑い声が噴き出し、私に向かって飛び、私の全身に唾液のように降りかかった。臭かった。この猿ども。
反対方向へ走っていたのは、その「お爺さん」の方であって、高速道路の車全部ではなかった。彼女は簡単にこう結論づけた。
「沈(チン)君、みんながあなたと違う時、それはみんなの問題ではなく、あなたの問題なのかもしれない。分かりますか。普通というのは、みんなと同じ方向へ車を走らせることです」
普通。
その言葉は、本来きわめて普通で、目立たぬ言葉であった。しかしそれは、心の底に落ちた一粒の砂のように、どんなフィルターを使っても取り除けなかった。私はみじめな手つきで、床に投げ捨てられた『地獄少女』を拾い、鞄に戻した。
「普通」とか、「当たり前」は何であろうか。
「じゃあ、聞きます。この本を読んだことのある人は?」
彼女は薄笑いを浮かべ、教室中に訊ねた。クラスメートたちは首を横に振った。
「ほら、つまり、この本を読んでいるのはあなただけ」
彼女は狡猾に頭を揺らして言った。
「私もこれが何の本なのか知りません。どうやらあなたは変わっているのね。変です。」
教室中が笑っていた。
閻魔あいは、村人から異物と見なされ、拒まれた。同じように、閻魔あいが床へ投げ捨てられた時も、彼女は、ある醜いものとして適当に扱われていたのだった。
授業のあいだ、私は教科書に絵を描いた。そこには、黒い長髪をたなびかせた閻魔あいがいた。彼女は炎と化した村の中で踊っていた。その舞は、焦げた灰の匂いを伴い、孤独で、奇異で、やがて妖艶になっていった。彼女こそが正常ではなかった。
家へ帰ると、パソコンを開き、グーグルに検索ワードを打ちこみ、画像を探し、ふたたび閻魔あいの眼を見つめた。
私は見惚れた。閻魔あいが、私さえ受け入れた。何ものもない、光も物もない眼の中で、すべては拒まれ、同時に、すべてが含まれていた。
これこそが美であった。
閻魔あいだけは、私を見ていた。
中学時代、私は課外の読書をやめた。ただ一つの物語だけを、私の内側に残した。『地獄少女』であった。彼女さえいれば、どんな難しいことも越えられるように思われた。夜中、私は小さな閻魔あいの絵をペンケースの裏側に貼った。両親が部屋に入ってくるたび、私はペンケースを裏返した。両親の小言が終わると、閻魔あいはまた私のもとへ帰ってきた。
私は現実を顧みず、妄想に耽り、あるいは頭に問題を抱え、精神病院に連れていかれるべき人間であると思われるかもしれない。実は、閻魔あいに関することはすべて私の秘密であった。私はそれをむやみに他人へ知らせることはなかった。成績には気を配っていたから、両親も教師も、異状に気づくことはなかった。
しかし高校に入り、初めて相談室でカウンセリングを受けた時、私は気づいてしまった。
私は閻魔あいにふさわしくない。