
百合庭園
あらすじ
都内の名門お嬢様学校へ転入したえりかは、誰もが憧れる美貌と気品を兼ね備えた生徒会長・桜庭さゆりと出会う。
しかし、その学院には「名前を忘れられた生徒は、この世から消える」という不気味な怪談が語り継がれていた。
地下礼拝堂で見つけた古い日記をきっかけに、えりかは百年以上隠され続けた学院の秘密と、白百合会に受け継がれる悲しい使命を知る。
忘れられた少女たち、名前を守り続けてきた生徒会長、そして地下庭園に咲き続ける白百合――。
怪異と百合が織りなす、学園ゴシックホラー。
第一章 転校生
都内でも名門と名高い私立・聖マグノリア女学院。
その校門を前にした瞬間、えりかは無意識に足を止めた。
白い石造りの門柱には蔦薔薇が絡み、手入れの行き届いた庭園には百合が一面に咲いている。春の風に揺れる花々は美しかったが、どこか作り物のようでもあった。
綺麗すぎる。
その印象が、胸の奥に小さな違和感を残した。学院へ続く石畳を歩けば、すれ違う生徒たちは皆、映画の中から抜け出してきたような少女ばかりだった。
制服は深い紺色のブレザーに白いリボン。長い髪を艶やかに結い、姿勢を崩す者は一人もいない。
誰も笑わず、誰も騒がない。足音だけが静かに響く。
ここには「普通」が存在しないのだと、えりかはすぐに理解した。
自分だけが場違いだった。母は酒に溺れ、父の顔も知らない。家では怒鳴り声が日常で、食卓よりもコンビニのパンの方が見慣れていた。
そんな家庭から、特待生制度でこの学院へ入学した自分は、まるで別世界へ紛れ込んだ異物だった。
「新入生?」
振り返ると、一人の教師が立っていた。
「あなたがえりかさんね。」
「はい。」
「理事長がお待ちです。」
案内された廊下には、大きな肖像画がいくつも飾られていた。歴代の学院長だろうか。
いや、違う。全員、少女だった。制服姿の少女たちが額縁の中で微笑んでいる。
説明板には、
『歴代生徒会長』
とだけ記されていた。その中の一枚を見た瞬間、えりかは足を止める。
少女の瞳が、自分を見た気がした。思わず振り返る。誰もいない。
もう一度絵を見ると、少女は最初から動いていなかった。
「……気のせいか。」
「どうしました?」
「いえ。」
教師は何事もなかったように歩き続ける。その背中を追いながら、えりかは小さく首を振った。緊張しているだけだ。
そう思い込むことにした。
◆
教室へ案内されると、空気が少しだけざわついた。
「今日から編入される、えりかさんです。」
四十人ほどの視線が一斉に集まる。
どの顔も整っている。どの顔も笑っている。
しかし、その笑みはどこか冷たかった。
「よろしくお願いします。」
短く頭を下げる。拍手が起こる。
だが、その拍手は歓迎というより儀式のようだった。
担任は窓際の席を指した。
席へ向かう途中、女子生徒たちの囁きが耳に入る。
「今年の子。」
「普通ね。」
「珍しい。」
「会長が気に入りそう。」
最後の一言だけ、妙に小さかった。えりかが振り返ると、全員が何事もなかったように教科書を開いていた。
◆
昼休み。一人で中庭へ出ると、学院の美しさが改めて目に入る。
噴水。白百合。ガゼボ。風に揺れる木漏れ日。絵画のような景色だった。
「あなたが転校生?」
声がした。振り向いた瞬間、時間が止まったような気がした。
一人の少女が立っていた。長く真っ直ぐな黒髪。雪のように白い肌。人形のように整った顔立ち。まるで生きていることが不自然なほど、美しい。
「私は生徒会長の、さゆり。」
その声は柔らかく、どこまでも穏やかだった。
「えりかです。」
「知ってる。」
さゆりは微笑む。その笑みには嫌味も棘もない。それなのに、えりかは胸が締め付けられるような息苦しさを覚えた。
視線を逸らしたくなる。なのに逸らせない。吸い寄せられる。そんな感覚だった。
「学院には慣れそう?」
「まだ……よく分からなくて。」
「そう。」
さゆりは百合を一輪摘み上げる。白い花弁を指先でなぞりながら、小さく笑った。
「綺麗なものって、不思議よね。」
「え?」
「見ているだけじゃ満足できなくなる。」
花を握る。ぶち、と鈍い音がした。白い花弁が潰れる。指先から乳白色の汁が滲み、花は無残な形になった。
「壊してしまいたくなる。」
その言葉だけが妙に冷たく響いた。
えりかは返事ができなかった。次の瞬間には、さゆりは何事もなかったように微笑んでいた。
「ごめんなさい。変な話をしたわ。」
「い、いえ……。」
「また話しましょう。」
軽く頭を下げ、さゆりは去っていく。
その後ろ姿を見送りながら、えりかは胸の奥に小さな棘が刺さったような感覚を覚えていた。
◆
放課後。
帰り支度をしていると、廊下の向こうから女子生徒の悲鳴が聞こえた。
一瞬だけ。本当に一瞬だけだった。
「今……。」
教室中の生徒が聞こえたはずなのに、誰一人反応しない。
皆、静かに鞄を持ち、笑顔で帰宅していく。教師も何も言わない。まるで最初から悲鳴など存在しなかったかのように。
気になったえりかは廊下へ出た。音のした方へ歩く。
廊下の突き当たりには、生徒会室と書かれた重厚な扉があった。
その扉の下から、赤黒い液体のようなものが一筋だけ流れ出ている。
息を呑む。
恐る恐る近づき、指先で触れようとした、その時だった。
「そこへ入ってはいけません。」
背後から声がした。振り返ると、白髪の老女がモップを持って立っていた。学院の用務員らしい。
「ここは、生徒会の時間ですから。」
穏やかな笑顔。だが、その目は笑っていない。えりかが再び床を見ると、さっきまであったはずの赤い液体は跡形もなく消えていた。
「……見間違い?」
そう呟くと、老女はゆっくり首を横に振る。
「この学院では。」
一拍置いて、囁くように続けた。
「見えてしまう人ほど、長くはいられません。」
その言葉と同時に、生徒会室の扉の向こうから、小さな笑い声が聞こえた。
少女が何人も、一斉に笑っているような声だった。
第二章 白百合会
放課後を告げる鐘が鳴ると同時に、教室の空気がほどけた。
椅子を引く音、鞄の金具が鳴る音、控えめな談笑。
どこにでもある放課後の風景だった。
それなのに、えりかは誰一人として「さようなら」と言わないことに気付いた。
誰もが静かに教室を出ていく。
まるで、この学院では別れの挨拶さえ必要ないかのように。
机の中から白い封筒を取り出す。
百合の封蝋は、窓から差し込む夕日に照らされ、血のような赤色に見えた。
ただの光の加減。
そう自分に言い聞かせても、不吉な胸騒ぎは消えない。
廊下へ出ると、人影はほとんどなかった。
長い廊下の先にある生徒会室だけが、柔らかな橙色の光を漏らしている。
歩くたび、自分の靴音だけが響いた。
コツ。
コツ。
コツ。
不意に。
その音が四つになった。えりかは立ち止まる。
靴音も止まる。振り返る。
誰もいない。
廊下の窓には夕焼けが映り、自分以外の姿はどこにもなかった。
聞き間違い。
そう思って再び歩き始める。
コツ。コツ。コツ。
――コツ。
やはり、一歩遅れてもう一つの足音が響く。今度は間違いではない。背中に冷たい汗が流れる。
思い切って振り返る。
誰もいない。だが、窓ガラスには確かに映っていた。
えりかのすぐ後ろに、長い黒髪の少女が立っている。
制服姿。
顔だけが、髪に隠れて見えない。息が止まる。勢いよく振り返る。
やはり、誰もいない。
「……誰。」
返事はない。もう一度窓を見る。そこには自分だけが映っていた。
そのとき。
「えりかさん。」
優しい声が響く。振り返ると、生徒会室の前にさゆりが立っていた。
「迷った?」
夕日に照らされたその姿は、まるで絵画の聖女だった。白い指先が静かに扉へ伸びる。
「どうぞ。」
重厚な扉が音もなく開く。昨日と同じ豪奢な部屋。赤い絨毯、磨き上げられた調度品。
暖炉には火が灯り、紅茶の香りが部屋を満たしていた。
生徒会役員たちはすでに席に着いている。
昨日と同じ位置、昨日と同じ姿勢。
まるで一日中、一度も動かなかったかのようだった。
「歓迎しましょう。」
さゆりが静かに言う。役員全員が一斉に立ち上がった。
「ようこそ、白百合会へ。」
五人の声が寸分違わず重なる。その揃い方は美しいを通り越して、不気味だった。
さゆりはえりかへ椅子を引く。
「ここへ。」
腰を下ろした瞬間、小さな銀色の鍵が机の上に置かれた。
「学院には立ち入り禁止の場所が多いの。」
さゆりは穏やかな笑みを浮かべたまま言う。
「だから、生徒会役員だけが持つ鍵があるの。」
細い指が鍵を撫でる。
「秘密は、美しいでしょう?」
えりかは曖昧に頷いた。その視線は、部屋の一番奥へ吸い寄せられていた。
古びた木の扉。
昨日と同じように、何重もの錠前で閉ざされている。
しかし今日は違った。扉の下から、白い花びらが一枚だけ滑り出ていた。
百合だった。
役員の誰も気付かない。
いや、気付いているのに見ないふりをしているようにも見える。
えりかは思わず立ち上がり、その花びらを拾おうとした。
「触らないで。」
初めてだった。さゆりの声から温度が消えた。部屋の空気が一瞬で凍りつく。
役員たちも、ぴたりと動きを止めた。えりかは驚いて手を引っ込める。
次の瞬間には、さゆりはいつもの穏やかな笑顔に戻っていた。
「ごめんなさい。」
柔らかく笑う。
「その花は……汚れているから。」
そう言って自ら花びらを拾い上げる。指先でそっと包み込むと、花びらは砂のように崩れ、白い粉になって床へ落ちた。
えりかは目を見開く。
「今……。」
「古い花は、すぐに壊れるの。」
さゆりは静かに微笑んだ。そのときだった。
コン。
部屋の奥の扉が鳴る。
一度だけ。役員たちは顔色一つ変えない。
コン。
今度は少し強く。まるで、中にいる誰かが「気付いて」と訴えるように。
えりかは無意識に扉を見つめた。
すると、扉の隙間からほんの一瞬だけ、白い指先が覗いた。
助けを求めるように震えたその指は、次の瞬間、見えない何かに引きずり込まれるように闇の中へ消えた。
部屋には、再び静かなティーカップの触れ合う音だけが響いていた。
第三章 地下へ続く扉
歓迎会が終わる頃には、窓の外は夕暮れに染まり始めていた。
生徒会役員たちは一斉に立ち上がる。
椅子を引く音も、礼をする角度も、歩き出すタイミングまでも寸分違わない。
その光景を見ていると、人間ではなく精巧な人形が同じ動きを繰り返しているようだった。
「今日はありがとう。」
さゆりは柔らかく微笑んだ。
「少しは学院に慣れた?」
「まだ緊張します。」
「そう。」
彼女は嬉しそうに目を細めた。
「焦らなくてもいいわ。この学院は、知れば知るほど好きになるものだから。」
その言葉だけが、なぜか胸に引っ掛かった。
◆
「実はお願いがあるの。」
役員たちが部屋を出ると、さゆりは机の上へ積まれた古い本を見た。
「図書室へ返却する本があるの。一人では少し大変で。」
「もちろん、お手伝いします。」
「ありがとう。」
えりかは十冊ほどの本を抱える。どれも革張りの古い本ばかりだった。
想像以上に重い。
「ずいぶん古い本なんですね。」
「学院が創立した頃の資料も混ざっているから。」
「そんな昔から?」
「百年以上続く学校よ。」
さゆりはそう答え、静かに廊下へ出た。
◆
放課後の校舎は昼間とはまるで違って見えた。
教室には誰もおらず、夕日だけが長い廊下を赤く染めている。二人の足音だけが静かに響いた。
「昼間は賑やかなのに、不思議なくらい静かですね。」
「この時間になると、みんな早く帰るの。」
「部活は?」
「最低限しかないわ。」
さゆりは前を向いたまま続けた。
「昔から、この学院では日が暮れる前に帰宅する決まりなの。」
「校則ですか?」
「そういうことになっているわ。」
答えは曖昧だった。
それ以上聞こうとした時、廊下の突き当たりに「立入禁止」と書かれた鉄扉が見えた。新しい南京錠が二つ。その周囲だけ壁が新しく塗り直されている。
「あそこは?」
えりかが尋ねると、さゆりは一瞬だけ歩みを止めた。
「旧校舎へ続く通路。」
「使わないんですか。」
「ええ。」
それだけだった。声色は変わらない。
けれど、その話題を終わらせたいという空気だけは伝わってきた。
◆
図書室は校舎の北棟にあった。
高い天井まで届く本棚が整然と並び、紙と木の匂いが漂っている。
司書の姿は見当たらない。
「この棚へお願い。」
えりかは本を一冊ずつ戻していく。最後の一冊を棚へ差し込もうとした時、一冊の古びたアルバムが床へ落ちた。
ぱさり、と乾いた音が響く。
「ごめんなさい。」
拾い上げると、表紙には金文字で『白百合会記録』と刻まれていた。何気なくページを開く。
そこには歴代生徒会役員の集合写真が並んでいた。
年代は昭和初期から現在まで続いている。どの写真も、中央には生徒会長らしき少女が立っている。
その中の一枚を見た瞬間、えりかは動きを止めた。
「……似てる。」
昭和三十年代の日付が入った写真。中央に立つ少女は、今のさゆりによく似ていた。
髪型も、涼しげな目元も、静かな笑みも。もちろん別人なのだろう。それでも、血縁という一言では片付けられないほど酷似していた。
「見つけたのね。」
さゆりの声に、えりかは我に返る。
「歴代の生徒会ですか?」
「ええ。」
「この人……さゆりさんに似ていますね。」
一瞬だけ、さゆりは写真を見つめた。
「そう言われることはあるわ。」
それだけ答え、本を閉じようとした。
その拍子に、一枚の古びた紙がアルバムの間から滑り落ちる。
黄ばんだ設計図だった。学院全体の見取り図。
見慣れた校舎の下に、薄く地下階の図面が描かれている。
「地下……?」
思わず声が漏れる。その瞬間、さゆりは素早く設計図を拾い上げた。
「古い資料よ。」
「地下室があるんですか?」
「昔は倉庫として使われていたみたい。」
「今は?」
「閉鎖されているわ。」
それ以上の説明はなかった。設計図は丁寧に折り畳まれ、アルバムへ戻される。
◆
「その本を見たの。」
不意に背後から老いた声がした。振り返ると、灰色の作業服を着た用務員の女性が立っていた。
学院で何度か見掛けた人物だった。
「すみません、勝手に開いてしまって。」
えりかが頭を下げると、女性は静かに首を振る。
「謝ることじゃない。」
皺だらけの手がアルバムをそっと撫でる。
「でも、その本はあまり開かない方がいい。」
「どうしてですか。」
女性は答えず、図書室の奥へ目を向けた。何かを思い出すような、遠い目だった。
「昔、この本を熱心に読んでいた子がいた。」
「その人は?」
「卒業しなかった。」
短い返事だった。えりかは意味を考える。退学したということだろうか。
事故に遭ったのだろうか。聞き返そうとした時、女性はぽつりと呟いた。
「地下を知ろうとする子は、みんな同じ。」
その言葉に、図書室の空気が急に冷たくなった気がした。えりかは思わず腕をさする。
「地下で何があったんですか。」
女性はゆっくり首を横へ振る。
「知らない方が長生きできる。」
それだけ言うと、アルバムを棚へ戻し、静かに立ち去っていった。
◆
図書室を出る頃には、校舎は薄暗くなっていた。えりかとさゆりは並んで廊下を歩く。誰もいない。
夕日の赤も消え、窓の外には群青色の空が広がっていた。図書室の前を通り過ぎた、その時だった。
――コン。
小さな音がした。えりかは足を止める。
「今……。」
図書室の方を見る。誰もいない。静まり返った廊下に、時計の針だけが時を刻んでいる。聞き間違いだったのだろうか。
そう思い歩き出そうとした、その瞬間。
――コン。
もう一度。今度ははっきりと聞こえた。木を叩くような、小さな音。図書室の奥。本棚の向こう側からだった。
えりかは息を潜める。さゆりはしばらくその方向を見つめ、小さく目を伏せた。
「帰りましょう。」
その声は穏やかだった。けれど、どこか悲しそうでもあった。えりかはもう一度だけ図書室を振り返る。
薄暗い本棚の奥は静まり返っている。しかし、誰もいないはずのそこから、自分を見つめる視線だけは、最後まで消えることがなかった。
第四章 消えた生徒
その夜、えりかはなかなか眠ることができなかった。図書室で聞いた二度のノック。用務員の女性が口にした言葉。
――地下を知ろうとする子は、みんな同じ。
何が同じなのか。その先だけは、決して話そうとはしなかった。
考えれば考えるほど、胸の奥に黒い染みのような不安が広がっていく。
◆
翌朝。雨は上がっていた。洗われた石畳は朝日に照らされ、校舎は昨日よりも白く見えた。
学院へ足を踏み入れた瞬間、えりかは違和感を覚える。
中庭に植えられた百合が、一輪だけ根元から折れていた。昨日までは咲いていたはずだった。花は泥にまみれ、それでも白い花弁だけは不自然なほど汚れていない。
「誰か踏んだのかな……。」
小さく呟く。
「百合に触れてはいけません。」
突然声を掛けられ、えりかは肩を震わせた庭師らしい年配の女性が、箒を手に立っていた。
「学院の百合は、生徒会が管理していますから。」
「すみません。」
女性は折れた百合を拾い上げると、布に包み、大切なものを扱うように抱えて去っていく。
たかが花一本。
それなのに、その姿はまるで亡くなった誰かを運んでいるようだった。
◆
一時間目が始まる前。えりかは昨日から気になっていたことを確かめるため、教室を見回した。
やはり、眼鏡を掛けた少女はいない。あの日、渡り廊下で話をした少女。名前は聞けなかった。けれど、その顔も声もはっきり覚えている。
隣の席の少女へ尋ねる。
「あの……少し聞いてもいい?」
「なに?」
「この前、一緒にいた眼鏡の子なんだけど。」
少女は首を傾げた。
「眼鏡?」
「栗色の髪で……。」
「そんな子、このクラスにいたっけ?」
その声に、近くの生徒たちも会話へ加わる。
「誰のこと?」
「転校生、誰かと間違えてるんじゃない?」
「うち、眼鏡は禁止だよ。」
最後の一言に、えりかは息を止めた。
「禁止……?」
「校則知らないの?」
少女は笑う。
「眼鏡は禁止。コンタクトが決まりだよ。」
そんな校則は、入学時の説明にはなかったそれでも誰も疑問を抱いていない。えりかだけが取り残されていた。
◆
昼休み。
どうしても納得できず、えりかは職員室へ向かった。
「失礼します。」
担任は書類へ目を通していた。
「どうしたの?」
「あの、一つだけ確認したくて。」
「うん。」
「このクラスって、本当に四十人ですか?」
担任は少し驚いたような顔をした。
「ええ。あなたを入れてちょうど四十人。」
「編入前は?」
「三十九人だったよ。」
その答えに、えりかは胸を撫で下ろした。やはり一人分、席が増えている。自分の勘違いではなかった。
「じゃあ、その一人は……。」
「あなたでしょう。」
担任は不思議そうに笑った。
「あなたが来るまで空席だったんだから。」
えりかは言葉を失う。それ以上、何を聞いても同じ答えしか返ってこなかった。
◆
教室へ戻る途中、二階の廊下で足を止める窓の外では、生徒会役員たちが中庭の百合を手入れしていた。皆、白い手袋をはめ、一輪ずつ丁寧に花を整えている。
その中央には、さゆりの姿があった。彼女は折れた百合を一本手に取ると、そっと土へ埋め直した。まるで墓標を立てるような静かな仕草だった。その姿を見つめていると、さゆりがふと顔を上げる。
目が合った。柔らかな笑みが浮かぶ。そして、小さく手を振った。何も知らなければ、優しい生徒会長にしか見えない。
その笑顔が、えりかには恐ろしく思えた。
◆
放課後。
帰ろうと昇降口へ向かっていると、廊下の奥から小さな物音がした。誰かが走り去るような足音。
反射的に後を追う。曲がり角を一つ。また一つ。人気のない旧校舎側の廊下まで来たところで、足音は止んだ。
そこには誰もいない。ただ、一枚の生徒証だけが床へ落ちていた。
拾い上げる。写真は剥がされ、名前の部分だけが鋭利な刃物で切り取られている。
所属欄には、かろうじて文字が残っていた。
一年A組
えりかと同じクラスだった。その瞬間、背後で小さく息を呑む音がした。
振り返る。
廊下の突き当たりに、眼鏡の少女が立っていた。
昨日と同じ制服。青白い顔。泣き腫らした目。少女は何も言わない。
ただ、生徒証を握るえりかをじっと見つめていた。
ゆっくりと唇が動く。今度ははっきりと読めた。
――返して。
その直後、廊下の窓が激しく鳴った。驚いて目を閉じる。再び顔を上げた時には、少女の姿は消えていた。
えりかの手の中には、生徒証だけが冷たく残されていた。
第五章 百合の女
生徒証を拾ってから三日が過ぎた。えりかは、そのことを誰にも話せずにいた。名前の切り取られた生徒証は、制服の内ポケットへ入れたままになっている。
何度捨てようと思っても、なぜか手放すことができなかった。まるで持ち主が返してほしいと訴え続けているようだった。
◆
昼休み。教室を出ようとしたえりかを、さゆりが呼び止めた。
「今日は一緒にお昼を食べましょう。」
断る理由は見つからなかった。案内されたのは、生徒会室ではなく中庭だった。白百合に囲まれた東屋。
丸いテーブルには白いクロスが敷かれ、紅茶と焼き菓子が並べられている。
風が吹くたび、百合の甘い香りが辺りへ広がった。
「綺麗でしょう。」
さゆりは花壇を眺めながら微笑んだ。
「この百合は学院の誇りなの。」
「毎日、生徒会のみなさんが手入れをしていますよね。」
「ええ。」
カップを持ち上げたまま、さゆりは小さく頷く。
「花はね、とても正直なの。」
「正直?」
「誰に愛され、誰に嫌われているのか、ちゃんと分かる。」
その言葉に、えりかは思わず花壇を見る。雨上がりの土から伸びる白百合は、どれも美しかった。ただ、一番奥の一角だけ、何本もの花が切り落とされた跡が残っている。
「あそこだけ花がありませんね。」
えりかが尋ねると、さゆりは少しだけ黙った。
「あそこは、咲かせてはいけない場所なの。」
「どういうことですか。」
「昔からの言い伝え。」
さゆりはそれ以上話さなかった。
◆
その日の放課後。えりかは図書室へ向かった。
歴史資料の棚を調べていると、一冊の古い郷土史が目に留まる。ページをめくる。
学院が建つ土地について書かれた章だった。そこには、小さな見出しがあった。
『百合塚伝承』
思わず読み進める。今から百年以上前、この土地には身寄りのない少女たちを引き取る修道院が建っていた。ある年、一人の少女が突然姿を消した。修道院中を探しても見つからず、数日後、中庭いっぱいに白百合が咲いたという。
それ以来、
「百合が一輪消える時、少女も一人消える」
そんな言い伝えが残ったと記されていた。
「その本は、あまり面白くないでしょう。」
不意に背後から声がした。用務員の女性だった。灰色の作業服姿のまま、本棚へ寄り掛かっている。
「百合塚って、本当にあるんですか。」
女性は少し考え込むように目を伏せた。
「昔はそう呼ばれていたね。」
「昔は?」
「今は学院になった。」
それだけ言うと、本を閉じようとした。えりかは慌てて尋ねる。
「百合の女って、知っていますか。」
女性の動きが止まった。図書室の空気が一瞬で重くなる。静寂の中、時計の針だけが音を立てていた。
「……誰から聞いた。」
「本に少しだけ。」
女性は長い溜め息をついた。
「忘れなさい。」
「でも。」
「あれは怪談なんかじゃない。」
初めてだった。女性の声が震えていた。
「今も、この学院にいる。」
えりかの喉が乾く。
「誰なんですか。」
「誰でもない。」
女性は静かに首を振る。
「名前を持たなくなった子だ。」
その言葉を最後に、女性はポケットから一本の古い鍵を取り出した。真鍮製の、小さな鍵だった。柄の部分には百合の紋章が刻まれている。
「これ……。」
「図書室の倉庫の鍵だ。」
女性はえりかの手へ鍵を握らせた。
「昔の資料が残っている。」
「私が持っていていいんですか。」
「返さなくてもいい。」
その言い方が、なぜか別れの挨拶のように聞こえた。
「ただし。」
女性はえりかの目を真っ直ぐ見つめる。
「夜になってから、その鍵を使ってはいけない。」
「どうして。」
「夜の図書室は、昼とは違う。」
えりかがさらに尋ねようとした、その時だった。
校内放送が流れた。ザーッという砂嵐のような雑音。
続いて、若い女性の声が響く。
「本日の下校時刻は午後五時です。」
一拍置く。雑音が大きくなる。そして、もう一つの声が重なった。
「鍵を、返して。」
えりかは凍り付いた。用務員も顔色を変えて放送設備を見上げる。しかし周囲の生徒たちは、何事もなかったように帰り支度を続けている。誰にも、その声は聞こえていない。えりかは制服のポケットへ手を入れた。さっき受け取ったばかりの鍵が、小刻みに震えていた。
第六章 地下書庫
鍵を受け取ってから二日。えりかは何度も制服のポケットへ手を入れては、その冷たい感触を確かめていた。
用務員は言った。
――夜になってから、その鍵を使ってはいけない。
ならば昼ならいいのだろうか。その考えが頭から離れなかった。
◆
昼休み。
昼食もそこそこに済ませると、えりかは一人で図書室へ向かった。窓から射し込む初夏の陽射しが床へ長い四角を描いている。
司書の姿は、今日もない。図書室の一番奥。
普段は立ち入り禁止の札が掛けられている小さな木の扉の前で立ち止まる。
鍵穴には、百合の紋章が彫られていた。制服のポケットから真鍮の鍵を取り出す。
ぴたりと収まる。ゆっくり回すと、小さく音を立てて錠が外れた。
きい、と古びた蝶番が鳴る。扉の向こうは細い石造りの階段だった。
地下へ続いている。
湿った土の匂いが鼻をついた。思わず息を止める。
「本当に、地下がある……。」
学院の設計図に描かれていた場所。都市伝説でも、怪談でもなかった。えりかは手すりへ触れ、一段ずつ慎重に下り始める。
◆
地下は驚くほど静かだった。階段を下り切ると、小さな廊下が一本だけ伸びている。
天井には古い裸電球が等間隔に吊され、ぼんやりと橙色の光を落としていた。誰かが手入れをしているのか、埃はほとんど積もっていない。
廊下の両側には重い木の扉が並んでいた。
それぞれに真鍮の札が付いている。
『資料室』
『保管庫』
『第一書庫』
どれも古い字体だった。えりかは一番手前の『第一書庫』と書かれた扉を押し開ける。
中には天井まで届く書架が並び、革張りの本がびっしりと収められていた。
紙の匂い。湿った木の香り。地下とは思えないほど整然としている。
「誰か……いる?」
返事はない。自分の声だけが静かに反響した。
◆
本棚を眺めながら歩いていると、一冊だけ真新しいファイルが目に留まった。周囲の古びた資料とは明らかに異質だった。
背表紙には黒い文字で、
『退学者記録』
と書かれている。えりかは思わず手を伸ばいた。
ページを開く。年度ごとに名前が並んでいる。
家庭の事情。病気。海外転居。退学理由が簡潔に記されていた。しかし、十年前のページだけ様子が違う。名前が一つだけ黒く塗り潰されている。理由の欄には何も書かれていない。
その次の年も。さらにその次も。毎年、一人だけ名前が消されていた。
「毎年……一人。」
その規則性に背筋が冷える。ふと、一番新しいページをめくる。今年度。そこにはまだ何も書かれていなかった。空白のまま、一行だけ残されている。
えりかは胸騒ぎを覚えた。その空白が、誰かの名前を待っているように見えたからだ。
◆
――コン。
乾いた音が響いた。えりかは顔を上げる。どこから聞こえたのか分からない。
静かな地下書庫に、自分の呼吸だけが響いている。気のせいだと思い、再びファイルへ目を落とした。
――コン。
今度ははっきり聞こえた。書庫のさらに奥本棚の向こう側だった。
えりかはゆっくり歩き出す。一列、また一列と本棚を抜ける。奥へ行くほど空気は冷たくなり、裸電球の光も弱くなっていく。
やがて行き止まりへ辿り着いた。そこには壁しかない。
「誰か、いるんですか。」
返事はない。
代わりに、壁際へ積まれた木箱の陰から、一冊の古い日記帳が半分だけ覗いていた。
拾い上げる。表紙には何も書かれていない。最初のページを開く。震えた字で、こう記されていた。
『生徒会長は、私たちを守っている。』
次のページ。
『でも、もう限界だ。』
さらにページをめくる。
文字は日を追うごとに乱れ、最後の一頁には、紙が破れそうなほど強い筆圧で一文だけが残されていた。
『絶対に、さゆりを一人にしてはいけない。』
その瞬間。地下書庫の奥で、鍵の回る音がした。かちゃん。
誰かが、廊下側から扉を閉めた。
第七章 閉ざされた地下
扉の向こうで、鍵が回る音がした。
かちゃん。
地下書庫に乾いた音が響き、その余韻だけが静寂の中へ溶けていく。えりかは数秒、その場から動けなかった。
聞き間違いではない。確かに、誰かが外側から扉を閉めた。抱えていた日記帳を胸に押し当てるようにして、書庫を飛び出す。
地下へ続く廊下は薄暗く、裸電球の橙色の光が石壁にぼんやりと滲んでいた。
廊下の突き当たりには、さっきまで開いていた扉がある。
えりかは駆け寄り、取っ手を掴んだ。力いっぱい引く。動かない。もう一度。
肩をぶつけるように体重を掛けても、重い木の扉はびくともしなかった。
「開いて……。」
震えた声が地下へ吸い込まれていく。誰も返事をしない。自分の荒い呼吸だけが耳の奥で反響していた。制服のポケットから真鍮の鍵を取り出し、震える指で鍵穴へ差し込む。
ゆっくり回す。小さく錠の外れる音がした。それでも扉は開かない。向こう側から何か重いものを押し当てられているようだった。
えりかは静かに扉から手を離した。閉じ込められた。その事実を認めた途端、胸の奥で冷たいものがゆっくりと広がっていく。
焦ってはいけない。地下へ入る道があるのなら、別の出口もあるはずだ。
そう自分へ言い聞かせながら深く息を吸う。湿った空気には、古い紙と石、それから僅かに百合の香りが混じっていた。
地下で花の香りがすることに、小さな違和感を覚える。
えりかは廊下の奥へ目を向けた。
来た時には気づかなかったが、書庫のさらに先にも通路が続いている。裸電球は途中で途切れ、その先は闇だった。
戻れないのなら、進むしかない。足音を殺しながら歩き始める。
石畳は長い年月で角が丸く削れ、壁には雨染みのような黒い跡が幾筋も走っている。
時折、天井のどこかから水滴が落ちる音だけが響いた。
どれくらい歩いただろう。
やがて通路はゆるやかに右へ曲がり、小さな広間へ続いていた。そこは地下とは思えないほど天井が高く、半円形の部屋になっていた。
壁際には木製の長椅子が並び、正面には小さな祭壇が置かれている。
礼拝堂だった。
祭壇の上には十字架ではなく、一輪の白百合を象った銀細工が飾られている。
磨かれてはいない。
黒く変色し、長い年月を物語っていた。えりかは静かに祭壇へ近づく。誰もいない。けれど、人が暮らしていた気配だけは残っていた。
祭壇の脇には古い燭台。壁には肖像画が何枚も掛けられている。制服姿の少女たちだった。
年代は様々だ。昭和のものもあれば、大正らしい写真もある。全員が真っ直ぐ前を向き、穏やかに微笑んでいる。
その視線に見つめ返されているような居心地の悪さを覚えながら、一枚ずつ見ていく。肖像画の下には名前が刻まれていた。
第一十八代生徒会長。
第二十一代生徒会長。
第二十六代生徒会長。
どの少女も凛として美しく、この学院が誇りとしてきた存在なのだろう。しかし、一枚だけ様子の違う額があった。中央に掛けられた、ひときわ大きな肖像画。
少女の姿だけが丁寧に切り抜かれている。
額の中には、背景しか残っていなかった。名前の銘板も剥がされている。誰かが意図的に、その少女だけを消したようだった。
「どうして……。」
額へ手を伸ばした、その時だった。冷たい風が部屋を抜ける。地下に風など吹くはずがない。それなのに祭壇の上の古びた帳面が、ぱらり、とひとりでに開いた。
えりかはゆっくり近づき、そこへ目を落とす。
紙は黄ばみ、端が破れている。文字はほとんど薄れて読めなかった。ただ、最後の頁だけは比較的新しく、黒いインクがはっきり残っていた。
そこには短く、一文だけ書かれている。
『あの子を責めないでください。』
その下に続く文章は、乱暴に塗り潰されていた。名前だけが読めない。まるで、その人物の存在ごと消そうとしたように。
えりかが帳面へ指先を伸ばした、その瞬間だった。
――コツ。
礼拝堂の外で、小さな足音がした。
一歩。また一歩。
誰かが石畳の廊下を歩いてくる。ゆっくりと。迷いなく。まっすぐ、この礼拝堂へ向かって。
◆
足音は一定の速さで近づいてきた。石畳を踏む乾いた音が、礼拝堂の高い天井へ幾度も反響する。えりかは咄嗟に祭壇の陰へ身を潜めた。
鼓動が早い。息を潜めようとしても、胸の上下だけはどうしても止められなかった。廊下の先から、一つの影が現れる。
長い黒髪。白い制服。細く伸びた指先。その姿を見た瞬間、えりかは目を見開いた。
さゆりだった。
彼女は普段と変わらぬ制服姿で礼拝堂へ入り、静かに辺りを見回す。その横顔には焦りが滲んでいた。生徒会室で見せる穏やかな笑顔はない。誰かを探しているような、張り詰めた表情だった。
「……えりかさん。」
小さく名前を呼ぶ声が、静まり返った礼拝堂へ溶ける。その声は優しかった。けれど、えりかはすぐには返事ができない。地下へ入ったことを、さゆりは知っていたのだろうか。
それとも偶然なのだろうか。日記帳に書かれていた一文が頭をよぎる。
――絶対に、さゆりを一人にしてはいけない。
その意味がまだ分からない。だからこそ、目の前の少女を信じていいのか迷ってしまう。
「えりかさん。」
二度目に名前を呼ぶ声は、少しだけ震えていた。
えりかはゆっくりと祭壇の陰から姿を現す。さゆりは彼女の姿を認めると、張り詰めていた肩から力が抜けたように小さく息を吐いた。
「無事だったのね。」
その一言には、作り物ではない安堵が滲んでいた。
「さゆりさん……どうしてここに。」
「あなたが図書室へ向かったと聞いて、嫌な予感がしたの。」
さゆりは礼拝堂の入口へ目を向ける。
「地下へ入ったでしょう。」
問い詰める口調ではなかった。静かな確認だった。
えりかは黙って頷く。
「ごめんなさい。でも、知りたかったんです。」
さゆりは叱らなかった。少し寂しそうに笑っただけだった。
「知りたいと思ってしまうのは、悪いことじゃないのよ。」
その笑顔は、学院で見せる完璧な生徒会長のものではない。年相応の、どこか疲れた少女の笑顔だった。
「でも、この場所は……優しさだけではいられないの。」
えりかは祭壇の上の帳面を見つめる。
「ここは何なんですか。」
しばらく沈黙が続いた。さゆりは祭壇へ歩み寄り、埃をかぶった百合の紋章へそっと触れる。
「昔、この学院は孤児院だったと聞いたことは?」
「百年以上前の話ですよね。」
「ええ。」
指先が銀細工をゆっくりとなぞる。
「ここは、その頃の礼拝堂。」
えりかは周囲を見回した。確かに今の学院とは違う空気が残っている。祈りを捧げるための場所。けれど、どこか息苦しい。
誰かが長い間、泣き続けていたような気配だけが染みついている。
「今は使われていないのに……どうして、こんなに綺麗なんですか。」
その問いに、さゆりの手が止まった。
「……誰かがお掃除しているから。」
「誰が?」
さゆりは答えなかった。
代わりに、礼拝堂の奥へ目を向ける。その視線を追ったえりかは、初めて気づいた。
祭壇の裏側に、さらに細い通路が続いている。闇に溶けるような、小さな石の回廊だった。
さゆりはその入口を見つめたまま、小さく息を吐く。
「今日は、静かね。」
その言葉は、えりかへ向けられたものではなかった。闇の向こうにいる何かへ語りかけるような声だった。
その瞬間。
回廊の奥から、微かな鈴の音が響く。
ちりん。
澄んだ音色だった。
続いて、風もない地下で白百合の香りがふわりと広がる。
えりかは思わず身を強張らせた。
「今の音……。」
さゆりは首を横に振る。
「聞かないで。」
優しい声だった。けれど、その瞳の奥には恐怖が宿っていた。
「ここで何を聞いても、何を見ても、追いかけては駄目。」
「どうしてですか。」
「戻れなくなるから。」
その一言だけが、地下の冷たい空気よりも重く胸へ沈んだ。やがて鈴の音は止み、礼拝堂は再び静寂に包まれる。さゆりはゆっくりと振り返り、えりかへ微笑んだ。
「帰りましょう。」
その笑顔はいつもの生徒会長だった。だが礼拝堂を出る直前、えりかは最後にもう一度だけ振り返る。
壇の奥、暗い回廊の入口。
そこに、小さな白い人影が立っている気がした。瞬きをした次の瞬間には、誰もいなかった。
ただ、冷たい石壁だけが、二人を黙って見送っていた。
第八章 誰も知らない生徒
地下礼拝堂を出たあと、えりかはほとんど何も話さなかった。
さゆりもまた、地下で見せた表情を隠すように静かだった。二人は図書室へ戻り、本棚の奥に隠された扉を閉める。
真鍮の鍵が回る音だけが、静かな図書室に小さく響いた。
「今日見たことは」
さゆりが鍵を制服のポケットへしまいながら言う。
「誰にも話さないで。」
その声は命令ではなかった。懇願に近かった。えりかは黙って頷く。聞きたいことは山ほどあった。礼拝堂。消された肖像画。日記帳。鈴の音。
そして、さゆり自身のこと。それでも、今は何も聞けなかった。彼女の横顔が、あまりにも疲れて見えたからだった。
◆
翌朝。学院にはいつもと変わらない朝が訪れていた。中庭では白百合が風に揺れ、礼拝堂からはオルガンの音色が流れてくる。
昨日の地下での出来事が夢だったのではないかと思うほど、穏やかな朝だった。教室へ入ると、担任が珍しく困ったような表情を浮かべていた。
「皆さん、少し確認したいことがあります。」
教室が静まる。
「昨日、この教室へ忘れ物を取りに来た人はいますか?」
誰も手を挙げない。
「職員室へ、生徒証が届けられました。」
えりかの心臓が跳ねた。昨日、自分が拾ったものとは別なのだろうか。担任は机の上へ一枚のカードを置く。
「名前が読めなくなっていて、誰のものか分からないんです。」
教室中がざわめいた。
担任は苦笑する。
「こんなことは初めてですね。」
えりかだけが笑えなかった。また、名前だけが消されている。偶然とは思えない。
◆
昼休み。えりかは一人で職員室前へ向かった。
担任が席を外した隙に、生徒証をもう一度確かめようと思ったのだ。机の上には透明な袋へ入れられた生徒証が置かれている。
恐る恐る覗き込む。写真は残っていた。制服姿の少女。眼鏡を掛け、少し照れたように笑っている。
間違いない。あの日、渡り廊下で話をした少女だった。
「やっぱり……。」
思わず声が漏れる。
「知っている子なの?」
突然声を掛けられ、えりかは飛び上がった。振り返ると、国語教師が立っていた。
「えっと……。」
「名前が読めないから困っているのよ。」
教師は生徒証を見つめる。
「写真はあるのに、誰だか思い出せないの。」
えりかは教師の顔を見る。本当に思い出せないのだ。嘘をついている様子ではなかった。
◆
放課後。えりかは再び図書室を訪れた。
昨日までいた用務員の女性はいない。代わりに、一冊の本だけが机の上へ置かれていた。表紙には何も書かれていない。栞が一枚挟まっている。
開く。
そこは学院の創立史だった。赤い鉛筆で一行だけ線が引かれている。
『生徒の名は、学院が記録する。』
その下にも線が続く。
『記録から消えた者は、学院に存在しなかったものとする。』
えりかはページをめくる手を止めた。意味が分からない。学校の規則とは思えない。誰かの書き込みだろうか。そのとき、本の間から一枚の写真が滑り落ちた。
拾い上げる。白黒写真だった。礼拝堂の前に並ぶ少女たち。最前列には歴代生徒会長と思われる少女が立っている。
その中に、一人だけ見覚えのある顔があった。
眼鏡の少女。写真の裏返しには、万年筆で一行だけ書かれていた。
『第七十三代白百合会書記 神崎美緒』
初めて、その少女の名前を知った。
神崎美緒。
ようやく名前を知ったはずなのに、その瞬間、胸の奥が締めつけられる。
誰かが、この名前まで消そうとしている。
そんな気がしてならなかった。
ふと窓の外を見る。夕暮れの中庭。百合畑の向こうで、さゆりが一人立っていた。風に髪を揺らしながら、こちらを見つめている。その視線は真っ直ぐだった。だが、えりかを見ているのではない。えりかの手にある写真を見ていた。
そして、小さく、悲しそうに目を閉じた。
第九章 消された名前
神崎美緒。
写真の裏に残されたその名前を、えりかは何度も心の中で繰り返した。
忘れてはいけない。
そう思えば思うほど、その名前は指の隙間から零れ落ちる砂のように輪郭を失っていく。
神崎……。美緒。
声に出して確かめる。
ようやく現実につなぎ止められたような気がした。
写真を制服の手帳へ挟み、図書室を出る。廊下には夕日が長い影を落としていた。
階段を下りようとしたところで、後ろから柔らかな声が聞こえた。
「何を見つけたの?」
えりかの肩が跳ねる。
振り返ると、さゆりが静かに立っていた。窓から差し込む夕日に照らされ、その横顔は絵画のように美しい。
えりかは無意識に写真を手帳の奥へしまう。
「歴史の資料を少し……。」
「そう。」
さゆりはそれ以上追及しなかった。
ただ、えりかの手帳へ一瞬だけ視線を落とし、小さく微笑む。
「知らなくても幸せに生きられることは、この世にたくさんあるわ。」
その言葉は忠告だったのか、それとも願いだったのか。えりかには分からなかった。
◆
翌日。えりかは授業が始まる前に図書室へ向かった。神崎美緒という名前が本当に存在したのか、卒業アルバムで確かめたかった。古いアルバムが並ぶ棚を一冊ずつ調べていく。
年代順に並んだ背表紙。ようやく写真と同じ年度のアルバムを見つける。
深呼吸をしてページを開いた。
一組。
二組。
三組。
名前を目で追っていく。
神崎、美緒。
神崎、美緒。
何度探しても、その名前はどこにもなかった。
写真には写っていた少女が、名簿には存在しない。代わりに、そのページだけ紙がわずかに波打っていることへ気付く。
光にかざしてみる。紙の表面が削られていた。誰かが、そこに印刷されていた名前だけを丁寧に消した跡だった。
鳥肌が立つ。こんなことを誰が。どうして。
アルバムを閉じようとした時、一枚の紙片がページの間から滑り落ちた。古い新聞記事だった。見出しには、こう書かれている。
『名門女子校で生徒行方不明』
記事の大半は切り取られていた。残っているのは数行だけ。
『警察は事故と判断』
『学院側はコメントを控える』
『生徒会関係者への聞き取り』
その先は刃物で切り落とされている。誰かが、読まれたくない部分だけを持ち去ったのだ。
◆
「そんな記事まで残っていたのね。」
不意に老いた声がした。用務員の女性だった。いつものように鍵束を腰へ下げ、静かにえりかを見つめている。
「神崎美緒という人を知っていますか。」
えりかが尋ねると、女性はしばらく黙っていた。やがて、小さく目を閉じる。
「……覚えていたのかい。」
その一言だけで十分だった。えりかは息を呑む。
「本当にいたんですね。」
「いた。」
女性は窓の外へ目を向けた。白百合が風に揺れている。
「よく笑う子だった。」
「どうして、みんな忘れてしまったんですか。」
「忘れたんじゃない。」
女性はゆっくり首を振る。
「忘れさせられた。」
その言葉はあまりにも静かで、かえって恐ろしかった。えりかは思わず身を乗り出す。
「誰に?」
女性は答えない。代わりに鍵束の中から古びた真鍮の鍵を一本取り出した。地下書庫の鍵とは違う。
柄には百合ではなく、小さな十字架が刻まれていた。
「地下礼拝堂には、祭壇があったろう。」
えりかは頷く。
「あの祭壇の裏に、小さな部屋がある。」
「部屋……?」
「昔は懺悔室だった。」
女性は鍵を見つめながら続ける。
「誰にも言えないことを話すための部屋。」
「そこに何があるんですか。」
「真実の一部。」
その時だった。廊下の向こうから、規則正しい足音が近づいてくる。
コツ。
コツ。
コツ。
女性の表情が変わった。急いで鍵をえりかの手へ握らせる。
「今は開けるな。」
囁くような声だった。
「その部屋は、向こうもこちらを見ている。」
足音は図書室の前で止まる。静かに扉が開いた。入ってきたのは、さゆりだった。
彼女はえりかを見る。そして用務員を見る。
最後に、えりかの握り締めた右手へ静かに視線を落とした。
その一瞬だけ。
さゆりの美しい瞳に、初めて隠しきれない悲しみが宿った。
第十章 懺悔室
図書室へ、静かな沈黙が落ちた。さゆりは何も言わない。用務員の女性もまた、口を閉ざしたまま動かなかった。時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
やがて、さゆりが小さく微笑んだ。
「探しものは見つかりましたか。」
その笑顔はいつもと変わらない。けれど、えりかには分かった。彼女は、自分の右手を見ている。
制服の袖の中では、先ほど渡された真鍮の鍵が冷たく掌へ食い込んでいた。「……はい。」
嘘だった。何一つ見つかってなどいない。知れば知るほど、この学院は分からなくなっていく。
「もうすぐ下校時刻です。」
さゆりは窓の外へ目を向けた。夕日に染まった百合畑が静かに揺れている。
「今日は寄り道をしないで帰ってください。」
その言葉だけを残し、図書室をあとにした。扉が閉まる音がしても、誰も動かなかった。長い沈黙のあと、用務員の女性が深く息を吐く。
「あの子は気付いている。」
「何にですか。」
「お前さんが、地下へ入ったことに。」
えりかは思わず鍵を強く握った。
「怒っているんでしょうか。」
女性はゆっくりと首を振る。
「違う。」
その横顔はどこか寂しげだった。
「あの子は、怖がっている。」
◆
その日の夜。えりかは何度も机の引き出しを開けては、鍵を見つめていた。百合ではなく、十字架が刻まれた真鍮の鍵。
懺悔室の鍵。用務員は「今は開けるな」と言った。それでも、心のどこかで確信していた。真実は、その部屋にある。
眠ろうとしても瞼は閉じなかった。
窓の外では風が鳴り、街路樹の枝が硝子を掠める音だけが夜を刻んでいる。ふと、机の上へ置いた鍵が月明かりを受けて鈍く光った。
その光を見つめているうちに、えりかは静かに決意する。
明日、もう一度地下へ行こう。
誰にも知られずに。
◆
翌日。学院は文化祭の準備で少しだけ賑わっていた。廊下には装飾用の花が運ばれ、生徒たちは珍しく笑顔で話している。それでも、生徒会役員だけは変わらなかった。全員が無表情のまま、黙々と作業を続けている。
その中心にいるのは、やはりさゆりだった。
白い手袋をはめ、百合を一本ずつ花瓶へ生けている。
その姿は美しかった。
けれど、えりかは気付いてしまう。さゆりは時折、誰もいない廊下の奥へ視線を向けている。まるで、誰かの気配を確かめるように。
◆
放課後。文化祭準備で校舎が慌ただしくなる中、えりかは一人で図書室へ向かった。
司書はいない。用務員の姿もない。本棚の奥へ進み、地下へ続く隠し扉を開く。石段を下りるたび、空気が冷たくなっていく。地下礼拝堂へ着く頃には、外の喧騒は完全に消えていた。
祭壇の裏へ回る。
そこには前回来た時には気付かなかった、小さな木製の扉があった。
鍵穴には十字架。掌の中の鍵と同じ印だった。えりかは深呼吸をする。
鍵を差し込む。ゆっくりと回す。乾いた音を立てて錠が外れた。
扉を押す。部屋は思っていたよりも狭かった。椅子が二脚。向かい合うように置かれ、その間を木の格子が隔てている。
昔、誰かが罪を告白した場所。懺悔室だった。部屋の奥には、小さな机が一つだけ残されている。その上には、一冊の革張りの帳面が置かれていた。
埃ひとつ積もっていない。まるで、ついさっきまで誰かが読んでいたかのようだった。
えりかはそっと帳面へ手を伸ばす。
表紙を開く。最初の頁には、流れるような美しい文字で一文だけ記されていた。
『罪を告白する者は、名前を残しなさい。』
次の頁には、少女たちの名前が並んでいる。
一人。
また一人。
ページをめくるたび、名前は続いていく。けれど、そのすべてに赤い線が引かれていた。
名前が消されている。存在そのものを否定するように。そして、最後のページ。まだ新しいインクで、一つだけ名前が残されていた。
――神崎 美緒
えりかの指先が止まる。その名前の下には、短い文章が添えられていた。
『わたしは、さゆり先輩を許します。』
その一文を読んだ瞬間、部屋の外でゆっくりと扉の軋む音が響いた。
誰かが、礼拝堂へ入ってきた。
第十一章 懺悔の声
礼拝堂へ入ってきた足音は、祭壇の前で静かに止まった。えりかは懺悔室の中で息を潜める。木製の格子越しに人影は見えない。けれど、そこに誰かが立っている気配だけははっきりと感じられた。
やがて、衣擦れの音が一度だけ聞こえた。それきり、何も聞こえなくなる。奇妙な沈黙だった。見つかったのなら声を掛けられるはずだ。誰もいないのなら、足音など聞こえるはずがない。
時間だけが静かに過ぎていく。地下は時計の音さえ届かない。えりかには、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえていた。
どれほどそうしていただろう。
ふいに、小さく扉が軋む音がした。続いて遠ざかる足音。石畳を踏む音はゆっくりと礼拝堂を離れ、やがて完全に聞こえなくなった。
えりかはすぐには動けなかった。耳を澄ませる。静かだった。恐る恐る懺悔室の扉を押し開ける。
礼拝堂には誰もいない。祭壇の前にも、入口にも、人の姿はなかった。それでも祭壇の上には、一輪の白百合が置かれていた。
さっきまでは何もなかったはずだ。
花弁には水滴が残り、切り口はまだ新しい。誰かが今ここへ供えたばかりだった。
えりかは近寄ろうとして足を止める。百合から、甘い香りが漂っていた。
中庭に咲く百合と同じ香り。
しかし、その奥にわずかに鉄のような匂いが混じっている。鼻の奥へ残る、錆びたような匂いだった。
胸騒ぎがする。
視線を逸らすと、祭壇の脇に積まれた古い聖書が目に入った。
一冊だけ、不自然に引き出されている。えりかは手を伸ばした。
聖書を抜く。
その奥に、小さな木箱が隠されていた。両手に乗るほどの大きさしかない。鍵は掛かっていない。
蓋を開くと、中には何通もの封筒が丁寧に重ねられていた。
どれも黄ばんでいる。封は切られていない。宛名だけが、美しい万年筆の文字で書かれていた。
――神崎美緒様
その名前を見た瞬間、えりかの指先が震えた。封筒を一通取り出す。
裏返す。差出人の名前はない。封を開けるか迷った末、ゆっくりと便箋を引き出した。そこに書かれていた文字は、思っていたよりもずっと優しかった。
『あなたは何も悪くありません。』
その一文だけだった。別の封筒を開く。同じ筆跡。
『あなたは今日も笑っていてください。』
三通目。
『私が必ず守ります。』
えりかは息を呑んだ。どの手紙も、誰かが神崎美緒という少女へ宛てて書いたものだった。
責める言葉は一つもない。あるのは励ましと祈りだけ。最後の封筒だけ、紙の色が少し新しい。
震える指で開く。便箋は一枚。インクだけが滲んでいた。
『ごめんなさい。』
その下には名前が書かれていた。
さゆり
えりかは思わず便箋を取り落とした。紙は床へ落ち、静かに裏返る。裏には短い文章が続いていた。
『もう誰も消えないように、私が約束します。』
その約束は守られたのだろうか。神崎美緒は今も誰にも覚えられていない。学院には毎年一人ずつ、名前を失う生徒がいる。
約束は破られたのか。それとも、さゆりは今も守り続けているのか。
その時だった。礼拝堂のさらに奥。
祭壇の裏側から、微かに歌声が聞こえた。少女の声だった。子守歌のように穏やかで、どこか懐かしい旋律。地下の冷たい空気とはあまりにも不釣り合いな、優しい歌だった。
えりかは吸い寄せられるように祭壇の裏へ回る。そこには今まで気づかなかった細い石の階段が続いていた。
下へ。さらに深い地下へ。歌声はその暗闇から聞こえてくる。足を踏み出そうとした、その瞬間。
歌が、ぴたりと止んだ。
地下は再び静寂に包まれる。そして暗闇の奥で、誰かがゆっくりとこちらを見上げた気配だけが残った。
第十二章 百合の女
地下は、不自然なほど静かだった。さっきまで確かに聞こえていた歌声は、まるで最初から存在しなかったかのように消えている。
えりかは祭壇の裏に立ったまま動けずにいた。暗闇の奥から向けられた視線だけが、肌へまとわりついて離れない。
戻るべきだ。理性はそう訴えていた。だが、胸の奥では別の声が囁いている。
――知りたい。
その一歩が、すべてを変えてしまうかもしれない。それでも、足は前へ出た。石段は細く、急だった。湿った空気が肺へ入り込むたび、身体の芯まで冷えていく。壁へ手を添えると、ざらついた石の感触が指先へ伝わった。
一段。
また一段。
地下へ潜るほど、百合の香りは濃くなっていく。花の甘い香りのはずなのに、不思議と息苦しかった。やがて階段は終わり、小さな部屋へ続いていた。
そこは円形の石室だった。天井は低く、壁一面を白い百合の彫刻が埋め尽くしている。中央には古い井戸があった。石造りの縁には無数の傷が刻まれている。誰かが長い年月をかけ、爪で引っかいたような細い跡だった。
井戸の底は見えない。光を落としても、闇が吸い込むだけだった。
えりかは井戸へ近づく。縁へ両手を添え、ゆっくりと中を覗き込んだ。
暗い。何も見えない。そう思った、その瞬間だった。水面が揺れた。ぽつり、と水滴が落ちたような小さな波紋。
えりかは息を止める。地下には雨など降らない。ならば、何が揺らしたのか。もう一度、水面が揺れた。今度はゆっくりと。
波紋が幾重にも広がり、黒い水面へ白いものが映り込む。
人の顔だった。驚いて振り返る。誰もいない。再び井戸を見る。水面には、えりか自身の顔しか映っていなかった。安堵したのも束の間だった。水面の中の自分だけが、ゆっくりと笑った。
えりかは反射的に井戸から飛び退く。
心臓が激しく脈打つ。その時だった。背後で、衣擦れの音がした。
振り返る。部屋の入口に、一人の少女が立っていた。
白いワンピース。膝まで届く長い黒髪。裸足。年齢は十六、七歳ほどだろうか。俯いているため顔は見えない。
ただ、その身体は半分ほど透け、石壁が向こう側にぼんやりと見えていた。少女は何も言わない。静かに立ち尽くし、両手で一輪の白百合を抱いている。
逃げなければ。
そう思うのに、足は動かなかった。少女はゆっくりと顔を上げる。
青白い頬。涙で濡れた瞳。そこには恨みも怒りもなかった。あるのは、どうしようもない悲しみだけだった。
少女の唇が、小さく動く。
「……お願い。」
声は風よりも弱かった。
「思い出して。」
その言葉が耳へ届いた瞬間、えりかの頭へ激しい痛みが走る。知らないはずの景色が、次々と流れ込んできた。
礼拝堂で笑い合う少女たち。百合畑を手入れする生徒会。夕暮れの校舎。そして、一人の少女が泣きながら誰かへ向かって手を伸ばしている。その相手は見えない。ただ、白い手袋だけが鮮明だった。
「さゆ……」
名前を呼ぼうとした瞬間、石室全体へ鈴の音が響いた。
ちりん。
ちりん。
ちりん。
百合の女は弾かれたように振り返る。悲しげだった表情が、一瞬だけ怯えへ変わった。そして、えりかへ向かって大きく首を横へ振る。
逃げて、と言っているようだった。
次の瞬間、石室の入口から一筋の光が差し込む。
「えりか!」
地下へ響いたその声は、聞き間違えるはずもなかった。さゆりだった。百合の女はその声を聞いた途端、百合の女は胸へ抱いていた百合を静かに床へ置く。
そして、儚く微笑んだ。
まるで、ずっと待っていた誰かにようやく会えたような、優しい笑顔だった。その姿は白い花びらのようにゆっくりと崩れ、音もなく闇へ溶けていった。
石室には、一輪の百合だけが残されていた。
第十三章 約束
一輪の百合だけが、石室の中央へ残されていた。
さっきまでそこに少女が立っていたとは思えないほど、地下は静まり返っている。
えりかは息を整えながら、その花を見つめた。
花弁には露が宿っている。指先で触れようとした瞬間、後ろから強く腕を掴まれた。
「触れては駄目。」
振り返ると、さゆりが立っていた。いつも整えられている髪は少し乱れ、肩で息をしている。
ここまで走ってきたのだろう。
その顔には、生徒会長としての穏やかな微笑みはなかった。あるのは安堵と、深い恐怖だけだった。
「よかった……。」
その小さな呟きは、自分自身へ言い聞かせているようにも聞こえた。えりかはさゆりの顔を見つめる。
「どうしてここが分かったんですか。」
さゆりは答えない。代わりに床へ置かれた百合を静かに拾い上げる。
折れないよう、傷付けないよう、両手で大切に抱える姿は、まるで眠る子どもを抱き上げる母親のようだった。
「帰りましょう。」
穏やかな声だった。しかし、その声の奥には疲れが滲んでいた。
「待ってください。」
えりかは動かなかった。
「さっきの女の人は誰なんですか。」
沈黙が落ちる。地下の冷たい空気だけが二人の間を流れていく。
「この学院で何が起きているんですか。」
返事はない。
「神崎美緒さんは、どうしてあなたを許したんですか。」
その名前を口にした瞬間だった。さゆりの肩が、小さく震えた。
抱えていた百合の花がわずかに揺れる。
「……その名前を。」
さゆりはゆっくり目を閉じた。
「まだ覚えているのね。」
「忘れません。」
えりかは迷わず答えた。
「みんな忘れていても、私は忘れません。」
その言葉に、さゆりはどこか悲しそうに微笑んだ。
「優しい人。」
えりかは首を横に振る。
「違います。」
一歩だけ近づく。
「誰かが消えたことを忘れる方がおかしいんです。」
さゆりはしばらく何も言わなかった。
やがて祭壇の方へ視線を向け、小さく息を吐く。
「神崎さんはね。」
静かな声だった。
「最後まで私のことを心配していた。」
えりかは耳を澄ませる。
「本当は逆だったの。」
その一言だけで胸が締め付けられた。
「守られたのは、私の方だった。」
地下の空気がさらに冷たくなる。えりかはその意味を尋ねようとした。
しかし、さゆりは首を横へ振る。
「まだ話せない。」
「どうして。」
「あなたまで巻き込みたくないから。」
その声は震えていた。初めてだった。さゆりが誰かを恐れるような表情を見せたのは。
その時、不意に礼拝堂の鐘が鳴った。地下にあるはずのない鐘の音。低く、重く、一度だけ響く。
ごぉん――。
さゆりの表情が変わる。
「時間がない。」
彼女はえりかの手を取る。冷たいはずの指先は、微かに震えていた。二人は石室をあとにし、細い階段を駆け上がる。
礼拝堂へ戻ると、空気がどこか変わっていた。
祭壇の前に並ぶ古い肖像画。
その中で、中央の空白だった額縁に、いつの間にか少女の姿が戻っている。
長い黒髪。白い制服。優しく微笑む少女。
その顔を見た瞬間、えりかは立ち尽くした。
「この人……。」
神崎美緒だった。

写真の裏でしか知らなかった少女が、そこに確かに描かれている。だが、さゆりは肖像画を見ようともしない。
まるで、その存在に気付いていないかのように礼拝堂を通り過ぎていく。
えりかはもう一度、肖像画へ目を向けた。
神崎美緒は穏やかに微笑んでいる。その視線の先には、隣の額縁があった。そこには若き日の生徒会長が描かれている。
その少女の顔を見た瞬間、えりかの呼吸が止まる。制服こそ古いものだったが、その顔は今と何一つ変わっていなかった。
――さゆりだった。
十四章 止まった時間
えりかは、額縁の前から動くことができなかった。古びた油絵の中で微笑む少女は、どう見てもさゆりだった。
黒く艶やかな髪。涼やかな目元。凛とした立ち姿。
制服だけが時代を感じさせる古い意匠だったが、その顔立ちは一つも変わらない。
百年近く前に描かれたはずの肖像画と、今この学院で生きる生徒会長。
それが同じ人物にしか見えないという事実は、えりかの理解を超えていた。
「どうしたの。」
階段の途中で立ち止まっていたさゆりが振り返る。えりかは震える指で肖像画を示した。
「あれを見てください。」
さゆりは素直に視線を向ける。しかし、不思議そうに首を傾げるだけだった。
「何もないでしょう。」
えりかは息を呑んだ。
「……何も、ない?」
「空の額縁しか掛かっていないわ。」
もう一度、肖像画を見る。
そこには確かに少女が描かれている。柔らかな微笑みまで、はっきり見える。
けれど、さゆりには空白しか見えていない。えりかの背中を、冷たいものがゆっくりと這い上がっていった。
学院は記録だけではなく、人の見ている景色までも変えてしまうのだろうか。
◆
二人は地下礼拝堂をあとにした。
図書室へ戻る頃には、西日が窓から長く差し込み、本棚の影が床へ幾重にも伸びている。
さゆりは隠し扉を閉めると、真鍮の鍵を静かに回した。乾いた音が響く。それは地下と地上を隔てる境界線のようだった。
「えりかさん。」
さゆりは本棚へ手を添えたまま、小さく呟く。
「今日のことは、忘れてください。」
その声には、願いにも似た弱さがあった。
「忘れられません。」
えりかは静かに答える。
「私は神崎さんの名前を知っています。」
さゆりの肩がわずかに震えた。
「だから、忘れることはできません。」
長い沈黙が流れる。
やがて、さゆりは小さく笑った。どこか諦めたような、寂しい笑みだった。
「……あなたは、本当に困った人ね。」
その言葉には責める響きはなかった。むしろ、少しだけ嬉しそうにも聞こえた。
◆
翌朝。学院の空気はどこか張り詰めていた。
生徒たちは皆、小声で何かを話している。
教室へ入ると、担任が珍しく落ち着かない様子で出席簿をめくっていた。
「昨日、下校時刻を過ぎて校内へ残っていた人はいますか。」
誰も返事をしない。えりかも黙っていた。担任は安堵したように頷く。
「それなら良かった。」
そう言って出席簿を閉じる。
その時、教室の扉が静かに開いた。
一人の女子生徒が遅れて入ってくる。えりかは思わず立ち上がった。
神崎美緒だった。
眼鏡を掛け、少し恥ずかしそうに笑っている。間違いない。
写真で見た少女、その人だった。
けれど、教室の誰一人として驚かない。担任は当然のように出席簿へ目を落とす。
「神崎さん、席についてください。」
神崎美緒は静かに頷き、窓際の席へ座った。えりかの心臓が激しく鳴る。
昨日まで存在しなかったはずの少女が、何事もなかったように授業を受けようとしている。
恐る恐る周囲を見回す。誰も不思議がっていない。
まるで、最初からそこにいたかのように。神崎美緒は教科書を机へ置くと、ゆっくりとえりかを見た。
そして、誰にも気づかれないほど小さく微笑む。その笑みは嬉しそうではなかった。
どこか切なく、別れを知っている人だけが浮かべる微笑みだった。
授業開始の鐘が鳴る。
えりかはもう一度、神崎美緒の席を見た。そこには誰も座っていなかった。椅子だけが静かに揺れ、開かれた教科書は、風もない教室でひとりでにページをめくっていた。
第十五章 白百合会の記憶
教科書は、誰も触れていないのに静かに閉じた。
乾いた紙の音だけが教室へ響く。
えりかは窓際の席を見つめたまま、しばらく瞬きもできなかった。
さっきまで神崎美緒は、確かにそこにいた。
教師も、クラスメイトも、ごく当たり前のように彼女へ話しかけていた。
それなのに、今は空席になっている。教卓の前では担任が何事もなかったように授業を続けている。
誰一人として違和感を抱いていない。
えりかだけが、現実から切り離されたような感覚に襲われていた。
◆
放課後。
教室を出ようとしたえりかを、一人の女子生徒が呼び止めた。
「えりかさん。」
振り返ると、生徒会副会長の東條千景だった。いつもさゆりの隣に立ち、ほとんど言葉を発することのない少女である。
肩まで揃えた黒髪に、涼しい目元。
感情を表へ出さないその横顔は、人形のように整っていた。
「少し、お時間をいただけますか。」
丁寧な口調だった。えりかは小さく頷く。案内されたのは、生徒会室ではなかった。
旧校舎へ続く渡り廊下。夕日に照らされた窓ガラスが、赤く床を染めている。
人気はない。
足音だけが静かに響いた。
「生徒会長は、あなたを大切に思っています。」
歩きながら、千景は不意に言った。
「……そうでしょうか。」
「ええ。」
迷いのない返事だった。
「だからこそ、これ以上近付いてほしくないのです。」
えりかは足を止める。
「地下のことですか。」
千景も立ち止まった。
夕日を背負ったその表情は影になり、よく見えない。
「あなたは、生徒会長を信じていますか。」
突然の問いだった。
えりかはすぐには答えられなかった。
さゆりは優しい。それは本当だ。けれど、何かを隠していることもまた事実だった。
「……分かりません。」
正直に答える。
「信じたいです。でも、知らないことが多すぎて。」
千景は静かに目を閉じた。
「それでいいと思います。」
少しだけ微笑む。
「信じるということは、何も疑わないことではありませんから。」
◆
その日の夕方。
えりかは図書室へ向かった。地下へ入るつもりはなかった。
ただ、神崎美緒という名前をもう一度確かめたかった。
本棚の前へ立つ。
歴代生徒会の記録を取り出そうとした時、一冊の古い台帳が床へ落ちた。
表紙には金色の文字でこう記されていた。
『白百合会 継承録』
今まで見たことのない本だった。
ページを開く。
そこには代々の生徒会長の名前が、創立当初から順番に記されていた。
第一代。第二代。第三代。
几帳面な文字が続く。えりかはページをめくる手を止めた。
ある年代から先が、おかしかった。
同じ名前が、何度も現れる。
――桜庭さゆり。
十年前。
桜庭さゆり。
二十年前。
桜庭さゆり。
三十年前。
桜庭さゆり。
さらに、その前も。
何十年も前の記録に、同じ名前が繰り返し書かれていた。
「そんな……。」
同姓同名では説明できない。
筆跡は違う。年代も違う。
それでも、記されている名前は一つだった。
桜庭さゆり。
えりかの指先が震える。
その時、本の最後に一枚だけ紙が挟まっていることへ気付いた。
折り畳まれた便箋だった。
開く。
そこには見覚えのある、美しい文字が並んでいた。さゆりの筆跡だった。
> 私が生徒会長でいる限り、
> 誰の名前も消させません。
>
> もし私が約束を守れなかった時は、
> 私の名前も消してください。
読み終えた瞬間、便箋の端から一滴の雫が落ちた。
えりかは驚いて顔を上げる。
雨ではない。天井から水が漏れているわけでもない。
便箋に、涙が落ちたのだ。
しかし、この部屋にはえりかしかいない。静まり返った図書室の奥から、誰かが小さく泣く声だけが聞こえていた。
その泣き声は、どこか懐かしく、どこまでも悲しかった。
そして本棚の向こうで、隠し扉の鍵が、誰の手も触れていないのにゆっくりと回る音がした。
第十六章 記憶の檻
本棚の奥で、ゆっくりと何かが動く音がした。重い木材が擦れる鈍い音。図書室の静寂が、その音だけを大きく響かせる。
えりかは息を止めた。
誰も触れていないはずの隠し扉が、ゆっくりと開いていく。地下から、冷たい空気が流れ込んできた。
その風は冬のように冷たいのに、不思議と百合の香りだけを運んでくる。
便箋を握る手へ力が入る。そこには、さゆりが書いた言葉が残されていた。
――私が生徒会長でいる限り、誰の名前も消させません。
あの約束は、誰へ向けたものだったのだろう。
神崎美緒へ。
百合の女へ。
それとも、この学院そのものへ。
えりかは便箋を胸ポケットへしまい、本棚の前へ立った。逃げるという選択肢は、もう頭になかった。
真実を知らなければ、この学院を出ても一生振り返り続ける。
そんな気がしていた。
◆
地下礼拝堂へ続く石段は、昼間より暗く感じられた。裸電球の明かりは弱く、壁へ落ちる影だけが長く伸びている。
昨日まで聞こえていた水滴の音もない。
静かすぎる。
その静けさが、かえって不安を掻き立てた。礼拝堂へ着くと、祭壇の前には誰もいなかった。
百合もない。
井戸のある石室へ続く階段も、ただ闇を抱えているだけだった。えりかは祭壇へ近づく。
黒く変色した百合の紋章へ手を伸ばした。指先が銀細工へ触れた瞬間、小さく金属音が鳴る。
かちり。
何かが外れたような音だった。祭壇がゆっくりと震える。驚いて後ろへ下がると、祭壇の土台がわずかに横へ滑った。
石壁の奥から、細い通路が姿を現す。
人一人がやっと通れるほどの幅しかない。今まで誰にも見つからなかった隠し通路だった。
えりかは息を呑む。地下には、まだ先があった。
◆
通路の先は、小さな部屋だった。礼拝堂とも書庫とも違う。窓のない四角い部屋。
壁一面に棚が並び、そこへ無数の木箱が積まれている。
箱には年代だけが書かれていた。
昭和四十八年。昭和五十四年。平成七年。平成十九年。
そして今年。令和八年。
えりかの胸がざわつく。今年の箱だけが新しかった。恐る恐る蓋を持ち上げる。
中には卒業アルバムが一冊。白いリボン。生徒証。校章。誰かが学校生活で使っていた品々が、丁寧に納められていた。
まるで、その人の人生そのものを箱へ閉じ込めたようだった。一番上に、一枚の名札が置かれている。
えりかはそれを手に取った。名前は削り取られている。
けれど、裏返した瞬間、小さな文字が目へ飛び込んできた。
『忘れないで』
震える字だった。
爪で引っ掻くように刻まれている。
えりかは思わず名札を胸へ抱いた。
「忘れません。」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。ただ、その一言だけは自然に口からこぼれた。
その時だった。
部屋の隅で、小さく紙がめくれる音がした。
振り返る。
机の上へ、一冊の日誌が開かれている。さっきまで閉じていたはずだった。
ゆっくり近づく。
最後のページだけが開いている。そこには、一人分だけ記録が残されていた。
当番 白鳥さゆり
その下には、短い文章が続いている。
> 今日も一人、名前を守れませんでした。 > > ごめんなさい。 > > 私は、生徒会長失格です。
えりかの視界が滲む。
これは誰かへ見せるための日誌ではない。
さゆりが、自分自身へ書き続けてきた懺悔だった。その瞬間、部屋の外から静かな声が聞こえた。
「そこにいたのね。」
えりかは弾かれたように顔を上げる。通路の入口に立っていたのは、さゆりだった。
だが、その表情は今まで見たことがないほど静かだった。怒りでも悲しみでもない。
長い間、一人で背負い続けた秘密を、とうとう知られてしまった人の顔だった。
第十七章 桜庭さゆり
狭い部屋へ、静かな沈黙が落ちた。さゆりは通路の入口に立ったまま動かない。
淡い明かりが彼女の横顔だけを照らし、長い睫毛が頬へ影を落としていた。
えりかは開かれた日誌へ視線を戻す。
そこには何度も同じ言葉が繰り返されていた。
――ごめんなさい。
――守れませんでした。
――今日も間に合いませんでした。
ページをめくるたび、その文字は増えていく。日付だけが変わり、後悔だけが積み重なっていた。
「……読んでしまったのね。」
さゆりが小さく言った。責める響きはなかった。その声は、どこまでも疲れていた。
えりかはゆっくり顔を上げる。
「どうして、こんなものを書き続けていたんですか。」
しばらく返事はなかった。
さゆりは部屋へ入り、壁際の木箱を一つ撫でる。その仕草は棺へ手を添えるように優しかった。
「ここにある箱はね。」
静かな声が石壁へ溶けていく。
「学院から消えてしまった子たちのもの。」
えりかは木箱を見回した。
卒業アルバム。校章。リボン。
誰かが大切にしていた日用品。
どれも丁寧に保管されている。
「学院は、名前を消す。」
さゆりは続けた。
「写真を消して、記録を消して、思い出まで薄くしてしまう。」
「どうしてそんなことを……。」
「私にも分からない。」
その答えはあまりにも静かだった。
「私が生徒会長になった時には、もうそういう学院だった。」
えりかは息を呑む。
「止められなかったんですか。」
さゆりは微笑んだ。
その笑顔は、自分自身を責める人の笑顔だった。
「何度も止めようとした。」
百合の紋章へ視線を向ける。
「でも、一人助けようとすると、別の誰かが消えてしまう。」
えりかは何も言えなかった。その苦しみは、想像すらできない。
「神崎さんも……?」
その名前を聞くと、さゆりはゆっくり頷いた。
「美緒さんは、最後まで笑っていた。」
その瞳へ、初めて涙が浮かぶ。
「泣いていたのは、私だけ。」
地下の静寂が、二人を包む。遠くで水滴が落ちる音がした。
ぽたり。
ぽたり。
「ねえ、えりかさん。」
さゆりは涙を拭こうとしなかった。
「人は、忘れられたら消えてしまうと思う?」
えりかは少し考えた。
神崎美緒。
学院中が忘れてしまった少女。それでも、自分は名前を知っている。笑顔を知っている。許すという言葉を知っている。
「……消えません。」
静かに答えた。
「一人でも覚えている人がいるなら、その人は消えません。」
さゆりは目を見開く。その言葉を待っていたかのようだった。
やがて、小さく笑う。
今までで一番自然な笑顔だった。
「ありがとう。」
その一言だけだった。
しかし、その笑顔は長く続かなかった。
部屋全体が、小さく震えた。
木箱が軋み、棚の上の埃が舞い落ちる。
ごう、と低い唸り声のような音が地下の奥から響いてきた。
さゆりの表情が一変する。
「……始まる。」
「何がですか。」
答える代わりに、彼女はえりかの手を強く握った。
その手は冷たい。だが震えていた。
「もう時間がない。」
その瞬間、部屋の奥の石壁へ一本の亀裂が走る。
細い隙間から、白い花びらが風もないのに舞い上がった。
花びらは床へ落ちず、ゆっくりと宙を漂う。そして、その向こう側から。
少女たちの歌声が、幾重にも重なって聞こえ始めた。
優しく、美しく。
けれど胸が締めつけられるほど悲しい旋律だった。さゆりはその歌声を聞きながら、小さく目を閉じる。
「……みんな、待ってる。」
その言葉の意味を尋ねる前に、石壁が音もなく左右へ開き始めた。
地下のさらに奥。
誰にも知られてはいけなかった場所が、ゆっくりと姿を現そうとしていた。
第十八章 忘れられた約束
さゆりの涙が百合の花弁へ落ちた瞬間、地下庭園を包んでいた静寂が、わずかに揺らいだ。
風は吹いていない。
それなのに、一面の白百合が波のように揺れ始める。
花弁が擦れ合う音は、まるで誰かが小さく囁き合っているようだった。
えりかは息を呑み、その光景を見つめる。
百合の女――神崎美緒は、静かにさゆりの前へ歩み寄った。
土を踏む音はしない。
その足元では百合が折れることもなく、花々は彼女を迎えるように左右へ開いていく。
やがて二人の距離が手を伸ばせば届くほど近くなった。しかし、神崎はその手を伸ばさなかった。
触れようとはしない。
ただ、昔と変わらぬ穏やかな笑顔で、さゆりを見つめていた。
「先輩。」
その呼び方に、さゆりの肩が震えた。
「私……。」
声にならない。
何かを伝えようとするたび、言葉は喉の奥で砕けてしまう。
何十年も胸へ押し込めてきた後悔は、一言では形にならなかった。
神崎は小さく首を横へ振る。
「謝らないでください。」
その言葉は優しかった。
だからこそ、さゆりは苦しそうに顔を歪める。
「約束したのに……。」
地下庭園へ視線を落とす。名もない石碑が、静かに並んでいる。
「誰も忘れさせないって。」
ぽつりと零れた声は、泣き声よりも悲しかった。
「でも私は、一人も守れなかった。」
えりかは黙って二人を見つめていた。
初めて知るさゆりの姿だった。
学院で見せる完璧な生徒会長ではない。
誰よりも弱く、誰よりも傷つき、それでも立ち続けてきた一人の少女だった。
神崎は静かに百合を一輪摘み取る。白い花を胸へ抱き、小さく微笑んだ。
「先輩は、忘れませんでした。」
その一言に、さゆりがゆっくり顔を上げる。
「学院は名前を消した。」
神崎は続ける。
「写真も、記録も、思い出も。」
百合畑を見渡す。
「でも先輩だけは、毎年ここへ来てくれた。」
石碑へ花を供え続けたこと。
誰もいない地下で、一人ひとりへ語りかけていたこと。そのすべてを神崎は知っていた。
「だから私たちは、一人じゃありませんでした。」
えりかは胸の奥が熱くなるのを感じた。
地下庭園へ並ぶ名もない墓は、忘れられた少女たちの終わりではなかった。さゆりが毎年ここへ足を運び、花を供え、名前を呼び続けていたから。
誰にも知られず。
誰にも褒められず。
ただ一人で。
「……違う。」
さゆりは静かに首を振る。
「私は弱かった。」
その瞳は百合畑の奥を見つめていた。
「本当に強い人なら、こんな場所を残したままにはしなかった。」
地下庭園へ、重い沈黙が落ちる。
その時だった。
遠くで鐘の音が響いた。
低く、重く。
一度。
また一度。
ごぉん――。
その音を聞いた瞬間、神崎の笑顔が消えた。
百合畑が一斉に揺れる。名もない石碑の間から、冷たい風が吹き抜けた。
「始まります。」
神崎はえりかへ視線を向ける。その瞳には、今までになかった切迫した色が宿っていた。
「学院が、気づきました。」
さゆりも振り返る。地下へ続く通路の奥。
そこから、ゆっくりと何かが近づいてくる気配があった。足音ではない。呼吸でもない。もっと古く、もっと重い何か。
この学院が生まれるよりも前から、この場所にあり続けたもの。百合畑の空気が、音もなく凍りつく。
神崎はえりかを真っ直ぐ見つめ、震える声で言った。
「ここから先は、私たちでは止められません。」
その言葉を聞いたさゆりは、ゆっくりとえりかの前へ立つ。
守るように。
庇うように。
そして初めて、生徒会長ではなく、一人の少女として静かに微笑んだ。
「えりかさん。」
「はい。」
「どうか、最後まで私を信じてください。」
その言葉と同時に、地下庭園の奥の闇が、静かに目を開いた。
第十九章 学院の真実
闇が、ゆっくりと呼吸をしていた。地下庭園の最奥。
百合畑の向こう側には、光の届かない空間が広がっている。
目を凝らしても、何も見えない。
それでも確かに、そこには「何か」がいた。
えりかは無意識に息を潜める。
胸の鼓動だけが、静寂の中でやけに大きく響いた。さゆりはえりかの前へ立ったまま、一歩も動かなかった。
その細い背中は小さく見える。
けれど、その姿には長い年月を一人で背負ってきた者だけが持つ覚悟が宿っていた。
「もう隠しても意味はありません。」
さゆりは闇へ向かって静かに語りかけた。
「この子は、ここまで来ました。」
返事はない。
地下庭園を吹き抜ける冷たい空気だけが、百合の花を静かに揺らしている。神崎美緒はえりかの隣へ立ち、そっと百合を抱き寄せた。
「学院は、生きています。」
その言葉に、えりかは顔を上げた。
「……生きている?」
「建物ではありません。」
神崎は首を横へ振る。
「人々の願いです。」
その声は穏やかだった。
「百年以上前、この学院には孤児たちが集められていました。」
地下庭園の空気が少しずつ変わっていく。まるで、遠い昔の記憶が静かに目を覚ましていくようだった。
誰にも名前を呼ばれない子。
誰にも迎えに来てもらえない子。
家族を知らない子。
「その子たちは、せめてここだけは居場所であってほしいと願いました。」
えりかは名もない石碑を見つめる。一つひとつが、誰かの人生だった。
「その願いは強すぎたのです。」
神崎は悲しそうに微笑んだ。
「学院は、人の想いを抱え込み続けました。」
守りたい。忘れられたくない。ここにいた証を残したい。その願いは積み重なり、いつしか一つの大きな意思となった。
「でも……願いは、時々、形を間違えます。」
その瞬間、闇の奥で低い音が響いた。
ごう……。
地面が小さく震える。百合の花びらが一斉に舞い上がった。
「学院は思ったのです。」
神崎は静かに続けた。
「誰も失わなければ、誰も悲しまなくて済む。」
えりかの胸が締めつけられる。
「だから……。」
「だから、悲しみそのものを消そうとした。」
さゆりが言葉を引き継いだ。振り返ったその顔は、涙で濡れていた。
「人を忘れれば、悲しみも消える。」
静かな声だった。
「それが、この学院の選んだ答えでした。」
えりかは首を横へ振る。
「そんなの、おかしい。」
声が震える。
「忘れることは、救いじゃない。」
その言葉に、神崎は優しく微笑んだ。
「だから、あなたがここへ来たの。」
えりかは目を見開く。
「私……?」
「あなたは名前を覚え続けた。」
神崎は一歩近づき、えりかの胸へそっと手を添えた。
「学院が消したものを、あなたは心の中へ残してくれた。」
その手は温かかった。
もう幽霊の冷たさではなかった。
「記憶は、一人からでも始められる。」
神崎の声が地下庭園へ静かに広がる。
「一人が覚えていれば、二人へ伝えられる。
二人が覚えていれば、三人へ伝えられる。」
百合畑を見渡しながら、小さく微笑む。
「そうやって、人は本当には消えない。」
えりかの瞳から涙がこぼれ落ちた。ようやく分かった。この学院が恐れていたのは怪物ではない。
忘れられることだった。
そして、怪物になってしまったのは、誰かを守りたいという願いそのものだった。その時、不意に地下庭園の奥で闇が揺らいだ。
ゆっくりと。
まるで長い眠りから目覚めるように。闇の中に、二つの光が浮かぶ。
それは目だった。人のものではない。けれど憎しみだけでもない。深い悲しみを湛えた、途方もなく古い瞳だった。
さゆりは静かにえりかの前へ立つ。震えながらも、その足は一歩も退かなかった。
「ここから先は。」
彼女は小さく息を吸う。
「私が、終わらせます。」
第十九・五章 継承される名前
地下庭園を渡る風が、百合の花弁を静かに揺らした。えりかは、さゆりの横顔を見つめる。
ずっと気になっていたことがあった。
礼拝堂の肖像画。
歴代生徒会長の記録。
神崎美緒が口にした「先輩」という呼び方。
それらは一つの疑問へ繋がっていた。
「……教えてください。」
えりかは静かに口を開く。
「どうして歴代の記録には、あなたの名前ばかり書かれていたんですか。」
さゆりはしばらく答えなかった。
百合畑を見つめ、一本の花をそっと撫でる。その指先は、何かを惜しむように優しかった。
「私ね。」
ようやく声がこぼれる。
「本当は、桜庭さゆりじゃないの。」
えりかは息を呑んだ。
「え……?」
「桜庭さゆりという名前は、生徒会長だけが名乗ることを許された名前。」
地下庭園が静まり返る。
神崎美緒は悲しそうに微笑み、小さく頷いた。
「学院が創られた頃、一人の少女がいました。」
さゆりは語り始める。
「彼女は初代生徒会長でした。」
誰よりも優しく、誰よりも責任感が強かった少女。孤児だった生徒たちを守り、名前を呼び、家族のいない子どもたちの居場所を作ろうとした。
その少女の名が――桜庭さゆり。
「怪異が生まれた時、彼女は願ったの。」
――どうか、この子たちの名前だけは消えませんように。願いは叶わなかった。
だが、その願いは怪異と結び付き、学院に新たな掟を生んだ。
「それ以来、生徒会長は代替わりするたび、自分の名前を学院へ預けることになった。」
えりかは眉をひそめる。
「名前を……預ける?」
「ええ。」
さゆりは苦く笑う。
「学院は本当の名前を奪い、その代わりに『桜庭さゆり』という名前を与えるの。」
「じゃあ……。」
「私が入学した時、私は別の名前だった。」
その言葉はあまりにも静かだった。
「でも、その名前はもう思い出せない。」
えりかの胸が締めつけられる。
「覚えてないんですか。」
「もう、誰も。」
さゆりは自嘲するように笑う。
「家族も、友達も、先生も。」
風が吹く。百合が揺れる。
「卒業した生徒会長は学院を去る。」
神崎が静かに続けた。
「でも、その人の記憶からも『本当の名前』は消えてしまうんです。」
「代わりに残るのが、『桜庭さゆり』という役目だけ。」
えりかは言葉を失った。だから歴代の記録には同じ名前しか残っていなかった。
学院は個人を必要としていなかった。
必要だったのは、「桜庭さゆり」という存在だけだったのだ。
「私も最初は抵抗した。」
さゆりは空を見上げた。
「自分の名前を忘れたくなかった。」
入学した日のこと。家族と笑い合った日のこと。幼い頃に呼ばれていた愛称。好きだった歌。初恋の思い出。
それらは一年、また一年と薄れていった。
最後に残ったのは、生徒会長としての責任だけだった。
「だから私は泣けなかった。」
えりかは顔を上げる。
「泣いたら、本当の自分まで消えてしまう気がした。」
さゆりは微笑んだ。
その笑顔は、あまりにも儚かった。
「神崎さんと約束した日から、私はずっと生徒会長でいようと決めた。」「誰か一人でも、名前を守れるなら。」
「誰か一人でも、ここで泣かなくて済むなら。」
「それだけでよかった。」
えりかは堪えきれず、さゆりの手を握った。
冷たい手だった。けれど、その冷たさの奥に、確かな温もりがあった。
「あなたは、桜庭さゆりじゃなくてもいい。」
えりかは涙を流しながら言った。
「あなたには、あなたの名前があります。」
さゆりは驚いたようにえりかを見る。
そして、ゆっくりと目を閉じた。忘れてしまったはずの名前。もう二度と思い出せないはずの人生。
それでも、その言葉だけは胸の奥深くへ届いた。
百合畑の風が優しく吹き抜ける。
その風に乗って、どこからともなく幼い少女の笑い声が聞こえた気がした。それは初代生徒会長が、ようやく役目を手放せることを喜んでいるような、穏やかな笑い声だった。
第二十章 最後の夜
さゆりの声は、地下庭園の静寂へ溶けていった。返事はなかった。
それでも、その言葉は確かに届いたのだと、えりかには分かった。
百合畑を渡る風が止んだ。
舞い上がっていた花びらが、一枚、また一枚と地面へ落ちていく。世界から音が消えたような静けさだった。
やがて、闇の奥に浮かんでいた二つの光がゆっくりと近づき始める。
光だと思っていたものは、瞳ではなかった。
無数の記憶だった。
笑い声。
泣き声。
卒業式で交わした約束。
初めて友人ができた日の笑顔。
家族へ書いた手紙。
名前を呼ばれた喜び。
そんな数え切れない思い出が、夜空の星のように闇の中を漂っていた。
それらは寄り集まり、一つの大きな影を形づくっていく。
人の姿にも見えた。
校舎そのものにも見えた。
輪郭は定まらず、ただ、底知れない悲しみだけがそこにあった。
えりかは、その影から恐ろしさよりも孤独を感じた。
百年以上もの間、誰にも理解されず、ただ願いだけを抱え続けてきた存在。
怪異になってしまったのは、人を傷つけたかったからではない。守り方を間違えてしまったからだ。
「もう終わりにしましょう。」
さゆりが一歩前へ出る。その声は穏やかだった。
「あなたは十分に頑張りました。」
影は静かに揺れる。百合畑が波打つ。地下庭園の空気が震え、少女たちの歌声がどこからともなく響き始めた。
懐かしい旋律だった。
神崎美緒は目を閉じ、小さくその歌を口ずさむ。すると、名もない石碑が次々と淡い光を帯び始めた。
光は一つ、また一つと宙へ浮かび、百合畑の上を漂っていく。
それは少女たちの記憶だった。忘れられたはずの笑顔。消されたはずの名前。
誰にも届かなかった願い。
そのすべてが、小さな光になって夜空のような天井へ昇っていく。
えりかは涙をこらえきれなかった。
こんなにもたくさんの人生が、この学院には眠っていたのだ。
「聞こえますか。」
えりかは影へ向かって歩き出した。さゆりが止めようとする。しかし、えりかは静かに首を横へ振った。
「もう、誰も忘れません。」
胸の奥から言葉が溢れる。
「神崎美緒さんも。」
一歩。
「名前の消えたみんなも。」
また一歩。
「あなたが守ろうとした子たちも。」
影の前まで辿り着く。恐怖はなかった。あるのは、どうか届いてほしいという願いだけだった。
「忘れることは、優しさじゃありません。」
地下庭園が静まり返る。
「悲しいことも、苦しかったことも、全部覚えているから、人は誰かを大切にできるんです。」
その言葉を聞いた瞬間だった。
影がゆっくりと崩れ始めた。
黒い霧のようだった身体が、百合の花びらへ変わっていく。
一枚。
また一枚。
白い花びらは空高く舞い上がり、少女たちの光と混ざり合う。地下庭園を満たしていた重苦しい空気が、少しずつほどけていく。
神崎美緒は静かに微笑んだ。
「終わる。」
その声は、風よりも優しかった。さゆりはその場へ膝をつく。
張りつめていた糸が切れたように、肩を震わせながら泣いていた。
何十年も流せなかった涙が、ようやく溢れてきたのだ。
えりかはそっと、その肩へ手を置く。
さゆりは顔を上げ、涙で濡れた瞳のまま微笑んだ。
「ありがとう。」
その一言に込められた歳月は、あまりにも長かった。
その時、地下庭園の天井へ一本の光が差し込んだ。
夜明けだった。
学院が初めて迎える、本当の夜明けだった。
最終章 夜明け
地下庭園へ差し込んだ光は、朝というにはあまりにも静かだった。
白く細い光の帯が百合畑を横切り、名もない石碑を一つひとつ照らしていく。
そのたびに石碑は淡く輝き、長い眠りから目覚めるように柔らかな光を返した。
神崎美緒は空を見上げるように目を細めた。
「朝が来るんですね。」
その声には、驚きと安堵が混じっていた。
えりかはその横顔を見つめる。
初めて出会った時の寂しさはもうない。
今の神崎は、ようやく帰る場所を見つけた人のように穏やかな表情をしていた。
「ありがとう。」
神崎はもう一度そう言って、小さく頭を下げる。
「私だけじゃありません。」
えりかは首を横へ振った。
「みんなが待っていました。」
神崎は微笑む。
「……そうですね。」
その瞬間、百合畑のあちらこちらで光が立ち上った。
一つ。
また一つ。
少女たちの姿が静かに現れる。誰も泣いていない。誰も苦しんでいない。
制服姿の子も、古い袴姿の子も、それぞれが穏やかな笑顔を浮かべていた。
神崎は振り返り、一人ひとりの顔を見つめる。
「帰ろう。」
その一言に、少女たちは静かに頷いた。光はゆっくりと舞い上がり、朝日に溶ける雪のように空へ昇っていく。
最後に残ったのは神崎だった。
彼女はさゆりの前まで歩み寄る。
「先輩。」
さゆりは涙を拭わなかった。
「ごめんなさい。」
何度も口にしてきた言葉だった。
けれど、神崎は優しく笑う。
「もう、その言葉はいりません。」
そう言って、そっと両手を差し出した。
さゆりも恐る恐る手を伸ばす。二人の指先が重なった。今度は、すり抜けなかった。
ほんの一瞬だけ。
温もりが確かにそこにあった。
「ありがとうございました。」
神崎はそう言い残し、朝の光の中へ溶けていった。
百合の花びらだけが、静かに舞い落ちる。
地下庭園にはもう、歌声も鈴の音も聞こえなかった。
◆
一か月後。
学院では卒業式が行われていた。
講堂には春の陽射しが差し込み、窓の外では白百合が風に揺れている。
あの日以来、地下へ続く隠し扉は誰にも見つからなくなった。
図書室の奥には、ただ古い本棚が並んでいるだけだった。
卒業式が終わり、えりかは一人で図書室を訪れた。
何となく、もう一度だけ確かめたかった。
歴代生徒会の継承録。
ゆっくりとページをめくる。
そして、えりかは息を呑んだ。
そこには空白ではなく、一人ひとりの名前が丁寧に記されていた。
神崎美緒。
その名前も、確かにそこにあった。
誰かが書き加えたような新しい文字ではない。
最初からそこにあったかのように、自然に記録されている。
えりかは思わず笑みをこぼした。
窓から春風が吹き込み、本のページがぱらりとめくれる。
最後のページには、見覚えのない一文が増えていた。
『人は、忘れられた時に消えるのではない。誰かが思い出す限り、その人生は生き続ける。』
えりかは静かに本を閉じた。
図書室を出ると、中庭にはさゆりが立っていた。
風に揺れる百合を眺めながら、穏やかに微笑んでいる。
その笑顔は、初めて会った日の完璧な生徒会長の笑顔ではなかった。
泣き、苦しみ、それでも前を向くことを選んだ、一人の少女の笑顔だった。
「えりかさん。」
名前を呼ばれる。
「はい。」
「今年の百合は、とても綺麗ですね。」
えりかは咲き誇る花々を見渡し、小さく頷いた。
「ええ。」
「きっと、みんなが見守ってくれています。」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
春風が百合畑を渡る。
白い花びらが空へ舞い上がり、青く澄んだ空へ溶けていく。
その花びらの向こうで、ほんの一瞬だけ、懐かしい少女たちが微笑んだような気がした。
えりかは目を閉じる。
もう怖くはなかった。
忘れない。
その約束だけが、胸の中で静かに息づいていた。