メインコンテンツへスキップ
見出し画像

竹千代の軍師

    西久保ちゃかし

    慶応四年(1868年)三月十三日。
    高輪薩摩藩邸。
    後に江戸無血開城へ至る談判を前にして、勝海舟は厠を借り、しばし独りになっていた。
    春浅い空気はまだ冷たく、屋敷の板壁の向こうでは、薩摩藩士たちの草履の音が絶え間なく行き交っている。
    海舟は膝に肘を置き、静かに息を吐いた。
    脳裏に浮かぶのは、父・勝小吉の顔である。
    乱暴者で、無頼で、しかし妙に肚の据わった男だった。旗本でありながら家禄を食い潰し、喧嘩と放蕩を繰り返し、それでもどこか江戸の町人たちに愛された、あの破天荒な父親。
    ――こういう時は、理屈じゃねえ。
    海舟は、まるで小吉の仕草を己の身体へ移し込むように、肩を揺すった。
    ――度胸だ。
    ――肚ァ据えろ、麟太郎。
    勝海舟の幼名は麟太郎という。
    この日、彼が相対しようとしているのは、薩摩の巨魁、西郷隆盛であった。
    鳥羽・伏見の戦いの後、旧幕府軍は敗れ、将軍徳川慶喜は大坂城を去って江戸へ戻っている。官軍は東下を続け、江戸総攻撃は目前に迫っていた。
    もし市中で戦になれば、百万人都市江戸は火の海となる。
    それだけは、避けねばならなかった。
    海舟は、そのためにここへ来ている。
    無論、空手で来たわけではない。
    天璋院の意向。
    そして、その背後にある、故島津斉彬の威光。
    西郷という男が、なお斉彬を“お由羅騒動以来の主君”として絶対視していることを、海舟は見抜いていた。
    ――ネタはある。
    海舟はそう思った。
    ――勝てる。
    だが問題は、その先だった。
    西郷隆盛という男は、理屈だけでは動かぬ。
    こちらに、相手を呑み込むだけの「人物」があるかどうか。
    それを試される。
    海舟は、己の両膝へ手を置いた。
    ――俺が、オヤジみてえになれりゃあな。
    その瞬間だけ、勝麟太郎は、幕臣でも軍艦奉行でもなかった。
    ただ、江戸の裏長屋から這い上がった、小吉の息子だった。
    やがて海舟は立ち上がる。
    これより始まるのは戦ではない。
    静かな決闘であった。
    山岡鉄舟が駿府より持ち帰った報せは、海舟にとって小さからぬ希望であった。
    山岡鉄舟。
    慶喜護衛の精鋭隊頭として知られるこの男は、勝の密書を携え、単身に近い形で官軍参謀西郷隆盛のもとへ赴いたのである。
    一歩間違えば斬られていた。
    いや、むしろ斬られぬ方が不思議な役目だった。
    鳥羽伏見以来、朝敵となった徳川の臣が、敵中深く駿府まで乗り込んだのである。命など、初めから捨てていたに違いない。
    その鉄舟が持ち帰った西郷の条件は七つ。
    慶喜を備前へ預けよ。
    江戸城を明け渡せ。
    軍艦も武器も差し出せ。
    城内の家臣は向島へ移り謹慎せよ。
    さらに、慶喜の暴挙を補佐した者は厳しく糾さねばならぬ。
    もし暴発の徒あらば、官軍自ら鎮圧する――。
    いずれも厳しい。
    だが海舟には分かっていた。
    あれは、まだ「話のできる条件」だった。
    西郷隆盛という男は、問答無用で江戸を焼き払う気なら、そもそも鉄舟など生かして帰しはしない。
    海舟は、そこにわずかな活路を見ていた。
    ふと、海舟の脳裏に「駿府」という地名が引っかかった。
    駿府。
    徳川家康公が、幼き日を人質として過ごした土地。
    妙なものだ、と海舟は思う。
    徳川の始祖もまた、あの土地で他家の顔色を窺いながら、生き延びる術を覚えたのである。
    ――徳川ってぇのは、追い詰められてからがしぶてえのかもしれねえな。
    海舟は、そんなことを考えた。
    やがて襖が開き、会談が始まった。
    西郷隆盛は、噂に違わぬ大男であった。
    薩摩の山をそのまま人の形にしたような威圧感がある。
    だが、その眼は不思議なほど静かだった。
    海舟は、まず和宮のことを語った。
    和宮親子内親王がいかに徳川家の存続を案じているか。
    そして、天璋院が、なお島津斉彬の遺志を胸に抱いていること。
    だが、西郷は黙って聞いているだけだった。
    うなずきもせぬ。
    表情も変わらぬ。
    海舟は初めて、底の見えぬ不気味さを感じた。
    ――まずいな。
    そう思った。
    理はある。
    情も打った。
    それでも、この男の腹が見えぬ。
    沈黙が続いた。
    やがて西郷は、低い声で言った。
    「勝先生は――」
    その声は静かであったが、畳の下から響いてくるような重さがあった。
    「徳川を、生かしたかとでごわすか」
    海舟は返答に詰まった。
    徳川を守りたいのか。
    江戸を守りたいのか。
    日本を守りたいのか。
    その境目が、自分でも分からなくなっていた。
    西郷はなおも静かに言った。
    「山岡殿は、駿府まで命を懸け申した」
    駿府。
    その言葉を聞いた瞬間、海舟の視界がふいに揺れた。
    知らぬはずの景色が、脳裏へ流れ込んでくる。
    白い障子。
    甲高い鳥の声。
    若い武士たち。
    そして――怯えた眼をした、ひとりの少年。
    ――竹千代。
    なぜか、その名だけが浮かんだ。
    海舟の身体がぐらりと傾いた。
       ◇
    駿府の館は、朝から妙に騒がしかった。
    廊下を行き交う足音が絶えぬ。
    小姓たちは盆を抱えて走り、女房たちは香を焚き、奥では誰かが声を荒げている。
    元服の支度が遅れておる。
    烏帽子はどこへやった。
    婚儀の日取りが先に決まっておるのだぞ――。
    そんな声が、障子越しに幾度も聞こえてきた。
    松平竹千代は、それらを他人事のように眺めていた。
    白い小袖の袖を膝へ置き、庭を見ている。
    駿府の春は、三河より柔らかい。
    梅は既に散り始めていた。
    婚儀。
    その言葉だけが、妙に現実味なく頭の中を漂っている。
    相手は今川家の縁者だという。
    顔も知らぬ。
    歳上らしい、という噂だけ聞いた。
    大人の女だった。
    それだけで、竹千代には十分恐ろしかった。
    この頃の戦国大名にとって、婚姻とは家同士の盟約であり、少年少女の感情など顧みられることはほとんどなかった。
    まして竹千代は、松平家の嫡子である。
    父・松平広忠を失った松平家にとって、その存在は既に一人の少年ではなく、家そのものだった。
    そして今川家にとってもまた、竹千代は三河支配のための重要な楔であった。
    元服が急がれているのも、そのためである。
    婚儀の日取りが先に決まり、未だ幼名のままでは外聞が悪い。
    そのため、館中が慌ただしくなっていた。
    「殿」
    不意に、背後から声がした。
    その瞬間、竹千代の身体が跳ねた。
    反射だった。
    肩をすくめ、畳へしゃがみ込み、両腕で頭を庇う。
    息が止まりそうになる。
    視界が暗く狭まった。
    知らぬ男たち。
    荒い手。
    揺れる駕籠。
    土埃。
    誰かの怒鳴り声。
    あの日の記憶が、一瞬で蘇る。
    駿府へ送られる途中、自分は奪われた。
    人質。
    売り渡される荷のように。
    当時、今川家へ送られるはずだった竹千代は、尾張で織田方に奪われた。
    戦国の世において、人質とは珍しいものではない。
    だがそれは、幼い子にとって、自らが「家の道具」であることを否応なく思い知らされる経験でもあった。
    竹千代の喉が小さく鳴った。
    しばしの沈黙。
    やがて、低い声が降ってきた。
    「……人は皆、恐れる」
    竹千代は、ゆっくり顔を上げた。
    そこにいたのは、黒衣の僧であった。
    痩せた顔。
    鋭い目。
    静かすぎるほど静かな立ち姿。
    太原雪斎。
    今川家の軍師として知られる男である。
    雪斎は、しゃがみ込んだ竹千代を見下ろしていた。
    怒っているようにも見えた。
    だが、その目にはわずかに憐れみもあった。
    「恐れぬ者は愚か者よ」
    雪斎は言った。
    「されど武士は、恐れたまま立たねばならぬ」
    竹千代は黙っていた。
    立て、と言われても、脚が震えていた。
    雪斎は続けた。
    「殿は松平の嫡子。今よりは、子ではない」
    その言葉とともに、廊下の向こうで再び慌ただしい声が上がった。
    「烏帽子を!」
    「急げ!」
    「吉日を逃すな!」
    館全体が、自分をどこかへ押し流そうとしている。
    竹千代は、それが恐ろしかった。
    名を変えられる。
    髪を変えられる。
    妻を与えられる。
    そして戦へ出される。
    誰も、自分へ訊かぬままに。
    この頃の竹千代――後の徳川家康は、今川家の庇護のもと、駿府にて武家としての教育を受けていた。
    学問、兵法、礼法。
    そして何より、「生き延びる術」である。
    彼へ強い影響を与えたのが、今川家の軍師として名高い太原雪斎であった。
    やがて竹千代は元服し、「次郎三郎元信」と名乗る。
    「元」の一字は、駿河の太守今川義元より与えられたものである。
    それは同時に、松平家が今川家の傘下へ組み込まれた証でもあった。
    さらに元信は、今川一門に連なる娘――後に築山殿と呼ばれる女性を娶る。
    婚姻もまた、戦国においては戦の一部だった。
    弘治二年(1556年)。
    竹千代は、次郎三郎元信となった。
    戦国の世では、それを「大人になった」と呼ぶ。
    名を変えられ。
    髪を変えられ。
    妻を与えられ。
    そして、主君のために命を捨てることを求められる。
    それが武士であった。
    だが元信には、それがただ、逃げられなくなることのように思えた。
    いよいよ初陣である。
       ◇
    永禄元年(1558年)。
    三河国・寺部城近郊。
    戦は、もう終わっていた。
    終わっているにもかかわらず、戦場にはなお、人の声が残っていた。
    どこかで負傷兵が呻いている。
    馬が鳴く。
    喉を潰されたような濁声で、短く。
    春先の湿った風が、鉄錆と糞尿と血の臭いを混ぜて運んでいた。
    草は踏み潰され、泥は黒く変色している。
    折れた槍。
    砕けた具足。
    矢の立った死体。
    首のない胴。
    死者たちは、皆、妙に静かだった。
    その静けさの中を、数人の三河武士たちが駆け回っていた。
    「殿!!」
    ひとりが叫ぶ。
    「殿はどこだ!!」
    若い武士だった。
    額に血が流れている。
    泥だらけの具足を鳴らしながら、必死に死体をひっくり返している。
    石川数正である。
    まだ若い。
    だが、その目には既に、幾度も戦場を見た者の色があった。
    「探せ!! まだ近くにおられるはずだ!」
    背後で誰かが叫ぶ。
    だが、返事はない。
    あるのは、風の音だけだった。
    数正は、崩れた馬防柵の脇で足を止めた。
    そこに、死体があった。
    若い武士の死体。
    腹を裂かれ、顔には泥が張り付いている。
    だが。
    数正の目が見開かれた。
    兜。
    具足。
    それは、確かに主君のものであった。
    「――殿……?」
    喉がひくりと鳴る。
    数正は、ふらつくように死体へ近づいた。
    違う。
    そう思いたかった。
    だが、具足は間違いなく松平家のものだった。
    周囲の武士たちも、次第に顔色を失っていく。
    「まさか……」
    誰かが呟いた。
    その瞬間。
    遠くで烏が鳴いた。
       ◇
    だが、その頃。
    死んだはずの男は、生きていた。
    泥まみれの草むらを、ひとりの若武者が息を切らして歩いている。
    次郎三郎元信。
    後の徳川家康である。
    元信は、既に具足を捨てていた。
    血に濡れた雑兵の死体へ、自らの具足を着せ替えて。
    松平家嫡子の姿を、戦場へ置き去りにして。
    元信は、粗末な陣笠を深く被った。
    脚が震えていた。
    胃の奥が冷たい。
    初陣だった。
    だが元信は、既に理解していた。
    戦とは、武功でも誉れでもない。
    殺されることだった。
    死ぬことだった。
    そして何より。
    怖いものだった。
    遠くで怒号が響く。
    元信は反射的に身を縮めた。
    もう戦場へ戻りたくなかった。
    戻れば死ぬ。
    そう思った。
    その時、不意に、あの老僧の声が蘇った。
    ――恐れぬ者は愚か者よ。
    太原雪斎の声だった。
    駿府にいた頃から、幾度となく聞かされた言葉である。
    ――されど武士は、恐れたまま立たねばならぬ。
    元信は唇を噛んだ。
    その時だった。
    「おい」
    声がした。
    元信の身体が凍る。
    振り返ると、木立の向こうに男たちがいた。
    六人。
    百姓とも浪人ともつかぬ格好。
    痩せた男。
    鼻の潰れた男。
    槍を持った男。
    刀を吊った男。
    弓を背負った男。
    そして、ひときわ大柄な男。
    どれも目つきが悪い。
    野盗だった。
    男たちは、元信を値踏みするように眺めていた。
    「なんだ若ぇのか」
    「逃げ雑兵だな」
    「待て」
    ひとりが、元信の腰へ目を止めた。
    刀。
    元信が、咄嗟に手で隠す。
    だが遅かった。
    「おいおい」
    野盗のひとりが笑った。
    「雑兵にしちゃ、いい刀持ってるじゃねえか」
    男が近づく。
    鞘へ触れる。
    目の色が変わった。
    「……これ、お前のじゃねえな?」
    元信は黙っていた。
    喉が渇く。
    「死体から剥いだんだろ」
    男は笑った。
    「その死体の場所まで案内しろ」
    「……戦場は危のうございます」
    元信は、震える声で言った。
    「まだ敵勢が、辺りを――」
    「だから何だ」
    男の顔から笑みが消えた。
    「こっちは死人漁りで食ってんだ」
    槍の先が、元信の腹へ向けられる。
    「歩け」
    元信は、ゆっくり後ずさった。
    山の方角へ。
    戦場とは逆へ。
    野盗たちの眉が動く。
    「おい」
    「なんでそっちへ行く」
    元信は答えられなかった。
    「何隠してやがる」
    空気が変わる。
    男たちの目が細くなる。
    殺気だった。
    「殺して刀だけ剥ぐか?」
    誰かが言った。
    元信の背筋を冷たい汗が流れる。
    その瞬間。
    元信は駆け出した。
    「待てッ!!」
    怒号。
    枝を掻き分ける。
    土が滑る。
    息が切れる。
    怖かった。
    ただ、怖かった。
    武士としての面目も。
    松平家も。
    今川も。
    何もかも頭から消えていた。
    生きたかった。
    それだけだった。
    やがて元信は、山肌の裂け目のような洞穴へ転がり込んだ。
       ◇
    暗い。
    湿っている。
    息を殺す。
    外では野盗たちの怒声が響いていた。
    「探せ!!」
    「近くにいるぞ!!」
    元信は、震える手で口を押さえた。
    その時だった。
    洞穴の奥で、火が揺れた。
    誰かいる。
    元信の身体が強張る。
    暗闇の向こう。
    ぼろぼろの着物をまとった、中年の男が座っていた。
    妙な男だった。
    髷も乱れている。
    武士とも百姓ともつかぬ。
    だが、その眼だけが異様に鋭かった。
    男は、怯えきった元信を見つめた。
    しばし沈黙。
    やがて、低い声で言った。
    「……若造が、死にてぇ面してやがる」
    男は、焚火の向こうでそう言った。
    元信は答えなかった。
    洞穴の中は湿っていた。
    岩肌から水が垂れ、冷えた土の臭いがする。
    外では、野盗たちの怒声が近づいていた。
    「探せ!!」
    「山へ入ったぞ!」
    「遠くへは行けねえ!!」
    元信は、息を殺した。
    胸が痛いほど鳴っている。
    男はそんな元信を一瞥しただけで、再び火へ視線を戻した。
    まるで関わる気がない。
    それが逆に不気味だった。
    「……匿ってくれとは言わんのか」
    男が言った。
    元信は唇を噛んだ。
    「言うて、匿うか」
    「さあな」
    男は素っ気なく言った。
    「俺ァ、お前ぇが誰かも知らねえ」
    奇妙な物言いだった。
    東国の言葉に似ていた。
    だが、三河とも駿河とも違う。
    妙に歯切れがよく、どこか乱暴で、耳慣れぬ響きがあった。
    元信は、暗闇の中で男を見た。
    「どこの者じゃ?」
    と、元信は思った。
    着物はぼろぼろ。
    だが、その身体には妙な落ち着きがある。
    浮浪者にも見える。
    しかし、どこか武士めいていた。
    その時。
    洞穴の入口で、枝を踏む音がした。
    「……いたぞ」
    低い声。
    野盗だった。
    六人。
    槍を持った男が、洞穴の中を覗き込む。
    「おうおう」
    鼻の潰れた男が笑った。
    「逃げ雑兵、こんなとこに隠れてやがったか」
    元信は動かなかった。
    動けなかった。
    野盗たちの目は、すぐに焚火の向こうの中年男へ向いた。
    「なんだァ、乞食か?」
    「臭ぇ穴だと思ったぜ」
    野盗たちは笑った。
    焚火の男は答えない。
    興味も無さそうだった。
    だが、野盗たちは元信から目を離さなかった。
    「若造」
    槍の男が言った。
    「刀、見せろ」
    元信は黙っていた。
    「聞こえねぇのか」
    男が近づく。
    その時だった。
    別の男が、元信の袖を掴んだ。
    「待て」
    男の顔色が変わっていた。
    小袖の裏。
    そこに、小さく蔓葵の紋が刺してあった。
    野盗たちは、紋の意味など詳しく知らぬ。
    だが、それでも分かった。
    粗末な雑兵の持つものではない。
    武家。
    しかも、それなりの家柄。
    その気配だけは、本能のように感じ取れた。
    洞穴の空気が変わる。
    「……おい」
    「こいつ、今川筋か?」
    元信の喉が鳴った。
    しまった。
    そう思った。
    野盗たちの目が、急に欲深くなる。
    「待てよ」
    「ただの雑兵じゃねえぞ」
    「駿府へ売れば金になるかもしれねえ」
    元信は、唇を噛み締めた。
    怖かった。
    脚が震えていた。
    だが、その瞬間。
    不意に、何かが切れた。
    もう、隠しても無駄だった。
    元信は、ゆっくり顔を上げた。
    「……違う」
    声は震えていた。
    だが、眼だけは逸らさなかった。
    「今川の者なら、その紋は使わぬ」
    野盗たちが顔を見合わせる。
    元信は続けた。
    「これは、松平の紋だ」
    焚火が小さく爆ぜる。
    「わしは――松平竹千代じゃ」
    洞穴の空気が止まる。
    野盗たちの目が見開かれた。
    「……は?」
    「松平……?」
    「まさか」
    次の瞬間だった。
    焚火の向こうにいた中年男が、初めて動いた。
    「おい若造」
    焚火の男は、呆れたように言った。
    「てめぇ、そういうことァ、もっと後に言え」
    元信が振り向く。
    男の手には、妙な鉄の塊があった。
    短い。
    黒い。
    見たことのない形。
    野盗たちも、一瞬、理解できなかった。
    「……なんだそりゃ」
    中年男は立ち上がった。
    その眼が、焚火の光の奥で冷たく光る。
    「俺も、お前ぇらとは関わりたくなかったんだがな」
    次の瞬間。
    轟音。
    洞穴そのものが爆ぜたようだった。
    火花。
    硝煙。
    野盗の頭が弾け飛ぶ。
    元信の視界が白く染まった。
    二発。
    三発。
    耳を裂く雷鳴が、狭い洞穴の中で反響する。
    野盗たちが何か叫んでいた。
    だが、もう聞こえなかった。
    血が飛ぶ。
    肉が砕ける。
    槍が転がる。
    四発目。
    五発目。
    入口へ逃げようとした男が崩れ落ちる。
    最後の男が腰を抜かした瞬間、さらに火が走った。
    六発目。
    静寂。
    硝煙だけが、洞穴の中へ重く漂っていた。
    元信は、口を開けたまま動けなかった。
    耳が何も聞こえない。
    ただ、キーンという音だけが頭の奥で鳴っている。
       ◇
    焚火の向こう。
    中年男は、妙な鉄の塊を見つめていた。
    まるで、自分でもそれが何なのか分からぬような顔で。
    洞穴の中には、まだ硝煙の臭いが重く漂っていた。
    血の臭いと混ざり、妙に甘ったるい。
    岩肌には黒い煤が付着している。
    だが、先ほどまで頭蓋を割るように鳴っていた耳鳴りは、ようやく少し収まり始めていた。
    キーン――という音が、遠くへ退いてゆく。
    焚火の火が、小さく爆ぜた。
    中年男は、黙ったまま野盗の死体をまさぐっていた。
    脈を見ている。
    生き残りがいないか確かめているのだと、元信にも分かった。
    だが、その手つきが妙に慣れていた。
    人を殺すことにではない。
    殺した後を確認することに。
    それが、元信には妙に不気味だった。
    やがて男は、小さく息を吐いた。
    「……全部死んだな」
    元信は答えなかった。
    視線は、男の手にある黒い鉄塊へ吸い寄せられていた。
    短い筒。
    奇妙な回転部。
    木の握り。
    まるで小型の鉄砲である。
    だが、火縄もなければ火皿もない。
    見たこともない武器だった。
    男は、それをしばらく見つめていた。
    まるで、自分でもそれが何なのか分からぬような顔で。
    元信は、おそるおそる口を開いた。
    「……それは」
    男は顔を上げた。
    「ん?」
    「何という武器じゃ」
    男は黙った。
    少し考えるような顔をする。
    「……分からねえ」
    「分からぬ?」
    「だが――」
    男は、自分の手を見た。
    「使い方は分かる」
    「弾の込め方も」
    「火薬の扱いも」
    「掃除の仕方も」
    「どこが壊れやすいかも」
    男は、苦々しげに笑った。
    「身体だけが覚えてやがる」
    元信は、そっと武器へ手を伸ばした。
    男は止めなかった。
    元信が鉄塊へ触れた瞬間。
    「あつっ」
    思わず取り落とす。
    鉄塊が岩へ当たり、乾いた音を立てた。
    男が吹き出した。
    「そりゃ、さっきまで火ぃ吹いてたからな」
    元信は赤くなった指を見た。
    熱かった。
    鍛冶場の鉄のようだった。
    男は、転がった武器を拾い上げる。
    その時だった。
    ふと、洞穴の隅に置かれた木箱へ目をやる。
    箱には、奇妙な文字が刻まれていた。
    元信には読めぬ文字。
    南蛮文字に見えた。
    男は、それを何気なく読み上げた。
    「……M1860」
    元信が顔を上げる。
    男は続ける。
    「コルト……アーミー」
    沈黙。
    男自身が、一番驚いていた。
    「なんじゃ、それは」
    元信が訊く。
    男は眉をひそめた。
    「分からねえ」
    「だが……読める」
    「読める?」
    「読めるんだよ」
    男は苛立ったように言った。
    「意味は分からねえのに、読める」
    焚火が揺れる。
    元信は、洞穴の奥の木箱へ近づいた。
    中には、小さな鉛玉。
    紙包み。
    黒い粉。
    油布。
    鉄の道具。
    見たことのない器具が並んでいる。
    男は言った。
    「こいつらの使い方も分かる」
    「どれだけ詰めりゃ危ねえかも」
    「どこを磨けば長持ちするかも」
    「だが、どこで覚えたかが思い出せねえ」
    元信は、静かに箱を閉じた。
    「……南蛮か」
    男が顔を上げる。
    「なんだ?」
    「伴天連と呼ばれる南蛮僧が、近頃、西国へ来ておる」
    元信は慎重に言葉を選んだ。
    「フランシスコ・ザビエルという男も、日本へ渡ったと聞く」
    「海の向こうには、見たこともない武器や学問があるとも」
    男は苦笑した。
    「俺が伴天連に見えるか?」
    「いや」
    元信は真顔だった。
    「だが、おぬしは海を知っておる気がする」
    男は黙った。
    海。
    その言葉だけが、妙に胸へ引っかかった。
    波。
    黒い船。
    潮の臭い。
    だが、そこから先が見えない。
    男は、自分の頭を乱暴に掻いた。
    「ちっ……」
    元信は、再び武器を見た。
    「……この武器は危うい」
    男が顔を上げる。
    元信は続けた。
    「戦の形を変える」
    「力関係を変える」
    「武田も」
    「今川も」
    「織田も」
    「皆、この武器を欲しがる」
    その声は静かだった。
    だが、妙な重みがあった。
    「だから、隠すべきじゃ」
    焚火が、小さく爆ぜた。
    男は、しばらく元信を見ていた。
    若い。
    怯えている。
    さっきまで逃げ回っていた。
    だが、この少年は、もう戦だけを見ていない。
    国を見ている。
    男は、不思議な感覚を覚えた。
    ――聡明だ。
    自然に、そう思った。
    だが同時に。
    なぜ自分が、そう感じるのかが分からなかった。
    聡明。
    戦。
    国。
    海。
    砲。
    その言葉が、自分の中で妙に自然につながる。
    まるで昔から知っていたように。
    だが、その“昔”が思い出せない。
    男は、焚火へ視線を落とした。
    元信が、静かに言う。
    「わしは、松平の嫡子じゃ」
    「だが、今は今川の人質でもある」
    「岡崎へ戻っても、すぐ自由にはならぬ」
    「いつ、誰に殺されるかも分からぬ」
    洞穴の外では、風が鳴っていた。
    遠くで、戦場の残響のような鬨の声が聞こえる。
    元信は、中年男を真っ直ぐ見た。
    「だから、家の外の者が必要じゃ」
    男は眉をひそめた。
    「家の外?」
    「今川でもない」
    「松平でもない」
    「どこにも属しておらぬ者じゃ」
    元信は続けた。
    「おぬしは、誰の家臣でもないのであろう」
    男は、しばらく黙っていた。
    やがて、ぽつりと言った。
    「……わからねえ」
    「なにがじゃ」
    「なんで、お前を助けたのかだ」
    元信は黙った。
    男は、焚火を見つめたまま続ける。
    「関わる気なんざ無かった」
    「だが――」
    男は少し困ったように笑った。
    「なぜか、あんたを守るために、ここへ来た気がする」
    洞穴の中へ、風が吹き込んだ。
    焚火が揺れる。
    元信は、その中年男をじっと見つめた。
    得体が知れない。
    危うい。
    だが。
    この男は、戦国の論理の外にいる。
    元信は、直感していた。
    この男は――使える。
       ◇
    洞穴の中には、まだ硝煙の臭いが残っていた。
    野盗たちの死体は、転がったままだった。
    一人は洞穴の入口近く。
    一人は壁にもたれかかるように。
    残る四人は、折り重なるように倒れている。
    元信は、それを見ていた。
    何度も。
    見れば見るほど分からなくなる。
    傷は小さい。
    刀傷のように肉が裂けているわけでもない。
    槍で貫かれたようにも見えない。
    それなのに死んでいる。
    六人とも。
    中年男は岩壁へ背を預けていた。
    身体が重かった。
    疲れているのだろう。
    それとも、別の何かだろうか。
    人を殺した。
    その実感だけが、妙に胸の奥へ残っている。
    だが、不思議なことに後悔はなかった。
    殺さねば、自分かこの若造が死んでいた。
    それだけは分かる。
    元信の視線が、再び鉄の塊へ向いた。
    岩陰へ置かれた拳銃だった。
    中年男も気付いていた。
    気付いていたが、何も言わなかった。
    元信もまた、何も聞かなかった。
    しばらくしてから、
    「おぬし」
    と元信が言った。
    男は顔を上げた。
    「なんだ」
    「その武器の名は分かったか」
    男は少し考えた。
    洞穴へ逃げ込む前。
    箱があった。
    その文字だけは読めた。
    なぜ読めたのかは分からない。
    「コルト」
    男は答えた。
    「たしか、そう書いてあった」
    元信は黙っていた。
    意味は分からぬらしい。
    だが覚えようとしている顔だった。
    男は苦笑した。
    「お前も変な奴だな」
    「そうか」
    「普通は化け物だと思うだろう」
    元信は少し考えた。
    そして首を横へ振った。
    「化け物なら、わしを助けぬ」
    男は笑った。
    妙に納得できる理屈だった。
    元信は地面へ視線を落とした。
    木の枝を拾う。
    そして土の上へ線を引き始めた。
    「ここじゃ」
    円を描く。
    「駿府」
    さらに線を伸ばす。
    「ここが遠江」
    さらに西へ。
    「ここが三河」
    男は黙って見ていた。
    地名に聞き覚えはない。
    だが、不思議と興味はあった。
    「お前の国か」
    「わしの家の国じゃ」
    元信は言った。
    「だが今は今川家のものでもある」
    男は眉をひそめた。
    「自分の国じゃねえのか」
    元信は苦笑した。
    「戦国とはそういうものじゃ」
    男は地図を見る。
    しばらく沈黙した。
    やがて口を開く。
    「一番偉いのは誰だ」
    元信は少し意外そうな顔をした。
    「将軍家じゃ」
    「将軍?」
    「足利義輝様」
    男は首を傾げた。
    「なら、なんで皆勝手に戦ってる」
    元信は答えなかった。
    少し考えてから、
    「遠いからじゃ」
    と言った。
    洞穴へ風が吹き込んだ。
    どこかで鳥が鳴いている。
    元信は地図の上を指でなぞった。
    「武田」
    さらに別の場所を叩く。
    「上杉」
    そして駿府を指した。
    「今川」
    男は聞いた。
    「一番強いのは誰だ」
    元信は少し考えた。
    長く。
    真剣に。
    そして、
    「武田信玄殿か」
    と言った。
    さらに、
    「あるいは義元公」
    と続けた。
    男は頷いた。
    名前は知らない。
    だが、その答え方だけで分かった。
    本気でそう思っている。
    その時だった。
    元信の顔が変わった。
    男は気付かなかった。
    元信だけが顔を上げた。
    洞穴の外。
    風とは別の音がある。
    男は遅れて耳を澄ました。
    何も聞こえない。
    だが元信は立ち上がっていた。
    「どうした」
    男が訊く。
    元信は答えなかった。
    さらに数瞬。
    今度は男にも聞こえた。
    遠い。
    だが確かに。
    乾いた音。
    規則的な音。
    地面を叩く音。
    馬だ。
    しかも一頭ではない。
    元信の顔から血の気が引いていた。
    男は初めて不安になった。
    「敵か」
    元信は首を横へ振る。
    だが安心した顔ではない。
    むしろ逆だった。
    「味方じゃ」
    そして、小さく呟く。
    「だからまずい」
    馬蹄の音が近づいてくる。
    山道を登ってくる。
    迷いがない。
    こちらを知っている足取りだった。
    元信の視線が、岩陰の拳銃へ向いた。
    次いで中年男を見る。
    二人は何も言わなかった。
    だが同じことを考えていた。
    見つかれば終わる。
    その時。
    山の向こうから、
    かすかに声が響いた。
    「殿―――っ!」
    元信は目を閉じた。
    そして深く息を吐いた。
    「見つかった」

    つづく


    本作はフィクションです。登場する人物・団体・事件は実在のものとは一切関係ありません。

    📖 お読みいただきありがとうございます!
    ✨ いいね・フォロー・シェア をしていただけると励みになります!💖

    💡 次回もお楽しみに!

    #勝海舟 #時代小説 #歴史小説 #松平竹千代 #幕末
    #戦国時代 #江戸無血開城

     
     
     
    映画と小説とノンフィクションを愛する50代の男です。

    あなたへのおすすめ