
第08話 境界線は、役割として差し出された
『奥様……』
セバスチャンが、いつもより一歩前に出る。
背の高い彼が近づいただけで、空気が変わる。
『今夜の徹夜は禁止です』
低い声。
命令ではないのに、逆らえない。
『……絶対に、寝てください』
ほんの一瞬だけ、
その声に焦りのようなものが混ざった気がした。
早めの夕食と入浴の後、寝室に入るところまでを
セバスチャンにしっかり見届けられた。
『本日はゆっくりお休みください。絶対ですよ』
セバスチャンの放つ圧で再度念を押され、
彼女は苦笑しながらドアを閉じた。
深夜2時過ぎ。
ベッドの中で目を覚ます。
5時間ほど睡眠が取れたようだ。
彼女は静かにベッドを抜け出し、そっと寝室のドアを開けた。
彼女は冷蔵庫から缶ビールを取り出しタブを開けた。
冷たいビールを喉に流し込んでからリビングへと移動する。
ソファに座り、ビールをもう一口。
日中にこのソファで緊急発生してしまった膝枕イベントを
思い出し、小さな呻き声が漏れた。
膝枕をしてくれた。何も言われなかった。
それなのに、右手の温度だけが、妙に記憶に残っている。
気遣うように紅茶を淹れてくれた。
奥様は願う。
もう少し、セバスチャンのことを知りたい。
もう少し、セバスチャンの近くに寄りたい。
でも――
『執事である以上、境界線は越えません』
既に線引きはされている。
彼は、こちら側に来る人ではない。
そういう役割を、
そういう生き方を、
選び続けてきた人だ。
正解がわからない。
恋愛経験の少なさが、ここで牙をむいた。
気づけば、ビールをもう一本開けていた。
飲みたいわけじゃない。
ただ、じっとしていられなかった。
何もかもがわからない。
アルコールは思考回路を迷走させる。
それでも、ひとつだけ浮かんだ考えがあった。
―もし。
もし…私が奥様でなかったら?
そのままリビングで朝を迎える。
あまりにも静かに座っていたのでセバスチャンもリビングにくるまで気づかなかったようだ。
朝日が、リビングに差し込む。
『奥様? なぜ……』
セバスチャンの声が止まる。
彼女は立ち上がり、
小さく息を吸った。
――言葉は、決めていた。
『……貴方の専属メイドになります』
好きだと言う勇気はなかった。
だから私は、役割を差し出した。