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友へ ― 鴨川の向こう側

    『友へ ― 鴨川の向こう側』 概略

    大学時代を京都で過ごした「私」は、鴨川や喫茶店で語り合った親友との日々を懐かしく思い出していた。友は当時まだ発展途上だったコンピュータの未来を信じ、プログラマーになる夢を語っていた。卒業後、二人は別々の会社へ進み、やがて連絡も途絶えがちになる。それでも、いつかまた会えると信じていた。
    六十代を迎えたある日、友から久しぶりの電話が入る。懐かしい京都の思い出を語り合ったあと、友は突然、自身ががんを患っていることを告げる。会いに行こうと決意した矢先、友は帰らぬ人となった。京都を再訪した「私」は、葬儀に行けなかった後悔と向き合いながら、変わらず流れる鴨川を見つめる。失われた時間と友情を静かに見つめ、忘れないために綴られた追悼の物語である。

    前書

    人は、人生の終わりに近づくにつれて、多くのものを失っていく。
    若さを失い、仕事を離れ、親を見送り、そして友人を見送る。
    若い頃には想像もしなかったことである。
    大学時代、私たちは永遠に続くような時間の中にいた。
    京都の街を歩き、鴨川のほとりに座り、喫茶店でコーヒーを飲みながら、将来について語り合った。
    その将来が、いつか過去になることなど考えもしなかった。
    友は、まだ誰も見向きもしなかったコンピュータの未来を信じていた。
    私は半信半疑でその話を聞きながら、同じ時代を生き、同じ風景を見ていた。
    卒業後、私たちはそれぞれ別の道を歩いた。
    連絡は少しずつ減り、やがて年賀状だけの付き合いになった。
    それでも、どこかで「また会える」と思っていた。
    人は不思議なもので、会おうと思えばいつでも会える相手ほど、会わないまま年月を重ねてしまう。
    そして、ある日突然、その機会は失われる。
    久しぶりに届いた友からの電話は、懐かしい昔話から始まった。
    京都のこと。
    喫茶店のこと。
    鴨川のこと。
    あの頃の私たちのこと。
    そして会話の終わり近くになって、友は病を告げた。
    会いに行こうと思った。
    だが、その思いは間に合わなかった。
    この物語は、その友への追悼である。
    同時に、私自身の後悔の記録でもある。
    もし、あの時こうしていたら。
    もし、もっと早く会っていたら。
    そんな問いに答えはない。
    人生は、いつも少しだけ遅い。
    だからこそ、人は思い出を抱えて生きていくのだと思う。
    鴨川は今も流れている。
    私たちが学生だった頃と変わらず、静かに、途切れることなく流れている。
    その流れのどこかに、若かった日の私たちがいる。
    笑いながら未来を語り、何者にもなっていないことを不安に思い、それでも明日を信じていた私たちがいる。
    この物語を書いたのは、忘れないためである。
    そして、会えなかった最後の時間の代わりに、もう一度だけ友と語り合うためである。
    もし読者の皆様にも、会いたいと思いながら長く会っていない友人がいるなら、この物語を閉じたあと、その人のことを少しだけ思い出していただければ幸いである。

    令和八年初夏
                           AKI

    第一章|京都に来た日

    京都に来た日のことを、私は今でもよく覚えている。
    といっても、特別な出来事があったわけではない。
    春先の曇った空で、駅前は人が多く、少し埃っぽかった。
    大きな荷物を持って歩く私に、この街はまだ無関心だった。
    大学の案内板を頼りに構内を歩き、
    どこへ行けばいいのかも分からず立ち止まっていたとき、
    後ろから声をかけられた。
    「同じ学部?」
    振り向くと、少し猫背で、
    どこか眠たそうな目をした男が立っていた。
    それが、君だった。
    君はすでに京都に来て何日か経っているようで、
    下宿の話や、安い食堂のことを教えてくれた。
    私たちはまだ名前もきちんと名乗らないまま、
    並んで学内を歩いた。
    講義が終わると、
    君は自然な調子で言った。
    「鴨川、行ってみる?」
    それが、私たちが一緒に過ごした最初の午後だった。
    川沿いには、同じように時間を持て余した学生たちが座り、
    カップルや観光客が行き交っていた。
    水は春の光を反射して、思ったよりも速く流れていた。
    私たちは石の上に腰を下ろし、
    たいした話もしなかった。
    どこの出身か、なぜこの大学を選んだか、
    そんなことを、途切れ途切れに話しただけだ。
    それでも、不思議と沈黙は重くなかった。
    「京都って、住んでみると普通やな」
    君がそう言って、少し笑った。
    その言葉に、私はなぜか安心した。
    この街で、特別な何者かにならなくてもいい。
    そう言われたような気がしたのだ。
    夕方になると、川の向こう岸が少し暗くなり、
    風が冷たくなった。
    私たちは立ち上がり、それぞれの下宿へ戻った。
    そのときはまだ知らなかった。
    この川が、
    何度も私たちの時間を映し、
    そして、君のいない世界でも流れ続けることを。

    第二章|喫茶店の午後

    大学に通い始めてしばらくすると、
    私たちは自然に、ある喫茶店に足を向けるようになった。
    河原町から少し外れた路地にある、
    古い木の扉の店だった。
    看板は色あせ、昼間でも店内は少し薄暗い。
    コーヒーの匂いと、いつも同じジャズが流れていた。
    君は、その店を気に入っていた。
    「落ち着くやろ。
     誰も急がへん感じがええ」
    そう言って、君はいつも奥の席を選んだ。
    窓際ではなく、壁に背を向ける場所。
    人の流れを避けるような席だった。
    私たちは講義をさぼって、
    午後の時間をそこで過ごした。
    ノートを開くこともあったが、
    たいていは途中で閉じてしまった。
    話す内容は、取りとめがなかった。
    授業の愚痴、下宿の寒さ、
    テレビで見たニュースの話。
    将来のことは、あまり語らなかった。
    君は、よく聞く人だった。
    私が何か話すと、
    途中で遮ることはなく、
    相づちも控えめだった。
    それでも、ちゃんと聞いていることが、
    不思議と伝わってきた。
    「それでええと思うで」
    君はよく、そう言った。
    励ますでもなく、否定するでもない。
    ただ、私の言葉を、そのまま受け取るような声だった。
    ある日、私が将来への不安を
    珍しく口にしたことがある。
    「このまま、何者にもならん気がする」
    君は少し考えてから、
    コーヒーを一口飲み、
    静かに言った。
    「無理に、ならんでもええんちゃうか」
    その言葉は、
    当時の私にはよく分からなかった。
    ただ、否定されなかったことが、
    心に残った。
    夕方になると、店内の光がさらに柔らかくなり、
    外の通りの音が遠く感じられた。
    時間だけが、ゆっくりと流れていた。
    今思えば、
    あの喫茶店の午後は、
    何かを得る時間ではなかった。
    ただ、
    失わずに済んだ時間だった。
    君の優しさは、
    声を張らず、
    前に出ることもなく、
    そうやって、静かにそこにあった。友へ ― 鴨川の向こう側

    第三章|夢の話

    あの頃、
    まだパソコンは今のように身近なものではなかった。

    大学の研究室に数台置かれた機械は、
    起動するまでに時間がかかり、
    文字だけが並ぶ画面は、どこか無愛想だった。
    それでも君は、その前に座るのを嫌がらなかった。

    「これから、絶対に来るで」

    そう言って、
    画面に打ち込まれる文字を指差した。

    プログラムという言葉も、
    まだ一般的ではなかった時代だ。
    周囲の学生が首をかしげる中で、
    君だけは、未来を当然のように語っていた。

    「人がやることを、
     少しずつ、機械が代わるんやと思う」

    語り口は穏やかだった。
    大きな夢を誇るでもなく、
    静かに、しかし確信を持っていた。

    私は隣で聞きながら、
    その熱量に、少し圧倒されていた。

    「難しそうやな」

    私がそう言うと、
    君は苦笑いをした。

    「難しいやろな。
     せやけど、できるようになる気がする」

    その言葉は、不思議と軽かった。
    根拠のない自信ではなく、
    努力を前提にした、穏やかな決意だった。

    その夜、
    私たちは例の喫茶店を出たあと、
    鴨川まで歩いた。

    夜の川は昼とは違い、
    水の音だけがはっきりと聞こえた。
    街灯に照らされた流れが、
    どこか遠い世界へ続いているように見えた。

    「就職、どうする?」

    私が聞くと、
    君は少し考え、こう言った。

    「別々になるやろな」

    その言い方には、
    寂しさも、諦めもなかった。
    ただ、時間の流れを受け入れている声だった。

    「でも、ええやん。
     それぞれの場所で、やることやったら」

    私たちは、
    同じ夢を追うわけではなかった。
    同じ会社に入る未来もなかった。

    それでも、
    同じ時代を、同じ場所で、
    同じ川を見ながら過ごした。

    卒業の日、
    キャンパスの桜はまだ咲ききっておらず、
    風が冷たかった。

    君はスーツ姿で、
    少し照れたように立っていた。

    「またな」

    それだけ言って、
    君は人の流れの中へ消えた。

    その背中を見送りながら、
    私は思った。

    あの夜、
    鴨川の向こう側に見ていた未来は、
    もう始まっているのだと。

    第四章|時間が離していくもの

    社会に出ると、
    時間の使い方が変わった。
    朝は決まった時間に家を出て、
    夜は疲れて帰る。
    一日は忙しいのに、
    どこか同じことの繰り返しのようでもあった。
    最初のうちは、
    私たちは時々連絡を取り合っていた。
    「慣れたか」
    「忙しいわ」
    それだけのやり取りだったが、
    それでも十分だった。
    君は別の会社に入り、
    相変わらずパソコンに向かう仕事をしていると聞いた。
    思っていたよりも地味で、
    思っていた以上に大変そうだった。
    「現場はな、
     思ったより人間関係や」
    電話口で、
    君はそう言って笑った。
    プログラムよりも、
    人の気持ちを読むことのほうが、
    ずっと難しい。
    君は、そんなふうに感じているようだった。
    何年か経つと、
    連絡の間隔は、自然に空いていった。
    忙しさのせいでもあったし、
    話すことがなくなったわけでもない。
    ただ、連絡を取らなくても、
    日々は進んでいった。
    年賀状だけが、
    細い糸のようにつながっていた。
    君の字は、学生時代と変わらず、
    少し丸みがあった。
    近況は短く、
    体に気をつけろ、という一言が添えられていた。
    ある年、
    私が返事を出しそびれた。
    それきり、
    やり取りは途切れた。
    気にしていなかった、
    と言えば嘘になる。
    だが、もう一度連絡するきっかけを、
    私は見つけられなかった。
    君はどこかで、
    変わらず優しく、
    淡々と仕事を続けているのだろうと、
    勝手に思っていた。
    京都で過ごした時間は、
    過去になっても、
    消えたわけではなかった。
    ただ、
    同じ場所に立って、
    同じ方向を見ることが、
    なくなっただけだった。
    それが、
    大人になるということなのだと、
    私はその頃、思い始めていた。

    第五章|昔話のあとで

    久しぶりに、君から連絡が来たのは、
    特別な日ではなかった。
    携帯に表示された名前を見て、
    一瞬、時間が戻ったような気がした。
    通話ボタンを押すまでに、
    少しだけ、間があった。
    「久しぶりやな」
    声は、
    記憶の中の君と、ほとんど変わっていなかった。
    少し落ち着いて、
    少し低くなったような気もしたが、
    それでも、すぐに分かった。
    最初は、昔話だった。
    京都の話。
    あの喫茶店のこと。
    鴨川の石の上に座っていた午後のこと。
    「まだ、あの店、あるらしいで」
    君は、懐かしそうに言った。
    まるで、
    昨日の続きを話すような口調だった。
    私は、
    あの頃の自分たちが、
    そんなに遠くへ来てしまったことを、
    そのとき初めて実感していた。
    しばらく話したあと、
    君は少し間を置いた。
    電話の向こうで、
    息を整える気配があった。
    「実はな」
    その一言で、
    空気が変わった。
    「がん、見つかってな」
    あまりにも、
    淡々とした言い方だった。
    私は、
    すぐに言葉が出なかった。
    頭の中で、
    昔の風景と、今の現実が、
    うまくつながらなかった。
    「今は、治療中や」
    君は、
    こちらを気遣うように、
    続けた。
    大丈夫だ、とも、
    大変だ、とも言わなかった。
    ただ、事実だけを、
    静かに置いた。
    私は、
    何か言おうとして、
    結局、ありきたりな言葉しか出なかった。
    「……無理、するなよ」
    君は、
    少し笑った。
    「相変わらずやな」
    その言葉に、
    胸の奥が、少しだけ緩んだ。
    電話を切ったあと、
    私はしばらく動けなかった。
    京都で、
    未来を語っていた君と、
    今、病の話をする君が、
    同じ人だということを、
    頭が受け入れるのに、
    時間がかかった。
    それでも、
    君は君だった。
    昔を懐かしみながら、
    唐突に、
    人生の重たい話を挟み込む。
    それは、
    君なりの優しさだったのかもしれない。
    心の準備をさせないことで、
    こちらが構えすぎないように。
    そんなふうに、
    今は思う。
    その夜、
    私は久しぶりに、
    鴨川の写真を見た。
    流れは変わらず、
    向こう岸も、
    ちゃんとそこにあった。
    ただ、
    同じ時間に立っていないだけで。

    第六章|間に合わなかった声

    電話を切ったあと、
    私はすぐに、会いに行こうと思った。
    思った、というより、
    そうしなければならない気がした。
    理由はなかった。
    ただ、
    今ならまだ間に合う、
    そんな錯覚のような確信があった。
    次に連絡を入れたとき、
    君は出なかった。
    少し時間を置いて、
    もう一度かけた。
    それでも、
    呼び出し音だけが続いた。
    忙しいのだろう、
    そう思おうとした。
    治療中だと言っていたし、
    体調の波もあるはずだった。
    その日のうちに、
    もう一度、電話が鳴った。
    画面に表示された名前を見て、
    私は、
    なぜか嫌な予感を打ち消そうとした。
    君ではなかった。
    聞き覚えのない声が、
    丁寧すぎる言葉で、
    状況を説明した。
    君は、
    あの電話のあと、
    急に容体が悪化したという。
    「今朝、亡くなりました」
    その一文は、
    耳に入った瞬間、
    意味を失った。
    ついさっきまで、
    昔話をしていた相手が、
    もういない。
    その事実を、
    頭は理解しようとしても、
    体が拒んでいた。
    私は、
    受話器を持ったまま、
    しばらく黙っていた。
    会おうとした。
    行こうとした。
    それだけは、
    確かだった。
    だが、
    その「少しあと」は、
    永遠に届かない場所だった。
    電話を切ったあと、
    部屋は妙に静かだった。
    外の音も、
    時計の針の音も、
    すべてが遠かった。
    私は思った。
    あのとき、
    なぜもっと早く、
    なぜすぐに、
    そう考えること自体が、
    もう意味を持たないことも、
    分かっていた。
    君は最後まで、
    優しかったのだと思う。
    懐かしい話をして、
    重たいことは後にして、
    こちらに選択の余地を残した。
    会うかどうか。
    どう受け止めるか。
    だが、
    時間は、
    こちらの準備など待ってはくれなかった。
    その夜、
    私は眠れなかった。
    目を閉じると、
    君の声だけが、
    はっきりと浮かんだ。
    「久しぶりやな」
    その声は、
    もう二度と、
    更新されることはない。

    あとがき ― 友へ

    君へ。
    この小説を書き終えても、
    後悔が消えるわけではありません。
    あの電話のあと、
    すぐに向かえばよかった。
    そう思わない日は、ありません。
    忙しさや距離を理由にして、
    私は一歩を遅らせました。
    その「少しあと」が、
    取り返しのつかない時間だったことを、
    今も受け入れきれていません。
    書くことで、
    君に会える気がしました。
    それは、
    会えなかった自分への、
    言い訳でもあります。
    君は最後まで、
    昔話を先にしてくれました。
    重たい話を後にして、
    私が構えすぎないように。
    その優しさに、
    私は応えきれなかった。
    せめて、
    忘れないことだけは、
    許してください。
    友より。

    #創作大賞2026

     
     

    あき

     
     
    68歳の私が、あなと歩むAIの世界 68歳の私が、今何ができ、業界外の人、若い人、同年代の人、上下関係なく、フラットで話せる、聞ける、教えを受ける事を目的として、人生のこれからの指針として、楽しみながらあゆんでいます よろしければ、友人になって下さい

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