
まだ大丈夫だと思っていた。 第1話 止まった会話
「お疲れ様です」
医務室に入った瞬間、主任と誰かが話していた声が止まった。
本当に止まったのか、それとも私がそう感じただけなのかは分からない。
けれど、さっきまで確かにあった声の流れが、私が扉を開けた瞬間だけ、ぷつんと切れた気がした。
私は反射的に、自分の名札が曲がっていないか確認した。
白衣の袖を少し引っ張る。
髪は乱れていないだろうか。
表情は暗く見えていないだろうか。
入ってきたタイミングが悪かっただけかもしれない。
そう思おうとした。
主任がこちらを見て、短く言った。
「お疲れ」
それだけだった。
いつもと同じ声。怒っているわけでもない。機嫌が悪いとも言えない。
でも私は、その短い一言の裏側ばかり考えてしまう。
……何か言われていたのだろうか。
私のことだったのだろうか。
いや、そんなはずはない。
気のせい。
私は何も考えないようにしながら、ロッカーに荷物を入れた。
介護施設「みなせ園」で働き始めて、もう五年になる。
最初は、ここなら頑張れると思った。
病院よりも時間の流れがゆっくりしているし、利用者さんとも長く関われる。
急変や処置に追われる病棟よりも、決まった流れのある仕事の方が、自分には合っていると思っていた。
次に何をすればいいのか分かると、少しだけ安心できる。
朝のバイタル。
内服確認。
食前薬。
食後の状態観察。
記録。
決まった順番で仕事が進んでいくことは、私にとって救いだった。
逆に、何を話せばいいのか分からない場所は苦手だった。
私は小さい頃から、人と話すのが得意ではなかった。
母親以外と、何を話せばいいのか分からない。
誰かに話しかけられると、頭の中が真っ白になる。
笑えばいいのか。
謝ればいいのか。
黙っていた方がいいのか。
考えているうちに、周りの音だけが遠くなることがあった。
相手はまだ話している。
口も動いている。
でも私は、次に何を返せばいいのか分からなくなっていた。
だから私は、できるだけ迷惑をかけないようにしてきた。
空気を読む。
怒らせない。
目立たない。
気づけば、そればかり考えるようになっていた。
「咲良さん、今日夜勤お願いします」
主任の声で、私は我に返った。
「あ、はい」
返事をした瞬間、喉が少し詰まった。
主任は特に何も言わなかった。
けれど、その横顔を見るだけで、胸の奥がざわつく。
また何か失敗しただろうか。
嫌われているのかもしれない。
そんな考えが、勝手に頭の中を回り始める。
夜勤は二人体制だった。
もう一人の介護士が巡視に行っている間、私は医務室で記録をまとめていた。
廊下は静かだった。
昼間はテレビの音や話し声で満ちている施設も、夜になるとまるで別の場所になる。
天井の蛍光灯は少しだけ暗く、床は薄く光っていた。
時々、どこかの部屋でコール音が鳴る。
そのたびに、静まり返った空気が小さく揺れた。
遠くで、利用者さんの咳が聞こえる。
時計を見る。
深夜二時十分。
廊下には、排泄介助のあと特有の匂いと、薄い消毒液の匂いが混ざって残っていた。
私は無意識に呼吸を浅くする。
一番眠気が強くなる時間だった。
ぬるくなったコーヒーを飲みながら、記録画面を開く。
田辺さんの夜間の様子。
水分量。
眠前薬の確認。
トイレ誘導。
私は一つずつ入力していった。
保存ボタンを押した。
押した、はずだった。
その時だった。
入力したはずの文章が、消えていた。
画面には何も残っていない。
白い記録欄の中で、カーソルだけが点滅している。
私はしばらく、その点滅を見ていた。
さっき確かに入力した。
利用者の状態も、夜間の様子も、水分量も、全部書いた。
なのに、何もない。
……消した?
いや、そんなはずはない。
私がどこか押し間違えたのだろうか。
保存できていなかっただけだろうか。
指先が少し冷たくなる。
その時、背後で小さく椅子が軋んだ。
私は振り返った。
誰もいない。
医務室の椅子は、机の下にきちんと収まっている。
窓も閉まっている。
ただ、さっきまで誰かがそこに立っていたような気配だけが、薄く残っていた。
私はもう一度、画面を見た。
カーソルはまだ、同じ場所で点滅していた。
第2話こちら⇒https://note.com/legal_phlox9134/n/n70aa11943621?magazine_key=mdf8f3ff07cd3
#創作大賞2026 #ミステリー小説部門