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いつか見た夜空の続きを(後編)

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

    (あらすじ)雨乞いの祈祷の末に命を落とした陰陽師「若苗」。その生まれ変わりを待ち続ける黒猫「伯人」は長い年月を経て、猫又へと変化した。ヒトの姿で若苗との再会の日を待とうと村へ戻った伯人を待ち受けていたのは、祟りを恐れて怯える村人たちだった。村の守り神として社に留まってほしいと願い出た長老の言葉に反発を感じながらも、いつか若苗を迎えるための場となるならと、その社に身を寄せることにした。そうして、長い年月が流れたある日、村人たちの中で少しずつ積み重なっていった不審と畏れとが、伯人に対する害意へと転じていく。その悪意を察知し、姿を消そうとした伯人。その時、どこからか漂ってきた懐かしい匂い……。伯人と若苗との「再会」が叶う瞬間は、やってくるのか【以上、後編】

      ●

    《どうしたにゃ、ご主人》
    「……えっ?」

     ふいに聞こえてきた澄んだ声に、もの思いから覚めた。そうして、何度か瞬きを繰り返す。
     いつの間にか手が止まっていたことにも、文机ふづくえの上に──乱雑に広がった数十枚の呪符を器用に避よけて──伯人が座っていたことにも気付いていなかった。
     何を問い掛けてきたのかも咄嗟とっさには掴みかねて、返答に詰まってしまう。

    《さっきから、ため息ばっかりだにゃ》

     見かねたのか、俺の返事も待たずに言葉を重ねる伯人。
     小さく首を振るその仕草は、(やれやれ)とでも言っているように見えた。

    「ごめんよ、伯人。……部屋の空気が重くなるよね」
    《そういうことを、言ってるんじゃにゃいぞ》

     なんとなく焦じれてるようなその声に、慌てて言い直した。

    「そうだね、勿論わかってるよ。……心配してくれてありがとう」

     伯人は、『ごめん』とか『悪かった』とか、そういう言葉を嫌う。
     いつだったか、言われたこともある。『謝るにゃ』『そこは、ありがとうだろ』と。
     わかっていたはずなのに謝罪めいた返答をしてしまったのは、気分が落ちてるからなのかもしれない。
     もう一度ため息をこぼしそうになって、見つめてくる伯人と目が合う。ゆっくりと深く息を吸って、ため息を呑み込んだ。

    《心配してるってわかってるにゃら、ちゃんと話すにゃ。俺が聞いてやるにゃよ》
    「……うん。ありがとう」

     言葉も声音こわねも、俺を深く案じているんだと伝えてくれるものだ。その優しさが嬉しくて、心に澱おりのように溜まっているものを吐き出してしまいたくなる。
     そう思いはしたものの、少しの迷いもあった。
     伯人に話してみても、俺の置かれた状況が変わるわけじゃない。それどころか、伯人にとっては面白くない話かもしれない。そんなふうに思ってしまうからだ。

    《俺じゃ……頼りにゃいのか?》
    「違うよ! そんなこと思ってない。俺は、いつだって君に頼りきりだ。……言ったろ? 伯人がいないと、俺は駄目なんだって」
    《でも……俺に話しても仕方にゃいって、そう思ってにゃいか?》

     そう言ってくる伯人は、どこか拗すねているように見えた。俺に向けてくる金の瞳にも、いつもの強い光がない。
     伯人にそんな目をさせるのは嫌だった、絶対に。
     だから……腹を決めた。

    「俺には家族がいない」
    《……うん。知ってるにゃ》

     独り言のように話し出した俺に、不思議そうに首を傾かしげる伯人。
     愛らしい仕草に、胸の奥に溜まったものがすうっと軽くなっていく気がした。

    「いつ頃からかはわからないけど、何代にも亘わたって陰陽師を出してきた一族らしいんだ」

     断片的ではあっても、これまでにも何度か聞かせてきた話だ。
     わかってる、と言いたげにコクコクと頷く伯人。
     見上げてくる目はいつも通り、綺麗に澄んでいて……次の言葉を切り出すまでに、少し時間がかかった。

    「その血が途絶えるのは困るって……そう言われてるんだ」
    《血……? どういうことにゃ? 誰に言われたんにゃ?》
    「村の長老たちがね……。一族の血を引く子どもが必要だって、そう言ってるんだ」

     こんな言い方で伝わるんだろうか。そういう思いもあったけれど、言われた俺自身がピンときてない話だから、どうしても他人事ひとごとのような口調になってしまう。
     案の定、伯人はますます首を傾げていく。

    《変なことを言ってるにゃ。ご主人には弟も妹もいないんだから、どこにも子どもなんているわけないよにゃ》
    「うん……一族で残っているのは俺だけだ。だから」

     その先を、伯人の前で口にするには抵抗があった。聞かされた伯人が何を思うか、どんな反応をするのか……知るのが怖かったのかもしれない。

    《だから……なんにゃ?》
    「……だから、嫁を娶めとれって……そう言われてるんだ」
    《よ…め……》

     大きく目を見開いた後、伯人はパチパチと何度も瞬きをした。
     何を言われているのかよくわからないと言ってるような仕草。
     息を潜ひそめて見守っていると、ふいに目を吊り上げた。そうして、俺をまっすぐに見据えてくる。

    《誰かがこの家に住むのか。俺の知らにゃい人が、ここに来るのか? そんなの嫌にゃ!》

     キッパリとした口調で言い放ったのは、強い拒絶の言葉だ。その声に、どこか安堵にも似た思いを感じながら、ゆっくりと応じる。

    「俺も……嫌だよ。血を残すためだけに、ろくに知らない人と暮らすなんて嫌だって、そう思ってる」
    《当たり前にゃ! そんなこと、聞いてやらなくていいにゃよ》

     相変わらず怒ったような声を上げる伯人に、沈んでいた心が軽くなっていく。
     俺が期待したもの──嫉妬のような感情──を見せてはくれなかったけれど、少なくとも、伯人にも俺と二人きりの暮らしを守りたい気持ちがあるのだと、そうわかったから。
     嬉しくて……ホウッとため息をつきながら呟いた。

    「うん。一緒にいるなら……共に生きるなら、好きな人とがいい」
    《そうだにゃ。俺もそう思うにゃ》

     うんうんと頷く伯人。さっきまでの苛立った感じは少しもなくて、緊張が解けたからか、丸めた左手の甲を舐め始めた。
     そんな姿も愛くるしくて、胸の奥があたたかいもので満たされていくのがわかる。
     こんな時間がずっといつまでも続けばいいとそう思って……気付いたら声がこぼれていた。

    「伯人が……ヒトならよかったのに」

     思わずこぼれた本音に、伯人がパッと顔を上げる。そうして、険しい目を向けてきた。

    《俺じゃ、駄目にゃのか?》
    「……えっ?」

     最初に感じたのは、失望や怒りや悲しみ……そういう類たぐいの感情。
     だから慌てた。
     伯人にそんな思いを抱かせるなんて、絶対に嫌だったから。

    「伯人……その、俺は……」

     言葉を探して口ごもる俺を見つめたまま、伯人は静かに立ち上がった。
     軽やかに机から飛び降りると、優雅な動きで俺の傍らに歩み寄る。そうして、くるりと腕に尻尾を巻き付けてきた。

    《俺が、ずっと傍にいてやるにゃ。それじゃ、足りにゃいか?》
    「ずっと……?」

     腕に触れてくる尻尾は柔らかく温かだ。俺に向けられた言葉も声もあたたかくて……声が震える。

    《俺と生きるにょは、嫌か?》
    「嫌じゃない! 嫌なわけ、ないじゃないか」

     その言葉が、伯人の気持ちが嬉しくて、切なくて……ずっと言わずにいた想いが──気付かれないよう、心の底に閉じ込めておいた想いが──溢れた。

    「だから……お願いだから、俺を……置いていかないで、くれ」

     ちゃんとわかっていた。
     どんなに大切にしても、心を砕いて見守ったとしても、伯人と俺に与えられた寿命は違う。それがずっと悲しかった。切なかった……。
     けど、考えないようにしてきた。伯人と共にいられる「現在いま」を大切に過ごしていたかったから。

    「……傍に、居てほしいんだ……ずっと、いつまでも──」

     ふと膝の上に感じた重み。
     柔らかく温かな二つの感触が、伯人の両手なのだと気付いた。
     気付いて、ぼんやりと霞む視線を向けると、伯人がスッと伸び上がってくる。そうして、俺の頬をペロリと舐めた。
     ザリザリとした舌が、頬を撫でるように何度も行き来する。

    《泣くにゃ》

     言われてようやく自覚する。溢れる思いと一緒に流れ出した涙を。
     伯人は、それを懸命に拭ってくれていたのだと。

    「ごめ、ん……はく、と」
    《大丈夫にゃ。置いてなんかいかにゃい》

     掠かすれた俺の声に、応じる伯人の声は力強かった。
     何かの決意を秘めているような強い視線をまっすぐに向けてくる。キラキラと輝く瞳が……眩しい。

    《待ってろよ。いつかきっと……俺はヒトになるからにゃ》
    「人……に?」

     思いがけない言葉に、揺れ動く感情が……涙が、次第に収まっていく。
     見つめ返す俺にゆっくり頷くと、凛とした声が小さな口からこぼれた。

    《そうにゃ。聞いたことがあるにゃ。長く生きた猫は「猫又」って存在になるんにゃ。ヒトの姿にもなれるんにゃよ。すごいだろ?》

     そんなことを、どこか得意げに語る伯人。
     信じたい……信じられると思える力強さが、そこにはあった。

    「すごいね……素敵だ」
    《だろ? だから、その日を待ってろにゃ。俺は絶対に猫又になって、お前の隣で一緒に生きるにゃ》

     一息に語ると、もう一度伸び上がり、俺の頬にスリと額を擦り付けてくる。
     その温もりも、柔らかな感触も、全てが俺の心を癒してくれるものだ。
     嬉しくて、本当に幸せで……想いが溢れて、うまく言葉にならない。

    「うん。……ありがとう。俺も伯人と生きたいよ。ずっと……いつまでも」
    《ああ。約束にゃ》

     そう言うと、俺の胸元にピッタリと体を寄せてくる。
     伯人の体温が、微かな胸の鼓動までもが感じられるようで、すごく嬉しい。

    《月……大きいにゃ》

     声に釣られて、窓の外に目を向ける。
     煌々こうこうと輝く月はいつもよりずっと近くて、それでいて、いつもより柔らかな光を届けてくれているような気がした。
     伯人との未来を──ともに生き続ける明日を──思い描けるからだろうか。
     この目に映るものが、世界の全てが、色鮮やかに輝いて見える。

    「月が……綺麗だね」
    《ああ、綺麗だにゃ》

     すぐに応じる声に、伯人も同じ思いで空を見上げていたような気がして、それも嬉しい。
     月の輪郭がほんの少し霞んで見えるのは、じんわりと目の奥が熱いせいだろう。
     さっきとは違う涙がこぼれそうで、深く息を吸って呑み込む。

    《どうしたにゃ?》

     見上げてくる伯人の瞳は、差し込む光を弾いて輝いていた。
     この世界にあるどんな光よりも眩しく……俺の心を射抜く黄金。

    (そうだ……今がいいのかもしれない)

     伯人の首には、細い紐で結びつけた小さな鈴がある。伯人と暮らし始めてすぐ、忙せわしなく動き回っては狭い隙間に入り込む伯人に、ふとした思いつきで付けてもらったものだ。
     長く身に付けていたそれが、以前のように軽やかな音を奏でなくなったのに気付いて、少し遠出をした時に新しいものを買い求めてきた。
     用意してはみたものの何となく渡しそびれていたが、これを渡すには、今がちょうどいい気がする。

    「伯人に……渡したいものがあったのを思い出したんだ」
    《渡したい? なんにゃ?》

     期待に目を輝かせる伯人に笑顔で応えて、机の横から文箱ふばこを取り上げる。
     尻尾をパタパタと振りながら、俺の手元を見つめる伯人。
     取り出したそれを目にした瞬間、弾んだ声を上げた。

    《鈴にゃ!》
    「うん……今のは、あまり良い音がしなくなってるから。もっと前に用意はしてたんだけど、なかなか切り出せなくて──」
    《なんで二つあるにゃ? これ、また首に付けるんだよにゃ? 俺の首は一つにゃよ?》

     矢継やつぎ早ばやの質問に、思わず笑い出しそうになってしまった。
     いつもなら、俺のそういう挙動に敏感な伯人だけれど、好奇心が勝っているからか、気付いた様子はない。
     軽く咳払いをしてから、二つの鈴を取り出して、左右の手で一つずつを掲かかげる。
     朱色の組み紐から吊り下げられた金色のそれを、等分に見つめる伯人。
     その目の前で、まずは右手の鈴を、続けて左手の鈴を軽く振ってみた。

    《音が……違うにゃ》
    「そうなんだ。大きさも形も同じように見えるのに、不思議だよね。本当は一つでいいと思ったんだけど……どっちの音がいいか決められなかったんだ」

     そんな説明に、うんうんと頷く伯人。
     どちらの方が伯人の好みか、そう問い掛けようと口を開きかけたところに、パッと顔を上げた。

    《なら、両方使えばいいにゃ!》
    「両、方……?」
    《二つ重ねて、首に掛けておくにゃ》
    「けど……邪魔じゃないかな?」

     子どもの頃より大人くしくなったとはいえ、今でも伯人はあちこちに潜り込んだり、走り回ったりする。猫としてはかなり活発な方だ。
     もちろん、丸くなって眠っていることの方が断然多いけれど。

    《せっかくご主人が用意してくれたのに、片方しか使わないのは、なんだか勿体ないにゃよ》
    「……うん」

     その気持ちはとても嬉しかった。嬉しいからこそ、考え込んでしまう。どうするのが一番良いのか、あれこれと思いを巡らす。
     そんな逡巡しゅんじゅんを察したのだろうか。考え込む俺の頬を、トントンと優しい手のひらが叩いた。

    《これ、きっとご主人の想いがいっぱい詰まってるにゃ。だから……お守りにするにゃ。その日が来るまで》
    「その日……?」
    《ああ。俺がヒトになれる「その日」にゃ。二つあったら、ご利益りやくも倍だと思うんにゃ。どうにゃ?》

     見上げてくる目はキラキラと輝いていた。
     その光に……強い想いに、俺が逆らえるはずなんてない。自然とそう思えてくる。

    「そうか……そうだね。なら、そういう呪しゅを込めておくよ。俺が傍にいられない時でも、この鈴が、俺の代わりに伯人を守るように。俺のありったけの力を込めるから」
    《ああ、頼むにゃ。それで……俺がヒトになれたら、二人で一つずつ付けるにゃ。その先も、ずっと一緒にいられるように。約束にゃよ》

     そんな言葉が嬉しくて、また目の裏が、喉の奥がじんわりと熱くなってきた。
     伯人と生きていく未来。
     その誓いの証を、両の手で握りしめる。
     俺の祈りが、願いが……この鈴に宿ってくれることを願いながら。


      ○

     初めて身に付けた着物は、足を自由に動かせない感じがして、少し頼りない。
     それと……胸から腹にかけてが窮屈で、思いきり息が吸えないような気もする。

    (そのうち慣れるよって鈴音は言ってたけど……『そのうち』って、いつなんだ?)

     帯を締め付けられて軽く呻うめいた俺に、ニヤニヤと楽しげな笑みを向けてきた鈴音。
     癪しゃくだったから、その後はグッと声を堪こらえていたものの……それはそれで面白がられていたようにも思う。
     そんな記憶を辿りながら少しボンヤリしていたのかもしれない。盛り上がった木の根に足を取られかけて、身体が大きく揺れた。
     その瞬間、耳の横で響いたチリンという鈴の音。
     気付いて、なんとなく顔がほころんでくる。

    「指の先……早く治るといいな」

     いつか村で見たものとは違って、鈴音のくれた花嫁衣装には、頭をすっぽりと覆う布──「綿帽子」というらしい──が付いていた。
     両脇に猫の耳を思わせるような尖とがりを持ったそれに、俺の首飾りを縫い付けようと言い出したのは鈴音だ。
     言い出すくらいだから、縫い物が得意なんだろうと勝手に思っていたが……実際は、かなり悪戦苦闘しながらの作業で、鈴音は指先に何度となく針を刺していた。

    「けど……仕上がった時は、すごく嬉しそうだったな」

     その時の弾んだ声も、得意げな表情もはっきりと思い出せる。

    『どうだい。アタシの腕も大したもんだろ?』

     そう言って笑った鈴音はどこか少女のようで、初めて見せてくれたそんな顔が嬉しかった。
     記憶が足取りを軽くしていたからだろうか。気付くと、村の外れにある俺たちの──俺と若苗の暮らしてきた──家まであと少し、というところまで辿り着いていた。
     小高い丘を越えようと、なだらかな傾斜に足を踏み出して……風に乗ってくる微かな音と匂いに、ふと足が止まる。
     人の姿を得て、五感の全てはかなり鈍くなっていた。それでも間違いなくわかる。俺の知らない大勢のヒトの気配だ。

    「……どういうつもりだ?」

     若苗がいなくなってから、あの家を誰かが訪れることはなかった。
     あの日……若苗の命と引き換えに降り出した雨。
     龍神様の下から帰った俺が耳にしたのは、村のあちこちから上がる歓声にも似た声だった。
     今でも思い出せる。その声に湧き上がってきた、憎しみとも悔しさともつかない感情を。
     『恨むな』
     『魂が濁るだけだ』
     そう諭さとしてくれた鈴音の言葉がなければ、激情のままに村の奴らを襲っていたかもしれない。
     姿を消した若苗に──主のいない家に一人暮らす俺に──何かを感じたのだろうか。
     たった一度、厳いかめしい顔をした老爺ろうやがやって来たのを最後に、村の奴らはこの辺りに近づくことすらなかった。
     なのに……

    「どうでもいいさ……あんな奴らに何かができるわけでもないしな」

     口にしてみると、ざわついていた心が少しずつ落ち着いていく。
     深く息を吸って、ゆっくりと歩き出した。まっすぐに顔を上げ、前だけを見据えて背筋を伸ばす。
     鈴音のくれた衣装に恥じない姿を見せたい。そう思いながら。

    「……じゃないのか?」
    「いや、そんなはずは……だろう?」

     途切れ途切れに聞こえてくる声は、どれも怯えを含んでいる。
     近付くにつれ、俺に向けてくる表情も見て取れた。不安、驚き、恐れ……そんなものが心をいっぱいに満たしてるんだとわかる顔ばかり。
     構わずに進み続ける。
     ボソボソと呟くような声で傍らの誰かと話す男たちには、意識も視線も決して向けるまいと思いながら。

    「……見ろ、あの鈴飾り……陰陽師の……」
    「俺も見覚えが……あの黒猫……まさか……」
    「猫又……俺たちに恨みを……」

     それでも聞こえてくる声が、少しずつ意味のある言葉として聞き取れるようになってきた。中の一人が口にした、「夢告げ」という言葉も。
     俺を見る目にあるのは、見知らぬヒトに向ける不審の色じゃない。俺が何者か……わかった上での怯えなのだろう。

    「村に祟たたりをもたらすつもりじゃ──」
    「よせ! 滅多なことを言うんじゃない」

     声の主にチラリと視線を送ると、押し殺した悲鳴が上がった。
     居並ぶ人の群れは、無意識にだろうか、ずりずりと後退していく。その姿は滑稽こっけいでもあり、哀れでもあった。
     間違っても好意の欠片かけらも感じない大勢の視線を浴びながら、それでも俺は前を向いて歩き続ける。
     若苗との思い出の家はすぐそこだ。

    「……入っていくぞ」
    「やはり……あの猫が……」

     戸口をくぐろうとする俺の背後では、またいくつかの囁き声。念仏にも似た何かを口にする者もいる。
     聞こえてくる声は、どれもが煩わずらわしかった。煩わしくて……消えてしまえと、ふとそんな言葉が浮かんでくる。

    (ダメだ……考えるな)

     恨むまい。ずっとそう思って過ごしてきた。
     俺に希望を与えてくれた龍神様には、深い恩義を感じている。
     けれど、龍神様のお力に触れて若苗が命を落とした日の痛みは、今でも忘れられない。何十年……いや、恐らく何百年が経とうとも同じだろう。
     あの日の若苗に「それ」を仕向けた奴らを許すつもりはない。
     許すつもりなんて少しもない。けど……。

    「俺は……綺麗な魂でいなきゃダメなんだ。若苗にもう一度出会う日のために」

     自分に言い聞かせるつもりで、そう呟く。
     昏い感情は、俺の心を……魂を濁らせてしまう。龍神様の元にいる若苗が生まれ変わってきた時、その隣にいられなくなるのは絶対に嫌だから。
     一つ大きく息をついて、静かに襖ふすまを開ける。
     今はもう……若苗の匂いすら残っていない場所に。

    「ただいま」

     それでも、そう口にしてみると、波立っていた心が落ち着いていくのがわかる。
     ゆっくりと腰を下ろし、体を横たえた。
     慣れないヒトの身体に少しは疲れていたのだろうか。気付くと俺は眠ってしまっていた。
     ……静かな眠りを破ったのは、ざわつく大勢の声だ。

    「早朝から、大変にご無礼かと存じますが……出てきてはもらえませぬか」

     しわがれた声とともに、小さな呟きが一斉に途絶えた。声の主は、恐らく村の権力者なのだろう。
     相手をするつもりも、何かを答えるつもりもなかった。ただ、静かに身を起こす。

    「……猫又様。お姿を……見せてはくれませぬか?」

     そんな言葉に、声を上げて笑い出しそうになった。
     つい数刻前、あれほどの怯えを見せた奴らが──俺が村に祟りをもたらすと口にしていた奴らが──、神か何かのように俺を扱おうとしているのが、おかしくて。
     応答もない俺に何を思ったのか。声は滔々とうとうと語り続けた。
     曰いわく、俺のための社やしろを作りたいと。守り神として、長くこの村にとどまってほしいと。

    (……お前らは、本当に愚か者だ。俺がお前らを……若苗を俺から奪った村を、守るはずなんてないだろう)

     いっそのこと、そんな言葉をぶちまけてやろうか。
     そう思って立ち上がったところに、また聞こえてくる声。

    「あるいは……猫又様におかれましては、こちらのお屋敷に思い入れがあるのやもしれませんが……。かなり傷みが進んでおりますゆえ、尊きお方には相応ふさわしくないかと」

     その言葉に、歩き始めた足がふと止まる。
     『社なんて必要ない』
     『お前らを守るつもりもない』
     そんなふうに突っぱねてやろうと思っていた気持ちが、わずかに揺らぐ。
     猫の体を持っていた時には少しも気にならなかった。けれど、こうやってヒトの身体を──身体を覆う毛皮の一つも持たない姿を──得てみるとわかる。
     すきま風が吹き抜け、天井や床板に穴の空いたこの家は、人が暮らすには不向きだと。

    (若苗を出迎えるための場所は……必要だ)

     そんな言葉が頭に浮かんできた。
     戻ってきた若苗と二人で生きていくために、今の俺にできることはしておこう。
     気に食わない奴らだとしても、とことん利用してやる。
     そう心を決めて、声のする方に向けて、ゆっくりと歩き出した。


      ●

     日照りが続いていた。
     空が一粒の雨すらこぼさなくなってから、確か二度の満月を迎えただろうか。
     村中が飢えていた。
     そうして、苛立っていた。
     入れ替わり立ち替わりやって来ては、俺に訴えかける村人たち。
     最初のうちこそ、不安を、懇願を口にするだけだった彼らが、徐々に、恫喝どうかつにも似た言葉を投げつけてくるようになった。
     その頃から……何となく予感はしていた。いや、予兆を読み取っていたと言った方が正確かもしれない。

    「ごめんよ、伯人……。けど、必ず帰るから。君のもとに」

     引き留めようとする必死の訴えも聞き入れず、一時的な呪縛の印まで施ほどこして出立した俺を、きっと伯人は怒っているだろう。傷ついているかもしれない。
     涙まじりに声を上げていた伯人の顔を思い出すと、胸が痛くなる。
     それでも……俺は辿り着かなきゃならない。
     村のためなんかじゃない。
     俺が願うのは、いつだって、伯人と生きる幸せ。それだけだ。

    「君を傷つけるような悪意を……俺は絶対に許すことができないんだ。だから……」

     それを聞きつけたのは、偶然だ。
     村の東西を流れる小川を──今では涸れかけて、手のひらを浸すのがようやくといったそれを──見回りに行った帰り道。
     いつもとは違う道に足が向いたのは、虫の知らせのようなものがあったのかもしれない。

    『……あれが災いをもたらしてるんだ。間違いない』
    『そうは言うがな……。あんな小さな猫に、大した力なんぞ無かろうよ』
    『けど、昔から言われてるだろ! 黒猫は不吉だって』

     吐き捨てるように男が口にした「黒猫」という言葉。その響きに、背筋を冷たいものが走ったのを覚えている。
     静かに気配を殺し、三人の男たちの話に耳を澄ませながら、俺の心は……感情は、どうしようもないくらいに揺れ動いていた。
     『陰陽師の飼っている黒猫が、この日照りを引き起こした』
     この男たちの頭に、どうして、そんな妄想が降りてきたのかはわからない。
     そう……全ては妄想だ。
     彼らの語る言葉の一つ一つが、脈絡もなく、一貫性もない思い込みでしかなかった。
     
    (けど……多分、こういう手合いの思考に論理性なんかないんだろう。彼らなりの「結論」が先にあって、全ての事実がその「結論」に結び付けられて、歪んでいく。彼らにとって都合のいい形に)

     すぐにそうわかった。一方で、別のこともわかっていた。
     俺がどれほどの言葉を尽くしても、彼らの妄想を正すことはできないだろうということが。

    「だから……俺は行かなきゃならないんだ。日照りを止めるために。君を……守るために」

     言葉にしてみると、道なき道を歩いていく足元に、力が湧いてくる気がした。
     この森も間違いなく渇いている。それでもなお視界を覆うほどの枝葉が茂っているのは、神の住まう山だからだろうか。
     目を凝らしても、深い森の向こうを見渡すことはできない。
     陽の光すらはるかに遠く、自分が進んでいる方角が合っているのか、確信もできないまま、ひたすらに歩き続けた。

    (……空気が、変わった?)

     どれほど歩いたのか、もう時間の感覚もなくなった頃、ふいに感じた霊気。
     もちろん、この山に足を踏み入れた時から、神の領域にふさわしい清浄な「気」を感じてはいた。
     だが、向かう先から漂ってくるそれは、今までのものとは別格だった。
     いよいよ、龍神と相見あいまみえることになる。そう意識すると、指先が冷えていくのがわかった。
     ふと拍動が速くなった気がして、胸に手を当てて……呼吸が浅くなっていたのに気付く。

    (気持ちを鎮しずめろ。神の御前にふさわしい振る舞いをするんだ。……でなければ、俺の願いは叶わないんだから)

     目を閉じて何度か深呼吸を繰り返す。
     そうして一歩を踏み出すと、一瞬にして視界が開けた。

    「……っ」

     こぼれかけた驚きの声を必死で呑み込む。ほぼ同時くらいに耳に届いた声。

    「おや……。人がここまで来るのは久しぶりだねぇ」

     はるか遠くまで響き渡るような凜りんとした声。女性のものだ。
     漠然と、龍神は男性の姿だろうと思っていたのもあって、咄嗟に返す言葉が見つからない。
     察したのだろうか。
     向けた視線の先に立つ女性は、表情を和やわらげると、どこか楽しげな声で続けた。

    「ああ、悪いね。驚かすつもりはなかったんだよ。人に会うのが久しぶりなもんだから、ちょいとはしゃいじまったよ」
    「久しぶり……?」
    「ああ。龍神様のもとで暮らすようになって以来だから……そうさね、六十年ぶりくらいかもしれないね」
    「六十、年……ですか」

     応じながら、俺はかなり混乱していた。
     『龍神様のもとで暮らす』と口にしていたのだから、彼女が龍神であるはずはない。
     だとすると、恐らく人である彼女が、なぜ龍神のもとにいるのか。しかも、少なくとも六十年以上の長きに亘わたって……。
     頭の中を整理したくて足元に視線を落としたところで、目の端に映った自分の装束に、ヒヤリと背筋の冷えていく気がした。

    (いつの間に、こんな……)

     気を配っていたつもりでも、木々の密集した森を歩く内に、木の枝や荊いばらに引っかけたりしたのだろうか。礼を失することがないようにと用意した装束は、あちこちが擦り切れ、ほつれていた。

    「その……申し訳ありません。大変な失礼を」

     慌てて頭を下げる俺に、返ってきた声はわずかに不審げだった。

    「何か、失礼があったのかい? それとも……今から何かやらかそうってことじゃないだろうね?」
    「いいえ! そんなことは考えていません、俺は──」

     弁明を口にしかけて顔を上げて……いたずらっぽく笑う女性の表情に、また言葉を失った。
     そんな反応に戸惑いながら、心のどこかで安堵もしていた。
     少なくとも、俺に邪よこしまな気持ちなどないのだとわかってもらえた気がして。

    「……もしかすると、その格好を気にしてるのかい?」
    「えっ、あ……はい、そうです。龍神様にお目見えするのにふさわしい礼装を、と思っていたのですが……本当に申し訳なく──」
    「気にする必要はないさ。龍神様は、そういう格式なんかに目くじらを立てる方じゃないよ」

     そう言ってニッコリと笑う女性は、美しかった。
     勝ち気に見えるキリリとした目元が、柔らかく緩む。小さめな唇は、ほんのりと赤みを帯びて、白い肌によく映えていた。

    「はい。ですが……」

     言われて頷いたものの、それでも言い淀む俺に、彼女の表情が苦笑じみたものに変わった。そうして、ふっと宙に向けて手を伸ばす。

    「なら……これを使うといい」

     言葉とともに、何もない空間から薄布が現れた。受け止めたそれを両手で広げると、俺の肩にふわりと掛ける。
     柔らかな薄地の布は、古代の女性が神前で身に付けた領巾ひれによく似ていた。

    「これ……?」
    「ああ。アタシのものだが、龍神様のお仕事を手伝う時に使う物だ。これなら無礼にはならないだろ?」

     言われて曖昧に頷く俺に、女性は──『龍神の仕事を手伝う』と言っていたからには、巫女ということなのだろう──まっすぐに視線を合わせてきた。

    「大切なのは、カタチじゃない。心だ。それさえあればいい。神の御前に立つには、それで充分だ」
    「……はい」

     その声には頷かざるを得ない強さがあった。
     伝わったのだろう。彼女は満足したように微笑むと、再び視線を合わせてきた。

    「アタシは鈴音。龍神様の巫女だ。あんた、名はなんというんだい? こんな山奥までやってきたんだ。何か事情があるんだろう?」
    「俺は……」

     どこまで、何を話したらいいか、一瞬だけ躊躇ためらって……すぐに腹は決まった。ありのままを隠すことなく全て語ろうと。
     日照りに苦しむ村のことを……そうして、荒すさんでいく人の心を、その悪意が俺の大切な存在を脅かすかもしれないことを。

    「俺は、若苗と言います。麓ふもとの村で、代々陰陽師を務めてきた一族です」

     そんなふうに口火を切って、俺は全てを語っていった。話が前後したり、思いを充分に伝える言葉が浮かばなくて口ごもったり、かなり長い話になってしまったと思う。
     それでも彼女は──龍神の巫女は──辛抱強く俺の言葉に耳を傾けてくれていた。
     だからこそ、気になった。
     少しずつ、その表情が沈んでいくことが。

    「日照り……か。確かに、最後の雨から二月ふたつき以上が経っているね」
    「はい。ですから、なんとか龍神様の加護をいただけないかと思っています」
    「……わかった。アタシから龍神様にお伝えしておこう」

     答えながら、つっと目を逸そらす。その仕草も気にかかって、食い下がるように声を掛けていた。

    「お会いすることは叶いませんか? できれば、俺から話をしたいんです」
    「そうさね……少し時間がかかるかもしれないが──」

     ふいに声が途切れたと思った瞬間、「それ」はやってきた。
     その感覚を何と言ったらいいだろうか。肌が総毛立って、痺れたように指先の力が抜けていく。
     ぎゅっと拳を握り、軽く頭を振って……そうして聞こえてきた声。

    《鈴音よ。私から話そう》

     「声」だとその瞬間は判断したが、実際に音として聞こえたのではなく、頭の中で言葉として認識していたようにも思う。
     呼びかけに神妙な顔で頷く巫女。
     その反応からもわかった。これが龍神なのだろう。

    「龍神様……ですね。俺は麓の村の陰陽師で、若苗と申します。龍神様にどうしても聞き入れていただきたいお願いがあり、不躾ぶしつけながらもこちらにやって参りました。どうか、お話を聞いていただけないでしょうか」

     この神域に足を踏み入れた時点で、言動の全ては、掌握されているのかもしれない。それでも、自分自身の言葉で思いを、願いを伝えることが、神に対する礼儀だ。そうも思う。
     そんな言葉を重ねようと口を開いて……ため息にも似た「声」に言葉を失った。

    《残念だが……お前の願いを聞き届けることはできない》

     向けられた言葉に、一瞬、頭が真っ白になった。
     足元の地面が揺れているような錯覚に、そのまま座り込みそうになる。それでも気力を振り絞り、頭を強く振って、おずおずと問い掛けた。

    「……なぜ、ですか? なぜ、俺たちの村を救ってくださらないのですか? あなたのお力ならできるはずだ」
    《確かに、私には雨を掌つかさどる力がある。この日照りを止める力が》
    「ならば、なぜ──」
    《この日照りもまた、神の恵みだからだ》

     そう言われて湧き上がってきたのは、強い疑問と……反感だ。
     こんなものが──カラカラに渇いた空と大地が──「恵み」だなんて、俺には思えなかったから。
     激情のままに声がこぼれる。

    「恵み? なぜ……何が恵みだと言うのですか⁈ 皆が渇いている、飢えている……こんなものが恵みだなんて、俺には到底──」
    《陽ひの神には、彼なりの摂理がある。その視点から為なす行いを、同じ神である私が、阻はばむことはできないのだよ》

     穏やかな「声」に、先ほどまでの強烈な圧はなかった。どこか優しくも聞こえてくる。駄々をこねる子どもを宥なだめるような、そんな響きだ。

    「陽の神の……摂理?」
    《そうだ。五年や十年という短かな周期で考えるなら、雨の降らぬ日が続くのは天変てんぺんとも思えるだろう。だが、そのようにして乾いた森と大地でなければ成なし得ない「再生」もあるのだ》

     「再生」という言葉に、ふと降りてきた予感があった。
     俺には、龍神の言う「神の摂理」を覆くつがえすことはできないだろうという予感が。

    《渇いた大気が雷雲を呼ぶ。そこから大地へと落とされた雷光は、乾いた木々や木の葉を燃え上がらせる。そうして、山と森が火に包まれることになるだろう》
    「それは……天災と呼ばれるものではないのですか?」
    《その前後だけを取り上げるなら、そのようにも思えるだろう。だが……そうやって燃え上がった後の大地は、肥沃ひよくな土壌となる。高い木々に光を、大地の恵みを独占され、育つことのなかった小さな命が、新たに生まれ育っていく。そんな「場」が出来上がるのだ。……わかるか?》

     穏やかな「声」が問い掛けてくる。
     諭さとすように語られた言葉に、その言葉が告げてきた大地の「未来」に、俺は抗う言葉を持たなかった。

    「……わかり、ます。龍神様のおっしゃる『再生』が、必要だということも……」

     同時にわかってもいた。
     『陽の神が為そうとしている行いを、同じ神である龍神が阻むことはできない』と……そう伝えてきた意味も。

    《お前の……お前たちの村が置かれた状況を、憐れだとは思う。だが……私には雨を降らせることはできないのだよ》

     そう語る「声」には、確かに憐れむような響きがあったと思う。
     俺の願いを突き放さざるを得ない「苦渋」のようなものも、感じ取れる気がした。
     だからだろうか。
     ふと浮かんできた閃ひらめきは、龍神の心を動かすはずだと思えた。その確信が、言葉になって溢れる。

    「ご自身にできなくとも、お力を……お貸しいただくことは可能でしょうか」
    「何を、言っているんだい?」

     押し黙ったままだった巫女が、ふいに口を挟んできた。あるいは、彼女も「何か」を察していたのかもしれない。

    「龍神様には、雨を降らせるお力がある。けれど、龍神様ご自身は、そのお力を振るうことができない。……ならば、俺がそのお力をお借りできないかと──」
    「馬鹿をお言いでないよ! 人が、神のお力を使えるはずがないだろう」
    「やってみなければ……わからないだろう?」

     険しい顔を向けてくる巫女。だが、それは龍神への無礼を咎める意図からではない。それがわかった。
     じっと見つめてくる目の奥には、憂いや危惧や労いたわり……そういった俺を気遣う感情が見えていたから。

    「やってみなくたって、陰陽師だってんなら、わかるだろうよ! 自分の身に余る力を引き受けるのが……無茶だってことくらい」
    「そうかもしれない。けど、このまま何もせずにいて、もしも俺の大切な宝物が奪われてしまったら……どのみち俺は生きていけない」

     口にした瞬間、頭をよぎった映像に──現実ではない。けれど起こりうるかもしれない未来に──ゾッとした。
     頭の芯が冷えて、胸を締め付けられる。指先が……ひどく冷たい。

    「……無謀だよ。神のお力っていうものは、そんな……生易しいものじゃない」
    「それでも……わずかでも可能性があるなら、懸けてみたいんだ」

     視線を、肩を落とす巫女。俺の決意が揺るがないとわかったのだろう。
     それは、龍神にも伝わったようだ。
     もう一度、頭に響いてきた「声」は、初めて耳にした時と同じ厳粛な響きを帯びていた。

    《お前の決意のほどは、確かに了解した。なれば……我が力を「代行」するための契約を》
    「はい」
    《ひとたび結ばれた契約は、決して覆すことができない。よいな》

     念を押すような「声」に、俺は静かに頷く。
     迷いはなかった。
     俺の全ては、伯人と生きていく未来のためにある。その想いが強くなっていくばかりだった。


      ○

     再び村人たちが姿を現したのは、有明ありあけの月が半円に形を変えた頃だった。

    「猫又様。お約束しておりました社を、ご用意いたしました」

     庭先のざわめきを割って届いた声に、小さくため息をつく。
     それほど気乗りはしなかったけれど、あまり騒がれるのも面倒だ。
     立ち上がって背筋を伸ばし、衣裳に乱れがないか見回してみる。

    「本当に……綺麗に着付けてくれたな」

     それほど気を配って動いていたようには思わないのに、日を経ても鈴音が着付けてくれた花嫁衣装は、着崩れることがなかった。
     あるいは、かつて鈴音とともに龍神の沼に沈んだというこの衣裳には、なんらかの力が宿っているのかもしれない。そんなことをふと思う。

    「おお。猫又様、今宵もお美しい」

     しわがれた声の老人は──村の長老だと名乗った男だ──扉を開けるやいなや、大仰おおぎょうに声を上げた。
     俺の姿なんて、ろくに見ていないくせに……そんなことを言ってやりたい気もしたが、聞き流して歩き出す。
     歩きながら、問いを口にした。

    「どこだ?」
    「……えっ? ……ああ。社でございますね。ただいま輿こしを用意いたしますので──」
    「要らん」

     そっけなく応えると、一瞬はたじろいだものの、横柄な声で後ろに控えていた男たちに何かの指示を出す。
     すぐに数名の男たちが、俺の前に立って歩き出した。先導するつもりなのだろう。場所さえ聞ければよかったのに、余計なことをしてくれる。
     無言のまま進む俺たちを、遠巻きに居並ぶ村人たちが眺めていた。
     どの顔も取り繕った薄笑いを浮かべてはいるものの、目の奥には怯えが見え隠れしている。正直、あまり気分は良くなかった。

    「まもなくです」

     男たちの誰かが独り言のように呟く。
     その声に前方へと目を凝らすと、傾斜のなだらかな屋根を持つ建物が見えてきた。若苗とともに過ごしていた家より二回りほど小さい。

    「お社としては小さめかもしれませぬが……我らにできる精一杯でございます」

     いつの間にか傍らを歩いていた「長老」が、そんなことを言ってくる。
     小さくても大きくてもどちらでも構わなかった。だから、おどおどと顔を覗き込んでくる老人に、返事をする気にもならない。
     ただ、ヒトの集落からはかなり離れていて、それだけは都合がよいと、そんなことを思っていた。

    「こちらでございます」

     小走りに廂ひさしの下まで走り寄った長老は、どこか得意げな声を上げると、拝殿へ促すように手を差し出した。
     特に返答もせず、静かに階きざはしを上がり、扉に手をかける。

    「猫又様をお守りできるよう、いくつかの呪しゅを用意したとのことでございます。要らぬ気遣いやもしれませぬが、村の者たちの誠意の証としてお納めいただきたく……」

     俺が答えないのはわかっているはずなのに、モゴモゴと言葉を続ける長老。
     その様子に言い訳じみたものを感じながら、扉を開けた。

    (暗いな……)

     最初に目についたのは、扉の内側に垂れ下がった注連縄しめなわと幣ぬさ。
     どちらも真新しく、薄明かりの下でも、その白さが際立っていた。
     背を屈め、中へと入っていく俺に付いてくる者はいない。そうわかって、ホッと息をついた。
     音を立てて背後の扉が閉まると、先ほどよりもさらに暗くなる。
     それでも少しずつ目が馴れてくるにつれ、床に刻み込まれた紋様が見てとれた。その全容を目で追って……気付いた。

    (……そういうことか)

     見覚えのある紋様だった。かつて、若苗が何十枚となく描き続けていたのと同じ、魔を封じる力を持つ特別な文字と図形。

    (俺を守るための呪? どの口がそんなことを──)

     そう思った瞬間に笑い出したくなった。
     愚か者の考える馬鹿げた思考が、己の後ろめたさを基準に、他者を──俺を──推し量ろうとする単純な頭が、心底おかしくて。

    「精一杯へりくだって見せても……結局は、俺がこの村に祟るとでも思ってるんだな、お前らは」

     そんなふうに俺を恐れ、ありもしない呪いに怯えて……俺をこの社に押し込めようとしている。
     魔物でもない俺に、こんな紋様など無意味だとも知らずに。

    「何もわかってないんだ、あいつらは。ご主人が……俺が、どんな想いで過ごしてきたのか、これっぽっちもな」

     苦しみを訴えるばかりで、自分では何もしようとしないまま、ご主人を追い詰めた。
     その献身に敬意を払うことすらなく、初めから若苗など存在していなかったように、あの家を荒れ放題に放っておいた。
     それでいて、夢占か何かで俺のことを──俺が猫又になったことを──知った途端に、報復を、呪いを恐れて、くだらない企みを仕掛けてくる。

    「そのまま……放っておいてくれればよかったんだよ。恨みも、憎しみも持たないと決めて過ごしてきたんだ。これからも……過ごしていくつもりなんだ」

     心の奥底に沈めてきた昏い感情。
     それが抑えきれなくなりそうで、深く息をつく。
     生まれ変わったご主人と再会したい。そのためだけに生き続けてきた。
     この願いを──願いが叶うまでの日々を──邪魔されたくはない、絶対に。

    「……そうか。あいつらなんて存在してないと思えばいいんだ」

     ふっと降りてきた閃き。
     その考えは悪くないと思えた。

    「そうだよ。ここから出ることができないんだと……俺をこの社に封じ込めることができたんだと、あいつらに思わせておけばいい。そうすれば──」

     そうすれば、あいつらの顔を見ずに済む。
     最初のうちは、魔封じの結界が本当に効いているのか不安で、様子見にくる奴もいるかもしれない。それでも、数年、数十年と月日が流れていけば、俺の存在など忘れてくれるだろう。

    「ここで静かに待てばいい。誰にも邪魔されないよう、ただじっと待ち続ければ……」

     そのための場所を労せず手に入れられた。そう思えば、胸のつかえも下りていく。
     ふと上げた視線の先には、半円の月。
     格子の隙間から見えるそれは、いつか若苗と見上げた月によく似ていた。


      ●

    「この辺りで……いいかな」

     切り立った崖の縁で足を止め、そんな言葉を一人呟いた。
     下方に広がる深い森の向こうには、俺の──俺と伯人の──暮らす村がぼんやりと見える。
     こうやって周囲を一望できる場所から見てみれば、本当に小さな村だ。
     そう意識したからだろうか。ふっと言葉がこぼれた。

    「雨が降ったら……二人で旅に出ようか。この世界には、君の知らない素敵なものがまだまだたくさんあるんだ」

     きっと、どこに行っても何を見ても、伯人は喜んでくれるだろう。
     綺麗な金色の瞳を輝かせながら、はしゃいだ声を上げている伯人の姿が、鮮やかに浮かんできた。
     いつか来るはずの「未来」。それを想像するだけで、胸の奥があたたかくなってくる。
     力が……勇気が湧いてくる。

    「……尊き方々。俺の声が、聞こえますか?」

     胸を満たす強い思いのお陰か、最初の呼びかけは、思っていたよりもずっと楽に口をついて出た。
     耳を澄まし、答える声を……気配を静かに窺うかがう。
     足元から吹き上げてくる風が、衣の裾をはためかせた。その風に混じって微かな音が聞こえるような気もする。
     けれど、目を閉じて意識を耳に集中してみても、俺の呼び掛けに応じる「なにか」をはっきりと知覚することはできなかった。

    (もう一度……いや、応えてくれるまで何度でも、呼び掛けるしかない)

     閉じていた目を半ばほど開けて、長く深い呼吸を繰り返す。身体を巡る力を──龍神から借り受けた力の片鱗を──意識して、もう一度呼び掛けてみた。

    「天空に住まう形なき方々よ。この声が聞こえるなら、俺の望みに応えていただきたい」

     多少の陰陽術が使えるとはいえ、俺はただの人だ。
     空を、大気を統すべる存在に、願いを叶えろと訴えるのは不遜でしかない。わかっている。
     わかっていながら口にしたのは、怒りであれ不快であれ、何かの反応が欲しかったからだ。

    《……応えろ、だと……?》

     そういう覚悟があったからだろう。
     応じる「声」に込められた苛立ちにも、怯ひるむことなく言葉を返すことができた。

    「応えてほしいと、そう願っているだけで、決して命じているわけでは──」
    《なぜ、我らが応えると思うのだ? ヒトなど、我らにとっては路傍の小石と変わらぬ。そのようなものの願いを聞き入れる道理なぞない》

     それもわかっていた。
     けれど……今の俺には「契約」の力がある。

    「いいや、聞き入れてもらえるはずだ。そのための力を……龍神様より授かってきた」

     静かに告げると、怒りにも似た波動が大気を満たしていくのがわかった。それでも引くことはできない。
     両の足に力を込め、「声」を感じる場に向けて目を凝らす。瞬きもせず見つめ続けていると、うっすらと空にかかっていた雲が、少しずつ寄り集まっていくのがわかった。
     細くたなびく白い靄もやが、徐々に形を成していく。そうして、いつしか「それ」は十数体の白い龍の形へと変じていた。
     さほど大きくはない。俺の背丈とそう変わらないくらいだろう。
     細長い体躯を持つ「それ」は、あるいはうねるように蛇行し、あるいはクルクルと円を描きながら、大空を駆け巡っていた。

    《なるほど……「契約」を交わしたか》
    《ヒトの子の、なんとも小賢しいことよな》

     その内のどの龍が発したものかは判然としない。
     わかっているのは、それらの「声」が激しく苛立っているということだけだ。

    「お力をお借りしたとはいえ……大それたことを望んでいるわけではない。ここから見えるあの村に、ほんの少しでいいから雨を降らせてほしい。それだけだ」
    《願いの大小を言っているのではない。ヒト風情が我らを従えようとする。……その意味がわかっておるのか?》
    「……わかって、いる」

     返す言葉は喉に絡んで掠れた。覚悟をしていたつもりでも、向けられた害意に肌が粟立つのを止められない。
     それでも、中空を見据える視線を逸らしはしなかった。まっすぐに顔を上げ、歯を食いしばる。

    《実に……実に不届きなれど、約定やくじょうには逆らえぬわ》

     吐き捨てるような声。
     意識した瞬間、背筋がゾクリと冷えていく気がした。周りの空気が一気に冷え込んだように、小さく身体が震える。
     その震えは少しずつ大きくなっていった。そうして、俺を支える何かが──生きる源のようなものが──じわじわと奪われていくのがわかった。
     空が……周りの景色が曖昧に霞んでぼやけていく。
     ふらつく身体を支えようとしてもかなわず、ふいに膝から力が抜けてそのまま地に倒れ伏した。

    《我らが主の許しを得ておるゆえ、一度は従したごうた。が、二度目はないと心得おくがよい》

     そんな「声」とともに遠ざかっていく、いくつかの大きな霊気。
     そうして、静寂が広がった。
     静かだ。
     自分の呼吸や心音ですらほとんど聞こえてこない。ゆっくりと指先が冷えていく。

    (このまま……俺の命も終わるのか……)

     確信めいた予感。瞼が少しずつ重くなっていく。あまりにも静かで、ひどく眠くて……

    「──ッ」

     遠のいていく意識を感じた瞬間、手の甲に走った痛み。
     伯人の爪痕だ。その痛みに伯人の顔が──俺を見送った時の泣き出しそうな顔が──頭に浮かんで、ぐっと胸が詰まる。
     もう一度、伯人に会いたい。
     声を聞いて、柔らかな毛並みに触れて……別れの言葉を告げてやりたかった。

    (伯人……最期は、君の隣で……)

     その願いが、薄れそうな意識を引き止めてくれた。
     思いを……全ての力を懸けて、重い身体を引きずり上げる。
     そうして、一歩、また一歩と足を踏み出し、歩き出した。
     伯人の待つ、俺たちの家に向けて。


      ○

     若苗が使っていた文箱ふばこの中には、たくさんの札が手つかずのまま遺っていた。硯すずりも墨もそのままに。
     二人で暮らしていた家に置いてきたそれを、速やかに取ってくるようにと伝えてはみたものの、理由を問われたら面倒なことになりそうで少し不安だった。
     幸い、長老も、長老から指図を受けた男も、文箱の中味やその用途には興味がなかったらしい。それは、特に滞りなく俺の手元へと届けられた。

    (中を見た形跡もない。……安心しきってるってことかもな)

     俺がこの社に留まり続けてくれるなら、多少の無理は聞いてやろうということなのか。
     あるいは、俺の機嫌を損ねないよう、必死なのかもしれないとも思う。

    (どっちだって構わない。俺をそっとしておいてくれるなら、それでいいさ)

     若苗との再会を果たせるその日まで……誰にも、何にも干渉されたくはなかった。その決意を込めて、若苗が愛用していた筆を手に取る。
     そうして、最初の札に穂先を落とした。

    (……案外、覚えているもんだな)

     札に描き込んでいくのは、若苗がよく描いていた紋様だ。
     その時は、呪符を作り出していく若苗の手の動きが、真剣な表情が面白くて、ただ見つめていただけだった。もちろん、自分で描いてみたことなんて一度もない。
     それでも、目の奥に焼きついたその記憶が、自然と手を動かしてくれた。
     何度も何度も見てきた若苗の動きを、なぞっているように。

    (ご主人に見せたら、どんな顔をするんだろうな。……喜ぶかな、それとも驚くかな)

     ふとそんなことを想像して、自然と頬が緩んでいく。なんとなく、鼻歌でも歌いたくなる気分だ。
     そんなふうに気持ちが弾んでいたからだろうか。気付けば、数十枚の呪符を一気に描き上げていた。

    「これくらいあれば……足りるかな」

     小さな独り言をこぼしながら、軽く伸びをする。
     そうして、描き出した呪符の束を手に立ち上がり、社の壁という壁にそれを貼っていった。

    (たしか……「聖別の呪文」って言ってたな。この呪符が、一番好きだって)

     様々な紋様を描き続けるご主人に、時折は、その効果を尋ねてみたりもした。
     興味本位で問い掛けた──もっと言えば、ご主人と話がしたかった──だけで、きちんと覚えようなんて少しも思っていなかった。それがほんの少し悔しい。
     もっと色んなことを教えてもらえばよかったと……そう思えてくるから。

    「これも……どうにかした方がいいな」

     沈んでいきそうな気持ちを切り替えようと、扉のすぐ内側に垂れ下がる注連縄へと目を向ける。
     静かに手を触れ、呪符に込めた力と同質の念をこめた。
     邪悪なものは──邪よこしまな心を持つ者は──決して入り込めないように。

    (そうだな……俺との縁を繋いでおこう)

     若苗を待つ長い月日の中で、きっと何度も目にするはずの注連縄と幣。
     今はまだ真新しく純白のそれを、俺の心を、魂を映す鏡とする。そういう呪をかけてみた。
     俺の心が、魂が……濁ってしまわないように、自分への戒めとして。


      ●

     どこをどう歩いたのかは覚えていない。
     霞んだ視界に映る見覚えのある景色に目を凝らし、俺の……俺と伯人が暮らす家の軒先まで辿り着いたのだとわかった瞬間、全身の力が抜けてそのまま倒れ込んだ。
     駆け寄ってくる小さな足音に顔を上げると、目の前に伯人がいた。何かを察したように涙で目を潤ませるその姿が、暗闇の中にくっきりと浮かび上がる。
     厚く立ち込める雲に光を遮られた世界にあっても、金色の瞳はキラキラと輝いていた。

    (ああ……綺麗だね、君は。いつだって、俺の心を照らしてくれる光だ)

     最後にこの瞳を見ることができてよかった。
     そう思いながら、声を振り絞る。

    「待っていて、くれて……あり、がとう……君に会えて、よか…った」
    《ご主人⁈ ご主人、しっかりするにゃ! ダメにゃ‼》

     叫ぶような声とともに、目の縁ふちいっぱいに溜まっていた涙が、ほろりとこぼれる。
     泣かせたくはなかった。せめてその涙を拭ってやりたいと思うのに、少しも体が動かない。
     俺の肩に両手を乗せて覗き込んでくる伯人。
     ろくに力の入らない手を必死に伸ばし、その背に触れる。滑らかで柔らかな毛並み……いつだって俺をあたたかなもので満たしてくれていた温もりだ。

    《ご主人! ちゃんと俺を見るにゃ‼ ダメにゃ……死んだらダメにゃっ‼》 

     ボロボロと涙を流しながら、声を限りに叫ぶ伯人の姿に胸が詰まる。
     伯人が俺にくれたたくさんの幸せ。それを少しも返してやれないまま、伯人のもとを離れなければならないことが……辛かった。

    《なんでにゃ? なんで……俺を置いて行ったんにゃ⁈ ずっと一緒って、お前が言ったんじゃにゃいか!》

     君を守るため……伯人と生きる未来のために雨を呼ぼうとしたんだ。それだけは伝えたいと思うのに、上手く言葉が出てこない。

    《死んだら、イヤにゃ……一人は……イヤ、にゃよ……ごしゅ……じん》

     虚ろな声だ。
     俺の死を……その先にある「孤独」を半ば確信しているんだろう。それがわかって、胸が張り裂けてしまいそうだ。
     何かの言葉を遺したい。最後の力を振り絞ってでも。
     そう思った瞬間、遠くから音が響いてくる気がして耳を澄ます。言葉ではない「声」が……。

    《お前の命が失われたなら、遠からずその猫も後を追うだろう》

     龍神の「声」だ。
     届いたその声に、声が告げてきた言葉に、また胸が詰まる。
     願ったのは、望んだのは「伯人の幸せ」。なのに、それが叶わない。
     虚しさが、胸の奥に広がっていく。

    《だが、お前と交わした契約は、「伯人」と呼ばれるその猫を救うためのものだったはず。このままでは、その契約が正しく満たされずに終わってしまうだろう。神が……約定を違たがえるわけにはいかない》

     続けて響いてきた「声」には、重く沈んだ俺の心を包み込むような温かさがあった。少なくとも、俺にはそう思えた。
     ふと湧き上がってきた予感。
     その予感に呼応するように、ぽつり、雨粒が落ちてきた。
     俺の頬に触れたそれは、龍神の力の欠片だ。その力が、意思が……言葉となって頭の中に染み込んでくる。

    《身に余る力を行使して、お前の魂は大きな傷を負った。その傷が癒されるには、長い時が必要だ……待てるか?》
    (はい、待てます! いえ……待ちます。どれほどに長い時であろうと)

     強くなっていく予感。期待に胸を震わせながら、次の言葉を待った。

    《では、待ち続けるがよい。遥かなる時のその先で、お前たちは「再会」する。私の名において、それを約束しよう》

     告げられた言葉に、その「約束」に……溢れるような喜びが胸を満たしていく。
     目の前に迫った「別れ」も、もう怖くはなかった。いつの日にか、再び俺たちは出逢えるのだから。

    「泣かない、で……くれ、伯人……俺、は……」

     必ず、君のもとに戻るから。どうか嘆かないでくれ。
     そう伝えたくて、声を振り絞る。
     けれど、全てを伝えきれないまま……意識を失った。


      ○

     フクロウの長い地鳴きが聞こえてくる。
     往来するごくわずかな人の気配も、もう感じられない。

    「……静かな夜だな」

     そよぐ風が届けてくれたのは、キンモクセイの香り。
     格子の隙間から見える月もくっきりと鮮やかだ。雨の降る兆しはどこにもない。

    「少しずつ、感覚が戻ってきた気もするな」

     ヒトの体を得た当初は、かなり鈍くなった五感に戸惑ったりもした。
     けれど、この数十年で猫だった頃のそれを取り戻しつつあるようにも思う。
     一人の時間が長かったからかもしれない。
     小さな社に閉じこもって、わずかに見える景色や聞こえてくる音、微かな空気の流れだけを感じる月日が。

    「ここに近づくような奴も、滅多にいなくなったしな」

     長老もそれ以外の奴らも、もうとっくに代替わりしているだろう。
     この社のことも、俺のことも、知らない奴が増えてきているのかもしれない。俺が望んだ通りに。
     あいつらは、俺を封じ込めたつもりなのだろう。
     逆だ。
     俺が世界を拒絶しているだけだ。

    「このままずっと一人でいい。誰も、何も……俺に構わないでくれ」

     そんな独り言がふとこぼれて……こぼしたことに気付いて苦笑する。
     案じるまでもないことだ。
     俺を害するあらゆるものが、この注連縄を越えてくることはない。社の壁一面に貼り付けた聖別の呪符も、俺を守ってくれる。
     だから、俺はここでこうやって、息を潜め続けていればいいだけだ。
     一人静かに、若苗を待ち続ければ……。

    「鈴音には……会いたい、かもな」

     またこぼれた呟きに、わずかに胸が痛い。
     ふと俯うつむいて、耳の横でカランと響く鈴の音に、また鈴音のことを思い出す。
     ほんの少し寂しくて鼻先にそっと袂たもとを押し付けると、この花嫁衣装を初めて手にした日の記憶が、鮮やかによみがえってきた。
     いつか再び出逢うはずの若苗に、その姿を見せてやれと……そう言って晴れやかに笑った鈴音の顔も。

    「きっと、その日もすぐだ。もうすぐ……また逢えるよな」

     口にすると、本当にそんな気がしてくる。
     そう遠くなくやってくるはずの「その日」を思い描きながら、静かに体を横たえて眠りに就いた。


      ●

    「……は……戻る、から……泣かない、で」

     聞こえてきた涙混じりの声に目を覚ました。
     ゆっくりと開けた目の端から、つうっとこぼれた涙。
     その感触に気付いた。泣いていたのは、俺自身だと。

    「なん、で……俺は、泣いて……」

     長い長い夢を見ていた気がする。
     目を覚ますとともに急速に薄れていく夢の記憶を、必死で思い出そうとした。
     けれど、上手くいかない。
     夢の中で見ていた光景が、感じていた想いが確かにあるはずだ。なのに、思い出そうとすればするほど、全てが曖昧に霞んでいく。
     それでいて、所詮は夢なんだと割り切ることもできなかった。

    「駄目だ……忘れちゃ駄目なんだ。思い出さなきゃ……絶対に」

     何かとても大切なことだった。そういう感覚だけが頭を占めている。他のことなんて考えられないくらいに。
     なのに、どうしても思い出すことができない。
     もどかしくて、胸が苦しくて……居ても立ってもいられなくなった。何かの衝動に追われるように飛び起きて、そのまま家の外へと走り出す。

    (俺は……何がしたいんだろう? どこへ向かっているんだ? 何を、忘れてしまったんだ?)

     次々と浮かんでくる疑問の答えもわからないまま、ただ走り続けた。
     それほどの距離を走ったわけでもないのに、ズキズキと頭が痛んで、身体がふらつく。上手く息ができない。
     それでも走って走って走って……走っていくそのに群がる人だかりに気付いた。

    (なんだろう……祭祀も葬儀も、あるとは聞いていないのに……)

     遠くざわめきが聞こえてくる。
     初めは意味をなさない「音」でしかなかったそれが、近付くにつれ、怒号にも似た荒々しい声へと変わっていった。

    「……ただの迷信で……馬鹿げてる……」
    「だが、先代は……確かに見たと……」
    「確かに、言い伝えは……」
    「……だとしても……はずがない!」

     途切れ途切れに聞こえてくる声は、強い怒りや苛立ちを感じさせるものだ。
     何について語っているかはわからない。なのに、声に含まれる悪意や敵意が針のように肌を刺してくる気がして……ひどく息苦しい。
     走るのをやめ、ゆっくりと近付いていく俺に、誰も目を向けようとはしなかった。いや、俺の存在に気付いてすらいないのかもしれない。

    (そんな余裕なんかないんだ……きっと)

     人だかりの中には見知ったいくつかの顔もある。
     そのどれもが、ピリピリとした空気を放っていた。そうして、その裏側に……怯えを隠していた。それがわかる。

    「だから、俺は前々から言ってただろ? こんなものは無くしちまえって!」
    「そうは言うけどな……これがあるから村は護られてきた。そうだろ?」

     吐き捨てるような声に、気弱な声が応えた。
     けれど、先の声の主が納得した様子はない。続けて発せられた声もまた、収まりきらない興奮を伝えてくるものだ。

    「本当にそうか? 誰も確かめていないんだよな? この社の中にいるのが神様かどうかなんて、わからねえだろ?」

     感情的なその声に、取り囲む大勢の人たちが同調していく空気を感じる。
     その「熱狂」に、背中が粟立ったのはなぜだろう。

    「神の存在を疑うなんて罰当たりだってわかってますよ。けどね。俺らは、あんなものに護られてるなんて思えないんですよ」
    「それに……祟り神かもしれないって、そんな話もあるらしいじゃないですか」
    「どうなんですか、長老?」

     興奮しきった口調で、小柄な老人に詰め寄る男たち。
     その光景が……はっきりとは思い出せない夢の記憶に繋がるような気がして、また胸が苦しくなる。
     息苦しさに深くついたため息と、俯いていた長老が顔を上げたのは、ほぼ同時だった。

    「たしかに、この社には、人の理ことわりを大きく超えたものがおる」

     しわがれた声が、長老の口からこぼれる。
     少しの間を置いて、長老を取り囲んでいた男たちの熱狂が、すうっと引いていくのがわかった。
     興奮と苛立ちが、強い怯えに塗り替えられていくのも。

    「社に住まうのは、百年を優に超える時を生き続けてきた古き存在。その意味では『神』と呼べぬこともない」

     人だかりの向こうを──そこにある社を──見据えながら、ボソボソと話し続ける長老。
     その声に耳を澄ませるように、周囲のざわめきも少しずつ収まっていく。

    「……では、長老様は、この社に手を触れてはならぬと……そうお考えですか?」
    「いや。逆じゃ」

     躊躇いがちな問い掛けに対して、応じる長老の声には迷いがなかった。

    「逆……とは?」
    「社におるモノは……本もとを正せば、年経てヒトの姿を得た獣に過ぎぬ。注連縄と幣によって封じられてはおっても、いつ何時なんどき、我らに仇あだなすかは分からぬのだ」

     そんな言葉に、またざわめきが広がっていった。今度のそれは、怖れと怯えに満ちている。ガタガタと震え出す者もいた。
     その光景を目で、肌で感じながら……そのどれもが俺には遠かった。
     薄れかけていた夢の断片が、少しずつよみがえってきたから。

    『いつかきっと……俺はヒトになるから』

     そう言ってくれた優しい声。
     柔らかく温かな舌で、流れる俺の涙を拭ってくれた。

    『ずっとお前の隣で一緒に生きる。約束だ』

     まっすぐに見つめてくる金色の瞳は、キラキラと輝いて俺の心を射抜く。
     信じられると……信じていいのだと思える強い目。

    「今こそ悪しき因習を断つ時ぞ。社を焼き払うのじゃ! 二股の尾を持つ猫又ともども」

     しゃがれた叫び声が耳に届いた瞬間、記憶が溢れ出した。
     そうして……大切なヒトの名前が、口からこぼれる。

    「待っていてくれたんだね……伯人」


      ○

     辺りを取り囲むざわめきに、ぼんやりと目を覚ます。
     そうしてすぐに気付いた。激しい悪意が向けられていることに。
     さして驚きはなかった。
     そもそもが、俺の「呪い」を──ありもしないそれへの疑念を──恐れていた奴らだ。その「恐れ」を抑えきれず、大元である俺を排除しようと考えてもおかしくはない。

    (放ったままでは、いてくれなかったか)

     静かに立ち上がり、扉の隙間から外を窺う。
     そこに見えたのは、松明たいまつを手に、社を取り囲む村人たちの姿だった。

    (ここを焼くつもりか……)

     そうわかっても、これといって感慨はなかった。この場所に思い入れがあるわけじゃない。焼きたいのなら、勝手に焼けばいいとそう思うだけだ。
     悪意を持った「火」が、俺に──鈴音のくれた花嫁衣装に──届くことはない。
     あるいは、この社は燃え尽きてしまうかもしれないが、そうなったら、俺はどこかに姿を消すだけだ。ここでなくとも、ご主人を待つことはできるのだから。

    (好きにすればいいさ。お前らが何をどう思おうが、俺には──)

     関係がない。そう思いながら踵きびすを返そうとした足が、ふっと止まった。
     扉の向こうから漂ってくる微かな匂いに、記憶の箱の蓋が……ゆっくりと開いていく。
     懐かしい匂いだ。
     百年以上の時を経ても、忘れるはずのない匂い。

    (「その時」が……来たのか?)

     扉に触れようと伸ばした手が震える。
     かすかに声がした。俺の名を呼んでいる気がする。
     その小さな声をかき消すいくつもの叫び。
     困惑、苛立ち、怒り、憎悪……そんなものに満ちた声は、どれもが同じような言葉を叫んでいた。『引き返せ』『魔に魅入られている』と。
     そんな言葉が俺に教えてくれた。
     今まさに、村人の制止を振り切って、俺のご主人が……若苗の生まれ変わりが近付いてきていると。この扉の向こうに。すぐそこまで。

    「……放せっ! ……邪魔を、するなっ‼」

     飛び交う怒声の合間を縫って、俺の耳に届いた声。
     聞き覚えのあるその響きに、俺は思わず叫んでいた。

    「やめろ! そいつに触れるんじゃない! 俺からまたご主人を奪うつもりかっ‼」

     雨の日も、雨のない日も、ご主人にもう一度会えるその日だけを支えに過ごしてきた。
     どんなに寂しくても、哀しくても、ずっとただひたすらに待ち続けて……それがようやく叶おうとしている。
     誰であろうと、どんな理由があろうと、絶対に邪魔はさせない。

    「ずっと、ずっと待ってたんだ! もう……離れたくないんだっ‼」

     想いを、願いのありったけを込めて叫んだ。
     応えてくれる「何か」の存在を、はっきりと予感していたわけじゃない。
     けれど…………「それ」は応えてくれた。俺の叫びに呼応するように、雷鳴が響き渡る。
     薄闇の空を走るいくつもの稲光。煌めくその光に浮かび上がるのは、群れをなす白い龍たちの姿だ。
     呆然と見上げる俺の耳に届いた、涼やかで凜とした声。

    《龍神様からの祝福だ。遠慮せず受け取りな》
    「……鈴音っ⁈」

     雷鳴の合間に聞こえてきたのは、確かに鈴音の声だった。
     そっけなくて、けど温かい口調は、最後に出会ったあの日のままだ。数十年の月日を経ても変わらない、懐かしい響き。
     遠く離れていても、見守ってくれていたんだと、そうわかったのが嬉しくて、胸がいっぱいになる。

    《アタシからの贈り物も、存分に見せておやりよ。きっと喜ぶはずさ》
    「ああ……。本当に、ありがとう」

     驚きも、喜びも、会えずにいた寂しさも……伝えたいことはたくさんあった。なのに、今の想いを全て伝えられる言葉が見つからない。
     ただ、感謝のことばを口にできただけだ。
     そんな自分がひどくもどかしい。
     けれど、言葉にできない想いも、きっと鈴音ならわかってくれるはずだ。そういう確信も感じていた。

    (届いたよな、きっと……)

     すぐ近くに感じていた鈴音の気配が少しずつ薄れていく。空を、大気を震わせていた雷鳴も遠ざかっていくのがわかった。
     怯え逃げまどっていた村人たちの姿も、今はどこにも見えない。
     そうして、誰もいなくなった社の前には、一人の青年だけが立っていた。
     記憶の中の姿より幼く見える。今の俺よりも四、五歳は年下だろうか。
     それでも、間違いなくご主人だ。薄茶の髪色も淡い緑の目も、少しも変わらない。

    (帰ってきてくれたんだ、ようやく……俺のもとに)

     嬉しくて……本当に嬉しくて、胸が苦しい。震え始めた手をぎゅっと握りしめて、深く息を吸った。
     『お帰り、ご主人』
     そう呼び掛けようとして、少しだけ迷う。
     間違いなくご主人だという確信はある。けれど、生まれ変わったその人に、「俺」の記憶がどれほど残っているんだろうか。
     ほんの少し不安で、確かめてみたくて……小さな声で呼び掛けた。

    「ご主人……なのか?」
    「俺だよ、伯人。君と生きると誓った……若苗だ」

     そんな言葉に、喉の奥から熱いものが込み上げてくる。
     俺と交わした誓いを覚えてくれていた。それがわかっただけで充分だった。

    「若苗、お前なんだな。やっと……俺のところに──」
    「いつものように、呼んではくれないのか?」
    「……えっ…?」
    「『わかなえ』なんて、君は俺を呼ばなかったはずだ。そうだろう?」

     その言葉に、心が……魂が震えた。
     ここにいるのは……俺の目の前にいるのは、紛れもなく「若苗」だ。
     俺と過ごした日々を、その記憶の全てを思い出して、俺のもとに帰ってきてくれたんだ。そうわかって。

    「お前……なんだな……本当に──」

     思わずこぼれた呟きとともに、扉の内に垂れ下がっていた注連縄と幣が弾け飛んだ。
     かつて、俺の心を、魂を映す鏡として呪をかけたそれが、溢れる俺の想いに呼応したのだろう。
     重く軋きしんだ音を立てて、開け放たれていく社の扉。その先に立つ若苗に向けて、両の手を差し伸べた。俺だけが知る「その名」で呼びかけながら。

    「にゃ、え……わかにゃえ、にゃえっ!」
    「伯人……帰ってきたよ、君のもとへ」

     柔らかな笑みを浮かべながら、若苗が……にゃえが近付いてくる。一歩一歩ゆっくりと。
     社の階を上がってくるにゃえ。その歩みにつれて、内壁に貼った呪符がはらりはらりと剥がれ落ちていく。床に刻まれた魔封じの紋様も、じわじわと淡く滲んで……すべてが消えていった。

    「伯人……」

     呼びかける声に視線を戻すと、膝をついて俺を見上げるにゃえがいた。
     嬉しくて胸がいっぱいで、どんな言葉を返したらいいのかわからなくて、ただ黙って見つめ返す。
     若葉を透かしてこぼれた光を、集めて作った宝玉のような目だ。俺の大好きな──

    「すごく……綺麗だ」

     ため息のように呟くと、若苗は何度か瞬きをした。眩しいものを見てるみたいに。
     そんな仕草に、どうしてか胸が疼いて、ふっと視線を逸らして着物に目をやる。逸らしたまま、意識して弾んだ声で答えた。

    「この衣装か? 綺麗だろ? お前に見せてやれって、着せてくれた人がいるんだ」
    「そうじゃないよ……。綺麗なのは君だよ」
    「……ッ」

     なんとなく、そんなことを言いそうな予感はあった。けど……「もう少し、何か言いようがあるだろ」と、そんな言葉を返してやりたくなる。

    「……生まれ変わっても……ご主人は本当に馬鹿だ」
    「うん、そうだよ。だから、伯人が傍にいてくれなきゃ駄目なんだ」

     精一杯の皮肉に、返されたのは弾んだ声。なんだか気まずくて、そっぽを向いた。
     なのに、にゃえは膝を乗り出すようにして覗き込んでくる。ふいっと逆を向いてみたけど、やっぱり同じだ。
     小さくため息をついて視線を合わせると、ニッコリと笑う。嬉しそうに、幸せそうに。

    (なんなんだよ、まったく。少しは気を遣え。俺はもう猫じゃ──)

     『ないんだからな』と、そう言いかけて、ふと湧いてきた疑問。
     今まで当たり前のように受け止めてしまっていたのが、あまりにも不思議で……言葉を選ぶ間もなく口にしていた。

    「なんでわかった?」
    「……えっ?」
    「いや、だから。お前の知ってる『伯人』は、猫だったろ? なんで、俺だってわかったんだ?」

     今の若苗の姿は、多少の違いはあれど、俺の見知ったものとそう変わらない。だから、俺が「若苗だ」と気付けたのも当然だ。
     けど、若苗にとっての「伯人」は、小さな一匹の黒猫のはずで……

    「どうして……か。そうだね、俺にもよくわからないんだ。けど、君の姿を見た瞬間に伯人だって思ったよ」

     囁くような声。なのに、少しも戸惑うような響きがなかった。
     まっすぐに見つめてくる瞳も同じだ。

    「わか、らない……のか?」
    「上手く言えないんだけど……心が、魂が震えたんだよ。君を見た瞬間に」
    「……そうか、そうかもな」

     たどたどしい……それでいて何かを確信しているような口調に、ふと蘇った記憶。

    『龍神様を一目見た瞬間、わかったんだよ。龍神様の隣がアタシの居場所だ。このヒトと共に生きるのが、アタシの運命だってね』

     そう言って誇らしげに笑った鈴音の顔を、とても美しいと思った。
     長い年月の中で、何度も聞かせてくれた。
     魂が繋がっているんだと。姿形なんて関係がないんだと。

    「そうだよな。約束したもんな、俺たち。俺はヒトになるからって。そうして、一緒に生きるんだって」
    「うん。ずっと一緒だ」

     ため息のような声で応じるにゃえ。
     言葉にしなかった思いもちゃんと伝わったんだって気がする。
     『龍神と鈴音のように、俺たちも長い長い時を生きていこう。二人でずっと』
     そんな思いが。

    「伯人……俺を待っていてくれてありがとう」
    「……ん」

     繰り返される言葉とともに向けてくる笑顔は、本当に嬉しそうで……見つめているうちに、なんだか胸が苦しいような気がして俯いた。
     そのわずかな動きに合わせて、耳元でカランと低い音が響く。綿帽子に縫い付けた飾りの鈴が立てる音だ。
     ずっと一緒にいようと約束を交わしたあの日、若苗がくれた二つの鈴。
     俺がヒトになれたら、一つずつを付け合おうと誓った……

    「覚えてるか?」

     ふと口をついて出た言葉は随分ずいぶんと唐突で舌足らずなものだった。
     すぐに言い直そうと言葉を探す俺に、にゃえは弾んだ声で答えてくれた。

    「もちろん覚えてるよ。片方を……俺に付けてくれるんだろ?」

     問い掛けるように首を傾げて見せる。それでいて、俺がそうするのを少しも疑っていないみたいに、澄んだその瞳は輝いていた。
     キラキラと眩しくて……じんわりと目の奥が熱くなる。

    「……そうだな。約束したもんな」

     応じる自分の声は少し震えていた。
     心を静めようと深く息を吐く。そうして、左側に縫い付けられた鈴と飾り紐に手を伸ばすと、触れるか触れないかのうちに、スルリと手の中に滑り落ちてきた。
     この数十年、どれほど動き回っても、縫い糸が解ほどけることは一度もなかったのに。

    (これも鈴音の施してくれた呪まじない……なのかな)

     そんなことを思うとまた何かが込み上げてきそうで、手にしたそれを眺めながら、少しの間ぼうっとしていたのかもしれない。

    「伯人?」

     呼び掛ける声に顔を上げると、すぐ目の前に若苗の顔があって、どうしてか息が止まりそうになった。
     見つめてくる目はまっすぐで綺麗に澄んでいて……また胸が苦しい。

    「ちょっと……目、閉じろ」

     ぶっきらぼうにそう言うと、ほんの少し驚いた顔。けど、すぐに淡い苦笑へと変わった。

    「うん。これでいいかな?」

     若苗に見つめられるのはすごく嬉しい。なのに、心がどうにも落ち着かない。
     そういう気持ちに気付いてくれたんだろう。脈絡のない俺の言葉にも、その意図を問い返すことはなかった。
     小さく息をつき、どこか神妙な顔つきを見せた後、ゆっくりと目を閉じてから首を差し出してきた。

    (俺より……背が高いんだな)

     目を閉じたままの若苗は、やはり記憶の中の若苗よりも幼く見えた。最初の印象通り、俺より年下だろう。
     それでいて俺よりもずっと体格は良くて、膝立ちしてようやく顔の高さが同じになった。そんなことも、なぜか心をざわつかせる。

    「……動くなよ」

     声を掛けてから、鈴と組み紐を持った両の手をそっと伸ばしていく。自分の指先が少し震えているみたいで、なんだか可笑おかしい。
     首にぐるりと回した組み紐を左右から鈴の鐶かんに通して、胸元で蝶々結びにしてやる。朱色の組み紐も少しくすんだ金の鈴も、若苗の薄茶の髪色によく似合っていた。

    「いいぞ」
    「うん。ありがとう」

     すぐに目を開けて胸元を覗き込むと、若苗は鈴を手にしてにっこりと笑った。

    「お揃いだね。すごく……嬉しい」

     そう言って、少しはにかんだように笑う若苗を見ていると、ふんわりと心の奥が温かくなっていく。
     懐かしい感覚だ。ともに過ごした日々の中で、いつでも感じていた温かさ。
     優しい手のひらが俺の背を撫でる時、呪符を描き込んでいた手をふっと止め、俺を見つめてくる時、仕事を終えて疲れきった顔が、俺を見て笑顔に変わる時……いつだって俺の心は満たされていた。
     若苗と離れ離れになってから、随分と長い月日が経った。それでも、あの頃と少しも変わらずに俺の心を癒してくれる。いや、離れている間もずっと、俺は……

    「少し、音は濁っちゃったけど……ちゃんと御利益はあったぞ」

     そんな気持ちが、ふっと口をついて出た。これもまた唐突な言葉だったかもしれない。けれど、若苗は驚きを見せたりはしなかった。
     ただ、続きを促すように小さく頷く。

    「お前がいない間……ずっと、俺を……俺の心を守ってくれた」

     紛れもない本心だ。
     この鈴の音がなかったなら、あの社で過ごした長い時間の中で、いつか俺はヒトを憎む気持ちを抑えきれなくなったかもしれない。そうなったら、この「再会」は叶わなかったかもしれないんだから。

    「ずっと、この鈴の音が聞こえるたびに、ご主人の……にゃえのことを思い出してた。その時だけは、少しも寂しくなかったんだ。にゃえの代わりに、この鈴が『もうすぐだよ』って言ってくれてる気がしたよ」
    「そう、か……なんだか嬉しいな」

     言葉だけじゃなく、その表情も本当に嬉しそうだ。そう思ったら、ふいに心臓がドクンと音を立てた気がした。
     でも、少しも嫌な感じはなくて、ふいに『幸せだ』って言葉が頭に浮かんでくる。『にゃえが隣にいて幸せだ』って、そんな言葉が。
     そのまま伝えようとして、けど少し気恥ずかしくて……何度か瞬きをした。
     見つめてくるにゃえも、釣られたように何度か瞬きをする。そうして、口元が小さく震えた。

    「……降ってきたね」

     空を見上げながら独り言のように呟くと、にゃえが隣に座ってきた。

    「ああ。雷が呼んだんだな」

     静かに応えながら、外の雨を眺める。
     「あの日」からずっと雨が嫌いだった。切なくて、苦しくて……。
     けれど、降りしきる雨も、もう悲しくはなかった。この雨もまた、龍神からの贈り物なのだと──俺たちの未来を言祝ことほぐものなのだと──素直にそう思えるから。

    「この雨が止んだら……虹も出るかな」

     俺も独り言のようにそう口にする。
     そのまま傍らに座るにゃえにそっともたれかかると、わずかに息を呑むのがわかった。
     顔を見上げようとしたところで、ふいに肩を引かれた。そうして、抱きしめてくる。息苦しいくらいに強く。

    「雨が止んだら、二人で出掛けよう。君に……見せたいものがたくさんあるんだ」

     そんな言葉を、どこか熱を持った声で言ってくる。触れあった体もすごく温かくて、胸の奥までじんわりと幸せに満たされていく気がした。
     受け止めたその熱を俺も返してあげたくて、にゃえの身体にそっと腕を回す。

    「ああ。どこにでも行くよ。お前と一緒なら、どこへでも」
    「そうだね。二人なら……きっと、どこまででも行ける」

     そう言ってまた強く抱きしめてくる。
     ぴったりと触れ合った体から、にゃえの心臓の音が伝わってきた。
     大切な人が確かに生きて俺の隣にいてくれる。その証が嬉しくて、胸の奥に火が灯っていくような気がした。
     にゃえがくれるその音は、空から舞い落ちる雨音とどこか似ている。とても綺麗で澄んだ音だ。
     ずっと好きになれなかった雨。
     けれど今は、俺の渇いた心を満たしてくれるものだ。
     にゃえがいる。ただそれだけで、この世界はこんなにも美しい。
     そう思えることが……とても幸せだった。

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