
創作 「鳩」 30
暁が帰ってきたのは、六時を過ぎた頃だった。
玄関で「ただいま」と言った。義史が「おかえり」と言った。私も言った。三人の声が、玄関のあたりで重なった。
暁が台所に来て、冷蔵庫を開けた。麦茶を出して、一気に飲んだ。グラスを置いて、窓の外を見た。
少し、止まった。
それだけだった。何も言わなかった。グラスを洗って、二階に上がっていった。
私は暁の背中を見た。
階段を上がっていく背中。義史より細くて、まだ子どもの背中だ。でもいつか、この背中も変わる。その時この背中の感触を、私は知っているだろうか。最後に触れたのはいつだったか、今でも思い出せない。
触れておけばよかった、とは思わなかった。
ただ、触れる時間は、まだある、と思った。まだある、と思えた、ということが、今夜は少し、確かだった。
夕食が終わって、三人でしばらく食卓にいた。
珍しかった。義史がすぐに立たなかった。暁も上がらなかった。私もお茶を飲みながら、座っていた。テレビはついていなかった。静かだった。でも今夜の静かさは、いつもと少し違った。同じ沈黙でも、質が違う。
ただ三人が、同じ夜の中にいた。
鳩がいなくなった夜の中に。それぞれが別のことを考えていたと思う。でも同じ空気を、それぞれの場所で吸っていた。偶然この食卓にいる三人が、同じ夜の中にいた。
後で、庭に出た。
義史も出てきた。声をかけたわけではない。私が縁側に出ると、少ししてから義史も来た。
二人で庭を見た。
三月の夜だった。金木犀の葉が、風に少し揺れていた。羽はもうなかった。金木犀の根元には、何もなかった。
何もない場所を、二人で見ていた。
義史が何かを言いかけた気がした。でも言わなかった。私も何も言わなかった。言葉は出てこなかった。出てこなかったが、出す必要もなかった。
冷たい空気が、二人の間にあった。同じ空気だった。同じ夜の、同じ冷たさだった。
鳩がどこへ行ったのか、私たちは話し合わなかった。
遠くで、鴨川の水音がした。聞こえるはずのない距離だったが、聞こえた気がした。義史の体温が、隣にあった。触れてはいなかった。でも、あった。
庭の金木犀が、暗い中で静かに立っていた。金木犀が咲くのはまだ先だ。
了