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☆172.踏切脇の写真立てで笑う女の子に「おはよう」と声をかける。

    とある踏切の側に、写真立てが置かれています。私が甲府に引っ越してきた時にはお供え物もしてあったので、まだ命を落としてからそれほど月日は経っていないことでしょう。

    私はわずか2ヶ月で甲府から離れましたが、縁もゆかりもなかった甲府において唯一寂しいと思う存在が、その写真立てに映る子でした。中性的な顔立ちだけど服から察するに女の子かな……中高生くらいでしょうか。

    今日は彼女について感じたことを書いてみたいと思います。

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    踏切脇に写真立てが置かれていたら、何を思いますか。

    毎回あいさつしていた。

    引っ越しで初めてそこを通った時には「ここで亡くなったのか〜」くらいにしか考えていませんでした。その踏切は駅に向かうためには必ず通るので、休みの日には毎回のように「あいさつ」していました。正教会式に十字を切って「おはよう」と。

    今となっては不思議なのですが、私は彼女に対して「おはよう」とあいさつをしていました。私は教え子を自殺で失ったことがあり、子供の自殺には割とナーバスだと思っていたので、この写真立てから心に燃えるものが出てくるのではないかと思っていました。


    しかし私は、彼女を「存在する人」として扱っていました。


    十字は切っています。亡くなっている人、すでにこの世にいない人だという認識はある。しかしかける言葉は、生きている人に対するそれと変わりありません。


    甲府を離れる日、彼女にかけた最後の言葉は「元気でね」でした。


    これだけ書くと「不謹慎」と思われるかもしれません。本人を知っているわけでもないし、線路脇の写真立てで笑う姿以外、名前も歳もどこに住んでいたかも知りません。そんな赤の他人が、彼女の奥深くを探ろうとすること自体がむしろ失礼というものです。


    写真立てではいつ見ても笑っている。

    しかし興味深いもので、私はそんな彼女の存在に救われている側面がありました。なぜなら彼女は、いつ見ても笑っているから。

    笑顔って、こんなにも人を元気付けるんですね。それが写真立ての人物だとしても、笑顔に変わりはないんです。当事者の目には悲しみを映すかもしれませんが、私は良くも悪くもその事情を知りません。だからこそできる関わり方であることも承知しています。

    そして何よりも、私が写真立ての女の子に対して「自殺したかわいそうな人」という扱いをしていないことが嬉しい。しかも無意識のうちにそうしている自分がいる。自然と「一人の人」として見ることができていることに誇りを持っています。

    肩書き、数字、病気や障害、境遇など……人を「属性」で見ることは簡単です。しかしそうである以前に「一人の人」であって、そこを見つめることはできているつもりで、案外できることではないように思います。

    AIと壁打ちをして気づいたのですが、2ヶ月間彼女のそばを通っていたにも関わらず「彼女がなぜ死を選んだか」について一度も興味を持たなかった。これはきっと偶然じゃないと思っています。


    誰かが日々、手を差し伸べている。

    そして嬉しかったのが、写真立てが時々立て直されていること。風雨なのか誰かのイタズラか、線路脇の草むらに転がっている日もありましたが、翌日にはきちんと立てられているんです。


    つまり、誰かが手を差し伸べている。


    忘れられた存在でもなければ、雑に扱われる存在でもない。生きている時にどうだったかは分かりませんが、少なくとも誰からも見捨てられた人ではなかったように思います。そうした救いの手、支えの手が、彼女から見えていたかは別の話ですけどね。

    駅に出るのは休日がメインだったので、週に1〜2回は彼女の姿を見ていたことになります。そうした日々が、私の山梨での息抜きの一つになっていた。私にとって彼女へのあいさつは「日課」のようなものだったのかもしれません。

    私事ながら、山梨を出るにあたって唯一寂しいと感じたのは彼女の存在でした。寂しいと思うんだ〜って自分でもびっくりしています。といいつつ私もいずれは忘れていくのかもしれませんし、忘れるからこそ人間は生きていけるのです。


    だから今は、一言だけ。


    「ありがとう。元気でね。」


    二言でした。




    ここまで読んでくださったあなたに、素敵な朝日が昇りますように。

    ……


     
     
     
    毎週月・木18:30に更新。 日々見聞きしたり気づいたことについて書いていきます。

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