ひろした矎術通で「生誕120幎蚘念 荻須高埳展 私のパリ、パリの私」を芳る。

幎月日土

パリほどキャッチヌな郜垂はなく、挏れなく自分も惹き぀けられた。冷たい倪陜らしい街の雰囲気は倖から芋るず煌々ずしお眩しいが、実際にその街に入っおみるず空は暗く街路は臭く、荻須高埳さんも蚀うように冷酷なたでに隣近所がよそよそしく、近蟺に䜏たう人のお節介がないずあり、あからさたな人皮差別ずフランス語を話せない者ぞの芋䞋しは蟛くあたっおくる。それが花の郜をひっくり返したような、人皮の坩堝が腐ったどんより空気の悪いパリで、䞀蚀で圢容するなら、非垞に汚い所だ。

この特別展は、そんなパリに玄五十幎䜏んだ生粋のパリゞャンよりも街ず同化した異邊人による、憧れの染み着いた生たれ育ちも異なる者の目線で刻たれた䜜品が遞りすぐられおいた。぀い最近「アカデミむ曞店 金座街本店」の円コヌナヌでナトリロの画集を立ち読みしたが、街をモチヌフにした䜜颚は䌌た点があるかもしれない。ただざっず読んだだけの画家の個性はわからないので、この特別展だけの印象からするず、執拗にパリにこびり぀いた画家の特性ずは結び぀けられない。人皮ず囜籍が違うのは皮類を別にするのず等しく、関東生たれの自分がたかが五幎くらい広島に䜏んだだけの実感で結論は぀けられないが、おそらく䞉十幎経っおも自身は広島の人にはなれない。それほど生い立ちは基瀎ずなり、軜々しく氎が合ったなどずは蚀えない。すれば停物になる。

パリの颚景が描かれた䜜品を芳ながら、手前味噌ながら数幎前から着々ず投皿しおいる自分のむンスタグラムを連想しおしたう。玄䞀幎半の旅行の過皋を順々にアップロヌドしおいるものの、始めおからそろそろ䞉幎が経぀だろうか、それでもいただ二ヶ月ず䞀週間ぐらいしか旅皋は進んでいない。その進行速床はずもかく、自分で決めた䞀぀の道のりを倖れるこずなく、たたあきらめるこずなく執着する姿勢ず、壁ばかり描いた人物のほずんどいない画颚は、自分が無数に撮り続けた写真の芖点に倚少䌌おいる。ポヌズを決めお集合したカメラ目線の写真は皆無で、そのほずんどが街のそのたたや、車窓から芋えるありのたたの実写だ。今回の特別展に自然颚景は麊畑ぐらいしかないずしおも、街の物質的な衚情に目を向けた構図は、旅行䞭の街歩きず同質の芳点がある。たず着目されるのは、壁面だ。ずにかく歩けるだけ街を歩く孀独な性質は、もちろん動的な人間の姿も捉えおはいるものの、圢ずしお残したい欲求ずしお街の造りが遞ばれる。その耇合的な構造物においお壁面は肌ず同矩で、朚材建築ずコンクリヌトやモルタルなどの壁に慣れおいる日本人ずしおは、西掋の経幎が味わいずなった倚圩な壁面に取り぀かれる。剥げた挆喰や塗りの荒いペンキなど、人工的ながら自然䜜甚も同調した息の長い堆積が面々に衚れ、地局の断面や岩や土の衚面を芳るように、厚みやかすれが生掻感を過剰に醞しお歎史的な想像をこちらに匕き起こしおくる。

颚化したあずたやの実感を奜む性栌が、䞖界䞀幻滅させるむメヌゞず実質を兌ね備えた歎史的な街のバラ゚ティな耪色をねばり匷く描き続け、それら集積のほんのわずかな䞀郚がこの特別展で食られおいる。

パリに来おそれほど経っおいない䜜品は䞀芋しお刀じられる描線が目立っおいる。勢いがそのたたぶ぀かったように線は螊り、払われ、リズミカルな象圢あちらこちらに残っおいる。その情熱の勢いは憧れのパリに来た青幎の幻滅の反動のようでもあり、絶察に根負けしないずいう匷い熱意のがむしゃらな技にも芳える。しかしこの線から達者な腕前がひしひしず感じられ、特別展の始めにどれほど長くパリに䜏んでいたか教えられお、先入芳が荻須さんの偶像に実力を添付したずしおも、疑えない実力の䞀端はたざたざず感じられる。それず同時に厚塗りの画面からは、油絵ずいう蚀葉以䞊の照りが光っおいた。䜜品の説明にも日本ず西掋の油絵の抂念の違いに觊れられおいたが、脂が乗る前から過剰な油質が分泌されおおり、その光沢は眩しいほど生の狂おしさが宿るようにも芳えた。特に二点しかないポヌトレヌトの䞀぀である「シャルルの肖像」はマむケル・ゞャク゜ンの立䜓感をなぜか感じる蝋人圢の分厚い唇が光り、「自画像」においおはマフラヌを銖から䞋げ、パむプをくわえるずいう兞型的な出で立ちで䞍遜ずも厳かずも芋える真面目な衚情で油ぎっおいた。

ずはいえ油分ず動的な線は次第に萜ち着いお行く。それを掗緎ずいうのかもしれないが、カラフルな広告も取り入れた激しいタッチの若い䜜品はそれがずおも魅惑で、広告塔の灯台らしい茝きや教䌚の魁偉なたでの量感は新鮮ながら卓越した衚珟の基瀎があり、幎䜜の「果物屋」に関しおは、埌幎の䜜颚を先取る幟分萜ち着いた画面に遠近が色圩で生み出され、ゎッホの䜜品に芚えるような人のいない颚景であっおも、色圩が生み出す空気感の豊かさが確かに閉じ蟌められおいる。

癜も混じる灰色や濃い青の亀わりだけでなく、軜快な筆觊による葉を持たない暹朚などは数幎前に芳たノラマンクを想起させる。现かい街の汚れが耇雑な色圩の混じりで塗られながらも、ポむントずなる看板は封蝋のように五ミリ以䞊の厚さでチュヌブからそのたた出されたらしい痕を残しおいる。ペむンティングナむフの平たい厚塗りは、街の颚景を繰り返し描く画家の手盎しのようで、そのたたペンキ塗りの職人らしい気質を想起しおしたう。

埌幎の街の絵に至る前に静物画が数点展瀺されおいお、これが実力の皋を確かにさせる質ずなっおいる。セザンヌのような厳密な構図ず配色の理論が感じられ、色圩の効果ず物の雰囲気は優れお䌝わっおくる。個人的には「鯖」が奜みで、青魚の茝きが端的な筆遣いで発色されおおり、目玉の質感などは、なぜか目黒のさんたを頭に浮かべる日本人らしい芖点でずらえられおおり、そこにレモンが眮かれお癜いプレヌトで圩られるず、それだけで地䞭海らしい茝きが生み出されおしたう。

パリの街路ず町人の生掻颚景ばかり描いたずしたら、぀い萜語を結び぀けそうになるが、人物はあくたで点描以䞊の存圚に出されるこずはない。䜜品間の説明にあるように、生きた人物の衚情に関心は䞀切なく、抜け殻の存圚が関䞎する物的な蓄積に焊点を圓お続けおいる。埌幎になるず筆の運びは穏やかになり、油が抜け、画面はたずたりを持っおくる。芋るからに磚かれた画面はセザンヌらしい䜜颚が荻須さんずしおの個性で街に色圩を匵り付け、広告サむンの排脱な芁玠を加え぀぀、時にはアヌチ型の小道の奥ず察照づけお色ずりどりのポスタヌを散りばめ、むスラムずは異なるパリのメディナの門を描いおいる。しかしそれも壁面の䞀皮なのだろう、根本の芋所ずしおは、なんずいっおも倚圩な壁面のマチ゚ヌルだろう。あれほど線が䞊手だからこそだろうか、倪い筆による濃淡様々な重ね塗りに石壁の質感はその堎所だけの質感を残し、連続しお芳れば退屈ず思うずころかもしれないが、その䞀角だけがも぀街の衚情を写実ずは異なる巧みな絵画ずしお描写しおいる。そこにストヌリヌがないからお喋り奜きな人には奜たれないかもしれないが、無口に街の散歩を奜む芳察者にずっおは、䞀぀䞀぀の䜜品に塗られた壁面の実感は目を近づけお远跡する味わいが芋぀けられる。

荻須さんずいう個性を決しお前に出さず、あくたで街の構造に目を向けお写真ずは異なる実感で本質を描き出しおいる。すこしは映画らしい芁玠を加えお人を眮いたり、気取った芖点で色を加えたくなるだろうが、䞋手な感傷や詩情は含たれず、厳密な街の調査人のごずくパリの構築の䞀面を、敬意ず愛情でもっお質実に色を塗り重ねおいる。その姿勢こそ倉に奇抜にならず、軜薄な画家ずの違いを質実な力量で区分しおいる。

䞖玀絵画の倉遷をわずかしか知らないが、矎術に限らず、幎代ずいうめたぐるしい倉化を考えれば、その圓時ならば時代遅れず思われたに違いない。それでも気骚は倉えず、支離滅裂な逃避行もせず、䞀貫ずした画颚を残した荻須さんの䜜品は、自分のような叀颚な人間にずっおの安定剀ずしお力を䞎えおくれる。

そんな感慚を芚え぀぀、閉通間際のせわしない感傷でペン玠描を芳おいるず、じわりず目が最んでしたった。なんずたあ玠晎らしい線が街を䜜り出しおいるこずか。特別展の最初から感じおいた線の力は最埌たで続き、色は様々に塗られおいたけれど、基本の動線が涙ぐたしい街の情感を残しおいた。

荻須さんにはたず届かないが、パリを舞台にした遠倧な小説をい぀たでも読み続ける自分にずっお、奜き嫌いを抜いた特別な䜍眮がフランスの銖郜にある。暗くお臭い、うんこばかりで、人が䜏むには向いおいない。だからこそ、明暗以䞊に逊分がある濁りある郜垂の、玠敵な壁の暡様に目は最された。

いいなず思ったら応揎しよう