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夢幻峡の渡しー或る巡査の手記ー

    第一章 霧の渡し(前編)

    秋彼岸を過ぎたばかりの早朝だった。

     夢幻峡を流れる大河は、まるで乳を流したような濃霧に覆われ、その姿を隠していた。岸辺に立つ木々は輪郭だけをぼんやりと浮かべ、山々は白い帳の向こうで影のように重なり合っている。風はない。あるのは、川面をゆっくりと這う霧と、時折どこからともなく聞こえる水音だけだった。

     私は外套の襟を立て、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

     湿り気を帯びた空気は肺を刺すように冷たい。

     左の眼窩が、鈍く疼いた。

     古傷は決まって季節の変わり目に痛む。

     奉天で砲弾を受けたあの日から、この痛みだけは私を裏切らなかった。

    「巡査部長、寒くありませんか。」

     隣で荷物を抱えた松下恒一が声を掛けた。

     まだ二十になったばかりの若者である。制服は新しく、制帽の鍔もよく磨かれていた。いかにも実直そうな顔立ちをしているが、頬は青白く、時折小さく咳き込む。生まれつき心臓を患い、徴兵検査で不合格となった男だった。

    「お前こそ大丈夫か。」

    「はい。本官は平気です。」

     そう答えながらも、その吐く息は白く震えていた。

     私には分かる。

     無理をしている。

     だが、その意地を咎める気にはならなかった。

     軍へ行けなかったという負い目を、この男は私が思う以上に抱えている。

     その視線は、まるで英雄を見る子どものように、いつも私へ向けられていた。

     もっとも、私は英雄などではない。

     死に損なっただけの男だ。

     遠くから、ぎぃ……ぎぃ……と櫓の軋む音が聞こえてきた。

     霧の奥で黒い影がゆっくりと揺れる。

     影は次第に形を成し、小さな和舟となって現れた。

     舟を漕ぐ老人は、蓑をまとい、深く笠を被っている。

     その姿は、まるで霧そのものが人の形を取ったようにも見えた。

     舟は岸へ静かに着き、老人は櫓を止める。

     しわがれた声が霧を震わせた。

    「旦那方ァ、はやぐ乗りっせ。」

     私と松下は互いに顔を見合わせ、舟へ乗り込む。

     舟底は思いのほか浅く、一歩踏み入れただけで水面が大きく揺れた。

     松下が駄賃を差し出す。

    「ウギ島まで頼む。」

    「へぇ。」

     老人は銭を懐へしまい、にやりと笑った。

     笠の影から覗いた口元には、黄ばんだ犬歯が一本、不自然に突き出ている。

     その笑みを見た瞬間、理由もなく背筋を冷たいものが走った。

     私は無意識に左目へ手を当てる。

     疼きが少しだけ強くなっていた。

     舟は音もなく岸を離れた。

     櫓が水を押すたび、濃霧が静かに割れ、また閉じる。

     岸はすぐに見えなくなった。

     まるで世界から切り離されたようだった。

    「この辺へ警察さんが来るなんて、珍しいごどだ。」

     老人は前を向いたまま話し始めた。

    「百姓ばっかりだがらなァ。制服見っと、何十年ぶりだべ。」

     私は答えない。

     こういう土地には、余計な詮索を好む者が少なくない。

    「何かあったんですかい。」

     なおも老人は尋ねる。

    「親父。」

     私は静かに口を開いた。

    「仕事の話だ。聞いてどうする。」

     老人は肩をすくめるように笑った。

    「へぇ、そりゃ失礼。」

     そう言いながらも、その声には悪びれた様子がない。

     松下が困ったように私を見る。

     私は小さく首を振った。

     相手にするだけ無駄だ。

     しばらく静寂が続いた。

     川面を叩く櫓の音だけが規則正しく響いている。

     やがて老人は再び口を開いた。

    「でもなァ……。」

     その声音は先ほどまでとは違っていた。

     低く。

     どこか湿り気を帯びていた。

    「ウギ島へ向かう人ぁ、久しぶりだ。」

     私は老人へ目を向けた。

    「昔は何軒か人も住んどった。今ぁ一軒だけ。」

    「伊室家か。」

     老人は櫓を漕ぐ手を止めないまま頷いた。

    「守人だからな。」

    「守人?」

    「代々あの島ぁ守ってきた家だ。」

     そこで老人は言葉を切った。

     私は続きを待った。

     しかし老人は黙ったまま櫓を押し、水音だけが霧へ吸い込まれていく。

     松下が遠慮がちに尋ねた。

    「何を守っている家なんですか。」

     老人は笑った。

    「さぁな。」

     その笑みは妙だった。

     何かを知っている者の笑みだった。

     私は老人を見据えた。

    「親父。」

    「へぇ。」

    「知っているなら話せ。」

     老人は少しだけ首を傾けた。

     そして、ゆっくりと口を開く。

    「旦那ァ。」

     櫓が水を裂く。

     霧がさらに濃くなる。

    「この夢幻峡じゃ、人ぁ昔から二種類いる。」

    「……。」

    「渡る者と。」

     老人はそこで一拍置いた。

     そして小さく笑った。

    「迎える者だ。」

     その言葉が耳に残ったまま、舟はさらに霧の奥へと進んでいく。

     私は無意識に川面を見下ろえた。

     白濁した水面の底。

     そのさらに奥で、何か黒いものが舟と並んで流れているような気がした。

     見間違いだ。

     そう思って目を凝らした瞬間、それは霧の中へ溶けるように消えてしまった。

     
     
    作家・郷土史家。学芸員(人文系)資格保持。 平日都内で勤務する傍ら、休日は地方の民俗伝承について調査・研究していますが、偶々採集した不思議な話をここでは書いています。

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