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ひなとゆな ~薬草を求めて~   


       あらすじ
     両親と建築途中の家を見にいったひなは、二階の奥の部屋で、異世界から来たという女の人に会う。彼女は蛮族に呪いをかけられて部屋から出られない、とひなに訴える。呪いをとくための薬草を取ってきてほしい、と彼女はひなに頼む。財布の形をしていて、がまぐちを開くと犬に変わるバッグの背に乗って、ひなは異世界へ行く。薬草を栽培している女の人の夫の元へ行こうとするも、ハプニングがひなを襲う。だがなんとか薬草畑で彼女の夫に会う。忘れていた記憶を思い出させる薬草をかいで、ひなは女の人と自分の関係や、彼女との過去を思い出す。部屋に戻ったひなは薬草を彼女に渡して呪いをとき、彼女は無事に異世界に戻ることができる。
     
     
       第一章
     
     まったくもって普通──。それが最初に家を見たときの感想だった。
     今まで何度も見にいっているママが、そのつど「素敵よぉ」と目を細めて言うので、想像だけがどんどんふくらんでいって、頭の中ではいつのまにかヨーロッパのお城のような家になっていたのだ。
     日曜日、家族そろってパパの運転する車で出かけて、私は初めて建築途中の家を見た。頭の中のお城は一瞬で崩れ去った。いかにも建売住宅の見本のような家が、両隣の家に挟まれてきゅうくつそうに建っていたのだ。申し訳なさそうに肩を縮めているようにさえ見える。二階建てでベランダがついているのはいいとしても、ママが「パティオまでついて」とはしゃいでいた場所は、白いレンガを畳一枚ぶん敷きつめただけの、単なる靴を脱ぐ場所に過ぎなかった。
    「どうだ。ひな。来年はここに住んでるんだぞ」
     無言で立ちつくしている私の肩を、パパがガシッとつかんだ。見上げると、その顔が得意そうに輝いている。その顔を見たら、とても本当のことは言えなくて、私は急いで笑顔を作った。
    「うん。なかなかいい家だね」
    「そうだろう。いやぁ、ここまで長い道のりだった」
     パパはとにかく感動しているようだった。もちろん私だって、ついに一戸建てに住めるのは本当に喜ばしいことだと思う。崎川家はこれまでずっとマンション暮らしだったのだから。多分、ママが大げさな感想を私に吹き込み過ぎて、変に期待しちゃったのがいけなかったんだ。だから私は、パパやママほどの感動がないんだ……。
     ママはというと、さっそく家の中をチェックしているようで、姿が見えなかった。何を言っているか分からないが、中から声が聞こえている。私はいまだに肩に置かれたままだったパパの手から逃れると、開けっ放しになっているドアへと歩いていった。
     玄関は木の匂いで満ちていた。あと何か科学的なペンキのような匂い。壁はまだむきだしの状態だった。床にはおがくずやら、大工さんが使っている道具やらが置きっぱなしになっている。私は使い残しのコンクリートがこびりついているバケツをまたぐと、置いてあったスリッパを履いて中に入った。
    「台所、広くていいわ。ひなー。こっち来てごらんなさい」
     ママの姿がチラリと見えた。私は生返事をしながらも、台所とはぜんぜん違う方向を見ていた。玄関を入って正面にある階段。手すりはこれからつけるような雰囲気だったが、階段自体はしっかり出来上がっている。それを見たとたん、どうしても上がってみたくなった。だいたい子供部屋というのは二階にあるもの。これはチェックせねば──。
     階段は途中で折れ曲がって続いていた。全部のぼると、廊下が奥まで伸びていた。私はさっそく部屋を見てまわることにした。
     階段から一番近い部屋は和室だった。ここはお客さん用だろうか。次の部屋はフローリングでがらんとしているだけだった。今は広く見えるけど、物を置いたらきっと狭くなっちゃうんだろうな、と思いながら部屋を出る。
     再び廊下を歩きだそうとして、ふと足を止めた。聞き耳をたてる。何か音がしたのだ。誰もいないはずの二階で。
     じっと立ち止まっていると、今度ははっきりと音が聞こえた。人が歩いているような音。続いて椅子を引く音まで確かにした。どうやら奥の部屋から聞こえているようだ。
     私は怖くなった。下に行って、ママを呼んでから一緒に見にいこうか……? けれど迷ったのはほんの一瞬で、私はすぐに忍者のように爪先立って歩きはじめた。怖いことは怖いけど、どうしても一人で行かなきゃ、とふいに強く思ったのだ。なんでそう思ったのかは分からなかったけれど。
     奥の部屋のドアだけぴったりと閉じている。私は息を殺してそっとドアに耳をつけた。もう動き回っているような音はしなかったが、確かに向こう側に人がいる気配がした。大工さんが残っていたのだろうか。それか、ひょっとしてホームレスの人が泊まっていたとか? 最悪、犯罪者がこっそり寝泊まりしていたということも考えられる。
     心臓がどきどきしてきた。でも私はどうしてもこの部屋に入らなきゃいけないのだ。
     意を決すると、私はノブをゆっくりと回した。おそるおそるドアの隙間から首だけさしこむ。すると、中で座ってドアのほうを見ていたらしい女の人と、バッチリ目が合ってしまった。反射的に首を引っこめようとしたそのとき、鋭い声が飛んだ。
    「待って!」
     体が凍りついた。女の人が勢いよく立ち上がる。
    「お願いだから」
     声が震えている。私は驚いて、まじまじと女の人の顔を見た。そして今度こそ本当に固まってしまった。
     なんだろう……。この感じ。体の奥から湧き上がってくるような懐かしい気持ち。初対面なのに初めて会った気がしないという話を聞いたことがあるけれど、私が感じているのはまさにそれだった。ずっと会っていなかった親戚の人に会ったような……いや、親戚というよりも──。
     深く考えると目の奥がチリチリしてくるような、頭痛の前兆みたいな鈍痛がしたので、私は慌てて考えるのをやめた。
     女の人は顔色が悪かった。目の下にくまがある。それになぜだか、なるべく私とは目を合わせないようにしているみたいだった。目が合っても、すぐにサッとそらす。恥ずかしがっているかのように。どうにも気になって、気が付くと私は部屋の中に入っていた。背後でドアが勝手に閉まる。バタンという音を最後に、いっさいの音が消えた。
     部屋は、今まで見て来た部屋とまったく違っていた。築五十年はかるく経っているようだ。窓が一つもなくて息苦しい。中央には、童話に出てきそうな感じの、使い込んだ木のテーブルとイスがあった。テーブルの上には物が散らかっている。カバンの中身をぶちまけたみたいだ。洋服、小物、毛皮の財布──。
    「ごめんなさい。私があなたを呼んじゃったから……」
     突然、女の人が早口で言った。
    「えっ?」
     私を呼んだ? 一体どういう意味なのだろう。彼女の視線はテーブルの上をさまよっている。
    「本当にごめんなさい。巻きこみたくはないんだけど。でも、もしかしたら気付いてくれるかもって……」
     私は思わず半歩後ずさった。本当に訳が分からない。この人どこかおかしいのかも……。
     逃げ腰になっている私を察して、女の人は懇願するような必死な表情になった。
    「なんて言ったらいいのか……。でもどうかお願い。助けてください。ここから出られるように……。手を貸してください。お願いします」
     すがりつくような目で見られて、一瞬私は頭が真っ白になった。この目を私は確かに知っている。でも一体どこで、いつ見たというのだろう。だいたいこの人はなぜ崎川家の建築途中の家の中にいるのか。でもってこの部屋から出られるようにって?
    「えっと……。どういうことですか?」
     まったくもって意味不明。けれどもうこの部屋から出ていく気は完全に失せていた。この人がたとえ狂人だってかまわない。何か切実に困っているのなら、なんとしてでも助けてあげたい。私の心は自然とそう傾いていた。
     女の人はたった一つしかないイスにむりやり私を座らせると、話し始めた。
     
     彼女は、こことは別のもう一つの世界に住んでいるのだという。とある場所に向かう途中、彼女は誤って、蛮族の村に迷いこんでしまった。そこで検問を受け、ある小部屋──彼女が住む世界と、私が住んでいる世界の中間地点をしゃぼんのようにあてもなくさまよう、時間にさえ見離された部屋──に閉じこめられてしまった。呪いをかけられた彼女は、その部屋からどうしても出られず、連絡も取れなくなってしまった──。
    「──それで、呪いを解くためには薬草が必要で、それを私に取ってきてほしいと……」
     私が言うと、女の人は深くうなずいた。そんな真剣な顔でうなずかれても、まだぜんぜん事態がのみこめていない。
    「えっと……ちょっと整理していいですか? まず、別の世界があるというのはまぁおいとくとして、どうして検問を受けただけで閉じこめられちゃったんですか」
     女の人は言おうか言うまいか少し考えているようだったが、やがて口を開いた。
    「私が異世界人だからです」
    「異世界人? えっ、じゃあその世界とは別に、もう一つ世界があるってことですか? 全部で三つあるってこと?」
     思わず声が大きくなってしまった。女の人はほんのちょっぴり笑った。初めて見る微笑。それだけで顔の印象が百八十度変わる。
    「まさか。世界は、あなたの住む世界と、私が今まで住んでいた世界の二つしかないです。私の知る限りですけど。異世界人というのは、私はもともとあなたと同じ世界に住んでいたから」
    「えっ。あ、そうなんですか」
     なんかいろいろ事情がありそうだ。話がこんがらがりそうだったので、それについてはあえてふれないことにした。
    「異世界人ってことだけで閉じこめるなんてひどすぎますね」
    「ええ。その村で昔、異世界人が事件を起こしたらしいんです。どんな事件かは知らないですけど。それからは異世界人が村に入ってきたら、問答無用で幽閉するという掟になっているらしくて。そこの村人は魔族ともいって、術を使ったりもできるんです。何事にも極端で、いまだに原始的で野蛮な生活をしているから、皆近付かないようにしてたのに、私うっかり入っちゃって……」
     なんでそんな危ない所にうっかり入ったりなんてするの!と思わず叱りそうになって、慌てて言葉をのみこんだ。会ったばかりのよく分からない女の人を、年下の私が叱りたくなるなんて、どうかしている。こんなまだ子供の私に丁寧語を使っているからだろうか。もう大人な女の人なのに、すごく頼りなく見える。彼女を見ていると、なんだか胸がザワザワしてくるようだ。何かがつかえているようで、もどかしい。
     黙り込んでしまった私に、彼女は慌てたように言った。
    「あのもちろん薬草の生えている場所は、蛮族の村からぜんぜん離れてるから危険はない……と思いますけど……」
     勢い込んでいったわりには、肝心の最後が尻つぼみになっている。とりあえず疑問を一つ一つ解消すべく、私は質問を開始した。
    「あの、閉じ込められてるってことですけど、この部屋から出られないってどういうことですか?」
     すると女の人は、見ていてくださいという素振りをしてから、ドアの前に立った。ノブに手を伸ばす。だがノブに触れる数センチ手前で、まるで何かにぶつかったように、指の先だけが上向きになった。それから彼女は両手を宙にはわせるようにして動かし始めた。あたかもドアの前に透明の壁が立ちはだかってでもいるように。
     どんなにパントマイムが上手な人でも、こんなにうまく『壁』の演技はできないだろう。そこに本物の透明な壁がない限りは──。
    「私はどうしてもこのドアにさわれないんです」
     あらためて頭がクラクラしてきた。彼女が演技をしているとはとても思えない。
    「呪いをかけられてしまったから。時間が流れないこの部屋では、おなかがすくこともありません。二つの世界の中間地点だから、誰も知らないし、誰も助けにこれないんです」
     どうして私はそんな場所に入れちゃったのだろう……。もしかすると、私もこの部屋から出られなくなっちゃったとか?
     私は思わず立ち上がると、急いでドアに近寄った。見えない壁にぶつかることもなく、私の手はちゃんとノブをつかむことができた。冷たい金属の感触にホッとする。ドアを開けて、廊下に出てみた。かすかにパパとママの声が聞こえてくる。ふと、ある想像をした。このまま下に降りていって、私は二人にこう言うことだってできるのだ。
    「二階の奥の部屋に知らない女の人がいるよ」
     もしくは何も見なかったことにして何も話さず、いずれパパたちもこの部屋を見にくるだろうから、どうしたらいいかはパパたちにまかせてしまうことだってできる。
     けれど、なぜだか私にはそのどちらもできそうになかった。
     絶対に絶対に、できない。
     不思議な気持ちだった。彼女をほっとくわけにはいかない、と強く思う。私がなんとかしなくちゃという気持ち。使命感というやつだろうか……。
     私は廊下に背を向けた。閉めたはずなどなかったのに、ドアはいつのまにか閉まっている。
    『巻き込まれた』んじゃない。自分の意思で、このドアを開けるんだ。
     私は部屋の中に入った。
     女の人が全身から力を抜いたのが分かった。
    「よかった……。行ってしまったのかと思った──」
     顔がくしゃっとゆがんだ。泣きそうなその顔を見たとたん、私の口から言葉が飛び出した。
    「そんなわけないじゃない。私は見捨てたりなんてしない」
    「ありがとう……。ありがとうございます」
     女の人は深々と頭を下げた。大人の人にこんなに頭を下げられたことなんて初めてだったから、少しどぎまぎしてしまう。感謝されるのって、なんだか気持ちがいい。
     その時だった。階段をのぼってくる音がした。ママの声が聞こえる。しだいに近付いてくる足音。
    「何度も呼んでるのに、あの子ったらどうして返事をしないのかしら」
     ドアのすぐ向こうでママが言っている。急激に心臓がドキドキしはじめた。こんなにあせるのも変な話かもしれないけれど、どうしようどうしようどうしよう……とそれだけで頭がいっぱいになってしまう。この状況をどう説明したらいいんだろう……。
     ノブが回って、ドアがカチャッと音をたてた。きっとママは女の人のことを、勝手に家に入った怪しい人として非難するに違いない。
    ついにママが顔をのぞかせた。確かに私と目が合ったはずなのに、ママは表情一つ変えなかった。ぐるりと周囲を見回して、すぐ顔をひっこめると、
    「おかしいわね。いないわ」
     とひとりごとを言いながら廊下を歩き去ってしまった。私は背筋がゾウッとなった。ママには見えていないのだ。この古びた部屋も女の人も。そして、私のことも。
     今頃になって女の人に言われた言葉がよみがえってくる。
     二つの世界の中間地点。時間にさえ見放された場所……。
    「……どうかしましたか?」
     女の人が不思議そうな顔で私を見ている。無言で固まっていた私は、つばをのみこむと言った。
    「今マ、お母さんが来たんだけど、私たちのこと見えないみたいで行っちゃった」
     声がみっともなく震えてしまった。女の人は驚いたように少しのあいだ黙っていたが、やがて考え考え言った。
    「そうなんですか。私には見えませんでした。この部屋にいる限り、あなたにも見えないはずなんだけど……」
     どうして私にはママが見えて、彼女には見えないのだろう。私がこっちの世界の住人だから? でも彼女だって元はこっちの世界の住人だって言ってたしなぁ。あぁもう考えれば考えるほどよく分からなくなる。
    「もしかすると、部屋が一時的にあなたの世界のどこかにひっかかっているのかもしれない……」
     女の人がゆっくりと言った。ひっかかっている──。そうかも。でもそれにしても、よりによって崎川家の建築途中の室内にひっかからなくてもいいのに。もしかするとそのことも、彼女が私に助けを呼んでいたことと何か関係があるのかな。
     まるで私の心の声を読んだかのように女の人が、
    「あなただけがここに入ってこれたのは、多分私が必死に助けを呼んで──そしてあなたがそれにこたえてくれたから」
     語尾が震えたように聞こえて、私は顔を上げた。彼女は泣き笑いの表情で私を見ている。
     私がこたえた──。そんなつもりはなかったんだけど。もしかすると物音を聞いたとき、どうしてもこの部屋に入らなきゃ、と思ったあの時の気持ちがそうだったのかもしれない。普段はどちらかというと怖がりの私が一人で行動するなんて、考えてみれば珍しいことだったから。
     どのみち、もう引き返せない。私は女の人を見ると言った。
    「その呪いを解く薬草はどこに生えてるんですか? どうやったら私は向こうの世界に行けるの?」
     女の人の顔がパッと輝いた。一瞬、抱きつかれるかと思ったが、女の人はその衝動をおしとどめたようだった。
     彼女はテーブルの上に置かれていた財布にさっと手を伸ばした。何かの動物の毛で出来た、楕円形の財布だ。毛は着色されているのか、青味がかった灰色をしている。でも変なの。がまぐちが上下に二つ付いている。一つは銀色で、もう一つは青色だ。
    「こっちを開けると」
     女の人は銀色のがまぐちをパクンと開けた。折りたたんだお札や小銭が入っている。
    「普通の財布です。でもこっちを開けると──」
     そう言いながら今度は青色のがまぐちを開けた。そのとたん。
     私は腰を抜かしてしまった。だって突然、財布が大きな犬になってしまったのだから。
     私の驚きようを彼女はおかしそうに見おろしている。犬は、財布と同じ毛並みをしていて、口は青色のがまぐちでできていた。シベリアンハスキーの成犬をもうひとまわり大きくした感じだから、かなり巨大だ。耳もしっぽもあったが、犬には目がなかった。ついでに鼻もない。ただ毛におおわれているだけ。まるでのっぺりした着ぐるみの犬みたいだ。
    「驚かせてごめんなさい。バッグというの」
     財布なのにバッグかい。いまだに床に座り込んだまま、とっさに心の中でツッコミを入れてしまった。犬は微動だにせず立っている。
    「……さわっても大丈夫?」
     おそるおそる尋ねると、
    「もちろん」
     と力強い答えが返ってきた。私は立ち上がって手を伸ばすとバッグの頭に触れた。固くも柔らかくもない。生きている犬と決定的に違うところは──。
    「冷たい……」
     バッグはひんやりしていた。
    「生きてないんですか?」
     女の人は首を振った。
    「いえ、生きてる──と私は思います」
     さすが異世界、と私は思った。こんな超スペシャルな財布があるなんて。
    「バッグに行きたい場所を言えば、どこにでも連れていってくれます。がまぐちを開けた人の言う場所なら」
    「えっ? そこにでも連れてってくれるんですか?」
    「ええ。どこにでも!」
     女の人はバッグのがまぐちの口に手を伸ばした。閉じていた口を開く。とたんにバッグは財布に戻った。
    「す、すっごーい!」
     叫ばずにはいられなかった。
    「私も開けてみていいですか?」
    「ええ。どうぞ」
     私は床に落ちている財布を拾うと、おっかなびっくり青色のがまぐちを開けた。まるで財布が裏返るみたいにして巨大な犬の姿が現れる。面白くてやみつきになりそうだった。
    「バッグの背中に乗って場所を言えば、私が住んでいた世界に行けます。けど注意点があって……。バッグは目的地の最短距離を突っ走る習性があるんです。途中で止まることはできません。だから目的地を言ったが最後、背中にしがみついているしかないんです」
     それはかなり怖そうだ。
    「止まれって言っても聞かないってことですね」
     女の人はうなずいた。
    「目的地に向かって走るか、その場に立ち止まっているかのどちらかしかありません。座ることもないと思います。見たことがないので」
     私はしばらく考え込んだ。それじゃあやっぱり生きているって感じがしない。
     女の人が説明を始めた。
    「向こうの世界に行ったら、まずロンジさんの家に行って軟膏をもらってほしいんです。見た目には分からないけど、バッグは後ろの左足をケガしています。走るときびっこをひくから分かると思いますけど。この状態だと時間がかかりますし長く走れません。もともとバッグはロンジさんからいただいたので、バッグのことなら彼がよく知っています。ケガが治ったら、私の家に行ってください。ヒュウフの家、と言えば連れてってくれます。ヒュウフというのは私の夫です。夫はまだ、私がこうなっていることを知りません。事情を説明すれば、きっとすぐに薬草を用意してくれるはずです」
     少しばかり混乱してきて、頭を整理する必要があった。
    「えーっと、まずロンジさんの所に行って軟膏をもらって、それからヒュ……ヒュウフ?さんの所に行けばいいんですね?」
    「はい」
     女の人は勢いよくうなずいた。なんだか元気が出てきたようで、さっきより顔に赤みがさしている。
    「ロンジさんとヒュウフさんちに向かう途中で、その怖い村にぶちあたるってことはないですか?」
    「それは大丈夫です」
     力強く言うと、女の人はテーブルの上に何着かまとめて置かれていた服の中からジャケットを引っぱりだした。そのポケットを探ると、ちびた鉛筆とメモ帳を取り出す。何やらぐにゃぐにゃした線を描き始めた彼女に、私はとっさに「地図はいいです」と言いそうになった。
     私は地図が読めない。紙に描かれた場所と、実際に自分が立っている場所を照らし合わせるのが極端に苦手なのだ。だから地図を持っていてもまったく役に立たず、かえって混乱してしまうことのほうが多い。けれど、うつむいて何か描いている女の人の真剣な横顔を見ていたら、言おうとした言葉が喉で固まってしまった。
     今、この人にとっては私だけが望みの綱なのだ。私しか頼る人がいなくて、ギリギリの状態にいるんだ──。
    「ここがロンジさんの家で、ここがヒュウフの家です」
     描き終わったらしく、女の人は神の上を指さした。きっと彼女も地図が苦手なタイプなのだろう。あまりに簡単すぎて、これだけじゃよく分からない。大きな四角がロンジさんの家、小さな四角がヒュウフさんの家、雲形の丸が森(これが何個も散らばっている)、紙の端っこの三角が蛮族の村、ということらしかった。
    「……ロンジさんの家ってこんなに大きいんですか?」
     ロンジ邸と比べると、ヒュウフさんちはその十分の一くらいの大きさしかない。
    「はい。とても大きなお屋敷です。ロンジさんは大金持ちですから。私、そのお屋敷で昔働いてたんです。夫と一緒に」
    「はあ。そうなんですね」
     なんだかいろいろ不安だけど、バッグが連れていってくれるからまぁなんとかなるか……。
    「あ」
     女の人が何か思いついたような声を出した。
    「言うのを忘れてました。ロンジさんは人間じゃないんです」
    「えっ?」
     人間じゃない……。彼女のあっけらかんとした言い方とは裏腹に、その言葉はおどろおどろしく響いた。人間でなければ一体なんなのだろう。怪物とか?
    「アヒルなんです。だから会ってもびっくりしないでくださいね」
     女の人は初めてニッコリと笑った。
     
     それから私はテーブルに置かれていたこまごまとした物をいろいろ持たされた。
    「寒いといけないから一応このジャケットを持っていってください。あと──」
     小さなナップザックの中に、物を詰め込んでいる。私はそれをボーッと見ていた。自分で決心したことだけど、これから別の世界に行くなんてぜんぜん実感がない。
    「あ!」
     思い出した。パパとママはどうしよう。今頃私のことを探しているに違いない。この部屋を出ない限り、二人は私を見つけられないだろうから。だいたい、向こうの世界に行って薬草を持って戻ってくるまでどれくらいかかるのだろう……。とりあえずバッグの足を治すという話だし、すぐには戻ってこれなさそうだ。どうしよう。パパとママにひとこと言っておかなきゃ。でもなんて説明したらいい? きっと反対されるに決まってる──。
     ぐるぐる考えていると、女の人がふいに言った。
    「向こうの世界にはいろいろな薬草があります。たとえば時忘れ草」
    「ときわすれそう?」
    「戻りたい過去を思い浮かべて草の匂いをかげば、その時に瞬間的に戻ることができる特別な薬草です。その時間まで若返るという意味ではないですけど。夫が栽培しているはずです。それをもらえば、あなたはまた戻りたい時間に戻ってくることができます」
    「えっ! 本当ですか?」
     なんだかすごい世界みたいだ。いろいろ変わった物がありそう。
    「夫は薬草師なんです。夫以外、ああいう特殊な薬草を扱ってる薬草師っていないんじゃないかしら」
     女の人はちょっぴり得意そうだった。確かに、そんなすごい薬草が誰にでも簡単に作れるようだったら大変なことになってしまう。
    「じゃあいくらかかっても、また私はこの時間に戻ってくれるんですね?」
    「はい。ただし時忘れ草は一度かいだら、もう効果はないですけど」
    「一度でじゅうぶんです」
    「あと……」
    「なんですか?」
    「向こうの世界には異世界人は一定の期間しかいられないことになっています。それを過ぎると強制的に戻らされてしまうんです」
    「一定の期間って?」
    「六ヶ月。半年です」
     私は思わず笑ってしまった。
    「大丈夫ですよ。そんなに長くは絶対いませんから」
     つられたように女の人も笑う。なんだか笑ってくれるとホッとする。
     本当にこれから未知の世界に行くのだ。今朝起きたときには、いつもの日曜日の朝と何も変わらなかったのに。つくづく人生何が起こるか分からない。
    ──大丈夫。きっとすぐ帰ってこれる。なるべく早く、呪いを解く薬草と時忘れ草をもらって戻ってこよう。でも私が突然いなくなって、パパとママはものすごく心配するんだろうなぁ。それを考えると胸がきゅうっと痛くなるけど。
    「じゃあ行きますね」
     ナップザックを背負い、バッグの背中によじのぼった。まるで、テレビか何かで見た、背中に乗ってコインを入れると動く電動じかけの動物みたいだ。
     前かがみになってバッグの太い首に腕を回してしがみつくと、もうなんでもこいという気分になった。
    「くれぐれも気をつけて。よろしくお願いします」
     女の人は丁寧におじぎをした。
    「はい。じゃあ行ってきます」
     ロンジさんの家、と言おうとして、私はハッと口をつぐんだ。
    「大事なこと聞くの忘れてた。ここに戻ってくるときは、バッグになんて言ったらいいんですか?」
     すると彼女はなぜか困った顔をした。迷っているみたいにまばたきを何度もしていたが、やっと口を開くと言った。
    「ゆなのいる所、と言ってくだされば、ここに戻ってこれます」
    「ゆな……」
     思わずつぶやいてから、あれ?と思う。ゆな。友達かクラスメイトにそんな名前の人はいたっけ? でも聞いたことがあるような──。
     思案顔の私をけしかけるようにゆなさんが言った。
    「バッグ、彼女をよろしくね。頼んだわよ」
     ハッと我に返る。──行かなきゃ。
     私はゆなさんに軽く頭を下げると、バッグの耳元に口を近付けた。
    「ロンジさんの家」
     
     
       第二章
     
     突然、私のお尻の下で筋肉が動いた。グインと体が前に引っぱられる。
    「キャッ!」
     すぐ目の前にドアが迫っていた。ぶつかるッ! とっさにぎゅっと目を閉じる。
     私は体を平たくしてバッグにしがみついた。四方八方で竜巻のように風がうなっている。一体どこを走ってるんだろう……。知りたくてしょうがないけど、風圧があまりにすごくて目を開けられない。ゆなさんの言っていた、二つの世界の中間地点、どこでもない場所を通過しているのかもしれない。
     突然、ぴたりと風がおさまった。私はおそるおそる目を開けた。
     まず視界に入ったのは、後ろへ後ろへと飛び去っていくたくさんの木だった。杉に似た、ツンと天に伸びた高い木が延々と続いている。走っているのは白っぽい砂利道で、木は道の両側に整列していた。全部同じ見える木と、ひたすらまっすぐ伸びる白い道。目に入るのはただそれだけだ。
     ついに来ちゃったんだ……。別の世界に。
     辺りは静まり返っている。その時になって初めて、バッグの走り方が微妙におかしいことに気付いた。確かに後ろの片方の足だけが、遅れて地面を蹴っている。カクンカクンと体が揺れる。
     いきなり周囲がスッと暗くなった。地面に影が落ちている。私は顔を上に向けた。
    「えっ、うそ!」
     カラフルで巨大なラグビーボールが青空に浮かんでいた。──と思ったら、ラグビーボールにそっくりな形をした気球だった。バルーンの下に、ちんまりとカゴがぶらさがっている。そこから何か白いものが見えかくれしているが、逆光なのでよく見えない。
     本物の気球を見たのは初めてだった。いきなり気球かぁ。やっぱり異世界は違う。
     上を見ていたら、気球はどんどん近付いてきた。にわかに不安になってくる。もしかするとこの辺に不時着しようとしていたりして……。
     ついにカゴの中の白い正体が見えてきた。アヒルだった。丸々と太ったアヒルが、カゴの中でバタバタと羽を動かしている。アヒル……。もしかして、ロンジさん?
     なんて言っているか分からなかったが、ギャーギャーという鳴き声だけが風にのってきれぎれに聞こえてくる。ふと私は不安になった。もしロンジさんがアヒル語しか話せなかったらどうしよう……。だいたい言葉を話すアヒルなんて聞いたことないし。
     いやいやここは異世界。ロンジさんもゆなさんと会話していただろうから、きっとここではアヒルが話すのも普通のことなんだ。ゆなさんがアヒル語で会話していたとしたら、話はまた別だけど。
     気球はさらに信じられないほど地面に近付いてきて、アヒルがわめいている言葉が聞き取れるほどになった。
    「──オーイ!」
     アヒルはそう叫んでいた。手を振っているつもりなのか、羽をめちゃくちゃに動かしている。無視しているのもなんなので、私も遠慮がちに手を振り返してみた。カゴから落ちそうなくらい乗り出していたアヒルの動きが、一瞬止まったように見えた。そうこうしているうちに、気球は風に流れていってしまった。
     まだ並木道は続いている。私は定期的にカクンカクンと揺れ続けるバッグの背中の上で、一体いつこの道は終わるんだろう、と思っていた。
     
     どんなものにも終わりはあるものらしい。果てしなく続くと思われた一本道も、ついにT字路にぶちあたった。バッグは方向転換すると、右に曲がった。あまりに急に曲がったので、私は危うく振り落とされそうになった。目の前には、さっきと同じ道といってもいいくらい似ている道がまっすぐに伸びている。いい加減うんざりしかけたとき、突然バッグが急ブレーキをかけた。またも振り落とされそうになって首にしがみつく。
     ひとたび足を止めると、バッグはもうピクリとも動かなかった。後ろの左足だけが、少し曲がって地面から浮いている。私はバッグの背中から降りると、道に立ちつくした。
    「……すっごーい」
     目の前に、いまだかつて見たことがないようなものが建っていた。
     そびえ立つ二本の巨木。昔一度だけ図鑑で見たバオバブの木にそっくりだ。その信じられないほど太い幹には、ドアや窓が付いている。地面に生えている木なのに、家の一部になっているのだ。その二本の木に挟まれるようにして、岩や材木がごっちゃりと積み重ねられていた。そこにもところどころ窓やドアが付いている。頭のいかれた芸術家がデザインした博物館、といったところだろうか。
    「ここがロンジさんの家……かぁ」
     私はバッグの口を開けて財布にすると、建物に向かって歩いていった。
     近付いても、どれがメイン扉なのか分からない。呼び鈴らしきものもない。困ってしばらくウロウロしていると、
    「何かご用ですか?」
     鋭い声が後ろから聞こえてきた。バッと振り返ると、ほうきを持った小柄な女の人が立っていた。人間だ、と私はほっと息をついた。
    「ロンジさんはいらっしゃいますか?」
     女の人はけげんそうな顔で私をじろじろ見ていたが、やがて言った。
    「御主人様なら今さっきお帰りになったみたいですよ。裏庭にいらっしゃるから、もし時間があるようだったら手伝ってきたら?」
     私が何か言う前に、女の人は忙しくてたまらないといった素振りでそそくさと行ってしまった。手伝うって──一体何を?
     とりあえず裏庭に行ってみることにした。ひたすら巨大な建物の裏に回って、私は呆然とした。
     なんて広いんだろう。とにかくだだっ広い。まるでゴルフコースのような緑の敷地が、見渡す限り広がっている。ところどころに、こんもりとした森や、可愛らしい小屋も見える。
     その見晴らしのいい野っ原の真ん中で、さっき見た気球がしぼんで横たわっていた。大勢の人間が、なんやかんやその気球の周囲で騒いでいる。皆どうやらバルーンをたたもうと悪戦苦闘しているようだ。手伝うというのはこのことだったんだ。
     私は気球に近付いていった。かなり距離がある。一生懸命歩いてやっとたどり着いた。人間たちに混ざって、唯一アヒルがいた。真っ白で、人間の大人と同じくらい大きい。背中にも乗れそうだった。気球のカゴに乗っているときにはちっとも分からなかったけど、ロンジさんってこんなに大きかったんだ……。
    「そっちじゃない!」
     とか、
    「しっかりつかんで!」
     とよく通るキンキン声でがなりたてているので、とにかく目立っていた。なんか短気そうで怖いな、と思いながら私はおそるおそる声をかけた。
    「あのぅ……ロンジさん」
     特大のメレンゲのような背中が、雷に打たれたようにビクッとなった。素早く振り返ったロンジさんを見て、アヒルだ……、と私はあらためて思った。まん丸の小さな目、黄色くて平たいくちばし。
    「あの、私、ある事情があって──」
    「ゆな!」
     ロンジさんが叫んだ。
    「どうしたんだ。こんなちっこくなっちまって! まるで昔に戻ったみたいじゃないか!」
     その大声に、気球と格闘していた人間たちが、一瞬手を止めて私を見た。
    「あの、私ゆなさんじゃないです。ひなというんですが、えーっと、ゆなさんが今ちょっと困ったことになってまして、頼まれて私──」
     ロンジさんがゆっくりと首を振った。
    「なんてこったい。こりゃただごとじゃなさそうだ……」
     まだ何も話していないのに、深刻そうにしきりとうなずいている。どう説明しようかと考えていると、ロンジさんは私を見つめたまま大声で言った。
    「後はまかせた! わしは一足先にお茶にする!」
     そして羽で私の背中を押すと、せかせかと歩き始めた。ロンジさんと並んで、私も小走りになる。建物に着くまで、ロンジさんは無言だった。
     裏門の扉からロンジさんに続いて中に入った私は、思わず立ち止まってしまった。家の中は、その外観に反して、ヨーロッパの宮殿のようだったのだ。
     金ピカで豪華な家具や調度品。壁を飾る巨大なタペストリー(青空に浮かぶ気球の絵だった)。ブドウの形をしたシャンデリア風ライトが、鈴なりにびっしり吊り下がって、天井一面を覆っている。乳白色の石で出来た螺旋階段が部屋の中央に生えていた。階段には、芝生そっくりの細長い緑のカーペットが敷かれている。
     ロンジさんは、やってきた召使い風な男の人に、さささっと羽の先を振って、何かの合図をした。男の人は会釈をすると、そそくさとどこかへ消えた。私がホケーッと突っ立っていると、ロンジさんは、近くにあった、まるで生クリームをチューブからしぼり出したような形のソファを示した。少しおっかなびっくり腰を下ろしてみると、ふんわりと全身が包まれた。気持ちよくて眠くなってしまいそうだ。自分も正面にあったソファにバスンと腰を下ろすと、ロンジさんは私を見た。
    「じゃ、話を聞こうか」
    「えーっと……」
     一瞬、何から話そうかと言葉に詰まった。とりあえず、ゆなさんのことから。
    「ゆなさんが野蛮な村の人に捕まってしまって、今閉じこめられちゃってるんですけど──」
     そこまで言ったとたん、ロンジさんがソファから跳びあがった。
    「なんだって! あのムーシャ族かっ!」
    「な、名前は知りませんけど……。とにかく呪いを解く薬草が必要ってことで、私は彼女に頼まれて、バッグに乗ってこの世界に来ました」
    「ってことは異世界人か。……なるほど。確かに、さっき気球から見たのはあんただったな。ゆなに似てるけど、それにしちゃあちょっとばかしちっこいなって思ってたんだ。……そうか。ゆなの奴、うっかりムーシャの森に入って検問に引っかかっちまったんだな。フム。──で、あんたはゆなの妹か?」
    「え?」
     どうしてそんなことを言うのだろう。私はびっくりして首を振った。
    「いえ、違います」
     そのとき、どこからか甘い香りがしてきた。見ると、さっきの召使い風の男の人が、金のお盆を持って歩いてくるところだった。傍らにあった小さな丸テーブルを、片手でひょいっとロンジさんと私のあいだに置くと、その上にカップや小皿を音をさせないように並べていく。甘い香りの正体は、カップの中のピンク色の液体だった。小皿には、何やら乾燥した黄緑色の物が盛られている。
    「召し上がれ」
     そう言うと、ロンジさんは羽の先で器用にカップを持ち上げて、ズズッとすすった。それからカップを置くと、疑わしそうに片目だけ細めてみせた。もともと小さな目だから、ほとんどつぶったようになってしまう。
    「ゆなの妹じゃない? そんな訳ないだろう? それだけゆなに似てて! てっきりわしは、ゆなが子供に返っちまったのかと思ったよ」
     そんなにゆなさんと私って似てるだろうか……。確かに、初めて会った気はしなかったけど。
    「まさに今のあんたみたいな感じだったよ。ゆながここに運び込まれてきたときは」
    「えっ?」
     ロンジさんは遠い昔を思い出すかのように天井を見上げた。
    「ゆなは足をくじいて歩けなかったんだ。顔も真っ青でね。あんたが今さっきバッグと走ってた道でヒュウフが見つけた。ヒュウフってのは、当時うちで働いてた畑番の奴でね」
    ヒュウフ。ゆなさんの旦那さんだ。
    「そうだ、ヒュウフは知っとるのか? ゆなが捕まったこと」
    「知りません」
    「こりゃすぐ知らせんとな。あいつんとこなら解毒草のたぐいならいくらでもあるだろう。なんたって薬草のなんでも屋だから」
    「そうなんですか」
     相槌を打ちつつ、私は湯気をたてているカップを持ち上げた。すごい甘い香り。一口飲んでみたら、匂いと同じく激甘だった。まるでシロップの原液を温めたみたいだ。変な顔をしないように注意しながら、今度は小皿の物に挑戦してみた。お茶が甘すぎたせいか、すごくすっぱく感じる。歯ざわりはカリカリしていた。多分、何かの果物を乾燥させたものだろう。
     私はロンジさんに会ったら言うべきことを思い出した。そのためにここに来たんだった。
    「実はバッグが後ろ足をケガしていて、軟膏をもらってくれってゆなさんが……」
    「おお。そうだったか」
     ロンジさんはすぐに立ち上がると、金ピカのタンスへ歩いていった。お尻を振りながら黄色い足でペタペタと大理石の床を歩くロンジさんは、とてもこの屋敷の主には見えない。小瓶を手に戻ってくると、
    「近いうちに、これをゆなに渡さなきゃと思っとったんだ。本当はバッグをあげた時に一緒に渡せばよかったんだが。じゃあ奴を出しとくれ」
     私はナップザックの中から毛皮の財布を取り出した。青いがまぐちを開ける。バッグが出現すると、ロンジさんは嬉しそうにくちばしをカチカチと鳴らした。
    「おうおう。久しぶりだな」
     それから宙に浮いたままの後ろ足を見て、ここか、とバッグの後ろに回った。ぺたりと床に座り込むと、ロンジさんは羽の先を小瓶に入れてはバッグの足にすりこむという作業を数回繰り返した。
    「よし。これで良くなるだろう」
    「どれくらいで治るんですか?」
     ロンジさんは小瓶をテーブルに置くと腕組みをした。
    「たいしたことはなさそうだからそうはかからないと思うが、はっきりとは分からん。この曲がった足がまっすぐになったときが治ったときだね」
     それはその通りだけど。どうしよう。すごく時間がかかったら。私は急に不安になった。
    「異世界人って、六ヶ月以上はいられないって聞いたんですけど……」
    「おお、そうだな」
     だから?とロンジさんが長い首をかしげる。
    「もしバッグの足がなかなか治らなかったら……薬草を手に入れる前に私、元の世界へ返されちゃう」
     ロンジさんは喉の奥から変な声を出した。けれどそれはアヒル本来の声に似ていた。
    「大丈夫さね。方法はいくらでもある」
    「方法って──六ヶ月過ぎてもこっちにいられる抜け道か何かあるんですか?」
     ロンジさんは再びソファにバスンと腰を下ろした。
    「違う違う。ヒュウフに知らせて薬草を手に入れる方法だよ。異世界人が六ヶ月もいりゃあ、すぐに真っくろくろのカラスたちに無理やりひっとられられちまう。そればっかりはどうしようもない」
    「……カラス、ですか」
     なんかこの世界では鳥がすごい権力を持っているみたいだ。
    「そうさ。あいつら警備兵は容赦ないからな。まぁ心配するな」
     そう言うと、ロンジさんはお茶を飲み干した。カップを皿の上に置いて、くちばしをクイッと動かす。
    「バッグを見てみなさい」
     え?と私はロンジさんから視線を移した。バッグはケガをしていた足を床にしっかりとつけて彫像のように立っていた。
    「あっ、治ってる!」
     ロンジさんがニヤリと目を細めた。
    「この軟膏は即効性があるんだ。あっちゅーまに効くんだよ」
     なぁんだ、そうだったんだ。さてはロンジさん、わざと黙って、私の反応を面白がってたな。
    「もう大丈夫さ。足が治ったバッグは速いぞぉ。なんてったって、この世界でバッグほど速く走る奴はいないからな」
    「そうなんですね」
    「走らないときは小銭も入れられる。この世で唯一の宝を、わしはゆなにプレゼントしたのさ。結婚祝いにね」
    「へぇー」
     ゆなさんって、ロンジさんにすごい気に入られてるんだなぁ。
    「ところであんた、バッグの操縦の仕方は知ってるかね?」
    「操縦……なんてできるんですか?」
     確かゆなさんは、一度目的地を言ったら到着するまで止まれないって言ってた気がするけど。
     ロンジさんは、やっぱり知らなかったか、という顔をすると、元気よく説明を始めた。
    「途中で止まりたいときは『カンタ』。スピードを緩めたいときは『グロ』。お手をさせたいときは──それはなかったか。ま、ざっとこんな感じだ」
    「そんなこと、ゆなさん言ってなかった」
     思わずつぶやくと、ロンジさんは天井を向いて首をかしげた。
    「はて……。ゆなに言っとらんかったかな? ……そうかもしれん。フム。会ったら教えといてくれ」
     もうっ! そんな大切なことを教え忘れるなんて! あきれつつも、私は頭の中で復唱した。止まれがカンタで、遅くしたいときはグロ。
    「じゃあ私、ゆなさんが待ってるんで、ヒュウフさんの家に行きます。バッグの足、治してくださってありがとうございました」
     そう一気に言ってからバッグにまたがろうとすると、ロンジさんは羽を扇のように優雅に振った。
    「その前に気球に乗らんかい?」
    「えっ?」
     思ってもみない言葉に、私は思わず大声を出してしまった。そんな悠長なことなんかしてられないのに。
    「いや、私すぐに行かなきゃ」
    「ヒュウフの家に行くんだろ? だからだよ」
     ロンジさんはなんだかすごく楽しそうだ。
    「どうして、だから、なんですか?」
    「わしは結婚祝いにヒュウフに家付きの農地を三つプレゼントした。場所はばらばらだ。そのどこにあいつがいるか分からん。一つ一つ訪ねていくとするとけっこう手間がかかるだろう。でも今は食花の収穫の時期だから、食花を植えた農地にいるはずだ。あの花は目が覚めるようなオレンジ色をしててな、上から見るとすぐ分かるんだよ。だからオレンジ色をした所にヒュウフがいるっていう訳だ」
     緊急事態じゃなかったら気球に乗ってみるのもいいかもしれないけど、と考えていると、どこからかペタペタという音がした。見ると、淡い灰色に茶色の斑点がある、ロンジさんより少し小さいアヒルが歩いてくるところだった。
    「あなた何を言ってるの。娘さん、困ってるじゃないの」
    「おう、ジル。ちょっとこの子を見てくれ」
     ロンジさんがおいでおいでと羽を動かす。どうやらロンジさんの奥さんのようだ。
    「あらあら」
     歩み寄りながらジルさんが言った。
    「これまたどうしたことかしらね。小さいときのゆなちゃんそっくり!」
     私の周りを何周かすると、正面でピタッと立ち止まって、
    「まあっ! 本当に瓜二つ!」
     と、両方の羽の先を合わせた。
    「はあ……」
     またゆなさんか、と思いながら反応に困っていると、ジルさんが首を少し曲げた。
    「ごめんなさいね。主人は単に、気球に誰か一緒に乗ってもらいたくてたまらないだけなの。誰も乗りたがらないもんだから」
     ロンジさんはそっぽを向いている。
    「どうして誰も乗りたがらないんですか?」
     少し興味をひかれて尋ねてみた。
    「みんな高所恐怖症なのよ」
     ジルさんは少し肩をすくめてみせた。すごい表情豊かだ。だんだん、アヒルと会話しているのが普通のことに思えてくる。
    「あなた、ヒュウフさんの所に行きたいんでしょう?」
     ジルさんは言いながら、微動だにしないバッグを見た。はい、と私はうなずく。
    「だったらバッグに『ヒュウフさんのいる所』って言えば大丈夫よ。わざわざ食花の咲いてる場所を確認することなんてないわ」
    「おいっ」
     ロンジさんが丸い目を三角にしてジルさんを見た。
    「せっかくうまくいきそうだったのに」
     まったく! ゆなさんを救出しなきゃいけないってときに。私はロンジさんののんきさにだんだんイライラしてきた。バッグにまたがると、私はきっぱりと言った。
    「時間がないので、そろそろ私行きます」
    「おい、まぁそう慌てるなって。そうだ、庭の星の木が見事な実をつけとるんだが、それを見てから行かんかね?」
     ロンジさんは、ソファにめりこませていた体を半分起こした。
    「けっこうです。それどころじゃないんで」
     私の強い口調に、さすがのロンジさんも声を柔らかくした。
    「おお、そうだった。すまんな。あんたがあまりに昔のゆなと似てるもんだから、なんだか懐かしくなっちまってな。よし。じゃあちょっと待ってろ。ジル、あれを──」
     ジルさんは了解とばかりにうなずくと、ペタペタと部屋を出ていった。あれってなんだろう。何か手土産でもくれるのかな?
     私の予想通り、ジルさんはベージュの風呂敷に何やら重そうな物を入れて戻ってきた。中には瓶詰めにされたジャムのような物がごろごろ入っていた。
    「うちの畑で採れた物を煮詰めたのよ。どうぞ持ってってちょうだい」
     一個一個説明を始めようとしたので私は慌てて、
    「あ、じゃあこれだけいただきます」
     と、適当な瓶を手に取った。
    「あら、これだけでいいの?」
     ジルさんが残念そうに首をくにゃっとさせる。だがすぐスクッと首を伸ばすと私が手に取った瓶を指し示した。
    「そうね。重いものね。これはね、ナップルの煮つけよ」
     ナップル? なんだろう。黒っぽくて、あまりおいしそうに見えないけど。ま、いいや。とりあえずいただいておくことにしよう。
    「ほい。あと軟膏。ゆなに渡してな」
     ロンジさんが小瓶を差し出してきた。お礼を言って、私はそれらをナップザックにしまった。
    「何か困ったことがあったらいつでも来なさいね」
     ジルさんが羽で私の背中をなでた。私がゆなさんに似ているからこんなに親切にしてくれるのだろうか。ロンジさんもしきりとうなずいている。
    「何も心配することはない。ゆなはきっと大丈夫だ。会ったら、たまには遊びにこいって言っといてくれ」
    「分かりました」
     私は約束すると、二人──いや二羽におじぎをした。そしてバッグに向かって言った。
    「ヒュウフさんのいる所」
     
     もう私は心得たもので、最初からバッグの首にしがみついていたから、初めてのときみたく驚いたりはしなかった。それにしても、以前とスピードが格段に違う。恐ろしいほどの速さ。顔を伏せていないと、風圧で鼻が顔にめりこんでしまいそうだ。
     景色を見る余裕もなく、ただただ私はバッグの背中にへばりついていた。そうだ、少しスピードを緩めてみようか。私は試しに言ってみた。風の音がすごいので、バッグの耳に届くかな?と少し不安に思いながら。
    「グロ」
     効果はてきめんだった。あんなにうなっていた風の音がスッとおさまる。馬の駆け足くらいの速さになった。あー、これくらいがいいや。私は顔を上げると、周囲を見回してみた。
     いつのまにか森の中を走っていた。緑のいい匂いがする。思いっきり深呼吸をした。
     しばらくそのままのスピードで景色を楽しんでいたが、いつまでたっても森が終わらないのでだんだん不安になってきた。終わらないどころか緑は濃くなっていくようだ。かろうじて続いていた獣道も、なくなってきている。私は今さらながら、ヒュウフさんの家がどれくらい遠いのか聞いておけばよかった、と思った。もし森の中で夜になったら怖いものがある。
     とりあえず急がなきゃ、と思った瞬間、思考がパタッと停止した。元のスピードに戻すにはなんて言ったらいいんだろう? ロンジさんはそれについては何も言ってなかった。
    「あーっバカバカ」
     グロなんて言わなきゃよかった、と後悔していると、視界の隅で何かが動いたような気がした。ハッと見ると、なんと色鮮やかな黄緑色のキノコが歩いているのだった。細い足も黄緑色。まるで靴でもはいているみたいに、足の先だけ色が違う。
    「うっそぉ!」
     思わず声をあげてしまった。キノコがピタッと足を止める。それは一瞬の光景で、景色はすぐ後ろに流れていった。歩くキノコ。それも、あのびっくりしたように立ち止まった姿が最高にオモシロ可愛い。私は思わず叫んでいた。
    「カンタ!」
     バッグは私のひとことで足を止めた。ひとまず財布に戻し、ナップザックにしまう。もういないかもしれないけれど、キノコを発見した場所まで戻ってみよう。そう思って一歩足を踏み出したとたん、スーッと地面が遠ざかった。
    「えっ? えっ? えーっ?」
     体が浮いてる! 私は地上から五十センチほど空中にいた。それからまたスーッとゆっくり落ちて、地面が足に着く。一体どうなってるんだろう……。
     試しに軽くジャンプしてみた。するとみるみる地面が遠ざかり、目線が高い木の梢と同じになってしまった。私は反射的に、手近にあった枝をパッとつかみ、そのまま太い枝の上に立ってみた。
    「うっそ……」
     葉や枝があまりに茂っているので、地面はもう見えなかった。見えるのはただ──。
    「うわぁっ……!」
     どうやら私が立っているのは飛びぬけて高い木みたいだった。見渡す限り、緑緑緑。もこもこした巨大なブロッコリーのような連なりが気が遠くなるくらい果てしなく続いている。
    「すっごい!」
     こんな超広大な森の中を走ってたんだ……。森というより、もうジャングルだ。ここを抜けるのは相当時間がかかるに違いない。歩くキノコを探している場合じゃない。すぐ行かなきゃ。地面に戻ろうと思って、私は下を見た。足を宙に踏み出せば、またスーッとゆっくり地面に降りられる、はず──。
     さっきの感覚を思い出しながら、私は枝から手を離そうとした。けれど。
    「……できないっ。怖いよ~」
     本当にまたスーッと降りられる保証なんてどこにもない。もし魔法がもう切れていて、地面に真っさかさまなんてことになったら──。地面が見えないからどれくらい高いか分からないけれど、木のてっぺん付近にいるのだから、落ちたら骨折どころじゃ済まないだろう。
     ああっ枝の上になんか乗らなきゃよかった。私はため息をついた。しかしいつまでも木にしがみついている訳にもいかない。仕方なく、私はカエルのように幹にしがみつくと、足が掛けられそうな太い枝があるところまでズルズルと降りていくことにした。すぐに太ももや腕が痛くなった。
     カエルポーズを長く続けるには限界がある。なんでもいいから太そうな枝はないかときょろきょろしていると、すぐ隣に生えている木が目に留まった。太くて立派な枝が、手を伸ばしたら届きそうなところにまで伸びている。よし。隣の木のほうが太い枝がたくさんあって降りやすそうだから、あっちに移ることにしよう。
     私はあんまり太くない枝に体重をかけないようにしながら足を置くと、腕を伸ばした。あとちょっとでつかめそうというところで、突然バサバサッと音がした。ハッと音がしたほうを見ると、ジルさんからもらった瓶が緑に吸い込まれていくところだった。数秒後に、瓶が割れたような音が聞こえてくる。あ~あ、と私はため息をついた。それにしても、割れた音の小ささや、落下までかかった時間を考えると、やっぱりかなり高い所にいるのが分かった。ひえ~と思った瞬間、足を掛けていた枝が突然バキッと折れた。
    「キャッ!」
     だが、私は落ちていかなかった。落ちていくどころか、宙で手をばたばたさせたせいで、逆に浮上を始めた。魔法は切れていなかったのだ。
     落ち着け落ち着け、と自分をなだめながら、空中で私はじっとすることにした。ゆっくりゆっくり降下していく。落ちていくペースがさっきより遅いようだ。あっそうか、と私は思った。ジルさんの瓶。あれが今まで重りになってたんだ。瓶がなくなった今、体はずいぶん軽くなったに違いない。
     私は背負っていたナップザックをチェックした。口が半分開きっぱなしになっている。しっかりと閉め直しながら、バッグを落とさなくてよかった、とホッとした。
     枝にぶつかりそうになると、両腕を平泳ぎのように動かす。すると、スーッと体が前に進む。まるで、まったく抵抗のない水の中を泳いでいるみたいだ。
     すっかり面白くなって、私は思い切って空中一回転をしてみた。緑と青空もグリンと引っくり返る。すごいすごい。面白すぎる!
     味をしめて、私は空中でクロールをしてみた。信じられないほど体が前に進んだ。スーパーマンのポーズをとってみる。私今、空を飛んでるんだ──!
     モモンガのように木から木へ飛び移ったりもしてみた。忍者も顔負けだ。こんなに爽快さを感じたことはいまだかつてなかった。
     調子に乗っていると、はるか彼方の地上で何やら音が聞こえてきた。なんだろう? 緑の隙間からのぞいてみようとすると、ヒュッと音がして、同時に脛にチクリと痛みを感じた。
     え、虫? 自分の足を見て、びっくりした。先端に白い羽のついた太い針のような矢が刺さっていたのだ。何これ?とすぐさま抜こうと腕を伸ばしかけたとたん、ひどいめまいに襲われた。視界がどんどん白っぽくなっていく。え?え?と思っているうちに、すべてが白一色に塗りつぶされ──
     私は何も分からなくなった。
     
     
       第三章
     
     今日は家族でキャンプに行く日。
    それも、最近買い替えたばかりの新車で行くのだ。まだパパ以外、家族の誰も乗っていない。新しい車の匂いで酔ってしまうかもしれないけれど、私はこの日を楽しみにしていた。二日前くらいから着々と準備を始め、当日の朝には家族の誰よりも早く支度を終えていた。
     なのに──。
     仕切りのカーテン一枚へだてた向こう側で、出発間際というのに、まだガサガサ準備をしている音がしている。私はため息をついた。〇〇は私と違ってグズなのだ。早めに支度をしておいたほうがいいよとあれほど言っておいたのに。
     私はカーテンをシャッと勢いよく開けた。すると、
    「ひなぁ、手伝ってよぉ。これカバンに入らないの」
     ○○は口を尖らせると私を見上げた。どうしてキャンプに行くくらいで植物図鑑が必要なのだろう。私は腕組みをすると、仁王立ちのまま○○をにらみつけた。
    「そんな重いもの置いてけばいいじゃん。なんで持ってくの?」
    「だってもし珍しい花とかあったらどうすんの? 調べられないじゃん。家まで持ってかえるのはなんかかわいそうだし」
     そう言いながら、パンパンにふくらんだカバンからジャケットを引っぱりだしている。なんとしてでも植物図鑑は外せないらしい。そんな○○に、私はあきれて大きなため息をついた。
    「車で行くんだから、わざわざカバンに入れなくてもいいでしょ」
     ○○の動きがピタッと止まった。
    「そっか……。そうだよね」
     エヘヘと笑う○○を、私は無言で見おろしていた。
     私は、花や植物にさほど興味がない。パパもママも学校のみんなも、私と○○は本当によく似ている、さすが双子、とことあるごとに言うけれど、実はそんなに似ていないと思う。私は○○みたいに甘えん坊じゃないし、もっとしっかりしている。好きな遊びも趣味も、微妙に違っている。
     何か○○が問題を起こすと、ほんの数十分早く生まれただけの[お姉さん]の私が、いつも尻ぬぐいや手伝いをやらされた。よく似ていると言いながら、大人たちは私より○○のほうを常にかまい、可愛がった。私のほうが言いつけをよくきいているのに。
     一度思い切ってパパとママにそう訴えたことがあった。すると二人とも驚いたように、そんなことない、同じくらい可愛いと思ってる、と口々に言った。なんてことを言いだすんだ、と逆にお説教にまで発展しそうになって、私は慌ててその話を打ち切りにした。でもこの差別は、私の気のせいなんかじゃない。
     家族みんなが車に乗り込んだ。紺色の新車に。新しいというだけで、乗り心地は普通だった。
     河原に着いた。河の近くには、こんもりとした森があった。
    「遠くへ行っちゃだめよ」
     ママの言いつけにそろって返事をしながら、私と○○は森の中に入っていった。○○の手には、もちろん植物図鑑。ぶつぶつ言いながら、たまにページを繰ったりしている。
     最初は明るかった森が、だんだんうっそうとした茂みになり、薄暗くなってきた。
    「もう戻ろうよ」
     私は何度目かの言葉を口にした。
    「ちょっと待って。あっ、こんなとこに!」
     ○○は、ちょっと待っての連発で、ちっとも戻る気配がなかった。私はいい加減、頭にきた。
    「もうっ、何度言わせんのっ。いきなりクマとか出ても知らないよ!」
     すると○○はくるりと振り返り、こう言い放ったのだ。
    「さっきからうるさいな。ひな、さっきに戻ってていいよ。もうちょっとしたら私も行くから」
     その言い方にカチンときた私は、鼻息荒く言い返した。
    「あっそう。分かった。分かりました。じゃ先戻ってるよ」
     私は体の向きを変えると、ずんずんと来た道を戻り始めた。
     早足で歩いている私が見える。いつのまにか視点が変わって、私は上から景色を見おろしているのだった。どんどん私と○○の距離が離れていく。……ダメだ。○○も一緒に連れて帰らなきゃ。今すぐ向きを変えて。戻って。無理やりにでも連れて帰らないと──。
     視点はさらに高くなっていった。いつしか鳥のように私は飛んでいた。眼下には見渡す限りの森。緑のジャングル。
     ──
     フッと目が覚めた。
     視界が濃い緑で埋め尽くされている。ゆっくりとまばたきを繰り返しているうちに、葉っぱのアップだと気付いた。そういえば、植物のすがすがしい匂いが周囲にたちこめている。何かごわごわした物に包まれるようにして、私は寝ているようだった。腕を動かして触れてみる。たくさんの葉っぱの感触。
     じわじわと意識がはっきりしてきて、私は飛び起きた。──つもりだったのだが、実際は、やっと頭が持ち上がった程度だった。強烈なめまいに襲われ、私はうめくと、再び頭を下ろした。
     一体どうしちゃったんだろう? 何が起こったんだっけ? それに、ここはどこだ?
     まだ少しぼんやりしている頭を、なんとか回転させる。……そうだ、私は飛んでいたんだ。そしたら突然チクッとして、見たら足に矢が刺さっていて──それから先は何も覚えていない。
     めまいがおさまってきたので、私は頭を動かさないようにしながら、目だけぎょろぎょろ動かして周りを見た。
     緑の葉の向こうに、たくさんの金色の棒が見える。棒……。もしかすると私、檻か何かに閉じこめられているのだろうか……。
     背筋が一気に凍りついた。ゆなさんと同じように、怖い蛮族とやらに捕らえられちゃったのかもしれない。確かゆなさんは、ロンジさんちとヒュウフさんちのあいだにはその村はないって言ってたけど。でももしうっかり入っちゃってたとしたら──。ゆなさんを助けられない。私も元の世界に帰れなくなってしまう。
     どうしようどうしようどうしよう。なんとか逃げ出さなきゃ……。
     まるで自分のものじゃないように体全体が重く、いうことをきいてくれない。足に刺さった矢を思い出した。あの矢には、きっと毒が塗ってあったんだ。だからこんなに体がだるくて仕方がないんだ……。
     そろそろと頭を持ち上げて、ギョッと息をのんだ。
     なんと私は見たこともない服を着ていた。服というかドレスに近い。ふんわりとした純白のドレス。肌触りがすごくよくて、サラサラしている。眠っているあいだに、誰かが私の服を脱がせて、これに着替えさせたんだ──。そう気が付いて愕然とした。前着ていた服はどこへいったのだろう。それにナップザックは? そうだ、あの中にはバッグが入っている──。
     見たところ、ナップザックはどこにも見当たらなかった。ああっ、没収されてしまったんだ!
     急に酸欠になったように息苦しくなってきた。頭の中はもうパニックだ。私はやっとなんとか上半身を起こすと、動悸の激しい胸を押さえた。
     起き上がって初めて、緑の葉を小山のように積んで、表面を平らにした上にいることが分かった。まるで葉っぱのベッドだ。それでもって本当にいい匂い。シダ植物的な細かい葉や、グレープフルーツの葉のような大きいものなど、いろいろな種類が混ざっている。
     部屋は円形で、周囲はぐるりと金色の棒で囲まれている。天井まで棒は伸びている。ドーム型をした巨大な金の鳥カゴの中に私はいるのだった。鳥カゴは森の中に置かれていた。棒のあいだから見えるのは、うっそうと茂る木々ばかり。床は、森と同じ土の地面だった。単に、上からカゴだけかぶせた形になっている。
     人間の私をこんな所に閉じこめるなんて。服を着替えさせた意味も、よく分からない。
     葉っぱのベッドから降りようとして再びギョッとした。両方の足首に、何かが付いている。幅十センチほどの白い輪っかだ。これをはめているせいで、足が異様に重い。つるつるしていて一見プラスチックのように見えるけど、実は金属なのだろう。
     ──そうか。これは重りなんだ。私の体が浮き上がってしまわないための。この金のカゴといい、私を鳥だと勘違いしているのかもしれない。
     カゴの中はけっこう広かった。囚人さながら足を引きずって歩く。棒に触れながら一周してみた。一ヶ所、出口らしき所を見つけた。が、当然のように鍵がかかっていた。どう引っぱってもびくともしない。すぐに力尽きて、私はその場にへたりこんだ。
     不安と恐怖で胸がドキドキしてくる。私をここに閉じこめてどうするつもりなんだろう。ひょっとして殺されてしまうかも……。なんせここは異世界だ。何が起こるか分かったものじゃない。たとえば怪物の餌とか、儀式の生けにえとかにされるってこともじゅうぶん考えられる。
     居てもたっても居られなくなって、思わず叫び出しそうになった。大声を出せば誰か来てくれるかもしれない。でも、私をここに閉じこめた張本人が来ないとも限らない。ああっどうしたらいいんだろう──!
     立ち上がろうとして、再びひどいめまいを感じた。頭がどうしようもなく重い。それになんだか急に眠くなってきた。
     私は棒につかまりながらやっとの思いで立ち上がると、よろよろと歩き始めた。葉っぱの山に辿りつくなり体を投げ出す。全身がいい匂いに包まれるのを感じながら、私は急速に深い眠りにおちていった。
     
     さっきからずっと、手鏡で自分の顔を見ている。
     いろいろな角度から見る。○○と唯一違うのは、唇のすぐ下に小さなほくろがあることだ。○○の顔には一個もほくろがない。つるんとしている。
     誰が見ても○○にそっくりだというこの顔。パパやママでさえ、ときどき間違えたりする。そんなに似ているのだろうか……。私はそうは思わないのだけど。
    鏡を机に置くと、ため息をついた。栗原君は、○○にはなくて、私にはあるこのほくろのことなんて、きっと気付いてないんだろうな。
     栗原君というのは、最近手芸クラブに入ってきた違うクラスの男子だ。手芸クラブに男子なんて恥ずかしくないのかな、人目が気にならないのかな、と最初はちらっと思ったりしたけど、そんな違和感などすぐに消えてしまった。本人があまりに堂々としていて、明るかったから。
     手芸クラブには、○○と一緒に入部した。編み物がやりたくて入ろうとしたら、○○もすかさず、私もやりたい、と言ったのだ。小さな頃から、○○はなんでも私と同じことをしたがる。
     私たちはしばらくのあいだ栗原君という珍しい男子について話したりしていたが、やがて会話に出なくなった。私が途中から、なるべく栗原君のことを話題に出さないようにしたからだ。話しているとばれてしまうと思った。私が彼のことをいいなと思っていることに。○○がどう思っているのかは分からなかったけれど、なんとなくこの気持ちを知られたくなかった。
     編み物は、一度覚えてしまうとすごく面白かった。私はまるで催眠術にかかったように、延々と手を動かし続けた。頭の中を空っぽにできる感じがよかった。夢中で編んでいると、突然横から声がした。
    「へぇ、うまいなぁ」
     ハッとして顔を上げると、なんと栗原君だった。だらりと垂れ下がるくらいに長くなった私の編み目を、栗原君が指でなぞっている。その瞬間、私は自分でもびっくりするくらいボッと顔が熱くなった。
    「な、何にするかまだ決めてないんだけどっ」
     必死で熱を冷まそうとしながら、私は早口で言った。
    「そうなの? マフラーじゃないの? あ、それにしちゃあ幅が広いか」
     栗原君はそう言うと、編み目から私の顔に視線を移した。私の隣に座っているはずの○○は、トイレにでも行ったのか姿が見えない。私は心底ホッとした。でもすぐその後、ドキドキしてきた。○○がいないときに栗原君は私に話しかけてきたんだ……。些細なことかもしれないけれど、私にはそれがすごく嬉しかった。いつもクラブで私が誰かと話していると、隣にいる○○がすぐに首をつっこんでくるのだ。きっと彼は私とだけ話をしたかったに違いない──。
     その後、クラブが終わる時間まで、私はずっと幸せに包まれていた。見かけは、編み物に没頭している人にしか見えなかったかもしれないけれど。
     
     それから二ヶ月後、私はクラブを突然辞めた。放課後、逃げるように家に帰る私を、後ろから○○が追ってきた。
    「ねえっ、どうしてクラブを辞めたのっ」
     私はさらに足を速めた。
    「私になんにも言わないで……」
     ○○のその言葉に私はカチンときた。誰が言うか。一体誰のせいで辞めたと思ってるんだ。どうしようもない怒りで頭を沸騰させながらも、私は内心分かっていた。○○は何も悪くないということ。勝手に怒っているのは私のほうだということ。
    「ねえっ、なんで答えてくれないの? なんかクラブであったの?」
     そこで私はまた思い出してしまった。思い出したくもない光景を。
     学級会が長引いて、その日私は遅れてクラブに行った。○○とはクラスが違うので、途中の廊下で会わない限り、クラブに行くときは別々だった。
     教室に入ろうとすると、栗原君と○○が寄り添うようにして楽しそうに話をしている光景が目に飛び込んできた。○○の笑い声に混じって、栗原君の声がはっきりと聞こえてきた。
    「○○ちゃんって、双子なのにひなちゃんと違うよね」
     それを聞いたとたん、足が凍りついてしまった。教室に背を向けると、私は廊下を走った。なぜ栗原君の言葉がそんなにショックだったのか、自分でも分からない。もしかすると彼の言い方にショックを受けたのかもしれない。○○はひなちゃんと違ってなんかいいよね、いい感じだよね。なんとなくそんなふうに私の耳には響いた。でも○○と私が似ていないなんて、私自身が一番思っていることだったのに。自分で自分が分からない。
     私はクラブに行くのが怖くなった。本当に私は臆病者だった。たったそれだけのことで、翌日「クラブを辞めたいんですけど」と顧問の先生に話していた。
     ああ、なんで双子になんか生まれてきてしまったのだろう。せめて男女の双子ならよかった。そうしたら、こんな小さなことに心を悩ますことなんてなかったのに。
     もっと動じない強い人間になりたい。何が起こっても、なんでもないことみたいに笑っていられるような──。
     
    「私も辞めちゃった、クラブ」
     私が顧問の先生に辞めたいと話をしてから二日後くらい経ったときだった。エヘヘという感じに笑って○○は私を見た。○○特有の笑顔。私はあんなふうに笑わない。○○の、可愛い笑顔。
    「どうして辞めたの? なんかクラブであったの?」
     言ってからハッとした。私、○○と同じこと聞いてる……。
    「だってひながいないとつまんないもん。もともと手芸なんて家でできるし」
    ○○はあっけらかんとそう答えた。
    栗原君のことは聞けなかった。彼はどう思っただろうか──。
    私はいろいろな言葉をのみこんだまま、ほくろのないつるんとした○○の顔を見ていた。
    ──
    突然目が覚めた。
    ぼんやりと、丸い金の網のようなものが映る。こんなのどうやって編むのかなぁ、私には編めそうにないなぁ、としばらく見ていたら、だんだん頭がはっきりしてきた。網に見えていたのは、たくさんの金の棒だった。──そうだった。私、鳥カゴの中にいたんだった……。でもってここは異世界なんだっけ。
    起き上がってみた。さっきより体が軽い。葉っぱの匂いに混じって、何か別の匂いがしている。何だろう……。
    私は匂いのする足元を見てみた。そこにはなんとスープが置かれていた。湯気がたっている。ミネストローネみたいな感じだ。小さく切った野菜やベーコンらしき具が見える。木のスプーンが、すでにスープの中につかっていた。それを見た瞬間、私はものすごくお腹がすいていることに気付いた。
    ズズズと葉っぱのベッドを降りると、スープの前に座った。スプーンでそっとすくって匂いをかいでみる。なんていい匂いなんだろう。もう耐えられず、私はスプーンを口に運んでいた。温かい。おいしい……。
    気付くとお皿は空になっていた。もし毒が入ってたらどうしよう、と今さら思ったけれど、もう後の祭りだ。でもスープを飲んだことで、私は明らかに元気になったようだった。体の底から力がわいてくる気がする。頭もずっとはっきりしてきた。
    私は足の輪っかをあらためて引っぱってみた。ダメだ。びくともしない。ただ足首が痛くなっただけだった。
    ああ、誰か助けにきてくれないだろうか。ロンジさんが気球に乗って来てくれるとか。あ、でも上からだと木で見えないか……。どうしようどうしよう……。
    私は金の棒に触れながら、鳥カゴの中を意味なく回った。それこそ何周も何周も。動物園で見た檻の中のライオンを思い出す。落ち着きなく同じ所をぐるぐる歩いてしまう、あの気持ちがよく分かる。
    それにしても森の中なのに、動物らしきものをまったく見かけないって、なんか不自然──そう思った矢先、視界の隅で何かが動いた気がして私は足を止めた。
    「あーっ!」
     なんと歩くキノコだった。それも今度は子連れらしく、大きいキノコの後ろに小さいキノコが三つ、ちょこちょことついてきている。それも黄緑色。そして足の先だけチョコレートをつけたように茶色で、丸くなっている。
    「あっあっあっ、ちょ、ちょっと」
     思わず呼びとめたが、キノコたちはまったく足を止めようとせず、そのままテコテコと草のあいだに見えなくなってしまった。バッグに乗っているとき一瞬見たキノコは、驚いたようにピタッと足を止めてくれたのに。
    「あ~あ、行っちゃった……」
     私は未練がましくいつまでもキノコたちが消えた草むらを見ていた。またひょっこり出てきてくれないかな、と願いながら。だが思いむなしく、草はコソとも揺れることはなかった。
     なんだか一気に疲れてしまった。全身の力が抜けて、私はカゴの棒をつかんだままズルズルとその場にうずくまった。無気力感に心が覆われていく。もう指一本動かすのも面倒くさかった。
     どれくらいそうやってうずくまっていただろうか。足がしびれて、私はのろのろと立ち上がった。いつのまにか日がかげっていた。もう夕方なのかもしれない。
     私は葉のベッドに戻るとダイブした。うつぶせになった頬に葉の茎が当たって少しチクチクしたが、もうどうでもよかった。しばらくずっとそのままでいた。そしていつしか眠ってしまった。
     
     ゆさゆさ、ゆさ……。
     ベッドが上下に揺れている。じ、地震? それにしては揺れ方がなんだか変だ。規則的にゆったりと、上下にだけ揺れて続けている。
     だんだん意識がはっきりしてきて、私は何度もまばたくをした。見えるのは金の棒じゃなかった。ぼんやりと光る白い布──?
     上半身を起こす。私は相変わらず葉っぱの小山の上にいた。けれど、もう鳥カゴの中じゃなかった。周りは白い布に包まれていた。上もつぼまって閉じられている。あたかも巨大な風呂敷の中にいるようだった。そしてこの揺れ──。
     私はハッとした。誰かが、眠っている私を葉っぱのベッドごと布に包んだのだ。そしてどこかに運ぼうとしている。
     布に顔を近付けてみた。もちろん何も見えない。けれど音は聞こえた。風が木々を鳴らす音、そして、規則正しい人の足音、息遣いのようなもの……。
     恐怖に胸をわしづかみされて、私は一気に吐き気がこみあげてきた。一体どこに連れていかれるのだろう。そこに何があるのか……。何をされるのだろう……。ああっ神様──!
     揺れが止まった。もう逃げも隠れもできないんだ。こんな異世界で殺されるなんて考えもしなかった。パパ、ママ。会いたい。帰りたいよ。元の世界へ……。
     突然、布がとかれた。周囲がパッと開ける。半泣きの私の目に映ったのは、たくさんのたいまつと、そして──大勢の人々だった。
    「おおぅっ……」
     いっせいに群衆からどよめきがあがる。みんな私を見ている。
     辺りはすっかり夜になっていた。でも、私の周りを囲むように火が灯されているので、すごく明るい。
     私は小さな階段が付いた台の上にいた。葉っぱベッドの両脇に、男の人が一人ずつ立っている。彼らも、私が着ているのと似たような白い服を着ている。
     背筋が凍りついた。こんな光景、確か映画で見たことがある。祭壇のようなものがあって、下には群衆。私は神のお供え物で、要するに生けにえなのだ。群衆は、その儀式を見るために集まってきた──。
     全身が震えだした。誰か、助けて。お願い。葉っぱの中にもぐってしまいたい。でもそんなことをしたってすぐに引きずり出されてしまうだろう。ああっ──。
    「お集まりの皆さま。長らくお待たせいたしました。こちらが伝説の鳥、人の形をしてこの世に現れた不死鳥でございます」
     え……? 私は、突然声を張りあげ始めた男の人を見上げた。顔には満面の笑みが浮かんでいる。営業マンのような爽やかスマイルだ。
    「おおおぅ」
     再び群衆から声があがった。まるで怪物のうなり声のように地に響く。
    「肩が痛ければ肩、足が悪ければ足! お体の治したい箇所と同じ箇所を、一人につき一箇所だけおさわりください。念じながらさすれば、不死鳥はたちどころに治してくれるでしょう!」
     もう一人の男の人も、にこにこしながら負けじと声を張りあげる。群衆の最前列にいた白装束の係員が、さっそく人を誘導し始めた。
     私は口をぽかんと開けて、その光景を見ていた。なんなんだ一体……。私が伝説の鳥? 不死鳥? さすれば治るって?
     何がなんだか分からないうちに、台の上に群衆の内の最初の一人がゆっくりゆっくりのぼってきた。汚れてところどころつぎはぎのあるワンピースを着た、しわくちゃのおばあさんだ。階段を一段のぼるごとに顔をしかめ、低いうめき声をあげている。左膝が痛いらしく、ずっと手で押さえている。
     硬直したままの私に、いかにもありがたそうに深々とお辞儀をすると、おばあさんは葉っぱのベッドまで近付いてきた。しわがれた手を伸ばして私の左膝に触れる。
     私は逃げ出すこともできず、固まったままだった。膝が、おばあさんの手のぬくもりでじんわりと温かくなる。おばあさんは、しばらく私の膝を両手で包むようにしていたが、やがて顔を伏せ、ブツブツ何かつぶやきながらさすり始めた。その間、私はどうしていいか分からず、じっとしていた。おばあさんの真剣な表情、張りつめた空気。とても逃げ出せる雰囲気ではなかった。気が済んだのか、彼女はふっと両手を離した。私の左膝も寒くなった。
     再び深々とお辞儀をすると、おばあさんは台の横に設置されていた帰りの階段を降りていった。呆然とその後ろ姿を見送りながら、私は思わず息をのんだ。あんなに重かった足どりが、嘘のように軽くなっていたのだ。階段を降りるスピードも、明らかにさっきより速い。まさか本当に膝が治ったのだろうか……? 嘘だ。私にはそんな力なんてない。やらせ? 彼女は膝が痛いという演技をしていたのだろうか……?
     肩をさすられ、私はハッと前を向いた。目の前に中年の女の人はひざまずいていた。やはりありがたそうに私を拝むような素振りをしながら、私の肩をなでている。女の人の肩越しに長い列が見えた。一体何人いるんだろう。この人たち全員が私をさわりにくるのだ。一体どれほどの時間がかかるのか……。ああっ、気が遠くなりそう。
     女の人は帰りの階段を降りようとして、肩を回した。そのとたん顔を輝かせると、
    「もう痛くないわっ」
     と高い声をあげた。はずむような足取りで階段を降りていく。う……そ。本当に? 演技なんかじゃないのだろうか。
     いろいろな人が入れ代わり立ち代わり私の前に現れた。全員、どこか体が悪い人だった。老若男女。でも老人が多かった。全身をさすられ、私はだんだん感覚がなくなっていった。
    「疲れたら横になられててもよろしいですよ」
    傍らに立っていた男の人が言った。そう言われる前に、私はほとんどそういう状態だった。一度、目が悪い男の子が来て、私の顔に指を伸ばしてきた。ヒッと後ずさると、男の人がすかさず言った。
    「ぼうや、まぶたの上からそっとね」
     私はぎゅっと目をつぶった。男の子の冷たい小さな指をまぶたの上に感じた。二本の指をそろえて、言われた通りにそっとさすっている。でも私はいつ指を突きたてられるんじゃないかとひやひやしていた。
     こんなめに遭うなんて理不尽だ。けれど、辛そうにしている人たちが晴ればれとした顔で帰っていくのは、見ていて悪くなかった。まるで仏様のように拝まれたりすると、居心地が悪い気がしたけれど。
     何人の人が私の前にやってきただろう。ふいに頭上で声が響いた。
    「ただいまをもちまして、本日は打ち切らせていただきます。伝説の鳥の威力は、皆さま目の当たりにされてじゅうぶんお分かりになったかと思います。次回をご希望の方は、ただいまから整理券をお配りいたしますので、その場でしばらくお待ちくださいませ」
     整理券。次回ということは、またやるんだ……。私は、笑顔に隠されて本心がまったく見えない男の人の顔を見つめた。
     帰りはまるで来たときの逆戻しのようだった。逃げだす隙もなく、私は一瞬で大きな白い風呂敷に包まれてしまった。しばらくしてからおなじみの振動が始まった。
     上下に揺れながら、私は考えた。またあの鳥カゴに戻されるんだろう。そして、この儀式があるときまでずっと閉じ込められているんだろう。
     逃げ出すチャンスといったら、誰かが食事を持ってきたときだ。あのときは眠っていて分からなかったけれど、当然誰かが扉を開けて中へ入ってくるはず。でも運よくカゴから抜け出せたとしても、バッグがいないのにどうやってヒュウフさんの家に行けばいいんだろう……?
     考え込んでいると、突然、周囲を覆っていた布が消えた。同時に夜の森の空気を感じた。私はぐるりと男たちに囲まれていた。さっきのスマイル男ではなく、白装束も着ていない。いかにも使用人っぽいというか、農作業風の格好をしている。逃げだすチャンス──。しかし私は葉っぱの上でもじもじとしているだけだった。両足首に付いている白い輪っかが重くて速く走れないのが分かっていたから。
     目線がふわっと上がった。男たちが、地面に置かれていた葉っぱのベッドを持ち上げたのだ。葉の下にはいつのまにか板が敷かれているようだった。男たちは無言でそれを持ち上げると歩き始めた。前方には鳥カゴ。鳥カゴは持ち上がっていた。カゴのてっぺんにロープが付いており、近くの木に巻きつけられてある。
     男たちは無表情で板を運ぶと、慎重に地面に下ろした。私に向かっていっせいにお辞儀をしてから歩き去る。残った数人が、ロープに巻きついたロープをほどき始めた。ほどくにしたがって、私の頭上にカゴが下りてきた。
    私は我ながらバカのように、それが完全に下りるのをただ眺めていた。なんだかどっと疲れて、動く気力が何もなかったのだ。見知らぬ人たちにべたべたさわられて、神経がすり減ってしまったのかもしれなかった。
    ふと気付くと、ロープをほどいていた男たちはいなくなっていた。濃い緑の匂いがする風が吹き抜けていく。私はしばらく呆然としていた。
    夜なのに暗くない。地面はカゴの影でしましまになっていた。顔を上げると、木々のすきまから巨大な満月が顔をのぞかせていた。真っ白で、磨きあげられた鏡のようだ。冷たい光を放っている。
    「月……」
     しばらくぼーっと月を見ていた。私の知っている月と、大きさがぜんぜん違う。やっぱりここは異世界なんだ……。
     何か音がしたような気がして、私は月から視線を外した。今までずっと明るい月を見ていたから、暗い所はすぐにはよく見えなかった。耳をすます。キンキンキンというかすかな音がした。金属がぶつかるような──。
     やっと目が暗闇に慣れてきて、私は思わず息をのんだ。カゴの向こうに男の子が立っていたのだ。怒ったように口を尖らせて、私をにらみつけている。私よりもぜんぜん幼い、まだ背も低い男の子だ。
     あ、と思う間に男の子は扉を開けてカゴの中に入ってきた。慎重に音をたてないようにして後ろ手に扉を閉める。男の子はなんと私のナップザックを持っていた! つかつかと葉っぱのベッドまでやってくると、小声で言った。
    「足、かして」
    「え、足?」
    「シッ。静かに」
     男の子は素早く周囲に目を走らせた。
    「足の輪、取るから」
     私はまじまじと、その幼い顔を見た。
    「早く!」
     助けてくれようとしている──。こんな小さな子が。驚きながらも私は素直に足をベッドから垂らした。男の子は上着のポケットから尖った針のような物を取り出すと、輪を調べ始めた。それから輪にあったらしい小さな穴にその針を差し込んだ。そのとたん輪はパカッと割れて地面に落ちた。体が嘘のように軽くなる。ちょっと跳びあがっただけで、ふわっと体が浮かんだ。まだ魔法は続いているのだ。
     男の子はナップザックを私に差し出すと言った。
    「逃げなよ」
     まるで大人のように扉をあごで示す。降ってわいたような幸運。ナップザックの中には、私が着ていた服まで、すべてが入っていた。急いでバッグを取り出そうとして、ふと手を止める。男の子は冷めたまなざしでじっと私を見ている。
    「どうして助けてくれるの?」
     男の子はそっぽを向いた。それからぼそっと言った。
    「あいつら、やってることサギだから。汚ねーんだよ」
     吐き捨てるような口調だった。
    「あいつらって?」
    「さっき、あんたの隣でしゃべってた奴ら」
     あの白装束の営業マンのことを言っているらしい。でも、どうしてこの子が、鳥カゴの鍵や輪っかを外す道具を持っているんだろう。
    「助けてくれて嬉しいけど……。こんなことして大丈夫?」
    「いいんだ。どうせ近いうちにここを出ようと思ってたから。こんなクソみたいなとこ」
     硬い決心がにじんだような声だった。強い光を放つ目を見ていたら、
    「一緒に行かない?」
    という言葉が私の口から勝手に飛び出していた。男の子は黙っている。何も言わないのにじれて、私はバッグのがまぐちを開いた。突然現れた大きな犬に、男の子の口がぽっかりと開く。
    ナップザックを背負ってバッグの背にまたがると、あらためて聞いてみた。
    「ねぇ、どうする?」
     男の子はおそるおそる手を伸ばすとバッグの頭をなでた。
    「どこ行くの?」
    「ちょっと頼まれごとがあって。とりあえず、この森からは出られるよ」
     バッグをなでていた手がピタッと止まった。
    「じゃ行く」
     男の子は言うなり、後ろにまたがってきた。思わず私はクスッと笑ってしまった。
    「しっかりつかまっててよ。走り出したら止まらないんだから」
     振り返って見ると、男の子はすでにバッグの胴に子ザルのように張りついていた。これなら振り落とされることもないだろう。私は安心すると言った。
    「ヒュウフさんのいる所」
     
     
       第四章
     
     周囲につむじ風が起こり、私はただひたすら、バッグのあんまり柔らかくない毛に顔をうずめていた。二人して本当に子ザルみたいだな、と内心おかしく思いながら。
     どれくらいそうしていただろうか。ふと気が付くと、風がやみ、すべての動きが止まっていた。すぐ後ろで男の子が、あっ、と声をあげる。バッグから飛び降りたようだ。私も顔を上げた。
     さっきより月の光が強くなったのか、夜とは思えないほど明るかった。
     私たちは畑のど真ん中にいた。少し離れた所にビニールハウスも見える。畑の隅のほうでしゃがみこんでいた男の人が、驚いたように立ち上がった。
    「バッグ……」
     まじまじと私と男の子を見ている。男の子はさっきから、すっげぇすっげぇの連発ばかりで、すっかり興奮していた。
     男の人が近付いてきた。この人がヒュウフさんなんだ……。私は慌ててお辞儀をすると早口で言った。
    「はじめまして。あの、私、崎川ひなというんですけど、ゆなさんのことで助けてもらいたくて──」
     ヒュウフさんの眉が寄った。私とバッグを交互に見ている。
    「ゆなが? どうしたって?」
     私は、ゆなさんが蛮族につかまって閉じこめられていることを説明した。ヒュウフさんは深刻そうな顔になると、
    「ああ、あそこを通っちまったんだな……」
     とつぶやいて、額を軽くこすった。
    「呪いを解除する草なら、ついこのあいだ収穫して倉庫に保存してある。とりあえず家の中に入ろう」
     私はバッグを財布に戻すと、ヒュウフさんの後についていった。大きながっしりした背中を見ていたら、なぜだか急に胸がドキドキしてきて焦る。え? なんで私ドキドキしてんの? けれど、ヒュウフさんを一目見た瞬間からときめいちゃっていたことに、自分でも気付いていた。無精ひげを生やしているし、髪もなんの手入れもしていないし、チェックの薄汚れたおばさんエプロンなんかしてるけど、ヒュウフさんはなんかすごくかっこよかったのだ。今までおじさんにときめいたことなんて一度もなかったんだけど……。
     この人、ゆなさんの旦那さんなんだよなぁと思いながら、私は畑のすぐ近くに建っていた、まるで童話に出てくるような感じの可愛らしい家にヒュウフさんに続いて入った。後ろから男の子もちゃんとついてきている。
    「しかし驚いたよ」
     家に入るなりヒュウフさんが大きな声で言った。
    「君がゆなの双子のお姉さんか。会えて嬉しいよ。よくゆなから聞いてたから。それにしても、どうやってゆなは君にSOSを送ったんだろう? やっぱあれかな。双子ならではのテレパシーってやつかな」
     私はびっくりして足を止めた。
    「ゆなさんと、双子……?」
     ヒュウフさんはチラッと振り返って私を見た。
    「そうなんでしょ? さっき君を見たとき、初めてゆなに会ったときのことを思い出しちゃったよ。あまりにそっくりでさ。そこ座ってて」
     ヒュウフさんは私と男の子に椅子をすすめると、部屋の奥に行ってしまった。
    「ねぇ、ここってどこ? どの辺?」
     男の子がしきりと私の袖を引っぱっていたが、私はただただ呆然としていた。ロンジさんにも似たようなことを言われて、そのときは軽く流していたけれど、今回はなぜかズシリときた。
    「ゆなさんときょうだい……。双子……」
     口に出してみると、なんだかとても自然なような気がしてきた。まるで、今まで忘れていた大事なことを突然思い出したような感じ。どこかにいっちゃってたパズルのピースが、やっとパチッとはまったような──。そうか、そうだったんだ。私とゆなさんって双子の姉妹だったんだ……。あれっ? でもちょっと待って。ならどうしてゆなさん、あんな大人なんだ? 双子だったら私と同じ年のはずなのに。
     ぐるぐると考えていると、目の前にコトンとカップを置かれて我に返った。
    「はい、どうぞ。紫ベリーのお茶。疲れがとれるよ」
     カップの中をのぞきこんでびっくりする。本当にすごい紫色だ。星型をした実のようなものが浮いている。甘酸っぱい匂いのする湯気がもうもうとたっている。一口飲んでみた。ホットブルーベリージュースみたいな感じだ。
    「……おいしい」
     ふと隣を見ると、男の子が両手でカップを包み込むようにして飲んでいた。顔がほとんどカップに隠れている。
    「ところでその服どうしたの? なんかパーティーから抜け出してきたみたいだけど」
    ヒュウフさんに言われて、私は自分を見おろした。この白いドレスを着っぱなしだったことをすっかり忘れていた。やっぱり変だよねぇ。
    私はヒュウフさんに、こんな服を着ることになったいきさつをざっと話した。
    「──それで、どうしようと思ってたらこの子が助けてくれて──」
     そういえば、まだ男の子の名前を聞いていなかった。
    「えーっと、なんて名前?」
     すでにお茶を飲み干していた男の子は、唇をぺろりとなめると言った。
    「ズキン」
    「ズキン?」
     こっくりとうなずく。変わった名前だ。まぁこの世界の人の名前はみんな変わっているみたいだけど。
     なるほど、とヒュウフさんが腕組みをする。
    「それでズキン君は、勝手にひなちゃんを助けたから親にこっぴどく叱られるんじゃないかと思って、一緒についてきちゃった訳だ」
     私は慌てて首を振った。
    「いや、私が一緒に来ない?って言ったんです。なんかあそこの人たちって宗教がかってて怖い感じがしたから。叱られるだけじゃ済まないかなぁ、と思って」
    「へぇ、どこの森?」
    「テルサ」
     とズキン。ヒュウフさんは首をかしげた。
    「テルサの森? 聞いたことないなぁ。どの辺にあるの?」
    「ロンジさんの家からここに来る途中でその森に入っちゃったから、たぶんその中間地点にあるんだと思います」
     私の言葉にうなずくと、ヒュウフさんはあらためて私の服を見た。
    「うーん。しかし不死鳥だなんてすごいな。本当にそんな伝説なんてあるの?」
     ズキンは硬い表情でうなずくと、いきなり歌い始めた。
    「♪木々の~合間に見えかくれぇする~あらひとがぁみのおーんすがた~。ひとたびふれれぇば悪しき箇所~たちどころぉに完治する~げにありがたぁき~鳥の人ぉ♪」
     突然音が高くなったり低くなったりする不思議な歌だ。思わず顔を見合わせたヒュウフさんと私に、ズキンは無表情で言った。
    「昔からこんな歌があるんだ。みんな歌えるよ。小さい頃から聞かされてるから。本当はもっと長いんだけど」
    「誰がその歌を作ったの?」
     と興味深げにヒュウフさん。
    「知らない。昔からの言い伝えみたいだから。みんなそんなこと本当に信じてる訳じゃなかったけど、ある日うちのじいちゃんが言ったんだ。鳥の人が森に現れるって」
     ハァ、と私は息を吐いた。鳥の人か……。
    「じいちゃんは予言者なんだ。うちは神様とか御参りとかそういう仕事をしてるから」
    「ゆくゆくは家を継げとか言われてたのかな?」
    「うん。俺はずっと嫌だった。なんか嘘くせーし、人をだましてるみたいだし。不死鳥とか言っちゃって、さわりにきた人たちからも、すげー金とってたんだから」
    「そうなんだ……」
     私は、白装束男の営業スマイルと、あの大勢の人たちを思い浮かべた。
    「あれ本当に治ってたの?」
    「うん」
     即答されて、私は言葉に詰まった。やらせとかじゃなかったんだ……。私にそんな力があったなんて。でもたぶん、あの森にいるあいだだけなんだろうな。だって、森を出たらもう体が浮くこともないみたいだし。
    「ところでどうするんだい? これから。もううちには戻らないつもり?」
     ヒュウフさんがズキンを見る。ズキンは強い意思を秘めた瞳でヒュウフさんを見返すと、深くうなずいた。
    「ずっと森を出たいと思ってたんだ。父さんみたいな仕事、俺したくない」
     しばらく沈黙が流れる。突然ヒュウフさんがぽんと膝を打ち鳴らした。
    「分かった。ちょうど畑の収穫の時期で人手が足りなかったんだ。誰か雇わなきゃと思ってたところだし、よかったらここで働いてみないか?」
     ズキンの目が大きくなった。
    「ここにいていいの?」
    「真面目に働く気があるならね。できる?」
     ヒュウフさんの目は笑うと細くなる。……カッコイイなぁ。
    「うん! 俺やる!」
    「よし。じゃあ決まり」
     ヒュウフさんがズキンに手を差し出した。二人はがっちりと握手を交わした。なんだか微笑ましい光景だ。握手を終えると、ヒュウフさんは私を見た。
    「ところでひなちゃん。どうやってゆなと会ったのか話してくれないか。ゆなはどうだった? 元気なんだろうね」
    「はい。元気です」
    「そうか。元気か。よかった」
     ヒュウフさんは心底ホッとしているようだった。それを見て、私はちょっぴり複雑な気分になった。
    「ある部屋に閉じこめられてるんですけど、そこでは時間も流れてないからおなかもすかないって言ってました」
     ヒュウフさんは眉を寄せて深刻そうな表情になった。
    「なるほど……。それでゆなだけは絶対扉にさわれない、とか?」
     なんで分かるんだろう、と驚きながら私は何度もうなずいた。
    「そうそう、そうなんです」
    「分かった。じゃあトゥエルドがいいな……。その匂いをかげば、ゆなはすぐに部屋から出られるはずだ」
     匂いをかぐだけで呪いがとけるなんてすごい薬草だなぁ、と感心していると、で、と言ってヒュウフさんは椅子から腰を少し浮かして座り直した。
    「ひなちゃんはどうやってそのゆなが閉じ込められている部屋に入ったの?」
     そこで私はすべてを話した。ゆなさんとの出会いを。最後まで黙って話を聞いていたヒュウフさんは、しきりとうなずくと言った。
    「ゆなは、双子であるひなちゃんになら声が届くかもと思って、必死に助けを呼んだんだろう。そしてひなちゃんもその声を感じた。お互いの引き合う力で、部屋が一時的にひなちゃんの世界に寄ったんじゃないかな」
     私はゆなさんの声を感じたんだろうか……。はっきりとは分からなかったけれど。でも。
     ゆなさんと双子──。もし本当にそうだとしたら、なんで私は覚えてないんだろう。明らかにおかしい。私はずっと一人っ子だと思っていたのだ。もしかするとヒュウフさんが何か知っているかもしれない。
    「どうやってゆなさんと会ったのか教えてください」
    「そうか。君はここに来てからのゆなをなんにも知らないんだもんな。心配しただろう。突然、妹がいなくなっちまって」
     私はとっさに曖昧な笑みを浮かべた。
    「はぁ。まぁ」
     今さっき、ゆなさんと双子だと知ったんです、とはなぜか言えなかった。ヒュウフさんは親しみ深い笑みを浮かべて私を見ている。ゆなさんと私が姉妹ということは、ヒュウフさんとは親戚ってことになるんだ──。
    「そうだな……。ゆなと初めて会ったのは、ロンジさんの屋敷沿いにある道端だったな。たまたま通りかかったときに、しゃがみこんでいる彼女を見つけたんだ。足をねんざしてて立てない状態だった。僕はその頃、ロンジさんとこに住みこみで働いててね。薬草やお茶の葉の栽培をしてた。だから屋敷に連れてくことにしたんだ。そのときゆなは、見たこともない花を手に持っててね。なんとなく予感はしてたんだけど、やっぱり異世界人だった。薬草で足はすぐに治ったけど、ゆなは帰ろうとしなかった。異世界人は、半年以上この世界にいられない。それ以上いると、警備兵がやってきてしまう」
     私はロンジさんの言葉を思い出した。
    「カラス、ですか」
    「そうそう、カラス。あいつらがどうやって異世界人の存在を知るのか、匂いで分かるのか、本当のところは僕にも謎なんだけどね。異世界人がどうしてもこの世界にとどまりたい場合は、警備兵が要求するものをくれてやらなきゃいけない。たいていはむちゃくちゃな要求なんだけど。ゆなの場合は、時間だった」
    「時間?」
    「そう。あのときゆなは──何歳だったかな……。八歳か九歳か──まぁそれくらいだった。警備兵は十三年を要求してきた。すなわちその要求をのむってことは、一気に十三年分、年を取るってことだ。僕はもちろん、ゆながそんな要求をのむ訳ないと思ってた。けど彼女はあっさり承諾してしまった。そしてあっというまに大人になっちまった。呆然とする僕に、ゆなはにっこり微笑むと言ったんだ。『これであなたと同じ大人になれたわ』──そして……それでまぁ、なんというか、僕たちは結婚したという訳だ」
     なんだか最後のほうはだいぶすっ飛ばした感じだが、私はもやもやしていた部分がやっと晴れた気がしていた。だからゆなさんと私はあんなに年が違うんだ。けれど肝心なことがまだ分かっていない。どうして私はゆなさんと姉妹として過ごしていた時を忘れているんだろう? 胸の辺りがつかえているのが気持ち悪い。思い出したい。でも何も思い出せない。無理に思い出そうとすると頭が痛くなってきそうだ。
    「……どうしたの? 難しい顔して」
     ヒュウフさんに顔をのぞきこまれて、私は我に返った。
    「いや、あの……」
     もう本当のことを言ってしまおう。ゆなさんのこと──。
    「実は私、何も覚えてないんです。ゆなさんと姉妹だったってこと。双子ってことも、この世界に来て初めて知って……。私、それまで自分はずっとひとりっ子だって思ってたんです」
    「そうなの?」
     ヒュウフさんはさすがに驚いたようだった。しばらくしてから静かな声で聞いてきた。
    「思い出したい? ゆなとのこと」
     深い色の瞳の中に私が映っている。私はうなずいた。ヒュウフさんは微笑を浮かべると、ふいに立ち上がった。
    「ちょっと待ってて」
     言うなり部屋を出ていってしまった。戻ってきたヒュウフさんは、手に白い花を持っていた。再び椅子に腰を下ろすと花を私に差し出す。
    「思い出したいのに、どうしても思い出せないことがあるときに使う薬花だよ。ひなちゃんはゆなとのこと、本当に思い出したいんだよね? もしかすると過去に何か辛いことがあって、ひなちゃん自身がゆなとの思い出を封じ込めているのかもしれない。ショックを受けるかもしれないけど……。大丈夫?」
     一体、私とゆなさんのあいだに何があったんだろう。ちょっと怖い気もするけど。でも。
    「大丈夫です」
     ヒュウフさんは、よし、というようにうなずいた。
    「じゃあ花びらをそっと一枚取って。取ったらすぐ食べるんだよ。よく噛んでから飲み込んで」
     差し出された花を受け取った。白くて大きめの花びらが四枚ついている。花の中をのぞいても、おしべやめしべのようなものは何もなかった。いたってシンプルな花だ。当たり前かもしれないけれど、今までみたことがない花だった。なんの匂いもしない。この花を食べれば本当に思い出せるのだろうか……。
     花びらに触れてみた。思ったより分厚い。私は思い切って花びらをむしった。そのとたん、他の三枚の花びらもバラバラになり、宙を舞った。思わず息をのむと、ヒュウフさんの声がすかさず飛んだ。
    「早く口に入れて」
     慌てて花びらを口に押し込む。三枚の花びらははらはらと落ち、テーブルに着地すると、あっというまに茶色に縮れて丸まってしまった。白い花びらだったとは到底思えない姿になってしまう。
     口の中の花びらは、レタス味のキャベツのような感じだった。けっこう噛みごたえがある。まずくなくてとりあえずよかった。私は花びらを完全に嚙み砕くと、飲み込んだ。
     ──すると。
     体の奥からぽつぽつとあぶくが浮かび上がってきた。
    あぶくの中に入っていたのは、ゆなさんと過ごした時間だった。あぶくが一つはじけるごとに、私はどんどん思い出していった。なんで忘れることができたんだろう? 今となっては不思議なくらいだ。
    ゆな。崎川ゆな。私のたった一人のきょうだい。私より十三分後に生まれた双子の妹。
    いつもいつも一緒だった。同じことをして、同じことに笑い、泣いていた。ゆなは、鏡に映ったもう一人の自分だった。なのに、いつしか両親は私をお姉さん扱いするようになった。ゆなを頼んだわよ、とか、ひながしっかりしてお手本を見せるようにしなきゃ、などと言うようになった。ゆなが悪いことをすると、私も一緒に叱られるようになった。もしかすると、両親はまったく意識していなかったのかもしれない。私がただ敏感すぎて、過剰に感じ取ってしまっていただけなのかも──。ゆなは私の気持ちなど露知らず、私に甘えてきた。そんなゆなを、両親は私よりも可愛がるようになった。私はゆなと距離をおくよう心がけた。二人ワンセットではなく、別々の人間として生きていきたい──。差をつけられて接せられるのはごめんだった。私は双子に生まれた運命をうとましく思うようになった。そして、事件が起こった。
    家族でキャンプに出掛けたあの日。なかなか戻ろうとしないゆなに頭にきて、私はゆなを一人、森に置き去りにした。ゆなが戻ることはなかった。昼夜問わず、連日捜査が続いた。けれど、キャンプ場で両親と一緒にゆなを探して森を歩きまわっていたとき、すでに私は気付いていたのだ。もうゆなは戻ってこないことを。
     私が悪い。あんなことを思ったから。神様が私の願いをききいれて、ゆなをどこかへやってしまったのだ。神隠し──。この世界のどこを探してもゆなはいない。それはすべて、私のせい。
     私は毎晩、森にゆなを置き去りにするという悪夢にうなされた。そして高熱を出した。
     熱は下がらなかった。気が付くと、私は病院に入れられていた。腕に針が刺さっている。食事をいっさい受けつけない体になった私は、点滴で生きていた。どれくらい寝たきりだったろう。熱にうかされながら、ゆながいなくなったということは、私もこの世にいてはいけないんだと思った。だってゆなは、鏡に映ったもう一人の私なのだから。ゆなが私のせいでいなくなったのなら、私も消えなくては──。
     けれど神様は、私に消えることを許さなかった。ある日、意識がすーっと戻ってきた。熱が下がったのだ。冷えた体は、シーツから浮きそうなほど軽かった。高熱が消えると同時に、ゆなとの記憶も私の頭からすっぽりと消えていた。
     すべてを思い出した今考えると、両親の徹底ぶりはあっぱれだったと思う。高熱から生還した私に、両親は一度たりともゆなの名前を出さなかった。[パパの仕事の都合]で引っ越しをし、私が退院する頃には新しいマンションに荷物はすべて運び込まれた後だった。私がゆなと双子ということを誰も知らない土地で、私は最初からひとりっ子として生活を始めた。
    夜中に両親が暗い声で意味不明なことを語り合っている場面を何度か見かけたことがある。今思うと、ゆなのことを話していたに違いない。捜索は、私に内緒でずっと続けていたのだろう。
    タンスの奥から色違いの同じ服が出てきたり、買った覚えのないアクセサリーを引き出しの中から見つけたりすることがあった。それらを手にするとき、胸がチクリとなるのが不思議だった。けれど、私は決してその痛みの意味を追求しはしなかった。
    でも本当はずっとずっと会いたかったのだ。ゆなに。
     
     私はいつしか泣いていた。頬は、流れ続ける涙ですでにべちょべちょだった。隣に座るズキンが、見てはいけないものを見るような、すまなさそうな顔で私を盗み見ている。ヒュウフさんがハンカチを持ってきてくれた。それは柔らかくてとても手触りがよかったけれど、あまりに薄すぎて私の涙には追いつかなかった。……どうしよう、こんなに泣いてみっともない。そう思いつつも、涙はいつまでも流れ続けた。
     やっとなんとか落ち着いてきた頃、ヒュウフさんは、六角形にたたんだ紙を私に差し出した。
    「この中に呪いを解除する薬草が入ってるから。ゆなに渡して」
     それにしてもヒュウフさん、ずいぶん落ち着いてるなぁ、奥さんが得体の知れない蛮族に閉じ込められてるのに、と今さらながら思う。まぁ大丈夫だと分かっているからなんだろう。
     私はバッグのがまぐちを開いた。固い毛の背中にまたがると、ヒュウフさんとズキンを見る。もう二人に会うこともないんだろうな……。そう思うと、また涙が出てきそうになって、私は慌てて上を向いた。ズキンがやんちゃそうな笑みを浮かべながら、
    「ここに連れてきてくれてありがとう。頑張れよ」
     と大人っぽい口調で言った。なんだか調子が狂う。私はすかさず言ってやった。
    「ズキンもね。畑の手伝い、しっかりやるんだよ」
    「ひなちゃんに会えて本当によかったよ。気をつけて」
     ヒュウフさんのカッコイイ笑顔を見ながら私は、あぁそうか、と思っていた。ゆなとは双子だから、きっと好きな人のタイプも同じなのだろう。ゆなはヒュウフさんに一目惚れをしたに違いない。その気持ちはすごくよく分かる。
     バッグに行き先を言おうとして、私はハッとした。そうだ、一つ忘れていた!
    「ヒュウフさん、時忘れ草ってありますか?」
     きっとパパとママは、ゆなに続いて私までいなくなったもんだから今頃半狂乱になっているに違いない。建築途中の家を見にいってからどれくらい経ってるんだろう……?
     ヒュウフさんは一瞬きょとんとしたが、すぐに、ああちょっと待ってて、と言い残して部屋を出ていった。
     ズキンと二人きりになる。やっぱりバッグが珍しいのか、ズキンはしきりとバッグの顔や耳をなでている。
    「しっかしすげえ泣き虫だったんだな。俺あんな泣いてる人、初めて見た」
     私はすごく恥ずかしくなった。
    「だ、だってしょうがないじゃんっ。勝手に涙が出てきちゃったんだからっ」
    「ふぅん」
     ちらりとわたしを見たその目がなんか憎たらしい。そのときヒュウフさんが戻ってきた。淡い水色をした三角形の包み紙を持っている。
    「はい。これが時忘れ草。中に乾燥した葉が入ってるんだけど、それを全部鼻に詰めてから、戻りたい時を思い浮かべてね」
    「鼻に、詰める?」
     思わず聞き返すと、とたんにヒュウフさんがおなかをかかえて笑いだした。
    「あっはっはっはっ。冗談冗談。はっはっは」
     あまりの爆笑っぷりに、ズキンも驚いてヒュウフさんを見上げている。
    「ごめんごめん。嘘だよ。ちょっとからかってみたくなって」
     ヒュウフさんでも冗談を言うんだなぁ、と私は少しびっくりした。
    「匂いをかげばいいだけだよ。戻りたい時を想像しながらね」
     私はホッとした。鼻に詰めるのはやっぱり抵抗あるし。
    お礼を言ってからナップザックの奥にしっかりしまうと、私はあらためて二人を見た。
    「じゃあ行ってきます」
     ズキンがふざけて、おでこに手を当てて敬礼する。二人に出会えて本当によかったと私はしみじみ思った。もう行かなきゃ。ゆなの待つ所へ。
     私はバッグに命じた。
    「ゆなのいる所」
     
     
       第五章
     
     耳元でゴウゴウ鳴っていた風がふっとやんだ。私はバッグの背に押しつけていた顔を上げた。
     そこは懐かしい殺風景な部屋だった。ゆなはテーブルに突っ伏している。眠っているのかもしれない。
     私はバッグを財布に戻すとゆなに近付いた。こんなに大人な女の人だけど、私の妹なんだ……。愛するヒュウフさんのそばにいるため、ゆなは一足飛びで大人になった。
    「……ゆな」
     そっと呼びかける。気持ちよさそうな寝息が途切れた。ゆながゆっくりと目を開ける。傍らに立っている私に気付いて、丸まっていた背中がビクンと震えた。
    「あっ、戻ってきたのね」
    「うん。ただいま」
    「ご苦労様です。……それでヒュウフにはちゃんと会えましたか?」
     目をこすりながら言う。なんだかまだ眠そうだ。私も寝起きが悪い。きっとゆなも同じなんだろう。
    「うん。会えたよ」
     ゆなはあらためてちゃんと私を見て、目を大きく見開いた。
    「え、その服……」
    「あ」
     白いドレス。そりゃあびっくりするか。
    「これはまぁ、そのいろいろあって……」
    「一体何があったんですか」
    「うん。まぁそれはヒュウフさんから聞いてよ。全部話したから」
     ゆなはしばらくじろじろとドレスを見ていたが、
    「まぁ無事に帰ってこれたからよかったですけど……」
     と低い声で言った。それから私に椅子をすすめた。私は首を振ると、ナップザックから六角形の包み紙を取り出した。
    「はい。これ。呪いを解除する薬草」
     ゆなは頭を下げると、両手でありがたそうに受け取った。
    「ありがとうございます。本当にありがとう」
     大人なゆなが、私に頭頂部を見せるほど頭を下げている。そのとたん鼻の奥がツーンとして、もうダメだった。
    「ゆな……。私──」
     涙声に驚いて、ゆなが頭を上げる。すでにぐしゃぐしゃの顔の私を見て、ゆなは目を見張った。
    「どうしたんですか……」
    「私、思い出したよ。私とゆなが双子の姉妹だってこと。やっと思い出したの」
     しゃっくりあげながら、私はなんとか言った。ゆなは絶句している。口を開けたり閉じたりしている。なんて言おうか迷っているみたいだった。
    「なんで黙ってたの? 私に会ってすぐ言ってくれればよかったのに。そんな他人みたいな態度で……」
     泣きながらしゃべるのって難しい。これだけ言うのにすごく時間がかかってしまった。
     ゆなはやっとタメ口で話し始めた。
    「だって……私、こんなおばさんだし、分かる訳ないって思ったの。それに私のこと、もう忘れてたみたいだったから」
     私の涙が移ったのか、ゆなの声も震えている。
    「実は結婚した後、バッグに乗って一度元の世界に戻ったことがあったの。ヒュウフとケンカしちゃって……。ひなとママのこと、遠くから見てた。二人とも笑ってた。私のことなんて忘れたみたいに。もうここには私の居場所はないんだって思ったの。自業自得なんだけどね。家族より、ヒュウフのいるあっちの世界を選んだのは私なんだから。すぐバッグに乗って帰ったわ。もし本当に私のことを忘れてるんなら、思い出させちゃいけないって思ったから」
     そうだったんだ。誤解を解くべく、私は急いで言った。
    「忘れてたのは私だけだよ。ママとパパはゆなのこと忘れてなんてない。私、キャンプのとき、森でゆなをおいて帰っちゃったことをすごく後悔して、あの後ずっと熱を出して入院してたの。何も食べられなくなって。熱が完全に下がったとき、ゆなのこと全部忘れてた。たぶん、生きるために脳みそがゆなとのことを忘れるようにって指令を出したんだと思う。パパとママは、私がまた病気にならないために、ゆなは元々いなかったっていう芝居をしてただけなの。私のために。だから、パパとママは今でもゆなのことを探してると思う。私には内緒で」
    「……そうなの?」
     ゆなは涙目でクスンと笑った。
    「パパとママ、元気? 会いたいけど……」
    「会えばいいじゃん。会ってよ。きっとすごく喜ぶから!」
     微笑を浮かべてゆなは首を振った。
    「会えない。こんな大人でびっくりするだろうし。……それに私、ヒュウフと結婚したんだもの」
    「ゆな……」
     私はなんて言ったらいいのか分からなくて言葉に詰まった。ゆなの表情があまりにきっぱりしていて。でもそれじゃあ淋しいよ。結婚したら──異世界の人と結婚したら、もう会っちゃいけないの?
     ゆなは鼻をすすると、
    「ヒュウフ、なんか言ってた?」
     と探るような目で私を見た。
    「うーん。なんかって……心配してたよ。ゆなのこと」
    「本当? 怒ってなかった?」
    「何、ケンカでもしたの?」
    「いや、ケンカっていうか、私が一方的に怒ってたっていうか……。ヒュウフが何か私に言って──なんて言ったのかもう忘れちゃったんだけど。その言い方がすごく冷たく感じて、私淋しくなっちゃったの。私はすべてを捨ててきたのに、もっと優しくしてくれてもいいじゃないって思って──。本当はね、一緒に湖のほうに旅行に行く予定だったの。彼の仕事が済むのを待ってから。でも私、悲しくなって、先に行ってる、あなたは後から来てってバッグに乗って家を飛び出しちゃった。そのときはなんだかもう頭がぐちゃぐちゃだったから、バッグが最短距離を走るってことすっかり忘れてて……。家から湖の最短距離の途中には蛮族の村があるから、迂回していくために別の場所を言わなきゃいけなかったのに。だからまんまと検問に引っかかっちゃった。ヒュウフを待って一緒に行けば、こんなことにもならなかったのに……」
    「でも、ゆなが閉じ込められたおかげで……っていうと変だけど、こうして会えたんだよね」
     私がそう言うと、ゆながエヘヘと笑った。そのいたずらがばれたときのようなゆな特有の笑顔に、私は懐かしさで胸がいっぱいになった。そうそう。ゆなはよく、こんな顔をして笑ってたっけ……。
    「本当にありがとう。気付いてくれて。助けてくれて。ひなが来なかったら私、こっから永遠に出られなかった」
     ゆなはそう言うと、六角形の包み紙を開けた。中から乾燥した紫色っぽい葉っぱが出てくる。顔を近付けようとしたゆなに、私は思わず叫んでいた。
    「待って!」
     ゆなが顔を上げる。
    「びっくりした。落としそうになっちゃったじゃない」
     再び簡単に包み直すと、ゆなは私を見た。
    「なに?」
    「い、行っちゃうの? もう二度と会えないの?」
     せっかく会えたのに。せっかく思い出したのに。きっと私は相当必死な顔をしていたんだと思う。ゆながブッと吹き出したくらいだから。でも、笑いごとなんかじゃない。だって、二度と会えないなんて嫌だ。
     ゆなが笑った。それから小さな子に言い聞かすみたいな口調で言った。
    「じゃあこうしよう。私たちの誕生日に毎年会うことにしない? 私、バッグに乗ってひなに会いにいくから」
     誕生日──。五月二十一日。一年に一度、ゆなに会う。なんだかまるで織姫と彦星みたいだけど。うん。それいいかもしれない。私はうなずいた。
    「時間とか決めたほうがいいのかな。こっちの時間とあっちの時間って同じだっけ? あっそうだ、むこうにカレンダーや時計ってある?」
     ゆながおかしそうに笑った。
    「あるよ、それくらい。時間はたぶん一緒だよ。こっちの世界が五月二十一日なら、あっちの世界も五月二十一日」
    「そっか。よかった」
    「会う場所は、前に子供の頃よく遊んだタコチュウ公園にしない?」
     ゆなが提案してきた。ああ、あの巨大なタコのすべり台がある公園か──。引っ越ししてから一度も行ってない。
    「まだあるかな……。いいじゃん。家の前で」
     私が言うと、ゆなが少し眉を寄せた。
    「パパかママに鉢合わせしたら困るし」
    「そんなに会いたくないの?」
    「うん。だって私、どういう顔したらいいか分からないもん」
    「大丈夫だよ。こんな大人なんだから、きっと会ったって気付かないって」
    「……そうかな。いや、気付くんじゃない? 親だし。ひなは完全に忘れてたから気付かなかったけど、私のこと覚えてたらやっぱりアレッ?ってなると思う」
     そのときいいことを思いついた。
    「そうだ。じゃあ少し変装してけば? 帽子とかかぶったりして。あとマスクにサングラス。そしたら絶対分からないよ。私、一人で外に出てるから。ママとか来ないようにするし」
     ゆなは少し考えていたが、うん、分かった、と承諾した。
    「じゃあ夕方の五時に行くよ」
    「五時? 遅くない?」
     私が異議を申し立てると、だって──とゆなが口を少し尖らせる。
    「毎年ロンジさんちでパーティー開いてくれるから。ひなだって友達と会ったり、家でなんかやるでしょ?」
     最近ではパパとママと夕食後にケーキを食べるくらいだけど。……ああ、ロンジさんちでパーティーかぁ。きっと豪勢にやるんだろうなぁ。いいなぁ。
    「あ、ひなも来る? パーティー」
    「えっ?」
     思っても見ないことを言われてびっくりした。ゆながおかしそうに笑う。
    「今、すごくうらやましそうな顔してた。そうだよ。せっかく誕生日同じなんだから、一緒に祝おうよ。ロンジさん、にぎやかなの好きだし。きっと喜ぶよ」
     ロンジさんの黄色くて平たいくちばしが頭に浮かんできた。プリプリしたお尻。ぺたぺたと歩く姿──。
    「いいの?」
    「もちろん! 私も嬉しいし。バッグに乗って迎えにいくから。──そうだなぁ、当日の朝十時に。家の外で待ってて」
    「ほんと? ヤッター! すごいっ。嬉しいかも!」
     あの世界、ぜんぜん嫌いじゃないし、まだまだ見てない面白いこともたくさんありそうだし。思わずにんまりしたところで、私はハッと我に返った。
    「学校……。学校がある」
     午前十時じゃダメだ。運よく日曜とかだといいけれど。
    「じゃあ放課後に来ればいいじゃん。そんなすぐパーティー終わらないから」
     ゆなが顔をのぞきこんできた。
    「何時に学校終わるの? 迎えにいくから」
    「うーん、四時くらい」
    「分かった」
     ゆなが力強くうなずいた。パーティーに最初から参加できないのはくやしけれど仕方がない。
    「誕生日、まだまだ先だな……」
     ため息をついた私をゆなは笑いをにじませた目で見た。
    「すぐだって。──じゃあそろそろ私、行くね」
    「ああ、うん。そうだね」
     ゆなは包み紙を開くと顔を近付けた。思いっきり薬草の匂いを吸い込む。それからゆなはおもむろにドアに近付いた。前と違って、ゆなの手はちゃんとノブにさわれた。緊張していた背中が、安堵したようにゆるんだのが分かった。
    「すごいなぁ。匂いをかいだだけで呪いがとけちゃうなんて」
     あらためて感心していると、
    「うん。これは強力な薬草だからね。だいたい紫色をしてる葉って効力が強いんだ」
     そうゆなは言って、ハッと何かを思い出したように私を見た。
    「あ、時忘れ草、もらった?」
     私は水色の包み紙を取り出してみせた。ゆながほっとした表情になる。
    「じゃあパパとママにも心配かけないですむね。あれからどれくらい時間が経ったのか、ここにいると分からないけど、たぶんけっこう経ってると思うから」
     ゆなの言葉に、私はちょっと呆然とする。そうだった……。パパとママ、どうしてるかな。
     ゆながナップザックを手に取った。
    「あれ? なんか重くなってる」
    「あ、私の服が入ってるんだった。あと、バッグ用にこれ」
     私は服と一緒に、ロンジさんからもらった軟膏を取り出すと、ゆなに渡した。
    「ありがとう」
     ゆなが微笑む。
    「あ、そうだ。ゆな、知らないでしょ。バッグって途中で止まれるんだよ。カンタって言うと、走ってても止まるの。あと、グロって言うと、スピードが遅くなるんだよ」
     ゆなの目がまん丸になった。
    「えーっ何それ? 初耳! ロンジさんがそう言ったの?」
    「うん」
    「まったくロンジさんたら……。そんな大切なこと言わないなんて」
    ゆなはため息をつくと、止まれがカンタ、遅くがグロ、と小さな声で復唱しながらナップザックを背負った。バッグのがまぐちを開ける。……ああ、これでしばらくのあいだお別れか──。
    「誕生日の四時に私、家の外の目立たない所で待ってるから。絶対忘れないでよ」
     念を押す私に、ゆなはバッグの背にまたがると、大きくうなずいた。ついでにブイサインもしてみせる。初めてこの部屋で会ったときのしおらしい大人の女の人の面影は、もうどこにもなかった。すっかり私のよく知っているゆなになっていた。
    「ヒュウフさんと仲良くするんだよ」
     思わず言うと、ゆなは笑った。
    「うん、分かった。パパとママによろしく。いろいろ本当にありがとう」
     背をしゃんと伸ばしてバッグにまたがったゆなは、なんだか神話に出てくる女神のようだった。私は手を振った。
    「うん、またね。誕生日、絶対忘れず迎えにきて。私、待ってるから」
     ゆながうなずく。そして──。
     ゆなは行ってしまった。あまりの速さに、まるで消えたみたいだった。私はしばらくぼーっと、さっきまでゆなとバッグがいた空間を見ていた。それからそっと息を吐き出した。
     今度は私が帰る番だ。水色の包み紙に視線を落とし、ふと手が止まった。
    私は部屋の外に出てみた。真っ暗だった。廊下はシンと冷えている。今はきっと夜中なのだ。ゆなのいた、あの殺風景な部屋は、窓もないのに普通の明るさだった。二つの世界の狭間をさまよう、時の流れない部屋だから、昼も夜もないのかな……。そう思って、また部屋に入ると──。
    部屋はすっかり変わっていた。あの古めかしく陰気くさい壁は跡形もなく消え、真新しい匂いのする白っぽい壁紙になっている。イスもテーブルもなかった。ガランとしている。大きな窓から外の街灯の光が差し込み、部屋を白く照らしていた。床にぽつんと私の服が落ちている。
    「……そっか……」
     あの部屋は──この世界に一時的に引っかかっていたあの部屋は、きっと今頃どことも知れない場所をさまよっているのだろう。ゆながいなくなったとたん、部屋はこの世界にとどまる理由がなくなった。私たちの引き合う力だけが、あの部屋をここにつなぎとめていたんだ……。ジーンとなりながら窓に近付いて下の通りを見た私はギョッとなった。パトカーが停まっている。黒いコートを着た、いかつい感じの男の人が家の周りをうろうろしていた。
     私は慌てて窓から離れた。胸がドキドキしてくる。パパとママが捜索願いを出したのだろう。ママが警官に必死で説明している声まで聞こえてくる気がした。ええ、そうなんです。日曜日に家族で建築途中のマイホームを見にきて、そこで娘が突然いなくなってしまったんです……。
     大変だ。すぐにあの時間に戻らなきゃ。あの明るい日の降り注いでいた日曜の午後へ。
    「あっ、そうだ」
     その前に着替えなければ。私は部屋の隅で、ヒラヒラした白いドレスを脱ぎ捨てると、前に着ていた服に着替えた。一息ついて、クラゲのように床に広がっているドレスを見おろす。
    「どうしよ、これ……」
     しばらく見ていたが、もうこの部屋に置いておくことにした。持って戻るのも変だし、もし聞かれた場合、説明のしようがない。
     私は手に持っていた包み紙を開いた。中には細かく砕かれて乾燥した葉が、ティバッグ一袋分ほど入っていた。茶色っぽいから本当に紅茶の葉に見える。
     さぁ、思い浮かべるんだ。……えっと、どっから思い浮かべよう? えーっと……。
    ──そうだ。ママに続いて家に入ったところ。あの誰もいない玄関口に一人で立っていたところにしよう。パパはまだ外で一人で悦に浸っていて、ママは台所かどこかからはしゃいだ声をあげていた。よし、その場面を想像するんだ。リアルに、リアルに。
     私は意識を集中した。頭の中で完全にそのときの空気まで体感できるほどに想像すると、素早く葉に鼻を近付けた。思いっきり吸い込む。葉の粉が鼻に入ってきそうになったが、私は気にしなかった。葉は、古い家の埃のような、ちょっとカビくさい匂いがした。
     いきなり何かに引っぱられたような感じがして、思わず声をあげそうになった。引っぱられたというか、世界そのものがズレたような──。同時にめまいがして、立っていられなくなる。目の前が真っ暗になって、私はその場にしゃがみこんだ。
    「──ひなぁ。ちょっとこっち来てみなさいよ」
     ママの声に、私はまばたきを繰り返した。視界いっぱいに、大工さんのものらしい、かかとのぺしゃんこの靴がある。私は玄関にしゃがみこんでいた。ゆっくりと立ち上がる。もうめまいは感じなかった。
    「すごい。いいわー」
     遠くからママの声と、歩きまわっているスリッパの音がする。ついさっきまで夜だったなんて嘘みたいだ。戻ってこれた──。あの時間へ。
     私は適当に返事をしながら二階に上がってみた。階段をのぼりきった所にある窓から、試しに下の通りを見てみる。パトカーは停まっていなかった。当たり前なんだけどホッとする。
     薄暗い廊下を歩く。でも昼間の薄暗さだ。一番奥の部屋のドアは閉まっていた。ノブをつかむと、急にドキドキしてきた。もし、またゆながいたらどうしよう。そして私にまた、助けてって言ったら──。
     ……そんな訳ない。ゆなはちゃんと部屋を出れた。バッグに乗って、あっちの世界に帰ったのだ。でも、時間が戻ったってことは、ゆなだって──。
     ドアをおそるおそる開けた私は、一気に体から力が抜けてしゃがみこみそうになった。
    「よかったぁ」
     そこは、白い街灯の明かりで見た部屋と同じだった。ガランとした真新しい部屋。もちろん、ゆなもいないし、テーブルもイスもない。
     角部屋だからか、他の部屋より窓が大きく、ひときわ明るい感じだ。ここを私の部屋にしよう。私は部屋をぐるりと一周すると、そう勝手に決めた。
     下に降りていくと、パパとママが外で並んで仲良く家を見上げていた。
    「お腹すいたから、何か食べにいくわよ」
     ママが言った。パパはまだ飽きずに家を眺めている。眉を少し寄せながら、屋根の色がどうとか柱がどうのとか言っている。私は二人のあいだに無理やり割り込むと、
    「このおうち気に入った!」
     と少し大きな声で言った。
    「そうか。そりゃよかった」
    パパが私を見て、にっこりと目を細める。
    「もしいたら、ゆなも絶対気に入ると思うよ」
     パパとママが息をのんだのが分かった。
    「ひな……おまえ──」
    「今、ゆなって──」
     同時にしゃべると二人は口をつぐんだ。驚いた顔で両側から見おろされて、私はニッと笑ってみせた。
    「だって私たち、双子だから!」
     パパとママが顔を見合わせる。
    「ひな……」
    「思い出したのか?」
     私はうなずいた。
    「そう……。思い出したのね」
     ママの顔が一瞬、複雑な、なんとなく泣き笑いのような顔になった。
     それから私たち親子三人は、しばらく無言で、これから住むことになる家を眺めていた。
     パパとママが何を考えていたかは分からないけれど、私は、もしかするとゆなは誕生日前でもこっちに遊びにくるかもしれないな、と思ったりしていた。甘えん坊のゆなのことだ。きっとまたヒュウフさんと喧嘩した~とか言って、ひょっこり顔を出しそうな気がする。バッグに乗ったゆなを想像するだけで、私は自然と顔がにんまりしてくるのだった。

    #創作大賞2026 #ファンタジー小説部門

     
     
    はじめましてこんにちは! 試行錯誤しながら小説を書く日々 2013年に三田文学賞をいただいたのですが いまだ投稿DAYSは続いております なんだかんだいってもやっぱり書くことが好き♡ インスタ(himeru248)で「オイチャン散歩」や自作の服、小物を公開中~♪

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