
イギリス文学史の旅
私は大学で文学部の英米文学科を専攻している。
イギリスやアメリカの文学を中心に、文化や歴史、言語学などを学んでいる。
……と言いたいところだけど、もし誰かに「英語圏の文学って、結局どんなことを勉強するの?」と聞かれても、うまく説明できない。
せいぜい、有名な作家の名前や、授業で聞いたことのある作品名をいくつか挙げるくらいだ。
講義で聞いた内容も、時間が経つとかなり忘れてしまっている。
講義では、文学作品と時代背景がその都度説明される。
けれど、授業で扱う作品が時代順に並んでいるわけではないので、あとから振り返ると、文学史全体の流れが曖昧だ。
英語圏の文学と言われても、いまだに全体像がぼんやりしていてイメージがつかめない。
でも、せっかく英米文学科にいるなら文学作品とその時代背景、歴史の流れまで、自分の頭の中でつなげられるようになりたい。
そこでまず、前に授業で取っていたイギリス文学史の内容を、整理してみることにした。
授業では、イギリス文学の始まりから、シェイクスピア以後の時代までを中心に学んだので、そのあたりをもう一度まとめ直した。
整理していくうちに、文学とそれが生まれた時代には、それぞれの空気感や特徴があることに気づいた。
そして、それぞれの時代や作品は、ばらばらに存在しているのではなく、前の時代の影響や社会の変化を受けながら、少しずつつながっているように感じた。
文学とその時代を「駅」、時代と時代のつながりを「線路」として考えたら、英米文学史を楽しみながら整理できるかもしれない。
そう思って、「一人の主人公が列車に乗って、文学史の旅をする」という物語を考えた。
そして、イギリス文学の始まりからシェイクスピア以後の時代までをひとつの旅としてまとめ直した。
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はじまり
ノートの文字がだんだん崩れていく。
眠い。思わず目をこすった。
「ここの部分もテスト範囲なので確認しておくように。」
そんな声が聞こえて思わず顔をあげる。
教室の前のスライドを見ると、人物名や作品名が並んでいた。
ベーオウルフ、アリタレーション、チョーサ、ソネット
そんなカタカナの語でいっぱいで名前も時代も作品もイメージがつかない。
改めてノートを見直すと、ミミズが這ったような字が並んでいる。もはや文字ではなく路線図みたいだ。
午後の眠気がまた来て、教室の音が遠くなる。
その時、教室の床に何か振動のようなものを感じた。
気のせいか。
でも今度ははっきりと音が聞こえてきた。
ガタン。ガタンガタン。
列車……?
次に気づいた時には、私は列車の座席に座っていた。
列車は一両だけだった。
窓に沿って、深いえんじ色のロングシートが続いている。
先頭の方には、車掌さんらしき人が立っていた。片手に古いマイクを持ち、前の窓を見ている。
車掌というより、どこか観光バスのガイドみたいな立ち方だった。
運転席がない。これは自動運転なのだろうか。
いや、そんなことより…
ふと我に返って、思わず腰を浮かせた。
列車が小さく揺れ、足元がよろけた。
その音に気づいたのか、車掌さんがこちらを振り返る。
目が合った。
立派な黒いスーツに、深い赤のネクタイ。手には白い手袋をはめていて、妙にきちんとしている。
灰色がかったくせ毛と、眠たげな目元が印象的で、身なりだけを見れば、少し古風な車掌さんだった。
ただ、帽子についた妙に大きな白い羽飾りだけが、どうにも馴染んでいない。
車掌さんがこちらへ歩いてくるたび、羽飾りは勝手な方向へわさわさ揺れて、なんだか本人も邪魔そうだった。
「ええっと、私はどうしてここにいるんでしょうか?」
思わず聞くと、車掌さんは少し困った顔をした。
「それは私の方が聞きたいです。
……とりあえず、切符を拝見します。」
手元を見ると、買った覚えのない切符があった。
『イギリス文学史線 乗車券』
と書かれている。
車掌さんはポケットから、切符に穴をあけるための小さな道具を取り出した。カチャンと音がした。
返された切符には、白い羽の形をした小さな穴があいていた。
「意図せず乗ってしまった、というところでしょうか」
「はい。気づいたら、という感じです」
車掌さんは、少しだけうなずいた。
「ですが、この列車も案外悪くありません。駅ごとに降りていけば、その時代の空気を少しずつ見て回ることができます。」
「時代の空気……」
「ええ。今どこを走っているのか、前の駅と次の駅がどうつながっているのか分かってきます。
頭の中に地図が出来て、きっと楽しくなっていきますよ。」
「…はぃ。」
と曖昧な返事をした。
「では、しばらくごゆっくりしていてください。」
そう言って、車掌さんはまた先頭へ戻っていった。運転するでもなく、前の窓の向こうを見ている。
私はロングシートに座ったまま窓の外を見ていた。
列車のガタンゴトンという振動が大きくなっていく。
しばらくすると、窓の向こうに、ゆらゆらと松明の火が見えた。
ガラス越しなのに、熱気がこちらまで伝わってくる。
やがて、車内に落ち着いた声が広がった。
「まもなく、原始ラップ駅に到着いたします。」
車掌さんの方を見ると、彼は先頭に立ったまま、古いマイクを片手に放送していた。
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原始ラップ駅
🚉物語がまだ文字で書かれる前、
人の声で語り継がれていた時代の駅。

扉が開くと、外は夜だった。
降りた先には、石畳のホームがある。
ホームといっても、きちんと屋根があるわけではない。
線路沿いに石を積んで少し高くしただけの場所で、その先には舗装されていない地面が続いている。
車掌さんは慣れたように段差を降りて、スタスタと歩いていった。
看板もなく真っ暗でなんとなく怖い。見失わないように車掌さんについて行く。
煙の匂い、獣の匂い、湿った土の匂いが混じっていて、なんだか荒々しい雰囲気だ。
しばらく進んでいくと、炎を囲むいくつかの人影が見えてきた。
離れているのに、人の声が聞こえてくる。
強く、勢いがあり、同じような響きが繰り返され ている。
誰かが何かを語ってるように聞こえた。
車掌さんが横で小さく言った。
「今聞こえているのは、『ベーオウルフ』です。イギリス最古級の叙事詩です。叙事詩とは、英雄の物語や大きな出来事を、歌や語りのように伝えたものです。」
「ベーオウルフは、人の名前ですか?」
「英雄の名前です。怪物やドラゴンと
戦うかなり強い人です。」
私は言葉の意味は分からなかったけど、
ただ暗闇に響く声を聞いていた。
「この詩は頭を同じ音で揃えています。頭で韻を踏むことを、アリタレーション。日本語では頭韻(とういん)と言います。
strong, stout, stalwart…
これは英語の例ですが、こうして並べると耳に残りますね。」
文字で物語が残らなかった時代。
誰かが語り、耳で聞いて覚えて、また誰かに語る。
それなら物語を残すには、インパクトのある音やリズムが必要だったのかもしれない。
すると、風がごおっと鳴った。
暗がりからコウモリのような黒い影がいっせいに飛び立つ。
「ここは、あまり長居出来そうじゃないです。」
思わず言うと、車掌さんは少し笑った。
「これでもまだ入口のようなものですよ。」
「では、あとひとつだけ。
今、聞こえてる言語は古英語。オールド・イングリッシュともいわれています。英語の祖先のような言葉です。」
【駅メモ】
・ベーオウルフ(Beowulf)
イギリス最古級の英文学・英文学最古級の叙事詩。
・アリタレーション(alliteration)
/頭韻
語の頭の音を同じにして繰り返す。
・オールド・イングリッシュ
(Old English)/古英語
現代英語の祖先。5世紀ごろから1066年のノルマン征服まで、イングランドで話された言語。
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列車に戻ると、車内がやけに落ち着 いて見えた。
「次の駅では、さっき聞いた古英が
揺らぎ始めます。
あることがきっかけで言葉だけでなく、時代そのものが大きく動きます。詳しい話は、次の駅でします。」
窓の外の暗がりが、すべるように離れていった。
車掌さんは先頭の方に立ち、いつものように前の窓の向こうを見ていた。
「まもなく、ノルマン征服駅、ノルマン征服駅です。」
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ノルマン征服駅
🚉イングランドの支配者層が変わり、古英語が中英語へと変わっていく駅。

列車から降りるとすぐに海が見えた。
駅のホームは霧が濃く、平たい石がきちんと敷かれていた。
海風を吸ったように表面がしっとりしている。
どこからか、ベリベリと板を剥がす音が聞こえてきた。
見ると作業人らしき人が二人いた。
古い看板を外し、新しい看板に付け替えている。
「なぜ工事中だと思いますか?」
潮風に吹かれて、車掌さんの帽子の羽がワサワサと揺れている。
「ええっと、古英語が衰退して‥」
「中英語に変わったからです。」
車掌さんが言った。
車掌さんは、ホームの端に立てかけられた、洒落た白い木枠の黒板を示した。
そこにはすでに地図と文字が書かれていた。
イングランド人
・今のイギリス南部
・古英語を話す
ノルマン人
・今のフランス北西部
・フランス語系の言葉を話す
「イングランドでは、人々は村や畑を中心に暮らしていました。」
車掌さんが白いチョークで、海の向こうからイングランドに向けて一本の矢印を引いた。
「そこへ、ノルマン人たちがやって来ます」
「そして、イングランド軍とノルマン軍がぶつかりました。これが、1066年のヘースティングズの戦いです。」
車掌さんは遠くの丘を指した。
「あの丘で戦いは起こりました。」
丘はここからでは影のようにしか見えなかったが、旗のようなものが、風になびいているのが見えた。
車掌さんは黒板に、白いチョークで書き足した。
ノルマン・コンクエスト
「ノルマン人によるイングランド征服、という意味です」
「ヘースティングズの戦いはノルマン人が勝ち、たった一日で終わりました。しかし、その後の影響は大きかったです。
イングランドの支配者層がノルマン人になってしまうんです。」
車掌さんは、黒板の上に小さく王冠を描いた。
「庶民は古英語を話していました。
一方、王や貴族の多くはノルマン系の人々に変わりました。フランス語系を話すようになりました。」
車掌さんが二つをぐるりと線で囲む。
「この二つの言語が混ざり、やがて生まれるのが中英語です。言葉だけではなく城、法律、税、貴族というフランス系の文化も上の層から入ってきます。」
車掌さんは話し終え、列車の方に向かった。
【駅メモ】
・ヘイスティングスの戦い(Battle of Hastings)
アングロ・サクソン系、つまり古英語を話す人々と、ノルマン系、つまりフランス語を話す人々がぶつかった戦い。
・ノルマン・コンクエスト/ノルマン征服(Norman Conquest)
一〇六六年、イングランドはノルマン人に征服され、支配者層がノルマン人になった。
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「海沿いの駅は、あとが大変です」
車掌さんは、列車に入り込んできた砂を払った。
そのとき、列車の低いベルが鳴った。
「ノルマン征服後、イングランドの王がノルマン系になります。その後、王は教会と対立していきます。」
「教会…?繋がりはありますか。」
「それは、次の駅で分かります」
窓の外では、海の青さが少しずつ薄れて、灰色の景色に変わっていく。
車内放送か流れた。
「次は、血の大聖堂駅です」
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血の大聖堂駅
🚉王の力が強まり、教会というもう一つの権威とぶつかる駅。

扉が開くと、白い石柱が高くそびえていた。鐘の音が響いている。ここは教会らしい。
「カンタベリー大聖堂です。イングランド教会の中心のひとつです」
天井が高く、声がよく響いた。
「ここで、トマス・ベケット暗殺事件が起こりました」
「いきなり重いですね。」
さっきのノルマン征服駅では、イングランドの支配者層がノルマン人になった。
フランス語系の文化が入り、支配の仕組みも変わっていった。
「支配者層がどんどん強く大きくなっていき、ぶつかった先が教会というわけです。」
教会は王の持ち物ではなく、神のもとに成立していた。
だけど、イングランドの中にある以上、教会も王の決まりに従わせたい。
「そこで王であるヘンリー2世と、カンタベリー大司教のトマス・ベケットが対立しました。
その結果、大司教ベケットはこの大聖堂で暗殺されます。」
ろうそくの煙の匂いが漂っている。
祈りの場所であるはずの大聖堂に、冷たい空気が流れていた。
「続きは、列車の中で話しましょう」
高い天井の下で、列車に向かう私たちの足音だけが響いた。
【駅メモ】
・カンタベリー大聖堂(Canterbury Cathedral)
イングランドの教会の中心。
・トマス・ベケット(Thomas Becket)
教会を守るために王と対立し、その後暗殺されたカンタベリー大司教。
・ヘンリー二世(Henry II)
十二世紀のイングランド王。国の統治を強めようとして、教会と対立した。
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列車は、いつの間にか真っ暗なトンネルに入っていた。
窓の外には何も見えない。
長いトンネルだな、と思っていると、ふと壁に骸骨の絵が浮かび上がった。
思わずのけぞった。暗い車内から車掌さんの声が聞こえてきた。
「この頃ペスト、黒死病と呼ばれる病気が大流行しました」
「ペスト……」
「ええ。ヨーロッパ中で多くの人が亡くなりました。この病気は、この先の時代でもたびたび流行して、人々を苦しめます。」
窓の外の骸骨たちは、列車の灯りに照らされて、少しずつ後ろへ流れていく。
「さっき、ノルマン征服のあと、支配者層が強くなっていったと話しましたね。けれど、それもずっと続いたわけではありません」
車掌さんは、トンネルの壁を見たまま続けた。
「ペストで人口が減ると、働き手が足りなくなりました。農民や職人、商人がいなければ、社会そのものが回らない。そうなると、物語の中心も変わっていきます。王や英雄だけでなく、商人や職人、聖職者、旅人、町で働く人たちも描かれるようになります。」
窓の向こうに、明るい出口が見えてきた。列車は暗いトンネルを抜けようとしている。
「次は、巡礼おしゃべり駅です。」
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巡礼おしゃべり駅
🚉巡礼に向かうさまざまな身分の人々の語りが、物語になる駅

ホームに着く前から、笑い声や馬の鳴き声が聞こえてきた。
ホームに降りると、さまざまな人が歩いていた。上品な服を着た人、商人らしき人、大きな荷物を持った人、泥のついた靴で歩く人。
「ここの駅には、様々な身分の人がいます。人々がどこへ向かっているかわかりますか?ヒントは巡礼です。」
「…さっきのカンタベリー大聖堂ですか?」
「そうです。トマス・ベケットは大聖堂で暗殺されたあと、信仰を貫いた殉教者として敬われるようになりました。そしてカンタベリーは巡礼地になったんです。」
私たちは通行の邪魔にならないよう、少し身をよける。
群衆の奥で、馬に乗った男がこちらに向かって、いたずらっぽく手を振っていた。
「今の方が、チョーサーです」
「え、今の人が?」
「中英語で文学を書いたイングランドの作家です。代表作は『カンタベリー物語』です。」
背伸びして目を凝らすと、馬に乗ったチョーサーは少し離れたところにいた。
そばでは商人らしき人が身ぶりを交えて話し、周りの人たちが笑ったり、驚いたりしている。
チョーサーはその様子を見ながら何かを書き留めていた。
車掌さんが続ける。
「この作品では、カンタベリーへ向かう巡礼者たちが、旅の途中で順番に物語を語ります。
外側には“巡礼の旅”という大きな物語があります。その中に、旅人たちが語るいくつもの物語が入っています。」
車掌さんは、地面に落ちていた木の棒を拾った。
砂の上に大きな四角を描き、その中にいくつかの小さな四角を描く。
「“旅の物語”の中に、“語られる物語”が収められている。
こういう形を枠物語、英語ではフレーム・ストーリーと言います。」
「もうひとつ大事なのが…」
と車掌さんは古びた紙を開いた。
Whan that Aprill with his shoures soote(ソーテ)
The droghte of March hath perced to the roote(ローテ)
「この文はsoote と roote というふうに語の終わりの音がそろっています。
これがライム、日本語では脚韻(きゃくいん)です。
語の終わりをそろえることで、音にまとまりができ、心地よさが生まれます。」
同じ目的地へ向かう人たちが集まれば、そこには自然と会話が生まれる。
会話が生まれれば、物語も生まれる。
そんなことを思いながら、巡礼おしゃべり駅を後にした。
【駅メモ】
・ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)
中英語で文学を書いたイングランドの作家。
・カンタベリー物語(The Canterbury Tales)
カンタベリーへ向かう巡礼者たちが、順番に物語を語る作品。
・ミドル・イングリッシュ/中英語(Middle English)
十五世紀ごろまで使われた英語。古英語よりも現代英語に近く、フランス語由来の単語が多い。
・フレーム・ストーリー/枠物語(frame story)
外側に大きな設定があり、その中にいくつかの小さな物語が入っている作り。
・ライム/脚韻(rhyme)
語の終わりの音を同じにして繰り返すこと。
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「物語が沢山生まれたなら、本も増えたんですか?」
私が聞くと、車掌さんは首を横に振った。
「いいえ。当時の本は、一文字ずつ人の手で書き写されていました。
一冊作るだけでも膨大な時間がかかります。なので本は、誰でも読めるものではなく、ごく限られた人や場所にしか届かない超貴重品でした」
列車は急ぐでもなく、止まるでもなく同じ調子で進んでいた。
「次の駅です。活版印刷駅に停まります。」
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活版印刷駅
🚉 活版印刷駅 一文字ずつ写していた本が、同じ形で何枚も刷られ、物語が人々の手へ広がっていく駅。

活版印刷駅に着くと、規則正しい音が聞こえてきた。
ガチャン、ガチャン。金属が当たる音や紙が擦れる音がしてくる。
駅名標の下には作業台が並び、職員たちが紙を刷っている。
車掌さんは作業をしてる人の邪魔をしないようにそっと近づく。
インクの匂いがしてくる。
「活版印刷は、金属の文字部品を一文字ずつ並べ、インクをつけて紙に押し付け、同じ文章を大量に刷る方法です。」
「ここで重要なのが、グーテンベルクとキャクストンです。グーテンベルクは、ドイツの発明家で活版印刷を実用化した人です。」
私たちは作業台の前に並び、黒いインクの匂いがする大きな印刷機を見上げた。
「金属でできた文字を組み合わせ、インクをのせます。
紙を置き、上からぐっと押しつける。そうやって何枚も同じページを刷れる仕組みにしました。」
「コピー機のご先祖みたいですね。」
「そうです。そしてキャクストンがその印刷技術をイギリスに持ち込み、広めました。」
しばらく目の前で刷りたての紙が積み上がっていく様子を見た後、車掌さんは踵を返した。
私も列車の方に向かう。背後では規則的な音が途絶えることなく続いていた。
【駅メモ】
・グーテンベルク(Gutenberg)
ドイツの発明家。活版印刷を実用化した。
・ウィリアム・キャクストン(William Caxton)
イギリスに印刷技術を持ち込み、ウェストミンスターに印刷所を建てた。
・活版印刷(movable type printing)
一文字ずつ金属の文字部品を並べ、インクをつけて紙に押し付け、同じ文章を大量に刷る方法。
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「同じ本をたくさん刷るには、多くの人が共通して読める綴りや言葉の形が必要になります。
そうして、ばらばらだった英語の書き方は少しずつ標準的な形に近づき、中英語は現代の英語へ近づいていきました。」
車掌さんは先頭の窓に近づき、古い金具に白い手袋をかけた。
「せっかくなので、窓を開けましょう」
きい、と小さな音を立てて窓が開く。窓の外には、日差しを受けた庭園のような景色が広がっていた。
ところどころに咲く花が、風に揺れている。
「次は恋ソネットです。ですが、この先少しややこしくなります。
詳しい説明は後ほどしますが、とりあえずこの紙に目を通しておいてください。」
車掌さんから受け取った紙には、こう書かれていた。
ソネット
・14行の詩
・弱強五歩格 のリズム+ 脚韻あり
・恋や美、時間、死などを扱うことが多い
無韻詩/ブランク・ヴァース
・演劇のセリフによく使われた詩の形式、型
・弱強五歩格 のリズム+ 脚韻なし
・マーロウやシェイクスピアの劇で盛んに使われた
「次は、恋ソネット駅です。」
列車は静かに止まった。
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恋ソネット駅
🚉恋や感情が、英語の詩になる駅。

恋ソネット駅に着くと、どこか甘い香水のような匂いがした。
ホームの向こうに、少し面長で、額の広い男の人が立っている。
片手には紙を持っていた。長い髭が伸びている。
厳しそうにも見えるのに、紙に落とした目つきは、どこか傷つきやすそうだった。
「彼はトマス・ワイアットです。
イタリアから伝わったソネットを、英語で書いた詩人です」
ワイアットの手元の紙には、短い詩が書かれていた。
十四行の中に、恋や迷い、届かない思いを閉じ込めている。ソネットだった。
「そして、その形を英語でさらに整えたのが、ヘンリー・ハワード。サリー伯とも呼ばれます」
車掌さんが、ワイアットから少し離れた場所へ目を向けた。
そこには、深い緑の服に赤いマントを羽織った若い貴族風の男が立っていた。片手には赤い薔薇を持っている。
机の上には、ソネットを書くためなのか、羽根ペンが置いてあった。
車掌の帽子の羽根が揺れた。私の視線に気づいたのか車掌さんが口を開いた。
「……これでは書けませんよ。」
真面目な顔で言うので、私は少しだけ笑いそうになった。
その時だった。さっき紙を持っていたワイアットがその紙を広げ、詩を読み始めた。
言葉までは、はっきり聞き取れない。
けれど、声のリズムだけは耳に残った。
/弱く、強く/弱く、強く/弱く、強く
/弱く、強く/弱く、強く/
「このリズムが、弱強五歩格です。英語ではアイアンビック・ペンタミターと言います。のちに、シェイクスピアたちの演劇のセリフでも大切になっていきます。」
ワイアットの声は、薔薇の咲く庭園の方へ少しずつ遠ざかっていった。
「では、余韻が消えないうちに、列車へ戻りましょう」
【駅メモ】
・ソネット(sonnet)
十四行という枠に、感情や考えを凝縮して入れ込む詩。
・トマス・ワイアット(Sir Thomas Wyatt)
イタリアのソネットを英語に翻訳し、イギリスに広めた。
・ヘンリー・ハワード/サリー伯(Henry Howard, Earl of Surrey)
輸入されたイタリアのソネットを英語で扱いやすい形にし、英語のソネットの型を作った。また、ブランク・バースを本格的に使い、劇の舞台セリフの土台を作った。
・弱強五歩格/アイアンビック・ペンタミター(iambic pentameter)
弱い音と強い音を交互に五回繰り返す、英語劇によく使われる心地よいリズム。
・無韻詩/ブランク・バース(Blank Verse)
弱強五歩格のリズムで書くが、脚韻を踏まない詩。自然な会話に聞こえつつも格調を出せるため、舞台のセリフに多く使われた。
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列車に戻ると今度は座席に座らず、つり革に手を伸ばしてみる。
銀の古いつり革はひんやりしていた。列車が動き出すと、腕ごと小さく揺れた。
恋ソネット駅で、文学は人の内面に近づいた。
「さらに、言葉にリズムが生まれたことで、詩は紙の上だけにとどまらなくなっていきます。人の体や声、舞台の空間を使って表現されるようになります。」
車掌さんが言った。
「それって、演劇のことですか?」
「その通りです。次は、劇場ラッシュ駅に停まります。」
遠くから、人のざわめきが近づいてきた。
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劇場ラッシュ駅
🚉 本格的な劇場が建てられ、演劇が街の娯楽として広がる駅

劇場ラッシュ駅に着いた瞬間、街の活気がどっと入ってきた。
人の声、足音、ビールの匂い、川の湿気、何かの料理の匂い。劇場に近づくほど、人の数が増えていく。
「エリザベス朝です。」
車掌さんの声が、少し明るくなった。
「エリザベス1世がイングランドを納めていた時代は、国が比較的安定し、ロンドンには人やお金や文化が集まりました。」
人々の流れに沿って劇場の方向へ歩いていく。
すると木造の大きな建物が見えてきた。
入り口には人だかりができている。
「あの建物がザ・シアターです。
1576年に建てられた、ロンドン初期の代表的な常設劇場です。」
「常設劇場…?ずっとある劇場ということですか。」
「そうです。それまでは、宿屋の中庭や広場に仮の舞台を作って、芝居をしていました。
でも劇場ができたことで、同じ場所で定期的に上演できるようになったんです。」
掲示板には、たくさんの名前が並んでいる。
ニコラス・ユーダル
トマス・ノートン&トマス・サックヴィル
ジョン・リリー
フィリップ・シドニー
エドマンド・スペンサー
「情報量が多いですね…」
「こちらに載っているのはシェイクスピアの前に道を作った方たちです。
この挿絵と共に見ていけば、作者と作品が少しずつ結びついていくようになりますよ。」
【劇場ラッシュ駅にいる人たち】

・ニコラス・ユーダル(Nicholas Udall)
『ラルフ・ロイスター・ドイスター』(Ralph Roister Doister)
自分ではかっこいい男のつもりだが、まわりから見るとずれていて空回りしている男が主人公の喜劇。
勘違いの男が失敗を重ねる、初期の英語喜劇の代表作。
・トマス・ノートン(Thomas Norton)&トマス・サックヴィル(Thomas Sackville)
『ゴーボダック』(Gorboduc/別題 Ferrex and Porrex)
王位を誰が継ぐかをめぐって、家族の争いが国全体の崩壊にまで広がっていく悲劇。
王位継承のもめごとが、家庭も政治も壊していく重い物語。
・ジョン・リリー(John Lyly)
『ユーフュイズ』(Euphues)
内容そのものよりも、きらびやかで飾った言い回しが流行した作品。
ユーフュイズムとは、まっすぐ言わずに比喩や言い換えをたくさん使い、知的で華やかに見せる文体のこと。
・フィリップ・シドニー(Philip Sidney)
『アストロフェルとステラ』(Astrophil and Stella)
一人の女性への恋を連続したソネットで描いた。こうした形式をソネット・シークエンスという。
・エドマンド・スペンサー(Edmund Spenser)
『妖精の女王』(The Faerie Queene)
表向きは騎士たちの冒険物語だが、その裏で、理想の人間像や国のあり方を語っている長編詩。
アレゴリーとは、物語の登場人物や出来事に、政治・道徳・宗教などの別の意味を重ねる仕組み。
「ユーダルは英語の喜劇、
トマス・ノートンとトマスサックヴィルは英語の悲劇、
リリーは洗練された会話や文体、
シドニーは恋愛詩、
スペンサーは道徳や政治の寓意詩で有名です。」
人々は劇場に足を運び、舞台を見上げる。 演劇は一気に大衆的な娯楽になっていった。
【駅メモ】
・エリザベス朝(Elizabethan Age)
エリザベス一世の時代。詩や演劇が大きく発展した。
・ザ・シアター(The Theatre)
一五七六年に建てられたロンドン初期の代表的な常設劇場。
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列車に戻っても、劇場ラッシュ駅のざわめきがどこか残っているようだった。
「この次の駅は、さらに賑やかになるんですか?」
列車の天井近くには 小さな丸いランプが並んでいる。
車掌さんは通路の端に立ち、小さなつまみを回してランプを灯す。
「いえ、そういうふうにはなりません。演劇は大衆のものになり、沢山の公演がされるようになります。けれど、人間の心は楽しい、面白いだけではありません。」
車掌さんの声が少し低くなる。
「嫉妬、恐怖、欲望、野心。人間の中には暗い感情があります。そしてそういうものを舞台の上でも見たいという人たちが増えていきます。」
窓の外の景色が少しずつ暗くなっていくような気がした。
「次は、野心と悪魔のマーロウ駅です。」
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野心と悪魔のマーロウ駅
🚉人間の裏側にある欲望や野心が、舞台に描かれる駅

駅に降りると、近くには、黒っぽいテムズ川がゆっくり流れていた。
川のほうから湿った風が吹いてきた。
泥と煙、それから酒場の匂いが、ホームまで流れ込んでいる。
ホームの先には劇場の入り口が見えた。
木の骨組みのあいだに、剥がれかけた白い壁がのぞいている。
風が吹くたび、張り紙の端がばたばた鳴る。
劇場の入口に貼られた紙には、黒いインクで『フォースタス博士』と書かれていた。
そのとき、劇場の奥から、男の声が響いてきた。激しい舞台のセリフのようだった。
言葉のひとつひとつが強く、声が前へ前へ進んでくるようだった。
私は思わず一歩後ろに下がった。
車掌さんは、劇場のほうを見たまま言った。
「この響きが、ブランク・バースです。日本語では無韻詩といいます。韻を踏まない詩のことです」
「韻を踏まないなら、普通のセリフと同じじゃないんですか。」
私が聞くと、車掌さんは小さくうなずいた。
「そこが大事です。韻を踏まないので、決まったルールに縛られません。
普通の話し言葉に近い自由さがあります。けれど、ただ自由に話しているわけではありません。前の駅でも登場しましたが、弱く、強く/弱く、強く/弱く……という弱強五歩格のリズムになっています。
だから会話のように自然なのに、舞台の上では大きく響くんです。」
劇場の奥から、また男の声が飛んできた。
ふと見ると人だかりの中に、腕を組んだ男が立っているのが見えた。
「クリストファー・マーロウです。
シェイクスピア直前の時代に活躍した劇作家です。」
黒っぽい外套を羽織り、少しカールした茶髪を後ろへ流している。顔つきは思ったより丸く、若い。
「人間の野心、悪魔、裏切り、殺人。マーロウの作品には、そういう激しい題材が多く出てきます。」
マーロウは腕をほどき、ゆっくりと劇場の出口へ歩いていった。
人だかりのあいだに、細い道ができる。黒い外套の裾が、川風に小さく揺れる。
「次の幕が始まるようです。私たちも次へ行きましょう。」
車掌さんが言った。
【駅メモ】
・クリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe)
シェイクスピア直前の時代に活躍した劇作家。ブランク・バースを舞台のセリフに多く使った。
・フォースタス博士(Doctor Faustus)
力や知識への強い欲望を持つ主人公が、悪魔と契約する物語。
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演劇ブームの時代、劇場が建てられ人々が舞台に 集まるようになった。
さらにクリストファー・マーロウの登場によって、人間の内面の葛藤や本性も舞台に描かれるようになった。
「マーロウの人間のリアルな心理描写と、彼が確立した「無韻詩」の力強いリズムは、次の世代の演劇の土台となりました。
次の駅はあなたもきっと知っている名前です。」
「シェイクスピア……?」
車掌さんは前を向いた。
「その通りです。まもなく、シェイクスピア駅です」
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シェイクスピア駅
🚉シェイクスピアが、舞台の言葉と物語をさらに豊かにした駅

シェイクスピア駅を降りると、ホームの向こうには木でできた大きな円形の建物が見えた。
「今見えているのがグローブ座です。
もっとあちらの方に行ってみましょう。」
グローブと聞いて、私は一瞬だけ反応しかけた。
もちろん音楽の話ではなく、シェイクスピアの劇場のことだ。
「そのglobeではありません。でも私も通りました。」
思わず車掌さんを見ると、車掌さんは涼しい顔のまま続けた。
「グローブ座は、ロンドンにあった劇場です。シェイクスピアの劇がよく上映されていました。」
劇場に近づくと、拍手が聞こえてきた。
入口のそばに木の板が立てかけられていて今日の演目が書かれている。
『ロミオとジュリエット』だ。
私は一番後ろの席から身を乗り出すようにして、グローブ座をのぞいた。
円形劇場の真ん中には屋根のない広場(ヤード)があった。
そこへ舞台が迫り出し、その周りに人々が立ったまま囲んでいる。
「あそこが立ち見席です。椅子はなく、安い料金で見れます。至近距離で舞台を見れます。観客側からは野次が飛ぶことも多いです。」
ロミオの声が、円形の劇場に広がっていく。
「この台詞も、さっきのマーロウの劇と同じように、無韻詩が使われています」
シェイクスピアの劇は、弱強五歩格や無韻詩を使った、印象に残る舞台台詞でも知られるようになった。
それに、観客を引き込む物語の展開で、大衆を魅了した。
「でも、劇作家はたくさんいたのに、どうしてシェイクスピアは今でも有名なんですか?」
車掌さんは、舞台の方を見た。
「理由はいろいろありますが、大きいのは、人間の心を深く描いたことです。表に出る喜びや悲しみだけではありません。
嫉妬や野心、迷いのように、外からは見えにくい感情まで劇の中に入ってきます。」
「でも、心の中って、舞台でどうやって見せるんですか?」
私が聞くと、車掌さんは少しだけ得意そうにうなずいた。
「そこです。」
舞台の上では、ロミオの役者が一人で立っていた。
誰かと話しているわけではない。
心の中の迷いや思いを、観客に聞こえる声で一人語っていた。
さっきまで騒がしかった劇場が、静かになった。
「これが独白です。一人で心の内側を語る手法です。」
「観客だけが、本音を聞けるんですね。」
ロミオの言葉は、恋の喜びだけでなく迷いもにじんでいるようにも聞こえた。
その後の沈黙の中で、ふと後ろの座席にカラスが止まっているのが見えた。
「このカラス、実はシェイクスピアと関係があります。」
「…え?」
「シェイクスピアは、ロバート・グリーンから『成り上がりのカラス』のように揶揄されたことがあります。」
ロバート・グリーンは大学で学んだエリート作家。
大学に行かず、役者から劇作家になったシェイクスピアのことが気に入らなかったのかもしれない。
「ちなみに大学で学んだ知識人作家たちのことをユニバーシティー・ウィツ」と呼びます。」
カラスがパタパタと空へ飛んでいったあと車掌さんが振り返る。
「シェイクスピアと聞いてあとは何を思い浮かべますか?」
「四大悲劇です。作品名は…ええっと。」
「『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』です。」
車掌さんは一拍置いてから言った。
「そして、ここで大事になるのが『ファースト・フォリオ』です。」
「ファースト・フォリオ?」
「シェイクスピアの死後、仲間の俳優たちが彼の戯曲をまとめて出版した本です。もしそれがなければ、今ほど多くの作品は残っていなかったかもしれません」
その後車掌さんは懐中時計のふたを開けて、ちらりと時刻を見たあと、出口の方へ向かった。
私は舞台を振り返った。
「ロミオとジュリエット、終わるまで観たかったです。」
「次の駅が待ってますので、行きましょう。」
舞台の場面が切り替わるあいだ、客席から拍手とざわめきが起きた。
その音聞きながら、私たちは劇場をあとにした。
【駅メモ】
・ウィリアム・シェイクスピア(William Shakespeare)
悲劇、喜劇、史劇と幅広い作品を残したイングランドの劇作家。
・独白(Soliloquy)
登場人物が一人で本音や葛藤を語る手法。
・グローブ座(Globe Theatre)
シェイクスピアの劇がよく上演されたロンドンの劇場。立ち見席があった。
・ユニヴァーシティ・ウィッツ(University Wits)
大学で教育を受けたエリザベス朝の作家たち。
・ファースト・フォーリオ(First Folio)
シェイクスピアの死後、仲間たちが戯曲を集めて出版した最初の作品集。
・四大悲劇(Four Great Tragedies)
『ハムレット』『オセロー』『リア王』『マクベス』。
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「ただ、あの劇場も、いつも開いていたわけではありません」
「え?」
列車のドアが閉まり、窓の外で劇場が少しずつ遠ざかっていく。
さっきまでの拍手やざわめきが、まだ耳の奥に残っていた。
「この時代にもペストが流行しました。感染がひどくなると、劇場はたびたび閉鎖されました。」
演劇はにぎやかな娯楽である一方で、時代の不安にも左右されていた。
「シェイクスピアであんなに盛り上がったあと、この先はどうなるのか想像がつかないです」
車掌さんは、遠ざかる劇場を見ながら言った。
「演劇は、このあと、人間の心のさらに奥へ入っていきます」
「奥、ですか?」
「はい。人の心を近くで見つめるほど、きれいな感情だけでは済まなくなります。嫉妬、疑い、復讐心。そうした感情によって、人間関係が少しずつ歪んでいきます。」
「なんだか、行きたくないです」
そう言った途端、電車がガコンと止まった。
車掌さんは一瞬だけ黙った。
どうやら、案内する前に着いてしまったらしい。
「……毒と密室ウェブスター駅に着きました」
今度は、マイクを通さずに言った
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毒と密室ウェブスター駅
🚉人間の心を深く見つめ、嫉妬や疑い、復讐の暗さを描く駅。

ウェブスター駅に降りると、目の前に洞窟のような入口があった。
中へ進むと天井が頭をかすめそうなほど低く、左右の岩壁は近く圧迫感がある。
かわりに水の落ちる音だけが、ぴたん、ぴたんと響いていた。
足元は泥でぬかるんでいる。
どこからか、千切れた古い布切れが流れてきた。
洞窟のような通路では、車掌さんの黒い服は暗がりにまぎれて、すぐに見えにくくなった。
けれど車掌さんの帽子の白い羽根だけは、歩くたびに小さく揺れていた。
私はその揺れを目印にして進んだ。
「この駅を作った人は、一体どんな人なんですか」
「ジョン・ウェブスターです。シェイクスピアの後に活躍した劇作家ですが、本人について分かっていることはあまりありません。」
隅には、謎の緑色の液体が入った瓶が置かれていた。
珍しく、車掌さんも足元を確かめるように慎重に進んでいく。
「このあたりは、ジャコビアン演劇の時代です。」
「ジャコビアン演劇?」
「エリザベス朝が終わったあとの、ジェームズ一世の時代の演劇のことです。」
私は、低い天井を見上げた。
「さっきの駅、すごく明るかったのに。」
「はい。けれど、人の高揚感というのは、そんなに長く続くものではありません。
エリザベス朝が終わると、華やかな時代にも少しずつ影が差していきます。政治や宮廷への不信、権力への不安。そういう空気は、舞台の中にも入り込んでいきました。」
車掌さんは、緑色の瓶を見つめたまま言った。
「シェイクスピア駅でも、人間の感情は大きく描かれていました。
けれどこの時代の劇は、そこからさらに人間の暗い部分に焦点を当てていきます。」
進むにつれて、洞窟のようだった通路は、屋敷の地下へ続く廊下のような場所に変わっていった。
「疑い、悪意、相手を支配したい気持ち、そういう感情が宮廷や地下室、牢屋のような逃げ場の少ない場所を舞台に描かれるようになるんです。」
岩肌は石壁になり、足元のぬかるみも冷たい石の床に変わっていく。
「代表作は『マルフィ公爵夫人』です。貴族の女性が結婚や生き方をめぐって、監禁され、追い詰められていく悲劇です。」
「重いですね。」
「重いです。」
車掌さんは声をひそめて言った。
息苦しくなってきて、車掌さんより先に出口の方へ歩き出した。
ぬかるんだ床を踏みながら、早足で洞窟のような密室から抜け出す。
列車が見えた瞬間、思わず息を吸った。
車掌さんは、少し遅れてホームに戻ってきた。
靴の先についた泥を落としながら言う。
「ジャコビアン演劇の特徴は、こういうところにあります。
マーロウのような野心や激しさとは違って、密室のような息苦しさ、陰湿さがあるんです。」
【駅メモ】
・ジャコビアン演劇(Jacobean drama )
エリザベス朝のあと、ジェームズ1世の時代に発展した演劇。シェイクスピアの明るさや広がりを引き継ぎながらも、復讐、疑い、権力争い、欲望など、人間の暗い部分をより強く描いた。宮廷や屋敷、牢屋のような閉じた場所を舞台にした、重く不穏な悲劇が多い。
・ジョン・ウェブスター(John Webster)
シェイクスピアの後に活躍したジャコビアン演劇の劇作家。暗く閉塞感のある悲劇で知られる。
・マルフィ公爵夫人(The Duchess of Malfi)
ジョン・ウェブスターの代表作。貴族の女性が結婚や生き方をめぐって、兄たちに監視され、監禁され、追い詰められていく悲劇。
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列車に乗り込むと、すぐに扉が閉まった。
暗い場所から急に明るい車内へ戻ったせいで、目が慣れない。
車掌さんが、帽子の向きを軽く直しながら聞いた。
「さっきの駅は、どうでしたか?」
「怖いし、陰湿で苦手な駅でした」
正直に言うと、車掌さんは少しだけうなずいた。
「そう感じるのも自然だと思います。理由は違いますが、あのような演劇をよく思わない人たちもいました。」
「よく思わない人たちですか?」
「はい、それがピューリタンです。
次が、この旅の最後の駅になります。」
車掌さんは、列車の前方へ歩いていった。
「最後ですか……」
思わず聞き返すと、車掌さんが振り返った。
「寂しいですか?」
「……はい、少し」
「そうですか」
それだけ言うと、車掌さんは窓際の壁際の車内マイクを手に取った。
「次は、封鎖ピューリタン駅です。」
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封鎖ピューリタン駅
🚉政治の争いと信仰の厳しさが重なり、劇場が閉ざされる駅

列車から降りると、ホームは不思議なしんとした空間だった。
無機質な灰色の石の床は、きれいに磨かれている。甘い匂いも、笑い声も、さっきのような恐怖もない。
前には黒い服を着た人たちが立っていた。
「あの方たちがピューリタンです」
車掌さんは静かに言った。
「聖書に基づいた厳格な信仰を重んじた、プロテスタントの人々です。
娯楽や贅沢をよくないものと見なし、禁欲的に働くことを重視しました。」
そのとき、黒い服の一人が、車掌さんの帽子の羽飾りをじっと見た。
「それは、必要なものですか。」
黒い服の人が表情を変えずに低い声で聞いた。
「職務上、必要です」
車掌さんは少し不意をつかれたように答えた。
近くにいた別の二人も、ちらりと車掌さんの帽子に目を向けた。
今までの駅で、駅の人とまともに会話したのはこれが初めてかもしれないと思った。
私は、笑ってはいけない気がして、閉ざされた扉の方に目を逸らした。
よく見ると、それは劇場の入口だった。けれど、中から拍手も足音も聞こえてこない。
「一六四二年、イングランドでは、王と議会の対立が激しくなります。王は自分の力で国を動かそうとし、議会はそれに反発しました。
やがて内戦が始まります。」
「でも……政治の争いが、どうして劇場を閉じることにまでつながったんですか?」
私が聞くと、車掌さんは劇場の入口へ視線を向けた。
「議会の考えが強く反映される場所では、人々の暮らしや娯楽にも厳しい目が向けられるようになります。
議会側にはピューリタンの考えを持つ人たちが多く、彼らは演劇を、人を怠けさせ、信仰から遠ざける娯楽だと見なし、取り締まるようになりました。」
劇場の前には、人の姿がなかった。
かつてここには、大勢の観客が集まっていたのだろう。芝居を見て笑ったり、感動したり、ときには舞台に向かって野次を飛ばしたりしていたはずだ。
けれど今は、何も始まる気配がない。
「大きく花開いたイングランドの演劇は、ここでいったん途切れることになります」
「では、列車に戻りましょう。今までの復習をします。」
車掌さんに声をかけられて、私は劇場から目を離した。
ホームの向こうに、列車が停まっている。
灰色のホームの中で、深い緑色の車体が目立っていた。先頭には丸い大きなライトがついていて、白い光がぼんやり灯っている。
窓や扉は、細い金色の線で縁取られていた。
車掌さんが扉の前に立つと、がちゃん、と小さな音がして、扉がひとりでに開いた。
私はもう一度だけ、劇場の方を振り返った。黒い服の人たちは、変わらず扉の前に静かにそこにいた。
【駅メモ】
・ピューリタン(Puritans)
聖書に基づいた厳格な信仰を重んじたプロテスタントの人々。娯楽や贅沢に厳しかった。
・清教徒革命/イングランド内戦(Puritan Revolution / English Civil War)
王と議会の対立が激しくなって起きた内戦。議会側にはピューリタン的な考えの人々が多かった。
・劇場封鎖(Closing of the Theatres)
一六四二年、劇場が閉じられたこと。病気を避けるためではなく、演劇そのものがよくない娯楽と見なされた。
・王政復古(Restoration)
一六六〇年に王政が戻ったこと。劇場も再び開かれ、演劇文化が復活していく。
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列車に戻ると、車掌さんはポケットから使い込まれたような紙を取り出した。
それは、今まで通ってきた駅の路線図だった。
「ここまでの流れを、少し復習しましょう」
車掌さんは、路線図のいちばん左を指した。
「原始ラップ駅では、物語はまだ本ではなく、人の声とリズムで語られていました。
そこで使われていた古英語は、ノルマン征服駅で外から来た人々の言葉と混ざり、中英語へと変わっていきます。言葉だけでなく、支配する人々も変わりました。」
白い手袋が、次の駅へ動く。
「血の大聖堂駅では、その支配者と教会が対立します。
王と教会の争いは、のちに巡礼文化へつながり、巡礼おしゃべり駅へと続いていきました。」
そこには、小さな四角がいくつも並んでいる。
「巡礼おしゃべり駅では、いろいろな身分の人々が物語を語りました。
たくさんの物語が生まれ、それは活版印刷駅で本として広がっていきます」
車掌さんの指が、紙の上を静かに進んだ。
「本が広がると文学は、より多くの人に届くようになります。
恋ソネット駅では、言葉が現代英語に近づき、文学は恋や迷いなど、人の感情をのせるようになりました」
私は、路線図の線を目で追った。
「そして、その感情は紙の上だけにとどまらず、劇場という空間へ広がっていきます。劇場ラッシュ駅では、演劇が大衆の娯楽として一気に広まりました。」
車掌さんは、少し先の駅を指した。
「その中で、人間の野心や欲望、暗い部分を強く描いたのが、野心と悪魔のマーロウ駅です。
マーロウが切り開いた表現や、劇場文化の盛り上がりを土台にして、シェイクスピア駅でイングランドの演劇は大きく栄えます。」
路線図の線は、さらに暗い色の駅へ続いていた。
「その後、毒と密室ウェブスター駅では、人間の裏側や社会の暗さが、さらに深く描かれるようになります。」
車掌さんは、最後の駅で指を止めた。
「けれど、政治の対立が激しくなり、議会側にいたピューリタンの厳しい考えが力を持つと、演劇は人を堕落させるものと見なされるようになりました。終点の封鎖ピューリタン駅ですね。」
私は、さっき見た閉ざされた劇場の扉を思い出した。
「そして、大きく花開いたイングランドの演劇は、ここでいったん途切れることになります」
車掌さんは路線図を綺麗に折りたたむと、顔を上げた。
「もうすぐ着きますよ。」
「え、もうですか?」
口にしてから、この旅が終わりに近づいているのだと分 実感した。
私は席を立った。
「あの……この旅で、見える景色が変わりました。今日のことは忘れません。」
もっと何かお礼をしたかった。
車掌さんは背筋を少し伸ばし、それから小さく笑った。
「こちらこそ。ご乗車ありがとうございました。」
「ありがとうございました。」
私は車掌さんに向かって、深々とお辞儀をした。
顔を上げると、車内全体が少しずつ明るくなっていった。
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天井を見上げる。
列車のランプの灯りはいつの間にか消え、白く四角い、見慣れた蛍光灯がそこにあった。
その瞬間、キーンコーンカーンコーンと授業終了のチャイムが鳴り響いた。
誰かが椅子を引くガタゴトという音がして、プリントを片付ける紙の音が重なる。
教室のざわめきが急に戻ってきた感じだ。
あれ。今まで、何をしていたんだっけ‥
私はすぐには動けず、しばらくノートの上を見つめていた。
すると、ふわりと何かが机の上に落ちた。
指でつまんで、持ち上げてみる。
それは、白い、小さな羽だった。
𓈒 𓏸𓈒𓂂𓈒 𓂃🚃𓈒 𓏸𓈒𓂂𓈒 𓂃𓈒 𓏸𓈒𓂂𓈒 𓂃🚃𓈒 𓏸𓈒𓂂𓈒 𓂃
長い旅路に、最後までお付き合いいただきありがとうございました🌌