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間に合わなかった言葉 

    『間に合わなかった言葉』 概略

    定年後の静かな日々を送る元技術者の男には、長年消えない後悔があった。それは出世できなかったことでも、人生の選択を誤ったことでもない。若い部下から「この仕事に意味はあるのですか」と問われたとき、答えるべき言葉を伝えられなかったことである。
    ある日、男は不思議な出来事によって過去の職場へ戻る。やり直したいのは人生そのものではなく、たった一人の相手に伝えられなかった言葉だけだった。しかし再会は叶っても、現実は再び彼の前に立ちはだかる。言葉は最後まで間に合わず、過去も未来も大きくは変わらない。
    それでも男は、自らの沈黙と向き合い、逃げ続けてきた後悔を引き受ける。これは人生の再生を描く物語ではなく、言えなかった言葉と誇りを取り戻そうとする、一人の人間の静かな物語である。

    前書(まえがき)

    この物語は、
    人生をやり直す話ではありません。
    過去に戻れたとしても、
    人は多くを変えられない。
    状況も、結果も、
    たいていはそのままです。
    それでも、
    一つだけ向き合えるものがあるとしたら、
    それは
    言えなかった言葉ではないかと思いました。
    仕事の途中で、
    用事に遮られて、
    沈黙のまま通り過ぎてしまった瞬間。
    そのとき、
    別の言葉を選べていたら、
    人生は変わっていたのか。
    ――答えは、たぶん違います。
    けれど、
    自分がどんな人間だったのかを
    引き受けることはできたかもしれない。
    この物語は、
    たった一人に謝るためだけに、
    過去へ戻った男の話です。
    再会は一度きり。
    言葉は、最後まで間に合いません。
    それでも、
    逃げずに立ち止まった時間があった、
    という事実だけが、
    彼の中に残ります。
    この物語が、
    あなたの中にある
    「間に合わなかった言葉」を
    静かに思い出させるものであれば、
    それ以上のことはありません。

    目次

    第一章 謝る相手
    第二章 戻る条件
    第三章 同じ職場
    第四章 彼
    第五章 間に合わなかった言葉
    第六章 戻った世界
    第七章 謝る場所

    第一章|謝る相手

    人生をやり直せると聞いたとき、
    私は未来を変えたいのではなく、
    過去の自分に謝りたかったのだ。
    朝の台所は、相変わらず静かだった。
    湯気の立たない電気ポット、誰にも使われない二つ目の湯呑み。
    定年から三年が過ぎ、曜日の感覚だけが曖昧に残っている。
    私は毎朝、意味もなくネクタイを締める。
    鏡の前で結び目を整え、すぐに外す。
    誰に見せるわけでもないが、そうしないと一日が始まらない気がした。
    かつて、私は技術者だった。
    出世は遅れた。
    同期が課長になった頃、私は現場に残り、
    「使いにくい」と言われる装置を一人で直していた。
    誇りがなかったわけではない。
    ただ、それを言葉にするのが下手だった。
    ――「それ、意味あるんですか?」
    若い部下にそう聞かれた日のことを、今でも鮮明に覚えている。
    昼休み、蛍光灯の下で、私は曖昧に笑っただけだった。
    本当は言うべきだったのだ。
    意味はある、と。
    誰かが最後まで責任を持つ仕事には、名前がつかなくても価値がある、と。
    だが私は黙った。
    その沈黙は、彼を失望させ、
    やがて彼は会社を辞めた。
    その後、彼がどう生きたのか、私は知らない。
    人生をやり直せると聞いたとき、
    私の頭に浮かんだのは成功でも、やり直しの恋でもなかった。
    あの蛍光灯の下で、
    私は別の言葉を選ぶべきだった。
    もし戻れるのなら、
    私は出世しなくていい。
    ただ一度だけ、胸を張って言いたい。
    「それは、誇りのある仕事だ」と。

    第二章|戻る条件

    名刺の束は、引き出しの奥で長いあいだ眠っていた。
    台所の流しの下、洗剤の買い置きの向こうに、小さな紙箱がある。
    私はそれを「いつか整理するもの」と呼び続けて、結局、整理しなかった。
    今朝はなぜか、手が勝手にそこへ伸びた。
    段ボールの角が湿気で柔らかくなっていて、蓋を開けると古い紙の匂いがした。
    インクの匂いではない。インクが消えかけた匂いだ。
    紙が年月を抱え込んだ匂い。
    名刺は、几帳面に輪ゴムでまとめられている。
    どれも、角が少し丸くなっていた。
    私の人生のどこかで、何度も触られた角だ。
    上から順に指でずらす。
    営業、設計、購買、外注先――
    会社の名前は変わり、部署の名前は変わり、
    肩書だけが、やけに大きくなっていく。
    その中に、一枚だけ、違う手触りのものがあった。
    薄い。
    紙が軽い。
    それでいて、変に硬い。
    私は、ゆっくりとそれを抜いた。
    彼の名刺だった。
    印刷が少し滲んでいる。
    会社のロゴがまだ古い頃のものだ。
    右下に小さく、携帯番号が載っている。
    当時はそれが珍しかった。
    ――この番号に、私は一度も電話しなかった。
    いまなら理由が分かる。
    忙しかったわけじゃない。
    気まずかったわけでもない。
    ただ、私は「そのうち」という言葉を信じすぎた。
    名刺の裏に、ボールペンの跡がある。
    薄い字で、何かが書かれていた。
    私は台所の蛍光灯をつけた。
    白い光が、紙の繊維を浮かび上がらせる。
    「木曜 昼 倉庫前」
    書いた覚えがない。
    でも、書いたのは間違いなく私の字だった。
    “倉庫前”という言い方に、当時の自分の癖が残っている。
    木曜。
    昼。
    倉庫前。
    言葉の並びが、胸の奥にある引き出しを乱暴に開けた。
    音もなく、記憶が飛び出してくる。
    倉庫前のコンクリートの匂い。
    フォークリフトの警告音。
    冬なのに妙に乾いた空気。
    昼休みなのに、誰も休んでいない時間。
    私は名刺を握りしめたまま、しばらく動けなかった。
    この記憶は、私が探していたものではない。
    私は“あの日”を探していた。
    蛍光灯の下の、彼の目を。
    なのに、手が勝手に別の場所を指し示している。
    ――木曜の昼、倉庫前。
    そのとき、ポットが「カチ」と音を立てた。
    湯が沸いたわけではない。
    空焚きを防ぐ安全装置が働いた音だ。
    私は昨夜、水を足すのを忘れていたらしい。
    小さな音が、部屋の静けさを割った瞬間、
    視界がほんの少し揺れた。
    めまいとは違う。
    身体がふらつくのでもない。
    足元の床が、わずかに遠のいた気がした。
    距離が変わる、あの感じ。
    エレベーターが動き出す前の、重力がひと呼吸だけ遅れる感覚。
    私は椅子の背に手をついた。
    握りしめた名刺が、掌の汗を吸った。
    蛍光灯が、一度だけ瞬きをした。
    そして――
    台所の空気が変わった。
    匂いが先に来る。
    鉄と油の匂い。
    切削液の、甘く鈍い匂い。
    それに、遠くで聞こえる規則的な音。
    カン、カン、カン、と。
    私は息を止めた。
    その音は、家の外ではありえない。
    工場の音だ。
    昼休みが終わりかける頃の、
    誰かが早めに作業に戻ったときの音。
    私はゆっくり顔を上げた。
    そこにあったのは、いつもの台所ではなかった。
    白い壁ではなく、薄汚れたグレーのパネル。
    シンクではなく、工具の置かれた作業台。
    カレンダーは西暦の数字が若い。
    時間だけが若いのではない。
    空気が若い。
    埃の粒が、まだ元気に舞っている。
    私は、自分の手元を見た。
    名刺は残っていた。
    だが、紙の端はさっきより鋭い。
    角が丸くない。
    新品に近い。
    そして――手首に巻かれた時計が違った。
    小さな傷のない、昔の安い腕時計。
    あの頃、私はこれで十分だと思っていた。
    胸の奥が、じわりと熱くなる。
    怖さではない。
    懐かしさでもない。
    これは、
    「戻れた」という喜びですらない。
    私は知っている。
    ここがどこか。
    そして、ここで誰に会えるか。
    私がやり直したいのは、人生ではない。
    たった一つの言葉だ。
    「木曜 昼 倉庫前」
    名刺の裏の三つの単語が、
    私の背中を押すように、そこにあった。
    私は、立ち上がった。
    膝が少しだけ軽い。
    身体が若いことに、今さら気づく。
    作業台の向こうから、誰かの声が聞こえた。
    雑談とも、怒鳴り声ともつかない、工場特有の声。
    私は、呼吸を整えた。
    あのとき間に合わなかった言葉を、
    今度こそ――と言いたい気持ちが、喉の奥で暴れた。
    けれど私は、それを飲み込んだ。
    言葉は、焦って出すものではない。
    間に合わなかったのは、時間だけではなく、
    私の未熟さでもあったのだから。
    私は名刺を胸ポケットに入れ、
    倉庫の方へ歩き出した。

    第三章|同じ職場

    関心はただ一つ。
    彼が、今日もここにいるかどうか。
    それ以外のことは、どうでもよかった。
    私は作業着の袖を通しながら、周囲を見ないようにしていた。
    見れば、知っている顔がいくつもあるはずだ。
    上司の声の癖も、誰が遅刻しがちだったかも、私は知っている。
    だが、それらはすべて背景だった。
    工場の朝は、いつも中途半端だ。
    完全に動き出す前の、落ち着かない静けさ。
    機械は止まっているのに、音だけが先にある。
    私は名簿を確認するふりをして、
    無意識に一つの名前を探していた。
    ――いない。
    胸の奥が、わずかに冷えた。
    たった一日の違いで、
    人は簡単に「いなくなる」。
    それを私は、もう知っている。
    通路を歩く。
    床の油染みの位置まで覚えているのに、
    今日はそれが妙に鮮明だった。
    足音が軽い。
    身体が若いせいだと、頭では分かっている。
    倉庫の前を通り過ぎたとき、
    反射的に足が止まった。
    まだだ。
    ここではない。
    昼休みの時間が近づくにつれ、
    工場の空気が少しずつ緩む。
    誰かが缶コーヒーを開ける音。
    弁当箱の蓋が擦れる音。
    私は時計を見た。
    あの頃と同じ、安い腕時計。
    針の進み方まで、覚えている気がする。
    そのとき、背後から声がした。
    「すみません、これ……」
    振り向く前に、私は分かってしまった。
    声の高さでも、言い回しでもない。
    もっと曖昧な、しかし決定的な何か。
    振り向くのが、少しだけ怖かった。
    それでも、私はゆっくりと顔を向けた。
    彼はそこにいた。
    変わっていない。
    まだ何者でもない顔をしている。
    少しだけ自信が足りず、
    それでも意味を探す目をしている。
    私を見て、軽く会釈をした。
    敬意でも、親しみでもない。
    ただの、職場の先輩に向ける礼。
    ――ああ、そうだった。
    私は彼にとって、
    「謝られるべき存在」ではなかった。
    ただの一時的な通過点だった。
    その事実が、胸に静かに刺さる。
    彼は書類を差し出した。
    私は受け取り、内容を確認するふりをした。
    文字が目に入らない。
    言葉は、いま出してはいけない。
    まだだ。
    私は知っている。
    あの質問が出る瞬間を。
    あの、昼の光の下を。
    彼が今日ここにいる。
    それだけで、十分だった。
    私は書類を返し、短く言った。
    「あとで、倉庫前で」
    彼は一瞬だけ驚いた顔をして、
    それから、うなずいた。
    「分かりました」
    その返事の軽さに、
    私は救われたような、追い詰められたような気持ちになった。
    昼まで、あと少し。
    私は何度も、
    頭の中で同じ言葉を繰り返した。
    意味はある。
    名前がなくても。
    評価されなくても。
    だが、
    本当に言うべき言葉は、それだけではない。
    時計の針が、音もなく進む。
    私は、倉庫の方角を見た。
    彼が今日もここにいる。
    それだけのために、
    私は戻ってきたのだから。

    第四章|彼

    倉庫の前は、昼になると少しだけ明るくなる。
    天井の高い窓から差し込む光が、粉塵を照らし、
    空気の中に薄い層をつくる。
    私はその光の端に立っていた。
    背中を壁に預け、腕を組む。
    この姿勢も、何度も繰り返した記憶がある。
    来る。
    来なければならない。
    そう思う一方で、
    来なければいい、とも思っていた。
    足音が聞こえた。
    急ぎすぎない、遠慮がちな歩き方。
    工場では珍しい、音の軽さ。
    彼だった。
    昼の光の中で見る彼は、
    さっきよりも少しだけ幼く見えた。
    作業帽の影が、目元に落ちている。
    「呼ばれました?」
    私は、うなずいた。
    それだけで、喉が乾いた。
    倉庫のシャッターは半分だけ開いていて、
    外の冷たい空気が、わずかに流れ込んでくる。
    フォークリフトの音は遠く、
    ここだけが時間から取り残されているようだった。
    「これの件なんですけど」
    彼は、資料を手にしたまま立っている。
    その持ち方に、迷いが出ていた。
    どこまで踏み込んでいいのか、測っている手だ。
    私は資料を受け取り、
    一枚ずつ、ゆっくりと目を通した。
    内容は、知っている。
    結果も、知っている。
    それでも、紙の上に視線を落とし続けた。
    彼の顔を見てしまえば、
    言葉が先に出てしまいそうだった。
    「……ここ」
    私は、指で一点を示した。
    「ここ、気になったか」
    彼は、少し驚いたように目を上げた。
    「はい。正直に言うと……」
    言いかけて、彼は言葉を切った。
    切る癖も、覚えている。
    怒られるかもしれないとき、
    彼は必ず一拍置く。
    私は顔を上げた。
    視線が、初めて正面からぶつかる。
    若い。
    そして、まっすぐだ。
    私は、思った。
    この人は、
    私に謝られるために生きてきたわけではない。
    「言っていい」
    そう言う声が、
    自分でも驚くほど落ち着いていた。
    彼は息を吸い、
    それから、少しだけ肩をすくめた。
    「これ、意味あるんですか」
    言葉は、
    あのときと同じ速さで、
    同じ重さで、
    空気の中に置かれた。
    私は、一瞬だけ目を閉じた。
    ここだ。
    ここが、戻ってきた理由だ。
    本当は、すぐに答えられた。
    準備は、何年も前からできていた。
    だが、私はすぐには口を開かなかった。
    彼の表情が、少しずつ変わっていく。
    期待から、不安へ。
    それから、諦めに似た色へ。
    ――待たせてしまう。
    その事実が、
    胸の奥を鈍く叩いた。
    私は目を開け、
    ゆっくりと言葉を選んだ。
    「意味がない仕事は、ない」
    それは、正しい。
    だが、それだけでは足りない。
    彼は、何も言わずに聞いている。
    目は、まだこちらを向いている。
    私は続けようとした。
    名前のない仕事の話を。
    誰かが最後まで責任を持つことの話を。
    誇りという言葉を。]
    けれど、そのとき、
    倉庫の奥で金属が落ちる音がした。
    大きな音ではない。
    ただの、日常の音だ。
    しかし、その音が、
    この時間に割り込んだ。
    彼は一瞬だけ、そちらを見る。
    注意が、現実に引き戻される。
    私は、言葉を止めた。
    ――まだだ。
    焦ってはいけない。
    この一言は、
    正しく渡さなければ意味がない。
    「……続きは、あとで」
    そう言うと、
    彼は少し戸惑った顔をした。
    「はい」
    短い返事。
    疑問は残っているが、
    深追いはしない。
    彼は一礼し、
    倉庫の中へ戻っていった。
    私は、その背中を見送った。
    あのときと同じように。
    同じ距離で。
    同じ角度で。
    違うのは、
    私が今、
    自分の沈黙の重さを知っていることだけだ。
    昼の光が、少し傾いていた。
    次に彼と向き合うとき、
    言葉はもう、逃げ場を失う。
    私は、深く息を吐いた。
    間に合うかどうかは、
    もう時間ではなく、
    私の覚悟次第だった。

    第五章|間に合わなかった言葉

    午後の作業は、なぜか長く感じられた。
    時計の針は確かに進んでいるのに、
    時間だけが私を置き去りにしている。
    機械の音が戻り、
    工場は再び「仕事の顔」を取り戻した。
    人は皆、目の前の工程に集中している。
    誰も、倉庫前で交わされた沈黙など覚えていない。
    ――彼を除いては。
    私はそれを、背中で感じていた。
    視線があるわけではない。
    だが、彼の迷いが、空気の中に残っている。
    作業台の前で、私は同じ動作を繰り返す。
    手は正確に動く。
    身体は若く、反応も早い。
    だが、胸の奥だけが追いついてこない。
    言葉は、もう決まっている。
    何を言うべきかも、
    どんな順番で話すべきかも。
    それなのに、
    言葉は、使う場を選ぶ。
    夕方が近づき、
    工場の光が少しずつ横に伸びる。
    あの時間だ。
    私は工具を置き、
    誰にも気づかれないように倉庫へ向かった。
    理由を聞かれても、答える必要はない。
    この時間帯、誰も他人の行動に興味を持たない。
    倉庫前には、まだ誰もいなかった。
    私は壁に寄り、
    午後の光が床に落ちるのを眺めた。
    粉塵が、ゆっくりと沈んでいく。
    まるで、時間そのものが形を持ったようだった。
    足音がする。
    彼だった。
    昼よりも、少し疲れた顔。
    作業帽を取り、
    無意識に額の汗を拭っている。
    「さっきの続き、ですよね」
    彼は、そう言った。
    逃げるつもりはない、という声だった。
    私はうなずいた。
    「さっきは、悪かった」
    それだけで、胸が少し軽くなる。
    謝罪は、始まりに過ぎない。
    「昼の話」
    彼は、私の顔を見ている。
    期待というより、確認に近い目だ。
    自分が聞いてよかったのか、
    その判断を、まだ委ねている。
    私は、口を開いた。
    「意味はある」
    一度、言葉を置く。
    昼よりも、短く。
    「この仕事は、目立たない。
    評価も、早くは返ってこない。
    でも――」
    そこまで言ったとき、
    倉庫の奥から、声が飛んだ。
    「おい、ちょっと来てくれ」
    別の作業者の声だ。
    急ぎではない。
    だが、無視できるほど軽くもない。
    彼が、ちらりと振り向く。
    私は、その瞬間に悟った。
    ――あのときも、こうだった。
    仕事が割り込む。
    日常が割り込む。
    人生は、いつもこの調子で
    大事な言葉の前に、用事を差し出す。
    「先、行っていい」
    私は言った。
    自分でも驚くほど、自然な声だった。
    彼は一瞬、迷った。
    それから、軽く頭を下げた。
    「すみません」
    彼は倉庫の奥へ消えていく。
    その背中は、
    昼よりも少しだけ遠い。
    私は、その場に残った。
    言葉は、途中だった。
    けれど、追いかけなかった。
    追いかけてしまえば、
    この言葉は「渡されたもの」になる。
    それは、私が望んだ形ではない。
    工場の音が、また一段大きくなる。
    終業が近い。
    私は時計を見た。
    針は、
    あの日と同じ位置を指している。
    だが、私は知っている。
    もう、二度と同じ瞬間は来ない。
    このあと彼は、
    別の部署へ移り、
    やがて、ここを去る。
    私は彼に、
    最後まで言い切ることはできない。
    それが、やり直しの現実だった。
    言葉は、
    間に合わないことがある。
    準備をしていても、
    覚悟があっても。
    私は、倉庫の前で、
    静かに息を吐いた。
    あの言葉は、
    彼の人生には、届かない。
    だが――
    ここで逃げたまま終わらせるほど、
    私はもう、若くはなかった。
    私は、
    「間に合わなかった」という事実を、
    引き受ける準備を始めていた。

    第六章|戻った世界

    目を開けたとき、
    天井は低く、白かった。
    見慣れた台所だった。
    換気扇の音が、一定の速さで回っている。
    夕方の光が、窓の縁に細く残っていた。
    私は、椅子に座っていた。
    立ち上がった記憶はない。
    名刺は、まだ手の中にあった。
    紙は、再び柔らかくなっている。
    角は丸く、
    時間を経たものの手触りに戻っていた。
    腕時計を見る。
    若い頃のものではない。
    ガラスに小さな傷のある、今の時計だ。
    戻ったのだ、と
    私は静かに理解した。
    胸の奥に、劇的な変化はない。
    後悔が消えたわけでも、
    救われた気持ちが湧いたわけでもない。
    ただ、
    何かが終わったという感覚だけがあった。
    ポットに水を足し、
    スイッチを入れる。
    今度は、正しく湯が沸く音がした。
    私は湯呑みに湯を注ぎ、
    湯気を見つめた。
    彼はどうなったのだろう。
    この世界で、彼はどんな人生を歩んだのか。
    考えかけて、やめた。
    私は知る資格がない。
    知る必要もない。
    謝罪とは、
    結果を確認する行為ではない。
    それを、私はようやく理解した。
    私は言えなかった。
    あの倉庫前で、
    最後まで言葉を渡すことはできなかった。
    だが、
    私は逃げなかった。
    あの瞬間、
    仕事を理由に沈黙するという
    いつもの選択を、私はしなかった。
    「先に行っていい」
    あの言葉は、
    彼のためのもののようでいて、
    実は私自身のための言葉だった。
    誇りとは、
    評価されることではない。
    成功の肩書きでもない。
    言うべきときに、
    言う覚悟を持とうとしたこと。
    それだけで、
    人は少しだけ、
    自分を許せるようになる。
    私は湯呑みを口に運び、
    少し熱すぎる湯に、
    思わず息を吸った。
    生きている、と思った。
    彼の人生は、変わっていないかもしれない。
    私の人生も、何一つ変わっていない。
    それでいい。
    やり直しは、
    人生のためにあるのではなかった。
    確かめるためにあったのだ。
    私は、名刺を静かに折りたたみ、
    机の引き出しに戻した。
    今度は、
    「いつか」ではなく、
    ここに置くと決めて。
    外が、少し暗くなっていた。
    私は立ち上がり、
    電気をつけた。
    部屋は、変わらず静かだった。
    だが、
    沈黙の質だけが、
    以前とは違っていた。
    第七章|謝る場所
    夜は、特別な顔をしていなかった。
    いつもの住宅街、いつもの街灯。
    風のない、ただ静かな夜だった。
    私は机に向かい、
    引き出しから白い封筒を取り出した。
    使い道のなかったものだ。
    宛名を書く予定も、送る予定もない。
    便箋に、万年筆を走らせる。
    インクの出が少し重い。
    力を入れすぎる癖は、
    若い頃から変わらない。
    最初の一行で、手が止まった。
    ――誰に宛てるのか。
    彼の名前を書くことはできた。
    だが、それは正しくない気がした。
    この手紙は、彼に届かない。
    届かせるためのものでもない。
    私は、深く息を吸った。
    そして、名前を書かなかった。
    代わりに、
    ただ一行、書いた。
    「あなたへ」
    それで十分だった。
    言葉は、思ったよりも簡単に出てきた。
    整っていなくていい。
    美しくなくていい。
    あの日、
    倉庫前で言えなかったことを、
    そのまま書けばいい。
    ――意味はある。
    ――名前がなくても。
    ――評価されなくても。
    そこまでは、書けた。
    だが、
    本当に書くべき言葉は、
    その先にあった。
    私は、ペンを持ち直した。
    ――あのとき、黙ってしまって、すまなかった。
    ――あなたの迷いを、
    ――仕事の都合で片づけてしまって、すまなかった。
    文字が、少しだけ震れた。
    それでも、止めなかった。
    ――あなたにとって、
    ――私は大した存在ではなかっただろう。
    ――それでも、
    ――あの沈黙は、私の誇りを欠いた。
    書き終えたとき、
    胸の奥に、重たいものは残っていなかった。
    軽くなったわけでもない。
    ただ、
    置くべき場所に、言葉が置かれた
    そんな感覚だった。
    私は便箋を折り、
    封筒に入れた。
    封は、しない。
    誰にも渡さない手紙は、
    閉じる必要がない。
    立ち上がり、
    窓を開ける。
    夜の空気が、静かに入ってきた。
    冷たすぎず、
    遠慮のない温度。
    私は、声に出した。
    小さく、
    しかしはっきりと。
    「すまなかった」
    聞いている者はいない。
    それでいい。
    謝罪とは、
    誰かに許されるための行為ではない。
    自分が逃げなかったと、
    自分に言えるようになるためのものだ。
    私は窓を閉め、
    電気を消した。
    暗闇の中で、
    部屋は以前よりも広く感じられた。
    人生は、やり直せない。
    その事実は、
    最後まで変わらなかった。
    だが、
    やり直せなかった言葉と、
    正面から向き合うことはできた。
    それだけで、
    十分だった。
    私は布団に入り、
    目を閉じた。
    あの倉庫前の光は、
    もう浮かんでこない。
    代わりに、
    静かな夜が、
    そこにあった。

    ——終——

    後書き

    この物語を書き終えたとき、
    私は「やり直し」について、少し違う考えを持つようになりました。
    人生をやり直したい、という願いは、
    失敗を消したい気持ちから生まれることが多い。
    けれど本当は、
    消したいのは出来事ではなく、
    そのとき黙ってしまった自分自身なのではないか

    ――そんな気がしています。
    この物語の主人公は、
    成功しなかった人間です。
    評価される立場にも、
    語られる経歴にも、立っていません。
    それでも彼には、
    どうしても謝りたい相手が一人だけいました。
    謝罪は、相手の人生を救う魔法ではありません。
    言葉が間に合わなかったことで、
    誰かの進む道が変わってしまうこともある。
    それでもなお、
    言えなかった言葉と向き合うことは、
    自分がどんな人間だったのかを
    正直に引き受ける行為なのだと思います。
    誇りとは、
    結果でも肩書きでもなく、
    逃げずに引き受けた沈黙の重さに
    宿るものなのかもしれません。
    もしこの物語が、
    あなたの胸の中にある
    「間に合わなかった言葉」を
    そっと思い出させたのなら、
    それだけで、この物語は役目を果たしたのだと思います。
    言葉は、
    ときに相手には届かなくても、
    自分の中で、
    人生の位置を変えることがあります。
    この物語が、
    あなた自身に向けて言う
    一言のきっかけになれば、
    それ以上のことはありません。

    ――了


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    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     

    あき

     
     
    68歳の私が、あなと歩むAIの世界 68歳の私が、今何ができ、業界外の人、若い人、同年代の人、上下関係なく、フラットで話せる、聞ける、教えを受ける事を目的として、人生のこれからの指針として、楽しみながらあゆんでいます よろしければ、友人になって下さい

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