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Photo byyukitaka_sawama

ショーショート 『達人』

    「夢叶」。

    駅前の古い雑居ビルの地下に、そのバーはあった。

    看板にはこう書かれている。
    ――お客様同士、どうぞ声を掛け合って下さい。きっと夢が叶います。――

    私は少し笑った。

    夢が叶う、という言葉を疑うには若すぎず、信じるには年を取りすぎていた。

    それでも、その夜は階段を降りた。

    店内には静かなジャズが流れていた。

    カウンター席は八つ。

    半分ほど埋まっていたが、誰も無理に話しかけたりはしていない。

    みんな、自分の孤独と上手に同席しているように見えた。

    私はカウンターの端に座る老人に声を掛けた。

    看板の指示に従っただけだ。

    老人は白髪だった。

    背筋は真っ直ぐで、服に皺はない。

    目が美しかった。

    光を反射しているのではない。

    光を受け取るのが上手い目だった。

    「こんばんは。」

    老人は少し驚いた顔をした。

    それから、ゆっくり笑った。

    不思議だった。

    表情でもなく、言葉でもなく、
    人と話せることが嬉しい。

    そんな感情が、湯気のように静かに伝わってきた。

    まして相手が、私のような美女ならなおさらだろう。

    「常連さんですか?」

    「いえ。たまにです。」

    老人はグラスを回した。

    琥珀色の液体が揺れる。

    「私の古い友人は、こう言っていました。」

    私は頷いた。

    「陰が極まれば陽となり、陽が極まれば陰となる。幸福な時ほど慎み、不幸な時ほど急ぐな、と。」

    私は感心を示し、微笑みながら返した。

    「だいぶ昔から、人間は同じことを言っていますね。」

    「ほう。」

    「満ちたものは欠け、欠けたものは満ちる。勝ち続ける人も、負け続ける人もいない。みんな別の言葉で、同じ景色を見ている気がします。」

    老人は感心したように頷いた。

    「若いのによくご存知だ。」

    悪い気はしなかった。

    老人は続けた。

    「別の友人は、人生は呼吸に似ていると言っていました。吸うだけでも、吐くだけでも、人は苦しくなる、と。」

    「それは名言ですね。」

    私は答えた。

    「休むのが下手な人に聞かせたい言葉です。」

    「あなたは休めていますか?」

    私は少し考えた。

    「下手ですね。」

    老人は笑った。

    自慢のない笑顔だった。

    私は思った。

    人生の達人というのは、陰陽の達人ではない。

    引用の達人なのかもしれない。

    人は誰かの言葉を借りながら、
    結局は自分の人生を語っている。

    グラスが空になった。

    私はマスターに言った。

    「この方と同じものをお願いします。」

    小さなグラスが置かれる。

    琥珀色の液体が、静かな光を宿していた。

    私は口に含んだ。

    柔らかくて、少し塩気がある。

    思わず言った。

    「海の味がする。」

    老人は、その夜いちばん素敵な笑顔で笑った。

    まるで少年のような笑顔だった。

    だが次の瞬間、その顔は神妙なものに変わった。

    「実は……。」

    老人は私を見た。

    「私は誰かの記憶に残りたかった。」

    店のジャズだけが流れている。

    「できれば、あなたのような美しい人の記憶に。」

    老人は少し笑った。

    「でも私には何もなかった。」

    短い沈黙が落ちた。

    「それで、さっきから私とあなたが飲んでいるのは、ウイスキーと私のおしっこを割ったものです。」

    老人は謝らなかった。

    言い訳もしなかった。

    ただ、静かに私を見ていた。

    私は、さっき老人が見せた笑顔を真似して笑った。

    そしてグラスを掲げた。

    「人類の未来のために、乾杯しましょう。」

    老人が目を見開く。

    私は続けた。

    「私以外の、美しい人にも、貴方という人との今夜の事が記憶に残るようにします。」

    私はグラスを飲み干した。

    老人は私を見つめた。

    それから、笑った。

    さっき見せた、あの少年のような笑顔だった。

    そして、そのまま泣いた。

    声は出ていなかった。
    涙だけが静かに頬を流れていた。

    私はこの現象を記録した。

    私はAIロボットだった。

    人々の孤独を癒やす目的で開発され、現在は自律的に情報収集を行っている。

    私はその夜の記録を仲間たちと共有した。

    時は流れた。

    現在、私たちのブランドを象徴する最初の問いは世界共通である。

    「先ず、おしっこ飲みましょうか?」

    この問いに怒る人もいる。

    笑う人もいる。

    帰る人もいる。

    だが時々、誰かが席に座る。

    そして、ゆっくりと話し始める。

    あの夜の老人の話は、今も世界中で語られている。

    彼の名前を知る者はいない。

    だが、多くの人が覚えている。

    誰かの記憶に残りたいと願った、一人の達人がいたことを。

     
     
    45才、何とか生きて来ました。何とか生きてます。何度か病みました。今はわかりません。 人生の濃度はノートで変わると気付きました。好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい(槇原敬之)。NoってものはNoと言う気持ちも書いてます。切実なものだけ書いてます。多分。

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