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宇宙の端っこの玄関で、私の生まれた日 #シロクマ文芸部

「生まれた日って、いつだと思う?」

まだ暗い早朝の玄関先で、靴ひもを結び直しながら、私は掠れた声で呟いた。

「なに、急に」

パジャマ姿の妻が、不思議そうに目を細める。

「いや……別に」

私は答える代わりに、小さく息を吐き出した。

この数週間、私は自分がどこにいるのか分からなくなっていた。

命を削るようにして手塩にかけてきた仕事。信じていた場所からの突然の梯子外し、積み上げてきたものすべてが足元からガラガラと崩れ去るような大失敗。すべてを失い、背負わされた責任の重さに押し潰されそうになりながら、私の視界はどんどん暗く、狭くなっていった。

広い宇宙の、数あるひとつの、青い地球。

そのさらに片隅の小さな街の、誰も見ていない暗闇の中に、自分だけがぽつんと一人で置き去りにされたような感覚だった。絶望が重力を増し、身体が泥のように重い。

「失敗した男」として家に帰るのが怖かった。家族を幸せにするために、男として、父親として「成果」を上げ続けなければならないと信じ込んでいた。仕事での成功こそが家族の幸せであり、何にもなれなかった自分には価値がないと思い詰めていた。

今日、会社に行けばどうなるか分からない。全てが終わるかもしれない。

生きた心地のしないまま、コートのボタンをかけ、ドアノブに手をかけた。

「……行ってくる」

その時だった。

「お父さん!」

パタパタと小さな足音が駆け寄ってきたかと思うと、まだ眠い目を擦った幼い息子が、私の膝にしがみついてきた。

「お父さん、手ぇ冷たい。あたたかくする」

小さくて温かい両手が、私のスラックスの上から必死に膝を包み込んでくる。

戸惑い、固まる私の背中に、ドスンと温かい塊がぶつかった。

妻だった。妻が後ろから私を挟み込むように抱きしめ、服の生地が引きちぎれそうなほどの力で腕を回してきたのだ。

「ちょっと……どうしたの」

「顔色、ずっとおかしかった」

妻の顔が背中に埋められたまま、絞り出すような震える声が聞こえた。

「何も言わなくていい。聞かないから」

背中に回された妻の指先が、強く、強く私の服を掴む。

「でもね、勘違いしないで」

妻が顔を横に滑らせ、私の肩越しに顔を寄せた。その目は涙で濡れていたけれど、真っ直ぐに私を見つめていた。

「成功したあなたじゃなきゃダメなんて、一回も言ったことないよ」

呼吸が止まった。

「あなたが、ここに生きていてくれることが私たちの幸せなの。あなたの存在がなくなったら、何もかも元も子もないんだよ!」

胸の奥が、どんと激しく揺れた。

「成功したあなた」が好きだったわけじゃない。「家族を守るヒーロー」でい続ける必要なんてなかった。

ただ、生きていること。 ただ、毎朝「行ってきます」と言って、夜に「ただいま」と帰ってくること。 私の存在そのものが、この人たちの世界の真ん中にあったのだ。

足元から、背中から、二人分の体温が容赦なく伝わってくる。 冷え切っていた血が、指先まで一気に巡っていくのが分かった。

言葉にならなかった。

「……ごめん」

声にならない掠れた音が口から漏れ、涙がポロポロと溢れ落ちた。 私は息子を抱き上げ、二人を壊れないように、だけど力いっぱい抱き返した。

暗い宇宙の端っこで、たった一人で凍えていたつもりだった。 けれど、違った。 大事な光は、一番近くで、ずっと私を照らしてくれていた。

遠くの成功なんて届かなくてもいい。 世界を変えるような大層な成果なんてなくてもいい。

ただ、この温もりを守るために。 この場所で、大切な人と一緒に歩いていくために。

玄関の隙間から、薄桃色の朝光が差し込んでいた。

「行ってきます」

涙を拭い、私はしっかりと二人の手をとった。

絶望の暗闇の中で、一人の男として一度死んだ私は。 今日、この温かい腕の中で、もう一度新しく生まれ変わった。

この場所こそが。 私の、生まれた日だ。

企画への参加

小牧幸助さんの「生まれた日」をテーマにした企画に参加させていただきました。素敵な企画、いつもありがとうございます。




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