
幸せな生活— 【エピローグ】—
出産から数日が経った。
病院の窓から見える本国の街は、いつも通り穏やかだった。
午後の光がゆっくりと家々を照らし、遠くで子どもたちの笑い声が聞こえた。
この子は、本国で生まれた。
私よりずっと幸せな生活が送れるに違いない。
そう思えるだけで胸が満たされた。
その日の夕方、病院の廊下が少し慌ただしくなった。
看護師さんたちが早足で行き来している。
誰も大きな声は出さないけれど、空気がいつもと違った。
私は赤ちゃんを抱いたまま、静かに様子を見ていた。
新しい検査かな、と思った。
出産後はたくさん検査があると聞いていたから、不思議ではなかった。
やがて、白い服を着た人たちが部屋に入ってきた。
見慣れない制服だった。
胸のところに、見たことのない紋章がついていた。
「移送の準備をしますね。安心してください」
優しい声だった。
私はうなずいた。
赤ちゃんを抱いたまま、案内に従った。
病院の外に出ると、空が少し暗かった。
遠くで煙のようなものが上がっていたけれど、私はそれが何なのか分からなかった。
「本国が戦争に負けたらしいですよ」
誰かが小さく言った。
私はよく分からなかった。
戦争のことは授業で習ったけれど、それが自分に関係するとは思っていなかった。
連邦の医療施設に着いた。
白い建物で、静かだった。
中に入ると、空気が少し冷たかった。
案内の方が優しく言った。
「こちらで新しい検査をしますね」
私はうなずいた。
赤ちゃんを抱いたまま、部屋へ入った。
そこには、連邦のドクターがいた。
優しそうな目をしていた。
本国の先生たちと同じような、安心できる大人の目だった。
「こんにちは」
ドクターは静かに言った。
私は頭を下げた。
ドクターは私にいくつか質問をした。
私は素直に答えた。
学校のこと。
先生のこと。
友だちのこと。
母のこと。
身体調整のこと。
卒業式の日のこと。
本国へ来た日のこと。
私は話しながら、ずっと床を見ていた。
連邦の床は白かった。
綺麗だった。
でも、本国で見た床とは少し違う気がした。
私は赤ちゃんを抱き寄せた。
「本国は、とても良いところでした」
私は言った。
「先生も優しかったです」
「母もいました」
「友だちもいました」
「家族の方々も、みんな優しかったです」
胸の奥が少し温かくなった。
思い出すだけで嬉しかった。
ドクターは黙って聞いていた。
やがて、小さく言った。
「もう戻れません」
私は意味が分からなかった。
「どこにですか?」
ドクターは少し黙った。
それから静かに言った。
「本国には、もう戻れません」
私はしばらく何も言えなかった。
先生には会えない。
母にも会えない。
友だちにも会えない。
あの家族にも会えない。
この子が幸せに育つはずだった場所にも、もう戻れない。
胸の奥が少しだけ冷たくなった。
私は赤ちゃんを抱いたまま黙っていた。
それから、ゆっくり顔を上げた。
上を向いたのは、いつ以来だっただろう。
私はドクターの瞳を見た。
優しそうな目だった。
本国の先生たちと同じように。
だから私は安心して聞くことができた。
「どうしてですか」
ドクターは答えなかった。
ただ、とても悲しそうな顔をしていた。
私はその理由が分からなかった。
私は不幸ではなかった。
私は困っていなかった。
私は幸せだった。
母がいて。
先生がいて。
友だちがいて。
家族がいて。
この子も生まれた。
だから私は静かに言った。
「私の幸せを返してください」
私は本気で言っていた。
ー了ー