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【小説】先生、代わります

    あらすじ
    二十年間勤めた小学校を退職した神森祥子は、激務に悩む教師を支えるため、業務代行サービス「kawarima-s」を立ち上げる。最初の依頼は、理不尽なクレーム対応で謝罪を求められた若手教師に代わり、保護者と向き合うことだった。元教師としての経験を武器に、神森祥子は校長や教育委員会、保護者との対話を重ねながら、教師が子どもたちと向き合える時間を取り戻そうと奔走する。その姿は少しずつ周囲の教師たちの心を動かし、現場に新たな変化を生み出していく。孤立する教師たちに寄り添い、教育現場に新たな選択肢を示していく。そして、「kawarima-s」の本当の意味とは。学校現場の葛藤と希望を描いたお仕事小説。

    時計を見ると17時を過ぎている。まだ続く職員会議。
    「17時を過ぎていますが、このまま続けます。どうしても帰らないといけない先生は帰ってください。」

    帰れるわけがない。山積みになった仕事がまだたくさん残っている。帰る人など、一人もいない。

    「生徒指導報告のある先生方は明日までに報告書を書いてください。不登校児童の今月の様子、出席簿、長期欠席理由、週案は今日までとなっています。児童学校アンケートと、いじめアンケート、そして聞き取りまで、明日中に行うようお願いします。えー、あとは、児童のiPadの中身の確認、整理も今週中にお願いします。えー、まだあったな。何だったかな。とりあえず、随時、前の連絡ボードに書いておきますので、確認をお願いします。」
    途中からもうついていけない。ため息が出た。

    「皆さん、今日こそ早く帰りましょう。レッツ、働き方改革!これで職員会議を終わります!」
    教頭先生はとても良い人だからこそ、空気を読むのをやめたように思う。

    「今から来週の図工の教材を分けましょう。その後、算数は新しい単元だから、押さえなければいけないポイントの確認をしましょうか。後は来週分の宿題プリントを刷らないと。」
    2時間を超える会議が終わった後すぐに、学年主任の満島 花苗(みつしま かなえ)からの指示が入る。

    ドリンクを一口飲んで、先に図工の教材を分けに行った主任の背中を追って職員室を出た。後ろから1年目の大卒ピカピカ新任の高田 塔矢(たかだ とうや)もついて来た。

    「僕は今日も21時は超えます。丸つけもまだなんです。
    教頭先生が言われた締切のものも、全く手付かずなので。」
    下を向きながら、私の横に並び、早口でそう私に訴える。

    「図工の教材は分けておくから、何かできることを先にやっておいたら良いよ。私のデータで使えるものがあったら気にせずコピペして良いからね。丸つけはひとまず置いておこうか。明日にすぐ返さなくても良いと思う。」
    私も早口で彼に答えた。

    「いつも思うんですけど、子どもたちに早く返してあげたいプリントの丸つけの優先順位が低いですよね。テストとかすぐ返してあげたいのに。何のためかわからない提出書類がこんなに多いのはなぜですか?教育現場のどこに生かされているんですか?」

    みんなが思っていること、思っていても仕方ないと思っていること、それを簡単に口にしてしまえる高田 塔矢は、まだまだ汚れていない。何に生かされているかわからないどころか、誰が見ているのかさえわからないものもたくさんある。

    「何かあった時に、自分を守るため」

    アンケート類もそう、何かあった時の言い訳材料をたくさん増やす作業が多すぎる。何かあった時は容赦なく晒されてしまうのが公務員の宿命であるから仕方ないと私はまだ割り切れる。でも、こんなことは新任には言えない。早く自分で気づいて、一刻も早く絶望に慣れてほしい。

    「誰の何のための学校か、わからなくなるよね。子どもたちのために労力も時間も、もっと使いたいよね。もうここからはやっておくから。大丈夫。行って。」

    高田 塔矢は職員室の方へ身体を向けたが、すぐまた私の方を振り向いた。
    「うちのクラスの山川さん、跳び箱の着地の時に足を捻って、保健室で処置の後、普通に過ごしてるのですが、山川さんの保護者に電話、入れた方が良いですよね。」
    「うん!入れておいた方が良いね。お忙しい時間帯に電話をしてしまったことと、連絡が遅くなったことを、最初に申し訳ありませんと伝えたら大丈夫!」

    高田 塔矢は再び小走りで職員室へ走って行った。山川さんの保護者なら、この時間でも許してくれる。むしろ、
    「うちの子ピンピンしているから大丈夫!先生、早く帰ってください。」
    くらいの言葉があるだろう。しかし、これが小林さんの保護者だったら最悪だ。1時間以上、対応について問い詰められ、高田 塔矢はそもそも職員会議に出れていないはずである。

    子ども一人一人平等だ、とか言いながら、保護者によって対応を変えるのは正直、事実である。
    クレームの多い保護者の子どもの対応は、丁寧に細やかに常に気を配り、気を遣う。しかし、その子自身を1年間、愛しきれないのも事実だ。小林さんを可愛いと思いきれない原因の半分以上は保護者である。

    子どもの合う合わないの裏に、どうしても保護者との相性を重ねてしまう。よくないことだと思いながら、教師も人間だからと開き直ってきた。

    そんなことを考えながら、私は図工の教材を分けた。

    全ての仕事を終えて、満島 花苗と職員室に戻ると19時を回っていた。
    そして、一息つく暇もなく、今日、まだ出来ていない締切の書類を作成する。先週に途中までやっていたのだが、急に打ち合わせが入り、それっきり放置のままだった。計画してやれば良いのだが、やることが次から次に沸いて、忘れてしまったり計画すらできなかったりする。事務処理能力が無いと言われればそうかもしれない。

    20時を回った。明日の授業のことなど、何も用意ができていない。家で教科書を見ようと鞄に入れようとした。でも、多分、見ない。疲れて寝てしまう。教科書を机に置き直した。でも、もしかして、早起きしたら朝に見れるかもしれないと淡い希望を抱いて、鞄にまたすぐ入れ直した。見れた試しなどないのに、すぐに希望を抱いてしまう。

    「残業代は出ないですしね。明日の授業の準備がしたかったな。今からじゃもう無理ですよね。家に帰ったら、風呂に入るのが精一杯で。」
    高田 塔矢から絶望が滲み出る。早く絶望に慣れてほしいと思ってしまったことを後悔した。高田 塔矢と目が合うと、高田 塔矢は私から視線を外さなかった。
    「また、明日の授業は5分休みに教科書を開いて、単元を確認して、淡々と工夫もなく授業をやるだけです。」
    私に訴えるかのように話したが、私に言っても仕方ないことを理解したのか、私から視線を外した。
    「大学生の時の方がよっぽど教科書と向き合ってましたよ。僕は一体、何の仕事をしてこんな時間になっているのかわからないです。お先です。」
    私は精一杯の「お疲れ様。」を口から出した。

    ゆっくり職員室から帰る高田 塔矢は、次の日、来なかった。朝から高田 塔矢に向けて電話が鳴る。小林さんの保護者からだ。昨日の放課後、友達に蹴られたから話を聞いてほしいという内容であった。

    「放課後は業務外です。」

    そんなことを言えたら良いのだけれど、今の学校現場では無理だ。休み時間に満島 花苗と私で話を聞いた。子どもたちはいたって普通であり、謝罪も済ませ小林さん本人は許しているということだった。怒っているのは小林さんの保護者だけで、学校に対しても怒っている口調であった。

    放課後、蹴った方の保護者へ電話をし、小林さんの保護者に謝罪をすると自ら申し出て下さったので、今回は丸く収まった。

    「親だと心配になりますもんね。わかります。ご心配おかけしました。申し訳ありません。」
    と、こちらが謝罪し終わる。教師が悪いのか?そんな疑問を抱えながらも、心を殺して謝ることでしか、この場は収まらない。

    そして、次の日も高田 塔矢は来ることは無かった。それからもうずっと、彼はこなかった。決して、学級が荒れた訳ではない。子ども達は彼が大好きだった。

    先生を辞めてしまった高田 塔矢から1ヶ月後にメールが届いた。急に辞めてしまったことへの謝罪と、辞めた理由が書かれていた。

    「子どもたちのために時間を使えず、よくわからない、誰が見ているかもわからない報告書や雑務に時間を取られ、自分が蝕まれていく気がしました。会議中は疲れてほとんど寝ていました。研修も頭がいっぱいでしんどかった。僕が悪いのか?と悩んでしまうような一部の保護者の要望や言い方にも疲れてしまいました。一部なんですけど、僕の精神を破壊してくる威力がすごくて。先生達に悩みを相談したかったけれど、みんな忙しそうでピリピリしていて、声をかける気にもなれなかったです。経験を重ねても余裕なんてないんだなって思ってしまいました。」

    とても、よくわかる理由だ。私は高田 塔矢への返信を3時間かけた。打っては消し、打っては消しの繰り返しで、結局、送信したのはたったの一文だけだった。
    「先生が今、元気なら良かったです。」

    高田 塔矢が来なくなった日の前日、私は21時を回ってしまい、その日、娘に電話をしていた。

    「ごめんね。ケーキ買って帰る約束したのに。必ず土曜日、お誕生日のお祝いするからね。」

    その年度の3月末。私も退職をした。



    「業務代行サービス kawarima-s」

    担任をすることは好きだった。どうしてあげたら良いか、結局1年間わからず終えた子もいたけれど、それも含めて、楽しかった。保護者からあり得ないクレームを受けたこともある。それにはかなり気持ちがやられてしまったけれど、同僚達が味方でいてくれたから、落ち込み続けることはなかった。ただ、たくさんの業務の中、頭の中がいっぱいで、やるべきことをやれていなかったことが原因でのクレームは、本当に悔しかった。
    「先生は大変」
    世間もそう認識してはいるけれど、きっと何が大変かはわかってはいない。私たちだってわからない。ただただ、言われるがままに、しなければいけない業務、参加しなければいけない会議や研修。それが誰の何のためのものなのかわからないこともあり、それに時間を費やされる虚しさが、忙しいと思う気持ちを加速させるのである。

    第二の人生は我が子との時間を作る。それが最優先である。しかし、社会に出たい。貢献したい。家族以外の誰かのためにも自分が役立つ存在でいたい。その気持ちは強かった。

    誰の何のために自分は働きたいかを考えると、学校現場を助けたいという気持ちと考え以上のものは無かった。子どもたちが伸び伸びできるよう、先生たちを伸び伸びさせてあげたい。

    そして、自分の力で稼いでいきたいと強く思った。年齢があがるだけで昇給するのではなく、自分の努力と結果が対価に繋がる世界に飛び込んでみたかった。

    「人手不足」の言葉が飛び交う現場に、今必要なのは「使える人」である。現場を知っている人間が学校を助ける仕事があれば助かるのではないか。

    昨今の非常勤講師は、業務時間外で聞かされた業務と違うことをさせられている。常勤講師は正規職員より責任を負わされている場合があるにも関わらず、教員採用試験で不合格になるケースが多い。
    ここ数年、教員採用試験の為に勉強し、面接練習バッチリの爽やかな新卒を採用し絶望させることを繰り返しているように思う。

    人手不足の今、人件費は余っているのではないだろうか。そこからお金を貰って学校現場を助けるサービス会社は需要があるのではないだろうか。うっすら頭をよぎる。

    不審者対策で部外者を簡単には入れない鎖国化した学校現場に何とも怪しいサービス会社の人間を入れるのは困難だろう。しかし、学校現場に需要のあるこのサービスは、子どもや保護者にも需要があるはずだ。疲れて機能していない担任を少しでも休ませて、その間に業務を代行することは、プラスでしかないように思う。

    熱い気持ちが冷めないうちに、私は「業務代行サービスkawarima-s」を立ち上げた。社員は私1人。無理かどうかはわからない。やってみなければわからないという根性論だけを支えに、私は教育委員会に足を運ばせる。

    「非常勤講師ということですか?」「いえ、違います。」

    何回も繰り返される質疑応答。人事課の偉い方とずっと話をしている。

    「早い話がタイミーのようなものです。」
    「タイミー?」

    私は何度も説明をし、名刺だけを渡してその日は帰った。

    私は新卒から20年間、教育現場で働いてきた。教師を辞めて間もない記憶の新しいうちにこの事業を成功させたかった。私が若手の頃に可愛がって下さった校長先生のところに出向いたり、教育委員会に行ったり教頭になった同期に話をしに、交渉できるところに毎日、出向いた。しかし、暇な日は続いた。そんな日は娘や夫の為に時間を費やそうと、家を片付け、少し手の込んだ料理をするようにした。

    そろそろまた交渉しに行こうかなと思いながらの洗濯物を干し終わり、買い物へ行こうとしたその時、仕事用に買ってから、ただの置き物になっていたスマホが鳴った。知らない番号だった。

    「はい。業務代行サービスkawarima-s 代表、神森 祥子(かみもり しょうこ)です。」



    「常田 舞の依頼」

    依頼者は、常田 舞(ときだ まい)27歳だった。
    「教頭先生が歓迎会の時、酔っ払って、神森さんの名刺をみんなに見せていたんです。そして、酔っ払って落としていたので、そのまま貰いました。」

    その教頭は私の同期である。仲は良かったが、得体の知れない仕事を立ち上げる私を少し奇妙に思ったか、バカにしたかのどちらかであることは否めない。

    常田 舞は店員を呼び、コーヒーを2つ頼んでくれた。カラフルでオシャレな壁の前に座る彼女は「小学校教師」には見えない。もっと華やかな世界で活躍していそうな、女性が憧れる女性といった佇まいをしている。

    「常田さん個人の依頼ということですか?」
    「はい。お金は自分で払います。校長先生にも私からお願いします。だから助けてほしいです。」
    「ご依頼内容は?」
    「なぜ私が謝らなくてはいけないのかわからないことで、謝らなくてはならなくなりました。意味がわかりません。謝りたくないので、代わりに謝ってください。」

    初めての依頼は慎重に、そして成功したいと思っている。ポケットマネーで払うくらいだから相当、嫌なのだろう。しかし、意にそぐわない謝罪など、教師でなくてもそこらじゅうに落ちている。私が同僚なら、謝ってしまえば済む話なら謝るように説得するだろう。

    「こちらが私の方からの守秘義務誓約書です。どのような内容で謝罪が必要になったのでしょうか。経緯と内容を教えてください。常田さんの方にも守秘義務がありますので、児童の個人情報はいりません。児童Aといった形でお願いします。もし常田さんが口を滑らせて話をしてしまわれても、こちらは守秘義務を徹底いたしますので、ご安心ください。」

    私が常田 舞に向かって話している間、常田 舞は私から目を逸らすことは無かった。そして、常田 舞は少し微笑んで私に話した。

    「神森さん、教師20年間やってこられたんですよね?」
    「はい。」
    「私はあなたたちの年代、それから、そのもっと上の年代の先生たちに腹が立っているのです。」
    常田 舞は、クルンと長く巻くまつ毛で私を刺しそうな勢いでこちらを見ている。

    「なぜこんなにも教師の仕事をサービス業化、いえ、ボランティア化したのか。放課後も休みの日も、担任している子どもたちのことを考え、時間や労力を惜しまず、ずっと仕事に没頭している教師が熱く良い先生だという価値観。それを作り上げた人たちの1人ですよね?」

    常田 舞の愚痴は止まらなかった。

    「私は8時半〜17時までは、しっかり仕事をします。子どもたちのことを考え、するべき業務もやります。でも、17時を過ぎたらそれは残業ですよね。残業代は出して貰えません。1円も出ないんです。」
    教師なら誰もが思っていることだ。でも、でないものとして理解している。そして、でないものと諦めた方が楽であることも知っている。若い頃は残業という概念がそもそも私には無く、何時まででも働いた。大きく頷く私に常田 舞はさらに畳み掛ける。
    「休憩時間という架空の時間が現場にある様ですが、もちろん休憩なんてしたことありません。架空なので。」
    私はそういえば、休憩時間という名前だけのものがあったなぁと懐かしくさえ思えた。休憩している教師なんていただろうか。タバコ休憩をしている教師はいたなと、数名の教師の顔を浮かべた。
    常田 舞は熱いコーヒーにイラついたのか、息を雑に2回、吹きかけ、一口飲んだ。その後も話は続いた。

    「授業をすることが仕事なのに、平日は教科書を開く時間が無いんです。古い教師たちは言います。休日に教材研究をするのだそうです。月に残業時間が80時間を超えることだってあったんです。休日に身体を休めるだけで精一杯です。」
    常田 舞は勢いよく話すので、目に長いまつ毛が刺さったのか、指でまつ毛をつまんで目から遠ざけている。目をパチパチさせながら話を続けた。
    「残業時間が多くて過労死された教員のニュース。報道される残業時間を見て、教員の誰も驚かないですよね。残業時間だけ更新されて、教師力は全く更新されない。むしろ疲弊して退化ですよ。」
    常田 舞はコーヒーを一口飲んで、背もたれに背中を預けた。また私にまつ毛を刺そうとしている目つきだ。
    「自己管理ができていない。って言う同僚がいました。過労死する方が悪いって。」
    常田 舞は、怒りを超えた面白さを滲ませるかのように笑った。

    常田舞の言う通りである。彼女の話は間違ってはいない。むしろ、私たちが「美徳」として飲み込んできた無理のツケを、今の若い世代に払わせているのだという罪悪感すら覚えた。
    常田舞の愚痴に出てくる「教師」は、少なからず私は良い教師だと教えられてきた1人である。私の若い頃は、教師の仕事に没頭し、生活全てが「教師」だった。それが当たり前だと先輩に教わってきた。
    常田舞はそれを、上の世代が作り上げた悪しき文化だと言っている。彼女の言葉は、昨今の私や、あの時去っていった高田 塔矢が飲み込んできた悲鳴そのものだった。

    常田舞の愚痴は40分続いた。ようやく本題に入る頃、2杯目のコーヒーを頼んでいた。

    「放課後の公園でのトラブルを私に丸投げしてきた保護者がいます。しかも、スマホで写真を撮っただの撮ってないだの。その電話を受けたのが16時半。ずっと話をされて17時近くになったから、電話を終わらせようとしたんです。そしたら、担任として、心配にならないのかと言われて、そこから、普段からの私の対応が冷たいという話になり怒鳴られ続けられました。」

    放課後のトラブル問題。学校管轄外であることをどうやれば広まるのかを現役の時もやめてからもずっと考えていた。

    万引きですら、もう学校に連絡が来ることは無いのだ。警察も直接、家庭に連絡する。
    しかし律儀に家庭の方から学校に連絡をしてくる保護者もいる。
    「うちの子、万引きをしてしまいました。先生からも指導してほしい。私が連絡したことは言わないでください。」

    大体そういう親は一緒に実行した友だちの名前も伝えてくる。うちの子だけではない、友達関係が悪いのではないか、あわよくば担任に友達関係を変えてほしい、というような意味を含む場合も多い。それを聞いた担任は、次の日、万引きの現場にいた子ども達を集めて、軽く指導をする。

    そして、今度は放課後に万引きを知られたくなかった別の保護者から連絡があるのだ。
    「今日、先生から指導があったらしいのですが、警察は学校は関係ないと言っていました。何で知っているんですか?誰が言ったんですか?」

    そして、教師はやんわり濁すのだ。
    「子どもたちの会話から気づきまして。」

    自身の経験を思い出しながら、常田 舞が頼んでくれた2杯目のコーヒーを一口啜った。喉が少しやけどをしそうだった。

    「保護者の方は、公園でのスマホトラブルがあったことを、とても心配しておられる。常田さんに解決してほしいと。しかし、常田さんは、学校管轄外の出来事であるため、拒否をするような形の内容を話し、17時に電話を切ろうとした。間違いありませんか?」

    「すごい。私の今までのストレスを10秒で言い換えるんですね。」

    皮肉たっぷりの褒め言葉を無視して、依頼の話しをまとめていった。私はPCを取り出し、文字を打ち出した。ファイルにタイトルを入れた。
    「中野山小学校 5年生担任 常田 舞 様 謝罪代行について」

    「保護者の方が常田さんに1番、謝ってほしいことは何だと思われますか?」

    常田舞は少し鼻で笑った様子を見せた。
    「さぁ。私が担任になったことじゃないですか?」

    私はそのままPCに打ち込んだ。

    「では、明日、私の方から常田さんの学校の校長先生に電話をします。」
    「校長先生は、若手に対して、教員はサラリーマン化してはいけないって、17時を過ぎても話すような人です。」
    常田 舞は眉間に皺を寄せ、大げさに校長への嫌悪感を表した。
    「若手は、やることが溢れている状態でそれをずっと聞かされているんです。校長先生は話した後、気分よくなって帰っていますが、若手はそれ以降も残って、丸つけだの何だのしていましたから。ハラスメントです。」
    私の若い頃にもよくあった現状である。しかし、ハラスメントも働き方改革も無かった当時は、ありがたい話として聞いていたし、その後の残業も当たり前のようにしていた。早く帰ることに、周りの先生や、次の日への罪悪感さえあった。

    あの時代はSNSも無く、目にみえる物だけが現実として映っていた。出会う人も目の前の人だけが知り合いだった。遠くの見えない物や人は無いも同然で、目の前のことを充実させようと、みんな必死だったのではないかと思う。
    今は違う。世界が広がった。知らない世界を簡単に知ることができる。だから、自分の置かれた環境に違和感を持ちやすくなったのかもしれない。

    「校長は、家庭訪問をして、保護者の顔を見ながら、トラブルの話を真摯に聞いて、自分の対応の甘さを謝罪すれば大丈夫だって言うんです。」
    常田 舞は依頼内容より管理職の対応にイラ立っているのかも知れない。常田 舞の目つきがさらに鋭くなる。
    「大丈夫って、何が?価値観が古い。老害。」
    独り言のように言葉を吐き捨てる常田 舞に私は冷静を保とうとした。

    「わかりました。では、また常田さんにご連絡をいたします。」
    「はい。ありがとうございます。」
    私が立ちあがろうとした時、常田舞は手招きながら私を呼んだ。

    「神森さん。何で先生をやめたんですか?」

    常田舞は「好きな人誰?」と聞くような表情で無邪気に聞いてくる。
    「この仕事が終わって、お支払いいただく時にお話しいたします。」

    私は「秘密。」と返すように返事をした。



    「市立 中野山小学校」


    〜市立 中野山小学校〜
    頑丈に閉められた門に付いているインターホンを鳴らした。
    「はい。どちら様でしょうか。」
    「昨日、お電話いたしました、代行サービスの神森と申します。校長先生とお会いさせていただくことになっております。」
    「少々お待ちください。」

    5分後、門を開けに男性が走ってきた。忙しい最中に門を開けに来たのだろう。迷惑が顔に出ていた。
    「お忙しい中、申し訳ありません。」
    「いえ、どうぞ。」

    私が門の中へ入った瞬間に、重たい門を力いっぱいに閉めた男性は、足早に校舎に歩き出した。私は後ろから付いていく。

    「お忙しい中、申し訳ありません。」
    私はもう一度、後ろから声をかけた。

    「いえ。教務主任の田嶋 学(たじま まなぶ)と申します。現在、2学級、担任が休んでいましてね。そこに担任代行で入っているもので、教務の仕事が全くできなくて。まぁ、教務と担任の二刀流、中野山小学校の大谷翔平という感じですね。」

    厳しい状況を冗談混じりで言える田嶋 学は、悪い人ではなさそうだと、安心し、私は笑った。

    職員室の奥にある校長室のドアの前に案内され、田嶋は走って、担任代行をしているであろう教室へ向かって行った。そんな忙しい田嶋になぜ門を開けさせるのだろうと思ったが、職員室には人がほとんどいない。電話担当の事務だけがいた。事務は顔を上げることは無かった。

    「校長の源 三治(みなもと さんじ)と申します。」
    私がドアをノックする前に、校長がドアを開けて挨拶をした。

    「お忙しい中、ありがとうございます。業務代行サービスkawarima-s 代表、神森 祥子と申します。よろしくお願いします。」
    「どうぞどうぞ。今までオンラインで校長会議をしていたんです。時間通りに終わって良かった。便利な社会になりましたね。オンライン会議ですよ。」
    少し緊張をしていたが、源 三治の第一印象が明るかったので、緊張が和らいだ。

    校長室はとても狭かったが、とても整理整頓された清潔感のある部屋だった。源 三治は私を椅子に座らせ、インスタントコーヒーの瓶を手に取りガサガサと蓋を開けて、雑に瓶を振っていた。

    「どうぞ。」
    雑に入れられたインスタントコーヒーとは思えないくらい綺麗なコーヒーカップだった。カップを眺めている私に源 三治はコーヒーを啜りながら言った。

    「見た目がね、大事なんですよ。」
    と、笑いながらも悲しそうだった。


    源 三治とコーヒーを飲みながら、話を聞いた。担任していた頃の懐かしい話を源 三治は無邪気に話す。放課後も担任していた子たちと公園で遊んだり、休日にこっそりゲームセンターで待ち合わせをしてUFOキャッチャーをしたりしたそうだ。家庭訪問へ行けば、夕飯を食べさせてもらったと懐かしさを誇らしく話していた。
    「子どもと向き合えば向き合うほど、教師の仕事は楽しくなる。サラリーマン化してはいけないんだ。」

    常田 舞や、他の若手教員にも、このような話しを17時を過ぎても話しているのだろう。源 三治の伝えたいことはわかる。

    しかし、時代が違うのだ。今、教師が子ども達とゲーセンに行って遊んでいたらどうだろうか。遊んでいるところをネットにあげられ、保護者からの苦情、委員会からの指導、考えただけで鳥肌が立つ。

    そして教師が突然、家庭訪問をして、急遽、夕食を振る舞える家庭なんて今の時代に存在するのか?というほど、現代はどの家庭も忙しいのだ。昔は教師も家族に近い存在だったかもしれないが、今は部外者というカテゴリーに入る。

    若手の教師がしんどくなるのもわからなくない。きっと、源 三治から御伽話でも聞かされている感覚なのだ。しかもやることが山積みの放課後に。

    楽しかった話の時とは一変、源 三治の顔は曇り出した。管理職になってからの話は、つまらなさそうに、不貞腐れた話し方であった。
    「校長の仕事なんて今は、休んでしまった教員の穴埋めか、人事課に電話をして代わりの教員を探すかが管理職の仕事だよ。」
    私は大変ですねという表情を作りながら頷いた。
    「そして最近、新しい仕事が追加されてね、突然、泣きながら、もしくは、激怒をしながら校長室に入ってくる教師を慰めるという仕事だよ。」
    源 三治はコーヒーを飲みながら笑った。

    「管理職を親と間違っている教師が多すぎる。」
    源 三治はコーヒーを勢いよく飲んだ。
    現在、教務の田嶋 学と、教頭の柏原 雄二(かしはら ゆうじ)が、担任代行で学級に入っているらしい。学校はほぼ回っていないとのことであった。

    「神森さん、現場を助けたかったら、常勤講師になればどうですか?」
    業務代行サービスkawarima-sを始めてからよく言われる言葉だった。

    「それでは、多くの現場を一気に助けられないので、すみません。」
    自分の人生を豊かにするために、お金と時間を確保したい。現場を助ける仕事をしながら、効率よく稼ぎたい。その思いは胸にしまった。

    「まぁ、謝罪の場所に代行サービスの人間がいたら、ねぇ。火に油ですよね。」
    源 三治が綺麗なコーヒーカップを雑に持ち上げ音を立てて飲みながら言った。

    「でも、このままでは、常田 舞さんが、不当な謝罪をさせられたと学校を訴えたり、休んだり辞めたりして、余計に大変なことになりませんか?私で無くても良いのです。校長先生が、代わりに謝罪という形でも構わないと思います。」

    「私が謝罪をしたら、神森さんの仕事が無くなるのでは?」
    「校長先生への説得代として、常田さんから、いくらかはいただきますので安心してください。無収入ということはありませんから。」

    「昔は、校長は最後の砦だった。今は保護者も教師も何でもかんでも校長頼み。何でも屋みたいになっていますよ。」
    源 三治は駄々をこねる少年のように背中を丸めて、悩んでいるというより、開き直っているような姿勢を取った。

    「今、謝罪を求めている保護者の話を聞けるのは第三者だと思います。現場が今以上に疲弊しないよう、私に任せていただけますか?もしよろしければ教育委員会に、ご連絡をお願いします。」
    「教育委員会が拒否をする可能性がある。」
    教育委員会から拒否をされる可能性は高い。私は源 三治に質問をする
    「その場合、どうされますか?」

    「拒否をされたら、無理だよ。現場で何とかするしか。」
    源 三治は、吐き捨てるように笑いながら言った。
    「わかりました。お忙しい中、ありがとうございました。」

    私は鞄の中から銀行振込用紙を取り出した。
    「ちょうど1時間ですので、後日、銀行振込にて、校長先生の口座にヒアリング調査費をお支払いさせていただきます。お手数ですが書き込んでいただけますか?」
    「えっ!?」
    源 三治が驚いて銀行振込用紙を念でも送るように、手のひらで押し返すような仕草をした。

    「これは副業でも何でもありません。こちらの仕事上、お願いさせていただいたことです。」
    企業としてお支払いするのが義務であることを源 三治に伝えたが、公務員は、給料以外の金銭を貰ってはいけないと刷り込まれている。宝くじをよくないものと捉えている教師も実際にいる。

    「『無報酬のサービス』が多すぎる現状を変えようと思っています。」
    源 三治は頭を下げて銀行振込用紙を手に取った。それでも、業務中に受け取ることに抵抗を感じるのか、またテーブルに戻した。私は続けた。

    「学校現場を変える第1歩だと思っています。」
    源 三治の教育理念を今の現場の教師たちにも求めるのであれば、現場の環境を変えなければいけない。上の立場の人間は若手を育てようとは頑張るが、現場の環境を変えることに力を注がない。

    「校長先生のおっしゃる通り、学校は、子どもファーストな現場でなければいけないと私は思います。その為に私はこの代行サービスを立ち上げました。」
    下を向いていた源 三治が私と目を合わせた。
    「不祥事を起こす教師のせいでね。教師の管理業務が多くなりました。そうそう、全員必ずやらなければいけない教師メンタルヘルスケアのアンケートに対して面倒臭すぎてメンタルがやられると言っていた先生もいました。」
    私と源 三治は目を合わせて落胆するように少し笑った。その後も、私と源 三治の会話が続いた。

    「環境が変わらないのに悩みなど変わる訳がないのです。職場の環境が変われば、メンタルを病まれる先生は少なくなりますし、校長先生と月に1回、面談する余裕が生まれれば、もっと違うと思います。」
    「面談時間も確保できない現状でね、先生たちも忙しそうで面談をしていても、早く終わってほしいと圧がすごい。」

    「学校現場が変わるまで、先生達の業務の代行できるところをやっていきたいと思っています。まさか、最初の案件が、謝罪とは思いませんでしたが。」

    源 三治は、この後、教育委員会に連絡を入れると言った。私が帰り支度で鞄にパソコンを閉まっている時、少し今までとは違うトーンで源 三治が話しかけてきた。
    「神森さん。そのサービスで救われる教師と、何もしなくなる教師、2通りの教師を生み出しませんか。常田先生は、後者だ。常田先生のクラスのことなのだから、常田先生が最後まで向き合うべきじゃないかな。」
    源 三治の言いたいことはわかる。源 三治は続けて私に質問をする。
    「常田先生を説得する、という代行はお願いできないですか?」

    「校長先生がそのように依頼されるのなら、させていただきます。そうなると常田さんの依頼は辞退せざるを得ません。けっこうな額をお支払いいただけるなら。見積もり、出しましょうか?」
    私も今までと違うトーンで返事を返した。源 三治は少し笑って頭を下げ私に銀行振込用紙を返した。
    「今日のお金はいりません。校長としての仕事をしたまでです。」
    私は銀行振込用紙を手に取り、深々と頭を下げ校長室を後にした。

    門を出て、時計を見た。12時を過ぎていた。

    私はスマホを取り出し、常田舞にメッセージを送った。


    「校長先生との面談が終わりました。教育委員会への根回しも含め、正式に謝罪代行を引き受ける準備をしています。
    今回の概算見積もりです。
    ・基本報酬:43,000円
    ・謝罪が17時以降の夜間対応になる場合の追加手当:10,000円
      合計:53,000円(税込)
    教育委員会の許可が下り次第、正式なご契約となりますので、お支払いはその時で結構です」


    買い物をしてから家に帰り、家でこの案件について必要書類を16時までに仕上げ、娘の帰りを待とうと思った。娘が帰ってきたら、仕事はしない。

    学校現場の謝罪代行となると、1番の問題は守秘義務である。赤の他人が介入するのだから、守秘義務が守られない状況になる。常田 舞は起こった問題の状況を私に話したが、関係児童や保護者の個人情報は、話していない。私はまだ何も知らない。現時点では常田 舞は守秘義務は守っていることになると私は思う。校長も然り。

    「保護者を納得、理解させて、保護者から話させる。」
    今はこれしか方法がない。教育機関と連携したサービス事業になることができれば、今抱えている問題を小さくすることができる。しかし先は長そうだ。

    17時を過ぎ、常田  舞が退勤準備に入る頃であろう、ようやく携帯が鳴った。

    「わかりました。けっこう高いですね。でも、それで解決するならお支払いします」

    彼女の返信には、悲痛な決意と、どこか投げやりな解放感が混じっていた。 教師の給料から、共済組合の掛け金として育休手当などの制度が成り立っているのはありがたい。いつか、この代行サービスにも共済から補助金が出るようになればいいという願望はある。 でも、まだその制度は現実には整っていない。今は彼女の痛みを、彼女の財布で解決するしかないのだ。

    私は娘とご飯を食べ、娘とお風呂に入った。
    「ママ最近、家にいるね。学童からおばあちゃんの家に帰る日が少なくなった。」

    「嬉しい?」
    私は、娘の答えに期待し胸が弾んだ。

    「おばあちゃんに会えるのが少なくなったからちょっと寂しい。」

    親の都合に振り回されて生活をしていた娘が、母といられる時間が増えたことをすぐに喜ぶような単純な子には育っていなかった。仕事を辞めた、それだけでは駄目なのだ。新しく仕事を立ち上げて成功していけるよう努力するのと同じで、娘とも新しい生活と関係を築いていけるよう努力しなければいけないことを痛感した。

    娘とお喋りをしながら、いつの間にか寝ていた。リビングのドアから優しい音が鳴る。夫が帰ってきたのだ。夫の仕事は保険会社の営業である。仕事が好きで人と話すのが好き。自分の担当しているお客様を増やし、給料も増やしている。辛いこともあるだろうが、仕事に対して生き生きしている夫は、私のシミやシワが増えたことには気がついていない。そして、小4の娘が好きな色をいまだにピンクや水色と思っている。娘は紫と黒を好むようになったのだ。ただ、リビングのドアを優しく開ける気遣いができるところと、私の退職を特に問題視しない経済力は好きだった。


    6時に起床し、夫と娘の朝ごはんの準備を始める前に、仕事用のスマホを手に取った。画面に2通のメール通知があった。1通は、常田 舞からである。謝罪の場が勝手に明後日の19時から設けられたが、自身は行かないので、後はよろしくお願いします。という内容であった。

    もう1つは、源 三治、中野山小学校の校長からのメールであった。内容を確認すると、常田 舞とは対照的で、作文のような長文であった。常田 舞の案件が教育委員会から許可を得られなかったこと。そして、保護者との謝罪の場を明後日の19時〜設けたが、常田 舞が頑なに謝罪の場には行かないと言い張っていること。源 三治は謝罪の場に行くが、保護者が管理職ではなく担任でないと納得しないということを相当な剣幕で伝えてきていること。などが丁寧に書かれていた。そして最後に、
    「これは私からの依頼です。教育委員会を説得し、神森さんが謝罪の場に来れるようにしてほしいです。お金は私自身が払います。」

    管理職であるが故に、誰を守れば良いのかわからない悲痛の叫びのように感じた。私はすぐにでも返事をしたい気持ちを抑え、卵を割り始めた。娘の好きな目玉焼きをちょうど良い半熟に仕上げるために卵の黄身に意識と感覚を集中させた。業務開始は8時半からと決めている。顧客に何時でも対応してもらえると思われては、小学校教諭時代の二の舞である。


    「教育委員会との交渉」

    8時半すぎ、源 三治にメールを返した。
    「わかりました。教育委員会に掛け合います。またご連絡いたします。」
    と、短文だけを返した。その後、教育委員会に連絡をしたが、代行サービスと言うと、取り合ってくれなさそうだったので、
    「今すぐ解決してほしいことがある意味神妙な保護者のような感じ」
    を出しながら
    「中野山小学校のことで相談をしたいことがあります。」
    と伝えた。

    「保護者の方ですか?」「地域の方ですか?」
    と、身元を尋ねてくる。
    「それも、含め、お話しさせてください。」
    と答えた。

    訳のわからない案件は、早めに解決しようと、すぐに取り合ってくれるケースが多い。
    「具体的な内容を伺わないことには、対応いたしかねます」
    と、門前払いをする前例が教育現場に無いのも知っている。

    11時に生徒指導主事が対応してくれることになった。この人がどれだけの地位を持っているかわからないが、子どもたちの生活面に関わる担当者なので、何かの助けにはなりそうだと思った。

    10時45分、私は少し大きめの何の面白みもない部屋に通された。簡易的な机と椅子が並ぶ1番前にボス感が漂う綺麗なホワイトボードが立っていた。ホワイトボードの白さになぜだか少し緊張した。

    担当者が入ってきた。
    「生徒指導主事の松本 透(まつもと とおる)です。」

    私はその瞬間、同期であることに気づいた。深く喋ったことはないが、初めましての認識では松本 透も無いはずである。

    「もしかして、同期でしたよね?」
    松本 透から言い出してくれた。
    「神森 祥子です。お久しぶりです。」

    「神森、神森、、」
    松本 透は私の記憶を辿っている。
    「旧姓が富田です。」
    そういうと、松本 透の顔が光が当たったように明るくなった。
    「そうそう、富田さん!」

    松本 透との会話は交渉と懐かしさとが混じって緊張しながらも緩みが時々あり、私は時折、声を出して笑っていた。

    「個人情報。それだけ。学校側から外に色々話はできない。常田先生も、現時点でセーフかもしれないが、アウトかもしれない。」
    「児童の個人情報は聞いていません。常田先生の愚痴を聞いたようなものです。そこに依頼がついただけで。」
    「まぁ。言ってない、聞いてない、は、そこら辺に転がってる言葉だからね。守秘義務って個人情報だけじゃ無いから。良い仕事を思いついたけれど、そこの壁は大きいよね。」
    松本 透は常田 舞の依頼より、私の仕事に興味があるようだった。

    「学校にも守秘義務があるように、私にも守秘義務があります。もし口を滑らせたとしても、私でストップをかけますから。」
    松本 透は高々と手を叩いて笑った。
    「守秘義務のある者どうしが話すと、守秘義務の効力が無くなるんだね。」
    皮肉を言われたのがわかったが、私は淡々と続けた。

    「今回、保護者の方が常田さんに伝えてきたのは、学校外の出来事です。そして、まだ学校は何も関わっていません。常田さんは、守秘をしなければいけないことを共有したくないから依頼してこられた訳で、守秘しなければいけないことが何1つまだありません。」
    松本 透は唇を尖らせながら、天井に目をやり、何かを考えているような、パフォーマンスのような、どちらかわからない様子を見せた。

    「どうやる?どうやって保護者を納得させて、常田先生も守ります?」
    松本 透は、真面目な顔をしながらも目の奥は楽しそうだ。私の立ち上げた代行サービスを一緒に成功させようとしてくれる同僚のような雰囲気さえも漂ってくる。

    「明日、19時〜謝罪の場が設けられています。そこに、校長先生である源 三治さんが出席されるそうです。校長先生と一緒に保護者に話を聞きます。謝罪の場ではありますが、まずは、お話を聞く場だと私は思っています。」
    それを聞いた松本 透が前のめりに私を見た。

    「ちょっと待って。校長が出るのだったら、校長が話を聞いて、謝罪すれば済む話しだよね。」
    「保護者は校長先生に謝られても困る。担任でないと納得しないそうです。」
    松本 透は腕を組んで先ほどと同じように唇を尖らせたが、今度は床を見て頷いていた。今回はパフォーマンスではなさそうだ。

    「校長先生だけでは常田先生と保護者の溝は埋まりません。常田先生は、この場に来たくないから校長に丸投げした先生になってしまいます。」
    「実際、そうなんだから仕方ないよ。」
    「常田先生も校長先生も、疲弊しています。今回の件で、というより、これまでの仕事に対する疲労が今、ピークに来ていて、さらにこの案件を抱え、余裕がありません。私が謝罪の場に行って、1から保護者の話を聞く、それだけです。校長先生が横にいるだけで、私が安心できる人間である証明は、ある程度できるかと。」
    「作戦も戦略も何もないと。」
    松本 透は意地悪そうに聞いたが、前のめりになりながら私と目を合わせて質問してくる姿勢から、意地悪ではないことがわかる。

    「話を聞く、それだけです。」
    「上手くいかなかったら?」
    「依頼者に全額、7割返済いたします。」
    「全額じゃないんだ。」
    松本 透は笑った。しかし、たぶん、全額返済すると答えたら、松本 透は納得していなかったはずだ。

    「そもそも、上手くいくといった定義が教育現場にはありません。上手くいっていそうに見えて、何十年も腑におちないまま過ごす、そんな児童、保護者、教師がたくさんいますから。」
    私の言葉に松本 透は口を捻らせた。
    「色々な手続きはさせてもらっていますので、そのお代は常田先生にも校長先生にもいただくつもりです。うまくいかなくても、その分は返済しません。」
    うまくいかなかった時の金銭問題は考えてはいるが、対応は考えていない。うまくいくにはどうするかだけを考えて現場に行く。

    「保護者に私は代行サービスの人間だって言うの?」
    「はい。こちらのことは話せることは全て、話すつもりです。信頼を得る為と、保護者の方から不満な事柄や気持ちを話してもらう為です。」
    「ちょっとした戦略はあるわけだ。」
    松本 透が腕を組んで両足を揺すり出した。

    「教育委員長は忙しくて、教育委員長に今回の話しができたとしても、明日の19時までに許可が得られるとは思えない。ましてや、聞いたこともない部外者を保護者に合わせる相談なんて門前払いだろう。」
    松本 透はさらに深く腕を組んだ。私は松本 透の目を離さなかった。

    「とりあえず、やってみなよ。そして、もし、保護者が激怒したら、俺の名刺を渡して。これ。」
    松本 透は名刺を取り出し、机の上に置いた。名刺には携帯番号が書かれていた。

    「個人の携帯番号ですか?」
    「もちろん仕事用のスマホの番号。1人1台支給される。現場の教師にも渡したいけれど、予算が足りない。」
    「現場の教師の方が携帯が必要だと思いますが。」
    「まぁね。その保護者に教育委員会に直接電話をされたら面倒だ。俺が責任を取るとまでは言えないけれど、保護者に神森さんは不審者でないことは説明はするよ。委員長にも謝罪する。」
    松本 透の男気ある言葉と判断に鳥肌が立った。
    「ありがとうございます。」
    私は深々と頭を下げた。

    「いや、俺が出るまでも無いようにまとめてよ。」
    「頑張ります。」

    私は銀行振込用紙を取り出した。
    松本 透はそれを見てすぐに悟った。
    「うちは、かみさんが全部、握っているから、自由な金がなくてありがたいんだけどさ。」
    「私の事業のアドバイザーを引き受けてくれたコンサル料です。リスクを背負って動いてくれるプロに、無報酬で甘えるわけにはいきません。お手数ですが、書き込んでもらえますか?後日、振り込ませていただきます。」
    私はそう言って、彼の手元に銀行振込用紙を滑らせた。
    「学校現場の『無報酬のサービス』をなくしたいと言っている私が、協力者にタダ働きをさせてしまっては意味がないですから。」
    松本は一瞬、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに
    「相変わらず、理屈っぽいな」
    と苦笑しながら、銀行振込用紙を返してきた。昔から私のことを理屈っぽいと思っていたのかと、少し驚いたが、飲み込んだ。
    松本 透は膝に手をポンと置き、
    「今日の分は今度、奢ってもらうということで。」
    と、お酒に代える代案を立てた。私は頭を下げ、銀行振込用紙を鞄に入れ、殺風景な部屋を後にした。



    「当日」


    謝罪当日、田嶋 学に、職員室の一番奥にある校長室へ案内された。17時半を回っている職員室では多くの教師が当たり前のように仕事をしたり電話をしたりしている。席にいない教師の椅子には乱雑に置かれたリュックと、机には散らかった文房具とプリント、画面が開いたままのパソコンがそのままだったので、帰宅しているとは考えにくかった。

    田嶋 学が校長室をノックすると、源 三治がドアを開けた。その後ろから、ヒョッコリ顔を出したのは常田 舞であった。

    「今日はよろしくお願いします。神森さんに伝えたいことがあって。それを伝えたら、私はもう帰ります。」
    常田 舞は頭を少し下げた。

    「神森さんに上手くやってほしいとは思っていません。」
    常田 舞は急に泣きそうになりながら私に話しかけた。校長室の扉が開いていることもあり、職員室にいる教師達が一斉にこちらに視線を向けている。常田 舞はその視線を振り払うかのように勢いよく話し続けた。

    「相手にどう思われても良いです。学級担任なんて、1年間の付き合いですし、我慢すれば良いことだと思っています。ただ、私のスタンスや、思いを伝えてほしいです。」
    私は常田 舞の視線を一気に自分の瞳に吸い込んだ。常田 舞は私に全てを預けていることがわかる。私は思わず微笑んだ。常田 舞は肩を振るわせている。

    「業務は8時半〜17時であること。授業はしっかりやります。学校内の揉め事は対応します。でも、学校内で解決できることとそうでないことがあること。私は私のやり方と考え方で子どもと向き合うこと。親と向き合っているのではないこと。そして決して私はサボってなんかないこと!」
    どんどん早口になり口調も強まる常田 舞の目から涙が溢れた。そして最後に常田 舞は小さく呟いた。
    「それを伝えてください。」
    常田 舞の為に、上手くやってあげたいと思った。職員室の方から、涙で鼻を啜る教師が複数いることが耳から感じ取れた。そちらの方向を振り向くことはしなかったが、常田 舞の言葉に自分を重ねたり、常田 舞を思ったりして感情が溢れているのだろう。

    「わかりました。伝えます。保護者が来る前に帰ってください。」
    私は常田舞の肩にそっと手を置いた。指先から、彼女の細い肩が小刻みに震えているのが伝わってくる。 常田舞は、弾かれたように私を仰ぎ見た。そして校長室を出る間際、一度だけ立ち止まって深々と頭を下げた。顔を上げた彼女の口元には、先ほどまでの刺々しさはなく、幼さの残る微かな笑みが浮かんでいた。 ドアが閉まった後、彼女が職員室を小走りに駆け抜けていく足音が聞こえた。それは、この場から一刻も早く去ってしまいたい気持ちと、重い鎖から解き放たれたような様子が入り混じった、不思議な響きだった。


    その後、源 三治と話をした。
    「常田先生の思いそのままを保護者に伝えるのは校長の立場としては難しい。」
    源 三治は諦めたように笑った。

    「私が伝えます。ただ、まずは保護者の話を聞きます。」
    源 三治は、頷いた。そして私は松本 透との話を詳しく源 三治に伝えた。
    「松本君、男気があるね。松本君の世話にならないようにしないと。松本君は管理職試験に合格しているから、来年、再来年には現場に戻ってきて教頭になるだろうね。」
    源 三治は、何かを思い出したようにスッと立ち上がり、コーヒーを入れてくれた。今日は、インスタントではなかった。オシャレなカップに丁寧に淹れたコーヒーが目の前に出てくる。

    「見た目が大事ですけど、中身もやっぱり大事。」
    源 三治はそう言いながらコーヒーを飲んだ。源 三治とは何気ない会話を楽しんだ。個人情報を聞く訳にもいかないので、情報収集はしなかった。今までの経験上、保護者が来校するというのにこんなにも穏やかな気持ちでいるのは不正解すぎると思ったが、なぜだか穏やかな時間が流れた。

    そして、常田 舞が源 三治から見て、どういう教師なのかを聞いてみた。常田 舞は必ず提出物を、締切3日前には出すそうだ。忙殺されそうな成績の時期でさえ、膨大な業務や書類を片付けて成績や所見も終わらせ締切の3日前に17時には帰るそうだ。
    「効率と容量が良い。すごいですよ。」
    源 三治の言葉は常田 舞を賞賛しているようで、心はこもっていないように感じた。

    私が現役の時のことを考えたら、信じられない。締切を守るのに精一杯だった。管理職も忙しすぎて、締切の日に誰が出したかなんてチェックできないだろうと、特に報告せず遅れて出した書類もある。そして、やはり何の問題も無かったことが続き、そもそも必要な書類なのだろうかと疑問を持つようになった。

    常田 舞もわかっているはずだ。管理職の忙しさも、全く緊急性の無い無意味な書類も。それなのに必ず3日前に出し17時で帰るのは偉業だ。

    「すごいですね。常田さん。」
    私はコーヒーを飲んだ。

    源 三治は続けた。
    「だからね、子どもたちや保護者の寄り添い方も効率的なんですよ。そうすると、どうしてもドライに見えてしまう。」

    担任の仕事は昔より圧倒的に増えた。管理職も、今は当たり前のように担任業務をするようになった。現場に役割がなくなってしまった。

    常田 舞は若い。与えられた仕事全て担任の仕事だと思っている。人手不足すぎて、担任に業務が回ってきているのを、疑問にも思わないのだろう。
    何にせよ、常田 舞はさぼってはいない。それは間違いない。

    「校長先生が担任だった頃のお話を聞かせてください。先日、少しだけ聞かせていただき、もう少し聞きたいなと思いまして。」

    最初は謙遜した様子の源 三治であったが、楽しそうに身振り手振り思い出を語ってくれた。きっと、良い教師であったのだろう。子ども達と一緒に笑えるくらいの悪いこともしたそうだ。

    「提出物の締切は、守っていましたか?」
    私がそう聞くと、コーヒーを飲みながら頷いた。
    「僕らの時は手書きだよ。成績も全部!」
    締切を守っていたかはわからないが、手書きでやっていたから、今よりずっとしんどかったと伝えたい様子であった。

    「色々、時代が変わってね。好きなようにできる時代じゃなくなったよ。担任ってね、面白い仕事なんだよ。でも今は、色々なところに気を遣わなくなってしまったから、楽しめないよね。」
    源 三治は、昔と比べて、今の教師のやりにくさは気遣いの量だと話した。

    源 三治がコーヒーを片付け、出来るだけ殺風景になるように部屋を片付けだした。
    18時50分、校長室のノックが鳴る。教頭の柏原 雄二が丁寧な声でこちらに呼びかける。
    「5年2組の佐藤 孝之(さとう たかゆき)さんの保護者がいらっしゃいました。」

    源 三治がドアを開ける。佐藤 孝之の両親が揃って立っていた。40代半ばくらいだろうか。母親はTシャツの上にパーカーを羽織り、下はデニムでラフな格好だった。19時ともなれば化粧のりが悪くなっており、目の下のクマが威圧感を増す。それを見たせいか、私自身のクマも気になってきた。

    一方、父親は、スーツ姿に黒い鞄を持ち、仕事帰りだった。ムスっとした母親とは対照的で父親は源 三治に頭を下げていた。

    「校長の源 三治です。この度はこんな時間に来校してくださって申し訳ありません。お座りください。」
    常田 舞はこれが嫌なのだ。こんな時間を相手側が設定してきた上にこちらが頭を下げるシステム。穏便に済ませる一種の策なのだが、常田 舞には理解し難いのだろう。

    「こちらこそ、こんな時間に申し訳ありません。」
    父親が源 三治に伝えた。母親もそこでやっと頭を下げたが目を合わせない。怒っていますというオーラを漂わせるのに集中している様子だ。

    父親は多分、常田 舞の名前を知っていても容姿は知らないのだろう。私を常田 舞だと思っているのか、何のためらいもなく、私にも深々とお辞儀をしている。まだ、6月。しかし、懇談も参観もあったはずだ。きっと行っていない。

    母親は誰とも目を合わせないままなので、私を常田 舞だと思っているに違いない。ソファに腰を下ろした後、母親は顔を上げ、何かを言いそうになったが、私の顔を見た瞬間、驚いた。
    「えっ?えっ?」
    その様子を父親が不思議そうに見ている。

    「初めまして。業務代行サービスkawarima-s代表、神森 祥子と申します。」
    YouTubeで何度も練習した「交渉前の威厳ある笑顔の作り方」の成果を発揮するように私は少し目を細めて笑顔を作りながら名刺を渡した。


    「佐藤 伸晃と佐藤 清子」


    父親がその名刺を受け取り、母親はポカンとしている。

    5年2組 佐藤 孝之
    父    佐藤 伸晃(さとう のぶてる)
    母    佐藤 清子(さとう きよこ)

    「今回、5年2組の担任、常田 舞先生の依頼により、私がこの場に常田さんの代行で来させていただくことになりました。よろしくお願いします。」

    「よろしくって、、、。」
    佐藤 清子は今にも怒鳴りそうなのを必死に堪えているのが顔の赤みの増し具合と、唇が紫に変わるスピードの速さで伺えた。

    「私は学校現場に特化したサービス会社です。まず初めに、私は常田先生に依頼されてこの場に来ました。ここで話されることはサービス向上等の為と、トラブル発生時に専門機関に提出する為に、録音させていただきますが、守秘義務により外部に流れることは絶対にありません。申し訳ありませが、今から録音は始めさせていただきます。そして、これは常田先生からの依頼ですので、佐藤さんに金品請求をこちら側からすることはありません。そして、、、」
    私は淡々と誓約書に書かれてある項目を読み上げていった。

    「ご確認していただき、ご理解いただけたら、ここにサインをお願いいたします。」
    私が差し出したペンを母親が強引に取り、テーブルに向かって投げた。
    「舐めてるの!?学校の問題でしょ!!担任は!?」
    母親が怒鳴り、源 三治と私を睨んだ。

    「お母さん、申し訳ありません。私も教師を守る立場である為、今回は常田の考えに沿う形を取らせていただきました。」
    源 三治は頭を下げた。
    「担任、呼んできてよ!!全然、納得いかないんだけど!!」

    「常田先生は、疲弊されています。かなり限界に近いご様子です。ここに学校長が常田先生を呼ぶことはできません。」
    私が母親の目を見て諭すでも威嚇でもなく、感情のこもらない文章を読み上げるように言った。
    「病みました、病みましたって。良いですね、公務員は。すぐに休めて。」
    母親はそう言ったものの、少し怖くなったのか、ソファに深く座った。

    「常田先生はまだ休んでいません。」
    「何?この場に担任が来たら休んでしまうから、あなたが来たっていうの?」
    「常田先生の依頼は、この場へ行って、佐藤さんと話してほしいという依頼です。その為に来ました。」

    豹変する妻に慣れているのか嫌気がさしているのか、妻が怖いのか、同じ思いでいるのか、よくわからない様子でずっと黙っていた佐藤 伸晃が口を開いた。
    「弁護士、では、ないのですか?」
    弁護士という言葉に佐藤 清子に緊張が走ったのがわかった。深く腰をかけていた姿勢を正したのだ。弁護士の社会的地位の高さが窺える。

    「弁護士では、ありませんが、弁護士とは繋がっております。」
    佐藤 清子がテーブルの録音機に目をやる。

    「もし、何かこちらに粗相があれば、佐藤さんは私を訴えてください。この録音機が証拠を残しておりますので、佐藤さん側の弁護士等に差し出すことは可能です。」
    それはこちら側も然り、という意味を含ませた。

    佐藤 伸晃が誓約書にサインを書き出した。それを見て、佐藤 清子が佐藤 伸晃の肩を強く叩く。
    「先生達も忙しいんだ。こんな時間に。あっ、先生じゃない人もいらっしゃるけれど。」
    佐藤 伸晃はいたって冷静であった。夫婦どちらかが冷静であるとありがたい。佐藤 清子も諦めたような表情で私を見た。

    「お話していただけますか?何かあった時に専門機関に録音機を提出することはあるかもしれませんが、それ以外、外部には漏らしません。」

    佐藤 清子は最初は不貞腐れたように話していたが、途中から色々な思いが交錯し、怒ったり、泣いたり、落ち着いたりを繰り返した。

    「孝之にはお兄ちゃんがいて、今、中1なんですけどね。」
    佐藤 清子は佐藤 孝之の兄の話をし始めてから機嫌が少し良くなった。私も少し表情を和らげた。
    「お兄ちゃんの時の先生が、すごく良くて。5・6年を担任してもらったんです。校長先生も知ってますよね?牧田 慎二(まきた しんじ)先生!!」
    佐藤 清子のテンションが上がったのが目に見えてわかる。しかしすぐに、テンションは下がっていった。
    「お兄ちゃんが卒業したと同時に牧田先生は異動になって。孝之の担任になってほしかった。」
    佐藤 清子が何かを言って欲しそうにした瞬間を源 三治は見過ごさなかった。源 三治は笑顔で牧田 慎二の話をし、一気に温和な空気を流した。
    「牧田先生!いやぁ、熱心で私もたくさん助けられましたよ。」
    源 三治による牧田 慎二への賞賛は、佐藤 清子に向けられたのかと思うくらい、佐藤 清子が笑顔になり、そしてテンションを上げて話し続ける。

    「毎日、学級通信を出してくれていて親も読むのが楽しみだったんです。お兄ちゃんから今日の楽しかったことをたくさん聞けたし、お兄ちゃんが友だちとトラブルを起こした時も、親身に話しを聞いてくれて、1件1件、家庭訪問をして、関わった家庭に丁寧に説明をしに行ってくれて、ありがたかったです。」
    佐藤 清子は本当に牧田 慎二に信頼を寄せていたのがわかる。
    「常田先生と牧田先生を比べたらダメなんですけど。でも、それにしても、常田先生は子どもたちを見てなさすぎというか、興味が無いのかなって思ってしまうんです。」
    源 三治による常田 舞への評価は当たっていた。まさに源 三治が懸念していた常田 舞の効率重視が保護者の怒りを買っている。

    佐藤 清子の話の最中、佐藤 伸晃は、スマホで何かを確認したり、校長室の時計を気にしている様子だ。佐藤 伸晃にとって、この時間はもしかしたら、無駄な時間なのかもしれない。

    「お父様もそのように思われますか?」
    私が佐藤 伸晃に話を振る。何のこと??というように
    「えっ、あっ、はいそうですね。」
    と、適当な返事が返ってきた。佐藤 清子はうっすら横目で佐藤 伸晃を睨む様に見た。それを感じ取った佐藤 伸晃が話し始めた。

    「先生たちもお忙しいですからね。常田先生はまだ若いし、プライベートだって大事にしたいですよね。牧田先生は熱心な先生でしたが、色々と犠牲になさっていたかもしれない。先生に多くを求めるのは違うと僕は思っているので。」
    佐藤 清子が唇を噛み締めて手のひらの中でハンカチを強く握っている。怒っているのだ。佐藤 伸晃に。源 三治が佐藤 伸晃に頭を下げたのを見て佐藤 清子のハンカチがどんどん形を無くしていく。

    「今回、もし常田先生がいらっしゃったら、何をお伝えし、常田先生に何を望んでいらっしゃたのか、お聞きできますか?」
    佐藤 清子は首を傾げていた。たぶん常田 舞に不満をぶちまけるために来ている。相手が私であることから、それが叶わなくなったことと、そもそも何を伝えたくて何を望んでいるのか、整理されていない状態に混乱している様子だ。

    「孝之も先生には話しにくいって言っています。私も担任には話しにくい。どんな話しでも、時間になったら切られるんです。」
    自分を落ち着かせるように佐藤 清子はゆっくりと静かに話し始めた。

    「孝之も以前、友だちのことで担任に相談をしに行ったら、もう授業が始まるから後でって言われたそうです。そして、孝之が授業後、担任のところへ行こうとしたけれど、忙しそうだったから声をかけなかった。」
    佐藤 清子は独り言のようにブツブツ早口で話せいる。私は独り言にしないように必死に頷く。
    「担任からも、その後、何聞かれなかったようなので電話をしたんです。そうしたらあの担任、どうしても聞いてほしかったら、放課後でも自分から私に話しにくるべきだって言ったんですよ。」
    佐藤 清子は怒りと笑いが混合した不気味な笑みを浮かべた。ただ、親身に聞いてほしかった、それだけだったのに、思い切りはねつけられてしまい、後からどんどん憎しみが湧いてきたのだろう。佐藤 清子は常田先生と呼ばないことを徹底し、「担任」と言う。

    横で源 三治が申し訳なさそうに頷いている。源 三治が感情が顔に出やすく姿勢や表情がすぐに変わるので、私は変わらないことを意識した。

    「牧田先生のことを私もお兄ちゃんも信頼しきっていました。小学校生活の最後に良い思い出ができて本当に幸せな小学校生活でした。なのに、、、」
    佐藤 清子はハンカチで唇を押さえ、それ以上は続けなかった。佐藤 清子はきっと良い母親なのだろう。我が子が常にベストな状態を保ち続けて欲しいと願い、そうなる為なら惜しみなく尽力する良い母親だ。しかし、子どもの為になっているかは別として。

    「だからって孝之が苦しんでいる訳では無いんですよ。ちゃんと学校にも行くし、友達とも遊んでる。勉強だってついて行ってる。学校生活が先生次第で変わるなんて、入学したての1年生じゃあるまいし。理不尽なんてこれからいっぱい転がっているのに。甘いんだよ。」
    少しイラつきを見せながらブツブツ話す佐藤 伸晃は、さっきからテーブルの下でチラチラ携帯を見ている。たぶん早く帰りたいのだ。明日もたぶん仕事だろう。

    「それでもまだ小5でしょ。まだまだ大人が必要な年頃じゃない。心配して何が悪いの?」
    「悪いとは言っていない。ただ、先生に求めることかどうかを見極めろって。」

    佐藤 伸晃は、社会の構造をわかっている。世の中の厳しさをわかっているからこその発言だ。学校としては、こういった父親の方が話ができる。しかし、妻にとって良い夫かは別として。

    佐藤 伸晃は舌打ちをしながら言う。
    「すみません、妻はパートでササッと働いているだけであんまり社会を知らないんですよ。だから堂々とこんな時間帯を指定してしまえるし、ましてや先生達に不機嫌。何様なんだよ。見てられませんよ。」
    「父親として一緒に学校に来て欲しかっただけじゃない!あなたがこんな時間にしか帰れないって言うから。」
    「1人で行けよ!」
    佐藤 清子の目に涙が溜まった。佐藤 清子が牧田 慎二を忘れられないのは、お兄ちゃんの支えだったからではなく、佐藤 清子の支えだったからだと思った。

    子どもは親の言葉や態度でいとも簡単に思考を変える。佐藤 孝之と兄が抱く牧田 慎二と常田 舞への印象は佐藤 清子が作り出した可能性が高い。

    源 三治が重い空気の中、口を開く。
    「公園で写真を撮った撮られたという、孝之さんと友達との間にトラブルがあって、その対応に関して常田に至らない点があったと聞いていますが、それは大丈夫でしょうか。」

    佐藤 伸晃は目を丸くしている。
    「公園は学校外だろ。スマホも親が与えてるんだから、学校は関係ない。何してるんだよお前。そりゃ常田先生もお前から逃げたくなるよ。」
    この件について佐藤 伸晃は何も知らなかったようで、ため息ばかりついている。

    「それについては解決しています。ありがとうございます。ただ、もっと、親身になっていただきたいと、常田先生に伝えたかったそれだけです。」
    佐藤 伸晃のため息がより一層、溢れる。佐藤 清子は味方になってくれるであろう夫を連れてきたが、誰よりも夫に詰められてしまい、力が抜けたようだった。

    常田 舞の力になりたい気持ちと、佐藤 清子をモンスターにしたくない気持ちとが佐藤 伸晃のため息と同時に私から溢れてきた。

    「お母様。私も娘がおります。」
    佐藤 清子は私の目を静かに見た。
    「私は昨年末まで教師をしておりました。私は忙しすぎて、娘を全く見ておりませんでした。今は時間に余裕を持ちながら、この仕事をしていますが、娘は私より祖母が好きな様です。祖母がずっと見ていましたので。」
    フッと娘の顔が浮かんだ。激務を言い訳に、向き合ってこなかった時間への後悔がこんな時にジワジワ襲いかかる。

    「小さな頃から子どもに向き合っていないと、大きくなって向き合おうとしても、子どもから離れられてしまいます。」
    私は自分自身に言うように話していた。そして、佐藤 清子の目の奥を感じながら私は伝えた。
    「お母様は孝之さんにとって良い母親です。親身になってお子様を見ていらっしゃることは、羨ましくさえ思います。」

    佐藤 清子は泣いた。ハンカチで声を殺しながら泣いていた。子育てに孤独を感じているのかもしれない。
    ただ、私の仕事は常田 舞の依頼を完結させること。常田 舞の代わりに思いを伝えること。常田 舞には明日から気持ちを少しでも軽くして仕事をしてもらうこと。佐藤 清子に寄り添うことに全力になってはいけない。

    「常田さんはお母様が期待なさった様な先生でなかったかもしれません。しかし、常田さんは学校で、報連相を怠らず、全ての事柄に時間厳守をされていて、社会人として信頼される行動をされています。」
    佐藤 清子は泣いたままであった。私の声が届いているかはわからない。

    「決して、常田さんは仕事をさぼっているということはありません。きっと、孝之さんは、提出物など、しっかり期限を見て提出されているのではないでしょうか。」
    担任は、自身が大事にしている事柄を、受け持った学級の子どもたちに伝えるものである。常田が時間厳守を大事にしているなら、それを大事だと教えているはずだ。
    佐藤 清子が頷いた。

    「お父様がおっしゃってくださる通り、多くのことを犠牲にしながら働く教師がいるのも事実です。私は若い常田さんに、多くの物を犠牲にしては欲しくないと思っています。変わるのは、常田さんではなく、学校現場だと思っています。」
    「こんな時間まで本当に申し訳ないです。」
    佐藤 伸晃が帰りの身支度を整え出した。今回は佐藤 伸晃に助けられたところはある。夫婦で怒鳴りつけてくるパターンが多い中、学校に求めることではないと冷静に判断できる父親だったことで学校側としては助けられた。社会で揉まれながらも結果や実績を出してきている人なのだろう。これくらい、冷静な父親の方が、息子は強くなりそうだ。しかし、佐藤 清子のような母親を作り出している原因も、佐藤 伸晃の様な夫なのかもしれない。

    「常田先生はそのままで大丈夫です。妻が大変、失礼いたしました。今後もよろしくお願いしますと、常田先生にお伝えください。」
    佐藤 伸晃が話を終わらせようとした。

    「神森さん、私は悪い母親ですか?」
    佐藤 清子が、か細い声で聞いてきた。
    「いいえ。息子さん思いの良い母親だと思います。」
    私は佐藤 清子の目を見て答えた。源 三治が口を開く。
    「常田も、頑張っておりますので、今後ともよろしくお願いいたします。」

    佐藤 伸晃と佐藤 清子が立ち上がり、頭を下げて静かに校長室から出ていった。教頭の柏原 雄二が二人を玄関まで送るという声が聞こえてくる。

    校長室の時計を見ると20時半を過ぎていた。私は源 三治の前で、常田 舞に今日の経過を伝える為に電話をした。常田 舞は着信1回目で電話に出た。きっと、気になっていたのだろう。電話に出た常田 舞の声は少し緊張していた。私は時折、源 三治に事実が間違っていないか目を合わせた。

    常田 舞の声はいつもより小さかった。
    「神森さん、ありがとうございます。今日がうまくいかなかたら、辞めようと思っていました。でも、今年1年は頑張ります。」
    「それは良かったです。」
    私は少しだけ声が震えたが、なぜかはわからない。依頼を終えた安心感なのか、辞める選択肢を捨てた常田 舞の1年間は保証されたからか、代行サービスの仕事は役に立っていけるのか、何の感情かわからない感情が震わせているのだけはわかる。

    「業務代行サービス、とても良いと私は思います。値段が少し高いですが。」
    常田 舞が笑って言った。
    「いつか補助金が出たら良いなと思っています。今回は、常田さんがお支払いしていただくことになりますがよろしくお願いいたします。明日、振込先の詳細をメールにてお届けさせていただきます。」
    「はい。すぐにお支払いします。」
    その後、軽く話をしてから電話を切った。
    源 三治には、直接、請求書を渡した。源 三治は請求書をコーヒーメーカーの横に置いて、少し寂しげな様子で私を見た。

    「さっきの話に出てきた牧田先生なんだが。」
    源 三治から、喉の奥に詰まっていた言葉をやっと吐き出したかのような呼吸音がした。
    「子ども達に寄り添って熱い教師であることは間違いない。ただ、管理職になった私は牧田先生を応援できなかった。自分勝手で現場をかき乱している様に思えたんです。」
    やっと吐き出した言葉が悪口のようになってしまったことを後悔しているかのように慌てて訂正するような手振りをした。
    「いや、でも牧田先生みたいな先生が良い先生なのもわかっています。」

    激務が飛び交う現場で子どもファーストである先生ほど、他の教師から嫌われてしまうことはよくある。

    「色々な先生がいるから面白い。子どもたちも色々な子がいるから面白い。でも、なぜでしょう、みんな頭ではそう思っているのに、実際、色々な個性を認めてもらえないことの方が多い。」
    源 三治は、常田 舞も牧田 慎二も、両方の教師を応援しきれない管理職としての自分をどこか責めているのだろう。

    「神村さん、この事業、成功させてください。応援しています。」

    私は練習してきた笑顔ではない表情をしていたと思う。久しぶりの懐かしい感情が沸いたからだ。

    「教師の権利」

    常田 舞の一件で、私の仕事が市内の学校現場に広がった。少し忙しくなってきたことは嬉しいが、娘との時間は死守すべきだと思っていた。

    松本 透に連絡をして、常田 舞の一件について報告をした。松本 透は詳しく話しを聞きたいと言った。以前に「コンサル料の代わりに奢って。」という松本 透の言葉を社交辞令的に受け取っていたが実現されることになった。娘との夜の時間を自分の都合に使っている場合では無く、娘との今までの時間を早く埋めなければと焦っていたのもあり、3週間後にある娘の宿泊学習の日を指定した。松本 透は、
    「ずいぶん先だね。忙しそうで何よりだ。」
    と、やっぱりどこか皮肉っぽく話してきた。

    常田 舞の依頼の数日後に2件、依頼が入った。1件目は
    「職員会議に出て、自分の代わりに提案して欲しい」
    という案件だ。依頼してきたのは時透 敏志(ときとう さとし)32歳でもうすぐ子どもが産まれるという。時透 敏志は、その提案しなければいけない会議に自分も出席するらしい。
    「僕が提案すると、何かと噛み付いてくる教師が二人ほどいる。僕が育休を取ることを知ってからか、僕だけに当たりが強いんですよ。」
    「一緒に提案してくれる先生はいないのですか?」
    「いません。僕だけの分掌なので。僕以外が提案すると変ですから。」
    「私が提案するのはもっと変ではないですか?後から、困ったことになりませんか?しかも時透先生は、会議に出席されるのですよね?欠席された方が話がまとまりませんか?時透先生が欠席だから代行サービスを使った、という筋道が立てやすい。」
    私は一気に時透 敏志に質問をした。しかし、時透 敏志は焦る様子も考え直す様子もなかった。
    「それも考えましたよ。でも直接、会議に出ないと、後からややこしいことにもなるんです。いや、とにかく、業務代行サービスを使ってみたくて。」
    何か考えがあるのだろう。深掘りはせずに依頼を受けることにした。

    私の依頼を教育委委員会も校長も、すぐに受け入れてくれた。松本 透の力が大きい。松本 透が教育委員会に私の事業を後押ししてくれているようだ。提案の内容が、児童の個人情報に関することではなく、「運動会の開会式、閉会式の流れ」だけだったのも大きな要因である。しかし、これだけの提案に自分のお金まで使って代行サービスを立てるくらいだから、相当、時透 敏志は攻撃をくらっているのかと予想した。

    職員会議当日、私は時透 敏志の代わりに提案をした。時透 敏志は私の横で、にこやかにしている。私は依頼された通りに提案文を読み、質問はないか聞く。
    「どういうつもりですか?何で自分で提案しないのですか?」
    時透 敏志に対して当たりの強い1人である年配の女性教師が強めの口調で質問をした。
    「提案に関係のない話しは後でお願いします。」
    時透 敏志は、目も合わさず「嫌い」というオーラをぶち撒けて返事をしていた。その後もいくつか質問があったが、時透 敏志が予測しておいた回答を私は紙を見て淡々と伝えた。提案はスムーズに受け入れられた。

    最近、知られる様になってきた業務代行サービスを使った教師は楽になる分、まだまだ根性論の根強い現場では業務代行サービスを使った教師は逃げたとか異色とかいう印象を持たれ、周りから距離を取られる可能性があるのは少し気がかりだった。

    依頼を完了させ、私は時透 敏志に請求書を渡した。
    「思ったより安い。常田さんの時、もう少し値段、高いですよね。」
    「常田さんをご存知なんですか?」
    「妻の同期です。神森さんに感謝していたそうですよ。常田さんは、元気に今も、頑張っているみたいです。」
    「そうですか。」
    私は素直に嬉しかった。
    時透 敏志は笑顔のまま少しだけため息をついた。
    「まだまだ現場は古くて、男の育休をよく思っていない人もいるんですよ。」
    人手不足の激務な現場では、男女問わず、欠員が出るのは痛いのは想像がつく。しかし、産まれたての我が子の育児を夫婦でしていくというのは、かけがえの無い大切なことであるのも想像がつく。
    「育休を取ることに納得がいかないからといって、育休を取る先生にきつく当たることは間違っています。」
    私は時透 敏志が感じているだろうことを伝えた。時透 敏志は大きく頷きいた。そして、思いが込み上げてきたのか、時透 敏志は強めの口調で、でも、それを制御するための開き直りが混じったような話し方をした。
    「お前が育休をとっている間に、私たちがその仕事を代わるんだぞ!もしくは、育休を取る前にしっかり仕事をしていけ!ってことじゃないですか?」「でも権利ですから。しっかり育休を取ってください。」
    「僕は男性の育休を当然である流れを作っていきます。そもそも育休に入る教員の穴埋めができないほど人手不足ということが問題ですよね。その根本の原因が現場に魅力が無くなったことです。教師の仕事は魅力的です。現場なんですよ、現場。」
    時透 敏志は困っているように話しているが、そこまで困った様子を感じなかった。多分、現場がどうであれ、自分がしたいことを貫ける人なのだろう。

    「神森さんは、業務代行サービスを使うのが当然の流れを作ってください。初めの人はいつも批判されますが、絶対に時代が味方すると信じて頑張りましょう。」
    業務代行サービスkawarima-sという事業に期待しているのではなく、教師を辞める選択と新しい夢に向かった私を応援してくれている様に思った。

    玄関を出ようとした時、時透 敏志が懸念している2人のうちの1人である年配の女性教師に声をかけられた。職員会議で、強めの口調で質問していた教師である。
    名札を見ると『4年2組担任 杉浦 恵』(すぎうら めぐみ)と書かれていた。

    「業務代行サービスkawarima-sって何?そのふざけた代行サービス。」
    杉浦 恵は私を睨んでいる。目尻や口元の皺から、私よりも10歳近く年上だろう。職員室での態度や発言からも棘のあるお局のような立場の教師なのでは無いかと思った。私は何事も感じていない表情で頭を下げた。

    「時透先生、私のことを鬱陶しいおばさん先生とでも言っていた?」
    私が帰るのを腕を組んで妨げているようにこっちを見ている。
    「守秘義務が私にもございますので、申し訳ありません。」
    私は帰ろうとしたが、何か話たげにずっとこちらを睨んでいる。
    「あの、何かありましたでしょうか。」
    私は少し困ったように聞いてみた。時透 敏志にも怒っているが、私にも怒っているのがわかる。

    「私ね、結婚していないの。」
    杉浦 恵が唐突に言い出した。私は、特に何の反応もしなかった。杉浦 恵は続けた。
    「私、もうすぐ50歳になるのよ。産休も育休も、生理休暇とかいうやつも、女性教師が取れる権利を使うこともなく、ずっとやってきた。」
    杉浦 恵は語尾を強めて話した。私は杉浦 恵が何を言いたいのか予想がついた。私は軽く頷いた。

    権利は昔からあったが、権利を使う時は申し訳なさそうに取るのが一般的で、育休を取る時も「すぐに帰ってきます!」と言うのが普通だった。私が教師1年目の時、そのように言って育休を取った先輩教師が、すぐに帰ってこれず、現場への罪悪感から教師を辞めたのを思い出した。
    大きな反応が見られない私にさらに刺激を与えるかのように、杉浦 恵は話し続けた。
    「私は共済費を払っている。権利を使う教師たちのためにも。」
    手振りがつき始めた。怒りが止まらなくなっているように思えた。私は杉浦 恵の怒りを抑えるように、申し訳なさそうに話した。
    「私も教師をしている間、3年間、育休をもらいました。ありがたかったです。」
    やっと自分の話に反応を示し頭を下げる私を見て、杉浦 恵から力が少し抜けたように組んでいた腕を少し和らげていた。

    「権利を取れるような人生を歩んでいない私が言いたいのは、簡単に権利を使うなとか、そういうことじゃないの。」
    杉浦 恵の次の言葉がわかる。だから私はその次の言葉を考えていた。
    「独身だからたくさん仕事が回ってくるの。私は家に帰ったって誰かを待たせているわけではないし、帰宅時間を考えなくて良いから、たくさん仕事を受け持ってきた。」
    杉浦 恵が続けて何かを言いかけた時、時透 敏志がこちらに歩いてきた。帰宅するために靴箱へ来たのだ。

    「今日はありがとうございました。」
    清々しい笑顔で私に挨拶をする時透 敏志の背中は杉浦 恵に嫌悪感を漂わせている。それを感じ取っている杉浦 恵の表情は凍りついているようだった。杉浦 恵の存在を感じとらないことを徹底している時透 敏志は私だけに笑顔を見せ帰って行った。私と杉浦 恵の会話が少なからず気になっているだろうが、それすらも見えていないかのように作られた清々しい後ろ姿だった。

    杉浦 恵は清々しい時透 敏志の背中に私にも聞こえないくらいの舌打ちをしたようだが、私に舌打ちは届いた。杉浦 恵のギョロっとした目が私の目を捉える。
    「権利を取った人のために仕事をやってもやっても何1つ報われなかった。ただの、おばさんの愚痴にはなるのはわかっているの。でも、ありがとうございます。お世話になりましたくらい、あっても良いじゃない?」
    「無いんですか?」
    私の問いに、杉浦 恵が静かに笑う。私は背筋に緊張が走る。

    「ある訳ないじゃない。自分の後に誰が埋めてるかなんて知ってる?興味ある?休んでしまえば関係なくなるでしょ?あなたは感謝したの?」
    背筋が凍りきったのがわかった。私が産前休をとった後、自分の仕事を誰が受け持ったなんて知らないし、その後のことなんて子育てに必死で職場がどうなっているかなんて興味も無い。
    「しかも気づけば、私の仕事になっているのよね。そして育休明けで復帰してきた人はもう忘れているでしょ。自分がやっていた仕事のことなんて。早く帰るのに必死だもの。」
    杉浦 恵の言葉に申し訳なさが込み上げてくる。しかし、仕事をしながら子育てをしていくのに、他人の仕事の内容や量など気にできる余裕なんてないことも事実なのだ。杉浦 恵と同じ立場の教師たちは、この言葉に救われるだろう。しかし、この言葉を正義にしてしまうと、子育てしながら教師をするのは絶望的になってしまう。
    「先生方の負担や仕事量の調節は管理職の仕事ですし、杉浦先生にそのような不満を持たせてしまうようでは管理職のフォローが甘いのではないかと思います。」
    私は、解決策がわからないのいで、管理職のフォローの甘さに原因を向けてみたが、実際はそれが原因かはわからない。そして、杉浦 恵の怒りはわかるが、それを育休を取る時透 敏志に向けるのは違うという思いは変わらない。
    「管理職のフォローなんてよっぽどの時しかいらないわよ。それに、仕事を請け負う了承をしたのは自分だから。だって、私には仕事しかないのに、仕事をしたくないなんて言ったら何もなくなるじゃない。」
    プライベートを充実させたら良いのでは、なんて、杉浦 恵には効かない。杉浦 恵はそんな軽いことを言っているのではないのはわかるが、他に伝える言葉が見当たらない。杉浦 恵の怒りが私の内臓を突き刺してくるようで、胃のあたりがチクチク痛くなる。それでも杉浦 恵は話を止めない。

    「若い頃は、仕事をしている自分が好きだった。育休に入っていく同世代の教師を見て、可哀想とすら思っていたの。私は男性と同じくらい働いて、男性と同じくらいキャリアを積めているって優越感。」
    過去の自分を笑い者にしているかのように杉浦 恵は悲しそうに笑いながら話した。私は、チクチクする痛みはあるが、話を聞きたい気持ちが痛さを上回っていることに気づいた。

    「30代になってからは、20代の教師が私の学級経営や授業の仕方、色々聞いてきたわ。杉浦先生から学ばせてほしいって。私はたくさん教えたし、教師として憧れるってたくさん言われていたのよ。でも」
    杉浦 恵は深呼吸を入れる。私は杉浦 恵の言葉を予想し、私も深呼吸をした。私の予想が当たっていれば、私は大きな罪悪感に覆われるだろう。
    「その20代の先生達が更衣室で喋っているのを聞いてしまったの。盛り上がっていて私が入ってきたことが分からなかったのね。教師としてはすごいけれど、女としては、ああはなりたくないって。」
    過去の話だから気にしていないように話しているが、思い出しては瘡蓋が取れているだろう。そして杉浦 恵はため息をついた。
    「仕事に没頭すると、女の幸せを捨てることになるって言っていたのよ。」

    私は大きな罪悪感に覆われた。私も若い頃、結婚をしていない30代以上の女性教師を見て、ああはなりたくないと思ったことがある。まだまだあの頃は結婚が女性のステータスだと思われていた時代だから。私は杉浦 恵の目をじっと見た。少し泣きそうになった。勝手に幸せの定義を決めつけていたあの頃の自分に後悔をする。

    「でも、きっとそう思われているだろうなと思っていたから、傷はついたけれど、傷ついたままでいた訳じゃないの。それでも仕事を頑張ろうと思ったわ。」
    若い教師の軽い言動で傷ついたままではなかったという杉浦 恵の言葉に私はホッとする。杉浦 恵を傷つけた若い教師と若い頃の私が重なり、私は心の中で杉浦 恵に謝罪を繰り返した。
    杉浦 恵の話すトーンが落ち着いてきて、淡々と過去を語り出す。

    「そんな中、育休明けの教師が、私の担任していた学年を次の年に担任したのよ。その育休明けの教師は、我が子の熱でよく早退したり休んだりしていたし、お迎えで早く帰るし、あんなに私が力を入れて見ていた学年なのにって、ちょっとムカついたのよね。」
    私の復帰し始めもそうだった。申し訳ないと思いながらも、休んだり早退したりせざるを得なかった。ムカつかれていたこともあったのだろと思った瞬間、杉浦 恵への罪悪感が少し薄れた。「ああはなりたくない」と思ってしまった代わりに、ちゃんとどこかでムカついてくれているのなら良かったと、変な安心感が湧いた。杉浦 恵の目にうっすら涙が溜まってきていた。

    「だけど、保護者懇談会の時にたまたまその学級の近くを通って、話が入ってきてしまったの。保護者が育休明けの担任をとても励ましていたわ。子育てしながら大変だから無理しないでって。」
    目にうっすら涙を溜めながら思い出しては悲しい笑いを繰り返す杉浦 恵を見ていられなくなった。
    「挙句に、子育てしている担任の先生の方が気持ちをわかってくれるから、親としてはありがたいって言った保護者もいたのよ。」
    私は何も言えなかった。言葉を考えても何も出ない。杉浦 恵を苦しめている教師の1人であっただろうから余計に何も出てこない。喉の奥に唾液が勝手に流れていく感じがして苦しくなった。私は唾液を大きく飲み込んだ。

    「それでも私は強かったの。私は男性のように働けば良いと思った。管理職も男性ばかりだったし、男性のようにキャリアを積もうと思ったの。でも、若い教師だけじゃなくって、教師って陰口を叩くのが下手なのよ。本人に聞こえてしまっているのよね。」
    まだ杉浦 恵を苦しめる何かがあるのかと気が落ちていく。でも杉浦 恵は話をやめない。私は呼吸が浅くなっている。口までずっと水に浸かり鼻だけで呼吸を続けているような気持ちであった。
    「杉浦先生が管理職になったら、子育てしている教師のことは理解できないだろうから、働きにくくなるのではないかって、女性教師たちで言っていたの。聞こえないように徹底してくれれば良いのに。」
    無言のままではいられない。私は言葉を探し始めた。探している途中に杉浦恵はラストスパートをかけるように強く早く言葉を出してきた。
    「そして、市内で初めての女性管理職が、子育て経験者だった。管理職が子育て経験者の女性だと、安心だよねって女性教師たちは言っていたの。」
    私は悲しい表情だけを必死に作った。杉浦 恵はたくさん傷つけられてきたのだ。言葉を探し続けながら、杉浦 恵の気持ちは、私には十分、届いていることを必死に表情で伝えるしかなかった’。

    「それでも私はその辺の女性とは違う、男性のように仕事に生きていくってそれだけを支えに仕事をしていたのだけれど、男性も権利を使って休むようになったし、家庭のために早退も欠席もするようになった。子どものために早く帰り出した。」
    杉浦 恵の諦めしかない言葉と話し方に、やっぱりどこを探しても言葉が見つからない状況に私も言葉を探すのをやめた。

    「神森さん、私は取り残されたのかしら?」
    杉浦 恵を慰める言葉はない。慰めてほしい訳ではなさそうだから。杉浦 恵は取り残されたと思っているのだろうが、本当に取り残されたのだろうか。
    「なぜ、時透先生に厳しく当たるのですか?」
    私は場を繋げる為に、とても聞きたい質問をした訳ではないが、質問をした。

    「仕事より家庭。それは良いのよ。でも主張しすぎなの。できません!無理です!家庭がある人を配慮すべき!しんどい学年は持ちません!高学年は授業数が多いから持ちません!早く帰れないから!僕はやりません!って。」
    時透 敏志が言ったであろう言葉を杉浦 恵が並べた。杉浦 恵は言い終わった後に笑っていた。時透 敏志を、宇宙人であるかのように思っているようだった。

    「仕事の量が多くなるのが不満とか、そういうことじゃなくて、家庭を持っている人に対して、家庭を持っていない人が配慮をすべきという流れがね、馴染めないというか。」
    私が話を理解しているかどうか探るように杉浦 恵が私の顔を覗く。
    「お互いに理解はできなくても大変なことは想像できるし、お互い様とは思っているのよ。でもお互い様では実際無いのよ。」
    私は大きく頷いた。確かに、仕事量で言えば、家庭を持っている教師は配慮をしてもらいやすい。しかし、家庭を持っている教師は家庭に帰った後も家庭の仕事があり、配慮をしてもらわなければいけない現状があるのは間違いない。しかし、配慮を当たり前に思うなということなのだろう。配慮が当たり前になってきている分、仕事が減っているのではなく、誰かが代わりにしているという現実があることを忘れてはいけないのだ。

    「でもただの愚痴よね。ごめんなさい。結婚して子どもがいる人生だったら、もっと違ったのかななんて、後悔もあるから、こんなにも性格が歪んでしまったのかもしれない。」
    杉浦 恵は決して性格が悪いとは思わない。たくさん傷つけられてきたから、もうこれ以上傷つかないように、都合の良い優しさを捨てたのだろう。杉浦 恵の判断は、決して間違ってはいないと思った。

    「杉浦先生は、子どもたちの不穏な空気とか、いじめの始まりとか、そういうのを察知するのに長けていらっしゃるのでは?」
    私の唐突な質問に杉浦 恵は首を傾げた。
    「そういうことのアンテナはいつも張っているつもり。見逃していることもあると思うけれど。」
    「でも大きな問題にはなっていないのでは無いですか?」
    「そうね。ありがたいことに。それが何?」
    私は正しいことを言える自信はなかったが、率直な思いを伝えようと思った。杉浦 恵を怒らせないことだけを願いながら。
    「陰口とか、嫌なこととか、そういうことに遭遇しやすいのは、そういったことにアンテナを張っているからだと思いました。アンテナを張らなければ気づきもしませんから。」
    杉浦 恵は少し和らいだ様子で笑った。
    「そうね。確かにそうかも。誰かが何か嫌なことを言っているんじゃ無いかなってすぐに思う癖はあるわね。それが自分の良いところなんて思ったこともないけれど。」
    「でもそれが、大きな問題のない学級を作っていらっしゃる要因でもあると思います。」
    杉浦 恵は私を優しい表情で見ている。こんな表情をするのだと思った。ベテランならではの、優しく温かい教師の表情だ。
    「私はどうしたら良い?」
    杉浦 恵は優しい表情のまま私に質問をする。

    「そのままで良いのではないでしょうか。杉浦先生に感謝をしている子どもも保護者も先生達も大勢いるはずです。いるに決まっています。そっち側のアンテナをもっと張られても良いかもしれませんね。良い声を聞くアンテナです。」
    杉浦 恵は頭を下げた。

    「長く話してごめんなさい。愚痴を聞いてもらうと、お代はいくらになるのかしら?」
    「初回相談は無料です。」
    杉浦 恵が手を出した。私はその手を握った。気づけば私の目から涙が落ちていた。


    「高田 塔矢と牧田 慎二」

    2件目の依頼は、その日の帰り、スーパーで味噌を探している時が始まりだった。

    「神森先生?」
    数ヶ月前まで私は「先生」だった。懐かしい響きに身体がゾワっとした。振り向くと、高田 塔矢だった。
    「高田先生!?」
    私はびっくりと会えた嬉しさで、高田 塔矢の肩を叩いた。理想と現実に打ちのめされていた高田 塔矢はそこにはいなかった。髪が少し明るくなっていて、服装もラフな感じでオシャレで、とても元気そうなのがよくわかった。
    「久しぶり先生!」
    「もう今、先生じゃないですけどね。神森先生は聞きましたよ。面白いことしてるって。」
    「私も、もう先生じゃないけどね。」
    二人で味噌売り場の前でクスクス笑いながら話をした。一緒に仕事をしている時、高田 塔矢とこんな穏やかな気持ちで笑って話をした記憶が無かった。

    「僕、今、全然違う仕事しているんですよ。マーケティングの仕事で。楽しいですよ。」
    「今から仕事?」
    仕事っぽくない格好だが、今の時代、服装なんて関係ないような気もする。

    「小学校の時の恩師と会うんですよ。」
    「すごい!今も繋がっているんだね。」
    「あっ、神森先生の今の仕事、業務代行サービスkawarima-s、紹介しておきますよ。」
    「何で知ってるの?」
    「いや、同期が教えてくれましたよ。有名ですよ。」
    「いやいやいや。」

    高田 塔矢は水だけを買い、私は味噌だけを買った。高田 塔矢と恩師が会う店が、私が向かう駅の途中にあるというので、そこまで二人で歩くことになった。当時のしんどかった思い出を笑って話せる今がとても尊く感じる。

    店の前に着き、高田 塔矢は深々と私に頭を下げた。
    「神森先生にはとても感謝をしています。」
    感謝されるようなことは何一つ思い出せないが、私も高田 塔矢に会えて嬉しかったので笑顔が溢れた。
    「ありがとう。お互い、頑張っていこうね。」
    そう言って立ち去ろうとした時、高田 塔矢の肩が揺れた。

    「おぅ!塔矢!」
    高田 塔矢の肩ごしに、ハツラツとした弾むような声をした中年の男性が顔を覗かせた。
    「牧田先生!」
    高田 塔矢は無邪気な笑顔を見せた。

    牧田先生。同じ苗字の教師なんて山ほどいるが、常田 舞の依頼で対応した佐藤 清子の忘れられない教師も同じ苗字だったことが脳裏を掠める。

    「僕の恩師の牧田先生。そしてこちらが、辞めた年にお世話になった神森先生。」
    高田 塔矢は私と牧田を繋げるようにそれぞれを紹介した。
    「初めまして。神森 祥子と申します。」
    私は会釈をして自己紹介をした。
    「初めまして。牧田 慎二と申します。僕、神森さんを知っていますよ。業務代行サービスkawarima-sの神森さんですよね。常田先生と佐藤さんの件に関わった神森さん。」
    牧田 慎二はそう言って爽やかに笑う。爽やかな笑顔のはずなのに、なぜか私は挑戦状を叩きつけられたような気分になった。

    「もうご存知なのですね。」
    私は爽やかな笑顔で返したつもりだ。なぜ知ったかの経路を聞きたいところだったが、それはただの興味であって仕事には関係がないので、聞くのをやめた。

    「僕も代行サービスを使いたいなぁ。使って良いですか?」
    爽やかな笑顔で頭をポリポリ掻きながら話す牧田 慎二から今度は挑戦的なものは感じず、何だか申し訳なさそうな雰囲気すら感じた。私は色々と困惑している。
    「もちろん。」
    穏やかな心情を持って返事をしている様に見せた。そして私は名刺を牧田 慎二と高田 塔矢に渡した。
    「いつでも待っています。」
    そう言って私は駅に向かった。


    その日の夜、娘と夜ご飯を食べた。
    「美味しい?」
    「うん。」
    「学校、楽しかった?」
    「普通。」
    娘は決して拗ねている訳でも怒っている訳でもない。
    ただ、私との会話がめんどくさそうである。

    「あっ。」
    突然、娘は何かを思い出したかのように持っていた箸が止まった。私は何か頼られるのではないか、会話が続くのではないかと、変な期待がこみあげる。
    「どうしたの?」
    私は少し前のめりだったと思う。
    娘はご飯を味わうことを捨て、口の中に掻き込んだ。
    「ご馳走様!」
    食器を下げ、食器を洗う娘。洗った食器を乾燥機の中に丁寧に入れている。自分のことは自分でしてほしいと、冷たく言い放ったことがある。それを守った娘はしっかり自立している。しかし、今になって申し訳なさと罪悪感が込み上げる。
    娘はTVの前に座り、推しのアイドルが出る歌番組を見出した。
    「推しが出るの?」
    聞いてみたが、TVに夢中でもう私の声は届いていなかった。
    もう少し早く、もう少し強く、娘との時間を大事にしたいと思えていたら良かった。私は食べる気が失せてしまい静かに箸を置いた。


    次の日、牧田 慎二から電話があった。業務代行サービスの依頼であった。牧田 慎二の休みである土曜日に会うことになった。
    「神森さんには色々言いたいし、聞きたい。」
    牧田 慎二はそう言って電話を切った。私は少なからずその言葉がきになって、土曜日までがいつもより長く感じた。


    土曜日

    レトロな喫茶店で牧田 慎二と会うことになった。私が入ると、奥の席から牧田 慎二が手を挙げていた。私は頭を下げて、牧田 慎二の席に向かった。

    「お待たせいたしました。」
    「いや、僕も今、来たところです。何飲みます?」
    「コーヒーで。」
    牧田 慎二は店員を呼び、コーヒーを2つ頼んだ。

    「ご依頼内容をお聞かせください。」
    常田 舞の依頼については聞かず、そして、特に気にしてもいない雰囲気を出しながらPCを取り出した。

    「改めて自己紹介しません?」
    牧田 慎二はにこやかに私に伝える。
    「そうですね。」
    私も牧田 慎二くらいの笑顔に調節する。

    牧田 慎二が自己紹介をしようとした時、店員がコーヒーを持ってきた。
    「僕は、コーヒーにはミルクを入れるタイプです。」
    と言って、ミルクをコーヒーに入れた。
    「でもね、ミルクをスプーンで混ぜることはしません。自然に混ざっていく中で飲むのが好きです。」
    牧田 慎二はコーヒーを口にした。

    「私はブラックですね。」
    そう言って私もコーヒーを口にした。
    「大人ですね。」
    牧田 慎二は私を見て言った。

    「僕は、46歳です。神森さんは教師20年で辞めたと聞いたので、23歳で教師になっているとしたら、僕は神森さんより3つお兄さんですね。あっ、女性への年齢はハラスメントですかね。すみません。こんな感じで、時代に取り残されたおじさんです。」
    おじさんという感じがしない。お腹は出ておらず、髪型や服装にも気を遣っている感じがした。そんなところをジロジロ観察する私もハラスメントなのかもしれない。
    「私も、ハラスメントをしてしまっている側では無いかとビクビクしながら仕事をしていました。年齢を重ねると、気を遣うことが増えますし、気を遣わなければいけない時代になりましたね。」
    牧田 慎二は少し笑いながら頷いている。私も笑いながらコーヒーを一口飲んだ。牧田 慎二はコーヒーを飲み終える私のタイミングを見計らっていたかのように、私がカップを置いた瞬間、話し始めた。

    「僕からの依頼は2つあります。1つ目は、今日、僕の話を聞いて、神森さんから感想が欲しい。2つ目は、その感想次第で2つ目の依頼を頼むか、諦めるかをします。」
    何かのクイズを出されているように思った。正解を考えなければいけないような気分になりながら頷くとすぐに牧田 慎二から助言があった。
    「僕にとっての正解を考えないでください。牧田先生が欲しい言葉は何だろう、これは無しで。僕が欲しいのは神森さんが素直に感じた感想です。」
    心の中を読まれているように思った。私は唾液を飲み込んだ。
    「わかりました。」
    私はさっきより大きく頷いた。牧田 慎二は私に笑顔を向ける。牧田 慎二が整った顔立ちであることになぜかこのタイミングで気づく。

    「僕は、子どもの為に仕事をしたいと思っています。」
    唐突に牧田 慎二が本題に入った。私は無意識に姿勢を正した。
    「研修が入っています。もちろん事前にわかっています。」
    牧田 慎二が人差し指を立てて話し出した。よく聞いて考えてほしいという表現だろうと思った。
    「しかし、その日、友だちとなかなかうまく遊べないA君が、放課後、友だち3人と遊ぶ約束をした。嬉しいけれど、緊張する。うまく遊べるかわからないから、公園には行けないかもしれないと言うんです。先生も一緒に遊べない?と、聞いてきました。」
    ここまでは理解できますか?という表情をしながら、牧田 慎二は人差し指を下ろした。私は目を少し見開いて頷いた。

    「最初の1歩って怖いじゃ無いですか。でもその1歩を踏み出せば、もう大丈夫って言うのかな。」
    牧田 慎二は冷静に、でも身振り手振りをしながら伝えてくる様子はとても熱いものを感じる。私はその度に頷く。そして牧田 慎二は続ける。

    「他の3人にA君が先生も誘おうと言っています。僕は子ども達と良好な関係を築いていたので、僕を誘う提案をしたA君が賞賛されていたんです。だから僕は、研修に出ず、公園に行きました。A君も楽しそうでしたし、みんなも楽しそうでしたし、僕も楽しかった。」
    そこまで話して牧田 慎二はコーヒーを飲んだ。楽しかったことを思い出し、牧田 慎二の表情は良かった。しかし、カップを置いた後、すぐにその表情は曇った。

    「もちろん、研修をしてくれる先生にも、同じ学年の先生にも、管理職にも公園に行くことを言いました。みんな良い顔をしません。また?研修サボるの?みたいな顔をされます。さぁ、神森さん、僕は、そういう教師です。僕のしていること、どう思いますか?」
    突然の問いかけに私は少しだけ握りしめた手を口元に持っていき、眉間に皺を寄せて考えた。よくドラマで見るポーズを自分もする時がくるなんてと、どこか冷静な自分もいる。

    「子どもたちにとっては、良い教師ですし、A君は忘れられない1日を過ごしたでしょうし、何も悪くないのではないでしょうか。ただ、学校現場的にはどうなのでしょう。その研修は教師として必須であるとか、現場の共通認識を図るために絶対に必要とか。」
    牧田 慎二は良い教師である。子どもたちが救われているのだから。しかし、牧田 慎二のような教師ばかりだと、今の学校現場は運営に苦しむだろう。

    「そもそも、その日、休んでいる教師がいたり、生徒指導の保護者対応などで、研修に出られない教師だっていたんです。僕はね、仕方ないと思うし、研修より目の前の子どもたちのことで何かあるならそっちを優先すべきだと思うんです。子どもたちのことを後回しにして研修を優先させる価値観が僕にはなくて。」
    私も少なからず、その意見には賛成だった。ただ、まだ賛成とは伝えないでおこうと思い、賛成であると伝えることを止めるためにコーヒーを飲んだ。牧田 慎二も同じタイミングでコーヒーを飲み、話を続けた。

    「生徒指導の一貫で、保護者に電話をしていた教師に、研修を先に受けろって言ってる教師がいたんですよ。そんな教師から見たら僕なんて公園で子どもたちと遊ぶ訳ですから、頭がおかしいと思われています。僕には何も言ってきませんけど。」
    牧田 慎二は少し笑ってコーヒーを飲んだ。私は少し胸が痛くなった。しかし、私は牧田 慎二の意見に賛成ながら、どこか引っ掛かりも感じている。それが何なのか探るように思いを伝えた。
    「学校で起こったことの生徒指導や保護者対応は別として、放課後は学校管轄外という境界線を引こうとしている中、そうやって放課後に学校外で教師が関わってしまうと、引けるものも引けなくなるのではないかと思いました。」
    「なるほどね。」
    蒔田 慎二は少し拗ねたようであったが、私の意見を素直に受け入れる様子で、返事をした。

    「僕は、極論の行動をしていることはわかっていて、でも、変えるつもりは無いんだけど、今更、変えられないから、ずっとこの考え方だし。ただでも、やっぱり、自分は古いのかなって悩むこともあります。」
    牧田 慎二も時代の流れや現場の変化に、苦しんでいる一人なのだ。源 三治や杉浦 恵と重ねてしまう。

    「良い教師って、子どもに対して熱くて、子どもがちょっとでも成長できるように、授業のやり方とか試行錯誤したり、どんな声かけしていこうかなって考えて実践したりし続ける教師だと思うんです。」
    牧田 慎二と私は同じ世代の教師たちから同じことを教えられてきたのだと思った。牧田 慎二は私の表情が自分への賛同に近いものだと理解したのか、安心して言葉を選ばず話しているように見えた。
    「そもそも信頼関係がなければ何もかもうまくいかないから、子どもとの信頼構築を頑張るじゃないですか。その為には時間を惜しんで一緒に遊ぶことって大事ですよね。これって、もう古いですか?」
    私にもわからない。私もそういう教師が良いと教わってきたし、そういう教師を目指してきた。でも、近年は、そういう教師になれない現場での激務があった。だから、常田 舞は、全てを効率重視にしたのだ。牧田 慎二や私、そしてその上の世代が作った「悪しき文化」を断ち切る為に。しかし、それが「悪しき文化」とは、私は到底、思えないでいる。現代に残った形が現代に合わないだけで、やってきたことは正しかったはずである。

    「なぜ古いと思われるのですか?」
    私は牧田 慎二が何と答えるか興味があった。早く答えが欲しくてソワソワしている自分に気づく。

    「だってさ、今、良い教師って、パソコンやタブレットをずっといじって、効率良く業務を回して、17時で帰る教師がすごいって思われてない?そして、学級がそれなりに落ち着いてたらOKみたいな。個々が勉強できるようになったら良いみたいなさ。塾じゃん。」
    思いが溢れたのか、牧田 慎二から敬語が消えた。そして、私の顔を見て静かに問う。
    「効率重視の教師と僕、どちらが異質なのでしょうか。」
    常田 舞と牧田 慎二を比較しているように思えた。確かに。この激務の中、17時で帰れる教師はすごいと思うし羨ましく思う一方、何か大事なことを捨てているのではないかという懸念はある。

    「佐藤 孝之くんのお母様やお兄さんは、牧田先生を絶賛していましたよ。」
    これは事実である。佐藤 清子は今だに牧田 慎二を忘れられないでいる。
    「いやいや、僕がすごいのでは無くて、周りにそういった教師がいなくなったから、ありがたいことに目立つだけです。でも、やっぱり、そういった僕のやり方で救われている親も子もいる訳じゃないですか。」
    「でも、牧田先生の後に担任を持った常田先生は少なからず、牧田先生と比べられて困ってはいますよね。」
    「だからって、僕は常田先生みたいにはなれない。もちろん逆も同じで。僕の後だからうまくいかないって、それはあまりにも他責に思うんです。」
    正解がわからないが、とても大事な話をしているように思えた。私が教師を辞めた理由が、牧田 慎二との会話の中でもっと明確になりそうな気がした。
    「みんな違ってみんな良いとか言いながら、みんな同じを求められる現場にもううんざりしています。」
    牧田 慎二は諦めたような笑顔を私に見せた。

    「ここ数年、教師という仕事の人気がなくなって、人手不足になっている。若い先生もすぐに辞めてしまうケースが多いし、神森さんみたいに、経験のある先生たちが辞めていく。僕は、教師の仕事が教師の仕事でなくなっているのが原因ではないかと思っています。」
    「それは私も同じです。」
    私は少し熱くなった。熱くなった気持ちを冷めかけのコーヒーを飲んで冷まそうとした。私は牧田 慎二と似ている。牧田 慎二の考えや思いに全力で賛同できる。
    「だから、僕ね、やらなくて良いと思うことをやらないようにしているんです。」
    牧田 慎二は、何か新しいことを発見したような嬉しそうな顔つきで言ったが、決して嬉しいのでは無いことがわかる。現場と自分の思いの違いに、どうしようもなかったのだろう。しかし、私は牧田 慎二のようにはできない。

    「必須でない研修は、子どもたちに何もなければ出ますが、何か子どもたちにあった場合は子どもたちを優先するし、何もなくても、面白い授業が思いついたら、それを完成させるために教室にこもります。会議も同じです。」
    研修や会議に出ないと言い切る教師を初めて見た。とても興味深かった。私は牧田 慎二の話の続きを早く聞きたいと目を細めた。

    「会議資料を見たらわかるじゃないですか。そもそも会議で何を言ったって、発言の強い教師の意見が通るし、早く帰りたい教師は会議中に別のことをしているし、疲れきった若手は寝てるし、あれは、何かと喋りたい人たちのための集まり、そして、会議をしてみんなで決めたという事実が欲しい管理職のための集まりでしょうね。」
    開き直りと覚悟が滲み出る声色であった。私は牧田 慎二に魅力と怖さを感じていた。

    「書類やアンケートもね、僕、基本的に絶対に出さないといけないもの以外、出さないんですよ。」
    良い話をしているようには思えないが、納得できる話でもある。私は頷いて良いのか悪いのかわからない気持ちで首を斜めにして頷いた。

    「みんなちゃんと出すから、どんどん増えるんです。そんな物に意味ないって言葉と態度で抗議をしていかないと、意味のわからない業務が増えるばかりですから。」
    私は納得はできるが、引っかかる部分が何なのかを見つけるために少し時間をくださいと言って頭を掻いた。

    「出さなかった書類は、どうなっているのですか?もしかしたら、誰かが代わりにやってくれているとか?」
    私は引っ掛かっている部分を探すように質問をした。
    「わかりません。もしそうなら申し訳ない気持ちはあります。でも、やらなくて良いものは良いと思っています。そんなことに時間を割くなら、目の前の子どもたちのことを優先的にすべきです。」
    語尾を強める牧田 慎二は、自ら孤独を選んだように思える。しかし、牧田 慎二は話が上手なところを見ると今まで色々な人とコミュニケーションを取りながら仕事をしてきたのだろうと思った。本当は仲間と共に進んでいきたいタイプの人間なのだろ。

    「みんな結局ちゃんとやってしまうから、現場が悪化していっているの、わからないんですかね。真面目な人が多いんですね。」
    牧田 慎二のように感じている教師はいるだろう。私もその一人だ。しかし「やらない」選択肢を選び、実行することは、ほとんどの教師はできないはずである。

    「さぁ、神森さん、どう思いますか?僕は正しいですか?間違っていますか?」
    牧田 慎二が欲しい答えを探してはいけない。しかし、どうしても牧田 慎二の心情を考えてしまう。正しいという答えを貰って、これからも教師を続けていきたいのか、間違っているという答えをもらって、教師を辞めるきっかけを作りたいのか、新しい発見が欲しいのか。
    何だろうと考えていたら、また牧田 慎二が話し出した。
    「ダメですよ。僕が欲しい答えを考えないでくださいと言ったはずです。」
    私は静かに頷いた。

    「私の娘には牧田先生のような先生に担任になってほしい。でも、同じ職場で一緒の学年団になったら、嫌です。」
    「なぜですか?」
    牧田 慎二は質問したが、きっと私が答える内容を思い付いているはずだ。今まで散々、色々言われてきただろう。しかし、今は誰も何も牧田 慎二に言わなくなってしまったからこそ、牧田 慎二は誰かに何かを言ってほしいのではないかと思った。

    「子ども思いの先生に担任をしてもらえるなんて、しかも事細かに見てくださる。親として、安心です。」
    牧田 慎二は笑顔で頷いたがどこか悲しみが滲み出ていた。しかし、牧田 慎二が聞きたい理由は後者であることはわかっている。私は言葉を選ぼうとしたが、やめた。牧田 慎二は孤独を選んだが、それが正しかったことなのか揺れているのかもしれない。誰かの意見を聞きたいけれど、聞けない状況にしてしまった自分を多少なりとも後悔しているはずだ。だから、私が伝えなければと思った。

    「牧田先生の仕事は、子どもには届いています。でも、そのぶん、誰かの仕事を増やしているかもしれない。そこを見ないまま“子どものため”と言い切るのは、少し怖いです。」
    私と牧田 慎二は沈黙のまま5秒くらい目が合っていた。
    先に逸らしたのは牧田 慎二の方である。私は続けた。

    「仕事が増えた教師も、牧田先生と同じように、子どもたちをみたいと思っているかもしれない。でも、学年として、学校として、やらないわけにはいかない。だから、牧田先生の分もやって、学年や学校として丸くおさめている。そういった現状があるのであれば、牧田先生のしていることは、自分勝手なのかもしれません。」
    思い当たることがあるのか牧田 慎二は下を向きながらも頷いている。私はコーヒーを飲んで深呼吸をする。牧田 慎二は私の方を向き、少し笑いながら、問いかける。
    「もっと思うことはありませんか?僕に喝を入れてください。」
    「喝なんて。私は続けることをやめた人間ですから、偉そうには言えません。」
    「言ってください。もう誰も僕には言わなくなりました。だから、思っていることを言ってください。」
    私は正しいかはわからないが、思っていることをちゃんと伝えようと思った。

    「他の先生は面白くない地味な仕事をコツコツしているのに、子どもたちや保護者の方々からスポットライトを浴びるのは牧田先生。他の先生からしたらちょっと面白くないかもしれません。意味が無いと自分で判断して、ましてや、やらない選択肢なんて、無理ですよ。若ければ若いほど。」
    私は自分の現役の頃を思い出し、あの頃の自分を慰めるように言った。あの時、高田 塔矢に
    「もうやらなくて良いよ。私もやらないから。」
    なんていう言葉は思いもつかない。でも、牧田 慎二なら高田 塔矢にそう言っていたと思う。だとしたら高田 塔矢は辞めずに元気に教師をしていたのだろうか。
    私は牧田 慎二に思いを伝えた後、伝えて良かったのかと後悔がジワジワ襲ってきた。高田 塔矢を想像したことによって牧田 慎二の方が正しいのではないかと思ったからだ。しかし、私は言葉を続けた。

    「私は、効率重視の業務を淡々と片付けていく常田先生も、子どもファーストで仕事をされる牧田先生も、どちらも、何も悪くないと思っています。」
    牧田 慎二は私の目をただ見ていた。私の次の言葉を待っているようであった。

    「悪いのは、誰の何のためにしている仕事なのかが、明確にならないまま、たくさんの仕事をこなさなければいけないことだと思います。」

    うまくは言えないが、牧田 慎二は良い教師だ。牧田 慎二のような子ども思いの教師が批判されたり、やりにくさを感じたりしながら毎日を過ごすのは、あまりにも悲しい現実である。こういう教師が生き生きと働けたら、きっと良い学校になるのだ。自身が生き生き働くために、牧田 慎二は、意味がないと判断したものはやらないと徹底しようとしたのだろう。

    しかし、源 三治が牧田 慎二を応援できなかった理由もわかる。牧田 慎二は信念を貫いていたが、それは周りからみたら、ただ自分勝手な行動にしか見えないからだ。

    そして、自分勝手にしか見えていないことを牧田 慎二は察している。きっと、自分がそういうスタンスを取ることで、周りも同じようなスタンスを取ると思い先陣を切ったが、実際は違ったのだ。誰もついてはこなかった。今となっては自分の覚悟が他人に迷惑をかけてしまっていることを、きっと牧田 慎二はわかっている。
    だからこそ、私に電話をしてきたのだろう。

    「牧田先生の熱意は変わらないでいてほしい。変わるべきは、現場です。」
    牧田 慎二の目にうっすら涙が滲んだ。きっと、教師の仕事を誰よりも愛しているからこそ、教師の仕事を守りたかったのだろう。そして、子どもたちの楽しそうな姿が単純に大好きで、学校に登校する子どもたちの笑顔をも守りたいと思っていたに違いない。良い教師だ。良い教師を潰している現場を変えなければいけないと、私は強く思った。

    「牧田先生、2つ目のご依頼、お聞かせいただけますか?」


    牧田 慎二の2つ目の依頼

    1週間後、牧田 慎二に呼ばれ、牧田 慎二の学校の門の前で待ち合わせをした。
    「わざわざ、すみません。業務を手伝ってください。」
    依頼内容を何も聞かされていなかった私は、少し動揺した。
    「今からですか?」
    「はい。」
    「校長先生には許可を取っていますか?」
    「はい。大丈夫です。」
    私が直接、校長に会って挨拶する時間を作ってほしいことを伝えた。
    「わかりました。」
    牧田 慎二は私を校舎に招き入れ、校長室へ行く間に、依頼内容を話した。「子どもたちと遊んでいる間、業務をしておいてほしい。」
    という依頼だった。

    校長室に案内をされた瞬間、校長先生から私に握手を求めてきた。私は驚きながらも握手を仕返し、挨拶をした。
    「有名人の神森さん!松本先生から話を伺っていますよ。」
    松本 透の影響力を感じ、奢る時はそれなりの店でないといけないのではないかと心配になってきた。その後、無事に校長に許可をもらい、校長から職員全員に私の紹介をしてもらった。
    「先日、指導主事で来ていただいた松本先生がお話くださった、業務代行サービスkawarima-sの神森さんです。」
    その一言で、教師たちから拍手を受け、今まで壁の高く入るだけに労力をたくさん減らされた職員室にスムーズに入れたのだ。松本 透は私の事業を広めようとしてくれている。

    牧田 慎二は「提出書類一覧」の紙を私に出した。締め切りが今日のものもある。
    「神森さん、コレ、全部やってくれませんか?僕は必要ないと思っています。やらなくて良いと思っています。でも誰かに迷惑をかけています。迷惑をかけるつもりは無いんです。」
    私は少し笑ってしまった。牧田 慎二はやっぱり良い教師だと思った。そして、牧田 慎二の提出書類一覧の中には、子どもたちに関わるものは一つもなかった。個人情報のことがあるから当然なのかもしれないが、きっとそれだけじゃない。この事業が教育現場と連携され、個人情報を共有できることになっても、牧田 慎二は、子どもたちに関わることは絶対に頼んでこないだろうと思った。子どもたちに関わる仕事は全部、自分でやりきりたいと思っているに違いない。

    牧田 慎二は職員室で大きな声でその場にいる教師たちに声をかけた。
    「もし、今日、すぐに帰りたい先生。学級通信を書いたり、明日の授業研究をしたりしたい先生。その他、僕のように子どもたちと遊びに行きたい先生。ここにいる神森さんが、業務を手伝ってくれます。僕がお金を払います。頼みたい人は頼みましょう。ただ、1人1業務でお願いします。僕はお金が無いので。」
    周りにいた教師たちは、ビックリしたような顔つきだったが、若い教師たちほど目を輝かせて私に頼んできた。

    「教室の掲示物をお願いしたいです。」
    「この書類を完成させてほしいです。」
    「印刷お願いできますか。」
    「入力お願いします。」
    「あの先生に、コレを渡してきてもらって良いですか?私、あの人、嫌いなんですよね。威圧的で。」

    その様子を見て校長が笑っていた。
    「個人情報に関するものは頼まないように。」
    校長はそう言うと、校長室へ戻っていった。

    学校現場が業務代行サービスkawarima-sに信頼を寄せてきているのがわかる。松本 透に早く奢って感謝を伝えなければという思いが強くなった。時計を見ると15時半であった。30分以内に身体を動かす業務をやりきって、その後、2時間以内で、書類関係を終わらせようと思った。
    現役時代とは違い、途中で電話対応や会議などなく、パソコンに集中できるならいけるだろうと思った。
    実家に娘を預けることになるのが心苦しかったが、牧田 慎二が、職場に打ち解けたいと頑張ったのであれば、応援したいと思った。
    ただ、急な依頼はとても困る。今回だけは目を瞑ろうと思った。そして、他の教師の依頼分もしっかり請求をしようと思った。
    依頼された業務を開始し、耳栓を入れて集中をした。

    18時過ぎ、私の業務は完了した。依頼してきた教師たちの机にメモを置いた。教師たちは帰宅したのか、教室にいるのかはわからない。私が帰りの準備をしている時、牧田 慎二がグローブを持って職員室に戻ってきた。

    「神森さん。ありがとうございます。」
    清々しい牧田 慎二は野球が楽しかったのだろう。
    「牧田先生、突然の大量の依頼は困ります。」
    「すみません。」
    牧田 慎二はやってしまったという表情を見せた。私はその表情を見て笑った。

    「でも、皆さん、喜んでくださいましたし、みなさんが少しでもやりたい業務を優先できたのであれば嬉しいです。その為に、業務代行サービスkawarima-sを立ち上げましたから。」
    私の言葉に牧田 慎二は何かを閃いたように目を丸くした。
    「kawarima-sって、業務を代わりますではなくて、
    現場が変わりますっていう意味なんですね!」
    私の時間が止まった。代わりますという意味だったが、現場が変わってほしいという思いで立ち上げ始めた。
    そうか、変わりますという意味もあるのかと、自分でつけた名前の意味を牧田 慎二に教えられたように思った。私は思わず牧田 慎二の手を取り、握手をしていた。牧田 慎二はびっくりしながも強く握り返してきた。

    「牧田先生、けっこうな額をご請求させていただきますが、大丈夫ですか?」
    「もう、覚悟はできていますので。」
    「では、また明日、ご請求のメールをさせていただきます。」
    牧田 慎二は私の顔を見てニヤリと笑った。
    「2回目以降の依頼は、半額になりますか?」
    私も同じようにニヤリと笑い返した。
    「なりません。」
    そう言いながら、補助金が下りる制度に早くしていきいと強く感じた。

    私は挨拶を済ませて職員室を後にした。
    「現場が変わります。」
    私はその言葉を心の中で繰り返した。

    子どもたちも教師達も伸び伸び過ごせる現場にしたい。だから現場を変える。
    その一歩目は、もう始まっている。

    私は鞄を肩に乗せ直し、娘の待つ家へ向かった。



    #創作大賞2026 #お仕事小説部門


     
     
    小学生3人を育てながら週5で働く必死ママ。小学校教員歴20年.「人生再挑戦」を掲げて退職。長年「コミュニケーション」について探究し、今も学び中。 学んでいること、仕事、子育て、40代の不調、時々やらかしなど、まだ見ぬ日の目に向かって走る日々を綴っています。私が選んで、私を生きる!

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